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本住寺にて加藤忠広のお墓参り

鶴ヶ岡城の次は清正の子、加藤忠廣のお墓参りに本住寺にやってきました。

危うかった瞬間


住宅街の中の狭い道路沿いにひっそりあるので通り過ぎそうになりましたw
こちらには清正の子忠廣さんとその生母正広院のお墓があるのです。

こじんまりしていた瞬間


創建は不明ですが、永正13年(1516)浄土真宗から日蓮宗の寺院に改宗されたそう。
清正が埋葬された天澤寺と違い、加藤家の宗旨なので菩提寺としてしっくりきます。

本住寺は改易された忠廣さんが庄内藩預かりになった時に仮住まいしていたお寺で、
ここ鶴岡(丸岡城)で暮らして亡くなったため、日蓮宗だった本住寺に葬られたそう。

迷いようがなかった瞬間


お二方の墓所は本堂の左手から墓地の方に向かったところにありました。
写真撮り忘れたけど入口に案内もあったし、すぐ見つかる場所でよかった。

気になる瞬間


お墓は土蔵造りの御霊屋の中にあります。新し目できれいな霊屋です。
元がどうだったとか霊屋自体の説明がないので建て替えか後付かは不明。

指定されていた瞬間


母子の墓は1986年に鶴岡市史跡に指定されました。本住寺には墓碑の他、
刀剣や甲冑、掛け軸など加藤家所縁の品が寺宝として納められているそう。

ほこりっぽくなかった瞬間


土蔵の扉は開いているので内扉越しに霊屋の中を見ることができます。
左が忠広さん、右が正応院のお墓。すごいお手入れが行き届いている!

波乱の人生だった瞬間


正応院は加藤清正の側室。玉目丹波の娘で忠広と八十姫を生んでいます。
寛永9年(1632)の加藤家が改易されると忠広とともに丸岡で過ごし、
慶安4年(1651)6月死去。一時、丸岡の屋敷に葬られ、本住寺に埋葬されました。

生年不明でハッキリしないけど、享年は70才前後って感じでしょうかね。
八十姫(瑤林院)は元和3年(1617)、川頼宣の正室となり66才まで生きました。

不運すぎた瞬間


忠広は加藤清正の三男。兄2人の早逝により、慶長16年(1611)清正が亡くなると
11歳で肥後52万石の当主となりますが、寛永9年(1632)5月、突如、改易を命じられ、
出羽庄内藩にお預けとなります。忠広主従は庄内藩酒井家が建てた丸岡の屋敷に暮らし、
幕府から許されることもないまま、承応2年(1653)に亡くなりました。享年53歳。

改易の理由はお家騒動とも言われるけど、要するに幕府に狙われたんだよね・・

巡りあわせで幼少のうちに偉大な父の後継者になり、何だかわからんうちに
アレコレ言いがかりつけられて、しまいには堪忍料1万あてがわれて改易・・・

もうホント、色んな意味で不運すぎる(*°∀°)=3

丸岡での暮らしは和歌や音曲に親しむ悠々自適の生活だったと言われます。
52万石を自分の代で潰した無念さもあれば、肩の荷が下りてホッとしたり、
色んな屈託を抱えながら、風流に日々を過ごすしかなかったんでしょうね・・

腹時計がなる瞬間


鶴岡での昼食はFBで見て予約しておいた安兵衛寿しへ。
ワタクシが入って少しした頃に、後から後から人が来ていっぱいに!

お得すぎた瞬間


ワタクシが頼んだのは安兵衛御膳2200円。ランチで一番高いけど奮発!
刺身、天ぷら、焼き魚にあら汁、握り寿司に茶碗蒸しとデザートでお得。










お腹いっぱいになったところで次は酒田市に移動します。


城輪柵へ登城!〜に続く。


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2017.11.17 Friday 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

鶴ヶ岡城に登城!

