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興国寺城に登城!

韮山城蛭ヶ小島から小1時間ばっかり走って、興国寺城にやってきました!

大手から登城の瞬間


根小屋という心躍る交差点の目の前に広がる興国寺城跡。駐車場は特にないんだけど、
公道から城跡の敷地に入ってしまえば、ジャマにならなきゃ適当に停めてオッケーw
三の丸は来た時通った道路に分断されているので、すぐ二の丸という感じになります。

目を瞠る瞬間


巨大土塁が見えます。右の高い方は本丸側で、左の本丸の西側にあたる部分は長い。
写真だとイマイチ迫力ないけど、実際に見るとデカいったらありゃしないのよ!

やけに肩身が狭そうだった瞬間


大手を進むと本丸跡に建つ穂見神社が見えます。その上が天守台。土塁やっぱ巨大。
当時、土塁の外側は沼地だったらしいから、きっと簡単には攻め込まれませんね。
神社右側に盛り上がってるのが石火矢台土塁。囲まれちゃって神社の存在感薄すぎるw

やる気を出してほしい瞬間


本丸に到着〜! 興国寺城は国指定史跡。「整備を進めてます」って看板あるけど、
進んでる感じはあんまりしないw というよりも何年か止ってるんじゃないの?

興国寺城は北条早雲が妹婿である駿河守今川義忠の戦死により起きた家督争いを
納めた功によって手にした北条家旗揚げの城。早雲さんは興国寺城を拠点にして
伊豆に攻め込み、堀越公方を滅ぼして韮山城を築き、のし上がっていったんですね。

対照的な2人だった瞬間


北条早雲碑と天野康景碑がありました。下剋上の早雲さんはクセモノでしょうが、
機を見るに敏でしたたか、加えて大事な場面で判断誤らないってのもすごいわ〜

天野さんは家康の家臣で興国寺城最後の城主。関ヶ原合戦後、1万石で城主となるも、
家臣が天領の農民を殺したことから改易され、興国寺城も廃城となりました。
改易って言ってもその前にそもそも天野さん逐電しちゃったらしいんだけどね・・

息切れを予想する瞬間


天守台に登ります。遠目で見てもメガ土塁だったけど間近に来るとさらに高し!
普通よりもだいぶ厚みもあってズッシリ感ハンパないからすごい迫力あるわ。

息切れしていた瞬間


土塁の端っこの方から息を整えがてら振り返り。どこをどう見ても分厚すぎw
向こう側から見たらどうか気になり、石火矢台土塁を反対側にちょいと降りてみる。

スケールがデカすぎた瞬間


ドーン! ただ高いっていうんじゃなく、みっしり詰まってる感がすごいので
近くにいると妙なプレッシャー受けるわw この先は石火矢台に続きますが、
さっき大手から見たので、息切れしながら降りた土塁を登って戻りましょう。

中途半端だった瞬間


天守台石垣がありました。詳しい説明がないのでいつ頃のものかはわかりません。
国史跡と言いながら整備はやっぱり途中っていうか、足りない感じがしてしまうわ。

妄想力が必要だった瞬間


メガ土塁のてっぺんにある天守台に到着! ちょいちょい礎石が残っています。
天守じゃなくても早雲さんの頃から見張り台とか何やら建ってたんでしょうね。

まぐれもある瞬間


天守からオドオドしながら空堀をのぞいています。空堀挟んで向こうは北曲輪。
上から写真の割に珍しく、深さやデカさが多少は分かる感じに撮れてるなw

決めつける瞬間


堀底へ降りる前に巨大土塁を見下ろします。どんだけ気合い入れて積んだんだ!
向こうに見える街の先は東海道に太平洋。早雲さんもきっと見たんだだろうね。

ガクガクしていた瞬間


天守跡を出て大空堀へ降りていきます。階段と手すりは一応あるけどこの急勾配!
高所恐怖症のワタクシにはこういうのもそれなりの恐怖!へっぴり腰で進みます。

北条イズム堪能の瞬間


やっと堀底に降りてきた。左側が本丸。右が北曲輪。囲まれてる感ハンパないw
デカいだけじゃなくカーブ入れ〜の、アップダウン入れ〜の、広く狭く幅変え〜の・・
さすがはボリ使いの上手い北条さん!! 堀底を歩きながらウキウキしていますw

怖すぎた瞬間


西側の大空堀が終わる辺りに来ると木が生い茂ってうっそうとした雰囲気に。
人がかがんで入れるほどの穴がいくつも空いてて、奥深そうなのが怖い!

見どころだった瞬間


大空堀の最後部分は「グリグリッと根性で抜いた!」という気合いが感じられましたw
この先を駆け下りれば当時は沼地だったはず。やっぱ案内版充実が必要なんじゃない?

感心しすぎだった瞬間


大空堀を戻って本丸の反対側にある北曲輪にも行ってみます。北曲輪に登りかけての
空堀と向こうの本丸を眺め「やっぱスケールがデカいわ〜」とまたまた心から感心。

振り返りながらスルッと草ボーボーの単なる野っ原のような北曲輪に入ったせいか、
ちょうど通った新幹線の音を聞きつけ、曲輪を分断する線路に駆け寄ってしまうw

何もかもが残念すぎた瞬間


・・・しーん。ボーボーの草をかき分け線路にかぶりついたのに見てると来ない!
しばしの後、時間ないからもういいや!と再び草をかき分けて曲輪を戻りかけると
新幹線が! 慌てて戻るも草多すぎて間に合わず・・マジ整備足りない(責任転嫁)

新幹線走るリアル風景なんてあんまり見ることないから見たかったんだけどなぁ。
見そびれたことが少々ショックで、北曲輪をろくに見てないこと忘れてたわw

見つけづらかった瞬間


ワタクシは韮山城の方が好きだわ〜と思いながら興国寺城を後にして、
ついでに近くの本法寺に立ち寄り、河毛重次のお墓参りをしていきます。
通りから入る小路が分かりづらくて、通り過ぎてから戻ってきての到着w

さっぱりしていた瞬間


アスファルトの坂を登るといきなり境内。法華宗のお寺なんだそうです。

天正18年(1590)小田原攻めの後、家康が関東に移封されると秀吉配下の
中村一氏が駿府を領し、興国寺城には一氏の家臣河毛重次が入りました。

本法寺は河毛さんが興国寺在城中に菩提寺として建立されたお寺と言われ、
お墓の他、遺品なども伝えられているのだとか。

興国寺城跡がすぐ向こうに見えます。当時はこの辺りも沼地の端っこあたりか
沼地の中か分からないけど、城域の一部だったのかもしれないね。

3分で終了だった瞬間


お墓は本堂の左手前にありました。関ヶ原で家康に味方した中村一氏は合戦後、
その功により伯耆国(鳥取)に移封となり、河毛さんも興国寺城を離れました。
その後、1万石で天野さんが入るも改易、興国寺城は廃城となったのは前述のとおり。

お墓の横に説明板があって色々書いてあるんだけど字がかすれすぎて読めず、
伯耆に行った河毛さんのお墓がここになった経緯とか分からずじまいですw

まぁほとんど興味ないからいいけど、立ち寄ったからにはちゃんと合掌です。


さてさて次は30分ばかし車を走らせ、前から行きたかった医王寺へ。
山本勘助のお墓参りに向かいます! こちらは参る気マンマンでw


医王寺にて山本勘助のお墓参り!


