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館山城に登城!

[戦国] ブログ村キーワード

里見氏三代のお墓参り済ませて、なんとか日暮れ前に舘山城に到着!
なんたって正月3日だから日没はともかく、写真撮るリミットが厳しいわ。

驚きの大混雑だった瞬間


今は観光用のお城になっている館山城は大型駐車場が完備されてるんだけど、
夕暮れのこの時間で空き数台Σ(゚Д゚)! 昼間来てたら完全に駐車待ちでしたな。

足場に萎え萎えの瞬間


駐車場から完全に舗装された道を通って小山を登っていきます。隣接の公園には親子連れ、
天守に向かう舗装路も老若男女人だらけ。よく考えたら館山周辺って普通に観光地だもんね。
立派な模擬天守もあるし、山から海も見渡せるので大人気観光コースのひとつなんだわ。

何かとテンション上がらなかった瞬間


舗装されたコースではあまり曲輪っぽいところが感じられないまま何となく本丸に到着。
太平洋戦争時には高射砲台が置かれ、かなりの部分が破却されてしまったそうだから仕方ない。
模擬天守自体に興味もてなくても、あればあったで城のある風景として写真映えはするから運悪い。
最近は城跡が多くて忘れてたけど、そういやワタクシ工事の遭遇率がすごい高いんだったわw

癒された瞬間


正月三日、房総半島にて海を見渡す・・・海なし埼玉県民の上、近頃は山ばっか行ってるから
海を見るのは超おひさ。正直、館山城は未攻略で残すのがイヤで寄ったって感じがあるけど、
この風景を見て何となく気持ちがすーーーっとしたから、まぁ来てよかったわとw

残念すぎた瞬間


左に見える木は桜。綺麗すぎる白亜の模擬天守があって桜が咲いてたら見栄えがするだろうね。

舘山城は里見氏8代義頼が築城を始め、病没後に子の義康が引き継いで天正18年(1590)完成。
本拠地を館山城に移しますが、その年の北条征伐での遅参や私闘を禁ずる惣無事令違反を咎められ、
支配していた上総下総は没収、安房9万石の舘山城に押し込められる形になってしまいます。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍についた里見氏は3万石加増されて12万石となり、
一時は関東最大の外様大名となります。しかし10代忠義の時、孫娘を娶っていたことから
大久保忠隣の改易事件への関与を疑われ伯耆に改易され、その後さらにその地も召し上げられ、
忠義が29才で病死すると嗣子がなかったことから里見氏は断絶しました。

舘山城は里見氏が伯耆改易の際、廃城となり破却されてしまいます。江戸期に館山に入った
稲葉氏は城を再建せず山麓に陣屋が置いて政庁としました。太平洋戦争時にはこの地に駐屯した
高射砲台部隊により城跡が改変され昭和57年、博物館分館としてこの模擬天守が建てられました。

栄枯盛衰だった瞬間


舘山城は里見氏最後の地。本丸の片隅に碑があるので里見氏を偲んでみたいと思います。

勝ったり負けたり頑張ってぶんどった上総下総を秀吉に取り上げられちゃって・・・
関ヶ原で復活したと思いきや、力のある外様は邪魔だと今度は家康に目の敵にされて・・・
挙句の果てには配流されてお家断絶・・・気の毒すぎるわ。サルとタヌキ恐るべし。

首をかしげていた瞬間


碑には「里見城跡」と書いてあるけど、里見城っていうのは未攻略だけど群馬にもあるのよ。

里見氏というのは新田の流れを持つ家系で新田義重の三男、義俊という人が今の群馬県・・・
上野国碓氷郡里見郷に居を構えて里見氏を名乗り、それから何たらかんたらあって安房移住。
安房里見氏の祖は義実とされるけど、元をたどれば源氏の新田さんだから名門のお家柄です。
そういえば川も新田義重の四男義季がルーツらしいから、色々複雑だわ〜と思いつつ、
群馬県高崎市には義俊の頃の里見城跡ってのが残ってるので、そうなの〜とも考えたり。

微妙にヤラシかった瞬間


そう思いながらシゲシゲと碑を見ていたら、なんと!よく見れば小さい「ノ」が入っとるやん。
そうだよね〜舘山城だもんね。里見城じゃないわよね・・・てか紛らわしいからダメでしょw

のんびりしすぎた瞬間


おっと〜碑の前で里見氏を偲ぶのが長すぎて、いよいよ日が暮れてきました。
ワタクシが館山城に寄ったのは、八遺臣のお墓参りをしたかったのが大きな理由。
観光さんは元きた道を引き返しますが、ワタクシは裏手を進み尾根を降りるのです。

雰囲気が出てきた瞬間


舘山城は八遺臣のお墓の場所は確認しただけで縄張図とか何も持ってないんだけど、
観光化されてない裏側の尾根筋は小さい曲輪みたいなところや堀切らしきものも少々。

里見氏ワイルドだった瞬間


ズンズン進んで行くとほら、こんなところも。どう考えてもコレ削ってるでしょ。
寒くなってきた薄暗い木立の中で、里見氏がいた頃の戦国の山城の雰囲気を勝手に感じます。

ヨロついていた瞬間


案内図とかはないから合ってるのか心配だったけど、尾根筋を降りてやっとお墓に到着! 
しまいにゃこんなところを降りて・・八遺臣のお墓は狭い窪地のような場所にひっそりと。

おもむろに合掌の瞬間


伯耆倉吉に配流された里見氏10代忠義は、29歳の若さで失意のうちに病没します。
家臣8人が殉死し、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されました。
忠義は殉死した八賢士とともに伯耆倉吉(鳥取県)の大岳院に手厚く葬られ、
その後、里見氏の遺臣が分骨して持ち帰り、ひそかに舘山城の南麓に埋めたのが
このお墓ということで。ドラマや舞台の出演者なんかはお参りするそうですよ。

気が利かなかった瞬間


場所は他にもあるんだから何も卒塔婆の後ろに立てなくてもいいのに・・読みづらい!

伯耆倉吉3万石に転封された忠義でしたが、実際に与えられたのは4千石ほどで城もなく、
大岳院の門前の屋敷で暮らしていたのだとか。これだけでも気の毒極まりないのに、
後には国替えで来た鳥取藩主の池田光仲に4千石すら取り上げられ、まさかの100人扶持に!

