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角館武家屋敷にて青柳家探訪!

角館城をかけおりて、城下にある武家屋敷町にやってきました!

マメすぎた瞬間


お屋敷が開く時間には人手が多くなると思って、登城する前に寄って撮っといた!
桜や紅葉の方がもっと絵になるけど、夏でもしっとりした風情ある素敵な街並み。

風格漂いすぎな瞬間


街の中には見学できる屋敷が6軒あり、資料館やお土産屋さんなんかもあるから、
ホントはゆっくり散策したいとこけど、ワタクシは時短のため青柳家一点狙いよ。
上級武士にしか許されないという格式ある薬医門をくぐっていざ中へ。たのもー!

鼻息が荒い瞬間


入場料は500円。隣の石黒家が300円で、他4軒は無料って考えると少し高いのかもだけど、
お屋敷の豪華さも展示の充実も一番らしいので、絶対ハズせないからメッチャ楽しみ!

庶民にはわからない瞬間


もらったパンフレットを見ながら、まずは母屋に入って順路通りに進みます。
敷地は3000坪ってことなんだけど、ワタクシには広さの想像が全くつきません。

すでに広くてびっくりな瞬間


玄関を入ると仏間とかの和室がいくつか並んでて、柔らかな明かりや掛け時計で
レトロおしゃれですかって雰囲気だけど、よく見ると造りはとても重厚です。

セレブだった瞬間


続いてお台所とか水屋があるんだけど、調度品がお上品な漆塗りですよ!
上級武士ともなると日用雑貨までイイモノそろえるお金がかかりますね。

垂涎の瞬間


こちらはワタクシが一番楽しみにしてた武器蔵。代々伝わる鎧・兜だけじゃなく、
刀剣や装飾具、江戸時代からの文献など、貴重なお品がわんさとあります。

ワナワナしている瞬間


時代区分とか持ち主に限らず、武将や侍が実際に所有していた甲冑を見ると、
めっちゃ興奮するよね! かなり年季も入ってて長く続く家なんだなって感動。

かぶりつく瞬間


甲冑ケースの上の段には馬具があり、ケースの中には陣笠なんかもありましてね。
いちいちガン見して「へぇ」とかやってたから武具蔵だけで時間くったな(*°∀°)=3

入場料の元を取った瞬間


刀剣類も充実。武士の誇りが宿るたくさんの収蔵品に圧倒されます。
ワタクシがいる間、人が来なかったのでじっくり見られてホントよかった。

感嘆しちゃう瞬間


最後は単独で展示されていた青柳家家宝だという六十二間小星兜と二枚胴具足。
右後ろの五輪塔旗印は鎌倉時代のものだっていうし・・正座で眺めた方がいいですか?

体幹が大事だった瞬間


武具蔵の外には、本物の刀と片刃槍を持つことのできるコーナーもあります。
ちょっと持ちあげてみただけで、わかっちゃいるけど超〜重いよね。
振り上げて戦うとかナイナイ。腰にさして歩くだけでもワタクシよろめくな。

風情ただよう瞬間


武具蔵を出ると母屋の裏手の広い庭に出ます。池泉回遊式庭園ってことで、
写真にはないけど敷地の真ん中にけっこう大きな池があってすごい立派なのよ!
もしここに住んでたら、毎朝の散歩はこの庭だけで終わってもいいなってくらい。

印象が強すぎる瞬間


正面には解体新書記念館。解体新書は江戸時代に杉田玄白や前野良沢が翻訳した
ベストセラー医学書。歴史の授業で必ず習うコレ、なぜか絶対に忘れない不思議w

興味をひかれてる瞬間


解体新書は日本で初めとなる正確な人体解剖図がついてるってのが衝撃なんだけど、
その人体解剖図を描いた画家が、角館の小田野直武という武士だったんですね。

食いつく瞬間


コレコレ教科書に載ってたやつね! 青柳家と小田野直武は姻戚関係にあって、
その後も両家の関係が深いことから、画業を展示する記念館があるんだって。

さらに食いつく瞬間


で、この人が小田野さん。後ろには角館の武士だった小田野さんが解剖図を描くに至った
歩みが紙芝居風に並んでて、見始めたら興味深くて最後までじっくり読んでしまったw

直武は角館を訪れた平賀源内に絵の才能を見出され、西洋画を学ぶんだけど、
源内が江戸に戻った後、秋田本藩から産物取立役として江戸に3年の出張を命じられ、
慌てて江戸に行くと、杉田玄白らに紹介されて解剖図を描くことになったというね。

直武は角館北家(支藩)の平侍。それが急に本藩から江戸でのお役目を与えられ、
行ってみたら藩と関係ない絵を描く仕事だった・・ってちょっと変な話だけど、
当時の秋田藩主、佐竹曙山も絵を好んで、参勤交代で江戸に来ると直武を召して、
主従ともに蘭画の研究をしたっていうから、藩主の特命だったのかもしれないね。

唖然とする瞬間


最後に見たのは「武家道具館」。代々伝わる文献書籍や押絵、焼物、絵皿ほか、
2階にも箪笥やら金庫(?)などの家具が。すごい数だなって思ってたら、
どうもこれで全部じゃないらしく、どんだけ裕福で物持ちだったんだと驚いた。

広大な庭には「秋田郷土館」「幕末写真館」「ハイカラ館」などもあり、
角館の暮らしから、幕末の資料、明治の蓄音機や時計などのアンティークや、
戦争中の陸軍将校装備や軍服なんかの展示もあって、ホントもう歴史がすごい!

