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勝沼氏館に登城!

大善寺の次は理慶尼の実家でもあった勝沼氏館へ。

なぜかウロウロしていた瞬間


ナビで出なくてだいたいの位置で向かったら通り過ぎてしまいました。
アレ・・この辺だけとあった??とか一寸迷ったわw(多分ワタクシだけ)

真新しかった瞬間


駐車場の敷地内に勝沼氏供養地蔵がありました。元は理慶尼が館内の太鼓櫓に
建立したものがいつしか失われた為、有志の寄付でここに再建したものだそう。

まさかのトラップだった瞬間


・・てか、館跡ドコ?? 駐車場から少し回り込むとはノーマークだった!!
アワアワしながらスマホで位置を調べ、畑の周りを通って目指してしまった。

ちょっと興奮していた瞬間


無事に到着! 後から見たけど道路沿いの入り口もちゃんとありました・・。
けど反省もそこそこに「おお〜想像してた以上!!」と鼻の穴が広がりますw

出鼻をくじかれた瞬間


東側の空堀には前に見た写真だと木橋が架かってたけど無くなってたΣ(゚Д゚)!
注意書きがあって先は立ち入り禁止にもなっていたので東門から入れません。

鼻息が荒くなる瞬間


東側からの〜北側の空堀。写真だと伝わりづらいケドなかなか立派でね。
武田巡りだから行っとこうってノリだったから思った以上で正直驚いてます。

きっと色々ワケありだった瞬間


勝沼氏館は昭和48年(1973)、県立ワインセンター建設に伴って発見され、
現在は国指定史跡として保存され、史跡公園として一般公開されています。

勝沼氏は武田信玄の父、信虎の弟信友がこの地に住んで名乗ったのが始まりで、
親族衆として信虎の信頼も高く、大きな勢力を持っていたと言います。

天文4年(1535) 北条氏との戦いで信友が戦死すると子の信元が跡を継ぎ、
信虎を追放して国主となった信玄に従って信濃侵攻に従軍していましたが、
永禄3年(1560)、関東侵攻した上杉謙信と通じ謀反を企てた書面が見つかり、
信玄の命を受けた飯富昌景により謀殺。勝沼氏は断絶しました。

信元の妹、理慶尼(松葉)はこの謀反の騒動によって婚家を離縁され、
大善寺の慶紹を頼って尼となり、理慶尼と名乗って一族を供養して暮らすんですね・・。

念入りに確認する瞬間


北門から中に入ってみます。模擬橋がかかってるけど劣化の手当てが雑w
東門の橋はなくなってたし、アレコレ新しくするタイミングなのかもね。

念入りだった瞬間


さっき見た大きな空堀に加え、北門前にも空堀で二重になってるようです。
甲州街道が近いから重要な拠点として機能していた城館だったんでしょうね。

適当だった瞬間


中に入ったところの武者溜りから北門の方を見ると石積みがありました。
復元か何か分からないけど、北門が大手だっていう雰囲気は出てるような。

さすが国史跡!だった瞬間


武者溜りの軽トラ何者? と思ったらオジサンが二人草刈りしてました。
ちょうど休憩中で、うるさくもなく、ワタクシも邪魔にならずよろしw

コンパクトな館だった瞬間


中には主屋の他、番所や会所、工房など色々な建物があったようです。
奥の方に模擬水屋、他は建物の名前が書かれた表面展示がされてます。
親族衆とはいえ家臣クラスの暮らしの規模ってこんな感じなんだなって。

橋をかけてほしかった瞬間


アッという間に東門の所に来ました。土塁の向こうが橋のなかった空堀。
松葉と呼ばれた子供の頃の理慶尼さんが遊んだりしてたかもしれないね。

危うくスルーしかけた瞬間


東門横には櫓台跡もありました・・ってコレ、超〜ちっさ! 
梯子に毛が生えたくらいの見張り台しか置けなかったかと思いますw

甲州市にずっと頑張ってほしい瞬間


畑の横を通って駐車場に戻る時、しつこくまた東門の方を見といたw
橋がないだけじゃなく、立ち入り禁止で目の前にも行けないんだよね。


武田巡りでは外せないってことでコースに入れ、気楽にフラッと来たけど、
もっと前のめって「勝沼氏館見てぇ!」って鼻息で来てもいいくらいだったわw


城館に思いがけず満足した後は逍遥院に向かいます。


逍遥院にて武田信廉のお墓参り〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡



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2017.07.16 Sunday 18:02 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(山梨県) | 

若神子城に登城!

自元寺で馬場さんを思った後は、帰りがけの駄賃で若神子城に立ち寄ってみました。

若神子城跡は須玉町ふるさと公園っていうのになってるんだけど、
ワタクシのお馬鹿ナビではピンポイントで出なくてね・・
近くまでナビで行き、後はスマホでグーグルマップ確認しながら何とか。

たどりついた瞬間


マジ公園とかあんの??みたいな山道を走らされ軽くオドオドしたじゃないか。
大丈夫かしら・・とゆっくり走ってたから気付けたと思われる公園の入り口。
前だけ見てグイグイ登ってたら、もしかすると見逃しちゃうかも・・そんな看板。

案内図ガン見の瞬間


薄くて儚げな入口のわりに、通路を進むと超整備された公園が出現!
手前は駐車場。誰もいないし来なそうで貸切だけど特に嬉しくないというw
ついで登城で下調べしてないので、天正壬午の乱の雰囲気だけサッとね。

首をかしげる瞬間


レンガなんか敷き詰めちゃって・・無駄なお金使って作った公園なんでは?
須玉町ふるさと公園って言っても道案内も分かりやすく出てるわけじゃなし、
町民憩いの場にしちゃ立地不便。城跡壊して公園を作るニーズはいかほどに?

思わず苦笑いしちゃう瞬間


レンガ道をズンズン進んで広場に行くと、数少ない見どころ薬研堀があります
・・・って、浅くて薬研掘っぽい感じとか全然ないんだけど (*°∀°)=3

いろいろ残念だった瞬間


北条氏が造ったと伝わる薬研堀ですが、どうやら埋め戻してあるみたい。

若神子城は武田の祖、新羅三郎義光によって築かれたと伝えられます。
天正10年(1582)、本能寺の変後、旧武田領をめぐって争われた天正壬午の乱で
北条氏直が若神子城に陣を構え、新府城に布陣した徳川家康に対峙しました。

で、この時に城の改修が行われて薬研堀なんかが掘られたらしいんだけど、
結局、武田遺臣を取り込んだ家康が勝利したから途中で放置されたんだって。

一番ダメなパターンに思えた瞬間


広場の真ん中から見ると一応、左右2か所に薬研堀が残ってる風になってます。
でも城跡って感じはなさすぎ、の割に公園として有効活用されてる感もない気が。

ノーメンテでボロボロだった瞬間


広場を抜けると未整備ゾーンがあって、ぼろい復元のろし台が置かれてます。

若神子城って信玄の頃は信州攻略の重要な中継拠点で、のろし通信網の中心に
なってたと考えられてるんだって。この通信網が国中に張り巡らされていたから、
当時、甲府から川中島まで2時間で連絡できたのだとか・・のろし侮れないw

注意書きが必要だった瞬間


のろし台の先はタイル張りの公園化された部分と区切りや境目とか特になく、
いきなりワイルドな世界が広がるのって、ちびっこには危ないんじゃないかと。

走るな危険!だった瞬間


少し先に進んでみたけど、草ボーボーで倒れた木もそのままだったり危ないの。
下の方に降りるところもあったけど、足場悪いし遺構もわからないので引き返し。

ほろ苦い思いがした瞬間


微妙なバランスの岩もあったり公園とのギャップすごすぎ(*°∀°)=3 
なんか色んな意味で中途半端で残念な公園だなって思いながら車に戻るw


新府城に登城したところからの〜谷戸城、若神子城ってことで、
天正壬午の乱の感じを辿れたんだなって思えば・・まぁいいか!


