<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES

横手城に登城!

佐竹南家の蛍域のある湯沢市から、車をぶっ飛ばして横手までやってきました!
稲庭でうどん食べれず、十文字のラーメンも時間がないから気合で素通りしてね。

グッジョブだった瞬間


ナビにいわれるまま来たら、いい感じの駐車場に到着できました!
この場所は武者溜広場。夏休み中だけど人が少なそうでウホホホ。

わかりやすかった瞬間


観光地としての名称は「横手公園」。明治41年(1908)公園として整備され、
現在は釣り場やバラ園、テニスコート、散策路など市民憩いの場になってます。

案内板は充実な瞬間


まずは本丸跡を見てこようっと。向こうのこんもりしてるのが本丸。
手前が武者溜で、当時この場所に多聞櫓の大手門が建っていたんだって。

ダイナミックな瞬間


大手門の反対側、武者溜を囲む土塁もドーンと存在感たっぷりに残ってます。
説明によれば横手城は当時、多聞櫓11、柵門2の門が設置されてたそうな。

見なかったことにする瞬間


大手門跡の脇にあった当時の大手道、七曲坂への入り口がコレ。
けっこうな斜面でしばらく下ると七曲がりだしますす。オソロシイネェ。

城跡っぽかった瞬間


本丸に上がってみました。七曲坂の入り口から大手門まで比高37.7m。
そこから本丸の表門(があった場所)まで8.7mの高さがあるそうです。

天守が築かれなかった横手城。当時の本丸には本丸御殿と呼ばれる
5つの入母屋屋根で覆われたひとつながりの大規模な建物が建ってたんだって。
しかーし。慶応4年(1868)の戊辰戦争で落城した際、本丸御殿は消失・・・

年季が入っていた瞬間


で、明治12年(1879)戦没者供養のため、この秋田神社が建立されました。

秋田藩祖の佐竹義宣と最後の藩主12代佐竹義堯を祭神としているそうで、
秋田市の秋田神社を分社して建立した時には旧士族、卒、残らず迎えにでて、
参詣の老若男女も多く大変な賑わいだった、と説明に書いてありました。

この後、もちろん久保田城にも登城するからココは念入りにお参りして、
じゃあ、模擬天守のある二の丸の方にも行ってみよっか。

絵葉書にどうぞだった瞬間


本丸を降りて武者溜から見ると、建ってる場所は少し変な感じもするけど
桜が多いから花見の時期なら、天守がチラ見えてとっても映えそうな風景。

ボッチまくりな瞬間


マジいい感じに誰もいない! 人が来ないうち二の丸もサッと見ちゃおう。

横手城は1550年頃、秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって築かれた城で、
石畳を用いず土居削崖とし、土崩れを防ぐ土止めと、敵が這い登れないよう
周囲に韮(ニラ)を植えた築城だったことから「韮城」とも呼ばれました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に味方した疑いで小野寺氏が改易になると、
佐竹義宣が入封。久保田城を本城とし、横手には伊達盛重が城代として入りました。

迷わずスルーする瞬間


「天守閣様式の展望台」というそうです。内部は資料館ってことなんだけど、
あんまり時間もなかったし、展示もなんか少なそうだったから入らなかった。

横手城は佐竹義宣の働きかけで、例外として一国一城令による破却を免れ、
久保田城の支城として存続します。寛文12年(1672)佐竹氏一門の戸村義連が
城代になると、以降、明治まで9代にわたって戸村氏が城代を務めました。

実は汗だくの瞬間


模擬天守が端っこの方に建ってるから、二の丸はわりと広々して見えます。
南北97m、東西38mで本丸より広く、当時は城代の屋敷があったそうです。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、久保田藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、
新政府側についたため、横手城も庄内藩仙台藩山形藩の攻撃をうけ炎上。
明治元年(1868)8月11日、奮戦むなしく落城し、城士21名が討死しました。