山形2日目は鶴ヶ岡城から。ここ無料駐車場が多くてすごい助かる!
鶴岡公園として整備されている鶴ヶ岡城跡。正面入り口から登城します。

お参りの人が多い瞬間


二の丸大手門跡にある大鳥居。元の大手道が神社への参道になっています。
案内図を見ると当時、大手門の先には本丸を囲む内堀があったみたい。

人気者だった瞬間


庄内藩主初代酒井忠次から家次、忠勝、9代忠徳の4人が祭神として祀られる庄内神社。
明治10年に旧藩主を慕う地域の人によって本丸跡に創建されたものなんですって。

ハイカラだった瞬間


こちらは本丸中門跡に建つ大宝館。大正天皇の即位を記念して建てられたもの。
今は郷土人物等資料展示施設になっていて、無料で見学することができます。

意外とみごたえだった瞬間


洋風のしゃれた作りの建物内。とはいえ昔の建物なので階段は狭くて超急!
高山樗牛の生家他、松森胤保や中田喜直とか鶴岡出身の方の功績が見られます。

フォトジェニックだった瞬間


堀にかかる本丸中橋を経て、大宝館のところに桝形の中門があったデスね。
春は堀の両側で桜が咲いて、ライトアップされた風景がすごい美しい所。

鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉期から戦国期までは荘内に君臨した
武藤氏の居城でしたが、天正15年(1587)最上氏と争って武藤氏が滅びると、
その後は最上氏と上杉氏の争奪の地となり、一時は上杉氏の支配となりました。

関ヶ原後、再び最上氏の領地になると庄内の拠点として整備され鶴ヶ岡城と改名。
元和8年(1622)最上氏の改易により、信州松代から譜代の酒井忠勝が入国すると
庄内藩14万石として整備拡張され、酒井氏は12代続いて幕末を迎えます。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の強硬派として新政府に抗戦した末に降伏。
明治4年(1871)の廃藩置県により廃城になると城内の建物は取り壊され、
本丸と二の丸が「鶴岡公園」として整備されました。

エレガントな瞬間


平城の鶴ヶ岡城は3重の堀と土塁に囲まれていて石垣があるのは一部だけ。
近世城郭だけど徳川の世が安定した頃に整備されたから優雅な雰囲気だわw

すでに市民が憩っていた瞬間


土塁もよく残る西側は広場になっています。当時は馬場もあったみたい。
日本さくら名所100選だけに桜の木が多くて、花見の季節はさぞや混むかと。

人の視線が気になる瞬間


広い二の丸をぐるっと回って北側に出たところで高くなった土塁によじ登る!
お〜こっち側は土橋になってんだ〜!・・で下の親子連れと目があったw

ちょい萌えの瞬間


雰囲気がよいから土塁を降りて外北門跡の外にも行ってみた。いい感じ!
ただホントはもっと後ろ下がりたかったけど作業の軽自動車があったからね・・

朝から人出がある瞬間


二の丸の北側はさらに広い!!親子連れがバドミントンしてたり、
公園内にはあやめ園やバラ園なんかもあるし、市民憩いの場なんだね。

セットがデフォだった瞬間


鶴ヶ岡城の後は鶴岡観光のお約束どおり、致道館にも寄ってみた。
国指定史跡なのに大宝館に続きここも見学無料! 鶴岡市は太っぱらヾ(*´∀`*)ノ

ロケにも使われてた瞬間


致道館は文化2年(1805)九代藩主酒井忠徳が創設した庄内藩の藩校。
表御門、聖廟、講堂、御入間などが残る貴重な現存建物なんだそうです。

品格ただよう瞬間


致道館では自主性を重んじ、長所を伸ばす教育が行われたんですって。
知的な藩主に素敵な教育で藩風もよいから領民に慕われたんだなって納得。

吸い寄せられる瞬間


致道館のちょっと先にある鶴岡アートフォーラムで「ダリ展」やってて、
こんなの滅多にない!と思ってすかさず寄ってしまったわ(*°∀°)=3

城のことはふっとんでいた瞬間


有名な絵画の他に彫刻もあり「神曲」の版画も含めて200点の展示は見ごたえ!
時間はあんまりなかったけど、人も少なくて見やすかったし寄ってよかったなw



さて、お次は加藤清正の子、忠廣さんのお墓参りに向かいます。


本住寺にて加藤忠廣のお墓参り〜に続く



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2017.11.09 Thursday 12:53 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 