勝手に納得したところで次は武田巡りの締め!新羅三郎さんの墓へ行きます!!


正覚寺にて新羅三郎義光のお墓参り〜に続く




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2016.10.14 Friday 17:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(山梨県) | 

谷戸城に登城!

甘利昌忠の墓がある韮崎市の大輪寺から、お隣の北杜市に移動してきました。

韮崎が甲斐武田発祥の地なら、これから行くのは甲斐源氏誕生の地!
地味だけど、その場に立ってる感に興奮出来そうな谷戸城に登城するのです。

落ち着きのない人だった瞬間


建物の写真を撮り忘れたけど、谷戸城の入り口は北杜市考古資料館の目の前。
資料館には城の模型や発掘品展示があるんだけど時間ないので省略します。

甲斐源氏誕生だった瞬間


親子連れがパラパラ戻ってくるのが気になるけど、とにかく登城開始!

谷戸城は平安末期、常陸から配流された源義清・清光父子が逸見の地に土着し、
居城として築いたのが始まりと言われます。この清光の次男が武田氏初代、武田信義
源義清ってのはあの「新羅三郎義光」の子。この辺りは甲斐源氏のルーツ。
韮崎武田巡りからずっーと思ってるけど知るほどに武田の名門ぶりすごすぎw

ちなみに清光の嫡男光長は逸見氏を名乗ってこの地を治めたらしいけど、
信玄の頃には武田の方に吸収されたような?感じになっていたみたい。

説明付きで安心の瞬間


城の案内板の脇にあった横堀。南へ傾斜する尾根と山を分断してたんだって。
正直その感じ分かりづらいので、説明が色々書いてあるのはありがたかった。

回したりひねったりしていた瞬間


持ってた縄張り図が実際と逆だったから地味にこんがらがってたw
左右逆でも何かわかりづらいし、さかさまに見るのも読みづらいし。

念入りだった瞬間


縄張り図をこねくり回しながら、四の郭からの帯郭前に来ました。
先の土塁奥が二の郭。簡単には進ませない感が分かりやすいです。

帯郭に仁王立ちの瞬間


右の土塁が二の郭。帯郭の左手にあるちょい土塁とそれ境いに左が四の郭。
二の郭への防御の他、四の郭と五の郭をつなぐ通路の役目もしてたんだって。

使い勝手が想像できない瞬間


二の郭の中に入ってみたところ。土塁の中に空堀あるのが変わってる!

谷戸城は天正10(1582)年、武田家滅亡後に甲斐国をめぐって徳川と北条が争った
天正壬午の戦いで北条が制圧した一つで、その時に改修したと推測されるんだって。

北条さんが掘ったのか? 意図とか何がしたかったのか残してほしかったよね。

ピンと来てなかった瞬間


二の郭を進んで一の郭の虎口・・っと写真の角度が残念だったかしら?
見やすくてわかりやすいけど、ワタクシあまりイメージがわかないがw

ピクニック場になっていた瞬間


一の郭は広くないし、こうして見ると囲む土塁もそんなに高いわけじゃない。
ホントは少し引いて撮りたかったけど親子連れがど真ん中でランチ中につき・・

結局よくわかってなかった瞬間


谷戸城は喰い違い虎口が多い中、一の郭は平虎口。門があったようです。
一の郭、あんまり最後の砦って感じしないけども、どうだったのでしょうか。

行き届いていた瞬間


さすが国史跡だけあってよく整備されて、案内板も各見どころに完備!
土塁、虎口、空堀、帯郭・・ってのがわかりやすいのも気張らず見れていいw
この整備なら夏に来ても草ボーボーってことはなさそうだなって思った!

残念な人だった瞬間


いったん登場したとこまで戻って今度は横っちょの道を進んでみます。
下調べが出来てなかったので絡め手側に降りず、元に戻ってくる人w

雰囲気が大事だった瞬間


左が今降りてきた一の郭があった側、右は居館があったという六の郭跡。
道が通って畑や宅地が出来て、ずいぶん変わってるんでしょうけど。

感心していた瞬間


谷戸城側を見上げると、二の郭手前で見てた以上に帯郭の存在が
ぐるっとあるのがわかって、当たり前だけど縄張り図どおりだわとw

もう十分だった瞬間


多分この畑の中を進んでいくと六の郭の土塁とかあると思うんだけど、
民家もあることだし、そうまでして見なくてもいいでしょってことで終了!

谷戸城は復元土塁もあるけど、全体的に遺構がちゃんと残ってるし、
整備は行き届いて案内板も充実しているのでおすすめ! 
天正壬午の戦いで徳川と北条が鎬を削った地の空気感も味わえたしね。

まったくの偶然だった瞬間


谷戸城を後にして次なる目的地に向かう途中、ナビの通りに走っていたら
何やら立派な史跡の前を通りかかりました・・ナニソレ、全然知らないけどw

首をかしげた瞬間


縄文時代の集落跡や祭祀施設と中世の城館跡が複合した遺跡なんだって。

・・・へぇ、竪穴じゃないのもあったんだ(*°∀°)=3

とか思っちゃうワタクシの古代レベル、多分相当やばいww

お金かけて整備してるし国の史跡らしいけど、全然有名じゃなくない??
谷戸城すぐ近くだから、もっとセットでアピールすればいいのにね!

なーんて無責任に思ったところで、次なる龍岸寺へ改めて出発!
近くに来たので、真田信尹さんのお墓参りをします。


龍岸寺にて真田信尹のお墓参り〜に続く





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2016.09.02 Friday 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(山梨県) | 

新府城に登城!

勝頼と北条夫人が振り返った涙の森から元いた新府城へ逆送したワタクシw
涙の森からはほんの数キロ・・勝頼の未完となった最後の城に登城します。

久々の出陣だし、ちゃんと見たいと思って下調べはかなりした(キッパリ)。
今回はワタクシには珍しく城に着く前の所からちゃんと書いちゃうもんねww

ナイスコンビニだった瞬間


登城前に腹ごしらえ・・と思ってコンビニ寄ったら気付いた背後の断崖。
新府城って釜無川側はこんな感じの絶壁で立地はとっても良さそうなの。

ジモティ以外は危ない瞬間


新府城に車で行くと七里岩ラインを通るんだけど広い駐車場あるから焦らないでw
この案内板が出てすぐ狭い駐車場があるんだけど、少し先のに停めた方が絶対いい!

