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津城に登城!

[城めぐり] ブログ村キーワード

高虎三昧中のワタクシ、伊賀上野から藤堂の本拠地「津城」にやってきました。

ラッキーすぎた瞬間


お城公園前の有料駐車場に車を入れて、カメラを持って管理所の前にいくとオジサンが
「お城見るの?」と聞くので元気よく「行ってきます〜」と答えたらわざわざ中に入って
津城パンフレットを持ってきてくれた。隠しアイテムだったのか・・おじさんグッジョブ!

石垣ガン見の瞬間


現在の津城のシンボルは昭和33年に建てられた模擬三重櫓。当時は内堀に面して多聞櫓で
連結された丑寅三重櫓が建っていたそうですが明治18年売却解体されてしまったそうです。
ちなみに場所もホントは奥の櫓台のとこね。微妙に違和感あるのは立ち位置ズレてるからw

涼しさはなかった瞬間


今は本丸部分がお城公園として整備されている津城跡。噴水があって憩いチックな雰囲気w
炎天下の昼下がり、ボケッとしてると焦げそうなので、まずは高虎様を拝みに行きましょう。

釘づけの瞬間


高虎さんの出生地、甲良町在土の高虎公園でもお目見えしたウサ耳騎馬像やっぱかっこよ!
足元からすると夜はライトアップされるのね〜闇に浮かぶ銅像は陰影が出ていいんだよねぇ。

うっとりの瞬間


高虎さんは傷だらけの男だというから、イメージはきっと出陣中に指示してるとこかな。
死後、体をあらためたら戦場傷だらけで、足の指も一部なかったとか言われますからね。
ワタクシは真横からより銅像正面気味からの方が躍動感あって好き。ただし馬ですぎw

今は幻だった瞬間


ちんまりと残っている天守台跡ですが、五層天守に小天守まで建っていたそうです。

津城は安濃野城と呼ばれた小規模な城でしたが、永禄11年(1568)織田信長の伊勢侵攻後、
織田信包が入城。城を拡充して天守を築き、城下町も整備されました。

豊臣時代には富田氏が入るものの関ヶ原で東軍についたため、西軍の毛利・長宗我部3万の
攻撃を受け城の大半を消失します。その後、高虎が伊予今治より伊勢伊賀32万石で入城すると
石垣を高くして櫓を建てるなど大改修が行われ、藤堂家の居城として明治維新を迎えました。

どっしり目な瞬間


違う角度からの天守台・・木や街灯があって見えやすい位置が見つからなかったわ。
あの凹みが謎だけど、天守台自体はなかなかワイルドな感じで味わいがあると思いました。

ヤブ蚊にたかられていた瞬間


天守台からの埋門跡。当時はワタクシが立って写真を撮ってる辺りは内堀だったようです。
左の方が天守台、右は多聞跡。左右で石の積み方が違うのは時期が違うからなんでしょうね。

食いつきが悪かった瞬間


内堀はずっと伸びていたそうですが今は埋め立てられてしまっているのでその一部。
向こう側に見えるのは西の丸の石垣。立ち位置が悪くて何だかよくわかりませんねw

堀も埋まっていた瞬間


内堀からそっと西の丸にインして櫓門の建っていた枡形の方を眺めています。
縄張り図には玉櫓と書かれています。今は年季の入った石垣と石段が残るのみ。

あんまり興味はなかった瞬間


こちらは文政3年(1820)に十代藩主藤堂高兌が創設した藩校「有造館」の正門「入徳門」。
明治4年(1871)の廃校後、何度も移築をされて昭和になって現在地に建てられたんだとか。

さっさと歩いた瞬間


真夏の真昼間で全く美しさがないけど、西の丸は日本庭園になっているようです。
そこそこ広いけど当時、何が建っていたとかは説明がなくよくわかりませんでした。

もったいなかった瞬間


西の丸から本丸を見たところ。当時は水堀に囲まれ曲輪間には土橋があったようだけど、
今は埋め立てられ地続きになっています。縄張り体感しづらくなってるのは残念です。
加えて雨上がりで水位が上がったせいか、犬走りが確認できないのもアレレな感じでw

意気込みだけはすごかった瞬間


高いところ苦手なくせに生意気に石垣上から水堀をのぞいてやろうと本丸に戻りました。
石垣に登ろうとして模擬櫓に目をやると一丁前にしゃちほこついてることに初めて気付くw

ガクブルでビビる瞬間


ギリ縁には立てないワタクシ臆病者。当時丑寅櫓があった場所から内堀をのぞきます。
津城跡は公園なのに「危険」とか「立入禁止」とか全然ないのがありがたいけど不思議。

脳内復元に励む瞬間


最後に上からのぞいた北面の内堀をもう1度。ビルの手前が当時の戌亥櫓跡。
古写真で見た丑寅、戌亥両櫓が多聞で接続された風景はかなりイカしてたよ。



津城を後にして、次は近くの四天王寺に高虎夫人のお墓まいりに向かいます。
今日は高虎三昧だからこの際、ケチ臭いこと思わず奥方もひっくるめてねw 


四天王寺にて高虎夫人と信長生母のお墓参り〜に続く


2014.10.25 Saturday 10:34 | comments(2) | trackbacks(0) | 近畿(三重県) | 

伊賀上野城に登城!

高虎出生地から引き続き、今日も高虎三昧。伊賀上野再登城でスタートです。

フットワーク軽かった瞬間


伊賀上野城の開城は9時からだけど付属の駐車場はその前から入れるので朝イチで乗りつけ、
「高石垣@堀外」からを見るため、駐車場のオジサンに言われた通り歩いておりますw

近道できなかった瞬間


つきあたったら左、通りに出たら右ね〜と歩くと、上野高校をぐるっと回ってました。
高校の敷地を突っ切れたら楽なのに・・と思ってたら目印が見つかって一安心です。

どうでもよかった瞬間


迷わないようひとまず国道に沿って歩いてくると、模擬門の白鳳門が見えてきました。
高石垣に行くにはここからまた上野高校の敷地沿いにずっと登って行けばいいようです。

念入りに確認する瞬間


駐車場は地図の「上野公園」と書いてある方。ほらやっぱり高校の中通ると近いのよw
3年間も春夏秋冬で表情を変える素敵な高石垣を見ながら通学出来るなんて羨ましい!