名門の大名から一転、困窮し辛酸なめ尽くす暮らしへ・・そんな忠義に寄り添って仕え、
最後には後を追って殉死だもん。日本人のハートわしづかみ。讃えられないはずがないです。

すごい想像力だった瞬間


安房里見氏の祖、里見義実の時代を元に滝沢馬琴が書いたのが南総里見八犬伝。

館山城主安西景連に攻められた義実は景連を討ち取れば娘の伏姫を与えるとし、
これを果たした愛犬八房が伏姫を連れ、富山の洞窟に籠ってしまいます。
伏姫の許嫁だった金碗大輔が姫を取り戻そうと洞窟に向かい八房を殺害しますが、
八房の気を感じて懐妊していた伏姫は純潔を証明するため自害。
この時、伏姫が身に着けていた数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が
浮かびあがった八つの玉が飛び去って行き、法師となった金碗大輔が玉を求めて旅に出ます。

で、かくかくしかじかありながら、犬で始まる苗字と八の文字が浮かぶ玉を持った
八人を見つけて義実の元へ帰り、家臣として里見の危難を救った八犬士はそれぞれ
義実の孫娘をもらって後に子に家督を譲ると、富山に姿を隠して仙人になりましたとさ・・

滝沢馬琴はこのフィクションをリアル里見八賢士にヒントを得て書いたと言われています。
江戸時代のベストセラー南総里見八犬伝。馬琴さんは線香の一つもあげたんでしょうか。

なぜか反省している瞬間


戦国時代というとついつい西に注目しちゃうけど、里見氏も安房で170年くらい続いた
ゴリゴリの戦国大名。今回は真里谷城久留里城、そしてこの舘山城に登城したことで、
上っ面だけにしても真里谷氏や里見氏を多少なりとも知れたいい機会になったわ。

いつでも行ける近場は後回しとか、関東は地味だからとかってのはダメだね。
色んなことがどこか必ずつながって・・・やっぱ戦国時代はおもしろいです。


千葉攻略はこれにて終了〜

次回からは遠攻近スルー反省の気持ちが薄れぬうちに出陣した栃木攻略ですw


善導寺にて榊原康政の墓参り〜に続く。




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2014.04.12 Saturday 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) | 関東(千葉県) | 

久留里城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

真里谷城と真如寺で武田ワールドを堪能した後は久留里城に登城です。

ひるんだ瞬間


正月3日だから休館は別にいいとして、貸出杖が置いてある方が少々気になります。
久留里城が高い所にあるのは分かっていたけど、思った以上に心の準備が必要そうよ。

覚悟を決めた瞬間


まっすぐ舗装の坂道でも行けるけど、ワタクシは右に曲がって未舗装の古道を行きます。
天守は模擬の久留里城。どうせ登りきついの同じなら少しでも城の面影を味わうのです。

戦意喪失しかける瞬間


ワタクシちょっと甘く見てたのよね、久留里城ちょいとした小山の上くらいのイメージで。
戦国時代には房総の名城と言われたそうだから、こんくらい普通ね・・頑張っていきましょ。

地道に進む瞬間


信長の野望では何となく攻めるのめんどい感じの印象がしてわりと相手にしないで
放置することが多い久留里城。しかし本日はこの坂道からリアルに攻略の1歩を進めます。

イマイチわかりづらかった瞬間


尾根を伝う古道を歩いて行くと、曲輪や堀切なんかの遺構が見られます。
まず見えてくるのが火薬庫跡。誰のどの時期にあった火薬庫なのかわからないけど。

イメージは里見だった瞬間


進んで行くと遺構なのかは分からないけど、こんな雰囲気のある場所もありました。

久留里城は戦国初期に上総武田氏の祖、武田信長が上総守護代となって真里谷城や府南城を
築いた後に築城されたと言われます。武田信長の孫、信興の時に名を改めた真里谷氏
この地を支配していましたが天文年間、安房の里見義堯が攻略し本拠地としました。

里見氏はその後、北条氏と争い一時は城を奪われるものの2年後に奪還しますが、
天正18年(1590)の小田原攻めの遅参で秀吉の怒りを買い、上総は没収されます。
そして関東が川氏の支配になると大須賀忠政が3万石で入封して以降、土屋氏、
黒田氏が9代続いて明治維新を迎え、明治5年、建物は解体されました。

見晴らせた瞬間


さらに進むと堀切が。そこそこ高く登っているので急崖下の方まで断ち切られています。
ここまで生い茂る樹木でまったく見えなかった麓の様子がよく見えるようになりました。

少々ヨロっていた瞬間


ここまで来ればあと少しで薬師曲輪と二の丸。ここから舗装路にも合流できます。
が、ワタクシは引き続き、息切れしながら前かがみで最後のひと踏ん張りよw

メガ城郭だった瞬間


二の丸のすぐ下にある薬師曲輪に到着〜!三の丸や外曲輪、大手門跡などが丸見えます。
真ん中の開けた辺りはほぼ城域だったようなので、山と麓合わせると相当大きいわよね。

人だらけだった瞬間


すぐ上の二の丸にやってきました。ここは長屋塀が復元され、久留里城資料館なんかもあります。
資料館には久留里城の模型なんかが見られるらしいんだけど、正月三が日でこの日は休館。

食いつかなかった瞬間


二の丸には新井白石さんの銅像もあります。歴史の教科書にも出てくる有名な学者ですね。
徳川時代に久留里城に入った大須賀忠政が関ヶ原の功で3万石加増され横須賀城に移った後、
入封した土屋氏の江戸屋敷で生まれた新井白石は2代利直に仕えて久留里で過ごしたそうな。
だから銅像があるんですね。勉強したこと忘れたワタクシ的に印象まったく薄い人ですがw

台無しだった瞬間


天神曲輪なんてのも残っていますが、建っているのはおそらくお手洗い・・・Σ(゚Д゚)!
案内板もあるけど天神曲輪そのものの説明ではなく、一般的な曲輪の意味の説明でした。

さらに人だらけ城だった瞬間


やっと上まで登りきり〜!! 昭和54年に建てられた模擬天守はどっかのに似てる気が。
正月三が日だってのに家族連れやら熟年さんやらけっこう人がいるのに少々驚きです。

思いのほか地味だった瞬間


模擬天守の横には天守台跡が残っています。黒田氏時代に再建された時の天守台跡で、
発掘調査で礎石なども見つかり、二層二階であったと推定されているんだそうです。

イマイチだった瞬間


本丸には城址碑ではなく再建記念碑が建っていました。普通の城址碑のがありがたいわ。
記念碑の後ろには土塀跡があります。発掘で土塀が回っていたことが分かってるらしい。

勇者にはなれなかった瞬間


人が多くてイケてない模擬天守のある本丸奥の方に怒田方面に向かう尾根が続くんです。
小さい曲輪やら堀切なんかがあるらしいんですが・・・ちょっと降りかけて見なかったことにw
だって案内図もないこんな所降りていくと、駐車場に戻れるかどうか分からないから。

よそ見大事だった瞬間


帰りは舗装された坂道を延々降りていきました。舗装路の方でも途中に曲輪跡が見られます。
斜面の下を覗いてみるとこっちもやっぱり急崖・・戦国の頃に築城された城っぽいわ。


古道や行けなかった怒田の方とか元の城の遺構が残ってるところもあり、
大幅に舗装されたり模擬天守が建ったりして観光向けの近世城郭でもあり。
残ってるのはすごいんだけど、ワタクシ的には何か印象が残らないお城でした。

時刻は2時過ぎ。この後は大至急、南房総市に移動して里見氏のお墓参り、
そしてこれまた人ごみが予想される模擬天守な館山城に向かいます!


