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金沢柵に登城!

平安の風わたる公園から金沢柵にまっしぐら!怒涛の勢いで押し寄せました。
近くにある「後三年の役資料館」は、時間がないから見なかったことにして(*°∀°)=3

押し寄せる瞬間


通りに出てた案内にそって一気に柵前に到着! 駐車スペースもあって安心!
後三年の役資料館から歩きだと、小山を登るしまぁまぁ大変じゃないかと思う。

縄張図の載った案内を見ると「柵」じゃなく「金沢城跡史跡案内」と書かれてた。
今ある遺構は戦国期の山城で、実は金沢柵は場所の特定がされてないんだって。

だいたいこの辺ではあるけど、発掘調査しても後三年の役の頃のブツが出ない。
だから特定できない、ここだと断定できないってことなんだと思うけど、
ワタクシは後三年の頭で来てるから、細かいことは気にしないで行く(*°∀°)=3

だから今回の記事のタイトルも「金沢柵に登城!」で行くことにした次第。
(後三年の役が起きてから金沢柵の攻防に至るまでのことは前回の記事を見てね)

備えあれば憂いなしの瞬間


パンフレットとかは置いてないので、印刷してきた縄張図を見ながら登城開始!
下から登りだとツライけど、ここからなら階段を登るだけだから足取りは軽やかw

金沢柵は平安時代に清原氏によって築かれたもので、後三年の役では
清原家衡、武衡が籠城するも、源義家・清原清衡の兵糧攻めにより落城します。

長禄2年(1458)には南部氏の家臣、金沢右京亮が入って居館とし、
その後、小野寺氏に支配が移ると家臣の金沢権十郎の居城となりました。

関ヶ原後の慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に入ると本城候補にあがるものの、
久保田城が本拠になると、元和8年(1622)一国一城令により破却されました。

すぐ到着で安心な瞬間


階段を登って整備された通路を進むと「兜杉」と「兜八幡神社」が見えてきます。

兜杉は源義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めて上に石を置き、そばに記念のため、
藤原清衛が植えたと言われるもので根回り7.45m、樹齢900年の立派な杉でしたが・・・

妄想かけめぐる瞬間


昭和58年に失火により焼失して、今は切り株(の形の表皮)だけ残ってる状態。
真ん中が兜を埋めた上に置いたっていう兜石。ホントかは別としてちょっとロマンw
そして兜八幡神社は、八幡太郎義家と弟の新羅三郎義光を祭ったものなんだって。
義光は苦戦する兄を助けるため、官職をなげうって参戦したと言われてます。

厳かだった瞬間


兜杉から少し進めば二の丸跡。ここには金沢八幡宮が建立されています。
中央でしかも一番高い位置にあるから、本丸ぽく思えるけど二の丸だって。

こちらは後三年の役が終わった寛治7年(1093)、源義家が出羽鎮護のため、
藤原清衡に命じて京の石清水八幡宮の神霊を勧請して創建したものなのだとか。

重みを感じる瞬間


新羅三郎の末裔である佐竹氏の尊崇が特に篤く、佐竹氏が秋田藩主になった後、
慶長9年(1604)以降には、数回にわたって修改築されてるそうですよ。

鳥肌たちまくりの瞬間


拝殿の左側の方から堀底に降りて、向こうに見える北の丸に行ってみるよ!
ヤブ蚊の他に、羽音のする変な虫も飛んでるのが超イヤだけど頑張ります。

鼻の穴を広げる瞬間


右が北の丸側の土塁。二の丸の方が3倍くらい?だいぶ高い感じかな。
山城で堀底を歩くのも久々な気がするけど、囲まれるって落ち着くねw

ものぐさする瞬間


北の丸はまぁまぁ広め。写真だと分かりづらいけど低い土塁に囲まれてます。
近く行って見てないんだけど、屋根のあるところは土俵になってるのだとか。

深く考えてなかった瞬間


北の丸の次は兵糧倉跡へ。ここの土中からは今でも焼米が出てくるんだって。
案内板には「後三年の役の兵火にかかり消失した糧食」とも書いてあった。

清原家衡は兵糧攻めで食料が尽きたから、火を放って逃げたと思ってたけど、
そうか、無くなる寸前にサッサと逃げ出したパターンもあるんだなぁと思いかけ、
あ、でも金沢柵の場所は特定されてないんだっけって思い出し、少しだけ悩んだw

