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興国寺にて須田満親のお墓参り

梁川城の後は、梁川城代須田長義のお墓がある興国寺にやってきました。


立派なお寺だった瞬間


興国寺は曹洞宗のお寺。前身は長野県須坂市南原の臥龍山の中腹にあったそうで、

その山麓が須田氏発祥の地なんですって。須田長義が上杉氏に従って福島に入り

梁川城代になった際、菩提寺としてこの地に建立されたそうです。


思ったほど歩かず済んでホッとする瞬間


境内はかなり広く、暑くてあちこち歩きまわらなかったんだけど

本堂の他にも数々のお堂や経蔵などがある立派なお寺さんのようです。


にんまりする瞬間


須田氏のお墓は境内入った手前の方にあるお堂の中にありました。

扉も開いているので、グイグイのぞかなくてもちゃんと見られそうですw


遠慮なくかぶりつく瞬間


お堂の中は中央が長義、左が父の満親、右がお菊の方って感じで。

説明ないしどうでもいいけどお菊の方は長義の奥さんだと思います。


イメージ先行だった瞬間


実はワタクシ的には梁川城代の長義さんより、満親さんのが印象が強くて、

今回こちらに立ち寄ることにした動機も満親さんの墓があったからっていうw


須田満親は信濃の武将で、村上義清と共に信玄の信濃侵攻に対抗して破れ、

越後に逃れて以降、謙信に仕えて数々の戦で活躍。後に海津城将として4郡を任され、

徳川の上田城攻めの際には上杉景勝の命を受けて真田支援の指揮を執りました。


若い頃の須田満親が主人公の吹けよ風 呼べよ嵐を少し前に読んで印象に残ってたし、

それ以前にも真田昌幸だったかを書いた小説に出てきた満親さんがいい感じで覚えてた。

それだけで詳しく知らないんだけど、お墓があるならお参りしたいなって。


で、そういえば満親さんって晩年はどうだったんだろうって調べたら、

上杉が会津に移封された時、次男長義に家督を継がせ、自身は海津城

切腹したって・・・ナンデ?? (病死という説もあるらしいんだけど)


よくは知らないけど優秀そうだった瞬間


満親さんの長男満胤は色々あって改易の憂き目にあって浪人した関係で、

須田家は次男長義が継ぎ、上杉氏に従って会津に入り梁川城代を務めました。


長義さんは猛将で伊達政宗を二度も撃破したり、大坂夏の陣でも活躍して、

徳川秀忠から感状をもらうものの、その時の傷が元で居城にて死去。去年37歳。



なんか・・政宗。本庄繁長にも須田長義にも追っ払われ、対上杉は調子いまひとつだねw



次はやーーーっと福島攻略シーズン2ラスト! のろすぎ長かった・・・・



梁川八幡神社にて政宗初陣祈願所を探訪!〜に続く





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2017.05.27 Saturday 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

梁川城に登城!

本庄繁長のお墓参りをした後は伊達市の梁川城に登城!

ほくそえんだ瞬間


ナビにドンピシャ地点がなかったけど、近くまで来たらいい感じに案内発見!
街中の城跡は時々迷ってさまよう時があるけど、今回は楽勝♪と思いきや・・

悪魔の囁きに打ち勝つ瞬間


ちょっとーーーー!!!! 肝心なところに一切入れないってナニ!?
でも案外モラリストなワタクシ。侵入したりせず泣きながら撤退しました。

人っ子一人いなかった瞬間


持参していた周辺地図を見ながら、やむなく梁川高校の方に廻ってきました。
恐らくこの辺は三の丸ではないかと・・ってワタクシは庭園を探しています。

ついていなかった瞬間


高校から道を挟んだ向かい側はすで本丸の端っこの方にあたるんだと思う。
本丸跡には梁川小学校があったけど震災後に移転して今は発掘調査中みたい。

つくづくついていないと思った瞬間


こちらもブルーシート。中世と近代。色んなものが見つかるんでしょうか。

梁川城は13世紀に伊達氏によって創建されて以降、伊達氏の重要な城でした。
秀吉の奥州仕置で伊達氏が岩出山城に移ると蒲生氏郷が入り、氏郷の死後は
上杉氏の支配になりますが、後に梁川領は没収されて天領となり廃城となりました。

市街化で遺構も少なかった所へ、改めての発掘中で感慨薄まりすぎてるけど
政宗が初陣の時の拠点で、政宗は近くにある梁川八幡宮に戦勝祈願したそうだし、
田村氏の娘の愛姫を正室に迎える時に受け渡しされたのもココ梁川だった
とかって思えば、残念な感じながら一応は来といてよかったなとか思う次第。