感激の瞬間


ちょっと登っていくと見えたぁ!! 瞬間、瞳孔がガチ開きになったのが分かったわ。
樹木がうっとうしいけど真夏に来たんだからしょうがない。大和郡山城よりズンとマシw

爽やかすぎた瞬間


今年のお盆は天気に恵まれず、この日も間もなく雨が降る予報。暗いのがホント残念。
本丸高石垣の上には天守が見えてるのに、空が白くてよく見ないと何だかわかりゃしないw

ワタクシが立っている後ろが上野高校のグランドなんだけど朝から野球部が練習しててね、
暑い中、走ったり素振りをしてるんだけど、目が合うと「おはようございます!」って
みんな頭を下げてくれるのよ。余談だけど爽やかな子たちだなと思ってお伝えしてますw

高虎イズム堪能の瞬間


見れば見るほどうっとりしちゃう藤堂高虎さんプロデュースの高石垣は高さ30m!
反りがなくて直線的なのが特徴。見た目の美しさだけじゃなく強度や機能なんかが
完全に戦闘モードで計算されつくした感じがワイルドな苔むし野面とは違う魅力よ。

後ほど決死の覚悟で下をのぞくつもりだけど、内堀越しの遠目に見てもダイナミック。

しっかし樹木が邪魔だわ〜と思いながら、しばらく眺めて妄想にふけったけれど、
雨が降りそうな匂いがしてきたので大至急、本丸に向かうことにします。

鼻息が荒かった瞬間


雨が降る前に大場所だけは見なきゃいけないので、まずはダッシュで筒井古城跡へ。
この場所は天正伊賀の乱の後、筒井定次が入って築城した上野城があったところで、
当時は三層天守が建っていたそうな。江戸時代には城代屋敷が並んでいたのだとか。
お盆中で作業はしてなかったけど、石垣の修復工事でもしてるんでしょうかね。

立派すぎた瞬間


筒井城跡の石垣がこちら。高虎時代よりも本丸の位置は高かったんですね。
筒井氏は慶長13年(1608)失政を理由に改易され、伊予から藤堂高虎が移封されました。

シンボルだった瞬間


高虎は大坂攻めの拠点として、上野城を拡張して大規模な改修を行いました。
西に備えた高石垣を築き、拡張した本丸には五重の大天守も設けられたそうです。
が、完成間近の慶長17年(1612)に台風で倒壊し、その後、大阪の陣で豊臣も滅亡すると
工事は中断され、上野城は藤堂家の支城として城代家老を置いて明治維新まで存続しました。

今ある模造天守は昭和10年に地元の名士の方が私財を投じて建設したもので純木造!
「伊賀文化産業城」というのが正式な建物名。大天守、小天守の連結式ですね。

モヤモヤした瞬間


日本1・2の高さで有名な高石垣・・・気持ちは分かるけど微妙すぎて少しうける。
普通に「高虎公の築いた高石垣」とかでよさそうな。多分1位はないと思うし・・

ビビりすぎだった瞬間


本丸の西側に高石垣を覗きにきた高所恐怖症のワタクシ。決死の覚悟でもコレ限界w
高虎さんとか清正さんらは高さとか「へ」でもないんですかね。工事した人の中には
ワタクシみたいなのも何人かはいて、きっと気の毒なことになってたと思うのよ。

ガクブルだった瞬間


ヒャ〜目が回りそう・・内堀で釣りをしていいのか分からないけど浮いてる人ちっさ!
しかし樹木がジャマね。洗練された打込接を間近に見放題するならやっぱ冬枯れがベスト。

それでもうっとりする瞬間


フッサフサの樹木でせっかくの張りだしや折れも綺麗に見えないのが残念。
もっと石垣のヘリに立って上半身伸び出せば少しは角度変わるかもだけど無理だしww

物好きだった瞬間


前も来たのにまた入城。昨日の見た銅像高虎さんのうさ耳兜を見ましょうかってことで。
入館料は500円だったかな? 藤堂藩やら藤堂家ゆかりのブツがあれこれ見れます。

吸い寄せられる瞬間


藤堂家のだったか家臣のだったか忘れたけれど、甲冑が何点も展示されていました。
実際に戦場に出た甲冑じゃなくても、レプリカじゃないのはそれなりの迫力がありますね。

勝手に納得しなかった瞬間


高虎さんの肖像画・・よそいきのかっこだし顔もジジイだしなんか違うんだよねw

七度主君を変えねば武士とは言えぬ、と豪語したと言われる高虎さん。
やむを得ない場合を含め、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長
羽柴秀保と主君を変え、最終的に家康に従って伊勢32万石の大名となりました。

外様ながら「国に大事ある時は高虎を一番手とせよ」と家康から絶大な信頼を
得ていたといわれる高虎さん。秀吉が亡くなり、家康がおおっぴらに行動開始すると、
前田利長が母芳春院を江戸に人質出すより前に実は弟を出していたといいます。

高虎さんは能力が高くて運や行動力もある上、先が見える人だったんでしょうね。
イヤな感じに書かれることも多いけど、別に裏切りや寝返りを繰り返したわけじゃなし、
キャリアアップで最終勝ち組ですから、そういう生き方ワタクシは断然ありかと。
戦国時代だから成り上がりいいじゃん。二君にまみえずってのも江戸時代ぽすぎ。

好みではなかった瞬間


うさ耳出たー!! 黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)
高虎さんのトレードマークともいうべき兜で、豊臣秀吉から拝領したんだとか。
身長190センチ近かったという大男の高虎さんにコレを選んだ秀吉のセンスが謎ですw

五層の天守を妄想する瞬間


中に登る石段は昭和に作られたものだけど、天守石垣は高虎のもの。
写真は載せてないけど高石垣のある裏側に回るとよく見えるので要チェックです!

ついでだからと忍者屋敷もまた行こうと思ったら
ここで冗談みたいな土砂降りの、雨にいきなり降られ
ダッシュで車に退避。幸いすぐやんだけど先を急ぐことに。


今日はとにかく高虎三昧w 次は上野寺町にある藤堂家菩提寺の上行寺に向かいます!


上行寺にて藤堂高虎のお墓参り〜に続く


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2014.10.10 Friday 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(三重県) | 

桑名城に登城!