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2015.06.14 Sunday 13:13 | comments(2) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

韮山城に登城!

2015年の初登城はなんと3月に入っての韮山城から(遅っ)。

韮山郷土資料館に車を停め、観光案内のオジサンにお城の案内図をもらい、
ついでに登城口を確認すると、城池のほとりまで案内してくれたのでラッキー!
興国寺城は整備されてるけどこちらはまだ・・と話すオジサン少し寂しげ。

鼻息が荒かった瞬間


城池のほとりから見る韮山城の全景。右手が三の丸で左に二の丸、本丸が。
南北に横長い縄張になっています。もらった縄張図見ると当時は池のところに
出丸もあったみたい。戦闘の城・・ワタクシは北条の気持ちで登城するわよw

自転車が邪魔だった瞬間


城池沿いを進んで権現曲輪に続くスタンダードぽい登城口から入ります。

韮山城は文明年間(1469〜1486)堀越公方足利政知の家臣外山豊前守が
築いたのが始まりで、明応2年(1493)北条早雲が足利政知亡き後の
内紛に乗じて長男「茶々丸」を滅ぼし、本拠として整備しました。

後に北条氏は小田原に本拠を移しますが、韮山城は防衛の最重要拠点として存在し、
秀吉の小田原攻めでは籠城の末に開城。慶長6年(1601)廃城となりました。

興奮気味な瞬間


まずは堀切を通って権現曲輪跡の方に行ってみます。攻めのぼってくる敵は
権現曲輪と三の丸から狙いうちされちゃう感じです。整備具合は分からないけど、
遺構がよく残っているというので、久々に「北条イズム」が感じられそうです。

残ってるだけましだった瞬間


登りきるとテニスコートと若者たちの声が・・三の丸の部分だと思うんだけど、
こちらは現在、青少年育成のために健全な施設として使われているようです。

囲まれ感が居心地良かった瞬間


土塁に囲まれたテニスコート2、3面あったかな・・閉塞感あって集中できそうよw
土塁の向こう下には堀跡があるようなんだけど見えないので後で降りたら見ることに。

嫌いじゃなかった瞬間


北条早雲を偲んでのものと思われる黒松の植樹がありました。

早雲さんは伊勢新九郎盛時と名乗っていて、出家後は伊勢早雲庵宗瑞。
北条となったのは跡を継いだ氏綱さんからだと言われています。

出自などははっきりわかってないらしいけど、機を逃さず下剋上を成し遂げ、
後北条の祖となったすごいオヤジよw 東海道を見渡せる伊豆の要衝だった
韮山を押さえて城を築いた早雲さんは、関東進出のため本拠地を小田原に
移した後も韮山城を居城とし、永正16年(1519)ここで没しています。

体力温存は大事だった瞬間


二の丸、本丸へ行くので権現曲輪の方に進みます。テニスコート沿いに進んで
左の小路を入ります。まっすぐ行くと高校の校庭に降りてっちゃうから注意!

想像力大事だった瞬間


権現曲輪へ入る道には石が積んであるけどコレは遺構じゃないよね、きっと。
中世の城なので木の柵なんかがニョキニョキめぐらしてある様を想像してこ!

貸切でご機嫌の瞬間


権現曲輪に入ったところから振り返ったところ。丸見え防止がしてありますw
この辺に入ってくるとテニスコートの若者の声は聞こえず、とっても静か。

鼻の穴をおっぴらく瞬間


正面のこんもりが二の丸。右の方に遊歩道が見えるのでワタクシにも安心。
森林プラス苔でココ相当に空気がよいです。ストレスが少し軽減されるわw

勝手に想像する瞬間


権現曲輪ど真ん中。今は熊野権現社の境内になってます。お社がある高台の向こうは、
さっき登ってきた堀切の真上になるところ。昔は物見台とかあったのかもしれないね。

ディフェンス重視の瞬間


二の丸へ上る遊歩道のない方・・城池に降りていく方の堀切もついでに見ておく。
と言っても下までは降りないけどw ギューンと曲がった虎口でこちらも安心設計。

今は用なしだった瞬間


二の丸へ上ります。登らない方行くと城山を降りて蛭ヶ小島の方に行ってしまうよ。
頼朝と政子の銅像があるので、城を降りたら後で行くことにして今はとにかく上へ。

影も形もなかった瞬間


右手の方を見下ろすと韮山高校が見えます。あの場所は早雲さんが住んでいた
御座敷跡になるみたい。富士山が見えて空気もよく住環境良好だったと思われますw
攻められた時、こちら側には福島正則や蜂須賀家政なんかが布陣したみたい。

結構な高さだった瞬間


二の丸に到着!あんまり広くはない曲輪です。右側は城池がある方。
木が切ってあるので見やすいね。それなりに整備されてる感じです。

尾根感たっぷりだった瞬間


二の丸を出て本丸に向かいます。左の高いのが本丸。細長い城のため片側が急斜面の
へりを伝って歩くのがビビりのワタクシにはちょと怖い。見通しはバツグンだけど。

自分を盛り上げる瞬間


本丸に入ります。まっすぐ行っても結局入れるけど最高所を見ておかないとね。
要害堅固な城に鼻息荒く立てこもる北条の気持ちを盛り上げて、いざインw

案外狭かった瞬間


低いとはいえ山の上なので、本丸もそんなに広い感じはしないけど、
最高所だけあって周囲がバッチリ見渡せます。土塁もよく残ってました。

頑張っていた瞬間


曲輪ごとにはないけど、本丸にはちゃんと城の説明を書いた案内板があった!
いい城跡なのにモロ放置プレイみたいなところに比べれば頑張ってる方よw

勇将に思いを馳せる瞬間


城池の向こうに見えるのは天ヶ岳のきれっぱしw 韮山城は尾根続きなんだってさ。

小田原城の有力支城だった韮山城は天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際、
織田信雄、蒲生氏郷、福島正則、細川忠興ら4万の軍勢に囲まれました。
北条氏規(四代氏政の弟)は要害堅固な城を頼りに4千足らずの兵で籠城し、
3ヶ月も抵抗しますが、関東の諸城が次々と落城すると家康の説得により開城。
小田原後北条氏は滅びますが、和平派だった氏規は切腹を免れ高野山に入った後、
秀吉に許され、河内狭山藩1万石を与えられ明治維新まで存続しました。

城池の左の方には織田信包、蒲生氏郷、稲葉貞通が布陣していたようです。
氏規さんもこうして本丸から押し寄せる秀吉軍を見下ろしてたかもしれないね。

北条は氏政、氏直はまぁいいとして氏照氏邦、氏規さんは素敵w

さらに頑張っていた瞬間


本丸の奥の方は先細くなっています。ここも木が切ってあって見やすいね。
人様のブログを見ると前は木があったみたいなんだよね。伊豆の国市エライ!!

1人で盛り上がる瞬間


一番奥へ行くと看板ないから分からないけど、塩蔵ってのはこれじゃないかと
思われる場所が。確証ないけど北条イズムを勝手に感じて喜びますw

1人でニヤつく瞬間


本丸の先っちょの方、行き止まりだからと思って見逃すともったいない。
北条さんの城っぽいパーツがちょいちょい残ってて思わずにんまりしちゃうね。

ワタクシが城を降りる時、家族連れが続けて2組登ってきました。
韮山城〜人気なんじゃんw 草刈りや案内板の設置で整備頑張ってほしいわ。

登城完了の瞬間


最初に登った登城口の右手の方に廻り、三の丸沿いに残る堀を見に来て満足。
こちらの方は織田信雄が布陣していたようです。って信雄情報はどうでもいいかw


前から気になっていた韮山城やっと登城完了!新緑前でナイスタイミングね。
韮山資料館の案内所でもらったA3両面印刷の縄張図も分かりやすくてよかった!