延命寺にて里見氏三代のお墓参り に続く



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2014.04.03 Thursday 20:31 | comments(0) | trackbacks(0) | 関東(千葉県) | 

真里谷城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

忠勝ゆかりの大多喜城から、木更津市の真里谷城にやってきました。
真里谷は「まりやつ」または「まりがや」と読みます。

控えめすぎだった瞬間


現在は「木更津市立少年自然の家キャンプ場」になっている真里谷城跡です。
ナビを使ってこの施設を目指せば、間違いようもなく入口までたどり着けます。

単なる林道ぽかった瞬間


入口からは少々登っていくんだけど、1本道だしキャンプ場行きだから道も広くて安心。
縄張的には道の両側も城域らしいんだけど、何だか分からないのでここはスルーしますw

遭難におびえた瞬間


間もなくキャンプ場につくよ〜という手前に分かりやすく三の郭の入口がありました。
が、奥は見ての通り未整備でヤブヤブ。縄張り図もないのでここもやっぱスルーです。

いぶかしんだ瞬間


キャンプ場の入口に到着! 通常キャンプのない冬季は門が閉まっているそうなんです。
ワタクシもそのつもりで路駐>門横から入城の予定だったので、首をかしげつつゲートイン!

ラッキー継続中の瞬間


管理棟前の駐車場でキョロキョロしていたら、除草作業をしていたオジサンを発見!
もし閉じ込められたらたまったもんじゃないので、声をかけてアピールしときます。

〜お城見に来たんですけど、1時間くらい車停めといても大丈夫ですか?
〜そりゃ正月早々ご苦労様。どっから来たの? うへぇ〜埼玉からわざわざ・・

オジサンは管理をしている方で正月3日は毎年、神社を開けに朝から来るんだそうです。
車は大丈夫とのことで安心して登城開始。忠勝バッチに続き、ホント今年はついてるわw

念入りに確認の瞬間


今回まわるのは城山神社から主郭の一帯。こうして見ると三の郭のヤブヤブ行かずに正解w
二の郭、一杯水(なんじゃそりゃ?)にいたっては入口すらみつけられないかもしれぬ。

何かと気になる瞬間


まずは城山神社。どういう郭の跡なのか分からないけど、重厚な土塁に囲まれた広めの空間。
この右方が千畳敷と呼ばれる主郭。神社の扉があいてるけど奥の御神体はよく見えず・・・。

迫力だった瞬間


主郭に行きたいんだけど、神社奥の堀切が気になりそばへ。近づくと土塁もけっこう高いの。
この堀切の向こうは帯郭になっているので、主郭から戻る時に回ってくることにします。

肉厚だった瞬間


土塁の上によじ登ってみました。なにげに神社の屋根を見下ろしちゃう感じになってます。
厚くてなかなか迫力だわ〜と思って右を向くと、帯郭一角にキャンプ場の建物が見え若干萎えるw

広くはなかった瞬間


土塁の奥は木馬?やらテーブルなんかがあって、完全にキャンプ場の憩いの場的な感じに。
ここは尾根に沿った部分になっているようで、この先は山肌の急斜面になっていました。

山だらけだった瞬間


見渡す限り、街道も里も川も何もありゃしない。地図で見ても見事に山の中よ。
なぜこの地が選ばれたか分からないけど、真里谷城は大自然の中に鎮座していますw

竹が多かった瞬間


腰曲輪の方に行かず、いったん神社の方に戻って先に千畳敷と呼ばれた主郭の方へ行くわよ。
管理棟の裏にあたる部分で、二の郭の一部になんだと思います。ここから虎口に続きます。
草刈していたオジサンが、イノシシがこの辺はあちこち掘りまくるんだと言っていました。

分かりづらかった瞬間


このあたりに「大堀切」と書かれた案内板が倒れていたので眺めてみますが・・微妙だわw

真里谷城は戦国時代初期にあたる康正2年(1456)、古河公方足利成氏の命を受け、
上総に進出した甲斐の武田信長が庁南城とともに上総地方を支配するために築いたお城。
武田信長という人は武田信玄の5代前の武将。そして信長さんから10代この地を支配しました。

念入りだった瞬間


奥へ進んで主郭に向かって登っていきます。正面には主郭の高い土塁がドーンとそびえ、
帯郭を右手に進むと主郭の虎口。郭は平坦が多いけど、必ず段差が設けてあるぽいね。
写真で見るよりずっと高さ感があって、キャンプ場の割に綺麗に残ってると思いました。

遺構に優しかった瞬間


主郭の虎口に向かいます。帯曲輪にはバンガロー?キャンプの施設が立ち並んでいます。
平坦で広い帯曲輪があるから、これから行く主郭は広場として残ったのかもしれないね。
史跡指定とかされてないらしいけど、キャンプ施設は遺構に配慮してるように思いました。

激しく食いつく瞬間


バンガロ―の前・・主郭側は土塁が続いて虎口になっています。戦国の城って感じ!
ここが主郭の入口だけど、案内版はキャンプ場的に「自由広場」となっています。

アガる瞬間


虎口を進むと奥が見えないようになっていて、一段高くなった正面から狙い討ち出来る仕様。
枡形のようになってて主郭に入るには左右どちらかに曲がらなければならないの。

豊すぎた瞬間


ワタクシは左に進んでみました。無骨な柵やら簡素な門やらがあった姿を想像します。
それにしても冬枯れの時期でよかった。夏場じゃ草ボーボー&キャンプ少年も多数よ。

城址碑はなかった瞬間


入口の管理棟のところで見た縄張りの解説がメインになった案内板とは違い、
こちらでは真里谷城の「はじまり」と「おわり」がざっくり書かれています。

腰がひけた瞬間


山城では珍しい広すぎる主郭。千畳敷と呼ばれるだけあって本当に広いんです。
近所の人なんでしょうか・・ちょうどワンちゃんが散歩中で、飼い主さんと遊んでいたのに、
ワタクシを見たとたん、ボールを加えて尻尾ふりふり突進してきて若干ビビりましたw

なぜか犬が横に座っていた瞬間


主郭は6〜7メートル以上は軽くあるダイナミックな土塁に囲まれてて見ごたえ抜群! 

真里谷城は永正14年(1517)から天文3年(1534)までの約20年間が全盛期と言われます。
武田信長の孫、信興の時に「真里谷」に改め、真里谷武田氏は一大勢力を築きますが、
その後、世継ぎを巡る内争や、北条氏との争いで次第に支配力を失っていきます。
そして北条に臣従するような形になっていたところ、天正18年、真里谷信高の時に
秀吉による北条征伐があり、徳川方の攻撃を受けて真里谷城は落城。廃城となりました。

もしかして武田のままのがよかったんじゃない?とひそかに思ったりしたワタクシですw

満足だった瞬間


迫力の千畳敷の片隅にはキャンプファイアーの残骸のような場所が1ヶ所あったものの、
平坦で広いにも関わらず、施設などが建てられなくて本当によかったなと思いました。
それ以前に主郭に建物があったかどうか分からないので、それは別で気になるけれど。

勝手に納得した瞬間


主郭を出て物見台の方に回ります。雑木は省くとして当時は櫓なんか建ってたのかしら。
周りは山だらけだから、支城との連絡の狼煙なんかを見たりしたのかもしれないね。

距離があった瞬間


千畳敷の裏にあたる部分・・・高い土塁を見ながら最初に見た城山神社に戻ります。
このあたりも城山神社の裏手からずっと腰曲輪で、展望台やキャンプ施設が少しありました。

さらにラッキー継続中だった瞬間


城山神社に戻ると、管理のオジサンたちが「餅を食べるか」と声をかけてくれました。
おお神よ〜ちょうどワタクシ空腹で、山を下りたら何か食べようと思っていたところ。
なんか今日は本当につきまくってるっつうか、めぐりあわせがサイコーだよ!!