といいつつ、すぐ「まーいいか!」って後三年モードに戻ったけど(*°∀°)=3

早足になる瞬間


兵糧倉跡を奥に進んで本丸に向かいます。左側が本丸。二の丸くらい高そう。
まーしかし、蜂とも虻とも違う感じの変な虫がいっぱい飛んでて気持ち悪いです。

金沢柵での兵糧攻めは日本史上、初めて行われたと言われてるんだけど、
投降させない方が兵糧が早く減るっていう吉彦秀武の進言を受けた源義家は
投降しようとする女子供を容赦なく斬ったんですってよ!! こわいわぁ…

八幡太郎義家って武士たち憧れの英雄って印象が強いからうっかりするけど、
戦いの場面はキレイごとばっかじゃないんだってことも忘れちゃいけないね。

エキサイティングな瞬間


本丸はかなり広い! 発掘調査で12世紀頃の焼き物だったか?・・が出てるんだって。
後三年の役よりは後だけど、でもその頃から何かしらはあったってことなんだ!!

勝手に納得する瞬間


本丸を見たら一旦駐車場に戻って、道の向かい側にある西の丸を見に行きます。
駐車場になってるところも、当時は郭の一部とかだったのかもしれないね。

虫もいなくて快適だった瞬間


西の丸は長細い! どういう役割の郭なのかは説明がなくて分からなかった。
金沢柵って木立が多いせいか、通路の草が少な目で歩きやすくてとてもいい!

ショッキングな瞬間


だけど長細を進んでいった奥にある肝心な堀切の所だけ、このありさま(*°∀°)=3
草ボーボーでよく分からないけど、幅4〜5m、深さも2mくらいあったのかなぁ。

あきらめが早い瞬間


道路を右奥に進めば、本丸側の尾根筋にある5連続堀切近くまで行けるぽいけど、
西の丸の堀切があのヤブヤブだったから、厳しいだろうなと思ってやめておいた。


余談だけど、車に戻って帽子を取ったら尺取り虫がついててギョッとなり、
何気なく肩先みたらTシャツにも張り付いてたから、ちょっと気が遠くなった。
お尻で踏みつぶしたりしてないか、慌てて車を降りて確認しちゃったわよん。

やっぱ本丸周辺だわ。変な虫とか糸みたいなピラピラにマジ注意!!



さーて、これで後三年の役クリア! 次はもっと時代をさかのぼる!


払田柵へ登城!〜に続く



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2018.12.14 Friday 15:04 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

後三年の役古戦場に出陣!

横手城から少し走って「平安の風わたる公園」にやってきました!
後三年の役の古戦場である西沼を中心に作られた歴史公園です。

学生の頃は試験用に覚えるだけで興味のない時代や出来事も多かったけど、
大人になって自由に勉強して繋がりがちゃんと分かったら面白いこともあって、
食わずキライでだいぶ損してたな〜ってのが意外とあるんですよワタクシ。

後三年の役とか完全にそっち。学生の頃なら絶対に来てなかったと思う。

たどり着いた瞬間


ナビに出ず、横手からとりあえず国道13号を北上したら案内が出てきて助かったw
近くに来れば案内看板も出てくるし、管理事務所ではパンフレットも貰えます。

お金がかかってた瞬間


源義家(八幡太郎)が金沢の柵に向かう途中、この沼を通った時、飛んでいた雁が
突然、列を乱したことから敵の伏兵がいることを察知し、難を逃れたという場所で、
公園はそれにまつわる壁画レリーフや銅像などがあってなかなかの充実ぶりです。

義家伝説な瞬間


壁画レリーフは源義家が伏兵に気づいて戦いをしかける「雁行の乱れ」の絵から、
後三年の役ダイジェスト解説にあわせ、他の2場面が描かれていました。

後三年の役ってさ、ちゃんと説明するとまぁまぁややこしくて長い話になるけど、
超簡単に言えば、清原一族の相続争いに源義家が加わった戦いのことなんだわ。

でもせっかく現場に行ってきたのにそれで終わったら身も蓋もないから、
少しかいつまんだところを書いてみるよ! まぁ全く自信ないけど(*°∀°)=3

センスがよすぎた瞬間


公園中央には後三年の役メインキャスト4人の銅像が対峙するように立ってます。
手前2人がチーム義家、奥2人がチーム清原。間には古戦場地図や系図まで!