七里岩ラインって地元の人の生活重要道路らしくて何もないとこなんだけど
車がそこそこ多い上、信号ないから飛ばす飛ばす・・看板を見つけたと同時に
慌てて狭い駐車場にハンドル切るとたぶん危ないからホントに気を付けて!

急がば廻る瞬間


気合いで狭い駐車場に停めると、目の前に何か良さそうな登城口風がある。
でもコレ、鬼急斜を登る羽目になる上、当時はなかった本丸の神社直通階段。
最後にココを降りて戻ればいいからワタクシはやっぱちょい先の駐車場へ!

大河効果あまり見られずの瞬間


20〜30台くらい停められるかな? 専用の駐車場がちゃんとあります。
で、この目の前が超〜見どころの「出構」、それを見つつ搦手から登城します。
勝頼公の未完の城とか真田丸押しのアピールすごいけど人はそんないないw

機敏さが必要だった瞬間


駐車場から道路を横断して城域に行くんだけど、それも本当に気を付けて!
車がスピード出して来るのでノンビリ道路渡ってたらマジひかれるΣ(゚Д゚)!

いきなり目が輝く瞬間


ワタクシは今回、国史跡としての整備が行き届いた搦手方面から登城します。
駐車場の目の前がすぐ「出構」。手前が東出構、奥に小さく見える西出構。
城の北側の防御施設で二つの張り出しの間には当時、水堀があったそう。
両側で出丸として機能しつつ、背後でつながる帯曲輪からも攻撃可能だ!

早くも腕とか痒くなってた瞬間


西出構の目の前に来てみた。高さはワタクシの身長よりは確実に高いです。
出構の近辺はどこでも入れるんだけど、5月初旬にして何気に草むら深し!

行き届いていた瞬間


さすが国史跡だよ!って感じの石造りのしっかりした説明があります。
航空写真もあってね。東側枡形までよく分かるわと思ってガン見したw

未完とはいえ・・と思う瞬間


出構の間にあったという水堀の名残りを搦手前で見ることが出来ます。
今はよく分かんないけど折れもあったそうで守りはやっぱ堅かったみたい。

ムラがありすぎた瞬間


搦手の乾門から城域に入ります。新府城って国史跡で整備はされてるけど、
搦手側の方が案内板も含めて行き届いてたなって今ホントに改めて思ったw

織田VS武田に興奮する瞬間


乾門枡形虎口・・手前に一之門、奥に二之門が建っていたそうです。
門跡遺構を埋め戻して保護し、一之門は柱穴の位置表示をしています。
枡形内は12〜13m四方だそうだけど柵とかあったらかなり閉塞感あるね。

興奮して震える瞬間


二之門は妻入り門か妻入り櫓門があったそうで、礎石の復元表示がされてます。
発掘調査で焼け跡が見つかり、天正10年に門が焼け落ちたのが分かっているそう。

続あちこち痒かった瞬間


ひとまず本丸を目指します。土塁やちょっとした空堀があちこち見られます。
木陰で爽やかなんだけど羽音がやたらデカい虫が多すぎるのが超イヤ!
おまけにまだ人が通ってないから、クモの巣がハンパないんだよね(泣)

センスが残念すぎた瞬間


井戸跡に到着! すり鉢状の井戸で当時とても深かったらしいんだよね。
水が湧いてるやつじゃなくて、岩から染み出る水とか雨水ためる方の井戸。
ワタクシの撮影じゃすり鉢感とか全然なくてダメじゃん!って感じだけど・・

大河はどうでもよかった瞬間


やたらに広い本丸にとりあえず到着!真田丸アピール旗がはためいてます。
の割に何度も言うけど人いないww 気にせず登城してホントよかったわw

色んな小説のシーンを思いだす瞬間


国史跡を表す柱標には普請奉行「真田安房守昌幸」と書かれてます。

新府城は躑躅ケ崎館に代わる新たな武田本拠地として武田勝頼が築きました。
真田昌幸が普請奉行を務め、七里岩の要害に甲州流築城術の集大成となる城を
築いたものの、織田勢に攻められ、築城からわずか3ヶ月足らずで勝頼自ら、
城を焼き捨てて逃亡。再起を図るべく岩殿城を目指しますが小山田信茂に裏切られ、
先祖が自害したと伝えられる天目山を目指す途中、田野で自害しました。

武田最後の城、未完の城・・真田昌幸の安心施行で防御力が高くても、
勝頼はもう民心も有力家臣も親族の支援も失ってしまっていたものね・・

首をかしげていた瞬間


本丸の奥には勝頼公霊社と武田十四将の霊位が建立されています。
二十四将じゃなく十四将って何?どういう人選?って感じなんだけどw

馬場、山県、高坂、内藤、原、甘利、五味、小山田・・エッ Σ(゚ロ゚;)!
と思ったら小山田昌輝って書いてあったw 誰それって首かしげたし。

へぇそうなんだ〜と思っときゃいい瞬間


武田氏滅亡後、国主の恩徳を追慕した民が石祠を作って慰霊をしたらしく、
説明書きによると、そういう流れからの公霊社建立や存在らしいです。

勝頼がダメ過ぎたとかアフォだったとかいわれることもあるけれど、
極端に能力がどうとか・・きっとそういことじゃないんだよね。
信玄の存在、武田の家風、勝頼個人の気質・・運悪く悪い方に進んだ。

新府城を逃げ落ちた後、もし小山田に裏切られず岩殿城に入るか、
あるいは真田昌幸の勧めを聞いて岩櫃城に入って再起を図っていたら、
数ヶ月後には信長は斃れてた・・そしたらどうなってたんだろうね。

未完に思えなかった瞬間


本丸を出て二の丸に行きます。振り返って高い土塁を眺めました。
未完の城だったというけど、あと何が揃えば完成だったんだろう。

勝頼が逃亡したのは未完で危ういということより、高遠城も落ちた後、
減りゆく兵力では守りきれないからあきらめたって感じなんでしょうね。

おおざっぱすぎた瞬間


二の丸の案内板。こっから先は矢印の方向も怪しげなこんなのばっかw
予算とかあるでしょうが国史跡なんで、搦手みたいな説明付案内板を希望!

昌幸の工夫かもだった瞬間


二の丸に入ったところから本丸から続く通路を振り返っての虎口。
新府城って高いところにあるとか広い尾根を生かしてるとかじゃない分、
土塁で徹底的に曲輪を仕切って実際よりもかなり複雑に見せてる感じ。

広さは合った瞬間


二の丸自体はそんなに見どころないかな。奥へ行くと断崖が見えるけど、
木が邪魔して肉眼ならともかく、写真だと全然下界が見えないんだよね・・
でも現地で見れば西の断崖感は分かり、北はさっき見た両出構がガード。
当時、どこに道があったか合わせて考えると堅固な立地が実感できます。

詳細な説明板を切望する瞬間


二の丸を出て大手の方へ廻っていきます。途中、縄張では馬出しがあるはずが
ワタクシには見つけられず、アレレ〜と思ってたら三の丸に来ちゃってw

西三の丸と東三の丸は土塁で区切られてるんだけど・・ここについては
区切ったからって縄張は特に複雑にはならなそう。何のためにわざわざ?

