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古長禅寺にて大井夫人のお墓参り

諸角さんの次は、信玄ママン大井夫人のお墓参りにやってきました!

静かな佇まいだった瞬間


勝手に大きいお寺と思い込んでたけど、静かな通りにひっそりとある感じで。
アピールも右の塀にただ「大井夫人墓所」って書いてあるだけの控えめさ。

古刹の風格だった瞬間


門をくぐるとこじんまりした品のある庭園があって、池に沿ってまわると本堂。
古長禅寺は正和5年(1316)に夢窓国師が創建した臨済宗のお寺です。

英才教育だった瞬間


本堂はモダンで味気ないけど、少しの間、しみじみと庭を眺めてみたりした。

このお寺は子供の頃の信玄が母の大井夫人に連れられて、岐秀禅師に学びに
来てたってこともあり、夫人のお墓参り以外にもどうしても来たかったところ。

濃ゆい 晴信少年(信玄)もお勉強の合間に夢想国師の庭を眺めたかな。

岐秀禅師は尾張の瑞泉寺から、大井夫人がわざわざ招いたほどの人。
学問や兵法を教わった信玄は39歳で出家した時も岐秀を導師としています。
信玄にとってはすごい影響を受けた偉大な師。ママン大井夫人やるぅ!!

即ロックオンだった瞬間


さて大井夫人のお墓へ・・・案内とかは出てないけど今回はすぐ気づいたw
キョロった瞬間、すき間からそれらしきのが見えたからね。本堂右進みます!

前のめる瞬間


くぐるとすぐ目の前。大井夫人のお寺について書かれた説明板も建っています。

大井夫人は明応6年(1497)、甲斐西郡の国人大井信達の長女として生まれ、
永正12年(1515)、政略結婚によって国主武田信虎の元に嫁ぎました。
晴信、信繁、信廉の生母となり、躑躅ヶ崎館の北曲輪に暮らしていましたが、
天文21年(1552)5月7日、55歳で亡くなると、岐秀禅師によって葬られました。

母子の情愛を感じる瞬間


大井夫人は信玄に追放されて駿河に退隠する夫の信虎にはついていかず、
剃髪して躑躅ヶ崎館に暮らしたんだって。間違いなく息子を取ったかとw

賢母に合掌の瞬間


信玄は後に、夫人が深く帰依した岐秀禅師を開山として甲府に長禅寺を建立。
母の菩提寺としたため、こちらは以降、古長禅寺と改称されたのだとか。

息子にいい教育を受けさせるため甲府から連れて通って(ここ南アルプス市)、
生涯、息子のそばに寄り添ったママンよ。信玄もママン思いな印象あるものね。

母は偉大だった瞬間


大井夫人の辞世の句も刻まれていました。

"春は花 秋はもみじの色いろも 日かずつもりてちらばそのまま"

信玄の弟、逍遥軒(信廉)も「武田信虎夫人像」と母を描いた絵をを残しているし、
息子たちを思う慈愛に満ちた優しく賢いお母さんだったでしょうね。

やじうま根性だった瞬間


こちらは古長禅寺の前にある国指定天然記念物のビャクシン。樹齢700年(*°∀°)=3
開山当時、夢想国師が手植えしたとか・・すごいなって思ってとりあえず見といたw



さて次は甲府市内に戻る通りがかりに、浅利与一の墓と銅像を見に行きます。


浅利与一のお墓参りと銅像拝見!〜に続く




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2018.01.19 Friday 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

慈照寺にて諸角豊後守のお墓参り

長盛院で土屋昌恒さんのお参りをした後も、またまた武田忠臣のお墓へ。

静かな佇まいだった瞬間


慈照寺は創建は不明ながら古くは真言宗で、延徳元年(1489)真翁宗見和尚が
再興して曹洞宗に改宗。武田氏一門の諸角豊後守昌清が開基と伝えられています。

古刹の風情漂う瞬間


山門は嘉永16年(1639)に建てられたもので山梨県の指定文化財になっています。
桃山時代の形をよく江戸初期に伝えて建物の均衡も取れた貴重なものなんですって。

素敵な境内だった瞬間


本堂を中心に庭園、開山堂、庫院、鐘楼とコンパクトにそろって超いい雰囲気!
武田、徳川の保護が厚かったこともあって重要古文書を多く保存しているそう。

確かに貴重だった瞬間


梵鐘は正保4年(1647)に奉納されたもので、由緒ある貴重な文化財として
太平洋戦争時の金属供出を免除され、当時のものが残ってるんですって!

