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粟の巣古戦場に出陣!

昨日の人取橋古戦場から今日は粟の巣古戦場に出陣!
史実だと粟の巣で戦ってからの〜人取橋で決戦だけどルートの都合があるしw

人取橋古戦場も見つけづらいというか立ち寄りづらいとこだったけど、
粟の巣古戦場もナビやマップにも出てなくて、辿りつくのに難儀したわ・・

あまりに目印なさすぎだった瞬間


下調べ念入りにして、ここら辺だよって所は地図にピンして目指したのよ。
でも付近の道から分かりづらくて迷った挙句、やーーっと見つけられたの。

満足している瞬間


まぁ苦労して辿りついても、見るべきはこの一角だけなんですけどもw
でも実際にその場に立って、色々好きに思うのが楽しいからいいんだ!

キョロキョロする瞬間


粟の巣古戦場は伊達政宗が畠山義継に捕らわれた父を奪還するため戦った場所。

和睦の礼と称して輝宗の元を訪れた畠山義継は刀を突きつけて拉致。(伊達家談)
急報を受けた政宗が二本松城に逃げ戻ろうとする畠山氏に追いつくと、
人質の父輝宗もろとも義継を射殺した・・のがこの辺りってことね。

熟読の瞬間


19歳の政宗がグイグイ勢力伸ばして行く中で二本松城も標的となり、
交渉の末、服属する形で和睦したけど畠山義継は父輝宗の元を訪れ・・・と
この粟の巣の変に至る背景やら流れやらが細かく書かれています。

グーグルマップを確認する瞬間


この先を少し行けば阿武隈川があり、それを渡れば二本松城はすぐ。
畠山さんは残念ながら持ってなかったんだね・・あと少しってところでね。
ただ二本松城に帰れてれば形勢逆転したかどうかは怪しいと思うけど。

無念に違いなかった瞬間


奥にあるのは畠山家臣の陣没碑。義継に従っていた23人の家臣は全員、
壮絶な討死を遂げたそうな・・後で主従の墓参りに称念寺に行くつもり。

拉致って逃げるとか無謀すぎてそれだけ聞くとどうかしてると思うけど、
主従揃って気が狂ったわけでもなし。その挙動に至るまで色々考えて、
そしてそこまでしても守りたい名門の意地があったんだと思うよね。

気付くのが遅すぎた瞬間


すぐ後ろに東北新幹線が走ってます。近くまで来たら線路を目途に
さまよえばよかったわw でもホント来られてよかった!


よし、じゃあ次はこの流れで畠山主従の墓参りに行ってみよっか!


称念寺にて畠山義継のお墓参り〜に続く。




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2017.03.26 Sunday 11:11 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

人取橋古戦場に出陣!

三春町の龍穏院から郡山に向かう途中、人取橋古戦場に立ち寄ります。

この古戦場がまたコレ分かりづらいというか、すごい来にくいというか・・
下調べで分かっちゃいたけど、現場に来たら思った以上の手ごわさだったよ。

気合が必要だった瞬間


ナビの通りに国道を走ってると「あ!」と思った時はもう通り過ぎてたw

えっと・・入口なかったよね? 国道から入って迂回しちゃう感じかな?
と思って無駄にうろついた結果、国道から強引に突入しかなかった(*°∀°)=3

とにかく気合が必要だった瞬間


古戦場碑は畑の中にぽつんとある。車なら停めづらいだけで済むけど、
車じゃなかったら交通の便の悪そうだし、これだけ見に来るのは辛いよね。

こじんまりしてた瞬間


伊達政宗がお亡くなりになってたかも位の大激戦だけどコンパクトな感じで。
でも愛想も素っ気もなかった摺上原古戦場に比べたら全然ちゃんとしてるけど!