この辺はあんまり興味ないのと、武具と小田野さんに時間をかけすぎたので、
ワタクシはちゃちゃっと見て終えてしまったけど、でも一見の価値ありでした。

趣がある瞬間


最後は入場時、玄関側からは見えなかった母屋の反対側を見学して終了。
約200年前の建築で重要文化財。周り縁がある雪国特有の作りなんだって。

うっとりしている瞬間


ここから床の間のついた部屋が見れます。間取り図に「ざしき」って書いてあった。
古い建物特有の落ち着く感じもあるし、でも武家のキリッとした雰囲気も素敵!

青柳家、見学してホントに良かった! 500円じゃ安いくらいの見応えだった!


この後は角館から日本海方面へ、秋田市に向かっての進軍!

途中、唐松城に登城したら少し前の台風の影響で立入禁止になってた・・Σ(゚Д゚)!
残念だけど安全第一! 結果、青柳家でオーバーした時間がチャラになりましたw


闐信寺にて佐竹義重のお墓参り〜に続く


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2019.02.15 Friday 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

角館城に登城!

天寧寺の葦名家墓所に続き、今日も角館の街からスタート!

人が少ないうちに武家屋敷を見たいけど、開いてる時間が決まってるから、
まずは朝イチから気合入れて、涼しいうちに角館城に登っちゃうことにした。

あっと言う間だった瞬間


武家屋敷の街並みを出た大通り沿いにある、古城山公園の入口を車で登っていくと、
すぐ登城口に到着! 朝から標高166mも登ったら倒れちゃうかもしれないので助かるw

ついでにあの車両止めもなければ、楽に上まで行けるのにな〜と思いながら、
案内板の左手奥にある駐車場の、桜の葉が茂った日陰に車を停めてきました。

迷わず却下する瞬間


登城口を進むとすぐ右手に入ってく道があって、これは急だけど本郭へは最短。
でもワタクシ登りが急とかイヤだから、行きは遠回りだけど舗装された道を選択。

おののいていた瞬間


したものの・・・ナニコレ超〜遠い!!地味に急な坂が長すぎてビビった。
でもこっちから登る方が郭を順に見ていけるし、頑張って登らないとね。

はぁはぁしている瞬間


やーっと直線を登り切った! ここで舗装道は右にギュンと曲がるんだけど、
そのカーブの中が六郭らしい。道を作るのに削られてるせいか激狭ですけどw

ふくよかすぎた瞬間


少し進むと目の前が開けて山頂の本郭が見えます。道路以外は草ボーボーなので、
せっかくの切り岸もふんわりしちゃって、高低差や距離は少し分かりづらいかも。

スリムすぎる瞬間


そして五郭も道路の横っちょにひっそりと。知らなかったらスルーしちゃう。

角館城は中世にこの地を治めた戸沢氏が築いた城で、当時は山の上に居館があったとか。

戸沢氏は織田信長や豊臣秀吉と誼を通じ、戦国期を通じてこの地を支配しますが、
慶長7年(1602)常陸松岡に転封になると、常陸から久保田藩主として佐竹氏が入り、
久保田城の支城として、弟の葦名義広を城主としました。

葦名氏は山麓に居館を構え、現在の角館の元になる新たな城下町を整備しますが、
元和6年(1620)、一国一城令により、角館城は廃城となりました。

時短モード発動の瞬間


少し進むと左手に四郭が現れます。広くないけど斜面のへりとは佇まいが違うなw
遺構もないみたいだし、街並みは本郭から見ればいいので先へ進みます。

瞬撮の瞬間


本郭に入る前に、舗装路を挟んで反対側にある三郭をチラ見しておく。
ここもまた狭い郭で、取って付けたみたいな感じがしちゃうくらい。

なんにもなかった瞬間


そして本郭。元は居館があったってくらいだから山頂にしては平坦でなかなか広め。
今は花見の人気スポットなんだって。来るまでの坂はきついしトイレもないけど!

唐突すぎた瞬間


本郭のど真ん中には、城址碑と戸沢氏の供養塔がぽつんと建っています。
転封になっちゃったのに、あえてここに供養塔?とちょっと思ったけどさ。

分かったぶる瞬間


でも城址碑を見たら、城名よりむしろ戸沢氏の顕彰っぽくなってるから
長らく支配していた分、地元の方の思い入れがあるのかなって勝手に納得w

まあまあ残念な瞬間


本郭からの見晴らしは悪くないんだろうけど、ちょいちょい木が邪魔で、
武家屋敷の辺りとかピンポイントで見たい所の見え方はイマイチだよっていう。

ボーボーすぎた瞬間


よーし。帰りは反対側の登城道を降りてこっか!と思ったら道がなーーい!!
2郭に降りてく細い坂道は草ボーボー。おまけに2郭もワッサワサのフッサフサ。

もし変なガッツ出して最短の登城路チョイスしてたらマジやばかった(*°∀°)=3

見なかったことにして来た道を戻ったけど、長い下り坂は膝によくないんだから!