この公園って単にお金をかけてるだけじゃなく、あちこちすごい凝っててさ、
横手市がどんだけこだわりを持ってるか、気合入れたかってのが分かるよね。

おさらい中の瞬間


今いるのが後三年の役古戦場でしょ。金沢柵は近くにあるから後で行くとして。
で、右上にある「前九年の役」。やっぱりもれなくセットになってるんだな。

前九年の役っていうのは、陸奥(宮城・岩手)で謀反を起こした安倍氏征伐のため、
源氏のトップ源頼義・義家父子が朝廷の命で乗り込むものの、源氏軍だけで倒せず、
出羽(山形)の清原氏の力を借りてやっと平定できましたって出来事のこと。

まー長い話だからとりあえず細かいことはさておき、そんな話だよってことで、
とにかく源頼義(義家の父)、清原氏、滅んだ安倍氏ってところを覚えておく。

で。安倍氏に代わって陸奥を支配することになった清原氏は、安倍方の武将、
藤原経清の未亡人(安倍氏の娘)を妻にして、連れ子の清衡を養子にするんだけど、
その後、2人の間には家衡が生まれ、複雑な兄弟関係のいっちょあがりです。

清衡⇒次男 安倍氏(藤原氏)の血を引く養子
家衡⇒三男 清原氏の血を引く実子

とはいえ清原氏には真衡という嫡男がいて、跡を継ぐことは決まってるけど!

・・・っていう状況が清原氏の中に出来て、そして前九年の役から20年。

清原を継いだ真衡は子に恵まれず、他から養子を迎えて成衡と名乗らせ、
源義家の娘を娶ることになるんだけど、そのお祝いに真衡の叔父・吉彦秀武が
大量の砂金を持って来たにも関わらず、真衡は囲碁に夢中でシカト(*°∀°)=3

面目をつぶされた吉彦秀武は激怒して、砂金をぶちまけて帰っちゃうんだけど、
真衡がこの態度に逆ギレして、当主に対してけしからんと成敗の兵を送るわけ。

すると吉彦秀武は清衡と家衡を援軍に呼んでくる。跡継ぎから外されて
めっちゃ不満を持っている弟二人が敵になると、真衡は分が悪いじゃない?
そこで真衡は源義家に援軍を要請。そしてついに後三年の役が始まるんです。

吉彦秀武(兄弟の叔父)
清原清衡(養子の次男)
清原家衡(三男)

VS

清原真衡(嫡男 清原当主)
源義家(陸奥守・清原氏と婚姻で親戚)

さんざんワーワーやった結果、源義家の力で真衡が勝利し、第1ラウンド終了!
と思いきや、その直後なんと! 勝利した真衡さんが急死してまう(*°∀°)=3

で、今度は弟二人の間で跡継ぎ問題が勃発し、第2ラウンド開始となるんですね〜
ちなみに真衡の養子になった成衡どした?って感じだけどワタクシ良く知ませんw

ビッグネームが並ぶ瞬間


古戦場図を挟んでそれぞれの銅像よりに源氏方、清原方の系図もありました。
ザックリしすぎな気もするけど、清和源氏パワーのすごさはわかりますとも!

で、第2ラウンドの話しね。今度は兄弟で当主の座をめぐるマジな争いです。

真衡の死後、陸奥守である源義家が領地を兄弟で半分ずつにするよう命じたので
落ち着くと思いきや、これに納得できない家衡は「養子のくせにマジぶっころ!」
と清衡の暗殺を企て、しくじると屋敷を襲撃して妻子を皆殺しにしてしまいます。

運よく逃げ延びた清衡は義家に助けを求め、沼柵へ家衡をやっつけに行くんだけど…

清原清衡(安倍の血を引く養子の次男)
源義家(陸奥守)

VS

清原家衡(清原の嫡流の三男)
清原武衡(兄弟の叔父)

