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光禅寺にて最上義光のお墓参り

やっとここから2017年GWの山形攻略シーズン2!

まずは「山形の武将といえば!」の最上さんのお墓にお参りします。

最上ゴリゴリだった瞬間


仕事終わってほとんど寝ずに運転。で、たどり着いた朝イチの風景が濃すぎw
住宅街のど真ん中に建ってるお寺だけど、一瞬で戦国妄想スイッチオンだわ。

そこはかとなかった瞬間


少し進むとすぐ本堂が見えてきます。雰囲気や品があるお寺です。
あの立派なしだれ桜が咲いてたら、とんでもない風情なんでしょうね。

光禅寺は最上義光が菩提寺にするため建てたお寺。当時は広大な寺領を有し、
義光の御霊屋もありましたが、明治の大火で全て焼失してしまったのだとか。

出だしはオッケーだった瞬間


本堂の左側から墓域に向かいます。案内板とかは特になかったな。
でもワタクシは下調べしていたのでキョドらず来られてよかった!

家臣に慕われた人だった瞬間


一般の方の墓地エリアのど真ん中にドーンと目立つ最上義光のお墓です。
手前に4つ並んでいるのは義光の卒去に際し、殉死した家臣の墓碑だそう。

前のめっている瞬間


最上義光のお墓がこちら。明治の大火で焼失したため有志の寄付を募り、
大正2年(1913)に「義光公没後300年」の記念として復興されたんだって。

義光さんて腹黒の陰謀家でダーティな感じに言われることもあるけど、
ワタクシはけっこう好き。知的だし血が通ってる感じがするのよね。

せっかくだから好きな感じを盛り上げて熱量アップしてから行こ!って思って
今回の出陣直前に北天に楽土あり: 最上義光伝を急いで読んだよw

大河ドラマの独眼竜政宗では義光さん、思い切り悪キャラにされちゃって、
山形県がNHKに抗議したとか・・本当は家臣にも民にも慕われてたってね。

最上さんのアレコレは後ほど素敵銅像の義光さんを見ながら妄想するとして、
晩年は跡継ぎ問題が起きたりして、次第に病気がちになり、
慶長19年(1614年)1月18日 山形城で亡くなりました。享年69歳。

切なくなる瞬間


「最上家三代の塋域」・・塋域っていうのは墓が建つ領域のことなんだって。
藩祖義光と二代家親、三代義俊の法号と享年が書かれています。

ため息が出る瞬間


奥から家規、中が義俊の墓碑で、手前は明治29年(1896)山形城二ノ丸跡から
発掘された石の卒塔婆・・山形市の重要文化財が並んでいます。

家親は次男だけど、家康の小姓をしていて気に入られていたこともあり、
義光さんは嫡男義康を廃嫡して跡継ぎにしたんだけど、まぁすぐ亡くなったよね(泣)

でもって家規の子、若くして後を継いだ義俊が、これまたなかなか残念な人だから
57万石を取り潰されて1万石の小大名にされ、26歳で亡くなりました。

この後、気の毒すぎる嫡男義康さんのお墓参りにも行く予定(鼻息)

やじうま根性みたいな瞬間


光禅寺には市の指定名勝に指定されている日本庭園もあります。
早朝に行ったけど入り口は普通に開いてたからいつでも見れるのかな?

すがすがしかった瞬間


江戸初期以前のものと言われる小堀遠州流のお庭らしいけど良さわからずw
でもせっかく来たなら見れてよかったし、分からなくても癒された感は大事!


さぁ今日も順調に巡ろう! 次は気の毒な義康さんのお参りよ!!


常念寺にて最上義康のお墓参り〜に続く



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2017.09.17 Sunday 13:33 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長野県〜別所温泉「花屋旅館」

長野県の別所温泉「花屋旅館」に宿泊した時のことを。(2017年8月)