100名で籠城したとこ、連合軍4000が押し寄せて砲撃してきたらマジ無理!
城代の戸村さんは自害しようとして止められ、久保田へ落ち延びたそうな。

勝手に納得している瞬間


こちらは小野寺氏の顕彰碑。昭和11年に地元の有志の方が建立したようです。
最後が悲しいとはいえ、長く支配して一時はここを本拠としてた一族だものね。

でも後悔はしない瞬間


まだまだ誰もいないから、二の丸側から見た模擬天守も撮ってみたけどw
展望すれば曲輪の高さプラス三層分、素晴らしい眺めだったかもしれないね。

乾き目になった瞬間


で、武者溜から…横手盆地と鳥海山が一望ってことだけど鳥海山うっすい(*°∀°)=3
あるのを知ってて目を凝らせば何となく見えるくらい。やっぱ展望いらんかったなw

念願かなった瞬間


お腹が空いて死にそうだったから、横手公園内の売店で作ってもらった!
コレも食べたかったの横手焼きそば。ひき肉たっぷり玉子トロトロで激ウマ!!


やーーーーっとお昼ごはんが食べられて元気がでてきた!
よし。じゃあ次は横手城の裏?脇?にある本多正純のお墓に行くよ!



横手にて本多正純のお墓参り〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  

2018.11.16 Friday 17:35 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!

稲庭の広沢寺から、湯沢市にある清凉寺にやってきました!
秋田の佐竹市の分家である佐竹南家のみなさんのお墓参りをするのです。

解放的だった瞬間


市街を見下ろす小高い所にある清涼寺。住宅街の狭い道から参道に入り、
しばらく登れば本堂は目の前!車を停めてイソイソとお参りに向かいます。

ひとつ利口になった瞬間


「佐竹南家の塋域(えいいき)」と書かれた立派な説明がありました。
塋域ってのはお墓のこと…ってワタクシ今まで知らなかったんだけど(*°∀°)=3

佐竹南家は常陸の大名、佐竹家15代義舜の弟、義里を祖とする家で
北家、東家、西家とともに、佐竹宗家を支えた分家になります。
佐竹南家、西家、東家、北家って呼び方は佐竹氏が常陸にあった頃、
太田城から見た屋敷のあった場所で決められたものなんだって。

迷いようがなかった瞬間


本堂裏の高台を少し登ります。1本道なので案内がなくても分かる!

清凉寺は慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田への国替えに伴い、
湯沢に入った南家3代義種が菩提寺として清凉寺を建立したそうです。

佐竹義宣に希望の地を聞かれた義種は「雄勝・湯沢の域は狭いが
最上領にも伊達領にも近い」と湯沢城を切望したというから男気あふれすぎ!

気持ちが引き締まる瞬間


こちらが佐竹南家初代から18代までの当主が眠る塋域。
木立に囲まれた静寂な空間は、とても厳かな雰囲気。

聖域感ハンパない瞬間


どれが誰か分からないけど、18人前の立派なお墓がずらっと並んでます。
初代義里、二代義尚の墓碑と位牌は国替えの時、常陸から移されたんだそう。

気になる瞬間


真ん中にひとつだけ他の墓碑とは違う感じのお墓もあった…ダレの?

元和6年(1620)、湯沢城は4代義章の時に一国一城令で破却されますが、
佐竹南家はその後も二百数十年に渡ってこの地を治め、明治を迎えました。
仁政を施したそうで、人々から「湯沢様」と親しみ敬慕されたみたいです。

ほぼ決めつける瞬間


入り口で見た立派な案内版によれば御位牌もココに納められてるとか。
扇の紋(月がないけど)がついてるこれが位牌堂ってことになのかなぁ?

あっさりしている瞬間


お寺の裏にある山が湯沢城跡。元は稲庭城の支城として小野寺氏が築いたもので、
一国一城令で破却されたけど、今もまぁまぁ遺構が残っているみたい。

だからワタクシ、出陣計画を練ってる時に寄れたらなって考えてたんだけど、
歩いて登る時間はない! 車で行けるらしき林道がわからない!で見送ったw

今回は行きたいところが多すぎる!さっさと予定通り次の横手城に行かねば!!

…って一国一城令どうなってんw と思いつつ急いで横手に向かいます!