天澤寺にて加藤清正のお墓参り

丸岡城の後はすぐ隣にある天澤寺に来ました。
城跡と敷地が続いててお寺の途中にカットインできるんだけど、あえて入口に回ります。

案外なじんでた瞬間


人んちの玄関先みたいな佇まいになってるけど、こちらが参道の入り口。
狭い路地に面した住宅街に連なっているので知らないと一瞬スルーしそうなw

萌える瞬間


門柱の表札には「加藤清正公御墓」とちゃんと書かれています。
加藤家終焉の地でもあり、清正のお墓もあるので多くの人が訪れるそうです。

行き届いている瞬間


左が城跡に続いててカットインするとここに出る→表札見逃し注意w
城側以外にも綺麗な案内板があって、しっかり整備されてるのがうれしい!

どうでもよかった瞬間


お寺の情報がなくて創建とか分からないけど、天澤寺は曹洞宗だそうです。
清正は熱心な日蓮宗のはずだけど、まぁ細かいことは気にしなくていいか!

念入りだった瞬間


境内には清正の虎退治の武勇伝にちなんだ虎の置物がありました。
清正つながりで熊本からくまもんが参拝に来たこともあるそうですw

鼻息が荒くなる瞬間


お目当ては本堂の左側にありました。向かって左の青い屋根が清正閣、
右手は奥に進んで五輪塔があるそうです。城跡でもらった資料お役立ち!

涙ぐましかった瞬間


まずは清正閣から。清正の子、忠廣は改易を命じられて出羽に来る時、
幕府に内緒で清正の遺骨を持ち込み、ひそかにこの地に埋葬するんだけど、
バレたらまずいから居館の奥の大夫石の下にひとまず納めておいて、
天澤寺に清正の鎧を埋めて碑を置いて、供養の場所にしていたんだとか。

妄想の翼が広がる瞬間


発掘されたのは最上胴丸と呼ばれる具足で鑑定の結果、清正の物と推定されるって。
博物館とかで見るような状態ってわけないらしいんだけど、でもちょっと興奮するw

覗きまくった瞬間


アレが熊本特産の島崎石っていうやつかな。中もお手入れされてる感じでした。
毎年7月23日に「清正公祭」があるらしいので、その日は御開帳されたりするのかな。

芸が細かい瞬間


次は五輪塔を見に行きます。こちらは門をくぐって進んで行きます。
上にかかっている丸い銅板みたいのにも虎が彫ってありました。

手厚かった瞬間


正面に「加藤忠廣公家士の墓」がありました。天澤寺に埋葬されていた
加藤家ゆかりの人の墓を昭和56年にここに移転整備したものなのだとか。

前のめる瞬間


奥まったところにある覆堂の中に五輪塔があります。(覆堂は新しい)
昭和24年の発掘調査では肥前弓野窯焼きの骨壺と兜が発見されたんだって!

忠廣さんは居館が大火にあって焼失した後、天澤寺の境内に遺骨を移し、
ほとぼりが冷めてから五輪塔を建てて供養していたんだそうです。

念入りな瞬間


五輪塔地輪には「天保4年12月3日清地院居士敬白」の刻字も入っていたとか。
長らく清正さんの遺骨が納められていたと思うと合掌にも力が入っちゃうなw


よーし満足満足! 


膝のこともあるので、この日は早めに切りあげて鶴岡市郊外の湯田川温泉九兵衛旅館へ。
湯治、美食、ビール爆飲みで、山形出陣2日目に備えますw


鶴ヶ岡城に登城!〜に続く
 


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2017.11.03 Friday 09:58 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

丸岡城に登城!

長谷堂古戦場の次は、月山近く山の中を抜けて鶴岡市に移動!