ガクガクしながら車に戻ったら、開館直後の青柳家へ突撃します。たのもー!



角館武家屋敷にて青柳家探訪!〜へ続く



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2019.01.29 Tuesday 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

天寧寺にて葦名家墓所に参拝!

払田柵の南大路で行き倒れず、何とか角館までたどり着けましたw
早くビールが飲みたいけど、ホテルに入る前にもうひとふんばり天寧寺へ!
こちらでは会津の戦国大名だった葦名氏のお墓参りをするのです。

ひっそりしていた瞬間


場所が少し離れているせいか、武家屋敷の街並みと違って人が全然いない!
まぁまぁ車が走る道路に面した山門は、角館城から移築されたものなんだって。

天寧寺は元々、葦名氏11代盛信が会津に菩提寺として開いたのが始まりで、、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田に転封に伴い、葦名氏も角館に移ったことから、
寛永元年(1624)、葦名義勝(義広)がこの地に建立した曹洞宗の古刹です。

モダーン風だった瞬間


本堂は明治18年に焼失して、昭和44年に建て替えられたものだそうです。
中には葦名家の念持仏である火伏せ観音像が納められているのだとか。

泡を夢見る瞬間


早くビールが飲みたくて、いそいそと本堂左奥にある墓域に向かいます。
ワタクシは下調べしてたけど、案内もあったしすぐ裏だから分かりやすいよ!

オンマイウェイな瞬間


墓域は仙北市指定史跡。入り口には「史跡芦名氏墓地」の碑があります。
そういえば天寧寺では説明板とかも、ほぼ「芦名」の表記になってたな。
ワタクシは前から「葦名」にしてるので、ブレずにそれで書いていますw

ひっそり佇む瞬間


中に入ると苔むした通路の先に、墓碑が並んでいるのが見えます。

葦名氏は会津最初の領主で、16代盛氏の頃には伊達氏と並ぶ勢力を誇りましたが、
17代盛興、18代盛隆、生後1ヶ月で19代を継いだ亀若丸と跡継ぎの早逝が続いたことで、
後継者をめぐる家中の争いが絶えず、盛氏の死後は次第に衰えていってしまいます。

亀若丸の死後、佐竹義重の二男義広が養子に迎えられ、20代当主になりますが、
天正17年(1589)摺上原の戦いで伊達政宗に敗北すると、義広は実家のある常陸に逃走。
後に秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられるものの、関ヶ原で西軍に組した兄、
佐竹義宣の連座で所領を没収されると、名を義勝と改めて佐竹氏と共に秋田へ移り、
角館で1万6千石を与えられ、以降、3代にわたってこの地を治めました。

不幸すぎだしミステリーすぎた瞬間


お墓は葦名義勝を中心に、義勝の正室と側室、義勝の嫡男葦名盛泰、
2代盛俊と盛俊の正室、3代千鶴丸に殉死した家臣2名の10墓あるみたい。

義勝さんは城下町の整備を精力的に行って57歳で亡くなるんだけど、
嫡男盛泰が佐竹義宣の養子になって夭逝してたから、2代を継いだのは
なんと!義勝さんが亡くなって4ヵ月後に生まれた盛俊さん(*°∀°)=3

盛俊さんは元服すると3代将軍徳川家光に拝謁し、覚えもめでためだったから、
そのまま頑張ってたら、葦名家大名復帰もワンチャンあったかもしれないけど、
まさか20歳の若さで無念の病死!3代は1歳の嫡子、千鶴丸が継ぐことに。

とーこーろーがー! この千鶴丸ちゃんも3歳で亡くなってしま・・えw

その死因ってのが父、盛俊の法要のため天寧寺に来た時に縁側から落ち、
靴脱ぎ石に頭を打ちつけたっていうんだけど、そんなことってある!?
周りに大人がゾロゾロついてるお坊ちゃまで、しかもご当主なのに!!

早死にが続きすぎて多すぎてホント怖いわ。葦名家マジ不幸すぎです。

跡継ぎがいなくなった葦名家は、藩主(佐竹氏)の命で絶家が決まり、
明暦2年(1656)、名実ともに滅亡。佐竹氏も代が変わると冷たいよね。
分家みたいなものなのに、存続させる気がなかったんだろうなって。

心を込めて合掌の瞬間


大名家って子がいないのもヤバいけど、無駄に多くても争いになるし、
後継ぎがいても次々早死すればアウト。親戚筋がアテにならんのも痛い。

家を存続させるってワタクシ達が思う以上に大変なことなんですねぇ・・

気安く語りかけながら、葦名家のみなさんに念入りにお参りしました。


さーて、これで秋田出陣初日は終了! 