横手城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2018.11.07 Wednesday 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

広沢寺にて小野寺道広のお墓参り

稲庭城の次は城下にある広沢寺へやってきました!
正直言ってワタクシ、道広さんが誰なのかよく知らないんだけど(*°∀°)=3

キレイだった瞬間


ナビに言われるまま来たけど稲庭城から車で5分くらい?で近かった。

広沢寺は長禄元年(1457)稲庭城主小野寺道広が開基して菩提寺にした
曹洞宗のお寺で、正保4年(1647)現在の場所に移されたんだそうです。

ヒョロッとしていた瞬間


中に入ると珍しい形の鐘楼門がお目見え。山門って個性的なお寺が多いよね。
説明には「山門は楼門形式の四脚門」としかなく、建立時期は不明ですw

浄化力が高そうだった瞬間


屋根が入母屋造りの本堂は寛政元年(1789)に建てられたらしいんだけど、
のわりに古びた感じがなく、庭もキレイにしてるから気持ちのいいお寺だなって。

迷いもうろつきもなしだった瞬間


道広さんのお墓は本堂左手奥にすんなり発見!案内とかも出てなかっし、
いつもみたく意地でも探しあてるモチベじゃなかったわりにミラクルw

いい加減だった瞬間


稲庭城で見た写真は五輪塔だけだったけど、覆堂ができて綺麗になってる!

道広さんは稲庭城の9代城主のようです。稲庭城を築いた小野寺重道から
数えてってことなのかなぁ(たぶん)。道広さんがここを菩提寺にしたのが
長禄元年1457ってことだから室町半ばでしょ。まぁ大体そんな感じかw

おもむろに合掌の瞬間


小野寺氏が県南でブイブイ言わして勢力拡大している頃の武将よね。
思い入れられなくて申し訳ないから、敬意を持ってお参りしました。


さぁ稲庭はこれで完了!

せっかくだからお城近くにある佐藤養助商店本店で稲庭うどんを食べたかったけど、
お店の前を通ったら昼前でも長蛇の列(*°∀°)=3 開店前から並ばなきゃムリw

気持ちを切り替えてさっさと次に行こう!


清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2018.10.26 Friday 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

稲庭城に登城!

正源寺から車を走らせること30分ちょい? ついに秋田県に入りました。
今回は秋田出陣ですからここからが本番! 分刻みでグイグイ行くわよ!!

ぬかりはなかった瞬間


稲庭城の少し手前。ナビが「間もなく目的地周辺です」とか言い出す辺りに
さりげなくあるのが古城道の入り口。路駐のためダッシュで偵察しております。

踵を返す瞬間


どんなもんか10歩ほど登ってみただけでイケナイ匂いがプンプンしてる…
稲庭城のある山は標高300m。気まぐれにチャレンジしたら死んでしまいます。

スリリングだった瞬間


体力のないワタクシは断然こっち!お金を払ってスロープカーでゴー!
全体の写真撮ってなかったんだけど、最大勾配33度!ちょっとすごくない?

膝に悪すぎる瞬間


山の中腹で見えた九十九折・・・古道はずっとこんな感じみたいなの。
稲庭城は急峻な山と皆瀬川に守られた天然の要害だったそうです。

到着の瞬間!


乗ってたのは5分くらいかな? 頂上からは下がほぼ見えないこの急さ。
あんなレール1本で上手く出来てるなって思いながらまぁまぁビビッてたよねw

日差しがやばい瞬間


スロープカーを降りると目の前に模擬天守。二の丸跡に建ってるんだけど、
広い空間じゃないから、建てる時に遺構を壊したりしたのかもって少し思った。

稲庭城は建久年間(1190〜1198)鎌倉時代初期に小野寺氏が築城したと言われ、
戦国時代に横手城に拠点を移すまで、小野寺氏が本拠地としていたお城です。

今昔館というらしかった瞬間


模擬天守の中は資料館になっていて、小野寺氏ゆかりの展示物のほか、
町の歴史や漆器やこけしなど、地場の産業も紹介されているようです。
入場料はスロープカーの料金420円(だったかな?)に含まれてます。

見応えがあった瞬間


2階までは町の文化や伝統産業などの展示なのでサッと見て3階へ。
いきなり立派な甲冑がドーンと並んでいるのにはテンション上がる!
ちなみに後ろの金ピカは、金箔で作られた黄金の茶室です。なぜw

小野寺氏は元々、下野(栃木県)小野寺郷を本拠とした鎌倉御家人で、
奥州征伐の功により源頼朝から雄勝郡を与えられて以降、平鹿、仙北、由利と
領地を広げて繁栄し、400年にわたって秋田県南一帯を支配した一族です。