オールスター総進撃だった瞬間


人取橋の戦いは、畠山家と仲間たち3万VS伊達家7千が戦った戦。

事の発端は伊達政宗に和睦を申し入れた二本松城主畠山義継が、和睦成立後、
お礼と称して政宗の父、輝宗を訪れ、刀を突き付けて拉致しようとしたこと。

急報を受けた政宗は、輝宗を馬に乗せて二本松城に逃げようとする畠山義継に
粟の巣で追いつき鉄砲隊で取り囲むものの、父を人質に取られて手も足も出ない。
すると輝宗が「自分もろとも撃て!」と言い、政宗は涙を飲んで父を撃ち・・

ってこの辺のお話はもっと色々大人の事情みたいのがあるんだけど
ややこしいから今回はとりあえず置いといてw

政宗は「父の弔い合戦」という大義名分で二本松城に攻め込みますが、
畠山家は義継の跡を継いだ国王丸を守って籠城戦に持ち込みます。
そこに伊達家の台頭を危ぶむ近隣諸家が次々と味方として集った結果、
畠山軍団3万VS伊達家7千での最終決戦となりました。

佐竹、葦名、二階堂、石川、白川、大内・・政宗やっちゃったね(*°∀°)=3

死亡フラグ立ちかけた瞬間


政宗は人取橋付近で畠山軍団を迎え撃ちますが圧倒的な兵力差に押され、
自らも槍をふるって戦い、銃弾5発受けるほどの危機的状態に陥ります。

政宗を救うため、老将鬼庭左月斉が60騎を連れて殿を務め、壮絶な討死。
政宗の従弟、伊達実成も踏みとどまり、政宗が逃げる時を稼ぎました。
政宗は無事に本宮城に入り、日没を迎えたところでこの日の戦いは終わります。

政宗にしたら、壊滅は免れたけど明日の戦いをどうしようか・・ってとこ。
でもその夜、軍団の主力である佐竹家が突然、撤退を始めてしまうんです。
手薄になってる本拠地の水戸城が危ないって情報が入ったからって (*°∀°)=3

主力部隊の突然の撤退で、圧倒的優位にありながら畠山軍団の士気は落ち、
葦名が抜け、石川が去り・・で勝敗は分からないまま戦はとりあえず終了〜

カミカゼか。政宗もってたんだねw

泣けちゃう瞬間


鬼庭佐月斉の慰霊碑が建っています。この戦に出た時の佐月斉さん73歳!

老体には鎧も馬もキツイからって黄色い頭巾をかぶって輿に乗り、
手勢60騎を率いて最後まで奮戦して、200も敵の首を取ったんだって!
鎧もなくて傷だらけの老体に鞭打ってね・・斎藤さんと一緒。こういうの弱ぃぃ。

ちなみにこの碑は文政11年(1828)子孫が建てたものなんだそうです。

勝手に納得する瞬間


鬼庭さんの碑の横には伊達家の戦死者を合葬したという功士壇もありました。


人取橋の戦いの時の政宗さん19歳。血気盛んでグイグイ押しの一手ばかり。
でも痛い目を見て学習し、知恵も腹芸も使う謀将になったんだな。きっと。


今日のところはこれで終了〜明日は粟の巣古戦場からスタートします!


粟の巣古戦場に出陣!〜に続く



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2017.03.20 Monday 09:39 | comments(2) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

龍穏院にて安東愛季のお墓参り

高乾院の秋田家廟所の次は三春町ラスト! 龍穏院へ。

力を振り絞る瞬間


山門の横から駐車場に入って車を停め、もう最後の方なんでこの期に及んで
わずかな体力をけちらず、ちゃんと山門から入るため戻ってきましたw

住宅街の高台にあった瞬間


龍穏院も秋田家の菩提寺。こちらも高乾院と同じく秋田家が三春入封の時、
前領の常陸から移ってきたのだとか。宗派は違って曹洞宗のお寺だそうです。

本堂が豪壮で美しかった瞬間


この本堂は天明5年(1785)の大火の後に再建されたものなんだって。
江戸期は藩主菩提寺として寺の多い三春でもひときわだったってのが感じられる。

とりわけ案内とかはなかった瞬間


安東愛季と8代さんのお墓は本堂左手の方・・ちょっと分かりづらかったような。
墓域の少し高くなった所に「秋田家尊霊塔」と書かれた柱標を見つけて駆け寄る。

野獣系だった瞬間


左のが尊霊塔、真ん中が安東愛季で右が8代長季(謐季)の墓と聞いておりますが・・

安東愛季は「斗星の北天に在るにさも似たり」と評された出羽の戦国大名。
分裂していた一族を統一して勢力を拡大し、早くから信長や秀吉にも誼を通じる
政治感覚で安東氏の最盛期を築きましたが、天正15年(1587)10月2日、
角館城主戸沢盛安との戦の際、仙北淀川陣中にて病死。享年45歳。