鼻息が荒くなる瞬間


おとなしく焚火にあたってお餅を待っていたら「せっかくだからご神体を見ていけば」と
言ってくださったので、来た時から奥が気になっていたワタクシ。遠慮なく拝見することに。

あまりにも武田すぎた瞬間


寺社の御開帳にわざわざ訪ねることがないので、御神体を直視だなんて少しドキドキだわ。
武田菱の幕の向こうに見えるのは「武田信長公」。胸のところにも武田マークがついてるのよ。

御神体はあんまり近づいては悪いかと、少し離れてズームで撮ったの写真は全部ピンボケΣ(゚Д゚)!
でも御神体や祀っている人に敬意を払わなきゃと思い、この立ち位置キープのワタクシ小心者w

温かすぎた瞬間


お正月用にオジサンが搗いて、奥さんが平たく伸ばしたお餅なんですって。
ちゃんと杵で搗いたお餅をいただくのなんて遥か昔・・幼稚園の餅つき大会以来だよ。
焼き立てアツアツのお餅を豪快にのり丸ごと1枚にくるんで渡してくれました。

手作りの餅ウマーーー!! 伸びもすごい!! スーパーで買うのとは何か違うね。
ガス火やレンジじゃなくてワイルド「たき火」で焼いたのも香ばしさが増してグッド!

帰り際、お土産にもう1つ焼き立てのお餅をいただき「来年も3日は開いてるからまたおいで」
と声までかけてもらって、新年早々、人の温かさがしみて非常にハッピー気分になりました。
わざわざ来てよかったと思う遺構プラス嬉しいことがあって、真里谷城はめちゃ好印象ですw


なんか本当にうれしくて、あまりにもルンルン気分で山を下りたワタクシ。
真里谷信興の墓参りで近くの真如寺に寄るつもりが、豪快に通り過ぎて自分でびっくり!!


真如寺で真里谷信興のお墓参り〜に続く



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2014.03.21 Friday 18:36 | comments(2) | trackbacks(0) | 関東(千葉県) | 

大多喜城に登城!

[本多忠勝] ブログ村キーワード

本多忠勝の眠る良玄寺から、今度は大多喜城に向かいます。

いきなり盛り上がる瞬間


大多喜城に向かう途中にある四ツ門公園は、城内から数えて4番目の門があった場所。
今は何があるってわけじゃないんだけど、道路の奥の方に大多喜城が見えるでしょ?
ついに忠勝ゆかりの大多喜にも来たぞーーー!! て気持ちを盛り上げるわけです。
交差点のど真ん中に立って公園の写真(!)撮るの、少々恥ずかしかったけどねw

影は薄かった瞬間


四ツ門公園は平成14年に整備設置されたそうです。シンボリックなミニチュア櫓が目立つけど、
一応、案内版の横に「上総大多喜城 四ツ門跡」と書かれた碑も建ってました。

存在が微妙だった瞬間


大多喜城を目指して四ツ門通りから大多喜駅の方に向かうと「大手門」というのが出現Σ(゚Д゚)!
当時の大手門はここから北西約150mの所にあって、慶長年間には吊り橋がかかって人工的に
持ち上げるようになっていた・・のだとか。今あるこの門は昭和57年に建設されたもので、
町民に名称募集して「大手門(歓迎門)」と名付けられたんだって。正直あってもなくても

遠慮しちゃいけない瞬間


線路を渡って「メキシコ通り」と名付けられた道を登っていくと右手に大多喜高校があります。
二の丸跡に建つ高校の敷地内には大井戸と薬医門があるので、ためらわず校門からイン!

大井戸は本多忠勝が入城した時に掘られた井戸で、周囲17メートル、深さ20メートル。
日本で最も大きな井戸のひとつにあげられ、当時は「底知らずの井戸」と呼ばれたのだとか。
柵から乗り出して中をのぞくと水は入っているようだったけど、写真は上手く撮れなかったわね。

唯一だった瞬間


薬医門は大多喜城内建造物唯一つの遺構で、千葉県の有形文化財に指定されています。
天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門で、明治維新後に民間に払い下げられ、
大正期にその曾孫さんによって出身校の大多喜高校の校門として寄贈をされたんだそうです。
その後、一旦は解体保存をされたものが、昭和に入ってから復元をされて今に至ります。

トモダチ作戦の瞬間


メキシコ通りを通ってお城の入口までやってきました。駐車場から少し歩きます。
車いすの方などは模擬天守のそばの駐車場に停められるみたいだから安心ですね。

ちなみにメキシコ通りですが、昭和53年にメキシコ大統領が大多喜町を公式訪問した記念に、
三の丸から大多喜城までの道路を「メキシコ通り」という名称にしたんだそうです。

慶長14年(1609)スペイン領のフィリピンの総督ドン・ロドリゴの一行が台風により
上総国夷隅郡岩和田村の沖合で遭難した時、村民が300余名の命を救いました。
外国人に厳しい処分がされていた時代、当時の大多喜城主、本多忠朝は一行を手厚くもてなし、
徳川家康に届けます。家康も彼らを受けいれ全員を本国に送還・・・これをきっかけに
日本はメキシコ、スペインと通商が始まりました。大統領が来たのはそのためですね。

幸先よくスタートの瞬間


ワタクシが登城したのは1月3日。2014年の登城一発目は本多忠勝!と決めていたのでw
模擬天守なので正直、お城自体はどうでもよかったんだけど、資料が見れるのは嬉しい。
正月そうそう資料館を開けている大多喜城すごし!! ルンルンで進んでいきます。

ひそかにガン見の瞬間


本丸跡に向かう途中の右手には空堀跡が見られます。
大多喜城は、西側の守りに空堀が多く作られているんだそうです。

痛いほど分かる瞬間


大多喜は本多押しだから、街灯も本多家家紋の「丸に立葵」。実際は本多氏は3代だけで、
9代続いて明治維新を迎えたのは松平氏なんですけど・・でも本多押しなんですよ!!

分かりづらかった瞬間


途中に二の丸公園というのがあったので、上まで登ってみることにしました。
さっき見てきた大多喜高校は二の丸跡。この場所も二の丸だったの?と思うけど、
昔の絵図を見ると二の丸なかなか広いから、地形も多少変わってそんなものかとw

引き続き分かりづらかった瞬間


奥の階段を登っていくと、雰囲気のある切り通しのようなところがありました・・何?