吸い寄せられる瞬間


甲冑だけじゃなく刀剣もこんなにたくさん!誰もいないからかぶりつきです。

小野寺氏って系図が複雑で、横手城に拠点を移した主流の仙北小野寺氏とか、
稲庭に残って城主になった弟?から続く稲庭小野寺氏とかの他もまだあった気が・・

だから刀剣や甲冑に誰所有とか伝わるみたいな説明は特になかったけど、
稲庭だけじゃなく、小野寺氏全体のゆかりの品々なのかもしれないね。
なんにせよ、一大勢力を築いて長く支配した家のすごさは分かります。

モヤモヤする瞬間


こちらは稲庭城主小野寺氏の位牌。ダレってのは書いてなかったんだけど、
後ろの写真が広沢寺の墓所なので、広道さんの位牌ってことなのかなぁ。

分かりやすかった瞬間


同じフロアにあった古城址鳥瞰図。今いる二の丸は左の長方形のとこ。
そして真ん中の郭が本丸ってことなので…ちょw 遠すぎ(*°∀°)=3

勝手にビビる瞬間


最上階の4階は展望室になってます。見晴らしはいいに違いない!
窓は開けていいんだけど、スズメバチが入るから必ず閉めてって…。

すがすがしくなる瞬間


田園の広がる先に山並みと集落。長閑で爽やかでなんて心癒される!
一瞬、戦国時代にタイムスリップしたような気分も味わえます。

長く勢力を拡大し続けてきた小野寺氏でしたが、戦国時代になると
拡大した領地に隣り合う領主と争いを繰り返し、次第に力を失っていきます。
そして天正18年(1590)秀吉の奥州仕置では領地の1/3を没収されてしまい、
さらに慶長5年(1600)には最上義光の侵攻をにより、諸城が攻撃を受けます。
稲庭城も城主小野寺道勝の奮戦むなしく落城し、後に廃城となりました。

最後の稲庭城主道勝さんは落ち延びたらしいけど、横手城の小野寺本家も
その翌年、関が原の戦いで上杉に味方した疑いで所領没収の改易ですからね・・

いろいろ気になる瞬間


模擬天守の正面にあるのが、二の丸の見張り台跡と夫婦松。
見張り台は説明がなかったけど、櫓とかあったのかもしれないね。

夫婦松は説明によると、落城して退去する時に城主小野寺道勝が
奥方の身代わりに植えたと伝わる松で、これは2代目とのこと。

折り返す気マンマンの瞬間


模擬天守前にある舗装路。山の上に建てるには道路から作るんだもんね。
ちょっと複雑な気持ち。あ、本丸に行くチャレンジャーはここからですw

汗ダクでそわそわする瞬間


帰りはスロープカーが上に来るまで、炎天下でたっぷり15分も待った。
暑いわ、時間のロスが気になるわ・・でも歩いて降りる選択肢はないけど(*°∀°)=3


よし。じゃぁ次は近くにある小野寺氏の菩提寺に行ってみるよ!


広沢寺にて小野寺道広のお墓参り〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  

2018.10.13 Saturday 17:23 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

正源寺にて鮭延秀綱のお墓参り

戸沢家墓所の次は秋田の方へ向かいつつ、真室川にある正源寺へ!
ここでは最上家のイケ武将 鮭延秀綱さんのお墓参りをするのです。

まぶしすぎた瞬間


県道から少し入った所にある狭い山門を抜けられれば駐車場に行ける(*°∀°)=3
通りから奥まっている上、さらに線路まで越えた先にあるちょっと珍しいお寺です。

異色のコラボだった瞬間


線路を越えるどころか、なんなら荘厳すぎる立派な総門が踏切の真ん前!
昭和36年に出羽三山の湯殿山大日坊から移築された町指定の文化財なんだって。

お参りしづらいタイプの本堂だった瞬間


正源寺は天文5年(1536)小野寺氏家臣の鮭延城主、佐々木典膳貞綱が菩提寺として
鮭延山総国寺を建立したのが始まりで、子の鮭延秀綱の時代に現在の場所に移され、
三弘山正源寺と改められました。当時からか分からないけど曹洞宗のお寺です。

鮭延氏はお名門「近江源氏の佐々木氏」の一族で、出羽に下って小野寺氏に仕え、
鮭延の地に入ったことから、地名を取った鮭延を名乗るようになりました。

自信マンマンの瞬間


鮭延さんのお墓は境内ではなく、いったん総門を出た左手の墓域奥にあります。
境内にも途中にも墓所への案内は一切なかったから、調べてきてよかった!