この後は興国寺城に行く前に、せっかくなので近くにある蛭ヶ小島と
超ついでに北条時政(大嫌い)の墓がある願成就院に立ち寄ります。


蛭ヶ小島と願成就院の北条時政の墓〜に続く




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2015.05.12 Tuesday 16:19 | comments(2) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

丸子城へ登城!

誓願寺で片桐且元のお墓参りをした後は目の前の丸子城へ!

高めていた瞬間


誓願寺の目の前にある丸子城跡の説明版を読み、ワタクシ気持ちをアゲております。
丁子屋のとろろ汁が食べたかった・・お腹すいたわ〜力が出ないわ〜と思いながらwww

やっぱ萎えていた瞬間


丸子城のある三角山は標高136メートル。登りが苦手なワタクシにはこれでもキツさ充分。
動悸・息切れ・脚があがらない・・・ネガティブなシミュレーションをして覚悟を決めます。

言いわけがましかった瞬間


丸子城の登り口は2つあって、誓願寺側から登ると武田時代、駿河匠宿から登ると今川時代の
遺構があるんだけど、ワタクシは車をおいた都合で中ほどまでで戻ってくる感じで行きます。

行くしかなかった瞬間


案内も何もないけど登り口はここしかないから、とりあえず登って行きます。

BGMが浮かんだ瞬間


〜君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ歯をくいしばり 君は行くのか そんなにしてまで

しばらく階段が続きます。歩幅が合わなくて疲れます。頭の中で「若者たち」が流れ始めました。

不安になってきた瞬間


いよいよ階段もなくなりました。両サイドは斜面になってるけど遺構は何もないです。
息切れが激しくなると同時に、案内が出てこないので合ってるのか心配にもなってきます。

しょぼすぎた瞬間


ヨロヨロしながら登って行くと、ようやく案内板を見つけてホッとしたのと同時に、
あまりのハンドメイドさに「イタズラじゃあるまいな」と思ったのは紛れもない事実。

狭すぎた瞬間


しょぼい案内から少し登るとやっと出曲輪に到着。階段の踊り場みたいな感じです。
ここまで来ればチョロっと登れば、千畳敷と言われる本丸はすぐ。少々元気が出てきます。

乱れすぎだった瞬間


ゼエゼエしながら千畳敷に到着!! 歩みが遅くて休憩多いから長かったわ。(普通の人はたぶん15分)
ここは武田時代の主郭で、30×80mくらいの広さがある丸子城の中で一番大きな曲輪です。

丸子城は応永年間(1394-1428)築城とされ、今川方の斉藤加賀守の居城でしたが、
永禄11年(1568)武田信玄は甲相駿三国同盟,.を破棄して駿河に侵攻。
焼き討ちして今川勢を撃破すると、丸子城に重臣山県昌影を入れて守りを固めました。

天正7年(1579)勝頼の頃になると家康の西駿河侵攻に備えて丸子城は大改修されますが、
天正9年(1581)高天神城落城を前に徳川方に明け渡され、家康の関東移封に伴い廃城になりました。

ガン見の瞬間


武田氏時代に大規模な武田流の大改造が行われ、私たちが目にする丸子城が形つくられた。
丸子城での戦いの記録はなく、武田勢は退いたものと思われます・・などと書かれています。

大ざっぱだった瞬間


本曲輪の西側にある食い違い虎口。ここを少し下ると物見曲輪と丸馬出があるそうです。
そんなに詳しい縄張り図がないので手さぐりだけど、気が変わらないうち突撃〜!!

分かりづらかった瞬間


西側なんで思いっきり夕方の日差し逆光・・余計な影が多くて分かりづらいけど物見曲輪の跡。
腰曲輪ともよばれます。武田時代には城の西側に重点おいて改修されたんですね。

残念な人だった瞬間


物見曲輪から丸馬出の方を見たところ・・・のはずだけど写真だと何だかよく分からない(ノД`;)
下に降りて三日月堀は見たけれど、明るさや角度のイケてる写真がなく残念でした。

さらに残念な人すぎた瞬間


食い違い虎口の方に戻って二の曲輪・三の曲輪に向かうことにします。丸馬出の先を下ると、
まだ長大竪堀があったのに、気付いたのは帰宅後のこと。まったく下調べが足りませんでした。

単なる斜面に映っていた瞬間


本曲輪に戻って今度は東側にある平虎口。この先は5段の曲輪が下に段々になっているようです。
が、樹木越しに下をのぞいても正直、何段だか分からず、写真も何を撮ったやらという感じで。

甘くなかった瞬間


こちらは枡形虎口。写真は二の曲輪側から見たところ。ここから本曲輪に入ります。
枡形虎口の手前は少々広く見えるけど、どっこい二の曲輪へはすんなり続きません。

現場が一番だった瞬間


枡形虎口から下りてくると堀切があって、ここは橋台跡と案内版が立っていました。
当時はここに木橋がかかっていたみたい。しっかし写真だと高低差や規模はさっぱりだね。

軟弱だった瞬間


橋台跡のところの堀切。奥は本曲輪の外側の空堀伝いに、さっきの馬出曲輪に繋がるようです。
強靭な足腰とフロンティア精神があれば馬出曲輪からこっち伝いに二の曲輪にも来れたわねw

わき見が大切だった瞬間


二の曲輪は細長いです。たいして広くもない正直どうってことない空間です。
東側をのぞくと元々の山の急な斜面、でも西側をのぞいたら見どころがありました。

念入りすぎた瞬間


西側は本曲輪から二の曲輪と移動しても、引き続きとても厳重な感じです。
奥にずーっと続くダイナミックな横堀が見えました。西に意識集中。防御力高そうだ。

タイムリミットだった瞬間


二の曲輪から西を見つつ進んでいくと、しょぼい三の曲輪を抜け、北曲輪に到着。
この北曲輪と先にある大手曲輪側が今川時代の縄張りだと言われているようです。

この北曲輪の回りにはワタクシでもわかる土塁や武者走り、竪堀なんか見られます。
でもそろそろ山の中は薄暗くなって、ますます写真では竪堀なんか表現されず・・・

車を停めたところに戻る都合もあるので、大手曲輪には行かずワタクシここで終了。

丸子城は西側は防御施設でガード、北側は北曲輪、大手曲輪を配置して厳重に。
下調べ不足でも遺構は良く分かるし、縄張りの意図も分かりやすい城跡でした。


遅ればせながらこれで2013年の登城エントリー完了!! ・・Σ(゚Д゚)!遅っ

次回から2014年 正月登城の千葉攻略編!! 忠勝サマで年明けよw


良玄寺にて本多忠勝のお墓参り へ続く



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2014.02.28 Friday 12:50 | comments(4) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

諏訪原城に登城!その2〜本丸から諏訪神社

二の曲輪馬出、二の丸と来て次はいよいよ扇の要に位置する本丸へインします。

扇の要に迫る瞬間


二の丸から土橋を渡って本丸に行きます。土橋の左が5号堀、右が6号堀ということになってます。
本丸虎口・・本丸馬出口という案内板がありました。城門があったことが確認されてるそうです。