ダッシュでホテルにチェックインして・・・ビールうめぇぇぇぇぇ!!


明日は朝イチの涼しいうちに城山に登る!


角館城に登城!〜に続く



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2019.01.11 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

払田柵跡に登城!

金沢柵から急ぎめで、払田柵跡(ほったのさくあと)にやってきました!

この日は新庄城スタートで、宿のある角館に向けて進軍してたんだけど、
払田柵にたどり着いた時点で、予定どおりに終われることが確定!
ですからワタクシは今、とーーっても穏やかな気持ちですw

とはいえ遅刻だった瞬間


志波城のような長い築地塀はないけど、どちらも古代城柵ってことで似た雰囲気です。
こちらも同じく総合案内所が併設されてるんだけど、16時閉館で間に合わず残念!

払田柵総合案内所では、資料展示や歴史ビデオなんかが見れらるみたい。
間に合ってたらきっと、パンフレットなんかももらえたんでしょうね(遠い目)

用心深かった瞬間


でも! ワタクシはネットで拾った案内図を印刷してきたから何とかなった!
まずは復元の外柵南門。当時は秋田杉の柵木塀が回りを囲んでいたらしいです。

城柵というのは当時、蝦夷(えみし)と呼ばれていた東北の人々を統治するため
設置された朝廷の施設で、行政府や軍事拠点としての役割をもっていました。
当時は鉾もった兵とか、都から派遣された役人が忙しく出入りしたんだろうね。

西日で焦げそうな瞬間


門をくぐると広い大路がのびのび続いてるんだけど、政庁跡マジ彼方すぎ!!
写真より実際はもっと遠くて、ペットボトル握りしめ、根性ふり絞って行ったわw

芸が細かい瞬間


大路を進んでいくと、やたら蛇行した川が流れてるのが見えてきました。
発掘調査でくねくねした川があったことが分かって、復元されたんだって。

色々あなどれない瞬間


川にはしっかりした橋もかかってます。発掘調査を元に復元されたもので、
地中には遺構が埋まってるから、影響を与えない工法で施行されたんだって。

立派な橋にも驚いたけど、よく見たら先がまだ長くてもっと驚いた(*°∀°)=3

東北最大規模だった瞬間


汗をふきふき歩いて、やっと総合説明版のある場所にたどり着きました。

現在、払田柵跡として整備されてるのはほんの一部で、全体は超〜広大!
87.8h…なんと東京ドーム18個分の広さとか! とにかく広いのは分かる。

で、帰り道に気づいたんだけど、周辺の道沿いあちこちかなり遠くまで
「この下に払田柵が眠っています」って標柱があるのを見て勝手に納得w

ミステリーだった瞬間


これは説明版の前にあった西建物跡の表面展示。色々発掘されてるね!

でも払田柵ってこの規模の城柵なのに、文献に一切記載がない謎の柵で、
発掘された材木の年輪から、801年頃に築かれたことが分かったくらいで、
そもそも払田って名前も地名を取って後から付けられたものなんだって。

太平洋側は志波城、日本海側に秋田城、で中間にあったのが払田柵でしょ。
蝦夷支配の最前線みたいに並んでいながら、文献に無いってすごい不思議!

わかりやすかった瞬間


これは大路を挟んで反対側にある東建物。復元だと大きさや雰囲気わかる!
この辺は政庁に近いから、役所みたいな施設だったと考えられてるみたい。

テンション上がる瞬間


おお・・やっと外郭南門が近くに見えてきた! 払田柵っていったらここが
すぐ思い浮かぶぐらい印象的。あえて柱だけっていうのがかっこいいんだわぁ。

門の両側にある石塁は、発掘調査の成果に基づいて復元されたもので、
西側の下部は1200年前の実物遺構だとか! よくわからなかったけどw

ちょっぴり神秘的だった瞬間


外郭南門は発掘調査の後、遺構保護層を設けて柱列の真上に復元したもの。
遺構はクリ材など柱直径60cmだけど、復元は青森ヒバで直径も50cmなんだって。

たどりついた瞬間


石段を登ってようやく政庁跡のある丘の上に到着!しっかし遠かったわぁ。
この丘の辺は長森って場所で、払田柵自体が小丘陵地にあるらしいんだよね。

雑すぎた瞬間


こちらが政庁跡。中心的な施設で、板塀に囲まれた建物だったみたいよ。
全体をイメージするのは難しいから、まぁまぁ大きいやつを想像しておく。

納得している瞬間


政庁前には説明版があって、想像図と一緒に表面展示を見るとわかりやすい。
政庁と正殿の東西にも建物があって、平安京ぽい雰囲気だったんだろうね。




政庁他の建物も建ってたら、結構ギューギューだったかもしれないけど、
この左右に広がるそれぞれの丘の上にも色んな施設が建ってたそうです。

政治以外に祭祀や儀式、蝦夷への供応なんかも行われてたっていうから、
とっさに阿弖流為(火怨)を思い出して、分かった風な空想をちょっとだけしたw

我に返った瞬間


で、満足して振り返ったら・・・ちょw 外柵南門マジで遠すぎじゃない!? 
夕方なのに西日の紫外線もハンパないんだよねぇ。穏やかだった気持ちドコ 笑   

角館で飲む冷たーい生ビールを夢見て、干からびかけて車に戻った(*°∀°)=3

さぁ、ホテルに入る前にもういっちょ! 日が沈むまで頑張って活動する。


天寧寺にて葦名家墓所に参拝!〜に続く



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2018.12.28 Friday 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

金沢柵に登城!