[本多忠勝] ブログ村キーワード

神戸城から桑名城にやってきました。予定より早く着いてしまい駐車場が開いてません(´Д`)
桑名城跡は現在「九華公園」になっていて、市民プールもあるので大きな駐車場があるんだけど、
9時まで入れません。でもワタクシ全く困らない。先にねっとり忠勝さんの銅像を拝見よw

血圧上昇の瞬間


駐車場敷地の隣に建っているのがナイス! 銅像前に車を停めてさっそくねめくりまわします。
今回、桑名城を夏の陣に加えた目的の大半ひとつが、忠勝君の銅像とお墓を見るため。
ここの銅像は岡崎城のより「らしい」というか、ワタクシは銅像としてこっちのが好きなのw

目がハートだった瞬間


川四天王のひとり、忠勝さんの銅像は鹿角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍とともに。
槍の刃先にトンボが止まっただけで真っ二つになった事から蜻蛉切の名がつきました。
忠勝さんと言ったらこのスタイル・・はぁ〜銅像だけど何だかドキドキするこの気持ちはなに?

信長からは「日本の張飛」と称えられ、秀吉からは「天下無双の大将」とまで言われた忠勝さん。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」というのも有名ですね。
生涯57度の戦において、かすり傷一つ負った事がなく負け戦はなかったそうです。素敵だわ〜

乱暴で酔っ払いの印象もある張飛はどうかと思うけど、信長様の言いたいことは分かりますw

人目が気になった瞬間


忠勝さんは慶長6年(1601)桑名に入封した際、積極的に街づくりを行って川の流れを変え
「慶長の町割り」と呼ばれる整備をしました。現在の町並みの大部分はこの時のものだとか。

背後から右斜め45度から左から這いつくばって見上げながら、忠勝さんの銅像を堪能するワタクシ。
目の前の通りを車が通る度、ものすごい人の視線を感じるのは気のせいじゃなかったと思うわ。
9時5分前までじっくり見て駐車場前に横付けしたら、オジサン出てきて中に入れてくれましたw

幸先がよかった瞬間


忠勝さんの銅像のところからも入れるんだけど、案内板が見たかったので正面入り口から登城開始!
ネットで印刷した図は持って来たんだけど、縮尺悪くて何だか見づらかったので一応確認しようかと。
手元の図と案内板を見比べて頭に叩き込んでから橋を渡ったら、掃除しているオジサンに遭遇。

挨拶したら「どっから来られた?」「埼玉から城跡見に来ました」「それは暑い中ご苦労さま。分かる?」
と聞かれたので「う〜ん、まぁ」とか微妙な返事をしたら、オジサンわざわざ掃除を中断して
管理事務所に入れてくれ、九華公園のパンフレットやら散策マップやら桑名観光マップやら・・・
一式持たせてくれました。外に置かなくなったのは帰りに捨てられゴミにされるからなんだって。

大したものは残っていないよと言いながら、堀の石垣が四日市港を作るのに持っていかれたことや、
幕末の桑名藩主は会津などと一緒に佐幕として戦い、城は官軍に破却されたことなど話してくれました。
やっぱ早起きは三文の得だね。掃除している時間に来なけりゃオジサンに会わなかったものw

イケてなかった瞬間


管理事務所を出て九華橋の上から神戸櫓跡が見えます。詳しいパンフレットもらってホント助かるわw
さっき見て来た神戸城にあった天守が移築され、あの櫓台に建っていたんですね〜って風情ないわ!
コンクリートで護岸されちゃってるから、堀越しに見る姿はまったく雰囲気が出ませんね・・。

地味すぎた瞬間


橋を渡ると「県史跡 桑名城跡」の碑がありました。イマイチやる気が感じられない地味な碑です。

桑名城は永正10年(1513)伊藤武左衛門が城館を築いたのが始まりと言われ、天正2(1574)織田信長が
この地を制すると滝川一益が支配しました。豊臣秀吉の時代には織田信雄、豊臣秀次の所領となり、
秀次自害の後に氏家行広が2万石入城しますが、関ヶ原で西軍についたため改易。慶長6年(1601)
本多忠勝が大多喜から10万石で入封すると城は拡張され、城下町などが整備されました。

元和3年(1617)本多忠政が播磨に転封すると以降、久松、奥平といった松平氏が入城。
文政6年(1823)に陸奥白河より松平定永が11万石で入り、5代続いて明治維新を迎えました。
京都所司代を務めていた4代定敬は会津藩主松平容保の実弟で、兄や一橋慶喜と「一会桑」を作り、
幕府を支えた人物。桑名藩は佐幕派として戦い、維新後は新政府軍によって厳しく処分されました。

ピンとこなかった瞬間


城址碑があった橋を渡った場所がもう本丸なんだけど、たいした遺構は残ってなさそうなので、
先に二の丸や水堀を見ることに。さっき九華橋から見た神戸櫓跡を本丸側から見たところ・・・
堀側はコンクリートが雰囲気まったく変えちゃってるし、本丸側から見てもどうもイマイチ。
神戸城の五重天守が移築されたっていうイメージがどうにもわかないのはワタクシだけ?

恨みが深そうだった瞬間


こちらは辰巳櫓跡。吉之丸堀に面して建っていました。元禄14年に桑名の大半を焼く火災が発生し、
四重五層の天守も焼失、その後は再建されなかった天守の代わりを辰巳櫓が務めました。
明治維新の時、新政府軍への降伏の証として、天守代用だった辰巳櫓が焼き払われたそうです。

強行した瞬間


桑名城に登城! メインの遺構は水堀だからどこで宣言するか迷った挙句、橋の上で決行Σ(゚Д゚)!
吉之丸堀と右側が本丸。奥に神戸櫓跡が、そして手前が今見た辰巳櫓跡の見える風景です。
しかしコンクリートは雰囲気台無し・・水面とたいして差がないのは石垣はがしたからでしょうか?

ひそかに憤っていた瞬間


九華公園として残っている桑名城跡はこんな感じ。登城宣言したのは「辰巳櫓跡」って赤字の上の橋。
本丸と二の丸が公園として残っている水城だけど、その肝心な堀を囲む石垣すらないから何だか残念ね。
当時は櫓数51、多聞12、門46もの建造物がある大城郭だったそうです。譜代の城ではあんまりないから、
辰巳櫓はともかく多少なりとも建物が残ったら、さぞ見応えのある水城だったと思います。
やっぱり明治政府とか新政府軍とかが絡むと城にとってはロクなことないのよヽ(`Д´)ノ

面白みがなかった瞬間


橋を渡って二の丸に来ました。吉之丸堀と二の丸堀に囲まれた細長い曲輪には何も残っていません。
堀の水が増えたら水没しそうなくらい狭いけど、やっぱり屋敷などが建っていたんでしょうか。

ありがちだった瞬間


えっと・・どこだっけ? あっちを向いてもこっちを向いてもコンクリートの水堀だらけに赤い橋。
たぶん二の丸あたりからだったと思うけど、今見たらどこで撮ったか全くわからなくなってましたwww