分かりやすさが足りなかった瞬間


東三の丸はこんな感じ。西も東も三の丸自体、土塁に囲まれて本丸に向けて
斜面が登ってる感じで。東三の丸とか書いた看板が立ってるけど矢印あるだけで
どっち向いてるの?みたいなw 搦手側のような万人向けの案内とか全然ないの。

ちなみにワタクシは蔀の構ってところが歩いたけどよくわからなかった。
超〜いい感じの防御スペースだと思うのに説明がないってなんか残念。

ロックオンして向かった瞬間


ワタクシが見たかったのは大手から枡形、丸馬出し、三日月堀と続くとこ。
ここなんて武田の城見に来たら超〜見どころなのにやっぱり案内板なし。
ワタクシの前歩いてた熟年カップルは普通にスルーして出口向かってたわ。
縄張図の解説なんかには載ってるんだから案内くらい立ててあげてほしい。

分かりやすすぎた瞬間


大手を入って枡形を抜けると丸馬出し。ものすっごい分かりやすい!
枡形は写真に納まりづらくてないけど、搦手みたいに厳重な感じがあって。

美しすぎた瞬間


丸馬出しの下には美しい三日月堀の跡。めっちゃ分かりやすい!! 
てかホントにね、こういうとここそ詳しい説明必要でしょって思ったし。

ワタクシは大河見てないので真田丸とか正直どうでもいいんだけど、
武田築城の最終ノウハウが詰まった城が残って、それ見れたのに感動!

ふーんと思っていた瞬間


最後に来た道を本丸に戻って藤武神社の拝殿へ。勝頼が築城の際に鎮守として
祀ったが落城とともに焼失するものの、後に家康の命で再建されたそうな。
お新府さんと呼ばれて地元の方には今でも親しまれているんですって。

余裕の笑顔だった瞬間


ちなみに記事の最初に書いた通り、鳥居と新府城看板を見てこの階段登ると、
藤武神社拝殿前に到着・・いきなり本丸からの登城になりますよ。
ワタクシは搦手から登城したので、帰りは降りて行くだけ。ウフンw

気が遠くなりそうな瞬間


一番下から249段だったかな・・登ったらワタクシは膝が死にますw
当時はなくて神社への参道として作られたらしいので帰り道で正解!?

漏れなく廻る瞬間


石段の前には車の往来激しい七里岩ラインを挟んで東側枡形があります。
首洗い池とかって名前もあるらしいよ。なかなかな空堀が見られますよ。


近いからいつでも・・とか何だかんだ、やっとの登城になったけど、
武田の城をあちこち見てから来たのも良かったのかな〜なんて。

新府城の廻りって出構の前とか特に桃の木畑が広がってるんだけど、
春先(4月初旬〜中)には桃の花が咲いてとんでもない美しさらしい。
辺りがピンク色にボーっとかすんで、まるで桃源郷のようなのだとか。
すごい混むだろうけど、いつかその夢幻な儚い感じも見てみたいなぁ。

新府城の見ごたえに大満足したところで、次は新府城落城寸前、
勝頼夫人が戦勝を祈願して願文を納めた武田八幡宮へ向かいます!


武田八幡宮へ参拝!〜へ続く



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2016.07.01 Friday 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(山梨県) | 

岩殿城に登城!

景徳院の次は勝頼を裏切った小山田の岩殿城に向かいます。

見るからに頼りになりそうだった瞬間


明治12年に乃木希典が岩殿山に登った時、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」
と感嘆したという。神様になった大将に言われると、それもそうだと思うわねw

事前のチェックである程度の覚悟は決めてきたけど実際見るとやっぱ萎える。
ここに城を構える旧臣小山田を頼みに思う勝頼の気持ちも分かる気が・・。

登城開始の瞬間


橋を渡ってすぐのところにある登山者用駐車場に車を停めて登山口へ。
まずはここから丸山公園にあるふれあい館を目指します。
話によると円山公園までは苦労せず普通に登っていけるとか。

それらしくなってきた瞬間


登り始めてほどなくして岩殿城の案内板と冠木門が見えてきた。
ただダラダラ長い坂を上ってきただけ、まだまだ楽勝!!

岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられ、
10世紀には門前町が作られ、13世紀には修験道の場としても栄え、その支配は
甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだという。
16世紀になって戦国大名による領地支配が成立すると武田氏の支配下におかれ、
小山田氏が入り岩殿城として武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。(案内板抜粋)

改修工事にとりつかれていた瞬間


山に登ってまで改修工事に遭遇かいΣ(゚Д゚)!
ああ・・ワタクシ今年は本当に工事に遭遇する確率高すぎだわ。
甲府城みたいにやってるの分かってて行くのはまだしも、
特に情報もないのに行ったら工事してるってのはがっかり。

覆われていないだけましだった瞬間


模擬天守でもある「岩殿山ふれあい館」。どうやら塗り替え工事中らしい。
岩殿山は登山客にも人気の山で、ここは岩殿城の資料館であると同時に、
登山客の休憩所にもなるみたい。故障中だったけどなぜかプラネタリウムも完備w
岩殿城の記念スタンプも押せて資料ももらえるから行った際には寄るのがマスト!

問題はここから先だった瞬間


ここまではほとんどの部分が舗装された坂道と石段だったので
軽いトレッキング的な感じでここまで登ってきたけれど問題はここから。
石段ばかりだと聞いていたのでスニーカーのまま登ってきてしまったけれど、
ここから登り始めてすぐ車で靴を履きかえてくればよかったと後悔・・。

ゆる〜い岩を見てもなごめなかった瞬間


ふれあい館から先は石段と土の坂道とが入り混じった斜面に突入。
スニーカーではすべりそうな場所もあるので前かがみになって、
必要以上に足を踏ん張って歩くもんだからすぐに疲れてきちゃう。
人の顔に見えるおもしろい岩を見ても和むどころか溜息しか出ない。

斜面三連星ジェットストリームアタックだった瞬間


長く急な石段に、歩幅と合わず微妙に邪魔な滑り止めのある斜面。

らせん階段かと思った瞬間


そしてとどめが日光いろは坂も真っ青の強烈な九十九折Σ(゚Д゚)!

ぜぇぜぇ・・つらすぎて口も利けない。砥石城に続き軽く死ねる。
膝の古傷が傷みだしたので2回曲がったら1分休憩のルールを作って登るけど、
残りの距離は分からないし、ペットボトル見たら水は半分も残ってないし。

・・小山田信茂めっ とっても難攻不落じゃないかヽ(`Д´)ノキー!! 