大正時代に建てられた文化財指定された建物が旅館になっているお宿です。



宿に着くとレトロな応接室のような間に通されてウェルカムドリンクをいただきます。



ウェルカムドリンクはリンゴジュースでした。



建物が渡り廊下でつながれている造りで風情があります。
庭も自慢のお宿で四季折々色々な景色が楽しめるようです。









ワタクシは離れの間という内風呂付のお部屋に宿泊。
内玄関を入ってふすまをあけるとすぐこんな感じ。



エアコンまでレトロすぎて、真夏に行ったんだけどききは悪かった・・
扇風機は置いてありましたけどね(^^;) ブルーレイプレイヤーとかもなし。





アメニティとかは潔いほどなしw くしと髭剃り、シャワーキャップだけ
タオルや浴衣と一緒に乱れ箱の中に入っていました。



内風呂。大浴場も2ヶ所あったけど大理石で色合いや雰囲気はこんな感じ。



お食事はとてもおいしかったな。丁寧に作られてる感じで。































朝食は食事処になっているダイニングで頂きます。



朝食は・・夕食に比べると質素というかありきたりというか。
おいしいけれどいまひとつ。なんか物足りない感じですね。



玉子料理は温泉卵、だし巻玉子、目玉焼き(だったかな?)から選びます。



古き良きを大事にしている旅館なので、建物も古いし、今風にりのべしていても
水回りとか古さが気になるところもあるし、古い和風建築特有の匂いがあったり。
アメニティの充実とか最新の設備とかもないので、ココならではの雰囲気が
味わいたいとか、そういうのを楽しめないと良い評価にはならないかも。



2017.09.14 Thursday 22:42 | - | - | 旅館やホテルの忘備録 | 

法泉寺にて武田勝頼のお墓参り

川尻塚信玄火葬塚の後は法泉寺にやってきました。

古刹の風格があった瞬間


シュッとした鐘楼のある山門は江戸時代の寛永14年(1637)に建てられたもの。
しゃちほこがあるって珍しくない? 甲府市の指定文化財なんだそうです。

静まりかえっていた瞬間


法泉寺は元徳二年(1330)に武田家十代信武が夢窓国師を開山として建てたお寺で、
信武の死後は菩提寺とされますが、一時は寺運が衰えてしまいます。
その後、信玄が先祖が開いた寺として手厚く保護し、甲府五山のひとつとしました。

安定感ハンパなかった瞬間


本堂は延宝8年(1680)建立。日本建築ってホントにすごいよね。
夢窓国師坐像とか勝頼公画像、古文書とか貴重なお宝が残されているそうです。

安心する瞬間


本堂の左手に案内板が出ています。コレを見るとフッと力みが抜けます。
奥に見える経蔵も文化財らしいけど、勝頼は関係ないので見忘れましたw

ロックオンの瞬間


案内板の方向を見ると階段の上にお墓があるのがすぐわかる。近くてナイス!
右の木は山桜。勝頼を葬る時に目印として植えたものなんだとか。(何代目かの木)

泣かせる瞬間


法泉寺殿武田勝頼公之墓の標柱と勝頼軍団戦死将士供養塔が立っています。

天目山で自刃した勝頼の首は信長の命で京の六条川にさらされましたが、
不憫に思った法泉寺の快岳禅師が京に行き、首を譲り受けて甲斐に戻ります。
そして本能寺の変により織田軍が撤退した後、山桜を植えて勝頼を葬りました。

お手入れは万端行き届いていた瞬間


法泉寺を勝頼の菩提寺と定めたのは本能寺の変後、甲斐を治めた家康なんですって。
旧家臣も民も、まずは武田領の人心をつかむって目的があったんでしょうね。

ピンと来てないけど合掌の瞬間


左奥にあるのが武田信武の墓。信武さんは甲斐武田氏中興の祖といわれる人。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時に従い、功を挙げて甲斐守護になり、
そこからの信成、信春・・・・・9代後が信玄(信晴)につながっていきます。





さて。次回からは山形攻略シーズン2! 最上だらけなエントリーからw


光禅寺にて最上三代のお墓参り〜に続く



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2017.09.12 Tuesday 15:51 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

武田信玄火葬塚に参拝!

やばいやばい。出陣にブログ書くのが全く追いついてない(*°∀°)=3
少し追いつくため、ちょっと更新頻度あげてみますか(ホント?)



川尻塚のすぐ目の前にある武田信玄火葬塚もついでに再訪しておこっと!

盛り上ってくる瞬間


信玄ゆかりの地で、プラス風林火山や孫子の旗がはためいてると、
条件反射でちょっと「おお〜武田ぁ」って気持ちが高揚するよねw

気持ちの問題だった瞬間


駒場で急逝した信玄の遺体は甲府に運ばれ、正室三条夫人が眠る円光院に近い
土屋右衛門昌次の邸内でひそかに荼毘に附され、後に恵林寺で葬儀が行われました。

土屋家屋敷跡は「摩縁塚」と呼ばれ、人々は恐れて近づかなかったそうですが、
安永8年(1779)、甲府代官中井清太夫が発掘して調査したところ石棺を見つけ、
「法性院機山信玄大居士 天正元年発四月十二日薨」とあったことから、
埋め戻して幕府に届け、墓石を建立して信玄の墓としたんですって。
 
お手入れが行き届いていた瞬間


お寺にありながら放置されてるような扱いの悪い武将の墓もあるのに、
ここは有志の方の手できちんと整備やお手入れが行き届いています。
甲府市指定とか何らかの史跡指定されてないんじゃないかな・・なんで?