妄想力が大事だった瞬間


二の丸から再び、神戸櫓跡・・最初の九華橋上からより本丸側からより一番マシかなと思った。
石垣じゃないのがダメすぎるのは一緒だけど高さとか角でせり出した感じは多少分かるかなと。

お腹いっぱいだった瞬間


その辺を流れてる川じゃありませんよ、二の丸堀ですよ!!って言わないといけないかもな風景w
ワタクシもあまり風情のない水堀だらけにもう飽き飽きしてきたので、本丸に戻ることにします。

腑に落ちなかった瞬間


橋を渡って本丸に戻ってきました。本丸跡には鎮國守國神社があります。天明4年(1784)白河城内に
松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりで、文政6年(1823)松平定永の桑名移封に伴い、桑名城本丸に
移されたものなんだそうです。後に松平定信(楽翁公)も祀られるようになったのだとか。
明治維新後には本丸の外に移され、明治40年ふたたび本丸跡に戻され以来ここに鎮座しています。

この辺り、楽翁の歌碑とか楽翁公百年祭記念宝物館とか楽翁・・松平定信が盛り上っています。
幕府軍として戦った桑名の最後の殿様は松平定敬さんだし、会津にしても殿様は松平容保なのに、
彼らは置いといて〜の楽翁公。桑名に移封になったけど楽翁公自身は来てないらしいのにねw

首をかしげた瞬間


神社の裏手に天守台跡があるというので、しぶといヤブ蚊にたかられながら見に来ました。
元禄14年に焼失するまで四重六層の天守が建っていたそうですが、張り切って来てみたものの、
変な碑とか建ってるし、何か違うのかな〜と思ってもらったパンフレットを読んでみると、
石組は縮小された規模で再現されたものだと・・エッ、それ必要? 石はけっこう大きい。

さらに首をかしげた瞬間


ある程度は残っていた石を使ったのか、どっからか持って来て積んだのか全く分からないけど、
矢穴らしきものを演出するあたり芸が細かいというべきか、やりすぎだと見るべきか・・

もう興味は失せていた瞬間


なんちゃって天守台の上には明治20年に建立された戊辰殉難招魂碑が建っていますが、
それはどうでもいいわ。大きな石もよく見るとやっぱり石は新しい感じがしますね。

焼き殺されそうだった瞬間


九華公園を出て、次は外観復元された蟠龍櫓を見に行きます。10時近くなって暑さもすごいことに。
蟠龍櫓へは駐車場の方に戻って揖斐川沿いを徒歩で行くんだけど、護岸されたアスファルト暑そうでしょ?
写真はかなり近づいてから撮ってるけど、けっこうこんなところ延々と歩かされたのよね。
隣の川からジェットバイクの轟音が響いていて、セミの鳴き声以上に暑苦しくイラっとしながらw

何かと見えづらかった瞬間


天に昇る前のうずくまった状態の龍を「蟠龍(ばんりゅう)」といい、これを模した瓦が置かれているため
蟠龍櫓と呼ばれているそうです。破風のところに乗ってるやつのことだよね、見えづらいけど。
七里の渡に面して建てられた蟠龍櫓は東海道を行きかう人が必ず目にする桑名のシンボルだったそうです。
右奥に七里の渡跡が見えていますが・・やっぱ見えづらいよね。後で行って見ることにします。

日陰を求めた瞬間


蟠龍櫓は無料で中に入れます。外観復元された櫓と言っても実際は水門管理事務所になっていて、
2階が展望台として無料解放されています。ちなみに午前10時から午後3時まで開館。月曜休み。
朝、会った管理のオジサンが「七里の渡は蟠龍櫓から見下すのがいいよ」と言っていたので
さっそく中に入ってみることに。開館直後でおばちゃんが掃除してたけどにこやかに迎えてくれます。

極楽だった瞬間


平成15年に建てられた櫓内は大した展示はないんだけど、蟠龍が間近で見られるのはいい。
そしてエアコンが効いているのも何気にポイント高し!汗が引くまで蟠龍ガン見で粘りますw

視野が狭すぎた瞬間


窓ガラスがはまっているので柵から手が出せず、七里の渡の写真はこんな感じになりました・・
おばちゃんが言うには、護岸されてしまったけれど位置や流れは当時と同じなんだそうです。

ピンとこなかった瞬間


再び、蒸し風呂のような外に出て七里の渡までやってきました。東海道五十三次42番目の桑名。
当時、宮宿(名古屋市熱田)から桑名へ来るには海上を船で渡りました。その船着場が七里の渡し。
大鳥居はこれより伊勢路に入ることから伊勢国「一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに
建て替えられているんだそうです。お伊勢参りの人は鳥居を見てテンション上がったんですねw

命あってのものだねだった瞬間


歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」には七里の渡から海に面して建つ蟠龍櫓が描かれています。
管理のオジサンに七里の渡のことを聞いた時、「昔の東海道を趣味で歩いている人がよく来るけど、
今は渡し船がないから、ここは本来のルートで歩けないんだよね」と言っていた・・この様子じゃね。
厳重な護岸は伊勢湾台風以降、高潮対策で造られたもの。雰囲気ないけど安全のため仕方ないです。

オジサンに感謝の瞬間


七里の渡の反対側には三の丸堀が残っています・・といってこれも管理のオジサン情報w
縄張を見ると舟の並んだ側が三の丸だったようです。櫓が51あっただけにホント広かったのね。

わかった風だった瞬間


三の丸堀の石垣はそのまま残っているものなんだそうです。堀越しに蟠龍櫓が見えます。
この場所は護岸された七里の渡跡のところと水は続いているけれど、今は船は出入りしないとか。
舟が止まっていて残った石垣もそんなによく見えないけど、持っていかれなくてよかったよね。

何かと運は大事だった瞬間


暑さ致死量に達しようかという中、トボトボ歩いて駐車場まで戻ると満車そして入場待ち大量Σ(゚Д゚)!
わは〜ワタクシ朝イチで登城してマジよかったわ。他に駐車場ないからのんびり来たら泣くに泣けない。
最後にもう1度、忠勝さんの銅像を見に行き、うっとりモチベを上げたら忠勝さんのお墓参りに行きます。



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2013.09.20 Friday 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(三重県) | 

神戸城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

2013年夏の陣2日目は奈良の奈良から三重に移動して神戸城からスタート!
ご存知の方も多いと思いますが念のため・・神戸は「かんべ」と読みます。

ナビで楽々到着の瞬間


県立神戸高等学校の隣にある神戸城跡。現在は本丸部分が神戸城址公園として整備されています。
朝8時前、住宅街の中を抜けて駐車場に到着すると、すぐ目の前に天守石垣の裏側が見えました。