大多喜城は古くは小多喜と言われ、16世紀に武田信清が築いたのが始まりとされます。
その後は里見氏重臣の正木氏が入ると4代に渡り居城としますが、天正18年(1590)
秀吉の小田原攻めにより攻め落とされると、江戸に入った家康は安房の里見氏の押さえとして、
10万石で本多忠勝を入城させました。

忠勝は城や城下町の整備を行って堅固な城郭を築きますが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、
桑名転封となり、忠勝の次男忠朝が5万石で大多喜城主となりました。元和元年(1615)
大坂夏の陣で忠朝が討死すると、本多政朝が跡を継ぎますが、播州龍野に転封になると、
以降は阿部・青山・稲垣氏へと城主が変わり、元禄16年(1703)松平(大河内)氏が
2万石で入ると9代続いて明治維新を迎えました。

結果どうでもよかった瞬間


二の丸公園の上には鐘楼がありました。無縁仏の供養のために建てたとかなんとか?
城とは関係なさそうだし、ここ自体もどういう場所かイマイチ分かりませんね・・。

すぐ忘れる瞬間


本丸跡に建つ模擬天守の県立博物館入口に着きました。掃除中のオジサンが「おめでとう!」
と挨拶してくれ「そうだ挨拶はおめでとうだわ」と正月であることを思い出す始末Σ(゚Д゚)!

チャンスは薄そうだった瞬間


県立博物館の入口の逆側は本丸跡を囲む土塁がずーっと続いています。
本多押しで「大河ドラマへの野望」旗がひらめく様は、何やらいじらしく思えます。
良玄寺にも、四ツ門公園前にも、メキシコ通りにも・・旗はそこらにニョキニョキ。

ワタクシは大河を見ないんですけど、本多忠勝は大好きなので応援してあげたい。
たとえ大河になっても、大多喜の出番はそんなにないだろうと薄々は気づきつつ。

ハッキリしなかった瞬間


県立博物館分館になっている模擬天守。この建物自体は昭和50年に天保13年模写の絵図を元に、
一般的な天守を参考に建築されたもの。天守が書かれた絵図あり、天守はなかったという説あり・・

張り切っていた瞬間


模擬にしろ復興にしろ今回、天守様建物はどうでもいいので展示を見に行きましょう!
資料館じゃなく「博物館」ってのは分館でも期待できます。入場料は大人200円。

勢いが大事だった瞬間


ワタクシが行った時は、来場した子供にもれなくバッチプレゼントを行う正月期間。
入場券売り場のカゴには色んな種類の缶バッチがたくさん・・・何気なく見てキラーン★

忠勝さんと目があいましたw 恥も外聞もなくダメ元で聞いてみるワタクシ。

「こ、子供しかバッチはいただけないですか!! 本多忠勝が大好きなんです!!」
「あ、あ、あ・・・じゃ、じゃあ・・・特別に1つだけどうぞ」

鼻息荒く食いつきそうな勢いで、相手のド肝を抜いたのが勝因と見ておりますw
サッと忠勝バッチを握って満面の笑みでお礼・・受付のおばさんびっくりさせてごめんね。

元は取った瞬間


博物館なので撮影禁止。これは最上階の展望ルーム。窓は開いていませんでした。
展示自体は甲冑や槍などの武具の展示も多く、良玄寺でガラス越しの遠目で見えた
本多忠勝の肖像「紙本著色本多忠勝像」なんかもあったりして楽しめましたよ。

気がきかなすぎた瞬間


博物館を出て本丸跡の土塁を見ながら裏に回り込むと、二の丸跡の大多喜高校が見えました。
大井戸を見下ろす絶好のポジなんだけど、どこに立っても枯れ木が邪魔ったらありゃしない。

雰囲気は味わえた瞬間


井戸はイマイチ見えませんが、本丸からは城が高台にあったことが体感できます。

メキシコ通りのところで出てきたドン・ロドリゴは大多喜城を訪れた時の印象を、
「城は高台にあって濠に囲まれ城門は大きく、全て鉄でできており厳重に警戒されている。
また城の内部は金や銀の配色で美しく、武器庫もあった」と日本見聞録に書いたそうな。


ワタクシが登城を終えた頃、熟年夫婦や家族連れがパラパラやってきました。
正月3日だっていうのにけっこう人が来るものね。早く来てよかったわw


正月3日の朝っぱらから忠勝さん三昧。バッチもゲットして新年早々こりゃついてる!
さっそくバッチをかばんにつけて、ホクホクしながら次なる真里谷城跡へ向かいます。


真里谷城に登城!に続く


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2014.03.15 Saturday 17:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 関東(千葉県) | 

千葉城に登城!

佐倉城に行ったので近所の千葉城にもついで登城!

博物館だった瞬間


千葉城は1126年(大治元年)関東八平氏筆頭の千葉常重が築城したのが始まりで、
13代330年続くものの室町中期、内紛により千葉氏は滅亡。廃城になったお城。
中世城郭だから元々天守はなく、昭和42年、博物館として模擬天守が建てられた。

小田原城と似ていた瞬間


小田原城を模して造られたという四層五階の模擬天守。
千葉城の頃の別名は亥鼻城。現在は千葉市立郷土博物館です。
ちなみに鉄筋コンクリートのみならず免震構造。プラネタリウム完備w

時代を超えたコラボだった瞬間


白亜の天守に弓を引く勇ましげな武将は千葉常胤さん。
頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れて安房に逃がれた時、
一族を率いて助けた常胤さんは鎌倉幕府成立の立役者。
今、時を超えて参上・・ってなぜ千葉城に弓引いてんのかしら?

城を背にしてほしかった瞬間


鎌倉武士といえば菅谷館でお目もじした畠山重忠さんが素敵だけど、
常胤さんもナイス武士! 男気あって勇ましい感じは伝わってくるわw

唯一の遺構らしかった瞬間


威風堂々な白亜の模擬天守と常胤さんの銅像に眼を奪われるけど、
その後ろにはひっそり唯一の遺構と言われる土塁もありました。
中世城郭の頃の遺構だとしたらずいぶん綺麗な気がしないでもないけど。

興味深かった瞬間


佐倉城の歴博より、あもはこっちの博物館のが断然好き!
展示品単位で撮影禁止って書かれてるものは撮れないけど、
大丈夫なものはたまには載せてみようかと撮ってみました。

常胤さんが活躍した前後の時代を中心に充実の展示!
これで入場料60円!! パンフレットついて大人60円ってありがたい。
ちなみに子供は30円・・・って、え? 取っちゃう感じなの?(笑)
入場券売り場ではでかでかな記念スタンプも押せました。
歴博の420円はいったいなんだったんだろうと首をかしげるw

吸い寄せられた瞬間


もしや伊達系? この博物館、撮影禁止の展示品はケース内に個別で
「撮影禁止」って書いてあるんだけど、この甲冑は特になく。
ガラスには入っていても距離が相当近いので相当ガン見しておきましたw

体験したかった瞬間


タイミングよく登城すると時代体験として鎧とか着られるんだって。
あ〜鎧体験したい!! あたしは女衣装の時代体験じゃなく、
甲冑に陣羽織つけた凛々しく勇ましい女武者になりたいわ。
女おひとり様、変な目で見られようがやってたら体験しようと思ったら
残念ながら時間外らしく、体験室は開いていませんでした・・(´Д`)