話にならなかった瞬間


左の5号堀は「三段鍵堀」といって底が三段の珍しい堀ということなんですが・・・
草木がボーボーで全然わからない場合はどうすればいいんでしょうか? 整備してほしいわ。

守りは万全だった瞬間


本丸はなかなか広くて何百人でも入れそうな感じ。本丸の周囲には土塁がめぐらされていて、
写真正面のあたりは天守台地という案内板があり、2層の矢倉があったんだそうです。

高所恐怖症だった瞬間


本丸の東側には搦手口がありました。搦手外郭は食料・衣料・飲料水 ・武具等の運送等
主要な役割をしていたと案内板にありました。こっち側は城の背後で断崖絶壁なんですが・・

おっかなびっくりだった瞬間


|д゚) ・・・・・ジーーーッ すごいことになってます。堀切だかみたいのもある急崖。
まだこの下に内堀とか土塁なんかがあるそうです。立ち位置悪いのか見えなかったけどさ。
これを降りていくと金谷側に出るそうですが、ワタクシがこんなの降りてまた登るはずなくw

命がけすぎた瞬間


そのまま進んで諏訪原城本曲輪から金谷の方を監視しときます。大井川鉄道が丸見え!
地続きの二の曲輪馬出の方と違って本丸側はこの高さで断崖絶壁・・昇降は難儀だわ。
諏訪原城の城兵や小山城に逃れたという今福さんもこの搦手を転がるように降りたのかな。

タイミングが変だった瞬間


本曲輪も出口になろうかというところで出てくる案内板。城址碑はありませんね。
ここを過ぎると本丸を出て、いったん堀底へ降りていく感じになります。

足元注意の瞬間


本丸から降りて行く時の左側は急斜面。この下は水の手曲輪になっているようです。
曲輪といいつつ大規模な空堀のような空間みたいで今回は行かなかったんだけど。

水量の豊富な城らしかった瞬間


堀底にはカンカン井戸がありました。本曲輪と三の曲輪の間にある堀切の底よ・・なんで?
井戸の中は石積みだったけど、あんま覗かなかったので深さや水はわかりませんでした。

土塁が廻っていた瞬間


堀底を登って三の曲輪に出ました。土塁の向こうが二の曲輪で続いているみたいな感じ。
案内板には食糧・武器・弾薬庫を備えた重要な所だと書かれていました。

何が何でも遮断だった瞬間


三の曲輪と諏訪神社のある大手馬出との間には巨大空堀と土橋がありました。
この外堀は壁のように切り立った構造になっていて「壁立」と呼ばれるそうです。

驚嘆の瞬間


三の曲輪沿いにある巨大な外堀は4号堀。案内板によると・・三の丸を守り湧水による水堀で、
当城で最も大きな堀。長さ221m、幅14.5m。こんなサイズの空堀がこれ1つっていうんじゃなく、
似たような規模の堀がたくさん・・人力だけで掘るってどんなんだ!と思って改めて唖然。

勝手に納得の瞬間


諏訪神社が建つ丸馬出。城の名の由来となった神社で武田家の守護神諏訪大明神が祀られています。
当時と場所は違うんでしょうけど、これがあると川じゃなく「武田の城」って感じですね。

首をかしげた瞬間


こぎたないけど堀まで書かれた城跡図はここにありました。ワタクシが印刷したやつはコレ。
いちおう順路どおり廻って最後にここに着いたはずなんだけど、なんかズレてるような・・

やっちゃったかもだった瞬間


本丸になかったな〜と思ったら城址碑も諏訪神社の入り口に立つ鳥居の横にありました。
大手口もすぐこの先なので推奨順路じゃなく、ここから行ってもよかったのかもしれない。

たぶん口が開いていた瞬間


丸馬出前の三日月掘は長さ89.7m。幅15.3m。12号堀という名前で呼ばれています。
当時は水堀だったそうです。それにしてもこの土木量・・うっとりで見飽きないですw

大満足だった瞬間


丸馬出の南にある大手口まで来て諏訪原城の登城完了!また茶畑のところに出て駐車場へ。

は〜すごかったわぁ。これだけの城がありながら、すぐ落城ってどうなってんの!! 
と思いたくなるほどに。高天神城も10ヶ月頑張った。二俣城も半年は頑張った。
諏訪原城は広いから、そもそも論で規模に見合う兵が置かれてなきゃ機能しないとしても、
援軍・補給なしの中でそれなりに守るには、城将の資質がやっぱり大きいんだね、きっと。


登城してみて、絶対に見とかなきゃならない城だったと思いました。鼻息荒く来て正解w

縄張図を持って整備されて見やすい城跡を廻ると、馬出や三日月堀の形はバッチリ分かるし、
配置された意味も、まためぐらされた堀と曲輪の防御や土木量もとてもよく理解できる。

縄張をした馬場さんは3年後には長篠の合戦で討死をしてしまうから、これぞ晩年の集大成。
馬場さんがもし長篠で討死・・いやもっと遡って、もし勝頼が馬場さんの意見を取り入れて
設楽ヶ原に誘い出されず、長篠城を強引に落として諏訪原城を含めた拠点をしっかり固めてたら
歴史は変わったんでしょうか・・・ 歴史にイフはダメだけど、つい考えてしまうわ。


横須賀城高天神城、諏訪原城と回って勝手な妄想しまくってとっても順調〜!! 
この後は武将の墓参りを2つばっかりササッとして、ラスト丸子城に向かいます!


長慶寺にて太原雪斎のお墓まいり に続く


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2014.02.09 Sunday 14:02 | comments(1) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

諏訪原城に登城!その1〜大手曲輪から二の曲輪

高天神城に続き、これまた武田VS徳川の戦いの舞台だった諏訪原城にやってきました。

整備されている瞬間


諏訪原城は国史跡なので広くはないけど、目の前に見学者用駐車場完備がありがたい。
ただ気軽に見れる国史跡のせいか、子供づれ家族やら熟年夫婦やら何気に人が多いです。

ざっくり確認しとく瞬間


駐車場のところには案内図もありまして・・諏訪原城は広いしたくさん曲輪もあるので、
観光で来て順路を確認するだけならいいけど、配置を覚えて廻るのはとっても大変です。

もれなくゲットの瞬間


なのでパンフレットをもれなくもらっていきましょう・・ただこちらも案内板同様、
曲輪の配置しか書いてないんだけど、城の特徴や見どころが書いてあるのはよいです。

準備が大事だった瞬間


ワタクシはパンフレットがあるとは思っていなかったので少し詳しい縄張図を持参。
帰宅後に撮った写真なのでシワシワ・・・つど確認しちゃポッケに突っ込むのでねw

お茶は飲まない人だった瞬間


では順路に沿って見ていきましょう。まずは今は茶畑になっている大手曲輪。
徳川時代に作られた曲輪で、茶畑は維新後、旧幕臣が移り住んで作ったんだそうです。

首をかしげた瞬間


茶畑の中には「武田方城主 今福浄閑戦死墓塚」の碑が立っているのですが・・

今福友清は武田の譜代衆で石見守と呼ばれ、出家して浄閑斎を名乗った人です。
天正3年(1573)の川による諏訪原攻めの時に城将だったのは浄閑の子の丹波守で、
討死したとも、小山城に逃れて後に久能山城主になったとも言われています。
・・まぁどうでもいいんだけど、それにしても何でわざわざ茶畑の中に?って感じでw

鼻の穴がふくらんでいた瞬間


二の曲輪と隔てるデカい外堀を眺めつつ、順路通り進んで二の曲輪馬出の方へ行きます。
二の曲輪の馬出は諏訪原城の見どころのひとつ。規模がすごいらしいので楽しみ!