平安の風わたる公園から金沢柵にまっしぐら!怒涛の勢いで押し寄せました。
近くにある「後三年の役資料館」は、時間がないから見なかったことにして(*°∀°)=3

押し寄せる瞬間


通りに出てた案内にそって一気に柵前に到着! 駐車スペースもあって安心!
後三年の役資料館から歩きだと、小山を登るしまぁまぁ大変じゃないかと思う。

縄張図の載った案内を見ると「柵」じゃなく「金沢城跡史跡案内」と書かれてた。
今ある遺構は戦国期の山城で、実は金沢柵は場所の特定がされてないんだって。

だいたいこの辺ではあるけど、発掘調査しても後三年の役の頃のブツが出ない。
だから特定できない、ここだと断定できないってことなんだと思うけど、
ワタクシは後三年の頭で来てるから、細かいことは気にしないで行く(*°∀°)=3

だから今回の記事のタイトルも「金沢柵に登城!」で行くことにした次第。
(後三年の役が起きてから金沢柵の攻防に至るまでのことは前回の記事を見てね)

備えあれば憂いなしの瞬間


パンフレットとかは置いてないので、印刷してきた縄張図を見ながら登城開始!
下から登りだとツライけど、ここからなら階段を登るだけだから足取りは軽やかw

金沢柵は平安時代に清原氏によって築かれたもので、後三年の役では
清原家衡、武衡が籠城するも、源義家・清原清衡の兵糧攻めにより落城します。

長禄2年(1458)には南部氏の家臣、金沢右京亮が入って居館とし、
その後、小野寺氏に支配が移ると家臣の金沢権十郎の居城となりました。

関ヶ原後の慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に入ると本城候補にあがるものの、
久保田城が本拠になると、元和8年(1622)一国一城令により破却されました。

すぐ到着で安心な瞬間


階段を登って整備された通路を進むと「兜杉」と「兜八幡神社」が見えてきます。

兜杉は源義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めて上に石を置き、そばに記念のため、
藤原清衛が植えたと言われるもので根回り7.45m、樹齢900年の立派な杉でしたが・・・

妄想かけめぐる瞬間


昭和58年に失火により焼失して、今は切り株(の形の表皮)だけ残ってる状態。
真ん中が兜を埋めた上に置いたっていう兜石。ホントかは別としてちょっとロマンw
そして兜八幡神社は、八幡太郎義家と弟の新羅三郎義光を祭ったものなんだって。
義光は苦戦する兄を助けるため、官職をなげうって参戦したと言われてます。

厳かだった瞬間


兜杉から少し進めば二の丸跡。ここには金沢八幡宮が建立されています。
中央でしかも一番高い位置にあるから、本丸ぽく思えるけど二の丸だって。

こちらは後三年の役が終わった寛治7年(1093)、源義家が出羽鎮護のため、
藤原清衡に命じて京の石清水八幡宮の神霊を勧請して創建したものなのだとか。

重みを感じる瞬間


新羅三郎の末裔である佐竹氏の尊崇が特に篤く、佐竹氏が秋田藩主になった後、
慶長9年(1604)以降には、数回にわたって修改築されてるそうですよ。

鳥肌たちまくりの瞬間


拝殿の左側の方から堀底に降りて、向こうに見える北の丸に行ってみるよ!
ヤブ蚊の他に、羽音のする変な虫も飛んでるのが超イヤだけど頑張ります。

鼻の穴を広げる瞬間


右が北の丸側の土塁。二の丸の方が3倍くらい?だいぶ高い感じかな。
山城で堀底を歩くのも久々な気がするけど、囲まれるって落ち着くねw

ものぐさする瞬間


北の丸はまぁまぁ広め。写真だと分かりづらいけど低い土塁に囲まれてます。
近く行って見てないんだけど、屋根のあるところは土俵になってるのだとか。

深く考えてなかった瞬間


北の丸の次は兵糧倉跡へ。ここの土中からは今でも焼米が出てくるんだって。
案内板には「後三年の役の兵火にかかり消失した糧食」とも書いてあった。

清原家衡は兵糧攻めで食料が尽きたから、火を放って逃げたと思ってたけど、
そうか、無くなる寸前にサッサと逃げ出したパターンもあるんだなぁと思いかけ、
あ、でも金沢柵の場所は特定されてないんだっけって思い出し、少しだけ悩んだw