何はともあれ立ち寄る瞬間


丸岡城址公園に到着したら敷地内にある案内所に立ち寄ります。
管理されてる方のお宅の一部のですが入口は解放されてるので遠慮なく。

充実の冊子だった瞬間


協力金(任意)100円を箱に入れてパンフレットをいただきました。
ひとまずザッと読んだら、小さな公園なので目の前からズンズン行きます。

良い復元の景色だった瞬間


水堀が復元されてます。なんかいい写真撮れてなかったんだけど(*°∀°)=3
当時は四方を水堀が囲んでたのだとか。右手の方に案内所や日向住宅があります。

ヒョロっとしてた瞬間


細い城址碑と公園の案内がある大手門跡のところから中に入ります。
発掘調査の末、平成23年に城址公園として復元整備されたそうです。

風光明媚そうだった瞬間


これは水路跡。公園全体が綺麗に整備され、草刈りなどメンテも行き届いてます。

丸岡城は戦国時代初期、大宝寺城の支城として武藤氏が築いたのが始まりで、
上杉氏、最上氏と領主が変わり、元和元年(1615)一国一城令により取り壊されます。
その後、最上氏が改易され、元和8年(1622)信州松代から酒井忠勝が入りました。

言われた通りに廻ってる瞬間


こちらは御城稲荷。鳥居が白くかっさかさに色あせてるのが少し悲しいw

寛永9年(1633)、肥後54万石加藤忠廣が突如、幕府により改易を命じられ、
1万石の捨扶持で庄内藩預けになると、酒井氏は城跡に居館を建てて迎えます。
忠廣は生母正応院とともに出羽に入り、病没するまでこの地で過ごしました。

のびのび出来そうだった瞬間


こちらは御書院跡の表面展示。他に御居間跡とか石敷道路なんかもある。
城跡の広さは約2h。庭園跡もあったし、案外のんびり暮らせただろうね。

盛り上がってくる瞬間


来ましたよ〜大事なとこが! 忠廣が両親を一時密葬したという石です。
実際ここに暮らした息子さんより、存在感だけでも清正のが萌えるわww

こちらの「太夫石・巫女石」は忠廣さんが両親を一時密葬したもので、
大夫石は清正の骨壷、巫女石には生母正応院が土葬されたそうな。

共感する瞬間


忠廣さんは出羽に来る時、父清正の遺骨を公儀に内緒で持ってきて、
バレるとまずいから仮埋葬して大石を置いてひとまず隠したんだって。

たらちねの 父のかたかま 身にそへて ふたたび名をも おぼえける武者

忠廣公詠歌として刻まれていました。健気で泣けるわ。ワタクシも思い偲ぼう。

地味な人気スポットそうだった瞬間


城跡横には江戸末期の武者住宅を移築復元したという日向住宅もあります。
城跡には誰もいないのに、ここは見学者ちらほら・・スルーしたけど有名だった?


さて次は隣の天澤寺へ。清正のお参りでワタクシの本命はこっちw


天澤寺にて加藤清正のお墓参り〜に続く


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2017.10.27 Friday 13:55 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 

長谷堂合戦場跡に出陣!

最上さんのいる山形城から距離感をかみしめつつ、長谷堂合戦古戦場にやってきました。

実はワタクシこの頃、左膝を負傷して注射打ってるくらいの時で山登りはムリ!
長谷堂城跡には登れなくなったけど、古戦場の雰囲気は味わっておこうと来た次第。

行き届いていた瞬間


とりあえず長谷堂城跡公園に到着! 長谷堂城跡めぐりの拠点になってて
広い駐車場や綺麗なトイレも完備。ストックだって用意されています。

激痛を思い出す瞬間


公園の前が八幡崎口。長谷堂城跡の標高は229mでハイキングな距離。
ストック借りて少しだけ行ってみようかとも思ったけど旅先で無理厳禁w

あきらめが悪い瞬間


登った気分になろうと案内板をガン見。帯郭や土塁空堀が残ってるんだね。

長谷堂城の築年は定かではなく、記録に出てくるのが永正11年(1514)の頃で、
最上氏の支配下となって山形城の支城として機能します。文禄3年(1594)に
義光の重臣志村光安が城主になると、慶長出羽合戦の攻防が繰り広げられました。

心配りが素晴らしかった瞬間


パンフレットも置いてあります。散策マップとか見どころが詳しく載ってた!
大河ドラマ「天地人」のブーム後もきちんと整備が行き届いてるって素敵だね!