うっとりしていた瞬間


左手には武家屋敷跡とか馬場跡もあるんだけど、右手の外堀に比べたら単なる「跡」。
めぐらされた堀やその規模に武田築城術・・馬場信春さんの縄張に感じ入ろうとする次第w

鼻息が荒くなる瞬間


二の曲輪中馬出に到着! 二の曲輪を守る三号堀と名付けられた堀がめぐらされています。
せっかくなので帯曲輪を通って、この先にある二の曲輪北馬出の方に行ってみることにします。

気勢がそがれる瞬間


堀底には12月なのにしぶとく緑が残っているので深さが分かりづらいけど10m近くはあるかと。

諏訪原城は天正元年(1573)武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするため、馬場信春に命じて
築かれました。駿河から遠江に入る要衝の地にある牧ノ原台地に作られた諏訪原城は
高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站地としての役割を担ったそうです。

崩れそうになかった瞬間


土橋手前の深さ、向こうの堀の規模・・いちいちなんてデカいんだ! 土橋も頑丈そうだ。

牧ノ原台地の先端に築かれた諏訪原城は後ろ堅固の城。今いる二の曲輪馬出付近は前面で
平坦になっているため、敵を迎え撃つための防御がとても厳重です。
対してこれから見に行く本丸は背後が断崖絶壁。本丸から扇状に曲輪が配置されています。

ダメすぎた瞬間


北馬出から駿河方面を見たところ。奥に大井川が流れているはずだけど見えませんわ。
前面は平坦だけどセキュリティ万全、背後は直接本丸だけどトンデモない断崖絶壁・・

この諏訪原城を家康は長篠の合戦で勝利した1ヶ月後には包囲しています。
しかし長篠で大敗した武田方に援軍や補給を送る余力はなく城は2ヶ月後、落城。

諏訪原城攻防で大規模な戦闘ってあったのかな? 城兵はバンバン逃げたらしいです。
今福さんは討死とも言われますが、一方で小山城に退却したとかも言いますしね。
でもどちらにしろ勝つ見込みなさ過ぎて士気激低・・死にもの狂いの攻防じゃなかったかと。

お約束だった瞬間


武田流築城術の典型と言われる城らしく、馬出とセットで三日月掘。
左に見えるのは中馬出。木が伐採されているので分かりやすくていいです。

残念な人だった瞬間


三日月堀の深さを撮ろうと真剣にやってますが腕前に加え、日差しの方向もよくなかったよ・・

諏訪原城を手に入れた家康は牧野城(牧野原城とも)と改名して城を改修し、
駿河方面の監視とともに、高天神城攻略の拠点としても機能しますが、天正10年(1582)
武田氏が滅亡すると役割を終え、天正18年(1590)には廃城となりました。

コンクリだった瞬間


二の曲輪の前面にある馬出しを廻ったところで、土橋っぽいのを渡って二の曲輪虎口へ。
舗装されてるんだけど、土橋の補強なのか、そもそも土橋じゃないのか分かりません。

分かりづらかった瞬間


土橋(?)横には二号堀と名付けられた空堀が。今見て来た馬出と二の曲輪の間にめぐってます。
ここもしぶとく草木が残ってるので規模が分かりづらいけど、まぁ簡単に攻め入れないですよとw

念入りすぎた瞬間


二の曲輪はメガ外堀に面しているんだけど、曲輪内にもさらに土塁があるという。
この奥にある本丸の方が、堀越しに直接見えないようにしてるってことなんですかね。
副将それに準ずる武士の詰所。武器保管や来城者の控所、屋敷もあったそうですよ。


思いがけず長くなってしまったので諏訪原城は2回に分割・・まだ半分いったかどうか。
ふふふ・・やっぱ詳しい縄張図はマストだわw これから扇の要、本丸へ向かいます。

諏訪原城に登城!その2〜本丸から諏訪神社編 へ続く



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2014.02.02 Sunday 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

高天神城に登城!

横須賀城がロックオンしていた高天神城にやってきました。

ナビがイケてなかった瞬間


ワタクシは追手門から登城したかったの。ナビの史跡ジャンルで高天神城があったので
言われるままに走って到着→張り切って車を降りたら、なんとまさかの搦手側・・Σ(゚ロ゚;)

切り替えが早かった瞬間


今から南口探してうろつくのも面倒だし、よく考えたら勝頼が攻めこんだのは確か北側から・・
と怪しく勝手に納得して、搦手門跡を通り、勝頼気分で気合いを入れて登って行きます。

デカすぎた瞬間


高天神城の全貌はこんな感じ・・ここに搦手口書いてないから現在地がおかしなとこにあるけど、
まずは井戸曲輪の右側あたりにある切れ込みみたいになってるところを目指すのね。
そっから本丸側へ行くのと、井戸曲輪から西の丸は二の丸やらに行くのと二手に分かれるという・・

息切れしていた瞬間


高天神城は普通に山城・・山城好きのくせに登りの苦手なワタクシは身軽なくせにもう苦しい。
勝頼は・・大将自ら攻めこんじゃいないだろうけど、武田軍はえらい難儀な思いをして戦ったのね。

足りそうになかった瞬間


搦手口から上がってくると途中に三日月井戸がありました。武田勢が高天神城に籠城した時、
水乞いの祈祷をこめて作られたものなんだって。今も岩から染み出す水で枯れないそうです。

気になる瞬間


小さいし井戸には見えないんだけど形がちゃんと三日月なの。武田って三日月好きだよね。
何か意味あるの? 誰の趣味・・てか誰が三日月好きなの? ちょっぴり気になります。

運命の別れ道だった瞬間


三日月井戸の先に進むと、とりあえず本丸方面と西の丸方面に分かれる部分に到着!!
写真左に行くと本丸、右に行くと西の丸、まっすぐ行くと追手門の方に行くんだけど、
ワタクシが登城した2013年12月は遊歩道が崩落していて通行止めになっていました。

うるおいがなかった瞬間


ワタクシはとりあえず本丸を目指しますが、その前に大河内石窟を見ていくことにします。
それにしても高天神城はゴツゴツしている上、カッサカサ。激しい戦いの舞台らしい感じです。

ディフェンス重視だった瞬間


上がって的場曲輪から下を見下ろしたところ・・・尾根に雛段城に曲輪がある高天神城。
堅城過ぎて信玄が落とせなかったほどだから、勝頼にしろ家康にしろ攻める側は難儀すぎですね。

高天神城は戦国期、「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた重要拠点にあったため、
駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。

高天神城は元は今川氏の城でしたが、今川氏滅亡によって城代小笠原長忠が家康方につくと、
元亀2年(1571)、武田信玄が2万の兵を率いて侵攻、しかし守りが固く信玄は撤退しました。
信玄の死後、今度は天正2年(1574)に勝頼が2万の大軍で攻めこみます。小笠原長忠は籠城して
援軍を待つものの家康は来ず、城兵の命を救うため勝頼から出された和議に応じ開城しました。