季節は冬だわ、土地勘はないわ、家衡軍の抵抗も激しいわで一次退却(*°∀°)=3
家衡はその間に要害の金沢柵に移り、叔父の武衡とともに迎え撃つ体制を整えます。

そしていざリベンジ!の時が来て、ここで最初にご紹介した義家伝説!
雁の乱れで伏兵を見破るイベント発生⇒金沢柵兵糧攻めに続いていくんです。

それではここでデスマッチ参戦のみなさんに入場していただきましょうw

武者姿が意味深だった瞬間


まずはチーム清原の家衡さん。多分ちょっとヤバい奴だったと思います笑
当主真衡にかみつき、清衡を狙ってミナゴロシまでやらかすおっかない末っ子。

暴走の末路は悲惨だった瞬間


金沢柵の要害にこもる家衡さんもなかなか強かったらしいけど、長い間の
兵糧攻めで孤立すると最後は火を放って逃げ、捕らえられて斬首されました。

調子がよかった瞬間


そして次が清原武衡さん。このおっさんは家衡が沼柵で清衡・義家を撃退したら
かけつけてきて「義家ほどの名将を破るのは家の名誉!」と言って家衡を支持。

そうは問屋が卸さなかった瞬間


金沢柵に移ることを勧めて一緒に籠城するんだけど、兵糧が尽きると降伏。
でも許されず落城時に捕らえられると、命乞いもスルーされ斬首となりました。

1人勝ちだった瞬間


対するこちらはチーム義家の藤原清衡さん。戦い中は存在感めっちゃ薄いけど、
最後にすべてを手に入れた持ってる男です。名前も父姓の「藤原」に戻してね。

棚ボタにもほどがある瞬間


で、平泉で繁栄を極めた奥州藤原氏の祖になるワケです。清原と血縁ないのに一番得した人w
死にもの狂いで勝ち取ったとかじゃないってところがミソよね。あやかりたいわ。

武者姿がよかった瞬間


ラストは源義家さん。リベンジで金沢柵に攻め寄せるも防備が固くて崩せず、
吉彦秀武の献策を入れて兵糧攻めを行い、長いこと包囲した末ようやく勝利!!

男気はいつだって大事だった瞬間


のはずが、義家さんはウハウハの清衡と対照的に踏んだり蹴ったりエライ目に。
朝廷が「清原の相続争いに勝手に介入した私戦」として恩賞をくれないどころか、
戦中の納税を怠ったとして陸奥守まで解任され、エリートから一気に窓際へ転落…。

でも義家さんはえらかった! 朝廷から恩賞がでなかったにも関わらず、
部下に私財をなげうって恩賞を出したことで、関東武士からの好感度急上昇!

素寒貧でもかっこいいよね。さすが武士のあこがれ八幡太郎だわぁっていうねw

まーこんな感じで後三年の役の大筋はだいたいオッケーでしょ!
金沢柵での攻防はこれから現場に行って、また色々妄想してみましょ。

横着する瞬間


公園内には三連の「雁がね橋」もあって実際に渡ることもできるんだけど、
ワタクシは暑いから億劫で写真だけ。おまけに適当な場所から撮った(*°∀°)=3

満足度マックスの瞬間


平安の風わたる公園やっぱり来てよかった!来ると勝手に盛り上がれるw
よーし。じゃあ次は、八幡太郎義家のつもりで金沢柵に押し寄せていこう!



金沢柵に登城!〜に続く


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2018.11.30 Friday 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

横手にて本多正純のお墓参り

横手城からお城の東南の方にある本多正純のお墓にやってきました。
お城からも歩きでこれなくないけど、駐車場に戻ることも考えるとなかなか遠い!
で、事前調査でよくよくよーく調べたら停められそうだったから車で来てみた。

ホッとする瞬間


横手公園からいったん外に出て、ワタクシは簡易裁判所を目印にしてね。
するとほどなく案内を発見!さりげない「P」も嬉しいじゃないですか!!

本当にありがたい瞬間


駐車スペースは案内のところから少し先へ進んだ右手。ごっつあんです!
所有者の方はもちろん「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」にも感謝です。

うっかりしていた瞬間


いそいそとお墓に向かいます・・・あ!正純「父子」の墓だった(*°∀°)=3
息子さんの存在に気づいてなかったけど、一緒にお参るからまぁいいね。

顕彰されていた瞬間


一角がきれいに整備され、墓碑の他、案内板や句碑なども建っています。
明治41年に横手区裁判所や検事局職員の方が建立したものなんだそうです。

合掌の瞬間


左が子の正勝、右が正純さんの墓碑。白い花が活けられてお手入れされてる!