ちなみに千葉城、火縄銃体験もできるとかできないとか・・。

知った顔もたくさんだった瞬間


将軍家康公もいれば太閤秀吉さんになんと北条親子まで。
どうでもいいけど北条親子って似すぎじゃない?
間違い探しみたいにしばらく2つを見比べてしまったわw

模擬天守ならではだった瞬間


四層五階でかなり大きな模擬天守だけに最上階展望室は広々。
というより殺風景でガラーン・・中世城郭の頃の模型でもおけばいいのに。

激・街中だった瞬間


千葉城があるのは千葉市のめっちゃ中心部。
県庁も近けりゃ放送施設やJR千葉駅もすぐそこ。
展望台から東京湾も見える千葉市街を眺めながら、
よくこんな街中で城跡が保存されたなとちょっぴり感動。

うろうろした瞬間


博物館を後にして神明神社に城址碑を探しに行きます。
佐倉城と違って場所ごとに細かな案内板なんかはないから
公園案内図みたいのを見て場所を確認。ほどなく到着w

模擬天守のある本丸とは区切られている感じなので
二の丸なのかは分からないけど曲輪の端になるのかしら?

ひっそりすぎた瞬間


ひっそりたたずむ小さな神明神社。当時は物見台だったそうだ。
神社と言ってもお参りするような人もいないようでこじんまり・・。
どうでもいいけど神社って玉砂利ないとなんだか変な感じねw

見つけた瞬間


鳥居をくぐって神社に入ってから小さな社が先に目につき、
城址はどこよ?と振り返ったら鳥居の陰のがけっぷちにこっそり存在。
よし、これで満足。千葉の残りはあと3つ。埼玉からは攻略しづらいが。

寒くて出足が鈍り気味なのと仕事が忙しいのとで
登城が捗らないどころかお城の本も読めやしないヽ(`Д´)ノ

勉強不足、リサーチ不足は不運の元。登城は計画的にw

さて次はどこに行こう?


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2011.01.26 Wednesday 20:27 | - | - | 関東(千葉県) | 

佐倉城に登城!その2

西出丸から二の丸に戻り、いよいよ馬出しを見に行きます。

先に見えた瞬間


西出丸から戻ってくると馬出しより先に国立歴史民俗博物館
通称、歴博が見えてきました。噂では数時間ないと見切れないボリュームとか。
国立というからには何かいいものが見られるに違いない! 
でもまずは馬出しから。椎木御門跡を通ってビューポイントへ向かいます。

復元でもやっぱり見どころだった瞬間


椎木曲輪にあったコの字型の馬出しは昭和46年の発掘調査で確認され、
復元されたもの。現在の深さは3m。当時は5.6mもあったそうだ。

やっぱりろくでもなかった瞬間


この馬出しも連隊の兵営造る時、埋め立てられちゃったらしいよヽ(`Д´)ノキー!
長辺121m。巨大城郭らしい大きな馬出し。浅くなっても規模はよくわかる。

この後、歴博に向かい、9時半の開場と同時に入場。

数時間かかっても見切れないという評判とそれを裏付ける建物のでかさ。
そして国立の言葉にさぞかし価値あるものが見られるのかと思いきや、
説明用の資料展示が多いし、展示品も複製って書いてあるのばっかり。
古代から現代まで展示されてるから日本史の中じゃ戦国なんて一瞬のこと。
ボリューム少なくてちょっとがっかり・・おまけにお客が全然いないのに、
エリアごとに学芸員さんが立ってるもんだから、興味のない時代を見てる時、
長い説明とかされちゃったらどうしようと変な緊張してしまった。。
やっぱお城のボランティアガイドのおじさんたちが気楽で気さくでいいわw。

味も素っ気もなかった瞬間


1時間で歴博を出て100名城スタンプをもらいに自由広場の管理センターへ。

姥ヶ池が見えてきました。昔はかきつばたの名所で春先にはひき蛙が数千匹集まり、
昼夜7日間、蛙合戦を行っていたと江戸時代の書物には書かれているそうです。
天保年間になって家老の娘をあやしていた姥が誤って娘を池に落とし、
困り果てて池に身を投げたことから姥ヶ池と呼ばれるようになったらしい。

冬枯れのこととてかきつばたどころか蓮はおろか鳥の姿さえなし。

デリカシーがなかった瞬間


連隊の遺物・・訓練用の12階段。飛び降りの訓練したんだって。
高所恐怖症のあもには無理だけど、普通に考えて訓練するには
たいした高さじゃないような気もする微妙な階段です。
「壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます」と書いてあった。
この辺は心霊スポットというか肝試しスポットにもなってるんだってね。

終了間近の瞬間


案内図を見ると三の丸の外か端になるようだけど盛られてますよw
ここを抜けると佐倉城めぐりも終了。ごっつ派手な遺構はないけど、
空堀とか土塁とかを含めて巨大城郭の縄張がよくわかるお城でした。

空堀ウォーキングはあきらめた瞬間


土塁ウォーキングに続き・・と思ったがこれを行くと戻ってしまう。
堀底の見える空堀があんまりなかったからね・・ジャングルジャングルで。
でもこういう場所一つ見ても、圧倒的土木量を感じられますね。

あわや・・と思われた瞬間


自由広場の端にある管理センターに到着。管理人さんは巡回中で不在Σ(゚ロ゚;)
スタンプもらえないのかと思ったら鍵は開いてて中に入れてよかったw
佐倉城は珍しく朱肉をつけて押すタイプのスタンプ。綺麗に押せました。

失敗した瞬間


管理センター内にはひっそりと三層四階の天守模型が。
1階は2階分の構造になってるのね。さっき本丸で見てきた
天守跡にこれが建っていたのね。やっぱ案内板置くべきだ!

天守模型を見て満足し入り口を振り返ると、そこにはパンフレットの山が・・
城内案内図ここで配ってたんかーー!! 朝早く来て損した気分。
パンフレットがないからあもは要所要所の案内板の縄張図をガン見で廻ったのだ。
管理センターやってる時間に到着してパンフとスタンプもらってから登城が正解!

それでももらってよかった瞬間


ここでようやく城内案内図と佐倉散策の観光マップを入手したので
高校横にひっそりと建っている大手門跡を見逃さずにすみました。
観光マップを見ると武家屋敷も近いようなのでついでに行ってみることに。
市民体育館の駐車場に車を停め、体育館の横の坂を下っていきます。

ジーザス!