いそいそと裏に回る瞬間


さて諸角さんのお墓へ・・本堂の裏の方って調べてたから見つけられたけど、
案内は全然見かけないから、予習してなかったらきっと泣いてたな(*°∀°)=3 

かけよる瞬間


お墓は階段を上った先の正面。ここに来れれば案内がなくてもすぐ分かる!
時期は分からないけど、地元の有志の方によって建立されたものなのだとか。

念入りに偲ぶ瞬間


諸角豊後守昌清(虎定)は武田信虎信玄と2代に仕えた譜代の武将。
信玄と信繁にとっては大叔父にあたり、信繁が幼少期には守役を務め、
家老としても武田家を支えました。永禄4年(1561)第四次川中島の合戦では
81歳の高齢で出陣。本陣右翼を担って上杉の猛攻から信玄を守りますが、
信繁が壮絶な討死すると、わずかな手勢で敵陣に切り込んで討死しました。

涙がこぼれちゃいそうな瞬間


信繁が討たれたと聞くと怒って突撃していったんだって・・諸角さん泣ける。
斎藤実盛さんとか鬼庭佐月斎さまとか・・おじいに生き様見せられるとマジ弱いわぁぁ。



さて、涙を拭いて・・・次は信玄ママンのお墓参りに行きます!


古長禅寺にて大井夫人のお墓参り〜に続く



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2018.01.11 Thursday 14:56 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長盛院にて土屋昌恒のお墓参り

天澤寺で飯富・山県兄弟のお参りをした後は、次も武田軍団から土屋昌恒のお墓へ!

通り過ぎそうだった瞬間


タイトルは「長盛院にて・・」としてますが、お墓は敷地内じゃないんだよね。
ストリートビューで確認してから行ったけど、一瞬、見逃しそうになったわw

当時はここも敷地だったらしいけど、今の長盛院は道を進んだ先の右側。
お寺は金丸氏館跡でもあり、土屋昌恒の出身なのでこちらに葬られたそうです。

自分都合の瞬間


そして「土屋惣藏の墓」とあるけどピンと来ないから、ここでは土屋昌恒として。
天目山での勝頼最期の時を稼いだ大忠臣、あの片手斬りの土屋さんです!!

きびきびしていた瞬間


車は通りから入ってちょっと空いたスペースに停めさせてもらってダッシュ!
一角だけ木の茂った中にズンズン進んでいくと、お墓を示す標柱がありまして。

行き届いていた瞬間


簡単な囲いの中にお墓がありました。通りっ端の変な場所にあるけど、
草ボーボーでヤブ化してるわけでもなく、定期的にお手入れされている様子。

愛されていた瞬間


こちらが土屋さんのお墓。墓石自体は地元の方が建立した現代のものだけど、
元は供養塔があったというから昔からきっと誇りに思われていたんだろうね。

かっこよすぎた瞬間


土屋昌恒(惣藏)は金丸筑前守虎義の五男で、15歳の時に武勇を見込まれ、
武田海賊衆、土屋貞綱の養子となります。しかし天正3年(1575)長篠の戦い
金丸の跡を継いで土屋の名跡を与えられた兄、昌次と養父貞綱が討死すると、
両土屋家を継承し、勝頼の側近として数多くの戦い参加しました。

天正10年(1582)3月、織田・徳川の甲州征伐では新府城を落ちる勝頼に最期まで従い、
狭い崖に立ち、片手を蔦に絡ませて奮戦して果てました。享年27歳。

昌恒の戦いぶりは織田・徳川方からも「比類なき働き」と称賛されます。
家康は後に昌恒の遺児を召し出して忠の字を与え、秀忠の小姓としました。
慶長7年(1602)土屋忠直は上総久留里2万石の大名となっています。

ついでに合掌する瞬間


隣にあるのは金丸伊賀守光信・・土屋昌恒の曾祖父のお墓なんですって。
金丸氏は甲斐武田氏14代の武田信重の子光重が途絶えていた金丸氏を継いで
この地を治めたのが始まりで、譜代衆として代々の武田家を支えてきた家。

押しかける瞬間


お墓を後にして、すぐ先にある長盛院にも立ち寄っておきました。
金丸伊賀守光信が建立したお寺で、一帯は金丸氏館でもありました。

てっとりばやく納得する瞬間


何も調べてなかったから居館跡の遺構のアレコレは探せなかったけど、
本堂の裏を見ると、コレ土塁跡だよねってのがめぐってるのは見れて。

やる気を感じる瞬間


道路から急坂を上ったお寺の入り口に立つと、思った以上に高台にあるのね。
居館ってなってるけど、戦いを意識した武闘派な感じだったのかもしれない!