目が覚めた瞬間


石段を登り天守石垣の裏側を歩いて、正面に廻ります。野面積み見てやっと目がパッチリ開きましたw
縄張図を見るとこの天守の裏にあたる北側は、千畳敷を挟んで二の丸に通じていたようです。

気兼ねなく宣言の瞬間


神戸城に登城! 城址公園になっているけど天守台のある本丸部分とモロ公園化された部分は
きっちり分かれているので、こちら側に散歩やトレーニングの人がいないのがいいわw
それにしても8時前だってのに、この強い日差しと暑さはなんなの? 今日も熱中症に注意よ。

もやもやした瞬間


天守台正面石垣になんと鏡石のような大きな石が。天守台で鏡石ってあんまり使われないよね。
たまたま組まれただけなのか、個性を発揮してみたのか・・目に着く場所にあるので少々気になる。
ワタクシは見つけられなかったけれど、神戸城の天守台にも墓石などが使われているそうです。
武骨でワイルドな野面積みが戦国末期の匂いをプンプンさせていてよいです。残ってよかった。

城址碑の位置が微妙だった瞬間


神戸城は天文年間(1532〜1555)神戸具盛によって築かれ、澤城から移って本拠地となりました。
神戸氏は北伊勢の有力豪族でしたが、永禄11年(1568)7代友盛の時に信長の伊勢侵攻を受け、
一時は神戸の重臣、山路弾正が防ぐものの翌年、信長の三男信孝を養子に迎えることで和睦。
元亀2年(1571)信長により友盛は隠居させられ、信長の三男、神戸信孝が城主となりました。

妄想が広がる瞬間


信孝は城を拡張し、天正8年(1580)には金箔瓦を用いた五重の天守を完成させました。
5重6層の天守に小天守と付櫓がある複合連結式だったことが確認されているそうです。
天守が建っていた規模の大きな天守台は、石垣だけになった今も存在感があります。
ここに金箔瓦の5重天守がそびえていたら・・かなり迫力があったんじゃないかしら。

どっしりしていた瞬間


天守は文禄4年(1595年)に解体されて桑名城に移築され、神戸櫓と呼ばれていたのだとか。
写真手前が天守台、影になって見づらいけど奥の階段の先が小天守台だったってことですね。

野趣あふれていた瞬間


天守台に登ってみました。天守台から北東に位置する小天守台を見たところ・・・狭っ!!
5重の天守に付属する小天守にしては小さそうな。実際は櫓的な感じだったんでしょうか。

不運すぎた瞬間


天守台から本丸を見下ろしてワハハ!! 大和郡山城では天守台跡に登れなかったからw
当時、5重の天守から城下を見下ろす信長のせがれ信孝さんは何を思っていたんだろうね。

次男信雄より20日早く生まれながら、母親の身分が低く三男にされたといわれる信孝さん。
出来が悪いと言われた信雄より信長に認められていたようで、神戸信孝となった後も主な戦に出陣。
天正10年(1582)には長宗我部元親攻めの総大将として丹羽長秀とともに四国に渡り、
信長の息子としての箔をつけ長男信忠に次ぐ地位を得るはずでしたが、本能寺の変により運命が一変。

清州会議で後継者争いに敗れると柴田勝家と組んで秀吉と対立し、賤ヶ岳の合戦では岐阜城に籠って
抵抗しますが、勝家が破れると兄信雄の勧めで岐阜城を開城。知多半島の野間大坊に幽閉され、
切腹させられました。享年26歳。無念のあまり信孝ははらわたを投げつけたと言われています。

昔より主を討つ身(内海)の野間なれば 報いをまてや羽柴筑前

信孝さんの辞世の句がコレ・・凄まじすぎる。辞世の句というより呪いに近いわ。
信孝さんに切腹させたのは兄の信雄だったと言われています。本当だったら多少仲は悪くても
弟なんだから助命を願わなきゃいけないところ、秀吉にうまくそそのかされたんでしょうね〜
ここに至ってまで信孝さえいなければ・・と思う浅さがやっぱり信雄さんだわ(´Д`)

広かった瞬間


当時は堀に囲まれていた本丸。建物が見える奥は堀を挟んで三の丸になっていたようです。
信孝の後、城主は生駒氏・滝川氏・水野氏と次々代わり、関ヶ原の後、一柳直盛が5万石で入城。
慶安3年(1650)石川氏が1万石、享保17年(1732)本多氏が2万石で入り7代続いて維新を迎えました。

戦国が名残ってた瞬間


天守を降りて本丸の隅っこの方に目をやると、周囲には土塁も残っていました。
天守は文禄4年に桑名城に移築されましたが、他の建物は明治元年に取り壊されたそうです。

がらりと雰囲気が変わる瞬間


一部残されている本丸を囲む水堀を見るため、いったん公園の方へ出てみました。綺麗な広い公園です。
縄張図を見るに、本丸の西側にあたるこっちに曲輪はなく武家屋敷が並ぶ感じになっていたみたい。

謎だった瞬間


西大手と書かれた方を撮ってみたんですが・・・フラットな公園の中でこんもりしているこの辺り。
かすかにでも雰囲気は残して公園化したのか、単なる公園の風景なのか分かりませんでした。

雰囲気が薄かった瞬間


本丸南面の水堀。左側が本丸で、ずーっと正面先が今は高校が建っている三の丸方面になるようです。
神戸城は本丸が水堀に囲まれ、堀を挟んだ二の丸三の丸の外周も水堀が廻っているお城でした。

後悔先に立たずだった瞬間


最後にもう1度本丸に戻って天守台跡を眺め、案内板を確認して神戸城登城完了!!

ワタクシこの時点では知らなかったので未訪問なんだけど、現存建物がいくつかあるそうで、
市内の蓮花寺というお寺に二の丸太鼓櫓が、顕正寺に移築された大手門があるとのこと。


初日の奈良攻めほど下調べ万全じゃない2日目・・・次は忠勝さんの桑名城に登城します!!



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2013.09.16 Monday 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(三重県) | 

伊勢亀山城に登城!

お盆の話がまだ続いております。更新遅くてびっくりだΣ(゚Д゚)!