ロマンの問題だった瞬間


その「武将が生きた証」を感じるのが武将のお墓参りの醍醐味。
遠く昔、信玄を思い偲んだ人たちが建てたお墓に改めて合掌します!

さーて次は本日の最後、勝頼さんのお参りに向かいますよ(鼻息)


法泉寺にて武田勝頼のお墓参り〜に続く



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2017.09.05 Tuesday 12:20 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

川尻塚にて川尻秀隆の首塚にお参り

大泉寺で武田信虎のお墓参りをした後は、川尻塚に立ち寄ります。

目の前すぎた瞬間。


だいぶ前に信玄火葬塚に来た時に見逃したので、今回はついででリベンジ。
・・てか、ワタクシ目が節穴だったのか? これ見逃すってどうかしてるw

なんだかもう残念だった瞬間


案内板の方向へグラウンド?公園?に向かって進んだ右はしの方に発見!
と思ったらフェンスの存在もアレレだし、「川尻塚」ってのも取ってつけたよう。

意図をはかりかねる瞬間


逆光だけどあえて・・まぁフェンスあるし立地もこんなですよってところを。
フェンス内の史跡って無くはないけど、この殺伐とした感じはちょっとすごいw

どんだけ恨まれたんだ!っていう瞬間


この場所は川尻秀隆の首塚とも、屋敷跡とも伝わっているそう。

川尻秀隆は織田信長が武田討伐の軍を起こした際、戦目付として活躍し、
武田滅亡後は甲斐と信濃諏訪の領主になります。

信長の力を利用して威圧的な支配をしたため、本能寺で信長が殺されると
秀隆に反感を持っていた武田旧家臣や民の攻撃を受け、殺害されました。

圧政の恨みを買った秀隆は埋葬もさかさまに埋められたそうで、
別名「さかさ塚」とも呼ばれるのだとか・・ってどんだけ(*°∀°)=3

マジ怖すぎる瞬間


おまけに碑文には「河尻肥後守」と刻まれてるらしいんだけど、
本当は「肥前守」だという・・わざだよね? 絶対わざとでしょコレ。

恨みって怖いね。てか川尻さん・・・あんたよっぽどだよ(´Д`)

フェンスで囲んでいるのは甲府市教育委員会の配慮なのかもしれませんw



よーし。せっかく目の前にあるから、ついでに信玄の火葬塚もまた見とくかw


武田信玄公火葬塚に参拝!〜に続く。



******

きらっこノートさんで大阪城の記事を紹介していただきました!

行楽シーズン目前!施設行事の参考や利用者さんとの会話のネタにもなるお出掛けスポット特集☆


おわぅ・・もう5年前の話! 昔の読み返すと恥ずかしいね (*°∀°)=3
きらっこノートさん ありがとうございました!



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2017.09.01 Friday 11:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

大泉寺にて武田信虎のお墓参り

東光寺の次は信玄の父信虎が眠る大泉寺にやってきました!

個性的だった瞬間


変わった雰囲気の総門。享保9年(1724)2代藩主柳沢吉里が大和郡山へ転封の際、
柳沢家の菩提寺である永慶寺から移築されたものなんだとか。

大泉寺は大永元年(1521)、信虎が天桂禅師を招いて開山した曹洞宗のお寺で、
法号「大泉寺殿泰雲存康大庵主」に因んで大泉寺とし菩提寺としました。

超ダイジェスト版だった瞬間


大泉寺には武田三代の霊廟があるけど、総門横の標柱は信虎の墓の件。
説明板には信虎の生まれから最期までの人生が十数行で書かれてますw

子の信廉(逍遥軒)が書き残した信虎の肖像画(国重要文化財)も
こちらで保管されているそう。「絹本著色武田信虎像」見たら「ああ!」って。

なかなか広い境内とお見受けした瞬間


総門からずっと続く参道を進みます。緑に囲まれて雰囲気よかったな!