フロイスさんによると、愛ちゃんは野獣の皮を着て全身毛むくじゃら髭だらけ!!
イケメンとか全然思ってないけど何か調子狂うわw ワイルド過ぎて(*°∀°)=3

首をかしげる瞬間


そういや8代さんだけ何で龍穏院なのかな〜って帰ってきてから調べたら、
8代さんが亡くなった時に龍穏院の住職がおらず福聚寺が院代を務めてた上、
そもそも藩の重役が高乾院とか龍穏院の位置づけわかってなかったもんだから、
龍穏院に墓所を設けてしまったんだとか・・・ちょw  8代さん享年34歳。

その後、何代も藩主の葬儀をしながら8代さんだけそのままってのも謎いw


これで三春は終了!宿泊先の郡山に向かう途中、ちと古戦場に寄ってきます。


人取橋古戦場に出陣!〜に続く




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2017.03.13 Monday 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

高乾院にて秋田家廟所に参拝

福聚寺で田村三代のお墓参りをした後は秋田家廟所のある高乾院へ!

三春のメインストリートから少しだけ入ったところにある高乾院。
三春町はたくさんあるお寺の案内が分かりやすいので助かります。

夕暮れが近づく瞬間


鎌倉時代の創建で正保2年(1645)、秋田家の入封時ここに建てられたそうな。
高乾院の名は初代三春藩主俊季の父、実季の法名。秋田家の菩提寺です。

想像して勝手にビビる瞬間


もろモダーン風じゃないから違和感ないけど新しい綺麗な本堂です。
戊辰戦争の時には野戦病院に使われたりしたんだって・・

幻想的に違いない瞬間


こちらのお寺はお墓参りの方も誰も最後まで全然見かけなかったんだけど、
お盆中なので夜は何かやるのかしら。キャンドルが並べられていました。

鬱蒼としている瞬間


秋田家廟所は本堂の左手の方にある石段を上ったところにあります。

秋田氏は元は安東氏と名乗る津軽の豪族で、室町期に南部氏の侵入から逃れて、
秋田郡を拠点とし、戦国期に安東愛季が比内地方を支配下に置いて勢力拡大し、
戦国大名として台頭。愛季の子、実季の時に秋田城介を号して秋田姓を名乗り、
小田原に参陣して秀吉に本領5万2千石を安堵されました。

しかし関ヶ原では佐竹氏処分の余波を受け、常陸宍戸5万5千石へ国替えとなり、
さらに正保2年(1645)三春5万石に移されると以降、明治維新まで存続しました。

結界感ハンパない瞬間


石段を上った正面には「秋田家累代の墓」と刻まれた墓石がありました。
真夏の西日バリバリの時間帯なのに、木々が鬱蒼としすぎてこの暗さw

お手入れが行き届いている瞬間


こちらは最後の藩主映季の養子となった重季が昭和になって建立したもので、
当時、雑司ヶ谷にあった秋田家墓所を改装し、自身もここに眠っているそうです。

こじんまりする瞬間


累代の墓の左手には位牌堂。大名廟所独特の厳か〜な感じがあるね。
こちらの廟所は8代長季以外の藩主と婦女子が眠っているそうです。

ちょぴり上の空かもだった瞬間


位牌堂の反対側にはこんな感じに墓石が置かれてるけど・・どれが誰かは不明w
なんで8代だけ別なのかなって首をかしげながら、お参って廟所を後にします。


そして三春のラストは龍穏院で安東愛季とボッチの8代さんのお墓参りをします!



龍穏院にて安東愛季のお墓参り〜に続く




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2017.03.05 Sunday 08:38 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

福聚寺にて田村氏三代のお墓参り

三春城を降りて三春町の中にある福聚寺へ。田村氏のお墓参りをします。
三春って町そのものの佇まいが何だかかわいくて、ちょっとほっこりするw

狭まめだった瞬間


三春城から車ならほどなく。お寺は通りから入った狭い生活道路の先にあるみたい。
こんな短い距離で2台すれ違ったけど、2台ともデカイ車だったのでぎりぎりw

危うく満車だった瞬間


山門の手前と向こう側に駐車場があって多く停められるのに結構こみこみ。
お墓参りの人が多かったので、邪魔にならないようダッシュで行ってきます。

モダーン風だった瞬間


福聚寺は臨済宗のお寺で、暦応2年(1339) 田村輝定の開基により安積郡福原に建立され、
永正元年(1504) 田村義顕が三春城に移る時、現在地に移転してきたんだとか。
住職は芥川賞作家の玄侑宗久。本堂から法要の声が聞こえてたけど中にいたのかな。

