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安祥城に登城!

てか安祥城なの?安城城の方がいいの? と迷いながらやってきましたw

パンフゲットの瞬間


安城市歴史博物館をナビに入れて到着したら、まずは資料をもらいに行きます。
博物館には入らないのに受付でお願いすると、快くマップ付パンフをくれました。

雨にうたれていた瞬間


まずは博物館の前(三の丸)から本丸と二の丸を眺めときます。
左が本丸、右が二の丸。花壇とかはともかく距離感は分かりますw

モチベ下がっている瞬間


進んで本丸の切岸を見ときます。この上が本丸で大乗寺があるので行ってみよ!
結構な雨が降っているので、心の弱いワタクシすでに時短モードに入っていますw

ちょっと根性を出す瞬間


切岸の手前に模型がありました。雨だけどこれくらいは見ておくかw
手前のこんもり下にワタクシが立ってるので切岸渡って本丸行けそうだけど、
せっかく寺なんでちゃんと門から入るくらいの労は惜しまないことにする。

とにかく頑張ったらしい瞬間


安祥城攻防戦でひとり敵中に討って出て奮戦した法師善恵坊の供養碑。

安城城は松平氏の居城でしたが、松平氏が岡崎へ本拠地を移すと
この地をめぐって今川・松平VS織田の激しい攻防が繰り返されます。

天文9年(1540)信長の父、信秀が奪って信広(信長の兄)を置いた安城城は
天文18年(1549)太原雪斎率いる今川軍の攻撃により落城。

この戦いで信広は捕らえられ、当時織田方の人質となっていた竹千代(家康)との
人質交換を経て今川の城となりますが、永禄3年(1560)桶狭間の合戦で破れた
今川軍は撤退。信長と家康の「清州同盟」が結ばれると安城城は廃城となりました。

チラ見で終わる瞬間


善恵坊供養碑の先が二の丸跡。八幡社が建っています。雨なので二の丸の中は
練り歩かなかったので分かりませんが、パッと見、土塁などは見えません。

さらにチラ見の瞬間


博物館の方に戻って本多忠高の墓を探しつつ、大乗寺に向かいます。
博物館敷地の出口にあったのは風呂井・・・ふ〜ん。よし先に進もw

マップお役立ちの瞬間


博物館や大乗寺のある城跡域から道を挟んだ向こうに残る虎口跡。
博物館でもらったマップがなかったら全く気付かないでしょう。

風情半減の瞬間


大乗寺に到着。さっき見た切岸の上にある本丸跡がこちらになります。
佇まいがとてもよいので、青空の下で見ると雰囲気はもっとよさそうな。

勝手に思い込む瞬間


山門の手前に城址碑がありました。植栽も手入れされて品があります。
雰囲気的に曹洞宗とかかな〜なんて思ったら、なんと浄土宗なんだとかw

雰囲気がよかった瞬間


古くはなさそうだけど立派な山門です。廃城の後、江戸時代には畑になっていて、
1792(寛政4)年に大乗寺が移転し、今に至るのだとか。

勝手にロマンに浸る瞬間


桶狭間の後には廃城になった城跡ながら、整備されて一部は残り、
マップも説明板もあるのは嬉しい。尾張・三河をめぐる織田と今川の
激しい攻防があっての桶狭間、そして信長の時代へ・・と思いはせると
目を引くような遺構はなくても、その場に来るとワクワクしちゃうね。
跡は跡でもやっぱり住宅街の真ん中じゃ、さすがに妄想しづらいものw

キョロキョロする瞬間


山門をくぐって境内。1988(昭和63)年から発掘調査が行われ、
堀や堀の中を区切る畦状の遺構が見つかったんだそうです。
埋め戻されているんでしょうね。何もありませんでしたけどw

丁重に合掌の瞬間


境内から県道沿いに出たところに、本多忠高のお墓があります。
忠高さんは本多忠勝パパ。天文18年(1549)今川方として松平勢を率いて
安城城に先陣として攻めこんだ忠高は本丸まで迫ったところで討死・・・。

忠勝さんは天文17年(1548)生まれているから当時はまだ乳飲み子。
父忠高の討死より前、天文14年(1545)には祖父忠豊も安城城をめぐる
戦いで松平忠広(家康パパ)の身代わりになって討死してるから、
忠勝さんは叔父の所に引き取られて育ったんだよね・・涙こぼれるぅ。

山岡荘八の徳川家康をまた読みたくなったわwww

ちなみにワタクシは今回、後から気づいて行きそびれたんだけど、
少し離れたところに忠豊さんのお墓もあるのよ。見逃しマジ無念。

安城城すごい遺構があるわけじゃないけど歴史ロマン的によいですw
雨じゃなかったら少し予定変えてじっくり散策してもよかったな〜

ロマンより食い気だった瞬間


城跡を出れば食い気w さーてどこで何を食べようと食べログ探して
レストラン仔馬へ。ハンバーグを食べて元気を出したら大樹寺へ向かいます!


大樹寺にて徳川三昧!〜に続く


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2015.10.03 Saturday 19:15 | comments(2) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

刈谷城に登城!

岩崎城から岡崎方面に向かう道すがら刈谷城に立ち寄り登城しました。
目指して来るのは難しいけど、近くに来たなら一度は見ておこうかなと。

ひっそり立っていた瞬間


現在は亀城公園となっている刈谷城跡。周囲には体育館や野球場などがあり、
車をどっから入ればいいのか少し戸惑いながら到着。テンションは低いですw

目指すところが分かった瞬間


もし時間があったらちょろっと寄るかな〜くらいだったので何も下調べなく、
モロ公園でパンフやらがもらえるわけでもないので何となくうろつくことに。

イケてなかった瞬間


水堀は残っています。ワタクシは二の丸跡の方から来たので写真右手が本丸。
公園として整備されすぎちゃってるんでしょうね、広いけどイマイチな水堀です。

刈谷城は天文2年(1533)に水野忠政が築城したと伝わり亀城とも呼ばれました。
水野忠政は家康の生母、於大の方のお父さん。忠政は松平氏との関係を深めるため
於大の方を嫁がせます。しかし忠政の死後、跡を継いだ信元は於大の方を離縁させ、
織田氏に属したため、一時は松平氏と絶縁となります。桶狭間の後、信長と家康が
同盟を結んだことで関係は改善するものの、後に信長に武田方への内通を疑われた
信元は殺害され、信長配下の佐久間信盛が城主となりました。

その佐久間信盛も信長に追放されると、再び水野氏が城主となり、
寛永9年(1632)、吉田城に移るとその後はめまぐるしく城主が変わり、
土井家の時に明治維新を迎えました。一時、国の所有となった刈谷城は旧士族に
払い下げられ、昭和11年(1936)刈谷町が譲り受け公園として整備されました。

迷いようもなかった瞬間


二の丸から水堀を渡ったこちらが本丸。本丸は少し小高いところにあるようね。
本丸の向こうは逢妻川が流れてて、当時は三方が水堀に囲まれていたみたい。

わずかな遺構だった瞬間


本丸跡は日本庭園チックな装いなんですが・・ワタクシ写真撮るの忘れたらしく。
完全に公園として整備されちゃったね〜と思いながら少し残った土塁だけ見る・・

中には入れなかった瞬間


本丸の櫓跡には十朋亭という建物がありました。維新後、払い下げられた後から
何やらの集会所として建物があったようで、現在も建て替えて使われてる様子。

振り返っていた瞬間


本丸から二の丸側に出て駐車場に戻ります。家に戻って古図を見たところ、
本丸は石垣があったみたいね。思えばそのかけらも残ってないのは残念。

作業は盆休みだった瞬間


整備中の場所を通りかかりました。現在、亀城公園では再整備が行われてて、
隅櫓や門が復元される予定なのだとか。道路も綺麗で気合い入ってますわ。

立派すぎて驚く瞬間


完成予想図らしきがこちら・・どうした、すごい気合いやないか!
今の「憩いの公園」路線から思い切って発想と予算ひねり出したんだねw
完成時期は分からないけれど、これが出来たらまた近く来た時は寄りたい。

ちなみに刈谷城のキャラは「かつなりくん」。鬼日向、水野勝成押しです。
家康の従弟で武勇を持ってあちこち放浪した暴れん坊がかわいくされちゃってw

そのうち広島出陣したら墓参りしてねっとり人となりに思いを馳せるさ!