永禄8年(1565)、三河に生まれた本多正純は父の佐渡守正信とともに
家康の側近として重用され、家康の死後は老中として秀忠に仕えました。
家康存命中の慶長13年(1608)に小山藩3万3千石の大名に取り立てられると
後に2万石加増。元和5年(1619)にはさらに宇都宮藩15万5千石に加増されます。

しかし元和8年(1622)、釣り天井事件などの嫌疑を突きつけられ所領没収、
由利5万5千石へ転封を命じられます。ところが謀反に覚えのない正純は拒否。
これが秀忠の怒りに触れ、本多家は改易。佐竹家預かりで由利に配流となります。
寛永元年(1624)、佐竹義宣に召し預けになると正純は横手に移され、
厳重な監視のもと幽閉生活を送り、寛永14年(1637)73歳で亡くなりました。

息子の正勝さんは体を壊して、寛永7年(1630)35歳で亡くなったって。

大人の事情は色々と複雑だった瞬間


「本多上野介正純父子終焉之地」の碑とともに、父子が横手で寂しく
生涯を終えることになったいきさつ(超ダイジェスト)も案内されてます。

釣り天井事件っていうのは、正純の失脚を狙った言いがかり的なやつです。

元和8年(1622)、2代将軍秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、
宇都宮城に泊まることになったことから、正純が城の普請や造営を行ったら、
「秀忠を暗殺しようとして釣り天井を造った!」という嫌疑をかけられた挙句、
鉄砲密造や城の無断修築とか他の罪まで着せられて失脚させられたという…。

結局、釣り天井は存在しなかったことが後になって判明したらしいけど、
自分の城で天井を落として殺すとか普通に考えてマジないから(*°∀°)=3

でもさ。狙ったが最後。無理をゴリ押す幕府もやっぱ怖いなって思う反面、
そうまでして排除される正純さんも相当アレレな所があったんだろうなって。
秀忠やブレーン世代にとっては、許しがたいウザさだったのかもしれない。

さみしさあふれる瞬間


墓所には正純が横手で詠んだという句が刻まれた碑もありました。

「陽だまりを恋しと想ううめもどき、日陰の紅を見る人もなく」

正純さんって才気ばしったイメージがあるけど、晩年は見る影もなく。
政権の中心から一転、幽閉の身となった日々はさぞ寂しかっただろうね。


さーて。お参りが済んだら車に戻って次へゴー!
江戸時代からいっきに平安後期に行くわよ!!!


後三年の役古戦場に出陣!〜に続く



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2018.11.23 Friday 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

横手城に登城!

佐竹南家の蛍域のある湯沢市から、車をぶっ飛ばして横手までやってきました!
稲庭でうどん食べれず、十文字のラーメンも時間がないから気合で素通りしてね。

グッジョブだった瞬間


ナビにいわれるまま来たら、いい感じの駐車場に到着できました!
この場所は武者溜広場。夏休み中だけど人が少なそうでウホホホ。

わかりやすかった瞬間


観光地としての名称は「横手公園」。明治41年(1908)公園として整備され、
現在は釣り場やバラ園、テニスコート、散策路など市民憩いの場になってます。

案内板は充実な瞬間


まずは本丸跡を見てこようっと。向こうのこんもりしてるのが本丸。
手前が武者溜で、当時この場所に多聞櫓の大手門が建っていたんだって。

ダイナミックな瞬間


大手門の反対側、武者溜を囲む土塁もドーンと存在感たっぷりに残ってます。
説明によれば横手城は当時、多聞櫓11、柵門2の門が設置されてたそうな。

見なかったことにする瞬間


大手門跡の脇にあった当時の大手道、七曲坂への入り口がコレ。
けっこうな斜面でしばらく下ると七曲がりだしますす。オソロシイネェ。

城跡っぽかった瞬間


本丸に上がってみました。七曲坂の入り口から大手門まで比高37.7m。
そこから本丸の表門(があった場所)まで8.7mの高さがあるそうです。

天守が築かれなかった横手城。当時の本丸には本丸御殿と呼ばれる
5つの入母屋屋根で覆われたひとつながりの大規模な建物が建ってたんだって。
しかーし。慶応4年(1868)の戊辰戦争で落城した際、本丸御殿は消失・・・

年季が入っていた瞬間


で、明治12年(1879)戦没者供養のため、この秋田神社が建立されました。

秋田藩祖の佐竹義宣と最後の藩主12代佐竹義堯を祭神としているそうで、
秋田市の秋田神社を分社して建立した時には旧士族、卒、残らず迎えにでて、
参詣の老若男女も多く大変な賑わいだった、と説明に書いてありました。