かけよる瞬間


ずっとまっすぐ進んで、木立の中にこんな感じのが見えてきたら到着!
真ん中が鮭延さんのお墓なんで、アレを目がけてつっこんでいきます。

ありがたがる瞬間


道順や案内はないけど、お墓の前にちゃんとした標柱があるのが嬉しい。
鮭延さんのお墓は茨城県古河市の鮭延寺にもあって、そちらに比べるとココは
建立の経緯がわからないんだけど、そんな古くはなさそうな雰囲気だよね。

思い込みが激しい瞬間


こちらが鮭延さんのお墓。シュッとして佇まいが美しい五輪塔です。
でも生一本っていうか、人柄が清らかな印象にすごい合ってる気がする!

鮭延秀綱は横手城主小野寺氏に仕えた佐々木貞綱の子として生まれましたが、
庄内大宝寺氏の侵攻を受けた際に捕らえられ、幼少期は小姓として仕えたといいます。

その後、秀綱は大宝寺から解放されると、家督を継いで鮭延城主となりますが、
天正9年(1580)、出羽を平定した最上義光の侵攻を受けると激しく抵抗するものの、
調略による内部切り崩しを受けて降伏。本領を安堵されて最上氏に仕えると、
最上領北方の要として、旧主小野寺氏攻略など交渉や戦の両面で活躍しました。

想像をはためかせる瞬間


しっとりした石には「正源寺殿前越州大守松雲宗長大居士」と刻まれてます。
武勇に秀でつつ温柔敦厚というステキ武将ですから、念入りに合掌しますとも!

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに呼応して起きた慶長出羽合戦では、
直江兼続率いる上杉軍2万に包囲された長谷堂城へ救援に駆けつけると、
城将志村光安を助け、獅子奮迅の働きで上杉軍の本陣に迫る活躍をします。

その戦いぶりは直江兼続に「さても今日、鮭延が武勇、信玄、謙信にも覚えなし」
と言わしめたほど!少ない手勢で何百も首を取ったというからマジ驚きじゃない?

そして関ヶ原の後、この戦功により最上義光が57万石の大大名になると、
秀綱も真室城1万1500石を与えられ、重臣として最上家を支えていきます。

しかし元和3年(1617)、義光の跡を継いだ家規が36歳で亡くなると家督をめぐり家中は対立。
家規の子、13歳の義俊派と、義光の四男、山野辺義忠派の争いがお家騒動に発展すると、
元和8年(1622)最上家は改易され、秀綱も老中、土井利勝の預かりとなりました。

ちなみに鮭延さんは家規の弟、山野辺推しだった人。権力がどうこうってより、
山野辺さんの方が器量人だったらしいから、最上家によかれと思ったんだろうね。
義俊は若いし、義俊派の人たちも残念なメンツがそろっていたみたいだし(*°∀°)=3

泣きそうになる瞬間


墓石の横には欠けてる所が気になるけど、「正保3年6月古河卒去」の文字が。
鮭延さんが亡くなったのは茨城県古河市。この晩年がまたグッと来るのよ。

土井利勝の預かりとなった鮭延さんの元には「乞食をしてでも殿を養いたい!」って
激アツな家臣が20人もついてきて、無禄でずっと鮭延さんを支え続けるんだよね。

実際、土井家預かりじゃなくなった後しばらく、鮭延さんwith家臣たちは
肩寄せ合って、その日暮らしみたいな生活をしてたみたいなんだよね。
でもすさんだりすることもなく、貧しくても清く正しくちゃんと生きた。

その後、鮭延さんは土井利勝に迎えられ、5000石!を与えられるんだけど、
激アツ家臣に分け与え、自分は家臣の家を1日置きに転々として暮らしたって…。

そして寛永10(1644)、土井家の領地替えに伴い、佐倉から古河に移った2年後、
正保3年(1646)6月死去。鮭延さんの死を大いに悲しんだ家臣たちが菩提を弔うため
建てたお堂が、もう1つのお墓がある古河市の鮭延寺(けいえんじ)なんですね。

鮭延さんって生年がハッキリしないから微妙なんだけど、享年は80代のハズ。
還暦の頃に主家が取り潰されながら、全て失っても慕ってくれる家臣に囲まれ、
最後まで自分の信念に従って生きたって意味では穏やかな晩年だったのかな。

にしても、にしてもですよ!