具足つけては登りきれないし、身軽では上から攻撃されてお陀仏。
ここに勝頼が入れれば、遅かれ早かれ滅亡は避けられなかったとしても、
もう少し違った最期になったのかもしれないな・・なんて思ったり。

間違えは許されなかった瞬間


あまりの疲れに幻覚が見えようと意識がもうろうとしていようと、
ここの分岐点を間違えてはならない。登山客は直進、ワタクシは右。
稚児落としになど行ってしまったら砥石城ところじゃすまない。
鎖をよじ登る巨大岩とか蟹歩きで伝う断崖とかになっちゃうのよぉぉ!!

やっと先が見えたと思ってしゃがみこんで呼吸を整えていると、
岩殿城側の斜面から2人連れのおじいちゃんが降りてきた。
楽しそうに話しながらステッキを使ってしゃきしゃき歩いて。

おじいちゃん「はい、こんにちわ。この辺はきついでしょう」
あもばあさん「ええ、ええ・・とてもつらいです」
おじいちゃん「熊に気を付けて行ってくださいよ(笑)」

おじいちゃんたちどう見ても70代。ワタクシ30代・・・あの元気なに?

やっと到着した瞬間


何とか死なずに岩殿城第2の関門であった揚木戸門跡に着きました。
どういう門だったのかは分からないけど普通の門でも吊り上げ式でも
こんなところに頑丈な木で門を作られたら絶対に破りようがない。

やっぱり無理だった瞬間


門跡を抜けたところから振り返って見る・・無理だよねぇ。
ただ門を閉じると攻撃が出来なそうな感じはどうなのかと思うけど。

見張りやすそうだった瞬間


揚木戸門跡のすぐ先には番所跡が。門の見張り所だったようです。
門正面も後ろの斜面もよく見えて巨石の多いこの場所ではナイスポジションですw

あまりにも用心深すぎた瞬間


写真では分かりづらいけど番所裏には巨大竪堀が Σ(゚Д゚)!
揚木戸門で足止めされた敵が回り込むことを防いでいるのかな?
ただでさえこんな急な山の斜面でどんだけ念入りなんだw

高さ3段活用を再現


左からふれあい館に着く前、ふれあい館を登り始めてほどなく、山頂郭内からの風景。
標高634m・・膝の痛みを押しながらよく登ってきたものだ。自分の根性に乾杯w

乃木大将のいうとおりだった瞬間


まずは南物見台に行ってみる。ここに城内案内図や説明板があり、
しかし立派な石碑は城址碑ではなく、乃木希典将軍七言絶句の詩碑。
岩殿山に登った時、小山田について思うところを詠んだものらしい。

欲問当年遺恨長 英雄前後幾興亡 巉巌千尺荒墟上 仗剣帳然見夕陽

近代史は詳しく知らないけど乃木将軍といえば明治時代の陸軍大将。
明治天皇崩御の際に自決した「主従は共に」を地で行く御仁には
土壇場で主を裏切った小山田信茂はどのように映っていたのだろう。

・・って漢詩読めないし。文学者でもあったんだから訳もほしかったわ。

この詩碑のある後ろは断崖絶壁で大月市内や桂川が丸見え。
でも高所恐怖症のワタクシには近づけないのでのぞいた写真はなしΣ(゚Д゚)!

先は長そうだった瞬間


現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、
さらに蔵屋敷、兵舎、番所、馬屋、物見台、揚城戸などの建物跡のほか、
空湟(からぼり)、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。(物見台の案内板より)

南物見台を降りて帯曲輪をまっすぐ進むと城の本丸などがある中心部へ。
しかし膝痛いわぁ。皿の奥のあたりが屈伸動作のたび痛むのよね・・。

あまり広くはなかった瞬間


「本城内で一番広い面積を有し馬や兵士の訓練場とされ非常に備えた」という馬場跡。
土塁に沿って帯曲輪の道を歩いてきたから広いところに出た感じにはなるけど、
岩殿城自体ぶっちゃけそんなに広くはなさそうな。あもは膝痛いから広く思うけどw
ここからは建物の礎石や天目茶碗とかも発掘されたのだとか。生活があったんだね。

頑張って降りていった瞬間


馬場跡から右の方に行くと用水池があるというので斜面を降りてみた。
正直、帰り道の膝の負担が心配だったけど、登ったことに満足して終わるという
砥石城の二の舞は決してあってはならない! めぼしいものだけでも見ないと。。

右が亀ヶ池と呼ばれる飲用に使用された石積井戸で、
左が馬洗池と呼ばれた馬や兵士の水浴用井戸。井戸の中には今も水が。

っていうかさ・・馬場跡とか馬洗池とか、こんなとこにまじで馬がいたの?
ずんぐりむっくりの当時の馬でもここまで登って連れてこれないんじゃない?
というよりここで飼ってもいざって時、飛び乗って駆け出しようもないんでは?

限界だった瞬間


馬洗池から戻って説明板しかない蔵屋敷跡、三の丸跡を抜け本丸へ。
この奥には空堀とか、気合いでもっと先に行けば七社権現洞窟とかあるけど、
本丸手前の地味に急な斜面を歩いたおかげで膝は本当にそろそろ限界。

気持ちも萎え萎えの瞬間


本丸の烽火台跡地にはテレビの中継アンテナが・・心が砕けるーー!
本丸にはこれらの施設がどーんと陣取っているのでイメージしづらいけど、
そこそこの広さがあり、物見台とか小屋なんかは普通にあったぽい。
でも本丸と言われても何だかなぁ・・と思ったのが正直な感想w

ベスト5入り確定の瞬間


砥石城に行った時、初めてワタクシの中で作られた
「二度と行きたくない城ベスト5」に岩殿城もランクイン決定 Σ(゚Д゚)!

山城に行く時はたとえ低い山でもそれなりの装備をしましょう。
山城に行く時は元気のある日程の初めに行ってしまいましょう。

膝は痛いし、汗だくなのに水分なしで脱水寸前・・ダッシュで下山しますw
来週だけは山城はやめておくことにします・・・・


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2010.10.31 Sunday 21:29 | - | - | 中部(山梨県) | 

甲府城に登城!〜本丸

さてさて、ようやく甲府城の顔ともいえる稲荷櫓にやってきました。

工事じゃなくってよかった瞬間


稲荷櫓は鬼門に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)とも呼ばれ、
江戸時代には武具蔵として使われていた。明治初年の廃城と共に取り壊され、
市民の声によって平成16年、絵図や資料を元に復元当時の姿で復元された。

2層2階木造入母屋造り本瓦葺の櫓は脚の不自由な人でも入城できるよう
階段の半分にはリフトまでついたユニバーサルデザインΣ(゚Д゚)!

矢穴掘りビフォーアフターの瞬間


稲荷門櫓の入り口に矢を入れた石と見事に割れた石が。
矢穴は時代が新しいほど小さいらしいから・・これが本物なのか
再現なのかは分からないけどイメージは築城の頃と思えばいいのかな。

写真がなんでアフタービフォーなのかというと、置かれた順を再現したからw

メガ天守台だった瞬間


稲荷櫓の入り口から見たところ。離れて見てもでっかいわ〜
メガ天守台なんてそうそう復元できないだろうことを考えると、
石垣部分だけでも残って目にすることが出来るのは幸せだわと思う。

ちょっと時間はなかった瞬間


まだ本丸は見てないし、この後の予定もめいっぱいなので、
櫓内部の資料はざっくり見て終了。木の香りが心地よかった!