この後、もちろん久保田城にも登城するからココは念入りにお参りして、
じゃあ、模擬天守のある二の丸の方にも行ってみよっか。

絵葉書にどうぞだった瞬間


本丸を降りて武者溜から見ると、建ってる場所は少し変な感じもするけど
桜が多いから花見の時期なら、天守がチラ見えてとっても映えそうな風景。

ボッチまくりな瞬間


マジいい感じに誰もいない! 人が来ないうち二の丸もサッと見ちゃおう。

横手城は1550年頃、秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって築かれた城で、
石畳を用いず土居削崖とし、土崩れを防ぐ土止めと、敵が這い登れないよう
周囲に韮(ニラ)を植えた築城だったことから「韮城」とも呼ばれました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に味方した疑いで小野寺氏が改易になると、
佐竹義宣が入封。久保田城を本城とし、横手には伊達盛重が城代として入りました。

迷わずスルーする瞬間


「天守閣様式の展望台」というそうです。内部は資料館ってことなんだけど、
あんまり時間もなかったし、展示もなんか少なそうだったから入らなかった。

横手城は佐竹義宣の働きかけで、例外として一国一城令による破却を免れ、
久保田城の支城として存続します。寛文12年(1672)佐竹氏一門の戸村義連が
城代になると、以降、明治まで9代にわたって戸村氏が城代を務めました。

実は汗だくの瞬間


模擬天守が端っこの方に建ってるから、二の丸はわりと広々して見えます。
南北97m、東西38mで本丸より広く、当時は城代の屋敷があったそうです。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、久保田藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、
新政府側についたため、横手城も庄内藩仙台藩山形藩の攻撃をうけ炎上。
明治元年(1868)8月11日、奮戦むなしく落城し、城士21名が討死しました。

100名で籠城したとこ、連合軍4000が押し寄せて砲撃してきたらマジ無理!
城代の戸村さんは自害しようとして止められ、久保田へ落ち延びたそうな。

勝手に納得している瞬間


こちらは小野寺氏の顕彰碑。昭和11年に地元の有志の方が建立したようです。
最後が悲しいとはいえ、長く支配して一時はここを本拠としてた一族だものね。

でも後悔はしない瞬間


まだまだ誰もいないから、二の丸側から見た模擬天守も撮ってみたけどw
展望すれば曲輪の高さプラス三層分、素晴らしい眺めだったかもしれないね。

乾き目になった瞬間


で、武者溜から…横手盆地と鳥海山が一望ってことだけど鳥海山うっすい(*°∀°)=3
あるのを知ってて目を凝らせば何となく見えるくらい。やっぱ展望いらんかったなw

念願かなった瞬間


お腹が空いて死にそうだったから、横手公園内の売店で作ってもらった!
コレも食べたかったの横手焼きそば。ひき肉たっぷり玉子トロトロで激ウマ!!


やーーーーっとお昼ごはんが食べられて元気がでてきた!
よし。じゃあ次は横手城の裏?脇?にある本多正純のお墓に行くよ!



横手にて本多正純のお墓参り〜に続く



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2018.11.16 Friday 17:35 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!

稲庭の広沢寺から、湯沢市にある清凉寺にやってきました!
秋田の佐竹市の分家である佐竹南家のみなさんのお墓参りをするのです。

解放的だった瞬間


市街を見下ろす小高い所にある清涼寺。住宅街の狭い道から参道に入り、
しばらく登れば本堂は目の前!車を停めてイソイソとお参りに向かいます。

ひとつ利口になった瞬間


「佐竹南家の塋域(えいいき)」と書かれた立派な説明がありました。
塋域ってのはお墓のこと…ってワタクシ今まで知らなかったんだけど(*°∀°)=3

佐竹南家は常陸の大名、佐竹家15代義舜の弟、義里を祖とする家で
北家、東家、西家とともに、佐竹宗家を支えた分家になります。
佐竹南家、西家、東家、北家って呼び方は佐竹氏が常陸にあった頃、
太田城から見た屋敷のあった場所で決められたものなんだって。

迷いようがなかった瞬間


本堂裏の高台を少し登ります。1本道なので案内がなくても分かる!

清凉寺は慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田への国替えに伴い、
湯沢に入った南家3代義種が菩提寺として清凉寺を建立したそうです。

佐竹義宣に希望の地を聞かれた義種は「雄勝・湯沢の域は狭いが
最上領にも伊達領にも近い」と湯沢城を切望したというから男気あふれすぎ!

気持ちが引き締まる瞬間


こちらが佐竹南家初代から18代までの当主が眠る塋域。
木立に囲まれた静寂な空間は、とても厳かな雰囲気。

聖域感ハンパない瞬間


どれが誰か分からないけど、18人前の立派なお墓がずらっと並んでます。
初代義里、二代義尚の墓碑と位牌は国替えの時、常陸から移されたんだそう。

気になる瞬間


真ん中にひとつだけ他の墓碑とは違う感じのお墓もあった…ダレの?