芸が細かい瞬間


長谷堂城の周りに巡らされていたという水堀も復元されて雰囲気が出ますw

慶長出羽合戦は関ヶ原に伴い、反徳川の上杉と徳川方の最上の間で起きた戦い。
家康を迎え撃つつもりだった上杉軍は家康が西上すると、最上領侵攻を開始。
慶長5年(1600)9月14日 直江兼続が2万の大軍を率いて長谷堂城に攻め込みます。

見かけによらない瞬間


こうしてみると小城だけど準備万端。かなりの堅城だったんですって。

城を守る智将志村光安と鮭延秀綱は2000の手勢で全力の攻防を繰り広げ、
15日後、関ヶ原での西軍敗走を知った直江軍が撤退するまで死守しました。

目と鼻の先だった瞬間


せっかくなんで直江兼続が本陣を置いたという澤泉寺(菅沢山)に来てみました。
山門らしきも見当たらず、本堂の他は墓地があるだけの小さなお寺のようです。

おばあちゃんになる瞬間


本堂の裏手の小山が本陣跡ということで、数十mならさすがに大丈夫でしょ・・
ということで、膝に負担がかからないよう超ゆっくり登って行きます。

残念すぎる瞬間


登った先には「天地人」の時に盛り上げたと思われるブツが放置されていました。
大河フィーバーの後ってこういうのが多くて残念。元のとおり片しましょうよ・・

過信は禁物かもだった瞬間


フィーバーの残骸に背を向け、長谷堂城の方を直江さんのつもりで眺めます。
・・・やっぱ小さっ! でも結果、2万で15日攻めても落とせてないんだもんね。
戦も得意で知恵も愛もある♪って自信満々の直江さんも簡単に考えてたのかも。

マップの準備が甘かった瞬間


城跡周辺一帯が長谷堂古戦場跡でちょっとした史跡が点在してるんだけど、
今回は最上三昧なのに最上家臣加藤清次の墓標「掃部の碑」は見つけられず。

直江方の武将上泉主水泰綱が討死した場所にある主水塚しか見あたらなかったw
長谷堂城から近くで最上軍の必死の抵抗を受けての壮絶な討死だったそうな。

腹が減っては戦は出来ぬ瞬間


この後、ランチに米沢牛ステーキ丼(コロッケもプラス)をがっついたら、
山を越えて初訪の地、庄内地方に移動します。またおいしいもの食べられるw


丸岡城に登城!〜に続く



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2017.10.20 Friday 17:16 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

山形城に再登城!

専称寺の後は、予定より少し時間があったので急遽、山形城に立ち寄り!
6年ぶり!前回は曇天でイマイチな写真になった義光さんの雄姿を再激写するのです。

映えまくりだった瞬間


やっぱ青空じゃないとね! おまけに人が入っちゃうとか何の苦労もなかったし!
今回は義光さん狙いでチョイ寄りなので、二ノ丸東大手門からサクっと入ります。

とはいえ眺めちゃう瞬間


二の丸の堀は最上義光の頃から残っているもの。山形城は明治時代になって陸軍が
本丸なんかを埋め立てちゃってるので貴重。ホントーに陸軍はロクでもない!!

するっと通り抜ける瞬間


東大手門は山形市が11億かけて気合を入れて復元した木造本瓦葺き。
木造での復元は大変らしいけど、重厚感や雰囲気があっていいです!
とか思いつつ、門を抜けたら義光さんがいるので前のめりに進みますw

駆け出す瞬間


も!もっ!  最上さぁぁぁぁぁん!!!! 

足がもつれる瞬間


も、もが・・最上さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!! 