津城で藤堂高虎にうっとりした次は伊勢亀山城にやってきました。

絶対にわざわざは来なかった瞬間


公園として整備されるでもなく道路の横にぽつーんと見える伊勢亀山城の多門櫓。
案内板によると多門櫓は三重県内で現位置に現存する唯一の城郭建造物なのだそうだ。
とはいえ、当時は真っ白だったそうで、下見板などは後からつけられたらしいので、
もろまんまの現存ということではないようです。場所も微妙に違うという話もあり・・?
他に残っているのは石垣と堀・土塁の一部。何かいまいちアガラナイ登城です・・。

何もかもが残念すぎた瞬間


文永2年(1265)伊勢平氏の流れをくむ関氏が築城。関氏の時代中に現在地に移された。
天正18年(1590)豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城し天守、本丸、二の丸、三の丸などを築城した。

しかし出雲松江藩主の堀尾忠晴が幕府の「(丹波)亀山城を修理せよ」の命令を勘違いし、
伊勢の亀山城の修理を始めてしまい、石垣の修理の邪魔になる天守を撤去Σ(゚Д゚)!
撤去したところで勘違いが発覚したが、小藩にふさわしくないと再建はなかったそうな。
・・・ワタクシが思うにおそらく天守は壊すべくして壊されちゃったじゃないかと。
幕府も諸大名もピリピリしていたその当時、勘違いで・・ってありえないっしょw

現存する・・・といっても謎のドアとかついてる辺りがこれまた残念な感じ。

なんでSL?だった瞬間瞬間


多門櫓の道を挟んだ正面に楠門跡の標柱があり、その奥にはSL(C58359)が!!
鉄マニじゃないので写真は写しませんでしたが、「ここに!?」とびっくりします。
当時の縄張ではこの楠門の先に御殿のある二の丸、そして櫓門の太鼓門を経て三の丸と続き、
その先が大手門になっていたようです。見る影はありませんがそこそこ大きかった模様。
延々と白亜の壁が続く様から、別名は粉蝶城(ふんちょうじょう)とも呼ばれたそうな。

そんな風には見えなかった瞬間


亀山城内で使用されていた井戸で天正18年、岡本宗憲による築城の際、この場所にあった
与助鍛冶を城外へ移した伝承から与助井戸と呼ばれるようになったのだとか。
城外への抜け穴伝説もあったと言われますが、確認はされていないそうです。

立派だった瞬間


天守台だったと言われる石垣は高さもあり、野面積みの無骨な感じに貫禄があります。
三重県中部地震の時、崩落したのは昭和になって修築した部分だけだったのだとか。
好き勝手に積んだように見えるワイルドな感じだけど穴太衆の技術恐るべし!!

時代とかよく分からなくなっていた瞬間


関実忠が古城の鎮守として勧請した南崎権現社の神官、大久保但馬守邸宅の門だそうです。
時代とか背景がよく分からないのでいまいちありがたみがなくてすいません・・。

ぶっそう過ぎた瞬間


亀山藩御流儀心形刀流武芸形・・心形刀流は天和2年、伊庭是水軒秀明が開創したと言われる。
亀山藩士山崎雪柳軒が流儀を極め、武道場を開いたことから亀山藩御流儀になったそうな。
詳しい経緯は知らないけど、武道場を開いた雪柳軒さんは割腹したんだって・・・怖いね。

またしても木が邪魔だった瞬間


当時水堀だったところは今は学校のグランド。グランド入れないので道路から撮影。
多門櫓のグランド挟んだ真正面には細かいネットが張られて撮影には気合いが必要。
ネットの隙間から撮るか迷ったのですが、まぁいいか・・と妥協してしまいました。
水堀だった部分がそのままグランドになっているようで堀の大きさは感じられます。
案内板から察するに当時はその堀を経てさらに広い西の丸が続いていたそうです。

仇討より堀の風情の方が気になった瞬間


案内板によると石井兄弟仇討の碑・・元禄14年(1701)5月9日、この地で石井源蔵・半蔵の兄弟が
28年目にして父の敵、赤堀水之助を討ち取ったところなんだそうですが・・石井兄弟って誰?
歌舞伎や絵本で「元禄曽我兄弟」として取り上げられたそうですがワタクシ知らずにすみません。

今は沼っぽいけどこの場所も亀山城の西の丸に面した水堀の一部だったようです。
東西700m、南北500mと言われる当時の亀山城の縄張、数万石でも立派だったのねきっと。


埼玉に戻りがてら以前、ちょび残ししてしまったものの単発では登城しづらい城2つに寄りたい。
さぁ、急がなければ日が暮れてしまう。一路、愛知県の西尾城に向けてようやく三重県を後にします。



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2011.10.17 Monday 19:39 | - | - | 近畿(三重県) | 

津城に登城!

[藤堂高虎] ブログ村キーワード

三重県は今回でいったん終了にしたいので松阪城の次は津城にも寄っておきます。

午前中に登城した松阪城では歩くのが億劫なほどカンカン照りだったのに、
和田金でお昼を食べて津城に来たら今にも雨が降りそうな天気になってしまいました。
写真で見るより現場にいた時は「今にも」な感じ満載・・傘の用意がないワタクシ。
いざとなったらカメラだけ守れるようにタオルだけ持ってわさわさしながら公園入口へ。

なんちゃってだった瞬間


現在はお城公園として整備されている津城には三重の模擬櫓が建てられています。
本丸には5つの櫓があってそれぞれが多門櫓で連結されていたそうだ。
今ある模擬櫓は丑寅三重櫓のなんちゃって版。佇まいも位置も本来とは違うの。

何ごともなかったようだった瞬間


模擬櫓から右方向へ石垣に沿って歩くと本来、丑寅三重櫓があった櫓台が見えます。
昔から生えてます風な松の木もあり、石垣の風景として成立してしまっているけどw

それなりの迫力があった瞬間


丑寅三重櫓があった石垣の角を曲がって内堀を拝見・・本丸の北側になる部分です。
左側が本丸で当時は多門櫓が続いていたというこの石垣の先に戌亥三重櫓があった。
建造物は何もないけれど堀と石垣がずーっと続く感じはお城らしさが感じられます。

意味が気になって仕方なかった瞬間


公園入口になっている模擬櫓の前には藤堂高虎の句碑が建立されていました。
石は高虎と所縁が深い愛媛県から取り寄せたもので費用は100万円だったそうな。

しらはたや 花さく山の 一備へ

藤堂高虎が60歳の頃、関ヶ原の戦いを思い出して詠んだ句なのだとか。
その意味は・・・歌心のないワタクシにはさーっぱりわかりませんけどww

高虎に思いを馳せる瞬間


公園を入ったところに案内板があって配置図や当時の丑寅三重櫓の写真が見れます。

津城は織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。
1580年(天正8年)には5層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から
町家や寺院が移され城下町が作られた。秀吉の時代に富田氏が5万石で城主となるが、
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで東軍に組みしたため西軍の攻撃を受け、天守が焼け落城。