さぁさぁ今日の登城はこれで終了。明日は安祥城に登城します!

安祥城に登城!〜に続く。



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2015.09.13 Sunday 11:27 | comments(2) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

岩崎城に登城!

長久手古戦場から岩崎城に移動してきました。
ナビ見て走ってきたけど、入口を見逃し、軽くさまよった挙句の到着w

人気スポットかもだった瞬間


駐車場が少なくて停められないかと思った! 入口の案内マップを見て
とりあえず左方向に坂を上っていくことにします。

岩崎城は享禄年間に信長の父、織田信秀が築城、後に松平方に奪われ、
天文4年に丹羽重清が入って以降、丹羽氏4代の居城となりました。

小牧長久手の戦いでは徳川方として、岡崎を目指す秀吉軍(池田恒興)を阻止。
この岩崎城の戦いで城主丹羽氏重以下300名が討死、落城しますが、
丹羽氏らの奮戦が徳川方を勝利に導いたと伝えられています(案内板抜粋)

今日も体力なさすぎだった瞬間


息切れしてたら坂の写真撮るのを忘れ、いきなり登り切った土橋からw
二の丸と本丸をつなぐ唯一の土橋の向こう奥には櫓があったようです。

がっちりしていた瞬間


二の丸から本丸跡方面。土橋は幅も広くコンクリートになってますが、
当時は人一人がやっと通れるくらいの狭さだったと考えられているそうです。

堀りまくった瞬間


土橋からの空堀はなかなかの規模! 左は本丸側の櫓台跡になるので、
堀底から見上げた場合は結構な高さかと。監視厳重なエリアです。

庭園は違和感だった瞬間


土橋の手前にある二の丸庭園跡。名古屋城三の丸を参考に作られたとか・・
説明には馬出と考えられているとも書かれていました。周囲には土塁も見えます。

地元のシンボルだった瞬間


土橋を渡って本丸側へ。模擬天守の手前には歴史記念館もありますが割愛w

関ヶ原後、丹羽氏が1万石の大名ととして三河国伊保(現豊田市内)に移ると
岩崎城は廃城となりました。城跡は雑林に覆われたまま現代に残って整備され、
昭和62年5月、地元住民の寄付で展望塔岩崎城が建てられたそうです。
チグハグ感は漂ってますけど地元愛の結晶w 碑かなんかと思えばいいのよw

割り切っていた瞬間


展示自体は1階に丹羽氏時代の古絵図や生活品の展示があるくらい。
2階は100名城の写真展示、3階は展望スペース。まぁ無料なのでw

妄想力が必要だった瞬間


展望階からの眺めは・・・日進市内はなかなか見えると思いますw
当時は展望塔ないにしろ、平山城なので行軍してくる敵がよく見えますね。

雰囲気はなかった瞬間


直径2.4mの素掘りの井戸。覆屋のものらしい柱穴も残っています。
岩崎村古城絵図に描かれていることから江戸期に埋没したと考えられるそうです。

しっかりしていた瞬間


発掘調査後、埋め戻された復元展示の隅櫓跡。築城初期の遺構で城内で唯一、
礎石を有した建物だったそうです。貝塚や柵跡なども周囲から確認されました。

お城あるあるだった瞬間


こちらは古城碑。立石は元からあったようですが、明治39年頃この辺りで
火の玉が目撃され、岩崎城で討死した兵が成仏していないのだと噂になったため
妙仙寺の隆城和尚が立石に文字を刻み、供養したそうな。今でも落城した4月9日は
慰霊祭が行われているとのこと。荒れ地で火の玉は確かに怖いわね・・・

表しちゃった瞬間


櫓台跡には明治43年地元の人の有志で建てられた表忠義碑がありました。
表忠義の題字は徳川慶喜の書。徳川方で頑張ったってこと表現してんだね。
裏には戦いで亡くなった兵士や足軽、城下の人々の名前が刻まれてます。

包まれ感に癒される瞬間


櫓台上からの空堀底・・写真だとやっぱり高さがあんまり出ませんね。。
櫓台を降りたワタクシはしばし堀底ウォーキングをして車に戻りました。


刈谷城に登城!〜に続く



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2015.09.05 Saturday 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

名古屋城に登城!

中村公園から開城の9時に合わせて名古屋城にやってきました!

駐車場に車をぶち込んだら、まずは忘れないうち能楽堂へゴー!

素敵すぎた瞬間


さっき中村公園の妙行寺でねめ回してきたばっかりだけど、
鼻息荒く名古屋城能楽堂前の清正銅像も見に来てしまいましたw

時間を間違えた瞬間


午前中早い時間だと逆光になっちゃうみたいなんだよね・・失敗した。
でも何度見てもどこで見てもかっこよすぎて本当にかぶりついちゃうんだ。

開城と同時インの瞬間


清正愛はほどほどに9時ちょい前に券売場に並びと開城と同時にイン!
正門も撮りたかったけれどGWで人が多すぎて写真が撮れなかったわ。

再登城の余裕だった瞬間


とりあえず西南隅櫓を見ながらルート通り天守方面に向かいますが、
ワタクシは取り急ぎこの時、限定公開だった御深井丸の西北隅櫓へ。
天守石垣は清正さんが積んだのよね〜とうっとりしながら進みますw

貸切だった瞬間


限定公開の重要文化財の西北隅櫓。古名は戌亥櫓と呼ばれ清州城天守を
移築したものと伝えられています。実際は清州城の古材を転用したものらしいけど。
三層三階で、全国でも最大規模の隅櫓だと説明が書いてありました。
本丸へ向かうルートから外れるせいか、こちらはガラガラでゆっくり見れそうw

改めて感心する瞬間


靴を脱いで中に入ると壁の仕組みの展示があったりするので人がいないのを幸い、
しげしげと見てしまいます。知恵と職人芸の結集で美しく強い壁が出来るんですね。

妄想へはばたきかける瞬間


これは3階だったかな。名古屋城では最古の建造物になる重要文化財。
清州城の古材転用ということも相まってちょっと興奮しますね。

あまりに近代過ぎた瞬間


最上階からの眺望。堀の向こうは現代空間。地方の山の中の城と違って、
さすがに当時の風景というわけにいかないけど勝手に満足しておきますw

気楽に通行する瞬間


ルートに戻って本丸の方へ向かいます。どんと控えるのは不明門。
剣塀で忍び返しみたいのがついてて当時は開かずの厳重な門だったそうです。

気持ち悪い癖にガン見の瞬間


不明門へ続く土橋横の空堀が何やら気持ち悪いことに・・・
工事中らしいんだけどSFに出てくるシーンみたいでゾミゾミしてしまった。

落ち着きがなかった瞬間


不明門に行こうしてマップを眺めて礎石を見逃したことに気付いてリターン。
昭和20年の空襲で焼失した旧国宝だった巨大天守を支えていた礎石。
天守再建する時に堀外の御深井丸側に移され敷設状況を再現しています。

天下普請パワーだった瞬間


天守礎石のある場所の先には御深井丸側の堀が見えました。
尾張名古屋は城でもつ・・一部だけ見ても城の規模を思い知ります。

エレベーターが邪魔だった瞬間


空襲で焼けて、昭和34年10月に再建された天守。金鯱が輝いてますw
五層五階の天守は今は鉄筋コンクリート造だけど、空襲前まであったことから
写真や資料は多数残っていて、外観は当時に近いものになっているようですね。