地図を見ると住宅街の前にある小高い竹藪を登っていくようです。
この辺り、坂が多いみたい。この竹藪はひよどり坂という名前らしい。

突如、出現!だった瞬間


普通に住宅街の一角に復元された武家屋敷3件。見学料は210円。パンフつき。
3件並んでて見学は旧河原邸で入場券を買ってスタート。

突撃、お宅訪問の瞬間


まずはその河原さんのお宅から。身分に応じて屋敷の広さや造りに決まりがあり、
河原さんちは大屋敷ランクで300石〜1000石未満の武家屋敷。3件の中で一番。

くらっときた瞬間


鎧好きのあも。たとえレプリカでも甲冑を見るとドキドキしちゃう。
レプリカでもガラスケースに入ってんじゃないところが一層グッと来ますw
河原さんの鎧じゃないと思うけど武家屋敷に甲冑のある絵が素敵。

昼でも暗かった瞬間


武家屋敷のような、ぽくないような・・不思議な感じの部屋。
河原さんちの間取りは座敷・居間・納戸・玄関・次の間・仲の間・茶の間
土間・湯殿・男部屋・・でかい。米支給で自給自足の面もあっただろうけど、
何しろ庭も合わせて敷地が広いから住宅事情は恵まれてていいわね。

好みだった瞬間


次は但馬さんち。あたしは外観、解放感あるこっちの方がすき。
でも十分大きく敷地も広いけど河原さんちよりは石高少なく中屋敷。

おひとり様がうらめった瞬間


甲冑の前に座布団・・これは座って写真を撮れということですね?
あもはいつだっておひとり様・・・ミニ3脚は車に積みっぱなしだし、
もし持ってても必死のセッティング中、誰か来たら恥ずかしい。
こういう時、ひとりは失敗だなと思う。仕方ないので座布団に座り、
正座して礼儀正しく甲冑をしげしげと眺めておきましたw

御家人並みだった瞬間


裏庭には畑も再現。1石は成人男性が1年に食べる米の量だったと思う。
仮に100石取りだったとしても精米支給じゃないし大変だよね・・。
そりゃ裏庭で大根や菜っ葉くらい育てられなきゃやっていけないわ。

小屋敷だけど一丁前だった瞬間


最後は武居家。100石未満の小屋敷。敷地に大きな差があるというより、
式台を作っていいとかいけないとか家の造りの差が大きいみたい。

ちっさー!だった瞬間


まともな和室2つくらいしかなかったと思う。
何人家族で住むの? テレビもゲームもネットもない時代。
雨の日とか家族で終日一緒の部屋、気づまりだよねぇ・・。
ちなみに武居家だけ茅葺ではなくトタン屋根の微妙な作りです。

渋かった瞬間


佐倉藩士何某さんの写真と儚げな灯り、縁なし畳・・渋いわ〜
隣の部屋は資料展示があり、かまどや流しなども再現されていました。

管理センターで遅ればせながら散策マップを入手したので思いがけぬ見学w
次は本佐倉城と行きたいところだけど縄張図を手に入れていないので
模擬天守、千葉城へ向かいます。博物館、今度こそ期待!!



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2011.01.21 Friday 22:00 | - | - | 関東(千葉県) | 

佐倉城に登城!その1

日本100名城20番 佐倉城に登城!&千葉初攻略w

すっきりしていた瞬間


朝8時前、自由広場に到着。寒いけど車を停めて完全防備で登城開始。
まずは自由広場横の三の丸空堀から。大きくて立派な空堀。
明治時代は陸軍連隊が駐屯してたから改変されちゃってるんだって。
今はのっぺりしてるけどもっと起伏があったりしたかもしれない。

見る影もなかった瞬間


三の丸の門跡。三の丸は堀で仕切られた独立した曲輪で、
三の丸御殿や上級家臣の屋敷なんかが建っていたそうだ。
当時は櫓門があり、広小路を抜けて大手門に続いていた。

説明書きがなくて困った瞬間


どう考えても意味ありげな盛り上がり・・しかし説明一切なし。
登ってみると高い建物のない田畑中心の風景が丸見えだから、
見張り台だか見晴らし台だか櫓か・・そんな感じたったのでは?

見なかったことにした瞬間


三の丸と本丸の裏手にまたがるようにある南出丸への入り口。
行ってみようかと思ったけどちょっと行くとそこそこ急な斜面・・。
城内図を確認すると蛇行の末、距離もそこそこありそうな。
ということでここは見なかったことにして次に進みますΣ(゚Д゚)!
ちなみに下まで深そうですが浅間坂というんだそうな。

幕末はピンと来なかった瞬間


開国の父、堀田正睦さん(1810〜1864)の銅像。
わたくし幕末はとんと不勉強で教科書+薩長新撰組程度の
知識しかなく全く知らなかったですが有名な人らしいですね。佐倉藩に西洋の学問を奨励し、
幕末期の老中として動乱の日本を開国に導いた佐倉藩主なんだそうです。
重臣クラスで堀田○○守とか耳にするけど、佐倉城主も家名だけで、
実際、堀田さんよく知らなかったのが現状。勉強になりましたw

想像力が大切だった瞬間


堀田さんの建っている後ろが二の丸で、ここに二の門跡があります。
本瓦葺二階造り、梁間三間、桁行八間の立派な門は本丸から大手に至る
第二の門で「二の御門」と呼ばれて武器庫を兼ねていたそうだ。

今は公園化され佐倉城址公園になっている城内。
舗装された散策路に惑わされると配置を考えると想像しにくい。
散策路は無視して門や曲輪、空堀を脳内復元しないとダメですw

ジャングル状態だった瞬間


二の丸の空堀。やりたい放題のび放題のヤブヤブ状態Σ(゚Д゚)!
実際のその場に立てば配置も規模も分からなくはないけど、
せっかくだからもう少し何とかならないのかなと思っちゃう。
保存の観点とか予算とかいろいろあるんだろうけど・・惜しいなぁ。

ラブリーだった瞬間


空堀の猫三匹衆w 日向でもないのに、ふきっさらしなのに、
寄り添ってたくましく城に住まう猫たち。猫好きなので思わずw
公園内に猫が多いようで、餌をやるなという歴博の看板が立っていました。

特徴だった瞬間


ヤブヤブを見ながら本丸入り口までやってきました。
木造本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間の一の御門。

佐倉城は三の門、二の御門、一の御門と配置は直線上にある縄張が特徴。
でも空堀や枡形構造、横矢ですんなり侵入されないよう構造のようです。

惜しまれる瞬間


二の丸も案内板には当時の写真が載っていたけれど、
こんな立派な門が明治初期には残っていたのよね。
せっかくすごい遺構が残ってるんだからせめて門のひとつくらい
ボロボロでも残っていればよかったのに!と思わずにいられない。

土塁ウォーキングだった瞬間


で、その一の門跡から本丸の土塁を見たところ。
犬の散歩は本丸ドッグラン、散歩とジョギングは土塁へゴー!
次々くるおじさん、おばさんが軽快な足取りで土塁上へ。
本丸の周囲はぐるっと土塁が廻っているので立派だわ〜なんて
寄ってくる散歩中の犬にかまわずジロジロ眺めていたのだけれど、
おじさんたちにつられ、あももいざ行かん土塁ウォーキングへw

やっぱりジャングルだった瞬間


健康のために歩いているわけじゃないので空堀眺めつつのんびりw
しっかしヤブヤブだわ〜もっと堂々と空堀をアピールしてほしいわ〜
写真じゃわかりづらいけど結構、深さもあるのよ。竹よりもっと底に。