元和6年(1620)、湯沢城は4代義章の時に一国一城令で破却されますが、
佐竹南家はその後も二百数十年に渡ってこの地を治め、明治を迎えました。
仁政を施したそうで、人々から「湯沢様」と親しみ敬慕されたみたいです。

ほぼ決めつける瞬間


入り口で見た立派な案内版によれば御位牌もココに納められてるとか。
扇の紋(月がないけど)がついてるこれが位牌堂ってことになのかなぁ?

あっさりしている瞬間


お寺の裏にある山が湯沢城跡。元は稲庭城の支城として小野寺氏が築いたもので、
一国一城令で破却されたけど、今もまぁまぁ遺構が残っているみたい。

だからワタクシ、出陣計画を練ってる時に寄れたらなって考えてたんだけど、
歩いて登る時間はない! 車で行けるらしき林道がわからない!で見送ったw

今回は行きたいところが多すぎる!さっさと予定通り次の横手城に行かねば!!

…って一国一城令どうなってんw と思いつつ急いで横手に向かいます!


横手城に登城!〜に続く



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2018.11.07 Wednesday 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

広沢寺にて小野寺道広のお墓参り

稲庭城の次は城下にある広沢寺へやってきました!
正直言ってワタクシ、道広さんが誰なのかよく知らないんだけど(*°∀°)=3

キレイだった瞬間


ナビに言われるまま来たけど稲庭城から車で5分くらい?で近かった。

広沢寺は長禄元年(1457)稲庭城主小野寺道広が開基して菩提寺にした
曹洞宗のお寺で、正保4年(1647)現在の場所に移されたんだそうです。

ヒョロッとしていた瞬間


中に入ると珍しい形の鐘楼門がお目見え。山門って個性的なお寺が多いよね。
説明には「山門は楼門形式の四脚門」としかなく、建立時期は不明ですw

浄化力が高そうだった瞬間


屋根が入母屋造りの本堂は寛政元年(1789)に建てられたらしいんだけど、
のわりに古びた感じがなく、庭もキレイにしてるから気持ちのいいお寺だなって。

迷いもうろつきもなしだった瞬間


道広さんのお墓は本堂左手奥にすんなり発見!案内とかも出てなかっし、
いつもみたく意地でも探しあてるモチベじゃなかったわりにミラクルw

いい加減だった瞬間


稲庭城で見た写真は五輪塔だけだったけど、覆堂ができて綺麗になってる!

道広さんは稲庭城の9代城主のようです。稲庭城を築いた小野寺重道から
数えてってことなのかなぁ(たぶん)。道広さんがここを菩提寺にしたのが
長禄元年1457ってことだから室町半ばでしょ。まぁ大体そんな感じかw

おもむろに合掌の瞬間


小野寺氏が県南でブイブイ言わして勢力拡大している頃の武将よね。
思い入れられなくて申し訳ないから、敬意を持ってお参りしました。


さぁ稲庭はこれで完了!

せっかくだからお城近くにある佐藤養助商店本店で稲庭うどんを食べたかったけど、
お店の前を通ったら昼前でも長蛇の列(*°∀°)=3 開店前から並ばなきゃムリw

気持ちを切り替えてさっさと次に行こう!


清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.10.26 Friday 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

稲庭城に登城!

正源寺から車を走らせること30分ちょい? ついに秋田県に入りました。
今回は秋田出陣ですからここからが本番! 分刻みでグイグイ行くわよ!!

ぬかりはなかった瞬間


稲庭城の少し手前。ナビが「間もなく目的地周辺です」とか言い出す辺りに
さりげなくあるのが古城道の入り口。路駐のためダッシュで偵察しております。

踵を返す瞬間


どんなもんか10歩ほど登ってみただけでイケナイ匂いがプンプンしてる…
稲庭城のある山は標高300m。気まぐれにチャレンジしたら死んでしまいます。

スリリングだった瞬間


体力のないワタクシは断然こっち!お金を払ってスロープカーでゴー!
全体の写真撮ってなかったんだけど、最大勾配33度!ちょっとすごくない?

膝に悪すぎる瞬間


山の中腹で見えた九十九折・・・古道はずっとこんな感じみたいなの。
稲庭城は急峻な山と皆瀬川に守られた天然の要害だったそうです。

到着の瞬間!