入らなくてもよかった瞬間


再登城でしたがお約束で何となくまた中に入ってしまいました・・・
が、人・人・人でロクに見れず、階段上り下りで疲れましたわw

プライオリティを間違えた瞬間


前回の登城時はまだ資材が積まれた工事開始状態だった本丸御殿が建って、
ものすっごい人が中に入るために並んでいました。ワタクシも見たかったけど、
結構待つようだったので時間の都合もあって断念。天守やめときゃよかった。

まだまだ絶賛工事中だった瞬間


本丸御殿はもっと混むとこんなとこまで並ぶことになるのでしょうか・・・
前に来た時は御殿をこれから建てようかって時で天守を遠目に撮れたけど、
今回は人があんまり入らず、天守全景が綺麗に入るポイントがなかったわ。

登城しといてよかった瞬間


前回登城時の写真がこちら。小天守と大天守バッチリ見通しよかったね〜

伝説上等だった瞬間


旧二の丸東二の門近くにある清正石。清正が運んできた石と言われていますが、
この辺は黒田長政が担当したところらしく事実じゃないような・・
でも名古屋城築城は清正がものすごい頑張ったんだからいいんだよ。うん。

移築されても鉄!だった瞬間


清正石の近くにある旧二の丸東二の門。帯鉄が打ち付けられた頑丈な作り。
二の丸の東門だったのを昭和38年に解体、昭和47年ここに移設されたそうな。

威圧が大事だった瞬間


旧二の丸東二の門入った枡形。ココから見ると天守は清正石のずっと奥方向。
どこを見ても有事に備えて一歩も引かないみたいな気構えが感じられます。

お土産はしっかりゲットしていた瞬間


東南隅櫓は辰巳櫓とも呼ばれ多聞櫓が続いていたそうです。落狭間の破風が
やる気あっていい感じw 鯱は明治になって江戸城のを付けたものなんだそう。

なるほどなと思いすぎていた瞬間


西の丸から見る本丸に続く表二の門。広く深い空堀挟んでのこの門構え。
くぐったら目の前が本丸御殿だもんね。ディフェンス重視で重々しいです。

さらに食いつきすぎていた瞬間


西南隅櫓〜表二の門〜東南隅櫓・・ワタクシは天守よりこの眺めが好きです。
両櫓とも現存。これだけでも焼け残ってよかった。鬼畜米兵め。城は焼くなって!


いいわ〜いいわ〜と見える位置へと夢中で見ながら移動していたら
大変満足してワタクシそのまま登城を終えてしまいましたΣ(゚Д゚)!
車に乗ってから「あ、二の丸行くの忘れた・・」と思いだすも後の祭り・・・。

武将銅像ハンターぶってるくせに二の丸方面ある清正石曳の像を見忘れるわ、
旧那古屋城跡もメモってたくせに見逃すわ・・・数年後また再登城するわw

それにしても石曳の銅像見逃すとは・・・バカバカバカ!!

立ち直りが早かった瞬間


くよくよしても始まらないからね。名古屋コーチン特上親子丼を食べて、
気持ちを新たに長久手古戦場に向かいます! 古戦場はそういや久々w


長久手古戦場に出陣!〜に続く





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2015.08.09 Sunday 01:02 | comments(2) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

田峯城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

夏の陣3日目は山城シリーズ。足助城の後は愛知を東に移動して田峯城に向かいました。
中央高速と東名高速の間にある山の中の道は「国道」という名の激狭道・・・神経使います。
おまけに田峯城はナビに出ないから、住所でざっくり目指す感じで不安なことこの上ない。

喜びの瞬間


ざっくり近くに到着してからたどり着くまで長かった・・やっぱりここでもGoogleMapのGPSのお世話に。
マイマップ大活躍。辺鄙な場所の場合は面倒でもやっぱり事前にピンポイントで登録しとくのが吉。
入り口だと何だかわかりづらいけど「歴史の里 田峯城」戦国時代の山城が再現された施設です。
離合困難な道が続く山中をひた走り、必死の思いでたどりつけてマジ良かった〜と思いきや・・・

呆然の瞬間


なんじゃこりゃぁぁぁーーー!! どないなっとんねん Σ(lliд゚ノ)


本日休城日 〜休城日:毎週月曜日 祝日の翌日 


長い盆休みで浮かれてたから忘れてたけど、土・日・月の3泊だったから月曜日ドンピシャだったのね・・
何しろアクセスの悪い場所だから、そうそうリベンジできないので無念なことこの上ないです。

虚無感にさいなまれた瞬間


本当はウキウキしながら渡るはずだった木橋。両側の空堀や戦国風演出の柵もかすんで見えます。
そのうち機会があればリベンジするとして、とりあえず登城したことにはするのよ=3=3(鼻息荒い)
と急遽、勝手なマイルールを制定。そのためには行けるところまで攻め込まなければならないわ。
用意してきたメモ書き縄張図によると、木橋を渡ったところに大手があったようです。

のどかすぎた瞬間


表曲輪から本丸方面を見たところ。右の方のこんもりしてるあたりが入場料が必要な本丸で、
そこには模擬御殿が建てられているんですが・・樹木の奥なのか影も形も見えませんね。
標高387mの独立丘陵にある城跡だけど、山全体が城ということではなかったみたい。
ここまで車で登ってきて表曲輪、畷曲輪、蔵屋敷、井戸曲輪など続き、本丸がある感じ。
メモ程度の縄張図しかなく詳細は不明だけど、天然の要害である田峯城は堅城だったそうです。
寒狭川の蛇行と城を囲む山並が大蛇のようであることから「蛇頭城」とも呼ばれました。

血みどろの惨劇だった瞬間


表曲輪を進んでいきます。すぐ隣は茶畑って場所もあり、よく残って整備されたなと思います。
茶畑の奥の方にも何とかいう曲輪の跡があるようですが、よく分からないのでそこは割愛。

田峯城は文明2(1470)年、菅沼定信によって築かれました。当初は今川方に属していましたが、
今川氏親の死後、五代定忠の時に川(織田)、そして武田氏に帰属。信玄の三河侵攻に従って
戦功を上げますが、天正三年(1575)長篠の合戦で武田軍は大敗。定忠は勝頼を休息させるため
田峯城に案内しますが、留守居である叔父の菅沼定直と家老今泉道善らに入城を拒否されます。
定忠は激怒しながらも勝頼を伴って武節城へ入り、その後、飯田に逃れて1年を過ごしました。

天正四年(1576)7月、定忠は武節城に兵を集めて自身の城である田峯城に夜襲をかけると、
叔父の定直を始め、一族老若男女96人を手当たり次第に惨殺。首謀者とされた家老の今泉道善は
鋸挽きにされ、首は佐久手街道の辻にさらされたそうです。

菅沼家は今川氏の後に三河を支配した徳川家康によって家督と所領安堵された経緯があり、
これに恩義を感じていた叔父の定直や家老の今泉は武田に帰属したことに批判的だったため、
長篠合戦大敗を受け、入城拒否に至ったと言われています。

天正十年(1582)武田家が滅亡すると、菅沼定忠は徳川家康に帰参を申し出るも認められず、
飯田知久平で牧野康成に討ち取られ田峯菅沼宗家は滅びました。

同じ山家三方衆でも家康に見込まれ長篠城主に抜擢された奥平さんとは大違い・・(´Д`)

違和感だった瞬間


表曲輪を過ぎると井戸曲輪がありました。井戸の跡とかはまったく見受けられません。
何の変哲もない草むらです・・・と思ってふと気づくのが目立つ土塁がないなってこと。
さっき見て来た足助城しかり、戦国の山城は一目でそれとわかる土塁が必ずあるのに、
田峯城は独立丘陵の上にあるから曲輪に段差がついてるというだけで遮蔽物があまりない。