うっとりする瞬間


はぁはぁしちゃう・・息切れでw 青空の下でこの萌え萌え最上さん見たかったのよ!
長谷堂合戦で陣頭に立つ勇姿を描いたコレ、武将銅像の中で1、2を争うかっこよさ! 

義光は最上家11代当主。元服の後、13代将軍足利義輝に拝謁して義の字をもらい、
義光と名乗りました。25歳の時に対立した父義守を隠居させて当主となるものの、
反義光の同族が従わず四面楚歌に。義光は内政に力を入れて力を蓄えながら、
謀略を駆使して出羽を平定。最上家を建て直しました。

しかし天正15年(1587)、大宝寺氏に端を発した争いから上杉景勝との間に
庄内をめぐる領土問題が起きると、豊臣秀吉はこれを上杉領として決着。
義光は庄内を失います。くわえて秀吉の後継者とされる豊臣秀次に嫁がせた
愛娘の駒姫が秀次謀反事件の連座で嘆願の甲斐なく処刑されてしまうのです。

この頃から家康と親交を深めていった義光は関ヶ原の時には東軍に属し、
長谷堂城で上杉軍と激突。その功により57万石の大大名となりました。

義光は山形城を改築して城下町を整備。治水事業を行うなど内政に力を入れ、
家臣からも民からも慕われたと言います。山形の人は今も超ラブなのだとか!

ダーティに言われるけど妹(政宗の生母)を溺愛してて甘くなっちゃうとか、
鮭が大好きすぎて庄内を手に入れて鮭食べ放題って喜んでたとか・・かわぃw

独り占めだった瞬間


正面からもまたコレいい!! 後ろにチラッと大手門櫓も入って収まりもいい!
もうなかなか来る機会ないと思い、ワタクシしつこく目に焼き付けました!!

目をおっぴらく瞬間


ついでに6年前に復元中だった本丸一文字石垣どうなったかなって見といた。
デカイ空堀は変わらずだけど、やっぱ曇天と違って青空だとホント映える!

再々登城を予知した瞬間


おお!一文字門も木造で復元されてたんだね!将来は櫓も建つ計画とか。
軍が埋めたり削ったから(怒)大変だろうけど、山形市ガンバってほしい!

鼻息が荒かった瞬間


長っ尻せず山形城を出たら、すぐさま再訪の最上義光歴史館(無料)へ!
最上さんが被ってた三十八間総覆輪筋兜(弾傷つき)を見て次へ行くのよ!!

執念深かった瞬間


そして前は見逃したお上品仕様の最上義光さん銅像ももれなくゲット!
ついでに周りに誰もいなかったから肩組んでツーショット(古)も撮ったしw



さーて。次は長谷堂城跡周辺に行って合戦の雰囲気を味わってきます!


長谷堂合戦古戦場に出陣!〜に続く


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2017.10.12 Thursday 08:21 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(山形県) | 

専称寺にて駒姫のお墓参り

常念寺で最上義康のお墓参りをした後は、妹駒姫のお墓を訪ねます。

顔がほころぶ瞬間


ナビに連れられてきたんだけど狭い道で不安になりかけたら着いた!
お寺さんが幼稚園をやってて看板がかわいいw 駐車場に入ります。

雰囲気を大事にする瞬間


お寺っぽい門だけどこちらは幼稚園側の入り口。右手の駐車場に車を停めて、
いったん通りに戻ってから、半周歩いて反対側のお寺の入り口に向かいます。

幼稚園ぽさがはみでてた瞬間


案内板だけじゃなく園児募集の看板も出てるけど、こちらがお寺の正面入り口。
入ったところにおじさんがいたので挨拶したら、どちらから?と声をかけられた。

早起きは三文の得だった瞬間


埼玉から駒姫のお参りに来ました〜言ったら、歩きながらお寺の説明してくれて。
元は高擶(天童市)にあったものを駒姫の菩提を弔うため義光公がこの地に移したそう。

しげしげと眺める瞬間


山門を入って左にある鐘楼と梵鐘は1606年に作られたもので県指定文化財。
秀吉が天下一の名工と呼んだ西村道仁って鋳物師が作った一品なのだとか。
奥の桜は義光が駒姫の墓参りに来る度に馬をつないだという「駒つなぎの桜」。