信虎は武田信縄の子として明応3年(1494)石和館に生まれました。
永正4年(1507)、14歳で武田氏18代の家督を継いで国主となると、
武力をもって甲斐を統一。隣国にも進出し、領土を広げます。

しかし嫡子晴信(信玄)と対立。天文10年(1541)駿河に追放されると、
信虎は娘が嫁ぐ今川家に身を寄せて僧形となり、<義元の死後は京へ移って、
一度も帰国することなく、幕府に関わる活動をしたと言います。

コンパクトだった瞬間


境内は広そうだけど、本堂前はスペースがなくて遠目からの写真で。
空襲で消失後、昭和40年になって再建されたもの。武田菱はもれなく!

ちょっと厳かな瞬間


信虎のお墓や武田三代の霊廟は本堂左手。案内があるので安心なタイプw
ただ雰囲気は本堂前までと違って、この辺りからちょっと寂しい感じだな。

ホッとする瞬間


武田三代の御霊廟。孫子の旗が武田ゆかりの地って感じを盛り上げてます。

他の人のブログを見ると閉まっていて入れなかったみたいなのもあって、
いつも見れるのか分からないけど、ワタクシとりあえずホッとしてます。

濃すぎた瞬間


追放した息子と家を滅ぼした孫と三代として並ぶ信虎の心はいかに?
でも何にせよ、戦国○○三代の中では1,2を争うインパクトかとw

まっしぐらすぎた瞬間


ワタクシちょっとミステイク。墓は裏、墓は裏・・・と思ってたら、
うっかり御霊殿の中を覗いてくるのを忘れてしまいました。

角度がむずかった瞬間


御霊殿を囲む塀がきっつきつなので、建物によりそうように墓が。
真ん中が信虎のお墓で、右が信玄、左が勝頼の五輪塔なんだそうです。

ご長寿さんだった瞬間


48歳で追放された後、一度も国に戻ることのなかった信虎でしたが信玄の死後、
天正2年(1574)には子逍遥軒(信廉)が城代を務めていた高遠城に身を寄せ、
孫の勝頼と対面するも、同年3月5日に病没しました。享年82歳。



次男の信繁を溺愛し信玄(信晴)を廃嫡しようとしたとか、
暴君でみんなが世代交代を望んでいたとか・・追放の理由は色々。
でも信虎が圧倒的に悪かったみたいな感じはちょっと気の毒な気も。

ま・・・色々しょうがないよね。ドンマーイ!(合掌中) 



さて。信虎さんを励ました後は、以前に見逃した川尻塚に立ち寄ります。



川尻塚にて川尻秀隆の首塚にお参り〜に続く



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2017.08.25 Friday 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

東光寺にて諏訪頼重と武田義信のお墓参り

甲斐善光寺の後は東光寺に移動して、武田関連メジャーな二人のお墓参り。
ここで自刃した諏訪頼重と、ここで亡くなった信玄の長男義信を勝手に偲びます。

謎めきの古刹だった瞬間


東光寺は臨済宗妙心寺派の寺で、草創は平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光
国家鎮護仏法興隆の祈願所として建立し、興国院と名づけたことに始まるそうです。

鎌倉時代の頃には寺号を東光寺に改めたらしいんだけど、歴史に不明な部分が多くて、
室町時代までの歴代住職すら不明なんだとか Σ(゚Д゚)! ドウナッテンノヨー!

武田めぐりのマストだった瞬間


諸堂が整備されて栄えたのは室町時代、武田家の保護をうけるようになってから。
臨済宗に帰依した武田信玄が開いた「甲府五山」の一つに数えられる名刹です。

圧がハンパなかった瞬間


こちらは織田軍侵攻時の兵火を逃れ、さらに空襲の戦火も逃れたという仏殿。
前にスペースがなくて近くで見ることもあって、やたら重々しすぎなんですけどw

様式的に室町時代のものと考えられていて、国指定重要文化財になっています。
ワタクシは入らなかったけど、中の柱に織田軍が乱入した時の刀傷があるのだとか。

禅寺ぽさ全開だった瞬間


東光寺は仏殿の他、開祖大覚禅師によると言われる庭園が有名だそうです。
時間がなくて見れなかったけど、仏殿前のところでもこの行き届きぷり。

勝手に満足する瞬間


コンクリートのクールな本堂じゃ武田菱があってもそんなグッとは来ないけど、
お寺全体に言い知れぬ品というか、佗・寂なのかな・・とても雰囲気があるのです。

無駄にハッスルする瞬間


時間もないのでさっさと本堂裏手の方にあるお墓に前のめっていきます。
下調べはしていたけど、案内が出てると何の不安もなく進めるからホントいい!!