微妙だった瞬間


何となくつるっとした曲輪や屋敷跡を抜けると本丸へ上る斜面が見えてきました。
ちらっと模擬御殿の屋根が見えます。この斜面を登ったところまで行ったら終わり・・。
これという見どころもないまま、ワタクシもつるっとここまで来てしまったわw

負け惜しみっぽかった瞬間


屋根しか見えないくせに何だけど、何やら立派そうな御殿は中世山城と思えば何だか違和感。
資料館になってるわけでもないらしいから、入場料払ってまで見なくてもいいのかな〜なんて。

思うところありだった瞬間


休城日のため当たり前だけど門が固く閉ざされています。目の前に見える御殿はやっぱ近代風ね。
お金がかかったんじゃないかしら。これの建築費回収のために入場料200円を取る仕組みになってて、
受付に人が必要だから休城日があるのかと思うと、少々余計なことしてんじゃないの?と穿ったり。
ワタクシは模擬の御殿なんかより、本丸から寒狭川を見たり天然の要害さを体感したかったんだよ〜
誰も見てないし乗り越えるのは簡単だけど・・そういうのはダメ!! なんか色々残念な城です。

・・・・いや〜足助城はよかった!! え? なんか今にしてまたしみじみ思えてw

でも血みどろの惨劇があった舞台に立つことで、戦国の世で家を守って生き抜くことの大変さや
厳しさを改めて思ったから、それはそれでよかったかと・・ポジティブに行こ、ポジティブにw


次は信玄と馬場さんのお墓参りに福田寺、そしてまた山の中を走って高根城二俣城に向かいます。



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2013.10.29 Tuesday 16:01 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

足助城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

夏の陣3日目は渡辺家墓所 随應院に寄って、足助城からスタート。豊田市内から山に向かって進んでいきます。

たどりついた瞬間


地味に遠い・・・同じ豊田市内なのに街中から1時間くらいかかったわΣ(゚Д゚)!
紅葉の名所で有名な「香嵐渓」を抜けて行くと、ようやく足助城の入口に到着。

一番乗りだった瞬間


足助城が開くのは午前9時。ちょい前到着だったので車の中で少し待ち、時間ちょうどに受付へ。
オジサン2人に「お待たせ〜」と迎えられ、ボランティアガイドが頼めると聞いて即おねがい。
朝イチには城内全ての門や戸を開けるらしく、そこからくっついて回れることになりましたw

一番乗り実感の瞬間


入口の門を開けるオジサンにくっついて足助城内にイン! 70前後と思われるオジサンたちは
豊田市に委託されて足助城の管理をしているシルバー人材さんで、8人が当番で管理しているそうです。
お願いすればボランティアガイドもやっていて・・ワタクシはよい方がいる時にあたったみたいw

にんまりの瞬間


門をくぐって入っていくとすぐ南の丸腰曲輪が見えてきます。戦国の城ど真ん中って感じでよいわぁ。

足助城は「ふるさと創生1億円」の事業をきっかけに全国で初めて復元された山城なの。
発掘調査をして掘っ立て建築の柱跡に合わせて真面目にちゃーんと復元されてるってとこが素敵。
ワタクシはずっと登城したくて、でも中途半端な山の中なので機会がなく、今回ようやく来れたの。

すさまじかった瞬間


順路は1つ上の写真から左方向になっていて、順路にそって進んでいくと薄暗い木立の中に井戸が。
ここだけおっそろしく蚊が多くて、松平氏館の産湯の井戸の所に続き、蚊柱が立ってるぐらいΣ(゚Д゚)!
恐怖であんまりじっくり見てないけど、掘り抜き井戸じゃなくて水をためる井戸だったみたいです。

登城宣言の瞬間


井戸のところから少し上ると西の丸曲輪。ここには雰囲気のある西物見台が建ってます。
物見台のわりに曲輪のへりじゃなく中の方に建ってるな〜と思ったら、発掘調査では他の建物の存在が
確認されていて、間近まで他の建物があったから物見台を2層にしたと考えられてるんだそうです。

機敏だった瞬間


西物見台の入口の戸を開けて中に入り、さらに2階に上がる天井板の鍵を開けるオジサン。
「上がって当時の建物の作りを見てみますか?」と言ってくれたので素早く梯子を上りますw

リアルすぎた瞬間


おおお〜!! 2階に上がってちょいと感動しました。外観復元だけじゃなく中まで掘っ立て建築ばり。
文献とかを参考にちゃんと考証されての復元だし、またケチらず徹底的にこだわってるのがすごい!

ディティールにこだわっていた瞬間


ワタクシが天井裏を見て感動している間、オジサンはせっせと窓を開けて回っていました。
毎朝、城内にある建物の突き上げ戸を開けて回り、帰りにはまた閉めるそうです。

興奮気味な瞬間


西の丸曲輪を出て、さっき足助城に入ってすぐ正面に見えた南の丸腰曲輪に向かいます。
この辺は唯一の礎石が見つかった場所。それ以外は全部、掘っ立て柱の小屋だったってことですね。
発掘調査の後、復元するにあたっては掘立ての穴を保護するため70兩垢蠹擇靴燭畔垢ました。

来た甲斐ありを確信した瞬間


南の丸の入口には「跳ね上げ戸」。突っ張ってる棒を外せばすぐ閉まるので当時は合理的。
戦国の山城は土の城。「土」が「成」と書いて「城」になる前の「砦」ぽさがすごい感じられます。

暑さも忘れた瞬間


南の丸にはカマド小屋と厨が復元されています。カマド小屋は焼けた石や炭が周囲から見つかったので
カマドがあったとされて、建物自体は推定復元なんだそうです。厨は食事の支度をする建物。
厨はこの奥にもう1件あります。建物の横に排水溝らしき溝があるのも芸が細かい感じです。

ここで日陰に入ってオジサンとしばし立ち話。開ける戸はまだ先にあるのになんて親切な人!

足助城は標高301mの真弓山の山頂にある山城で、現在の遺構は15世紀以降に鈴木氏が築いたもの。
鈴木氏は戦国時代に西三河山間部に勢力を持っていた一族で、松平家に離反・従属を繰り返す中、
永禄7年(1564)以降は高天神城攻めなどで功を上げ、家康に従って関東に移り、足助は廃城になります。
しかし待遇とかが残念だったらしく、鈴木氏はその後、家康の元を離れて浪人したんだそうです。

足助城は真弓城とも呼ばれます。足助城は足助七城と呼ばれるこの一帯にあった七つの城の総称で、
どこだったかは耳慣れず覚えてないんだけど、本来、その1つのどこかで復元しようとしたところ、
そこでは許可が下りず、真弓山ならということでこの地の城が復元されたのだとか。

雰囲気バツグンだった瞬間


厨の内部・・暗くてちょいとピンぼけてますけど雰囲気を分かっていただければ・・。
栗の木を使用して釘を使わず復元した掘っ立て小屋。柱は丸かったと推測されるそうですが、
そこまでの手間ヒマとお金はかけれなかったのね。でも角柱でもまったく気にならないわ。

足助城は城主が住む城ではなく、砦として機能していました。兵や地元民が山の下から食糧などを持って
交代で城に詰め、カマドで煮炊きをして厨で食事を取り、そこで寝泊りもしていたんだそうです。
井戸も貯める式だから住むにはきついし、山の中の掘っ立て小屋は冬なんかは激寒でしょうね・・

荒砥城に匹敵だった瞬間


カマド小屋のところから見えていた南物見台のところに来ました。大きくないけど建っているところ自体が
高台で見晴しいいのでバッチリ。南方にある鶏足城への連絡を兼ねる矢倉だったと考えられているそうです。