せっかくだから後で梁川八幡宮に行ってティーン政宗気分になってみるつもり。

心の底からホッとする瞬間


え・・もしや庭園も見れないの?と一瞬、凶悪な顔になりかけたわww
こちらには一部復元ながら、本丸跡にあった中世庭園が残っているのです。

真夏の炎天下で風情はイマイチだったけどな瞬間


庭園の部分だけはちゃんと残ってて、発掘中でも見られるのは素晴らしい!
以前の写真を見ると、左や正面の空き地はモロ小学校の校庭だったみたい。

権勢を誇りまくる瞬間


池が「心」の字の形をしてることから「心字の池」と呼ばれています。
この庭園は伊達氏居城の時代にさかのぼるものでとても貴重なのだとか。
でも池より向こう側にある石垣の方についつい目がいっちゃうけどね。

奥州探題にもなって絶大な勢力を誇ってた時期もある伊達氏ですから
拠点として固めながらも、お金をかけて風流は外せない!って感じかw

見逃せなかった瞬間


庭園の後は、下調べで手書きしたメモを見ながら城の北側にある枡形へ。
知らなかったら絶対通らないような団地の影にひっそりと佇むデカブツ!

近寄って驚愕の瞬間


ちょっと〜デカいじゃないのーー!!枡形部分だけでもこの土木量。
改めてココで縄張図を見ると城域も広いし・・梁川城すみにおけない!!


梁川城は小学校跡地の発掘が進んで、早く改めて整備されるといいね。
あの枡形なんかも案内が道々あると行きやすいけど難しいんだろうなぁ。

しょっぱな心が折れそうになったけど結果、来てよかったな!


次は上杉時代に梁川城代を務めた須田長義と父満親のお墓参りに行きます。


興国寺にて須田満親のお墓参り<⁄u>〜に続く



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2017.05.18 Thursday 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(福島県) | 

長楽寺にて本庄繁長のお墓参り

伊達晴宗に続き、次はすぐ近くの長楽寺で本庄繁長のお墓参りをします。

法要の人が多かった瞬間


長楽寺は曹洞宗のお寺。元は上杉氏重臣本庄氏の菩提寺として越後に創建され、
慶長5年(1600)、本庄繁長が福島城主(城代)になって時この地に移りました。

黒づくめしか思い浮かばなかった瞬間


山門を入った右手には浅草屋宇一郎と仙台藩烏天狗組の碑がありました。
烏天狗組は戊辰戦争に関わって新政府軍にゲリラ戦をしかけた武闘派集団。

完全に興味がない瞬間


こちらが本堂。幕末にはここに仙台軍事局が置かれていたんだって。
法要をしていて周りに人も多かったので遠目に見つつ左の墓域へ行こ!

迷いようもなかった瞬間


目指すのは墓域にあるお堂・・と思ったら八幡神社って書いてある(*°∀°)=3
後で調べたら「武人八幡」っていう神号を主君上杉景勝に贈られたみたいです。
中には本庄繁長の木造が安置されてて、供養祭の時だけ公開されるのだとか。

面白すぎる人だった瞬間


空いてる隙間が狭すぎてレンズが突っ込めず全然迫れなかったわww

本庄繁長は上杉家に仕えた武将。川中島ほか数々の合戦で武功を挙げますが、
恩賞が少ないことを不満に思って武田信玄に内通。謙信に叛旗を翻しました。
しかし味方が集まらず孤軍奮闘する羽目になり、嫡男の顕長を人質にして降伏。
帰参を許されるものの、後には織田信長の誘いに乗って再び謙信に背きます。
が、謙信に敗れて再度帰参を許されると、以降はよく仕えました。

そして謙信の死後に起きた後継者争いではいち早く景勝の味方につき、
景勝が家督を継いだ後には新発田征伐などで貢献して重臣となりました。

慶長3年(1598)上杉家が会津移封になると繁長は福島城の城代を任じられ、
関ヶ原の際は伊達政宗の進軍を防ぐ活躍をし、戦後は景勝の命で講和に奔走。
上杉家が存続を許された後も福島城代を務め、重臣とし再建にあたりました。
慶長18年(1613)12月20日没。享年75歳。「憲徳院殿傑伝長勝大居士」。