ところで石垣の解体調査で背後から古い石垣が現れたという二重石垣を
ワタクシは稲荷櫓周辺で見逃してしまっていたらしい。
案内板を探してきょろきょろしてたんだけど場所を確認して登城しなかったから
見つけられなかった。もしかして工事中で立ち入り禁止のところだったとか? 
どっちにしても惜しいことをしたわ・・。事前確認超〜大事!!

非常にわかりづらかった瞬間


火薬庫があった硝煙櫓跡。どこの城にもあるけれど甲府城のは
地下構造で特別な防湿構造を持っている珍しい遺構なのだとか。

・・・と言われても地下構造とか全然、わかりませんがΣ(゚Д゚)!

さらに巨大だった瞬間


穴太積み・・隙間がいい感じの天守台だわw 
マイナー感のあるお城だけど東日本有数の石垣だと思った。

やっぱり明治初年までだった瞬間


明治初年まで古写真で二層の櫓が建っていたらしい本丸櫓跡。
復元された稲荷櫓のほか、数寄屋櫓、清水櫓、月見櫓も残っていたというから、
この石垣と合わせて妄想すると甲府城は思っている以上に迫力だったと思う。

こっちは意図的な穴だった瞬間


暗渠(あんきょ)と言って水を排出するための穴なのだそうだ。
案内板があるのはここだけだけど、他の石垣は暗渠どうなの?

目立ちすぎだった瞬間


天守台前、本丸に到着するとさっきからちらちら見えてた高い塔がドーン!

城とは全く関係ないのにひときわ異彩を放つ謝恩碑。高さ30.3m。
明治44年に山梨県内にあった皇室の山林が明治天皇から山梨県に
贈られたことを記念して造られた碑なのだとか。目立ちすぎじゃ?

フェチかもしれないと気づいた瞬間


よくよく考えてみると、ワタクシは武者走りフェチなのかもΣ(゚Д゚)!
どこに行っても武者走りにすぐ目が行き、もれなく写真撮ってるw
なぜ目が行くのかわからないけど、左右対称は間違いなく好きです。

そうだよ、適当なのはやめてほしいと思った瞬間


不思議な形のメガ天守台全景・・もし存在していたら絶対にメガ天守!
絵図にも記録にも天守の存在は載っていないんだけど、発掘調査の結果、
金箔を施した瓦などが出土していることから、もしかすると天守が
存在していたのではないかとも言われ始めているそうだ。
でもはっきりしないから市民に熱望されながら再建は見送られているようで、
天守の存在が書かれた絵図や記録には懸賞金がかけられているんだって。

甲府城って建物がなくなっている分、石垣の見事さが際立つというか・・
適当なの建てて台無しにするより今のままの方が素敵かなと思ったり。

わくわくする瞬間


登り口には算木積みが見えるけど全体的には粗粗しいというか、
一生懸命積みました的な温かさがある感じのする石垣。
ここを登ると景色が抜群だというからちょっと楽しみw

テープが謎だった瞬間


階段を登って穴蔵部分の石垣には黄色いテープが。
落書きある石とかってわけじゃなさそうだけどなんだろう?
首をかしげながら天守1階部分へさらに階段を登ります。

落ち着かなかった瞬間


狭い場所の反時計まわりって何だか落ち着かないわね・・
と思いながらぐるーっと回り、パノラマビューはちゃっかり楽しむw

多分こっち!だと思った瞬間


躑躅ヶ崎館(武田神社)や要害山の方角はこちらと見たが・・
どうだろ?自信がありません。あもに物見役は出来ないと思いますw

慣れっこだった瞬間


数寄屋曲輪の自由広場、稲荷櫓横、そして鉄門跡・・・
修復だか復元工事にはもう慣れました。はい。

完成時期は書いてなかったけれど鉄門復元中のようです。
CGの完成図を見ると鉄門は櫓門で鯱がついた堂々としたものらしい。
天守台の近くに立派な櫓門・・・完成したら再登城して見てみたい。

再建はないらしかった瞬間


鉄門の工事現場の近くにある銅門の礎石。
ここも今に復元されるのでしょうか?

櫓門を復元された様子を妄想する瞬間


銅門の礎石がある場所を見上げて・・なさそうだw
ここは初めに入った内松陰門から本丸に向かう場所にあたる。
甲府城で見られる復元門は小さめのが多いから鉄門と銅門
本丸入り口にどーんと建ったらまた違った印象になるかもね。

名残りを惜しんだ瞬間


城外に出て最後に稲荷櫓の北面を見ておくことにしました。
ここだけ見ると中はじゃんじゃん建造物がありそうな雰囲気w
立派な石垣だけど傷みが激しく修復されているそうです。

暴れん坊将軍を思い浮かべた瞬間


中で近くから見た時は思わなかったけど稲荷櫓を外側から見たらふとw
雰囲気が何となく徳川の城です〜的のかなぁと思って。

甲府城、思っていたより見応えのあるお城でした。
何年か後にまた再登城しようと思いつつ、次は勝頼を探しに行きますw

勝頼のお墓 景徳院のエントリーはこちらから


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2010.10.26 Tuesday 20:03 | - | - | 中部(山梨県) | 

甲府城に登城!〜曲輪編

日本100名城25番 甲府城に登城!

と思いきや、まずは甲府駅前に信玄像を見にいっておく。

どっしり腰の据わった貫禄だった瞬間


ド迫力!! さすが、動かざること山の如しΣ(゚Д゚)!
川中島古戦場の謙信との一騎打ち像同様、やっぱ濃いわぁw

甲府城は甲府駅前にあり、車は基本的に有料駐車場を利用するから、
ちょうど信玄像がある側なのでぜったいに忘れず見るべし!

甲府城に登城!宣言の瞬間


甲府城って有力大名がいたわけでも、大きな合戦に登場したわけでもなく、
途中で甲府勤番支配なんかにもされマイナーな印象だけど、石垣が素敵なお城よw

いざ城内へ!の瞬間


内松陰門(うちまつかげもん)より入城し、曲輪跡を見ながら本丸に向かう。

屋形曲輪と二の門をつなぐ門で、明治の初めまで残っていたものを
絵図や発掘調査の結果をもとに平成11年に復元されたそう。
今は線路で山手御門と甲府城は分断されてしまったものの当時は
今の甲府駅や山梨県庁付近にも曲輪があり、20haにも及ぶ大城郭だったという。

ちなみに地図を後で確認してみたら今の県庁のあたりが楽屋曲輪、
甲府駅のあたりが清水曲輪、その間が屋形曲輪だったらしい。

チラリズムに興奮の瞬間


内松陰門をくぐるとさっそく本丸の高石垣が見えてきました。
が、まずは二の丸方面に向かい、武徳殿横を抜けて坂下門跡に向かいます。

甲府城は天正10年(1582)の武田氏滅亡後、甲府領を手に入れた家康の命を受けた
平岩親吉により築城開始されたが、完成前に家康は関東転封。
秀吉の支配となった天正18年(1590)より秀吉の甥である羽柴秀勝が入封し、
以降、加藤光泰、浅野長政・幸長と領主が変わり、浅野時代に完成したと言われる。
別名は舞鶴城。築城当時は甲斐甲府城、府中城とも呼ばれたという。