本丸を眺めた瞬間


広い本丸。右奥の濃い緑で囲まれたところが天守跡。
当時は三層四階の天守があったという。模型は管理センターで見られるけど、
この場所に案内板がないの残念。1830年、失火で焼失したそうです。

ボロかった瞬間


銅櫓跡。ここにあった銅櫓は土井利勝が将軍より拝領し、江戸城吹上庭内より
移築したもので太田道灌が造ったとも言われているそうだ。

佐倉城は1610年、土井利勝が3万2400石で入封し廃城となっていた鹿島城を改修。
江戸東方の守りとして関東屈指の壮大な城郭で、家康は築城にあたり、
この城の要害堅固さに天下の名城たらんと督励したという。

銅櫓も明治の初期まではあったみたいで案内板には写真が載っていた。
銅瓦葺、六間四方、二階造り・・壁は板張り。当時で相当ボロそうだった。
佐倉城、建造物の復元とかはしないのかしら? でも空堀もそのままだし、
何も引かない、何も足さないって潔さでずっと保存されるんでしょうね。
歴博前の馬出しは復元されてるそうで、それは楽しみですがw

さっぱりわからなかった瞬間


詳しい説明の載った案内板がないので不明門跡としか分からず。
それなりの門があっていわゆる開かずの門だったのだろうと想像するばかり。
市史にはある程度のことが書かれているらしいのでぜひ案内板の設置を!

この近くには隅櫓跡もあるんだけど、1本ずつ黒いカバーのかかった
変な植木の保護ゾーンが広がっていて上手い角度で写真が撮れず・・。

ろくなもんじゃなかった瞬間


二の丸に戻って来ました。ここでは佐倉城の礎石を見ることが出来ます。
明治政府は陸軍を駐屯させるにあたり、惜しげもなく佐倉城を壊し、
なんとその礎石を兵営の基礎に使ったのだそうだ。明治政府絡むと
お城にとってろくなことないね。熊本城も天守焼かれちゃったしね(怒)

さぼりすぎてはいけなかった瞬間


距離が長く険しそうな南出丸は遠慮したけど西出丸は行ってみることに。
正面に見えてきた歴博を横目に、へび坂と言われる道を進みます。
空堀の斜面を見ながら歩幅のおかしな階段を使っててくてく坂道を降り・・

雨上がりじゃなくてよかった瞬間


軽くハイキング風な道をたどって水堀に囲まれた出丸に向かいます。
雨上がりだったら泥だらけになりそうな道。霜もなくてよかったw

堀底みたいだった瞬間


土塁に囲まれた出丸。土塁の向こうは水堀。後ろの本丸は結構高い。
佐倉城、石垣とかは一切なく気張った感じは全然しないけど、
縄張を見るとすわ一大事の時の戦闘モードな要素満載。さすが江戸東の守りw

土塁ウォーキング再びの瞬間


さすがにここは誰もいないけど水堀見ながら土塁ウォーキング。
水堀は深さは分からないけどそこそこ幅もあっていい感じ。

ぱっと見、日本昔話風だった瞬間


水堀越しの風景。門の左側が西出丸、右奥は本丸側。
なんか里の山寺みたいな雰囲気になっちゃってるけど城ですよw

さりげなさすぎた瞬間


山寺風にすっかりなじんでいたこの門、移築門らしいです。
出丸から出るのに見た時は「なんでここだけ門?」と不思議に思い、
戻ろうとして何気なく門の上を見るとさりげない注意書きがΣ(゚Д゚)!

目立たなすぎだった瞬間


昔、城内にあったものらしい。どこの門か分からないにしても、
移築なんだったらもう少し目立つところに説明おけばいいのに。
あまりに奥ゆかしすぎて危うく見落として山寺風にするとこだったわw

ちなみに門内の天井近くにかかっています。登城する方、ぜひご一読をw


佐倉城へ登城!その2へ続く

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2011.01.17 Monday 22:47 | - | - | 関東(千葉県) | 

関宿城に登城!

岩槻城逆井城の後は関宿城に登城!

行きがけの駄賃で寄った岩槻城は思いがけず空堀とかがよかったし、
逆井城はずっと登城したかったから夢中で見て回るくらい面白かった。
関宿城は・・・逆井城の近くじゃなければ残念ながら登城はなかったw

御三階櫓かなり目立っていた瞬間
関宿城

千葉県立関宿城博物館となっている模擬御三階櫓。
1671年、江戸城の富士見櫓を模して再建されたものを
当時の資料に基づいて現在の皇居富士見櫓を参考に再現したもの。
破風とかあってもサッシ窓だとまた全然雰囲気が変わるものね。

河川の勉強にもってこいだった瞬間
関宿城

メイン展示は河川と治水とそれに関わる産業や人々の暮らし。
パンフレットを見ても関宿城そのもの詳細はあまり載っていなくて残念。

関宿城は1457年、簗田氏によって築城され6代続いた後、
北条氏によって攻め落とされ、徳川時代には家康の異父弟
松平康元が2万石にて入城。その後、藩主は次々と変わり、
1669年、久世氏が5万石で入封し、明治維新まで10代続いた。

関宿は水上の行き来を監視する交通の要衝であると同時に、
軍事的にも重要な城だったというけれど河川工事などの影響で
それらしい雰囲気があんまり感じられないのがもったいない。

博物館裏手はひっそり庭園だった瞬間
関宿城

川沿いの周辺一帯がサイクリングロードになっているので
博物館前は自転車の人が休憩で大量にたむろしている。
建物に沿って歩いて行くとこじんまりした門が見えてきた。

案外、普通の庭だった瞬間
関宿城

博物館裏手に回ると庭があり、そこから御三階櫓を眺められる。
大名庭園風ではなく、ちょっと気合いの入った公園風の庭。
休日のいい時間だというのに他に観光さんもいなくてひっそりw

たまたま見つけた瞬間
関宿城

本当は本丸跡や処刑場跡なども見て回りたかったけれど、
詳しい地図もなく下調べもしていなかったので暑い中、
点在する名残りを探して歩く元気もなくこれにて下城。

帰り際、車で通ったところに偶然、何かの碑を見つけたので
すぐさま脇道に入って停車。寄ってみると関所跡の碑だった。
関宿城博物館から堤防沿いを歩くとそこそこ距離がありそうな・・
暑さに負けて徒歩での散策あきらめといて正解だったのかもw

関宿城は逆井城の薬医門のような門がいくつかあるらしいのに、
あちこちへ移築されちゃっているのも惜しいし、名残りが点在してるのに
見ながら歩ける観光マップみたいのがどこにでも置かれてないのも惜しい。
全部ちゃんと見たいと思ったら自分で調べて行かないと無理かも。。


そろそろ暑さも和らいできた今日この頃。
秋から冬にかけての登城予定を考えるのが最近の楽しみ。
雪が降ったら行けないところを優先に計画を立てていて、
まずはこの3連休、いよいよ憧れの春日山城に登城しますw



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2010.09.21 Tuesday 21:30 | - | - | 関東(千葉県) | 
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