武将の墓あるあるだった瞬間


階段を上ったところに、武田義信、諏訪頼重と二人のお墓が並んでいました。
ここも前にスペースなさ過ぎて、二つ並んで正面からの写真が撮れなかったんだ。

色々と残念だった瞬間


まずは手前にある武田信玄の長男、義信さんのお墓からお参りします。

義信は信玄と正室三条夫人との間に生まれた長男で、重臣飯富虎昌が傅役となり、
武田の跡取りとして養育されました。15歳で今川家から今川義元の娘を嫁にもらい、
信濃攻略戦などの戦で武功も挙げ、跡継ぎとして家臣の期待も高かったといわれます。

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討死したことにより、信玄が駿河侵攻を決定。
さらに今川との同盟を破棄し、義元の敵織田信長と結んだことで父子関係は悪化。
義信は傅役の虎昌を説いて父、信玄の追放を画策しますが、実行前にことが露見し、
飯富虎昌は自害させられ、義信は謀反を企んだとして東光寺に幽閉されました。

そして幽閉から2年後の永禄10年(1567)10月、義信死去。享年30歳。
自害したとも、病死とも言われ、死因や真相はわからないのだとか。

自害ならやっぱ信玄に命じられちゃった感じなんでしょうかねぇ・・
そもそも謀反なんて大それた話だったのかなってとこも訝しんでみたり。
でもどうにせよ義信さんも信玄には遠く及ばなかったってことだよね。

やっぱり色々と残念だった瞬間


で、お次はこちら。2つ並んだ奥にあるのが諏訪頼重のお墓。

諏訪頼重は信濃諏訪郡の領主。武田信虎の娘禰々(ねね)を正室に迎えて武田との
関係を強化していましたが、天文11年(1542)、父信虎を追放して方針転換した
晴信(信玄)によって桑原城を囲まれます。頼重は抵抗するものの、開城すれば
兵を引くという和議を受け降伏。甲州に送られ、東光寺で自害させられました。

・・・ってさらっと書いちゃうと超つまんないなw 

そもそも晴信(信玄)は妹の嫁ぎ先をむやみに攻めるのはまずいってことで、
同族ながら反頼重派の高遠頼継をけしかけて、桑原城を囲ませるのよね。
で、いい感じのタイミングに出てって、和議を持ちかけて開城降伏させると、
上手いこと言って頼重さんを禰々たちと一緒に甲府に連れてくわけです。

甲府に来たら、正室の禰々はもちろん、生まれたばかりの男児寅王丸や
娘(のちの諏訪御寮人)とは離されて、東光寺に幽閉されてるんだけど、
頼重さんは義理の兄である晴信が悪く扱うはずないって思ってみたいで、
はめられたことに気づかず、当初は高遠頼継を恨みまくっていたとか・・

頼重さん人も育ちもよすぎ (*°∀°)=3

で、扱いの悪さに気づいて不満に思った頃には信玄に自害を命じられ、
弟頼高とともに切腹。諏訪惣領家は滅亡しました。享年27歳。

この辺のくだりは井沢元彦の野望が面白い!

あまりにも感慨深すぎた瞬間


余談だけど、その後、晴信は寅王丸の後見として諏訪を支配することになり、
諏訪頼重の娘、由布姫(所説あり)を側室として、勝頼を生ませています。

そして寅王丸が元服前に亡くなって、諏訪の血を引く勝頼が諏訪家を継ぎ、
さらに長男義信が廃嫡されたことで武田家の後継者となって・・・・・・(遠い目)

いや〜武田の・・いや信玄の黒歴史2つが並んでるって改めてすごいw

インパクト激よわだった瞬間


東光寺には柳沢吉里の男子二人の墓もあります。柳沢家の墓所なんだとか。
吉里は5代将軍家綱の側用人柳沢吉保の嫡子なんだけど更にその子の墓となると・・・
義信さんと頼重さんの墓所よりさらに一段上に上にあるのがアレ〜な感じでした。




さて。次は信玄の父、信虎さんの眠る大泉寺に向かいます!


大泉寺にて武田信虎のお墓参り〜に続く


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2017.08.13 Sunday 10:02 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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