ホッとする瞬間


田村家の墓所はお寺の奥。本堂の左手の方に案内が出ていました。
念入りにチェックしてから来てるけど案内があるとホント安心する。

場違い過ぎた瞬間


案内のところから伸びる通路を通ってお堂の方に登っていきます。
一般のお墓ゾーンなのであちこちからお線香の香りが漂ってきます。

分かりやすかった瞬間


つきあたりまで登ると、一段高くなった所に田村氏三代の墓がありました。
田村三代というのは三春に移って戦国期を生きた義顕・隆顕・清顕のこと。

お手入れが行き届いていた瞬間


左が守山から三春城に居を移して戦国大名田村氏の名乗りを上げた義顕。
中が伊達稙宗の娘を娶って葦名や佐竹との戦いに明け暮れた隆顕。
右が1人娘の愛姫を嫁がせて伊達と同盟を強化し勢力を広げた清顕のお墓。

新しかった瞬間


三代の戒名と没年が彫られた碑。義顕 永禄4年(1561)、隆顕 天正2年(1574)、
そして清顕が天正14年(1586)没。戒名は長雲寺殿前光録大夫空山松公大居士。

無常感な瞬間


清顕さん人型だけに哀愁やら苦悩やら?色んなものが漂ってる気がする(*°∀°)=3

男子がなかった清顕さんは政宗と愛姫の間に男子が生まれたら田村を継がせるよう
遺言するんだけど、それまでどうするかって清顕の妻の実家の相馬氏と、
愛姫を娶って同盟を結ぶ伊達氏で主導権争いが起きて家中が二分される騒ぎに。

結局、政宗が三春に乗り込んで清顕の甥、宗顕を跡継ぎとして落ち着くんだけど、
宗顕は伊達の血も引いていることから、気付けば伊達家所属のようになってしまい、
挙句、小田原に参陣するなと命令を聞いたばかりに改易される後の祭り・・つらっ!

智勇を絞って歴代最大勢力にまでしたのにね・・まぁドンマイ!と思って合掌!


次は幕末まで続いた三春藩5万石、秋田家歴代のお墓参りに向かいます。


高乾院にて秋田家廟所に参拝〜に続く




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2017.02.26 Sunday 11:23 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

三春城に登城!

土津神社から少し走って田村郡三春町に移動してきました。
三春城や田村氏墓所の他もちょいちょい見るところがあるので忙しいよ!

三春城に行く前にまずは三春小学校へ立ち寄っておきます。

何だかかわいい佇まいだった瞬間


18世紀後半に7代藩主秋田倩季によって設けられた藩講所の表門を移築した校門。
倩季の筆による明徳堂の扁額を掲げていることから「明徳門」と呼ばれています。

とにかく体力をケチる瞬間


明徳門をくぐって夏休みで誰もいない校庭へ。ここは当時藩主の屋敷だったって。
校舎の後ろに見えてる「こんもり」が三春城跡。車でチャッと登っちゃおう!

ぐいぐい行く瞬間


三春小学校のすぐ先に登城口があって、車で駐車場のある二の門跡まで登れます。
三春城って近世に改修された部分もかなりあって縄張り図が分かりづらい!
ワタクシは山頂にある中世の遺構が見れればいいので、車で登城が正解ですw

あやうくスルーするとこだった瞬間


駐車場の脇には「愛姫 生誕の地」の碑。愛姫は三春城主田村清顕の1人娘。
政略結婚で12歳で伊達政宗に嫁いで以来、57年も寄り添った才色兼備の人。
五郎八姫や2代忠宗を産んでいます。メゴちゃんは超かわいかったんだって。