石垣の積み方を見比べる瞬間


坂下門跡は二の丸虎口。正面奥と右手前の石垣の積み方が違うの。
手前は甲府城築城期の野面積みの石垣、奥は柳沢吉保時代の石垣。
隙間ない方がいいんだろうけど、ワタクシは野面積みが好きよ。

ここから天守曲輪には向かわなかった瞬間


鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門で平成8年に復元されたもの。
鍛冶曲輪門は高麗門ではなく四脚門で、当時は今はなき大手門からこの門を通り、
今見てきた坂下門から天守曲輪へ向かうのが登城ルートだったそうだ。

しかし、ワタクシは本丸を最後にしたいので恩賜林記念館でスタンプをもらい、
管理事務所の前を通ってお城の全体がよく見える南側・・・遊亀橋に向かいます。

いち、に、さん 段ー!! だった瞬間


ふざけてごめんなさい・・一二三段の石垣と天守台が素敵なものでw

当時の大手門はさっき見た鍛冶曲輪門のもっとずっと左下の方で
この遊亀橋は全然違うんだけど、そのこと知らずにこの風景を見ると、
普通に勘違いしちゃいそうなくらい堂々たるものよw

秘密には見えなかった瞬間


稲荷門へ続く道の途中で見ることのできる水溜。
パンフレットには「絵図にも書かれていない秘密の水溜」と書いてあるけど
道端に、しかもこんなに堂々とΣ(゚Д゚)!・・単なる書き忘れだったりw

切り方はわからなかった瞬間


石垣を積む時には石集めに苦労することが多いらしいけれど、
甲府城は敷地が岩山だったので城内から石が切り出されたそうだ。
石切場跡が見られるのは面白く見ればなるほどと思うけれど、
どんな大きさでどんな切り方したのか、あもには全く想像がつかない。

お高級だった瞬間


稲荷門は稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門で、享保の火災でも焼けず、
明治初年までは残っていたものが平成11年に復元されたそうだ。
噂によると復元に数千万円かかっているとかいないとか・・Σ(゚ロ゚;)

工事中が多すぎた瞬間


今は自由広場になっている鍛冶曲輪の大部分は工事中で立ち入り禁止。
最初に見た坂下門跡の先も鉄門復元工事中で立ち入り禁止ゾーンが。
モラリストあもはそのまま鍛冶曲輪から数寄屋曲輪の櫓跡に向かいます。

上から眺めてみた瞬間


立ち入り禁止じゃなければ櫓台のすぐ下まで近くで見れたのに残念。
数寄屋櫓(別名巽櫓)は明治まで残っていたことが確認されているらしい。

何だか雑だった瞬間


・・右側はやけに雑な感じがするけどΣ(゚Д゚)!
この部分以外、数寄屋曲輪の石垣はぴっちり隙間ないのが多い。

謎だった瞬間


|д゚) ・・・・・ジーーーッ

なに、この穴・・甲府城、案内板が充実してるから
水抜きとか何か理由がある穴なら説明がありそうなものだけど。
目線の位置に、そしてここにだけある穴・・あもにとっては謎だ!

ビューティフォーな本丸に近づいた瞬間


数寄屋曲輪から稲荷櫓のある広場に出てきました。目指す本丸は目の前! 
しかしまだ稲荷櫓→稲荷曲輪を先に見るため、今回もじらしプレイ続行ですw
正面の庄司稲荷跡を見て(現在は移転して遊亀橋の東側)いざ稲荷櫓へ!!

ここも工事中だった瞬間


・・・またか!!

なんか最近、修築中にばっかり遭遇してる気がするわヽ(`Д´)ノキー!
ここの出入りできると稲荷櫓の外側見に行くショートカットできるんだけど・・

さいわい稲荷櫓は問題ないので気を取り直して見学と行きます!

甲府城に登城!〜本丸編に続く



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2010.10.24 Sunday 16:02 | - | - | 中部(山梨県) | 

武田氏館(躑躅ヶ崎館)に登城!

[日本百名城] ブログ村キーワード

日本100名城24番 武田氏館(躑躅ヶ崎館)に登城!

15番の足利氏館もそうだったけど、館っていまいち上がらない・・。
丸ごと寺とか神社になってるっていうのがピンと来づらかったりするのよ。

早く着きすぎた瞬間


100名城スタンプは9時前後に開くお守り売り場か宝物殿に置いてあるのに、
7時過ぎに到着してしまったΣ(゚Д゚)! ゆっくり見ても時間が余る。
近くの甲府城を先に見た方が2時間軽くつぶせそうだけど、こちらもやはり、
スタンプがもらえるのは9時から。七五三の折り、9時過ぎにおっとり
武田神社に戻ってくると車が停められない場合、かなり痛い。
人の少ないうちに中を見て回り、信玄の正室 三条夫人のお墓がある円光院に行くことにした。

神社には似合わなかった瞬間


疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山 

侵略すること火のごとし・・神社にあると物騒な旗だw

薪能が見たかった瞬間


大鳥居を超えると左に能の舞台である甲陽武能殿が見える。
甲陽とは甲斐の国の輝く様を表している言葉なのだそうだ。

能なんてストーリー知らないのは何してるのかさっぱりわからないけど、
あの世の話だからなのかしら? 見てると心が落ち着く気がする。
薪能を生でで見たことがないけれどテレビや写真で目にするだけでも
炎の映し出す光と影が怖いくらいの美しさで・・幽幻の美ってやつ?
戦国武将の死生観とか美意識とかにも少し触れてみたいから
そのうち多少なりとも基礎知識を勉強してぜひ見てみたいと思う。

アドレナリンは出なかった瞬間


「毘」の旗を見てハッスルした春日山神社と違って淡々と参拝Σ(゚Д゚)!

ワタクシはなぜか信玄にはグッと来ないの。信玄のすごさもわかるし、
武田家臣団は魅力的だけど、比較に意味はないけど謙信のが好きだね。
戦国大名や武将を好みの順に並べてもトップ10圏外・・なんでだろ?