といいつつ、すぐ「まーいいか!」って後三年モードに戻ったけど(*°∀°)=3

早足になる瞬間


兵糧倉跡を奥に進んで本丸に向かいます。左側が本丸。二の丸くらい高そう。
まーしかし、蜂とも虻とも違う感じの変な虫がいっぱい飛んでて気持ち悪いです。

金沢柵での兵糧攻めは日本史上、初めて行われたと言われてるんだけど、
投降させない方が兵糧が早く減るっていう吉彦秀武の進言を受けた源義家は
投降しようとする女子供を容赦なく斬ったんですってよ!! こわいわぁ…

八幡太郎義家って武士たち憧れの英雄って印象が強いからうっかりするけど、
戦いの場面はキレイごとばっかじゃないんだってことも忘れちゃいけないね。

エキサイティングな瞬間


本丸はかなり広い! 発掘調査で12世紀頃の焼き物だったか?・・が出てるんだって。
後三年の役よりは後だけど、でもその頃から何かしらはあったってことなんだ!!

勝手に納得する瞬間


本丸を見たら一旦駐車場に戻って、道の向かい側にある西の丸を見に行きます。
駐車場になってるところも、当時は郭の一部とかだったのかもしれないね。

虫もいなくて快適だった瞬間


西の丸は長細い! どういう役割の郭なのかは説明がなくて分からなかった。
金沢柵って木立が多いせいか、通路の草が少な目で歩きやすくてとてもいい!

ショッキングな瞬間


だけど長細を進んでいった奥にある肝心な堀切の所だけ、このありさま(*°∀°)=3
草ボーボーでよく分からないけど、幅4〜5m、深さも2mくらいあったのかなぁ。

あきらめが早い瞬間


道路を右奥に進めば、本丸側の尾根筋にある5連続堀切近くまで行けるぽいけど、
西の丸の堀切があのヤブヤブだったから、厳しいだろうなと思ってやめておいた。


余談だけど、車に戻って帽子を取ったら尺取り虫がついててギョッとなり、
何気なく肩先みたらTシャツにも張り付いてたから、ちょっと気が遠くなった。
お尻で踏みつぶしたりしてないか、慌てて車を降りて確認しちゃったわよん。

やっぱ本丸周辺だわ。変な虫とか糸みたいなピラピラにマジ注意!!



さーて、これで後三年の役クリア! 次はもっと時代をさかのぼる!


払田柵へ登城!〜に続く



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2018.12.14 Friday 15:04 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

後三年の役古戦場に出陣!

横手城から少し走って「平安の風わたる公園」にやってきました!
後三年の役の古戦場である西沼を中心に作られた歴史公園です。

学生の頃は試験用に覚えるだけで興味のない時代や出来事も多かったけど、
大人になって自由に勉強して繋がりがちゃんと分かったら面白いこともあって、
食わずキライでだいぶ損してたな〜ってのが意外とあるんですよワタクシ。

後三年の役とか完全にそっち。学生の頃なら絶対に来てなかったと思う。

たどり着いた瞬間


ナビに出ず、横手からとりあえず国道13号を北上したら案内が出てきて助かったw
近くに来れば案内看板も出てくるし、管理事務所ではパンフレットも貰えます。

お金がかかってた瞬間


源義家(八幡太郎)が金沢の柵に向かう途中、この沼を通った時、飛んでいた雁が
突然、列を乱したことから敵の伏兵がいることを察知し、難を逃れたという場所で、
公園はそれにまつわる壁画レリーフや銅像などがあってなかなかの充実ぶりです。

義家伝説な瞬間


壁画レリーフは源義家が伏兵に気づいて戦いをしかける「雁行の乱れ」の絵から、
後三年の役ダイジェスト解説にあわせ、他の2場面が描かれていました。

後三年の役ってさ、ちゃんと説明するとまぁまぁややこしくて長い話になるけど、
超簡単に言えば、清原一族の相続争いに源義家が加わった戦いのことなんだわ。

でもせっかく現場に行ってきたのにそれで終わったら身も蓋もないから、
少しかいつまんだところを書いてみるよ! まぁ全く自信ないけど(*°∀°)=3

センスがよすぎた瞬間


公園中央には後三年の役メインキャスト4人の銅像が対峙するように立ってます。
手前2人がチーム義家、奥2人がチーム清原。間には古戦場地図や系図まで!

この公園って単にお金をかけてるだけじゃなく、あちこちすごい凝っててさ、
横手市がどんだけこだわりを持ってるか、気合入れたかってのが分かるよね。

おさらい中の瞬間


今いるのが後三年の役古戦場でしょ。金沢柵は近くにあるから後で行くとして。
で、右上にある「前九年の役」。やっぱりもれなくセットになってるんだな。

前九年の役っていうのは、陸奥(宮城・岩手)で謀反を起こした安倍氏征伐のため、
源氏のトップ源頼義・義家父子が朝廷の命で乗り込むものの、源氏軍だけで倒せず、
出羽(山形)の清原氏の力を借りてやっと平定できましたって出来事のこと。

まー長い話だからとりあえず細かいことはさておき、そんな話だよってことで、
とにかく源頼義(義家の父)、清原氏、滅んだ安倍氏ってところを覚えておく。

で。安倍氏に代わって陸奥を支配することになった清原氏は、安倍方の武将、
藤原経清の未亡人(安倍氏の娘)を妻にして、連れ子の清衡を養子にするんだけど、
その後、2人の間には家衡が生まれ、複雑な兄弟関係のいっちょあがりです。

清衡⇒次男 安倍氏(藤原氏)の血を引く養子
家衡⇒三男 清原氏の血を引く実子

とはいえ清原氏には真衡という嫡男がいて、跡を継ぐことは決まってるけど!