しびれた瞬間


物見台のところから南の丸を見下ろした風景が、いかにも戦国の山城チックでちょっと目が輝くw
跳ね上げ戸、木の柵、石置屋根の掘っ立て小屋・・・来てよかったぁ!! 気分もさらに高揚します。

かなり残念な人だった瞬間


南物見台の先にある橋を渡ると足助城本丸。オジサンが先行して戸を開けに行きます。

ガイドしてくれたオジサンは桶狭間古戦場公園の方と同じく、ご自身でも足助の資料館に通ったり、
本を調べたり、人に聞いたり色々な勉強を続けていらっしゃるとのこと。
えらい教授や作家の童門冬二が取材に来た時にも同行して、調べたことを聞いたりしたら、
「文献資料にないことは、自分なりに調べたり考えて、そう思ったことでいいんですよ」
と言ってもらったのが嬉しかった、と桶狭間のガイドさんと同じようなことを言ってました。

「話が長くなってごめんね、分かってくれる人だと思うとつい一生懸命説明してしまって」と
ワタクシのことも気づかってくれるガイドさん。時々、台本暗記しましたぽい説明の人もいるけど、
パンフレット読めば分かることなんてつまらない。情熱のあるガイドさんだと思って感動しました。

納得の瞬間


本丸には長屋と高櫓が復元されています。ここは窓が多いからオジサンせっせと開けています。
この長屋と高櫓は発掘調査で発見された柱穴を元にして復元されました。高櫓は天守にあたる建物。
長屋は武者だまりや武器庫だったと考えられているようですが、何に使われてたか不明なんだとか。
奥にあるアンテナをよけるため、実際の位置より1メートル南側に建てられてるそうです。

残念な人再びだった瞬間


高櫓は板ぶき屋根で全体にしっかりした造り。推定復元だから当時よりグレード高いと思いますw
長屋も高櫓の方も入って中の見学したんだけど、ピンボケばっかろくな写真が撮れていないのが悲しい。
高櫓の中は土間と板張りの広間で一部、畳が敷かれた上段の間とか、厠なんかも見ることが出来ますw

木が邪魔だった瞬間


本丸から西物見台の方面を見ると、足助の街並みが見えます・・・1/3くらいww

こんな山の中に精巧な復元をするには、建設もさぞかし大変だっただろうと思い聞いてみると、
ヘリコプターとかじゃなく、木材は切株にたまかけして吊し上げりしたんだそうです。

再登城を誓った瞬間


本丸を出て北腰曲輪側から入口の方に戻ると、本丸>南物見台>南の丸と高さ感が分かりますね。

足助城ホントに来てよかったわ。夏場はどうかと思ったけど城址公園だし空堀見るんじゃないし、
周囲の緑と建物の茶と空の青のコントラストが生えて戦国時代にタイムスリップ気分が増したわ。
このお城は季節を変えてまた来たい。紅葉の季節に香嵐渓(混むだろうけど)とセットでとか、
逆に冬枯れの時期(運転怖いけど)とか・・・機会を見てきっと再登城しようと思います!!


人様のブログなど見てると足助城のガイドさんについて良し悪し書かれたものもあるけど、
ワタクシはすごく親切で勉強熱心なよいガイドさんだったので説明してもらってよかったです。


今日は愛知の山の中縦断で、戦国の山城攻めを行います。この後は田峯城高根城へ!!
国道という名の狭き山道をひたすら走り、頑張って何がなんでもたどり着くのだ!!


夏の陣3日目 田峯城へ登城!?に続く


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2013.10.22 Tuesday 20:40 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

七州城と桜城跡に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

松平氏館から豊田市内に戻り、七州城&おまけの桜城跡を見にきました。

激混みだった瞬間


豊田美術館の一角にある七州城跡。駐車場はもう間もなく閉館だというのに混み混みです!!
そもそも豊田美術館自体が人気なのか、フランシスベーコンの期間展示が人気なのか
美術に疎いワタクシにはとんとわかりませんが、とにかくゾロゾロすごい人が歩いています。

紛らわしかった瞬間


元は「蓮池」と呼ばれる本丸の堀だったところにある駐車場。その片隅にはこんな風景も。
完全に畑の土止めみたいになってるけど、余った石とかお城の名残か何かなんでしょうか。

我が道をゆく瞬間


駐車場から歩いてすぐ、豊田美術館入口の横に七州城の復興隅櫓が建っています。
ワタクシは櫓まっしぐらだったけど、皆さんは吸い込まれるよう美術館に入っていきます。

盛りすぎに思えた瞬間


「七州城隅櫓再建之碑」の碑。当時、本丸御殿北側の高台から七つの国が見えたことが由来だそうです。
七つの国っていうのは三河・尾張・美濃・信濃・伊勢・近江・伊賀・・・マジか、遠っΣ(゚Д゚)!




七州城は衣城(金谷城)、桜城と合わせて3つで挙母城ともよばれていました。

鎌倉期、中條景長によって金谷城が築かれたことに始まり、戦国時代に今川氏、織田氏に攻略された後、
慶長9年(1604)三宅康貞が1万石で入封しました。康貞は荒廃していた金谷城から桜城に移ります。
寛延2年(1749)内藤政苗が2万石で入封しますが、矢作川の氾濫で大雨の度に被害を受けるため、
幕府からお金を借りて童子山(標高63m)に城を移築。これが七州城と呼ばれるようになりました。
明治維新まで内藤氏が居城し、明治4年(1871)全ての建物が取り壊されたそうです。

綺麗過ぎた瞬間


布積みの石垣は新しく見えるんだけど現存! 苔むした野面積みの良さをしみじみ感じますw 
東西10.8m、高さ6mの現存石垣の上に昭和53年、隅櫓が復興されたものなんだそうです。
現存ぽく見えないのは、石の継ぎ目に草のひとつも生えてないところが人工的だからかと。

たいした興味はなかった瞬間


石垣の横に階段があって、櫓台の上に回り込むことが出来ます。櫓台上は狭いスペースなので
どこに立っても樹木が邪魔ですっきり収まる写真が撮れませんね・・って現代風だから別にいいけどw

あるだけマシだった瞬間


隅櫓の北側を発掘したら礎石が見つかったとか、ちょっとした案内版は整備されています。
礎石ってなんだろう?ってクイズが載ってるあたり、説明の内容が濃いかどうかは別ですw

いじましかった瞬間


櫓台の片隅にはこんなのも。当時のものか分からないけど櫓台の石垣よりむしろ「ぽい」と思う。
七州城の存在自体にはそんなに食いつけないけど、2万石の内藤さんが「幕府にお金を借りて」まで
移築したってとこが泣かせると思いました。せっぱつまった心中をお察しします。

そんなに食いつけなかった瞬間再び


櫓台の奥には「ヌ日(ゆうじつ)亭」という建物がありました。寺部地区の「寺部城」にあった
渡辺家の書院・茶室を豊田市が譲り受け、ここに復元したものだそうです。
この渡辺家というのは尾張藩の家老で、初代は徳川十六将の一人、渡辺守綱・・槍の半蔵。
守綱から数えて十代目の当主である規網が茶人「又日庵」だったことから名づけられたようです。
この辺りが渡辺さんの地元で菩提寺があるというので、この後寄ってみます。

モダンすぎた瞬間


ヌ日亭を見て櫓跡に戻った帰り道、何気なく美術館側に出てみると広大な人工池がドーン!
本丸跡にあたる場所に建てられた豊田美術館。空間が広く近代的でおしゃれな建物ですね。

七州城を後にして、次はこの日のラスト徳川十六将渡辺守綱のお墓を見に行ったのですが、
翌朝、ホテルの近くにあったので寄った桜城も、ここで合わせてご紹介しちゃっときます。