頑固一徹すぎた瞬間


大河内政局石牢道入り口。大河内さんはと徳川方の軍監で、小笠原長忠が開城した時に
ひとり城に残って武田の服従命令に従わなかったため、石牢に幽閉されてしまった人です。

解脱していた瞬間


これが大河内さんが幽閉されていたという石牢・・狭っ!! 家康が高天神城を奪還する
天正9年(1582)まで、なんと7年もこんなところに閉じ込められていたんだそうです。
助け出された時には歩行困難・・・大河内さんの義に感じた武田の軍監、横田甚五郎が
こっそりもてなしていたらしいけど、それにしたってねぇ・・いったいどんな精神力が?
従ってしまえば苦しい思いをしなくて済んだのに・・生粋の徳川家臣って感じだね。
同じような思いをしながら黒田官兵衛ほどメジャーじゃないのが気の毒なくらいだわ。

ちなみに武田軍監の横田さんは鬼美濃こと原虎胤の孫。武田滅亡後は徳川方について
旗本になります。すんなり徳川についたのは大河内さんのことがあったからなのかもね。

すさまじすぎた瞬間


大河内石窟から戻って今度は本丸に向かいます。本丸虎口もカッサカサです。
岩盤の上に乾いた固い土があるような感じだから建物作るの大変だったかもしれないね。

高天神城を手に入れた勝頼は改修を行って守りを固め、遠江の防御拠点とします。
しかし天正3年(1757)長篠の戦いをきっかけに武田家が衰退すると家康は高天神奪回を開始。
天正8年には横須賀城他、6つの砦を築いて高天神城を包囲し、補給路を断って兵糧攻めの態勢を固めます。

城将岡部元信は何度も援軍要請をしますが、当時、北条にも攻められていた勝頼に余力はなく、
孤立無援のまま10か月が経過。降伏を申し出るも家康に拒否されると、岡部元信以下800人は
城外へ総攻撃を行い、ことごとく討死しました。高天神城はこれを最後に廃城となりました。

微妙だった瞬間


すっごい広いってわけじゃないけど城内では一番大きい本丸。周囲には土塁も残ってるんだけど、
削られちゃったのか何なのか分からないけど、盛が小さくて「何とか残ってます」くらいです。

続・微妙だった瞬間


本丸にある城址碑がこちら・・汚れがひどくて全く読めないけど「高天神城址」って書いてあるの。
皇太子殿下成婚記念で建立したらしいんだけど・・それは城址碑じゃなくてもよくないかってw

人生を学んでいる瞬間


案内板には「徳川方で小笠原さんが守って落城>武田方の城になるけど兵糧攻めで全滅」の流れが
ざっくり書かれています・・武田全滅の時、城兵は最初1000いたのが最後に800だったそうです。
援軍の見込みも食料もない上、降伏すら許されない。そして横須賀城から出張っているのは本多忠勝だ。
そりゃ逃げたくもなる。惜しまにゃいかん名がありゃ別としてw 逃亡兵200は少ないのか、多いのか・・

余談だけど高天神への援軍を出すか出さないかって時、真田昌幸は重臣みんなが反対する中、
一人出すべきだって主張したんだよね。智謀の人はやっぱ人の心の動きも把握してるのよ★

助けてくれない前提なら誰も籠城なんてしない。すぐ降伏開城されたら城はどんどん取られてしまう。
だから助けようとする行動見せるのが大事なんだよね、結果、間に合わないとか行けなかったとしても。

謎すぎた瞬間


御前曲輪に来ました。本丸と続いているけど本丸より一段高い東側の最高所にある曲輪です。
この下にこれから行く三の丸があります、追手から登ると三の丸、御前曲輪、本丸になってるので、
御前曲輪はなかなか大事な曲輪かと。たいして広くもないけど高所ってのがきっとポイントね。
小笠原与八郎長忠と奥方のパネルがあります。小笠原チョイスも顔出しパネルってのも微妙なw

攻めにくそうだった瞬間


御前曲輪から三の丸に行く途中は細い道で片側はこんな断崖。帯曲輪みたいのがあるけど絶壁です。

台無しだった瞬間


三の丸に到着! 狭いところにトイレとか休憩所の建物が建ってて雰囲気がイマイチです。
周囲には本丸同様に土塁が残っています。でも奥とか見えるかな?土塁感は割とあるかと。

転落注意だった瞬間


三の丸から城東側に広がる風景。高天神城は標高132メートル。高さとしては高くないけど、
西以外は断崖になってるし、尾根も入り組んでるし、やっぱり険しいという印象が合いますね。

スルーを決める瞬間


三の丸から最初に来た二手に分かれるところに戻り、今度は城の西側の方を見に行きます。
まず井戸曲輪。真ん中が井戸、左奥の階段上がると西の丸跡で今は高天神社があるようですが・・パス。
そして階段の左奥を進むと甚五郎抜け道というのもあるのですが、それもパスしておくことに。

甚五郎抜け道というのは、大河内石窟のところで紹介した武田の軍監横田甚五郎さんが、
高天神落城を勝頼に知らせるために通った道なんだそうです。犬戻り猿戻りと言われる難所で
ワタクシは写真を見て超悪路だと知っていたので、抜け道はどうでもいいわ〜と思ったの。

死闘を思う瞬間


高天神城合戦将士英魂之碑と書かれた石碑がありました。激戦が繰り広げられた高天神城では
名のあるなしに関わらず、たくさんの兵が散っていったんだよね・・いや、戦いはみんな同じか。

危険すぎた瞬間


それでは井戸曲輪の右手に進んで二の丸方面に行ってみましょう。「ガケ地危険」の看板あるけど、
この道がまた細くて、右側は搦手口方向で断崖絶壁・・マジしゃれにならない感じなんです。
攻めこむ方も大変だけど、城兵だってアワアワなってたら足踏み外しかねないデンジャラスさ。

しっかりしていた瞬間


奥に縦長で斜面になってる二の丸は狭い感じが。高天神攻めは西側が激戦だったと言います。
三方が断崖絶壁で西だけ尾根続きになっているので、攻めるとしたら西が一番マシだったのね。
縄張を見ると尾根伝いに曲輪を次々配置して弱点はちゃんとカバーされてはいるみたいだけど。

まるで付属品だった瞬間


二の丸の北側に超小さい袖曲輪があって、その北にさらに堂の尾曲輪が続くんだけど、
堀切があって直接行けないので、袖曲輪から下に降りてそれをちょいと見てみましょう。

フォーカスされていた瞬間


右が二の丸、左が袖曲輪。尾根伝いに上ってきてもそうそう簡単に通しませんよって感じで。

降りたすぐ下にあるのが本間八郎・丸尾修理兄弟の供養塔。二人は天正2年の勝頼による高天神攻めの時、
堂の尾曲輪で指揮をしていた兄の本間八郎が朝日にあたって輝いた兜を目印に狙撃され、後を引き継いだ
弟の丸尾修理も指揮の最中、鉄砲で撃たれて亡くなったという・・・武田も鉄砲バンバン使ってたんだね!