速攻で萎えかけてた瞬間


さて。本丸に向けて登っていきます。光って見づらいけどつづら折りになってて。
著しく体力がないワタクシには暑い中、登りが続くのが一番きついけど頑張る・・

勝手に予想する瞬間


ハァハァしながら揚土門跡。詳しい説明がないから詳細はわからないけど
数ある門の中でも大事な所だったんだろうなと思いながら息切れしていますw

さらに登る瞬間


門があった所・・名前からして中世の頃は土を盛った門だったのかな?
暑くてきついけど、ヤブ蚊とか変な虫がいないのがホントに救い。

やたら時間がかかる瞬間


少し登って次は三之門跡。分かりづらい図を見るにもう少しで本丸のはず!!
とか言いながら、ワタクシはもう死にそうで木陰で休憩しましたけどもw

とにかくもう登らなくてよさそうだった瞬間


やっと大門跡に着いた! 本丸のように思うけど実はまだ本丸ではなくて、
縄張り図見ると本丸下段とか二の丸とか・・何かちょっとわかりづらいの。

ロックオンの瞬間


少し先に目をやるとこんもりした場所があって、案内板と城址碑が見えます。
下段に対して上段と言うのかわからないけど、とにかくあの部分が本丸です!!

ややこしかった瞬間


さっさと木陰の本丸に行かなきゃ焦げるのに、脇見したら見えたので来てみた。
下段じゃなくて二の丸跡って書いてあるね・・・まぁこの際どっちでもいいかw

木陰がありがたい瞬間


フーフー言いながら本丸前にきました。案内板と城址碑が建っています。
案内は三春城跡ですが、城址碑には「舞鶴城跡」の別名が彫られています。

無理だわコレと思った瞬間


城址碑を進んでいくと本丸虎口・・から見える奥の方は草ボーボー!!

三春城は永世元年(1504)築城と伝えられ、坂上田村麻呂の子孫と言われる
田村氏が居城として勢力を広げました。戦国期になって葦名氏や佐竹氏と争うと
1人娘を伊達政宗に嫁がせて同盟を結び、田村家の存続を図ります。
しかし秀吉の小田原攻めに政宗の命で参陣しなかった事から改易されると、
会津に入った蒲生氏や加藤氏の支配を経て、江戸時代に松下氏が入封。
三春藩となり城も改修されました。正保2年(1645)秋田俊季が入ると
以降、三春藩5万石として11代続いて幕末を迎えました。

ジャングルだった瞬間
石垣もあるけど見えない

ボーボーの中に本丸の標柱・・石垣も残ってるのにまるで見えない(*°∀°)=3
ありがたい砂利が敷かれた通路も虎口からここまで。草を踏みしめて進むよ・・

秋田色だった瞬間


本丸にある天守台的なのは秋田氏を祀ろうとした基壇なんだって。
秋田氏の慰霊碑があったらしいんだけどヤブ過ぎて探せなかった。

春秋がおすすめだった瞬間


大広間跡。ベンチとか置いてあるんだけど草に埋もれてたどり着けないし、
山城だからホントは三春の町が見渡せるはずなんだけど見晴らしも全然ダメ。
なのでもう降りますw 近世に造られた二の丸は公園風だし別にいいかなって。


ワタクシ的には田村氏の方が印象強いんだけど改易されたから影薄い(*°∀°)=3

一人娘を嫁に出して伊達と同盟したはずが、気づけば服属したみたいになり、
行くなと言われて守ったら、言った本人はちゃっかり小田原参陣してたっていう。
結果、はめられたみたいになって改易された田村さん・・役者が違ったんだな・・('A`)

愛姫(陽徳院)もこんな断絶の仕方だから心を痛めていたんだろうね。
夫の政宗や子の忠宗に度々再興を懇願したそうで、後に忠宗の三男宗良が
岩沼3万石を与えられ田村家を継ぎ、子孫は一関藩として維新を迎えました。


さて。ダッシュで山を下りたらまずは田村氏三代のお墓参りに行くよ!