挙母城になれなかった瞬間


2万石で入封した内藤さんは当初ここを藩庁とし修復などをしていましたが、度重なる洪水で断念し、
幕府からお金を借りて七州城を建てて移ります。新城の完成に伴い、桜城は廃城となりました。
現在は桜城址公園として整備され、隅櫓跡と言われる石垣だけがポツーンと残っています。

いっそ潔かった瞬間


公園の真ん中にドーンと鎮座する桜城櫓台石垣。なんでこれだけ残ったのか謎すぎですねw
この桜城址公園の住所は豊田市元城町1丁目。「元城」という地名が名残。他は何もなし。

堂々としていた瞬間


七州城と同じく切石を積んだ布積みだけど、草が生えてる分なんとなく現存感はあります。
当時は二の丸隅櫓だったそうです。縄張り図を見てないけど大きなお城だったんでしょうね。

見る価値はあった瞬間


高さ6メートル越え。単品で存在するけど実物を見てみるとなかなか立派で意外によかったりw
建てる途中で放棄されながら、櫓台ひとつでも今日まで残っているのが逆にすごいと思いました。


挙母城(七州城/桜城)つながりで時系列無視して一緒にエントリーしましたが、
ワタクシの行軍は七州城を後にして、渡辺守綱のお墓を見に守綱寺へ行って2日目終了となります。


守綱寺にて渡辺守綱の墓参りに続く



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2013.10.14 Monday 15:54 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

松平氏館に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

岡崎城と本多忠勝の生誕地を見た後は、豊田市に移動して松平氏館なぞにも寄っておきます。

豊田市って世界のトヨタのイメージだけど史跡が多く、合併してさらにでかくなったから、
びっくりするような山の中も豊田市だったりする・・松平氏館もそんな山の中にあります。

東照宮のオーラがすごかった瞬間


山の中を少し入ったところに松平東照宮があり、ここが松平氏館跡なんだそうです。
松平太郎左衛門家九代尚栄により関ケ原の合戦後に築かたという城館の石垣と水堀が残っています。
この手前の駐車場は馬場跡だと書いてありました。城館の雰囲気は残っているんだと思います。

めぐってはいなかった瞬間


松平東照宮の中には「産湯の井戸」や「松平郷館」という資料館などもあるそうなので、
せっかくなので土橋を渡って中に入ってみることにします。水堀は先で終わりみたい。

家系は苦手だった瞬間


石垣の上にあった「松平氏遺跡」の碑。徳川家の祖である松平氏発祥の地であるこの一帯には
館跡や松平東照宮のほか、菩提寺「高月院」などもあり、史跡として整備保存されています。

新田荘世良田東照宮に行って徳川のルーツを遡った時も頭から煙が出そうだったけど、
今回はそれを思い出したところからの〜松平氏発祥の地とはどゆこと? って話( ;゚Д゚)

松平館は元は弘安年間(1278〜1288)この地の領主だった在原信盛によって築かれた城館で、
時宗の僧「徳阿弥」がこの地に流れ着き、信重の婿となって松平親氏を名乗り本拠にしたことが始まり。

で、この「徳阿弥」なる人物が実は新田源氏「徳川義季」から8世にあたるらしいんですね。

「徳川義季」ってのは新田義重の四男で、世良田に館を構えて得川を名乗り、後に改称して
徳川とした人物で、家康はこの血筋だから源氏として征夷大将軍になったという話でした。

つまり・・

源氏である徳川義季の血を引く「徳阿弥」が 松平親氏を名乗ってこの地を本拠とし、
その松平家が三代信光の時に宗家と分家にわかれ、信光は三河に進出して基盤を広げると、
かくかくしかじかあった後、そこから9代目になる松平元康が徳川家康として天下を取ったと。

・・ややこしいよ。まったく。無駄に頭使うわ〜

またまた粉飾された話だと言う声もあるようですが、興味ないので今回もそこは割愛w

子だくさんパワーだった瞬間


元は松平氏の氏神を祀る八幡宮だったものが、元和5年(1619)久能山東照宮から勧請して合祀され、
松平東照宮とよばれるようになったんだそうです。ご祭神は八幡様・家康公・松平親氏公他6柱。
立身出世の神、政治の守り神、安産の神、厄除けの神として崇拝されているんだって・・ん、安産??

お約束の瞬間


お参りをします・・家康系の神様のところでの出世のお願いと言ったらアレのお断りは必須w
「マジ忍耐とか重き荷とか遠い道とかいらないんで!」 言っとかないと大変かもだからね。

襲われていた瞬間


拝殿の右手の方には資料館があり、松平氏の資料とか展示なんかが見られるらしいんだけど、
閉まっていて見れなかったのよね・・残念。なのでその奥にある「産湯の井戸」を見に来ました。

が、ここ蚊がハンパないの!! 

今まで何度もヤブ蚊だらけのとこでたかられてきたけど、ここはちょっとレベルが違う。
一瞬も動きを止められないから慌てて撮った写真ななめってます。ボケてないのが奇跡だわw

こだわりだった瞬間


井戸の入口にはこんな説明版もあるんだけど、もちろん読んでる暇なぞないから瞬撮で後読みに。

ここの井戸は松平家が代々産湯に使ったもので、岡崎城で生まれた竹千代(後の家康) が誕生した際も
水を竹筒に入れ早馬で届けたんだとか・・・岡崎の井戸の水に儀礼としてちょい足しで使用したかと。

あわや大惨事だった瞬間


大量の蚊におびえながら敷地内に入って正面の建物を一瞬止まって撮影したら、
親の仇でも見つけたかのようなものすっごい勢いで大量の蚊が寄ってきて・・・(((( ゚Д゚))))
あまりのすごさに後ろも見ずに逃げ出したワタクシ。隣にあった肝心な井戸の姿は拝めず・・・
いや、ホント。多少のことではひるまないワタクシがビビるくらいの蚊の大群よ。怖かったわ。

唐突だった瞬間


松平東照宮を出て、すぐ前の松平郷地にある松平親氏の銅像を見に行ってみます。
道沿いにはずーっと室町塀が続いています。この塀沿いを歩いていくと松平家の菩提寺高月院に
行けるらしいんだけど、親氏さんにどうもピンと来ないので墓はいいかな〜とか思ってUターン。

立派なことは分かった瞬間


親氏さんが天下峰というところに登り、天下泰平を祈願した際に捧げたという願文の碑。

天下は和にしたがい日々清明であれば災いは起こらず、国は富み民は安らかで戦いは無用。
よって人はつねに徳を尊び、いつくしみの心を以て礼を厚くし、人格の向上に努めるべし


願文を捧げたってとこはあんまり食いつかないけど、さすが元は坊さんだと思ったしw

釘づけだった瞬間


願文のところからしばらく進んでいくと、堂々たる松平親氏の銅像が見えてきました。
ワタクシもあちこちで結構な数の銅像を見てますけど、これはただならぬ匂いを感じますよ。

セクシーすぎた瞬間


武将の銅像と言えば甲冑が定番の中、親氏さんは胸をはだけて袴の裾をまくりあげたワイルドな装い。
さらにポージングも侍うんぬん通り越してグリース風? もう完全日本人離れしちゃってんですけど!!
遠目に見ると一瞬、親指立てた「Good!」ポーズしてるように見えんのよ。テルマエ出てもいいくらい。

衝撃的だった瞬間


さ ら に!! この彫の深い端正な顔・・・日本人離れどころか、完全に外人Σ(゚Д゚)!
おまけにお腹のライダーベルトを見てごらんなさい・・・完全にちょい悪系じゃないの!!

軽いショックを受けて、甲冑姿の武将の銅像でもないのに何気に食いついてしまいましたw
松平郷に来たら、親氏さんの銅像は絶対に見逃しちゃいけないです。あの衝撃はなかなか・・


夏の陣2日目も15時を過ぎてだんだんと西日が強くなってきました。
この後は豊田市内に戻って挙母城、そして渡辺守綱の菩提寺まで行ってしまう作戦。
戻る途中には大給城跡もあり気が惹かれるけど、じっくり見る時間はないからそのうちね。

それにしても豊田市内って・・同じ市内なのに地味に遠いわぁ〜


七州城と桜城に登城!に続く



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2013.10.09 Wednesday 13:44 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

岡崎城に再登城!