今回は武田ゆかりの地を巡る旅路。信玄に萌えない理由が分かるかもしれぬw

観光ポイントじっくりだった瞬間


社務所の前にある姫の井戸と水琴窟。普段は観光さんでにぎわうと思われる。

姫の井戸は信玄の息女誕生の際、産湯に使用された事から名付けられ、
京からの賓客を迎える時には茶を立てるのにも使われたそうだ。
延命長寿、万病退散のご利益があるというので一口いただきw

水琴窟は江戸時代文政期に作られたもの。地中に甕が埋めてあり、
水を流して水滴が落ちると甕の中で反響し琴のような音がするというもの。

京都のお寺で見たことあるけど並ぶのが嫌で実際に聞いたことがなく、
今回、初水琴窟視聴。どらどら・・・澄んだ硬質な音が聞こえましたw

観光さんには人気がないと思われた瞬間


武田氏館は永禄16年(1519年)信玄の父、信虎が石和館から躑躅ヶ崎に移り、
背後の要害山を詰め城として整備。信虎、信玄、勝頼と甲斐武田家が3代
約60年に渡って居城した本拠地。今は武田神社になっている1辺200メートルの主郭と、
囲むように配置された曲輪で構成された平城で、館の周りには家臣の屋敷が、
南一帯には格子状に整備された城下町が広がっていたそうだ。

社務所の前を出てこんもりと木が茂った土橋を渡ると西曲輪。
土橋の左側は神社の周りを囲む水堀。右は空堀になっています。
西曲輪は草木が多くて神社敷地内と比べるとかなり風流な様子。
西曲輪はノーマークだったので空堀の深さとかだけ見て終了Σ(゚Д゚)!
隅の方に古い石碑があったけど何だかよくわからなかった・・。

せっかく信玄の居館として残ってるだから西曲輪ももう少し
ちゃんと整備してくれるといいのに。荒れはてた印象すぎ。

いきなり大手門だった瞬間


社殿向かって右(東)の方に旧大手門。西曲輪は堀で区切られているのに対し、
縄張図を見ると東曲輪は主郭の一部になっていて独立して存在しておらず、
水堀にかかった橋を渡り、大手門を入るとすぐ主郭部にΣ(゚Д゚)!
しかも南側に城下町があるのに大手門は東っていうのも変わってる気が。

・・・人は石垣、人は城、人は堀だから「あり」なんでしょうかw

馬出しがあって安心の瞬間


大手虎口の前には武田氏以降に築かれた石塁が復元されています。
この下に信玄の頃の丸馬出しと三日月堀が発掘されているという。
館とはいえ足利氏館とは違って戦国らしい防御が見えるのはいい!

発掘に基づいていた瞬間


何段かが発掘で見つかって復元されたもの。大手門の外側には惣堀と土塁で
囲まれた曲輪があって、大手虎口を防御していたのだそうだ。

職人さんがんばっていた瞬間


職人さんが来て何やら作業開始。朝8時前からご苦労様です。
復元された土塁を見て実際の高さはどのくらいだったかしらと考える。

きれいに整備されていた瞬間


北側土橋と惣堀、土塁はきれいに整備されていました。
写真を撮っている位置から右手に土塁の沿って堀が曲がってめぐり、
この北側虎口周辺はとっても雰囲気があって神社を忘れるw

何年か後に再登城したいと思った瞬間


南側はまだ発掘途中。立ち入り禁止だけど何の発掘してるか
所々案内板みたいのが置かれているので見てみたかったけれど
ワタクシは案外モラリストw ブルーシートでどうせ何も見えないからあきらめる。

ここが完全に発掘・復元されると武田氏館跡として
もっともっと見応えが出そうなのでそしたらまた見に来たい。

だいぶかかりそうだった瞬間


ただし・・21年度のだけど工事範囲図を見る限り、
桜の写真が貼ってある南側は何も書かれていないから発掘開始直後で
まだしばらくはブルーシート状態が続き、復元は相当先だと思われる・・・

ここまでゆっくり見ても8時過ぎ。スタンプと宝物館までまだ1時間もある。
そこで車で5分ちょっと。円光院というお寺に信玄の正室・三条婦人のお墓と、
またそのすぐ近くの信玄のお墓
に行ってみることに。 →その時の模様はこちらから

ようやく開館だった瞬間


お墓2つを見てきても行って帰って40分Σ(゚Д゚)!
神社の駐車場に再び車を停めて20分ほど瞑想し9時と同時に宝物館へ。
入り口で存在感を放ちすぎる石造りのキティちゃんがとっても謎だ!

写真撮影は禁止だった瞬間


館内は撮影禁止なのでせっかくだから看板を撮影しておいた。
実物は看板写真のとおり地の紺も金字もかなり色あせているんだけど、
想像よりもっと大きく、戦場で何本も翻っていたら迫力だったろうと思う。

其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆

其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、
侵掠すること火の如く、知りがたきこと(隠れること)陰の如く、
動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。

風林火山の旗は信玄より200年前に北畠顕家が使ったのが最初と言われている。
孫子の6つの例えの中から2つを抜いて語呂よく戦いで士気が上がりそうなところ・・・
風林火山の4つを選んで軍旗にしたあたり、すごいセンスだわ〜と思う。

塩山市の雲峰寺ではもっと色の濃い保存状態のよい孫子の旗が見られるという。
恵林寺に行く時にはぜひその旗も見てみようと思った。

恰幅がよかった瞬間


信玄ってやっぱり「動かざること山の如し」を地で行ってるわよw
宝物館は撮影禁止だけど、この信玄像は記念撮影OKになっている。
隣に孫子の旗がチラッと入ってるけどわざとではないΣ(゚Д゚)!

てか冷静に考えるとフラッシュ焚くかもしれない撮影OKな銅像の隣に
貴重な品を置いて大丈夫なのか、ちょっと心配になったり・・・
他の人のブログ見ると宝物館のお宝普通にアップしてる人結構多いのよね。

しかしワタクシはモラリストw あとでじっくり見たい気持ちはあるけど
撮影禁止、立ち入り禁止と言われたら見学のルールはちゃんと守ります。

宝物館内には他に新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された
「盾無の鎧」や「武田二十四将図」「信玄像」「日の丸の軍扇」などがあり、
300円で高いという人もいるらしいけれど、ワタクシは見れてよかったと思う。

一番良かったのは妻女山に置かれた「毘」の紙旗が見られたことΣ(゚Д゚)!
でかい旗でね〜 太い筆で書かれた「毘」の文字がかっこよくてね〜

やる気満々なリアル堀だった瞬間


人は石垣、人は城、人は堀、プラス、リアルな堀でさらに安心w
堀の幅は15m以上はあると思う。居館とはいえ城郭っぽさ満載。
要害山とセットで武田本拠地と考えればいいんだな・・と思って勝手に納得w

なんで白鳥?だった瞬間


あひるかと思いきや、その優雅な姿は白鳥。説明版があり読んでみると
何だかの記念事業だか助成金だかで購入して放された白鳥なのだという。
こぶ白鳥のしんちゃん、はくちゃん、ハッピーちゃん、やまちゃんの4羽が
いるらしいけれど2羽しか見られなかった。餌をやってるおじさんがいて、
人に慣れているのか水際のガードレールに立つとスーッと近づいてきてかわいいの!

西曲輪も整備されることを願った瞬間


西曲輪の虎口に続くみその橋。天守台を見忘れたことに気づいたけど
立ち入り禁止の噂も聞くから復元整備の終わった数年後また来てみればいいかとw

円光院と信玄の墓から戻って宝物館とスタンプゲットにだけ寄ったので
時刻はまだ9時半。この後は甲府駅で信玄像を見て甲府城に向かいます。


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2010.10.21 Thursday 20:46 | - | - | 中部(山梨県) | 
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