さて。山県さん→土屋さんの次も、武田の勇将をお参りに行きますよ!!



慈照寺にて諸角豊後守のお墓参り〜に続く




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2018.01.05 Friday 17:10 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

天澤寺にて飯富虎昌と山県昌景のお墓参り

あいかわらず遅れてるけど、2017年初夏の山梨攻略シーズン? (*°∀°)=3

攻略リストにありながら、コース取りとかの都合で後回しにしてたトコ。
今回は根こそぎかっさらって、山梨攻略は一旦区切りにしようという鼻息w

のっけから鼻息荒めの瞬間


まずは天澤寺から。飯富虎昌と山県昌景のお墓参りにずっと来たかったの。

天澤寺は文明4年(1472)、武田家重臣としてこの地を支配していた
飯富兵部少輔虎昌が鷹岳宗俊和尚を招いて開山した曹洞宗のお寺です。

虎昌の死後、弟の山県三郎兵衛昌景が中興して武田家の庇護を受け、
武田家滅亡後は甲斐を有した徳川家康により寺領を安堵されました。

圧がじわじわ来る瞬間


参道を歩いて実際に見上げると、写真よりもっと重厚で古びた感じがするんだよ。

建築年代は不明だけど、山門建立の寄付金に関する宝暦3年(1753)の史料が残ってたり、
山門の形式からも江戸時代後期初めの建築と考えられるという説明がありました。

味わいを通りすぎていた瞬間


山門の向かって左には愛染明王サマ。山門が出来た後に安置されたもの。
ヒノキの寄木造で、当時は分厚く胡粉地(白い顔料)で覆われた上に、
唐草などの模様で彩色されてたらしいけど、今は地が見えて苔もはえて・・。

カッサカサだった瞬間


向かって右の摩利支天サマ。褪せまくりだけど彩色の名残は少しあるね。
まぁまぁ傷んでるけど、でも2体とも守ってる感はあってかっこよさめだったな。

きょろきょろする瞬間


山門をくぐるとすぐ本堂。コンパクトな境内だけどお手入れが行き届いてキレイ!
屋根には飯富虎昌の死後、寺を中興した山県昌景の桔梗紋が。山門にもついてた!

ファインプレーの瞬間


と思って何気なく山門を振りむいて見上げたら・・あらヤダ奥さん武田菱よ!
山門の裏側だけ武田の紋になっているようです。どうでもいいけどナイス気づきw

キョロりまくる瞬間


墓所へは本堂の左手から一度、境内を出て田んぼの中を通って行くんだけど、
一瞬、「え・・墓ドコ?? 何これ見つけられんの??」と心配になる風景。

ひと安心の瞬間


でも、とにかく田んぼの中の1本道を進んだら、ありましたよ案内板が!
こういう綺麗の案内がある所は、お墓そのものもすぐ見つかるパティーン。

かけよる瞬間


墓域入ってほどなく。めっちゃキレイで雰囲気が違うからすぐわかるやつw
ピカピカの顕彰碑は大河ドラマで武田信玄やった時に建立されたそうです。

胸が熱くなる瞬間


顕彰碑の隣には2人のことが刻まれた「飯富山形両将顕彰の記」もあります。

飯富虎昌は武田譜代の家臣として信虎、信玄に仕えた二十四将のひとり。
武具の全てを赤に染めた「赤備え」として騎馬軍を率いる勇猛な武将でした。

宿老として信玄からの信頼も厚く、嫡男義信が生まれると傅役となりますが、
義信が信玄の追放を画策し事が露見すると、全ての責任を負って自害しました。享年62歳。

虎昌の跡は弟の昌景が継ぐことを許されますが、飯富の名を嫌って、
信虎の代に途絶えていた甲斐の名族「山県」の名跡を名乗りました。

山県昌景は兄虎昌の赤備えを引継いで信玄、勝頼の二代に仕え、
軍事、外交、内政と様々な面で活躍し、武田家最高職である「職」を務めます。

信玄の死後は重鎮筆頭として勝頼を補佐しますが、天正3 年(1575)長篠合戦で討死
全身に銃弾を浴びてなお織田軍に突撃した壮絶な最期を遂げたと伝わっています。

念入りに拝む瞬間


左の五輪塔が山県さん、右が虎昌さん、真ん中は飯富道悦・・え、誰ソレ??
と思って調べたら信虎に仕えた飯富兄弟の父親なのかな? ま、どうでもいいけどw

山県さんは140cmとか??すっごい小柄で見た目もイマイチだったと言われるけど、
超イケイケの勇将で率いた赤備えは強すぎて戦国最強!そして外交内政もデキる!