福聚寺にて田村氏三代のお墓参り〜に続く




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2017.02.18 Saturday 17:08 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(福島県) | 

土津神社にて保科正之のお墓参り

猪苗代城の次は近くの土津神社で保科正之のお墓参り!土津は「はにつ」と読みます。

人っ子一人いなかった瞬間


目の前に駐車場があるけど1台もなく、人影もまったくありゃしない!
気兼ねなく見られていいけど真夏の炎天下。もたもたしてると死んでしまう。

白い鳥居はくぐれなかった瞬間


目当ては奥の院にある保科さんのお墓なんだけど暑いから車で行く作戦なので、
焼けつく日差しにやられないようにして、速攻で境内もちょっとだけ見ておく。

時短で超めがけてく瞬間


はい、こちら見どころの「亀石」。保科正之公を祀った土津霊神之碑です。
高さ7.3m、重さ30トンもあるんだって!(と言いながらそんなに興味ないw)

保科さんの事績を最も重視した大学者山崎闇斎先生が心血を注いで綴った大文章で
字数1943文字、日本最大のものである・・っていう説明がありました。

何となく雰囲気を読むのが大事だった瞬間


東照大権現之孫でである源中将は・・・三代将軍家光の弟で四代将軍家綱の叔父だよ
的なところから高遠城主だったアレコレなんかが書かれているのが読めますw

元総理の植樹などもあった瞬間


せっかくなのでホントにちょろっとだけ拝殿の方も行っておきます。
参拝者どころか神社の人影すらないけど有名なところなんですよ(*°∀°)=3

構図が悪すぎた瞬間


拝殿でチャチャっとお参りをしたら、後ろの本殿チラ見するの忘れてしまったw

土津神社は猪苗代湖が一望できるこの場所に葬ってほしいという保科さんの希望で、
延宝3年(1675)造営されました。創建当初は東照宮と比べられるほどだったらしいけど、
戊辰戦争でほとんどの建物を焼失。現在の社は明治13年に建てられたものなのだとか。

ありがたくいただいた瞬間


拝殿の前にはホコリかぶったりしてない綺麗なパンフが置かれています。

保科正之は徳川二代将軍秀忠が乳母の侍女「お静」に生ませた四男ですが、
正室お江与への遠慮から実子と認められず、見性院(信玄の次女)に預けられ、
7歳の時に旧武田家臣の高遠藩主、保科正光の養嗣子となりました。
後に家光に実弟と認められ会津23万石となり、家光の臨終にあたっては
幼い四代将軍家綱の後見として善政を敷きました。

グイグイ押してた瞬間


高遠城と同じく会津でも「名君保科正之公」のドラマ化を熱望! 
分かるよ分かる。けど1年やるには何となく地味じゃ・・(*°∀°)=3

横着する瞬間


境内を見終わったらメインの奥の院まで行くんだけど、歩くと10分弱くらい?
ここに載ってないけど参道の右に迂回する道があるので一旦駐車場に戻ります。

遠すぎた瞬間


ちなみに奥の院への参道はこんな感じ・・・なんか遠っ!! 
木陰にはなってるけどやっぱ暑いしね。先もあるので体力は温存よ。

乗り付ける瞬間


ダッシュで駐車場に戻り、車で楽々♪ 奥の院の脇に横付けしたりましたw
数台くらい余裕で車をとめられるスペースもあるので全然問題なかったし!

雰囲気がある瞬間


車で来ると奥の院までアッという間。横から入って本来の参道に合流できます。
杉木立に囲まれて廟所の前だけぽっかり光が当たった感じは遠目にもとても厳か。

まぶしすぎた瞬間


華美な装飾も凝った造作もない門が保科さんらしいのかなと思ったり。
聞いてる人となりで東照宮的なきらめき門が建ってたらちょっと引くw

紋どころが目に入る瞬間


正之さんは保科だったけど、三代正容が跡を継いだ時に幕府から松平姓と
葵の紋を与えられて親藩になったので、これは後年つけられたんでしょう。

インパクトがあった瞬間


中には入れないので門の横の方の低い柵越しに墓石と鎮石を見ます。
手前にあるのが「会津中将源君之墓」と刻まれたかなり大きな墓石。

保科さんは寛文12年(1632)12月18日、江戸において62歳で亡くなりますが、
「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」という遺言に従い、
2代藩主正経が猪苗代湖が一望できるこの場所に墳墓を造営しました。

さらにインパクト大だった瞬間


奥には円墳の上の八角形の鎮石があります。当時は小屋を建てて棺を置き、
葬儀後に円墳を作って石を置いたそうな。「土津神墳鎮石」っと刻まれてます。

中には入れないけど門の外からちゃんとお参りしておきました。


さぁさぁ夏の日は長い! 次はちょっと走って三春に移動します!


三春城に登城!〜に続く



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2017.02.11 Saturday 16:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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