1608年(慶長13年)藤堂高虎が伊予今治から伊賀上野22万石に入封すると津城の改修を始め、
本丸を広げ石垣を高くして角櫓を築き堀も整備したが、天守は再建されなかった。別名、安濃津城。

高虎君とご対面の瞬間


公園の広場の片隅にひっそりと佇む藤堂高虎公の銅像。大きいけれどとてもひっそりな感じ。

藤堂村の郷士の子として生まれた高虎は浅井長政・阿閉貞征・磯野員昌に仕えた後、近江を出て
信長の甥・織田信澄の家臣になるが長続きせず、羽柴秀長に仕えて中国征伐や賤ヶ岳の戦いで活躍。
秀長が死去するとその養子である羽柴秀保に仕えるが、秀保が早世すると高野山にて出家。
将才を惜しんだ豊臣秀吉に説かれ還俗し、伊予宇和島7万石の大名となった。

その後、天下人であった秀吉が死去すると高虎は徳川家康に近づいて親密になり、
関ヶ原の戦いでは家康に味方して伊予今治20万石の大名となった。
高虎は能力や忠義を家康に高く評価され、外様ながら譜代大名格をもらって重用された。

なかなかイケてる銅像だった瞬間


藤堂高虎といえばうさ耳黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)。
身長が6尺2寸(約190)もあったという高虎、銅像でも迫力だから戦場では相当目立ったわね。

藤堂高虎はワタクシの好きな武将ベスト10に入る。力が強い、本職である戦がうまい、
築城とか内政、外交など戦う以外の能力にも長けている、知性が感じられる、品が感じられる他、
文学や茶の湯、能楽や句など文化人な一面と押しだしのある堂々たる体躯だったら文句なしラブw

主君を何度も変えたとか家康に急速に接近とか嫌な感じに書かれることもあるけど、
伝わっている逸話やエピソードなどを見聞きすると、高虎は人となりがよく分かる武将。

放浪時代に餅屋で無銭飲食をした時、故郷に帰って親孝行しろと路銀を恵まれたことを忘れず、
大名に出征してから参勤交代の際に立ち寄って餅の代金を返したという話が残っていたり、
高虎が生前に遺した数々の教訓を家臣がまとめた遺訓二百か条を見ても納得なことも多く。

朝起きた時から今日は死ぬ番だと常に死を覚悟していれば心が動じることはない。

使っている者に良い者悪い者はない。それぞれの長所を見出して使えば人に屑はいない。
できない事を申し付けるからいけない。

ワタクシ死は覚悟しませんが、腹を括って仕事をしてますので非常に納得。
部下を持つ立場としても馬鹿とハサミは使いよう的理論にも非常に納得。

松下幸之助も似たようなこと言ってるので高虎も経営手腕すごかったのだと思う。




高虎を前から後ろから下から横からしつこく眺めてうっとりしてたら、ついに雨が降ってきました。


ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


いきなりどんだけの勢いだヽ(`Д´)ノキー!


自分が濡れて化粧が落ちても登城中に限っては別に気にしない! だがカメラ壊れたら困る!!
のんきにカメラ出してる場合じゃないから持参したタオルでひっくるんで両手に抱え、
高虎の後ろの天守台に向かってダッシュして「なるほどこれが」とざっくり見て終了…orz
西黒鉄門虎口跡から堀の内側にあたる石垣沿いを未練たらしくガン見しながら走ってもどりました。

無念すぎた瞬間


雨に煙る津城・・ちくしょぉぉぉぉぉ!! まだ見てないとこあったのに!!
今日は旅の3日目で帰宅の途中。まだ行くところもあるのでビニ傘買って出直す暇はない。
登城時、改修中に出くわすことはあっても雨に降られることほとんどないのに残念だわ。

三重は今回でいったん区切りをつけたかったけど、近畿方面はまだまだ全然行くので、
機会があれば伊賀上野城ももう1度行きたいからリベンジしてもいいかなぁ・・。

車に乗って次の城に向けて走り出したら雨が止んで晴れ間が出てきました。
恨みま〜す恨みま〜す・・恨み節とともにマジついでの伊勢亀山城跡に向かいます。


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2011.10.10 Monday 12:40 | - | - | 近畿(三重県) | 

松阪城に登城!

日本100名城48番 松阪城に登城!


最終日3日目は見事な石垣が残るという松阪城からスタート。
駐車場から歩いて来るまでもすでに見上げるほどの石垣だらけで期待高まる!
表門側から入って、まずはスタンプもらいに歴史民俗資料館へ向かいましょう。

残念すぎる登城が決まる瞬間


歴史民俗資料館でスタンプもらってパンフレットもらえばいいな・・と思い、
何も用意してこなかったワタクシ。いえ・・実はろくに下調べすらしてない。

そこで何はさておき資料館へいそいそと向かったところ悲しいお知らせひとつ。


月 曜 休 館


・・・う、うっそ〜んΣ(゚Д゚)!


ワタクシは夏季休業で曜日なんかとんと気にしちゃいなかったけど世の中は月曜日。
やっちまいました。改修工事中は何度も遭遇してるけどこのパターンは初めてかも?

いつもは本やネットで縄張確認したり、規模や見どころもざっと目を通すのに、
今になって気付いた松阪城のノーマークぶり。休館と知ってよくよく考えてみると、
パンフレットがもらえるとか、縄張的なものが書いてあると何を根拠に思い込み?
スタンプがもらえないこともショック! 迷い込み登城になったこともショック!

モチベーションが低かった瞬間


入り口にあった案内板で見た配置図の記憶と野生の勘を頼りに本丸方面へ向かいます。

松阪城は1584年(天正12年)日野6万石から伊勢松ヶ島12万石に移封された蒲生氏郷が
松ヶ島城が手狭だったことから四五百森(よいおのもり)と呼ばれる小山を選び、
4年の歳月をかけて築いた城。一二三段形式の平山城で当時は堀で囲まれていたそうだ。

氏郷にあやかりたかった瞬間


どこを見ても高い石垣だらけ!案内板の図を思い出そうと時々白目をむきながら、
とりあえず蔦の這う石垣に見とれる・・この石垣から出世の気とか出てないかしらんΣ(゚Д゚)!