三方ヶ原でエライ目にあった家康は馬場さんより山県さんのが怖かったらしいよね。

みんなの憧れ赤備え☆ そのボス山県さんは見てくれとかどうでもよく、
ワタクシは気合の入った生き様や存在に憧憬の念を抱いてるのです。ナ〜ム〜!!


やっぱ武田は家臣が素敵だわw

よし。この調子で次は土屋さんのお参りに行っちゃうおう!



長盛院にて土屋昌恒のお墓参り〜に続く




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2017.12.29 Friday 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

出羽松山城に登城!

志村光安さんのお墓参りをした後は、松山城門でも見てから帰ろうかって。

ガラッガラだった瞬間


松山歴史公園として昭和57年5月に開園したこちら。GWだけど人いない(*°∀°)=3
文化伝承館という立派な建物もあるし、トイレもキレイだし、駐車場も広いです。

冷静に進む瞬間


酒井氏の所縁の城なので、敷地の周りには代々の幟旗がはためいています。
酒井忠次とかも見えますけど、武田旗と違ってひそかな興奮はありませんw

思ったより広かった瞬間


こちら本丸御殿跡。当時は道路側が二の丸で本丸を半ば囲んだみたいな縄張よ。
中の奥に見えるのが伝承館。左の鯱がついた屋根は現存する大手門です。

雰囲気が大事だった瞬間


駐車場が公園内に続いてるんだけど、折角だから入口から入っときますわw

松山城は庄内藩初代酒井忠勝の三男、忠恒が2万石を分知されて支藩となった際、
陣屋がおかれたのが始まりで、三代藩主忠休が若年寄になった時に格上げされ、
本格的な築城が始まりました。鯱も許されたというから忠休さんすごい待遇!!

戊辰戦争では鶴ヶ岡城の本家とともに奥羽越列藩同盟に参加して幕府軍として戦い、
維新後は大手門と一部の堀を残して取り壊されました。

佇まいが良かった瞬間


公園内に入るとすぐ大手門が見えます。気持ちレベルだけど堀も残っています。
春には桜、初夏には水連が見どころのようですが、かすりもしなくて残念です。

重厚だった瞬間


こちらの大手門は山形県指定文化財。寛政2年(1790)落雷で焼失しましたが、
酒田の豪商の寄進により天明2年(1782)再建されたものの現存です。赤瓦!

インパクト薄だった瞬間


大手門の前は堀を挟んで、土塁一部や丸馬出しの跡も残っているんだけど
標柱なかったら見逃しちゃうかもなレベルで、遺構としての存在感はなさめ。

全く伝わらない写真だった瞬間


駐車場を挟んで大手門のある公園と反対側に松山城址館という公民館があり、
周りには土塁と堀の一部が復元されてけど・・・分かりづらい写真すぎてビビるw


「GW」の山形攻略シーズン2がこれで終了(*°∀°)=3


リアルタイムにズレるどころか、周回遅れも間近!? 地道に更新続けます・・
というわけで次から「初夏」の山梨武田めぐりシーズン何?? ですwww



天沢寺にて飯富虎昌と山県昌景のお墓参り〜に続く




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2017.12.22 Friday 17:28 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 

亀ヶ崎城に登城!

そろそろ埼玉に戻ろうかって時間で、城輪柵から酒田市内に戻ってきました。
近くにいるんだし、せっかくだから亀ヶ崎城跡も見ておこうかなって。

跡形もなかった瞬間


んまー立派な学校!! 亀が崎城跡は現在、酒田東高校の敷地になっています。
連休中だけど校門はあいてたので、中の土塁だけサクッと見せてもらいましょう。

うなる瞬間


校門の左に案内板があります。高校になってる本丸と二の丸跡は当時、堀が巡り、
更にその周りを三の丸が囲んでたんだね。今は市街化されて何も残ってないけどw

まぁまぁ高めだった瞬間


校門を入った左の方に唯一の遺構となる二の丸土塁がありました。
しっかりした松の木とかがはえててわずかに雰囲気があるかなって感じ。


亀ヶ崎城は文明10年(1478)大宝寺城の武藤氏が築いたのが始まりと言われ、
交通の要所を守る拠点として一族の東禅寺氏を城主としていましたが、
天正11年(1583)領内の軋轢から東禅寺義長が最上義光と結んで大宝寺氏と対立。