[日本100名城] ブログ村キーワード

桶狭間古戦場公園から岡崎城にやってきました。5年ぶりくらいの再登城

今回は忠勝ゆかりの桑名城跡や銅像を見たり、菩提寺でお墓参りもしたので、この際だから
岡崎にある「本多忠勝生誕地」も訪れておきたいわ〜という目的ついでの登城ですw

やけに人が多かった瞬間


前に来た時と比べて整備され度が増してる気がします。何だか人の多い二の丸広場。
どうやら岡崎城おもてなし隊?の出し物があるらしく三河武士の館前に集合しているようです。
が、ワタクシは興味ないので人込みを抜け、まずは忠勝さんの銅像を再見しに行きます。

お目見えの瞬間


忠勝さんの銅像があるのは二の丸広場の、三河武士の館ちょい前。
桑名城と同じく角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍が一緒の「忠勝スタイル」で出現!
蜻蛉切を手に持ったポージングは岡崎城の方がいいかも。刃先まで凝ってて大きいのでかっこいい。

ちょいと残念だった瞬間


同じ「忠勝スタイル」だけど、ここ岡崎の銅像は桑名城より造りがちょいと小さく迫力不足。
そしてお顔の造りもどうもねぇ・・個人的な趣味ですが忠勝さん、このちんまい顔ではダメです。
蜻蛉切を持ってるところはいいけど、銅像としては断然、桑名城の入口にある方がかっこいい!

様変わりしていた瞬間


他の四天王を差し置いて忠勝さんの銅像がここにあるのは、岡崎生まれだからなんです。
ちなみに忠勝さんの銅像は、その生誕地には背を向けた感じで、そして前方にある家康の銅像の方も
微妙に見ていない感じで建ってますw 何年か前は忠勝銅像の後ろに古い店なんかがあったけど、
ずいぶんきれいに整備されたのね。周囲がすっきりして前よりだいぶ写真も撮りやすくなりました。

ナイスタイミングの瞬間


忠勝さんの銅像前にはからくり時計があります。00分と30分で「からくる」みたい。
銅像見てたら後ろでからくり始めていたので見終わった後、撮ったので時間リアルでしょw

意外とかわいかった瞬間


で、からくり中の様子がこれ。時間になると扉があいて家康人形が能を舞うんですね。
小さい家康人形がちょこちょこ手を挙げて舞う姿はなかなか愛くるしいw 1度は見るといいです。

リアル過ぎた瞬間


忠勝さんの後ろの方には「しかみ像」の銅像もあります。「しかみ像」は若かりし頃の家康が
三方ヶ原の戦いで武田軍に挑んで大敗した自分の惨めな姿を描かせたと言われる肖像画のこと。
無理な戦いで多くの家臣を失った家康が自責の念を忘れないため描かせた絵姿が銅像になっています。

暗い気持ちになる瞬間


家康はしかみ像の絵を持ち歩き自分を戒めたと言います。負の自分と向き合うって強いよね。
ワタクシも何か大失態をした時はしょぼくれた顔を自撮りして戒めようか・・余計へこむかw

スタンダードだった瞬間


銅像の多い岡崎城。次は御本尊の家康さん。色んなところにあるけどコレは駿府城の次に好き。
岡崎で晩年は過ごしていないので、そういう意味では何か違うんだけど家康のイメージに遠くないのでw
やっぱり家康といったらある程度の貫禄がないとダメなのよ。浜松城の銅像はやっぱ違うわよね。

地味にうける瞬間


騎馬像もあります…19歳の松平元康(家康)が岡崎家臣団と共に岡崎城へ帰城する姿だって。
ワタクシは写真で見た時も実物見ても見始め一瞬はなんだかオマルに乗っているように見えてしまうw

雰囲気が出てくる瞬間


公園になっている二の丸跡を抜け、模擬天守の建つ本丸方面も一度見てるけど再見しておくことに。
二の丸と本丸の間にある持仏堂曲輪の虎口。このあたりは深い空堀が残っています。

くいついた瞬間


中に入ると「天下人家康公 出世ベンチ」なるものが・・前はなかったと思ったら平成24年に出来たそう。
左側は竹千代。間にある説明によると「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と地元産の良質な
御影石を使って作られています。ベンチに座って天下人を生んだ岡崎の魂を感じてください…とあります。

念入りだった瞬間


座ると出世するとかしないとか・・せっかく来たことだし運よく誰もいないので、おもむろに着席。
誰も来ないことを確認して、さりげなく肩を組み、再度キョロキョロしてカメラを置いて家康にハグw
出世を願いつつ、「マジ忍耐とか重き荷とか遠い道とかいらないんで!」と付け足すのも忘れない。

デンジャラスそうだった瞬間


出世ベンチの後ろには持仏堂曲輪から空堀を越えて天守に通じる廊下橋があります。
かなり古そうな石橋でボロいからなのか、通行止めロープがあり渡ることはできません。
手前の持仏堂曲輪と向こうの本丸の間にはここからダイナミックな空堀がめぐっています。

丸見えだった瞬間


このダイナミックな空堀は「清海堀」と呼ばれるもので、現存する岡崎城の堀では一番の深さだとか。
大和郡山城と違ってジャングル状態じゃないので、7mぐらいありそうな空堀の規模がよく分かります。

思い出しみこみすぎだった瞬間


岡崎城は15世紀半ばに三河守護代・西郷稠頼が築いたのが始まりで、この「清海堀」もこの頃のもの。
西郷稠頼は後に出家して「清海入道」と名乗ったため、この名前がついたようです。
代々西郷家が支配していましたが、戦国期になると急速に勢力を拡大してきた松平氏に押され
家康の祖父・清康の頃に松平氏の本拠地となりました。家康は1542年にここ岡崎の二の丸で誕生。

幼少期を過ごしただけでなく、祖父の清康や父の広忠が暗殺されたのも岡崎城。
桶狭間の合戦後、今川氏から離れて独立して徳川家康と名乗ったのも岡崎城。
城主だった嫡男の信康が信長の命によって非業の最後を迎えたのも岡崎城。

家康の人生が詰まった城は、江戸期には城主を務めることが大変な名誉だったのだとか。

いまいちは変わらずだった瞬間


深い堀を眺めつつ本丸に到着、天守前を通りかかったのでチラッと撮っておきました。
隣にあった龍城神社が移動した分、多少マシにはなったけど松の木邪魔だし、撮影しづらい城です。
水木しげるの妖怪イベントやっていて、砂かけ婆とネコ娘が前にいるのも城ファンには多分きついw

ホントは厳重だった瞬間


前回見なかった「えな塚」と「産湯の井戸」を見るために本丸から板谷曲輪に移動します。
写真は板谷曲輪側から堀を挟んだ本丸方面、埋門跡と言われるところです。
今は先まで丸見えだけど、当時は石段があったりもっと防御がされていたといいます。

よどんでいた瞬間


本丸と板谷曲輪の間の空堀は水が入っています。緑なのは草じゃなくて藻とか苔みたいなやつよ。
緑でドローンとしてるので沼っぽい感じね。清海堀の方の見事な空堀とえらく対照的です。

ずいぶん豪勢だった瞬間


堀の先に「東照公えな塚」がありました。家康の「えな(胞衣)」などを埋めたと言われています。
えなってのは胎盤とかへその尾とかそういうやつですね。元は本丸南にあったものを移したそうです。