乗ってたのは5分くらいかな? 頂上からは下がほぼ見えないこの急さ。
あんなレール1本で上手く出来てるなって思いながらまぁまぁビビッてたよねw

日差しがやばい瞬間


スロープカーを降りると目の前に模擬天守。二の丸跡に建ってるんだけど、
広い空間じゃないから、建てる時に遺構を壊したりしたのかもって少し思った。

稲庭城は建久年間(1190〜1198)鎌倉時代初期に小野寺氏が築城したと言われ、
戦国時代に横手城に拠点を移すまで、小野寺氏が本拠地としていたお城です。

今昔館というらしかった瞬間


模擬天守の中は資料館になっていて、小野寺氏ゆかりの展示物のほか、
町の歴史や漆器やこけしなど、地場の産業も紹介されているようです。
入場料はスロープカーの料金420円(だったかな?)に含まれてます。

見応えがあった瞬間


2階までは町の文化や伝統産業などの展示なのでサッと見て3階へ。
いきなり立派な甲冑がドーンと並んでいるのにはテンション上がる!
ちなみに後ろの金ピカは、金箔で作られた黄金の茶室です。なぜw

小野寺氏は元々、下野(栃木県)小野寺郷を本拠とした鎌倉御家人で、
奥州征伐の功により源頼朝から雄勝郡を与えられて以降、平鹿、仙北、由利と
領地を広げて繁栄し、400年にわたって秋田県南一帯を支配した一族です。

吸い寄せられる瞬間


甲冑だけじゃなく刀剣もこんなにたくさん!誰もいないからかぶりつきです。

小野寺氏って系図が複雑で、横手城に拠点を移した主流の仙北小野寺氏とか、
稲庭に残って城主になった弟?から続く稲庭小野寺氏とかの他もまだあった気が・・

だから刀剣や甲冑に誰所有とか伝わるみたいな説明は特になかったけど、
稲庭だけじゃなく、小野寺氏全体のゆかりの品々なのかもしれないね。
なんにせよ、一大勢力を築いて長く支配した家のすごさは分かります。

モヤモヤする瞬間


こちらは稲庭城主小野寺氏の位牌。ダレってのは書いてなかったんだけど、
後ろの写真が広沢寺の墓所なので、広道さんの位牌ってことなのかなぁ。

分かりやすかった瞬間


同じフロアにあった古城址鳥瞰図。今いる二の丸は左の長方形のとこ。
そして真ん中の郭が本丸ってことなので…ちょw 遠すぎ(*°∀°)=3

勝手にビビる瞬間


最上階の4階は展望室になってます。見晴らしはいいに違いない!
窓は開けていいんだけど、スズメバチが入るから必ず閉めてって…。

すがすがしくなる瞬間


田園の広がる先に山並みと集落。長閑で爽やかでなんて心癒される!
一瞬、戦国時代にタイムスリップしたような気分も味わえます。

長く勢力を拡大し続けてきた小野寺氏でしたが、戦国時代になると
拡大した領地に隣り合う領主と争いを繰り返し、次第に力を失っていきます。
そして天正18年(1590)秀吉の奥州仕置では領地の1/3を没収されてしまい、
さらに慶長5年(1600)には最上義光の侵攻をにより、諸城が攻撃を受けます。
稲庭城も城主小野寺道勝の奮戦むなしく落城し、後に廃城となりました。

最後の稲庭城主道勝さんは落ち延びたらしいけど、横手城の小野寺本家も
その翌年、関が原の戦いで上杉に味方した疑いで所領没収の改易ですからね・・

いろいろ気になる瞬間


模擬天守の正面にあるのが、二の丸の見張り台跡と夫婦松。
見張り台は説明がなかったけど、櫓とかあったのかもしれないね。

夫婦松は説明によると、落城して退去する時に城主小野寺道勝が
奥方の身代わりに植えたと伝わる松で、これは2代目とのこと。

折り返す気マンマンの瞬間


模擬天守前にある舗装路。山の上に建てるには道路から作るんだもんね。
ちょっと複雑な気持ち。あ、本丸に行くチャレンジャーはここからですw

汗ダクでそわそわする瞬間


帰りはスロープカーが上に来るまで、炎天下でたっぷり15分も待った。
暑いわ、時間のロスが気になるわ・・でも歩いて降りる選択肢はないけど(*°∀°)=3


よし。じゃぁ次は近くにある小野寺氏の菩提寺に行ってみるよ!


広沢寺にて小野寺道広のお墓参り〜に続く


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2018.10.13 Saturday 17:23 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 
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