一時は東禅寺氏が庄内を支配するものの、上杉家の一族を養子に迎え後ろ盾を得た
大宝寺氏に攻められ滅亡すると、秀吉の仕置きで庄内は上杉領となりました。

慶長5年(1600)関ヶ原の際、徳川に敵対した上杉氏は最上領に侵攻しますが、
西軍の敗走を受けて撤退すると、最上義光は庄内に攻め入って東禅寺城を落とし、
再び庄内を手に入れます。城主として志村光安が入り、亀ヶ崎城と改名されました。

元和8年(1622))最上氏改易後は信州松代から酒井忠勝が14万石で入り庄内藩を設立。
鶴ヶ岡城を本城としますが、亀ヶ崎城は一国一城令の例外として支城として残り、
城代が置かれて幕末まで機能。維新後は廃城となり破却されました。

イメージしやすい瞬間


高校から続く住宅街のすぐ先を流れる外堀代わりだった新井田川は
写真左方向の下流で最上川に合流します。向こうに見える鳥海山キレイ!

こじんまりしていた瞬間


二の丸跡にある亀ヶ崎八幡神社。元は東禅寺八幡神社って呼ばれていたもので、
東禅寺城の鎮守を祈願して建てられたものなんだって。とても小さな神社です。

七尺って盛ってる?とか思ってる瞬間


デカ亀w 慶長8年(1603)酒田の湊に身の丈七尺の大亀が這い上がったのを
最上義光がすごい喜び、御代万世の世を鶴亀にあてて大宝寺城を鶴ヶ岡城に、
東禅寺城を亀ヶ崎城に改めたことから、鎮守である八幡に亀を奉納したって。

今回はマメだった瞬間


車なら大して遠くもないので三ノ丸跡に建つ亀城小学校にも寄ってみた!
遺構も何も跡形ないけどw ちなみに四ノ丸跡は酒田商業高校だそうです。

驚愕の瞬間


城跡アピは、雑な手書き文字がかすれたぼろい標柱だけだった(*°∀°)=3
うんちく書いてありそうな案内板とか石碑は鵜渡川原村役場跡のやつ・・オイw

スッキリしている瞬間


五月雨をあつめて早し最上川〜芭蕉先生の俳句にもある最上川。
ダイナミックに流れる大きい河川を見るのって何かいいよね!
 


さてさて。次は東禅寺城主を務めた志村光安さんのお墓参りに行きます!


青原寺にて志村光安のお墓参り〜に続く




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2017.12.08 Friday 13:46 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 

城輪柵へ登城!

本住寺の次は古代の城跡、城輪柵へ! 

山ばっかり見てる瞬間


鳥海山かっこいいね〜 磐梯山も見とれながら走ったけど鳥海山も目がいってしまう。
お昼ご飯食べて眠くなるところだけど、キリッとした風景みて目が覚めますわ。

嬉しいような寂しいような瞬間


ナビに近所の小学校を入れて無事到着。畑の真ん中に突如ある感じw
駐車場もトイレもあって整備されてるけどGWなのに人いない(*°∀°)=3

東大路を行く瞬間


城輪柵(きのわさく)は平安時代の出羽国の国府政庁跡と言われています。
昭和6年に発見されて翌年、国指定史跡となり、昭和56年に追加指定されました。
田んぼの中から朽ちた角材の列が出てきて見つかったんだって。すごいね!

嗅覚が冴えわたる瞬間


現在は東門と南門が復元されて歴史公園として整備されています。
東門の中に置かれた台の引き出しにパンフレットがありましたw

メンテ希望の瞬間


こちらは東門。単層(屋根が一重)で間口三間、奥行2間の八脚門様式。
柱は直径45cmで秋田の天然杉なんだって!・・塗りが剥げてますけど(*°∀°)=3

華麗すぎた瞬間


軒瓦は出土したものを参考に花の模様を入れたそう。蓮華だったかな?
対蝦夷の軍事拠点でもありながら、瓦にまでこだわるこだわりかよw 

大和朝廷の支配が広がるにつれ最前線は秋田城柵や志波城柵の方になるから、
後の方は政庁として威風や華麗さの方が大事にされたのかもしれないね。

さすが国史跡だった瞬間


あちらは政庁南門。お約束のお上品な目隠し塀もついています。
復元されているのは東・南の門と築地塀一部だけで他は表面展示なんだけど、
正殿跡や東建物跡や井戸跡などもあって説明もついててわかりやすかった。

姿が美しかった瞬間


城輪柵から見る鳥海山。当時の役人や兵士も眺めたことでしょう。
山を越えればすぐ秋田県。ワタクシも早く秋田侵攻しなければww


さてさて次は酒田市内に戻って、亀ヶ崎城跡に向かいます!


亀ヶ崎城に登城!〜に続く。



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2017.11.29 Wednesday 08:54 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 
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