力が入っていた瞬間


でこれが袖曲輪と堂の尾曲輪を遮断する堀切・・すごい!! 尾根を切り開いて作ったって。
普段はここに橋が架かっていて、今は無理だけど当時は曲輪間の行き来ができたんですね。

もはや弱点ではなかった瞬間


その手前には土橋があって両サイドは空堀になっています。堂の尾曲輪は横長の曲輪で、
曲輪にそってずっと空堀が続いていて。二の丸から先は縦に曲輪が配置されているので、
西側の斜面から登ってきた敵に備えて、そちらに面する部分に空堀や横堀があるんですね。

探しちゃった瞬間


最後にやっぱり追手門も見たいな〜と思って、観光マップを片手に南口駐車場を探しましたw
方向音痴まで行かない(と思ってる)けど、かなり怪しいワタクシにしては上出来だったわ。

マメだった瞬間


三の丸はさっき見たから、この図で追手門のところまで行けば完了ということでw 
高天神城は国史跡ってことで案内板やら何やらが充実してるのはありがたいです。

狭すぎた瞬間


細い山道を少々進むと、ほどなく追手門跡に到着! スペースは案外狭いです。
天正9年、武田方が討死を決めた最後の出撃の時に徳川方が追手櫓門を焼き落としたそうな。

手薄そうに見えた瞬間


登ってくると追手門のところで急にギューンとカーブしてますね。追手口はこの門があって、
その先はもう三の丸、御前曲輪、本丸になるのが心もとない感じがするのは素人だからかな。

気合いは感じられた瞬間


カーブを登ったところに着倒櫓跡という狭いスペースがありました。着いたら倒すってことかw
追手門を抜けてカーブを進んで侵入してくる敵をここで待ち構えるという感じなんですね。
左手の土塁はなかなか盛られてます。曲輪ってほどの場所じゃないにしろ、この頭上にも
また狙いポジは用意されてたんだろうね。そんなに簡単に突破できる作りなはずないもん。


二俣城横須賀城、高天神城、そしてこれから行く諏訪原城と武田VS徳川攻防の舞台の中で
特に実際に体感したいと思ってた城が見れました。見知っていたことがさらにリアルに思えました。

武田VS徳川って戦いの中に色んなドラマがあって、どちらも命がけで必死に戦っていながら、
結局、最後に笑ったのは徳川だから、勝頼残念みたいになりがちなのが少々悲しい感じ。
ワタクシあんま家康自体は好きじゃないし、勝頼もダメと思わないので思うところもありますねw


と思いながら次なる諏訪原城へ向かいます。武田のお城・・また川にやられちゃうんだな(´Д`)


諏訪原城に登城!〜その1 大手曲輪から二の曲輪に続く




2014.01.27 Monday 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

横須賀城に登城!

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2013年最後の出陣は静岡攻略。静岡は広いし城も多いから何度も出陣しているけど
まだデカブツは残っていて・・今回は横須賀城、高天神城諏訪原城丸子城攻めです。

油断していた瞬間


横須賀城は国指定史跡だからナビに出るので、言われるまま走って到着でひと安心と思いきや、
横須賀城と言ったらコレ! が目の前にない・・どうやら裏側の駐車場に誘導されたようです。

寒すぎた瞬間


シミュレーションしてたのと完全に逆だけど、気を取り直して北の丸から登城することにします。
縄張図によれば右手にあるのは本丸。まずは北の丸目指して梅林(?)の中を進んでいきます。

登る元気はなかった瞬間


北の丸に到着!本丸の北にある広い曲輪です。奥の搦手方向にあるこんもりは松尾山。
松尾山の向こうには高天神城があり、当時はそれに備えた防御施設として機能していたそうです。

庶民の考えだった瞬間


本丸に沿って右に曲がります。横須賀城と言ったらコレ!な玉石垣を見るには正面に行かねば・・・
正面じゃないここらは土塁です。費用や手間の問題かしら? 横矢がかかって厳重には違いないけど。

もやっとした瞬間


土塁際にお姫様と書かれたワケあり気な社がありました。が案内板などもなく意味不明。
後で調べたけど、江戸時代に亡くなった悲運のお姫様を地元の方が祀っているとしか分からず。

瞳孔が開く瞬間


ようやく玉石垣が見えてきました。本当に丸い石よ! 苔むした野面積みの石垣みたいに
ホレボレする感じはないけど、よく積んだわ〜と思って思わず凝視してしまいます。
ワタクシの後ろは三日月堀があるんだけどそれは後にして、とにかく本丸に行ってみよ。

分かりづらかった瞬間


スロープになっているところを登ると、玉石垣の手前に玉砂利敷き遺構が見えました。
発掘で見つかったもので、当時は建物内の土間であったと考えられているんだそうです。
ただし本物は埋戻されていて、今見えるのは発掘状態を表現する表面表示なんだって。

想像しにくかった瞬間


城の中で一番高い本丸。築城当時ではないと思うけど、四層の天守が建っていたそうです。
天守跡の北には土塁が築かれています。天守に使われた瓦や鯱が出土したんですってよ。

危なかった瞬間


横須賀城は天正6年(1578)武田方に奪われた高天神城奪還のため、徳川家康が大須賀康高に命じて
築かせた城。天正9年(1581)に高天神城を奪還すると、横須賀城が遠江東部における拠点となり、
280余年で8家、20代の城主を数えて明治維新を迎えます。明治維新の廃城後、建物や土地はもちろん、
石垣や樹木に至るまで民間に払い下げられ、堀も埋め立てられますが、昭和46年に本丸跡の宅地化が
持ちあがったのを機に住民から声が上がり、昭和56年、国の史跡に指定されました。

お金がかかっていた瞬間


本丸跡には横須賀城の非常にわかりやすい立体模型が設置されています。さすが国史跡!!
画面右奥・・松尾山の先に高天神城があったのでこういう縄張になってるんですね。
模型を見ると東西に長いけど、西に広がる二の丸やら何やらは後からのものみたいです。

バランスが心配だった瞬間


天守跡には礎石が残っています。建坪40余坪の四層天守。建物跡は東西六間×南北三間半が
残っていると案内板に書いてあったけど想像しにくいから復元予想図も描いてくれるといいのに。

心おどる瞬間


本丸東側から本丸下門あたりを見下ろしたところ。土塁も石垣も綺麗に残っていてよい感じ!
ただ城本とかに載ってるベストショットな角度はここじゃないので、西の丸に行ってみましょう。

へばりついていた瞬間


西の丸に廻ってそこから階段を下りかけつつ、上手い角度を探して土塁にへばりつく・・とw
本当にどっから見てもまあるい石垣です。天竜川の河原の石を使って野面積みしたのだとか。
丸い石を野面に積むってけっこう難易度が高い気がするけど、現存って何だかすごいよね。

満足すぎた瞬間


もっと広い視野で撮りたくて、土塁にへばりついたまま帯曲輪の方に下がってみましたw
これだよね〜ザ・横須賀城の風景。ワタクシが好きな苔むした野面の石垣とは違うけど、
これはこれでナイス景観!と思う。珍しい玉石垣、ちょっと日本の城じゃないみたいだ。

お上品だった瞬間


本丸南下の入り口に降りてきました。当時はここに城内最大の櫓門が建っていたそうです。
玉石垣は石ひとつひとつが小さいので威圧感は少ないけど、高いところでは7〜8mかそれ以上、
高く積まれているところもあって石垣としての機能はバッチリね。建物がある姿も見たい気が。

少々キモかった瞬間


意味ありげな石が気になって側まで見にきたけど、説明はなく何だかわからず首をかしげつつ、
近くで見た玉石垣のまるで石が生えているかのような様子に気づいて、少々後ずさります。
ワタクシ、ハチの巣とか小さい丸いタイルが敷かれた風呂場とか丸の集合系ダメなのよ。