石垣だけだった瞬間


伊賀川に面したところにある板谷門跡。当時は馬出しもあったと言われているようですが
目の前はすぐ川だし、ワタクシにはまったくその気配はわかりません。

大人気だった瞬間


板谷門のちょいと先には「東照公産湯の井戸」が。産湯に使う水は松平家が代々産湯に使った
松平館(この後登城)からも竹筒に入れ早馬で届けたそうだけど、本場はこっちですね。
なんだか知らないけど産湯の井戸のあたりだけ、やけに観光客が多かったので少々びっくりしたわw

ご苦労さまだった瞬間


帰りがけ、生まれて初めて「○○武将隊」のパフォーマンスに遭遇。真夏の午後2時、炎天下。
衣装を着て汗だくで武将になりきってる隊の人にも、それを見る黒山の人だかりにも驚き!
ワタクシはこういうのに興味ないので、物珍しさに写真だけ撮って岡崎城を後にします。

お土産屋さんがあったのに城マグネットも城スノードームもなかったのは残念(ノд-。)
仕方がないので(?)「徳川家康」という大吟醸のお酒を買ってしまったわwww
酒を抱えて車に乗りこんだら、次は岡崎市内にある本多忠勝の生誕地と言われる場所に向かいます。

つながってよかった瞬間


岡崎市西蔵前町にある本多忠勝さんの生誕地。ま〜場所を探すのにえらく難儀しました。
ナビではドンピシャに行けないから、近くまで行ったら、おもむろにタブレットを取り出し、
あらかじめポイントしておいたGooglemapのマイマップを見ながらGPS頼みでうろついての到着。

民家の敷地にあるので「見学させていただきま〜す」と声をかけて見せてもらいます。
この生誕地の碑は大正4年に子孫である本多忠敬氏によって建立されたものだそうです。

忠勝三昧だった瞬間


天文17年(1548)に松平家家臣、本多忠高の長男として西蔵前町で誕生した本多忠勝さん。
忠勝という名前には「ただ勝つのみ」という願いが込められたといわれています。
幼名は鍋之助といい、永禄3年(1560)13才で初陣して以降、生涯で57回の出陣でただの一度も
負傷しなかったといわれている徳川四天王のひとり。信長からは「日本の張飛」と称えられ、
秀吉からも「天下無双の大将」とまで言われた・・・と に か く 素敵すぎる武将よw

小さい頃に父親が討ち死にしている忠勝さんは叔父の所で育てられたと言います。
体も大きくて腕っぷしも強く、剛毅で負けん気の強いやんちゃな子だったんでしょうねw
子供の頃から家康に寄り添って数々の戦を戦い抜き、徳川政権の樹立を支えた忠勝さんは
上総大多喜10万石>桑名10万石へ。桑名にある菩提寺「浄土寺」で眠っています。


満足したところで次は、岡崎出張り前の松平氏本拠地「松平氏館」に行ってみます。




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2013.10.04 Friday 20:36 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 

沓掛城に登城!

[今川義元] ブログ村キーワード

北近江攻略から始まったゴールデンウィークの出陣、最後は沓掛城でしめくくりです。
唐突すぎだけど、清洲城で出陣前の信長銅像見たら、やっぱ桶狭間にも出陣しなきゃと思い、
でもこれから行くのは時間的に無理だから、今川義元が前日泊まった城でも見ておくか・・とw

ギリ日没前だった瞬間


清洲城から沓掛城・・地味に時間かかりますね。名古屋市内が混んでてびっくりしました。
見るに堪える明るさギリギリのタイミングで登城。現在は沓掛城址公園として史跡保存されています。
駐車場は10数台分あるけど他に車はなし。縄張りを見ると駐車場の場所は侍屋敷だったようです。

行き届いていた瞬間


簡単に縄張りを示した城址公園の案内図が完備され、なかなか管理が行き届いています。
ワタクシが立っている後ろが侍屋敷だった駐車場。案内版の奥にある平地も当時は侍屋敷。
左奥の方にこんもりなっているところが諏訪曲輪。侍屋敷側からは地続きになっていたようです。

ちょいと小さめだった瞬間


こんもりした諏訪曲輪、この写真では分かりづらいけど本丸よりは一段高くなっています。
侍屋敷から続いていますが、本丸側には空堀があります。名前から当時は神社でもあったのかな?

日暮れムード満載だった瞬間


空堀を挟んで向こう側が公園広場になっている本丸。沓掛城はマイナーだけど遺構が綺麗に残っているので、
暗くなる前に素晴らしい空堀を見ときます。かなり気合いが入ったサイズの大規模な空堀。
今は堀底にツツジだかの低木が植栽されてるけど、当時はそんなものはなくもっと深かったと思います。
案内図を見ると大手門と二の丸は南側。本丸北側は深く広い空堀と侍屋敷でディフェンスだったのね。

ななめ読みだった瞬間


普段は案内版とかネッチリ読んでくる方なんだけど、刻々と日が傾いているので巻きますw

近藤景春の時、 織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に落とされ今川勢に属し、
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いに信長がこの城を攻め落として、影春は戦死。
ちなみに、合戦前夜には今川義元が宿泊した。恩賞として簗田出羽守に与えられ、
赫赫云々・・天正5年(1577)川口久助が城主となり、関が原で石田三成に味方したため
捕えられて伊達政宗に身柄預けになり、その後、城は廃城になった、と。

登場人物もエピソードも地味すぎて泣ける。ワタクシ的には「今川義元最後の宿泊地」という点こそ
沓掛城最大の歴史的価値ありポイントに思うんだけど、案内版では「ちなみに」扱いなのねw

のんびりしすぎだった瞬間


空堀を渡って公園広場になっている本丸へ・・の前に橋の上から空堀をもう1度チェックしてみます。
広さはもちろんだけど整備されている今でさえ高さはそこそこあるのが分かると思います。
安心の防御力だったから今川義元は宿泊地にしたのかもしれないね。残されたことがブラボーです。

かなり早足だった瞬間


公園の広場になっている本丸跡。復元井戸がありますが本丸自体に特に目立った遺構はないみたい。
でも桶狭間前夜、今川義元が諸将を引き連れてここに泊まり、尾張をなぎ倒す夢でも見ながら
一夜を過ごしたのかと思うと感慨深い感じがするわね。お化粧なんかも念入りに落としたりしてねw

向こうに見える住宅街の方が当時、大手門から続く二の丸になっていたようです。

とらえ方は色々だった瞬間


大手門のあったあたりに城址碑が立っています。入口でななめ読みしたのと内容は似てるけど、
こっちの説明には「ちなみに合戦前夜には今川義元が宿泊した」のくだりすらありません。
豊明市教育委員会はたった1日の出来事より、城の歴史を重んじているのかもしれないね。

限界だった瞬間


夕暮れの木陰はさすが薄暗くてボケてるけど、帰りがけ本丸側から見た諏訪曲輪方面。
侍屋敷側とは違って、こちら側には規模は小さいながら空堀がめぐらされています。
当時も何かしら橋はあっただろうね。諏訪曲輪の方が本丸側より高くなっているのが分かります。

来てよかった瞬間


最後にもう1度、駐車場を少し歩いて本丸北〜東側にかけてのダイナミックな空堀を見ておこう。
当時はもっと深かったと考えて、この規模でぐるりでしょ・・・土木量にしびれますねw
思いつきで何となく登城したけど、来てよかったと思いました。


ゴールデンウィークの北近江攻略(帰りがけの駄賃登城もあるよ)はこれにて終了。


ワタクシ珍しく4日前後に1回の更新頻度で頑張ったにも関わらず、気付けばもう7月も下旬に( ;゚Д゚) 
この勢いで6月に登城した観音寺城安土城、そして7月初旬の地元埼玉攻めをエントリーして
すがすがしい気持ちでお盆休みの夏の陣に向かいたいと思っておりマスw ・・間に合わんか?



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2013.07.25 Thursday 12:54 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(愛知県) | 
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