信長の娘婿となり9万石からあっという間に92万石に出世した智将の蒲生氏郷。
特に興味を持って調べたり中心に書かれた小説とかはちゃんと読んだことないんだけど、
他でちょいちょい出てくるから出自から会津で亡くなるまでの出来事ざっくり知っている。
氏郷は智勇に加え、何やら品がありそうな感じがするのでとても興味深い武将だw

出来の悪い忍びだった瞬間


案内板がないのでどこにいるのかよく分かりませんが櫓台のある広場に出ました。
本丸はあの上なので二の丸になるのかな?と思っていたんだけど後で確認したら
本丸下段というところだったみたい。本丸が上下段に分かれている構造のようです。
ちなみに縄張図のないワタクシ。闇雲に本丸を目指したため二の丸はスルーしたようです・・。

かなり見渡せた瞬間


櫓台の方に進んで本丸へ。小山というより丘ぐらいで高さはそんなにない場所だけど、
本丸からは町が一望できます。氏郷は築城と同時に城下町の整備にも力を入れたそうだ。
旧領の日野から商人も多く呼び寄せたというから当時は栄えた街並みが見えたでしょうね。

むずむずしていた瞬間


えーーん怖いよぅ!! せっかくだからと頑張ってのぞいてみたけど腰が引けてしまう。
あと1歩分あるけどこれが限界。折れがなかったら真下をのぞきむようだったわ((((;゚;Д;゚;))))

くっきりだった瞬間


修復された跡がくっきりの石垣もいくつか目につきました。
詳しい事情は全く分かりませんけれど・・だんだんひがみっぽくなってきてますw

人気がないことだけは幸いだった瞬間


本丸は思っているより全然広い。周囲をぐるーっと石塁跡が囲んでいます。奥に見えるのは天守跡。
本丸には三層の天守があったそうだが、1644年(正保元年)の台風で倒壊してしまったという。

ディフェンス重視だった瞬間


天守の近くまで寄ってみました。天守には敵見櫓という付櫓がついていたようです。
本丸には他に金の間、月見、太鼓櫓などが建ち、それを取り巻く二の丸、三の丸、季代丸、隠居丸、
出丸といった曲輪があり、高い石垣をめぐらせ主要な門は枡形虎口・・やる気満々だねw

意外と地味だった瞬間


説明板とかもなく天守閣跡と書かれた石柱だけが立つ意外と狭い天守跡。
ここに三層の天守が建っていたのね・・思っているよりこじんまりしていたのかも。

名前で決めつけた瞬間


金の間櫓跡。写真で見るより実際に見た方がもっと広かったと思う。
どんな建物が建っていたのか分からないけど松阪城の本丸の建物っていろんな資料で
「そびえたっていた」と表現されるから、一二三段のてっぺんの本丸上段に建つ櫓は・・
特に金の間なんて大層な名前のついた櫓はけっこう目立つ大きなものだったのかもね。

まるで脱出だった瞬間


中御門跡の方に降りて行きます・・と言ってもこの時点では門の名前なんて知るはずもなく、
虎口になっていたのでルートだろうと向かっただけw 出来の悪い忍び、決死の脱出か。
おかげで二の丸だけでなく、本丸の裏手にあった希代丸跡も見逃してしまいましたし。

他力本願と決別した瞬間


ここにきて初めて中御門跡だということが判明。はぁ・・何だかわからず見るのってもったいない。
スタンプはもらえない上、準備不足で手探り登城にしちゃったから素晴らしい城跡にいるのに
いまひとつ気が入らない。この辺りでリベンジの決意がむらむらと湧き上がってきました。
ワタクシもう今後は絶対に入場料取られない城や城跡に来る時は自分で資料を必ず用意する!

名前しか覚えてなかった瞬間


本居宣長の旧宅「鈴屋」が記念館になっていますがやっぱり休館。でも特に残念ではないw
国学者本居宣長の自筆資料などの重要文化財などがたくさん展示されているのだとか。
・・つうか本居宣長って何した人だっけ? 日本史で覚えた記憶はあるけど分かりません・・。

リベンジするなら春だった瞬間


裏門跡から出ました。二の丸や希代丸方面の存在にまったく気づいてなかったのでw
野面積みの高石垣に風情の演出に一役買う石灯籠、そして桜の大木・・春に来たいです。

納得いかなかった瞬間


本居宣長記念館にも100名城スタンプ設置されてるので休館でも押した紙なんか置いてないかと・・

ないしヽ(`Д´)ノ

他にもスタンプ押しに来ていた人がいて、やっぱりがっかりしていました。
押した紙くらい置いておいてくれればいいのに。歴史資料館と2か所に設置してるなら、
休みが違うとこ2か所にすればいいのに。気が利かないとこ設置場所もあるんだなと思った。

後日談で駅の方だかどこだか、他にも月曜日やってるスタンプ設置場所があると知り、
それならそう案内出してといてくれりゃいいのに!となおさら怒りがこみ上げた。

ちょっぴり反っていた瞬間


石垣は蒲生氏郷の頃そのままだという。野面積みに切込接ぎ、そしてちょっぴり反り。
石垣の見事さで日本100名城に選ばれたという松阪城。場所により表情が違うのが面白い。

圧巻だった瞬間


駐車場までの帰り道はずーっと続く見事な高石垣をしっかりと見ながら。
鏡石みたいな大きな石も入ってますね。石垣沿いに歩くと迫力があります。
後で確認したら二の丸部分の石垣だったみたい。なんで二の丸気づかなかったかなぁ。


松阪城はこれにて終了。今回はしくじった感満載の登城になってしまいました。
どこにいて何を見ているか分かってない時が多かったから写真撮ってあっても、
ブログに書こうとして、これどこだ? みたいな・・めっちゃ時間かかったわ。
松阪城、絶対リベンジする。いつになるか分からないけど絶対リベンジします!!

小市民すぎた瞬間


松阪はご当地牛の本家本元ですからこれをスルーするわけにはまいりません。
気張って和田金ですきやきと網焼きを食べたけど、個室で煮るも焼くも仲居さんがつきっきりで
給仕してくれる雰囲気にのまれて何だか緊張してしまい、写真を撮るのも忘れました。
何から何まで世話を焼いてくれる上、仲居さんがものすっごく品のある綺麗な人で素敵すぎw
そういうお店と知らなくて・・肉はおいしかったけど小市民なワタクシには分不相応…orz


次は藤堂高虎の津城に向かいます!!



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2011.10.01 Saturday 16:45 | - | - | 近畿(三重県) | 
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