デカすぎだった瞬間


本堂は元禄16年(1703)に建てられたもので、これは山形市の指定文化財。
遠目で見てもデカイけど、近くで見るとなおのこと重厚感がハンパない!
傷んだ部分の修理の最中とかで、向こう一面はまるっと足場に覆われてました。

眠り猫とは違った瞬間


本堂の四隅にある「夜鳴き力士像」も左甚五郎作と言われて有名なんだって。
屋根が重いと泣く声が聞こえたという逸話があるそうな・・あのデカさだもんね。

親切すぎた瞬間


さて、駒姫のお墓参りに向かいます。本堂右手にある墓域入り口に案内が。
思っていたより奥の奥にあるので、所々に立ってる案内がとてもありがたい。

さみしい感じだった瞬間


案内をたどってワーワー込み合ったコンクリートの墓域を抜けると、
奥の奥にある木立に囲まれたスペースに駒姫のお墓だけポツーン・・・

落ち着かなかった瞬間


石柵に囲まれるとかでもなく広いスペースに墓石だけって寂しくない?
綺麗な生花が活けられ、きれいに掃き清められているのが救いだわ。

駒姫は最上義光の二女。東国一の美しさといわれる美貌の持ち主で、
その噂を聞きつけた関白・豊臣秀次に側室にしたいと望まれます。

義光は何度も断ったそうですが、時の権力者、豊臣秀吉の甥である秀次の
執拗な求めに抗いきれず、15歳になった駒姫をしぶしぶ上洛させました。

泣けちゃう瞬間


上洛した駒姫は最上屋敷に入るのですが、ほどなく秀次は謀反の疑いを受け、
秀吉の命により高野山で切腹させられ、妻子までも連座で処刑を命じられます。

義光は娘の助命嘆願に奔走。正式な側室になる前ということで家康を始め、
諸大名からも同情と嘆願が上がりますが、駒姫は処刑されてしまいました。

駒ちゃん、かわいそうに・・(泣)ジジイになった秀吉ホント嫌いだわ。

諸大名からの嘆願を無視できなくなった秀吉が駒姫の助命を命じたけど、
ギリ連絡が間に合わず処刑されたって説もあるけど、そんなの・・ねぇ。

控えめすぎた瞬間


立派な墓石の後ろにある小さな丸い石が、元々のお墓らしいよ・・・・

妻子や乳母も含めて女子供30数人も引きずりだされた中、正式な側室でもないのに
11番目に処刑されたという駒姫の最期は、従容としたものだったと伝わっています。

罪をきる 阿弥陀の剣にかかる身の なにか五つの 障りあるべき

駒姫の辞世の句。きるは「切る」と「着る」がかかってるんだよね。

駒姫の遺体は他と一緒に穴に放り込まれ、引き渡しも許されなかったというから、
秀吉の助命連絡が間に合わなくて処刑されちゃったなんて話は信じられない。

その後、娘の死を悲しんだ駒姫の母、大崎夫人も後を追うように亡くなると、
義光は専称寺を駒姫の菩提寺とし、母娘の肖像画を描かせて納めました。

それから5年後・・関ヶ原の合戦の時には東軍についた義光さん。
駒姫だけが理由じゃないだろうけど、まぁそりゃそうだよねっていう・・

大胆すぎる瞬間


戻る時に幼稚園側に廻ったら、なんと本堂にちびっ子用時計が(*°∀°)=3
元禄時代に建てられた市の文化財なのに!? かわいくて笑っちゃうけどw



さて。次は予定になかったけど少し時間が出来たし天気もいいから、
駒姫パパ、義光さんの雄姿を拝みに山形城に寄って行きます!


山形城に再登城!〜に続く



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2017.10.02 Monday 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 
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