だいぶ端折って書いてるからここじゃ全然伝わらないと思うけど、
小説とか読むと繁長さんホント色んなことやらかして面白すぎです。
やったりやられたり色々あるけど、しなやかに淡々と図太くていいのw

全部に合掌しておく瞬間


えーっと・・・どれが繁長さんの墓だろうね(汗)繁長さんの墓の他、
養子に出して大宝寺義勝を名乗らせた次男、充長さんの墓もあるそうです。


さて。気になってた繁長さんの墓まいりも出来て満足満足!
次は少し移動して伊達市の方へ。チョロっとつまんでから埼玉に戻ります。


梁川城に登城!〜に続く




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2017.05.12 Friday 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

宝積寺にて伊達晴宗のお墓参り

大隣寺で丹羽家のお墓参りした後は福島市に移動してまずは宝積寺へ。

瞬撮で終わるけど、せっかくだから政宗のおじいの墓参りをするんだ!

ひっそりしまくりだった瞬間


宝積寺は阿武隈川沿いにある曹洞宗の小さなお寺。下調べしないで来てたら、
目立たないし道も少し分かりづらかったから来られなかったかもしれない。

迷いようもなかった瞬間


ジイ様のお墓は参道を入ってすぐ左側にあります。コンパクトな境内。
本堂は恐らく参道右の小さな建物なんだけど、写真撮り忘れたね(*°∀°)=3

さりげなさすぎる瞬間


こちらが伊達政宗の祖父、晴宗公の墓所。前触れなくポンと建ってますw
葬られた経緯の説明はもちろん、墓所の案内板すらないのが残念です。

伊達もなかなか激しかった瞬間


晴宗さんは伊達家第15代当主。天文11年(1542)内政や外交をめぐって父稙宗と争い、
稙宗を隠居させて家督を相続すると米沢を居城とし、勢力の回復・拡大に努めます。

しかし子の輝宗と対立すると、晴宗は実権を輝宗に移して杉目城に隠居。
後に親子関係は修復され、杉目城に一門や家来衆を招いて催した宴では、
孫の梵天丸(後の伊達政宗)が和歌を詠んだりもしたのだとか。
天正5年(1578)杉目城にて死去。享年59歳。乾徳院殿保山道祐大居士。

分かりづらかった瞬間


墓所を示す標柱は石柵を入った内側に建ってるので写真がひん曲がってます・・
従四位下左京大夫伊達晴宗墓と書かれたこういうのがあると安心するわw

熱い男だった瞬間


晴宗の墓所は詳細不明だけど正室の久保姫が建立したと言われているそうな。

久保姫は磐城領主岩城重隆の娘で、白河城主結城氏の元へ輿入れする道中、
伊達晴宗が略奪して正室にした女性w とーっても美しい人だったのだとか。
略奪婚だけど仲睦まじかったようで、嫡男輝宗を始め6男5女に恵まれてますw

政宗だけじゃなく、良くも悪くもジイ様もアクティブで熱かったんだなw


さて、次はすぐ近くにある長楽寺に向かいます。近くとっても楽!


長楽寺にて本庄繁長のお墓参り〜に続く



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2017.05.05 Friday 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

大隣寺にて丹羽家墓所に参拝!

小浜城の後は丹羽家墓所へお参りに大隣寺にやってきました。

二本松では有名なお寺だけどお墓参りも観光さんもいない猛暑の午後ですw

いきなり悲しみっぽい瞬間


この参道で二本松少年隊副隊長の二階堂衛守と岡山篤次郎が戦死したそうな。
分かりづらいけど大隣寺と書いた標柱の後ろに戦死の地の碑がありました。

色々見てきた重みがある瞬間


大隣寺は初代長秀の菩提を弔うため、2代長重が白河に建立したお寺で、
3代光重が白河から二本松に国替になった時、一緒に移って来たんですって。

本堂は文化8(1811)年に修復で建てられたもので、戊辰戦争後には
藩主の謹慎所や藩庁後の仮事務所、藩校としても使われたそうな。

お参りせずには進めない瞬間


本堂の左手には二本松少年隊の立派なお墓があります。二本松少年隊とは
戊辰戦争に出陣した12歳から17歳までの二本松藩の少年兵部隊のこと。

以下、案内板にあった説明で印象に残った部分をちょっと抜粋。

時代の流れとはいえ、維新の夜明けを前に義に殉じた純粋にして
可憐な少年達。会津白虎隊に勝るとも劣らない壮烈な戦死を偲び、
その忠魂を讃え、心から冥福を祈る参詣者が今も後を絶たない。