「乞食をしてでも殿を養いたい!」って家臣の気持ちがマジ震える!!

故郷も親兄弟も捨てて、ただただ鮭延さんのことだけ思って山形を出て、
ホントにずっと尽くすんだもんね。主従どちらもハートがありすぎてw

こりゃやっぱ古河市の鮭延寺にもお参りいかなくちゃね。

地味に嬉しい瞬間


帰る時、偶然、奥羽本線が通ったのが少し嬉しかったw


お寺の近くには鮭延城もある・・てかもう本堂の後ろに見えてる山がソレだけど、
時間もないし、まーとにかく自然のまんま的な感じらしくて真夏の今は無理と!


てことで、次はいよいよ秋田入り! 久々に怒涛の進軍するわよw


稲庭城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2018.10.08 Monday 12:40 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

戸沢家墓所に参拝!

新庄城の次は新庄藩藩主、戸沢家の墓所にやってきました。

戸沢家の墓所は瑞雲院と桂嶽寺の2ヶ所で、まずは歴代墓所のある瑞雲院から。
あ、そういえば新庄城の説明では「戸澤」の字が使われてたけど、
こちらの墓所は「戸沢」なので、表記はそれに合わせておくからね!

イヤな予感しかしなかった瞬間


新庄城(最上公園)からは車なら数分。案内も出てて分かりやすい。
で、いい感じに駐車場に乗り入れた瞬間、工事中ぽい看板・・え(*°∀°)=3

ホッとしていた瞬間


屋根の葺替えらしいけど中には入れるようなので気を取り直して説明板を読み、
ボックスの中に置かれていたパンフレットももれなくいただきます。

戸沢氏は応永31年(1424)、13代家盛の代に秋田県角館城に居を構え、
戦国大名としての地位を築き、その8代後、政盛の時に常州松岡へ国替えとなった後、
元和8年(1622)新庄に入封。新庄藩祖、政盛から11代続いた大名です。

贅沢は言わない瞬間


墓所の入り口にある表門は養生されてて雰囲気ないけど、まぁ仕方ない。
名称は「戸沢家墓所」となってるけど廟所よね。霊屋が建立されています。

貴重だった瞬間


こちらの霊屋は歴代藩主が亡くなって建立された当時のまま現存しているもの。
老朽化のため、平成6年から明治40年の古図の状態に保存修理したそうで、
表門もその時、一緒に復元されたようです。今は防災施設も設置されてます。

厳かだった瞬間


入ってすぐ左側にあるのがこの3棟。手前が4号棟で6代・10代藩主の御霊屋。
真ん中6号棟は8代・9代・11代の他に、8代正室や戸沢家累代の墓もありました。
そして右が3号棟。こちらは4代藩主と正室、息子や2代正誠の三女も一緒に。

圧倒されている瞬間


配置はこんな感じ。1から6号まで亡くなった藩主の順で建立されてます。
建立者が次の藩主になってるの見ると、代々続いた大名なんだな〜って。

風格ある瞬間


前が空いてて写真が撮りやすい4号をじっくり見てみた。すごい重厚。
霊屋の大きさそれぞれだけど全て総欅の単層宝形造り。屋根は全て茅葺!

みっしりすぎた瞬間


葺き替えを順番でやって、多分これは終わったばかりなんだろうね。
厚みがあって切り口もピシッとそろってすごいキレイじゃない?