・・・っていう状況が清原氏の中に出来て、そして前九年の役から20年。

清原を継いだ真衡は子に恵まれず、他から養子を迎えて成衡と名乗らせ、
源義家の娘を娶ることになるんだけど、そのお祝いに真衡の叔父・吉彦秀武が
大量の砂金を持って来たにも関わらず、真衡は囲碁に夢中でシカト(*°∀°)=3

面目をつぶされた吉彦秀武は激怒して、砂金をぶちまけて帰っちゃうんだけど、
真衡がこの態度に逆ギレして、当主に対してけしからんと成敗の兵を送るわけ。

すると吉彦秀武は清衡と家衡を援軍に呼んでくる。跡継ぎから外されて
めっちゃ不満を持っている弟二人が敵になると、真衡は分が悪いじゃない?
そこで真衡は源義家に援軍を要請。そしてついに後三年の役が始まるんです。

吉彦秀武(兄弟の叔父)
清原清衡(養子の次男)
清原家衡(三男)

VS

清原真衡(嫡男 清原当主)
源義家(陸奥守・清原氏と婚姻で親戚)

さんざんワーワーやった結果、源義家の力で真衡が勝利し、第1ラウンド終了!
と思いきや、その直後なんと! 勝利した真衡さんが急死してまう(*°∀°)=3

で、今度は弟二人の間で跡継ぎ問題が勃発し、第2ラウンド開始となるんですね〜
ちなみに真衡の養子になった成衡どした?って感じだけどワタクシ良く知ませんw

ビッグネームが並ぶ瞬間


古戦場図を挟んでそれぞれの銅像よりに源氏方、清原方の系図もありました。
ザックリしすぎな気もするけど、清和源氏パワーのすごさはわかりますとも!

で、第2ラウンドの話しね。今度は兄弟で当主の座をめぐるマジな争いです。

真衡の死後、陸奥守である源義家が領地を兄弟で半分ずつにするよう命じたので
落ち着くと思いきや、これに納得できない家衡は「養子のくせにマジぶっころ!」
と清衡の暗殺を企て、しくじると屋敷を襲撃して妻子を皆殺しにしてしまいます。

運よく逃げ延びた清衡は義家に助けを求め、沼柵へ家衡をやっつけに行くんだけど…

清原清衡(安倍の血を引く養子の次男)
源義家(陸奥守)

VS

清原家衡(清原の嫡流の三男)
清原武衡(兄弟の叔父)

季節は冬だわ、土地勘はないわ、家衡軍の抵抗も激しいわで一次退却(*°∀°)=3
家衡はその間に要害の金沢柵に移り、叔父の武衡とともに迎え撃つ体制を整えます。

そしていざリベンジ!の時が来て、ここで最初にご紹介した義家伝説!
雁の乱れで伏兵を見破るイベント発生⇒金沢柵兵糧攻めに続いていくんです。

それではここでデスマッチ参戦のみなさんに入場していただきましょうw

武者姿が意味深だった瞬間


まずはチーム清原の家衡さん。多分ちょっとヤバい奴だったと思います笑
当主真衡にかみつき、清衡を狙ってミナゴロシまでやらかすおっかない末っ子。

暴走の末路は悲惨だった瞬間


金沢柵の要害にこもる家衡さんもなかなか強かったらしいけど、長い間の
兵糧攻めで孤立すると最後は火を放って逃げ、捕らえられて斬首されました。

調子がよかった瞬間


そして次が清原武衡さん。このおっさんは家衡が沼柵で清衡・義家を撃退したら
かけつけてきて「義家ほどの名将を破るのは家の名誉!」と言って家衡を支持。

そうは問屋が卸さなかった瞬間


金沢柵に移ることを勧めて一緒に籠城するんだけど、兵糧が尽きると降伏。
でも許されず落城時に捕らえられると、命乞いもスルーされ斬首となりました。

1人勝ちだった瞬間


対するこちらはチーム義家の藤原清衡さん。戦い中は存在感めっちゃ薄いけど、
最後にすべてを手に入れた持ってる男です。名前も父姓の「藤原」に戻してね。

棚ボタにもほどがある瞬間


で、平泉で繁栄を極めた奥州藤原氏の祖になるワケです。清原と血縁ないのに一番得した人w
死にもの狂いで勝ち取ったとかじゃないってところがミソよね。あやかりたいわ。

武者姿がよかった瞬間


ラストは源義家さん。リベンジで金沢柵に攻め寄せるも防備が固くて崩せず、
吉彦秀武の献策を入れて兵糧攻めを行い、長いこと包囲した末ようやく勝利!!