思わず目がうるんじゃう瞬間


戊辰戦争中最大と言われる大壇口の戦いで果敢に戦った末に命を散らした
隊長木村、副隊長二階堂と戦死した14名の少年隊士が眠っています。

会津で白虎隊のお墓参りした時も切なくて胸が詰まるようだったけど、
どんな思いでこの子たちは・・って思うとここでも涙がこぼれそうになっちゃう。

先を急ぐ瞬間


少年隊にお参りした後は気持ちを切り替えて目的の丹羽家墓所を目指します。
境内には詳しい案内図もあったし、墓所の入り口も分かりやすいので助かります。

微妙に気になる瞬間


墓所の入り口を登っていくと左手にまず9代長富公のお墓があります。
他はみんな固まってるのに何で9代の長富さんだけ別なんでしょうか?

ぽつーんとしていた瞬間


墓前に来てみた・・手入れされるのかされてないのかこれまた微妙な。
歴代藩主が並んでるのを見ちゃうと、なおのこと寂しげに見えます。

首をかしげつつ来た瞬間


長富さんから少し進めばすぐ立地もよさ気な歴代藩主の墓所なのにw
正面の日があたってるとこが歴代藩主の、手前左側には陰墓があります。

墓域からして日陰だった瞬間


こちらは内室陰墓。藩主になっても母親が側室だった場合は表だって供養できず、
墓標など建てることも許されなかったのだとか・・・なんか切ない時代ですな。

ちょっぴりドラクエとか的だった瞬間


木立が開けて光があたり、立派な墓石が並んだ荘厳さ。何とかの祠みたいなw 
左側から8代、4代、3代、6代、5代、初代、7代と並んでいます。
2代藩主の長次さんは江戸で亡くなったので泉岳寺に葬られたらしい。

お立ち台の上だった瞬間


正面の真ん中、初代光重さんのお墓だけちょっと近くで見ておきます。
光重さんは丹羽長重の長男。陸奥白河から移って初代二本松藩主となりました。

何はともあれ合掌はしておく瞬間


父親の長秀さんは織田家重臣として色んな功績や活躍があって有名だけど、
光重さんの細かいことってそんな知らなくて・・・関ヶ原で西軍について
一度改易されたけど大名に返り咲き、代々続いてここに眠りますってことでw

こうなったらやっぱ長秀パパさんのお墓にもお参りしないといけないな!



さて、次は二本松を出て福島市に移動! 細かい所グイグイ寄ってきます。



宝積寺にて伊達晴宗のお墓参り〜に続く




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2017.04.28 Friday 12:32 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

小浜城に登城!

畠山義継の首さらし場に行ってから、車で直接の本丸攻めΣ(゚Д゚)!

何となく気づいた瞬間


ここは首さらし場に行くのに車を停めた二本松市役所岩代支所の駐車場。
山城だから麓のここらが大手門だったのね。本丸狙いでノーマークだったわw

親切すぎた瞬間


暑い中、麓から延々と登っていく体力も時間もないので車で直撃!
山道を進むけどほら、案内が出てるからナビなくても平気なのよ。

イマイチ伝わらない瞬間


本丸前に着く手前では二の丸との堀切が見られたんだけど、
草木が生い茂ってて写真だと規模が尚更分かりづらいわね・・・

よく整備されている瞬間


本丸入り口に到着!駐車場はすぐこの先に数台分のスペースがある。
2台あったから人がいるのかと思ったけど結果、誰も会わなかったな。

大事な見どころだった瞬間


本丸入り口の横に残る石垣。この部分しかないけど残ってていい!
蒲生氏郷が会津に入って支城になった頃のものらしいです。

若き政宗の拠点だった瞬間


発掘調査からの想像図付案内。これから見るのは公園になってる一曲輪。

小浜城は文明3年(1471)、大内晴継が築いたお城で、出身地の若狭小浜に
地形が似ていることから小浜城と名づけられたと言われています。

天正13年(1585)、大内定綱が伊達政宗に背いて葦名氏に組したことから
政宗の攻撃を受け落城。大内氏は会津に逃亡し、政宗が葦名攻めの拠点として、
1年ほど居城としました。葦名氏を滅ぼした後は家臣の白石宗実が入りますが、
秀吉の奥州仕置きで蒲生氏郷の支配になると、会津若松城の支城として
蒲生忠佐衛門が城代を務め、 慶長3年(1598)上杉の支配下になった後、
元和元年(1615)一国一城令で廃城となりました。