立って半畳だった瞬間


霊屋の中をのぞくとそれぞれの大きな墓石が納まっているのが見えます。
これは6号だったかな。墓石がデカいので8人のところは結構ギッシリめw

やらかす瞬間


廟所の片隅には殉死者の墓も。1号棟の前にあるから初代政盛の家臣かなぁ…
とか思ってたら、ワタクシ見事に1号棟の写真撮り忘れてた(*°∀°)=3

手入れは大事だった瞬間


2号棟は絶賛、葺き替え中!この時は作業してなかったから覗き見たら、
ガッツリ足場が組まれた上にチラ見えするボロッちい茅葺が切なかったw

ぺっちゃんこすぎだった瞬間


だってほら、葺き替えの順番がまだ来ない隣の5号棟なんてこんな有様よ。
でもこうしてお金と手間をかけて、ずっと大切に守られていくんだね。

なんとなく雑だった瞬間


そしてこちらが瑞雲院にほど近い所にある桂嶽寺。2代藩主正誠の墓所です。
同じ国史跡でも歴代藩主の霊屋がある瑞雲院に比べると何となく・・・笑

がっくりしていた瞬間


あんまりお寺っぽい佇まいじゃないので、戸惑いながら本堂に向かったら、
ちゃんと案内があって一安心!しかーし。パンフレットは品切れなのであった。

苔ですべりやすかった瞬間


案内に沿って本堂の裏手にある小山を登って行く感じで進みます。
足元も危ないんだけど、ヤブ蚊もたかってくるので油断できません!

ヤブ蚊に負けず寄り道する瞬間


途中に幼くして亡くなった、正誠の愛児政武ちゃんの墓所もあります。

こちらのお寺は初代政盛が大田村に万年寺を建立したのが前身で、
2代正誠が政武の菩提を弔うため、寺を城から見えるこの地に移し、
政武の法名にちなんで「桂嶽寺」と改めたものなんだって。

寂しすぎた瞬間


政武ちゃんのお墓は広い空間にポツーン・・・寂しすぎ(*°∀°)=3
墓石には「桂嶽寺殿天質慈香大禅定門」と刻まれていました。

雨上がりは危険だった瞬間


正誠さんの霊屋は政武ちゃんのお墓からさらに登った上のようです。
石が敷いてあるけど石も滑るし、苔も滑るしでまぁまぁ難儀しました。

寂しい感じがする瞬間


正誠さんの霊屋はおひとり様仕様なのか、こじんまりした造りですよ。
1人だけ廟所が別なのは、政武ちゃんと一緒がよかったからなんでしょうね。

2代正誠は戸沢家歴代の中で60年以上と最も長く藩主を務めた人で、
城下町の整備、寺社建立や銅山開発などを行って藩政を安定させ、
晩年、養子の正庸に家督を譲り、享保7年(1722)83歳で亡くなりました。

お金と手間の心配をする瞬間


瑞雲院と違って、正誠さんの霊屋は近年木羽葺きに替えられたそう。
茅でも板でもどっちにしろ定期的なメンテナンスが大変そうだよねぇ。


さて〜これで新庄市でやることは終わった!秋田に向けて進むぞー!



正源寺にて鮭延秀綱のお墓参り〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2018.09.29 Saturday 16:13 | comments(1) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

新庄城に登城!

この夏やっと東北方面でまだ行ったことのない秋田県に出陣してきました!
行きがけの駄賃で見たい所があったから、今回は山形から潜入してのスタートです。

しくじった瞬間


まずは新庄城から。現在は本丸部分が最上公園として整備されています。
駐車場がないと思ってふるさと歴史センターに停めたけど、中に入れたみたい。

雰囲気を味わう瞬間


本丸堀を渡って行きます。土塁の先の木立が茂った隅のあたりは武器櫓跡。
当時は本丸をぐるっと囲んでいた水堀も、今残っているのは主にこの辺だけ。

もってなかった瞬間


堀には噴水があるんだけど、行きかえりとも吹き出すタイミングに合えず。
土塁や堀を眺めながら、そういえば平城も久しぶりだわと思ったりしてます。

落ち着いていた瞬間


本丸に入った正面にあるのが戸澤神社。明治27年の創建で、新庄藩主だった
戸澤家の始祖「衡盛」、藩祖「政盛」、11代藩主「正実」が祀られています。

うっかりだった瞬間


神社の入り口に当時の絵図があったから当時の雰囲気を確認しておいた。
出来るだけ光らないようにしたら、ワタクシど真ん中に映りこんでたww

新庄城は元は天正8年(1580)、日野有祐によって築城された城で、
その後、最上氏に臣従すると、「最上四十八館」に数えられました。

元和8年(1622)最上氏が改易されると、戸沢政盛が6万石で入封し、新庄城を築城。
寛永3年(1627)に三層の天守、3棟の隅櫓を備えた城郭が完成しますが、翌年火災により、
三層天守を含む本丸・二ノ丸を焼失。戸澤氏はすぐに天守を再建するものの、
寛永13年(1636)の火災で再び消失して以降、再建されることはありませんでした。