男気はいつだって大事だった瞬間


のはずが、義家さんはウハウハの清衡と対照的に踏んだり蹴ったりエライ目に。
朝廷が「清原の相続争いに勝手に介入した私戦」として恩賞をくれないどころか、
戦中の納税を怠ったとして陸奥守まで解任され、エリートから一気に窓際へ転落…。

でも義家さんはえらかった! 朝廷から恩賞がでなかったにも関わらず、
部下に私財をなげうって恩賞を出したことで、関東武士からの好感度急上昇!

素寒貧でもかっこいいよね。さすが武士のあこがれ八幡太郎だわぁっていうねw

まーこんな感じで後三年の役の大筋はだいたいオッケーでしょ!
金沢柵での攻防はこれから現場に行って、また色々妄想してみましょ。

横着する瞬間


公園内には三連の「雁がね橋」もあって実際に渡ることもできるんだけど、
ワタクシは暑いから億劫で写真だけ。おまけに適当な場所から撮った(*°∀°)=3

満足度マックスの瞬間


平安の風わたる公園やっぱり来てよかった!来ると勝手に盛り上がれるw
よーし。じゃあ次は、八幡太郎義家のつもりで金沢柵に押し寄せていこう!



金沢柵に登城!〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.11.30 Friday 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

横手にて本多正純のお墓参り

横手城からお城の東南の方にある本多正純のお墓にやってきました。
お城からも歩きでこれなくないけど、駐車場に戻ることも考えるとなかなか遠い!
で、事前調査でよくよくよーく調べたら停められそうだったから車で来てみた。

ホッとする瞬間


横手公園からいったん外に出て、ワタクシは簡易裁判所を目印にしてね。
するとほどなく案内を発見!さりげない「P」も嬉しいじゃないですか!!

本当にありがたい瞬間


駐車スペースは案内のところから少し先へ進んだ右手。ごっつあんです!
所有者の方はもちろん「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」にも感謝です。

うっかりしていた瞬間


いそいそとお墓に向かいます・・・あ!正純「父子」の墓だった(*°∀°)=3
息子さんの存在に気づいてなかったけど、一緒にお参るからまぁいいね。

顕彰されていた瞬間


一角がきれいに整備され、墓碑の他、案内板や句碑なども建っています。
明治41年に横手区裁判所や検事局職員の方が建立したものなんだそうです。

合掌の瞬間


左が子の正勝、右が正純さんの墓碑。白い花が活けられてお手入れされてる!

永禄8年(1565)、三河に生まれた本多正純は父の佐渡守正信とともに
家康の側近として重用され、家康の死後は老中として秀忠に仕えました。
家康存命中の慶長13年(1608)に小山藩3万3千石の大名に取り立てられると
後に2万石加増。元和5年(1619)にはさらに宇都宮藩15万5千石に加増されます。

しかし元和8年(1622)、釣り天井事件などの嫌疑を突きつけられ所領没収、
由利5万5千石へ転封を命じられます。ところが謀反に覚えのない正純は拒否。
これが秀忠の怒りに触れ、本多家は改易。佐竹家預かりで由利に配流となります。
寛永元年(1624)、佐竹義宣に召し預けになると正純は横手に移され、
厳重な監視のもと幽閉生活を送り、寛永14年(1637)73歳で亡くなりました。

息子の正勝さんは体を壊して、寛永7年(1630)35歳で亡くなったって。

大人の事情は色々と複雑だった瞬間


「本多上野介正純父子終焉之地」の碑とともに、父子が横手で寂しく
生涯を終えることになったいきさつ(超ダイジェスト)も案内されてます。

釣り天井事件っていうのは、正純の失脚を狙った言いがかり的なやつです。

元和8年(1622)、2代将軍秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、
宇都宮城に泊まることになったことから、正純が城の普請や造営を行ったら、
「秀忠を暗殺しようとして釣り天井を造った!」という嫌疑をかけられた挙句、
鉄砲密造や城の無断修築とか他の罪まで着せられて失脚させられたという…。

結局、釣り天井は存在しなかったことが後になって判明したらしいけど、
自分の城で天井を落として殺すとか普通に考えてマジないから(*°∀°)=3

でもさ。狙ったが最後。無理をゴリ押す幕府もやっぱ怖いなって思う反面、
そうまでして排除される正純さんも相当アレレな所があったんだろうなって。
秀忠やブレーン世代にとっては、許しがたいウザさだったのかもしれない。

さみしさあふれる瞬間


墓所には正純が横手で詠んだという句が刻まれた碑もありました。

「陽だまりを恋しと想ううめもどき、日陰の紅を見る人もなく」

正純さんって才気ばしったイメージがあるけど、晩年は見る影もなく。
政権の中心から一転、幽閉の身となった日々はさぞ寂しかっただろうね。


さーて。お参りが済んだら車に戻って次へゴー!
江戸時代からいっきに平安後期に行くわよ!!!


後三年の役古戦場に出陣!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.11.23 Friday 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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