リアクションしづらかった瞬間


階段を登って本丸に入ったところ。普通に公園のようになってます。
この本丸の奥の方では政宗居城の時の御殿跡が発見されてるようです。

戸惑う瞬間


ちょっとした山の上なのにすべり台やブランコまであって本格的(*°∀°)=3
本丸だけと思って図の用意をしてないから、ワタクシ合ってる?みたいなw

大胆すぎた瞬間


と思ったら本丸内にも案内板があったので安心しながらしげしげと眺めた。
堀切見たよね〜御殿跡はアレか〜で石垣でしょ・・・遊園地!? ちょとウケるw

イメージはわく瞬間


遊園地ゾーンを抜けて進むと「戦国政宗桜」と書かれた桜の木がありました。
樹齢430年のエドヒガンザクラで、最近この名前が付けられたそうです。

アピっている瞬間


「宮森家祖大内城趾」碑は会津で酒造屋を営んでいる宮森家が建てたもの。
宮森家は葦名を頼って会津に逃げた大内定綱の子孫なんだそうですよ。

何ごともなかった風だった瞬間


小浜城には政宗手植えの松があるはずなのに標柱はあれど木は見えず。
写真とかで見るに手植えと思えぬヒョロイ松だったから枯れたのかもね・・

若い時ってやっぱ色々あるんだよねって勝手に納得する瞬間


建物なくて当時の眺めに近そうだから政宗気分で会津の方を見ておく。

政宗がこの城に入って葦名を攻めるぜ!って鼻息荒くしていたところからの
粟の巣の変人取橋の戦い・・きっと若き日のほろ苦い思い出の城なんだろうな。


政宗の父、輝宗がいた宮森城も近くだったのにワタクシ寄り忘れてスルー(*°∀°)=3
だいぶ先に進んでから気付くも後の祭り・・まぁ過ぎたことはしょうがないっす。

小浜城を後にして、次なる宮森城 丹羽家の墓参りに向かいます。
丹羽家の墓参りにウキウキして前のめったわけじゃないんだけどなぁ・・・


大隣寺にて丹羽家墓所に参拝!〜に続く




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2017.04.22 Saturday 13:25 | comments(2) | trackbacks(0) | 東北(福島県) | 

小浜城下にて畠山義継の首さらし場を探訪

称念寺から小浜城を目指してやってきました。もちろん登城するんだけど
その前に城下にある畠山義継の首さらし場と言われる場所を見に行きます。

ここも下調べをちゃんとしてなかったらきっと見つけられなかったな。
車はとりあえず二本松市役所岩代支所に停めて歩いて行きますよ。

どうでもいいインフォメーションかもな瞬間


支所から目の前を通る国道459に来ると小さい橋があるので渡ります。
コレは渡りかけ写真。渡ればすぐ。もう首さらし場は見えてるんだ。

あてにならない瞬間


橋を渡ったらすぐ右へ、川沿いの路地を入ります。案内も一応あったw
でも草ボーボーで分かってて見てなきゃ普通は見逃しちゃうと思うけど。

冬限定の案内だった瞬間


畠山義継が最期を遂げて、伊達政宗が首を晒したと書いてあります。
草を触りたくないから読めるとこしか見てないけど(*°∀°)=3

ヤブ蚊が多そうだった瞬間


川沿いの道に入って進むとすぐに赤い鳥居が見えてきます。
手前は日当たりよくて明るいんだけど鳥居から急に薄暗そうだよ。

脇目もふらずの瞬間


鳥居まで来るとお稲荷さんとその横に何かの碑があるんだけど、
変な小虫もたかってくるので、さらに薄暗いその先にぶっこみます。

ビビり気味だった瞬間


狭くてやたら薄暗い空間に傾いて古びた標柱だけぽつーん・・・
ちょっとココなんか怖いデスけど・・居心地悪くてモゾモゾします。

粟の巣で政宗に銃殺された畠山義継の首は怒りの収まらない政宗に
目玉をえぐられた状態で晒されたそうです・・・ホラーすぎ!

思い切って近寄る瞬間


標柱には「畠山義継公梟首之処」と書かれています。
これしかないのに何だか雰囲気が怖いから、サッとお参って速攻で退散!!
ワタクシお墓参りして追慕してきたから祟ったりしないでよね・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクブル


オーケ〜!!もう気が済んだから次はすぐ目の前の小浜城に行くよ!
根性なしのワタクシは支所から車で本丸跡に攻めこみますw


小浜城に登城!〜に続く



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2017.04.15 Saturday 20:10 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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