戸澤氏は元和8年の入封以降、11代にわたって藩政を行い、幕末を迎えます。

慶応4年(1868)戊辰戦争では当初、奥羽越列藩同盟に参加していましたが、
新政府軍側について離脱したため、庄内藩に攻められ落城し、大部分を消失。
藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延び、新庄城は廃城となりました。

かぶりつく瞬間


こちらは表御門跡の石垣。絵図だと分かりづらいけど櫓門が建ってたようです。
近世城郭らしく、ピッチピチに積まれた切込ハギです。苔ついてるのがいい!

見ほれる瞬間


これが残っている唯一の石垣なので、振り返ってさらに念入りに見ておく。
少し離れて櫓門が建ってる姿を想像すると、なかなか立派な感じじゃない?

にんまりする瞬間


門跡からは本丸の土塁が続いています。最初に堀から見た時は木の影になってたけど、
中に来るとばっちり見えるし、写真だとそう見えないけどけっこう高さもあるんだ。

ダイナミックだった瞬間


ほらー中まで入ってこられる!って話しじゃなく、土塁が高いし分厚いよねってw
この土塁の角が本丸南東で当時、武器櫓があったところ。じゃあ登ってみるよ!

単なる休憩だった瞬間


建っていた櫓は二層で、槍や鉄砲などの武器が保管されていたそう。
何もないからベンチに座って、高いところから堀ごしに向こうを眺めたりする。

気分がいい瞬間


土塁はこの武器櫓のところが一番高いんじゃないかな。本丸一部でも広い!
ピンの写真はないけど、本丸には天満神社、護国神社も並んでたりします。

適当だった瞬間


武器櫓のあった土塁から続くのが本丸南の入り口。説明や標柱はなかったけど、
縄張図からすると本丸と向こうの二の丸の間にあった門跡でいいんだと思う。

センスが悪すぎた瞬間


南門を出た先が二の丸。本丸堀をちょっと囲むような形になってるんだけど、
写真の角度が微妙でまったく分からず。おばちゃん映ってるとこが二の丸です笑

ひっそりすぎた瞬間


外に出ちゃうから本丸に戻って、天守台跡の辺りもウロついておきました。
最初ちょっと探しちゃって。そしたら護国神社の脇に標柱だけあった(*°∀°)=3

春秋がマストの瞬間


最初にきた戸澤神社の前を通り過ぎて、本丸の反対側を見に来ました。
御殿跡には心字池のある庭園があって、こちらの方は憩いの雰囲気。

さすが北側だった瞬間


本丸の北東隅にはあるのが小納戸櫓跡。こちらも二層の櫓だったようです。
武器櫓の方に比べて低いけど、草木が茂って蚊がいそうだから登らなかったw

風情はなかった瞬間


櫓台からの土塁がとぎれた所が本丸裏門跡。お手洗いが邪魔だけど(*°∀°)=3
写真は本丸を出て撮ったもの。当時はここから堀を越えて三の丸だったよう。

見に来た事実が大事だった瞬間


本丸に戻り、今はあじさい公園になってる所を抜けて北西隅の大納戸櫓跡へ。
とはいえ櫓台跡もないし、この辺は堀も埋められてて今は標柱があるのみ。

人っ子ひとりいない瞬間


戸澤神社の前に戻ってきました。ふるさと歴史センターに戻りながら、
本丸堀の向こう…大手方面に向かって三の丸を抜けていってみよっか。

だだっぴろかった瞬間


絵図で侍町ってなってた部分は広い公園というか広場というか?
何があった場所か分からないけど、低い土塁に囲まれてるのが見えるね。

興味がなさそうだった瞬間


広場を抜けて大手の方に向かって歩いてたら、御役所跡の標柱があった。
藩内の田畑や年貢・産物・財政などを扱う役所があったんだってさ!


さぁ〜行きがけの駄賃1発目完了!・・アレ、そういや城址碑ってあった? 

今さら気づいて首を傾げつつ、車に乗り込み次の攻略地に向かいます!


戸澤家墓所に参拝!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  



2018.09.22 Saturday 15:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 
 | 1 / 59 PAGES | >>