脳内復元に励んだ瞬間


本丸南下の右側の方・・・上に見えるのが本丸。発掘調査で塀に使われた瓦が石垣から
落下した形で出土したんだそうです。玉石垣に建物があるとさらに雰囲気違うんだろうね。

丸くてもガッチリだった瞬間


でこちらが本丸南下の左側の方。この辺は大井川の石を使って復元整備されているようです。
石垣の裏には水や力を分散させるため詰めた小石、裏込の栗石跡が見つかっているのだとか。

規模は当時のままだった瞬間


本丸に戻ってぐるっとまわり、最初に見たスロープを降りて三日月堀に来てみました。
右手の方が現在の城域。縄張を見ると今は住宅街になっている左手に当時は曲輪があって、
その向こうには外堀が囲んでいたんですね。この堀は最初に登った本丸へのスロープがある
北側中段に面したところ。念には念を入れた感じなのかしら? 小さすぎる気がするけどねw

いきなりすぎた瞬間


三日月堀に沿って最後にもう1度、ザ・横須賀城の風景を見に行って横須賀城攻略完了にします。
堀沿いの道には地蔵さんたちがずらーっと並んでいて、唐突なもんで少々びっくりしました。

ワタクシはワイルドだった瞬間


ヤブがあるので堀の横っちょにある木の根元によじ登り、ザ・横須賀城をもう1度w
横須賀城って江戸期には2万石〜6万石だったらしいから、こう見ると分不相応な感じだけど、
すぐ近くにある掛川城で東海道を押さえ、海側路を横須賀城が守る役割だったというから、
きっと幕府の援助とかもあったんだろうね・・お、だから搦手側は土塁でコスト削減かw


横須賀城・・寒い中、朝早く起きてきた甲斐のあるお城でした。貸切で堪能言うことなし。

この後は横須賀城にロックオンされた高天神城諏訪原城丸子城へ鼻息荒く登城するわよ!
が、その前にすぐ近くに横須賀城の不明門が移築されている撰要寺に寄ってみることにします。


撰要寺にて大須賀康高のお墓まいりに続く


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2014.01.17 Friday 17:40 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

二俣城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

高根城攻略の後は東名高速を目指して天竜川沿いを南下しつつ、二俣城に向かいます。

戦国小説などを何度となく出てくる二俣城。頭では分かるけどいまいちイメージしきれない
力攻めで落とせない要害ぶりや、ひそかに好感を持っている依田信蕃のことを妄想しに行くのですw

飽き飽きしていた瞬間


足助城から始まって、この日はずーーーーと何もない山の中ばっかり走ってるからいい加減飽き飽き。
車で移動していても距離は長いわ、何もないわで萎えるのに、戦国時代の方たちはご苦労なことです。

モンスター河川だった瞬間


写真奥の方が下流。長野県から愛知県、静岡県と流れて太平洋に注ぎます。見るからに深そうな・・
急峻な地形なので昔はえらい水害に悩まされたそうです。水量もっと多かったら確かに恐怖です。

地味な佇まいだった瞬間


ナビに出てくる二俣城には楽々到着w 車だと駐車場の関係で北曲輪からの登城になるようです。
北曲輪、本丸、二の丸、蔵屋敷、南曲輪と続く縄張り。左側は北曲輪、右側に天竜川が流れてます。

ドキッとした瞬間


足を一歩踏み入れると突然、二俣城についてのアナウンスが結構な音量で流れ始めたのでちょいと驚き。
センサーがついていて人が通ると自動で始まるようになっているようです。びっくりしたわ。

百聞は一見にしかずだった瞬間


北曲輪に沿って歩き本丸を目指します。腰曲輪の木々の隙間からデカい天竜川の流れが見えます。
天竜川と二俣川に挟まれた天然の要害。川幅や川との高低差を見るとその意味がよく分かります。
小説で読む武田軍がいかだを流して水の手断ち切る時の描写が、頭の中で結びついた感じがする。

人間の目は優れていた瞬間


本丸の手前には堀切があるのですが・・・草が生い茂ってる上、写真の角度もイマイチなので
分かりづらいね・・でも現地で見ると草があるなりにグイっとえぐれているのは分かるんですw

だけど西日がまぶしかった瞬間


本丸虎口が見えてきました。食い違いになっていて野面積みの石垣が綺麗に残ってます。
左後ろの方に行くと馬出しを経て北曲輪になって、そこには旭ヶ丘神社がありました。

貸切だった瞬間


それでは本丸にイン! 現在は城山公園となっている二俣城。広場になっていてお城まつりなどは
ここでやったりするらしいんだけど、時刻は真夏の午後4時前・・・暑いせいか誰もいません。

綺麗だった瞬間


現存の天守台は天正18年(1590)に浜松に入封した堀尾吉晴の時に築かれたもので高さ約5m。
こじんまりした感じです。慶長5年(1600)関ヶ原の功により堀尾吉晴が出雲に転封になると、
戦国時代には激しい攻防の舞台だった二俣城は戦略拠点の役割が薄くなり、廃城となりました。

脂ののっている武田軍だった瞬間


天守台の上に登ってみました。高い所は嫌いだけどスケルトンじゃなきゃヘリに立たなければ平気よw

二俣城は文亀年間、今川氏が遠江攻略の拠点として城館を置いたのが始まりと言われています。
永禄11年(1568)、家康が遠江に侵攻してこれを奪いますが、遠江の平野部と北遠の山間を結ぶ
交通路の要所に位置する「扇の要」をめぐり、以降、武田と激しい攻防が繰り返されました。

元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率いて二俣城を囲みました。武田軍は猛攻を加えますが、
天然の要害に建つ城の守りが固いため、水の手を絶つ作戦に切り替えます。二俣城では天竜川に
井桜を組んで水をくみ上げていることを知った武田軍は上流からいかだを流して井桜を破壊。
攻撃開始から2ヶ月で二俣城は陥落し、信玄は依田信守・信蕃父子を入れて守らせました。

三方ヶ原の戦いはこの数日後・・・黙ってられなかった家康の気持ちも分かるような気がします。

すごい武将だった瞬間


まだ流れてる城の解説を聞いてアレコレ思いだしたり想像しつつ、でもシミの心配もしていますw

天正3年(1576年)5月、長篠の合戦で勝利した家康は二俣城奪還に着手。6月には鳥羽山に本陣を置き、
毘沙門堂・蜷原・渡ケ島に砦を築いて包囲します。武田方は必死に抵抗をしますが、8月には二俣城の
東にあった武田の拠点である諏訪原城が落とされ、依田信守も病死。子の依田信蕃は守り続けますが、
12月、兵糧が尽きるとすべての城兵を助けることを条件として開城、信蕃は高天神城に退去しました。

二俣城は誰が攻めても水の手を切るとか兵糧攻めにするとか、城を包囲して長期戦のつもりでいないと
落とせないってことですね。兵糧が尽きたのを機に「信蕃は去ってもいいから明け渡せ」って
いうくらいだから、家康さんもよーーっぽど痺れを切らしてたんだろうね。落ちなさ過ぎて。

依田信蕃は天正10年武田家滅亡の直前には城将として田中城に入り、またも固い備えで守っていました。
家康は武田を離反して川方についた穴山梅雪に勧告を届けさせて交渉を続け、勝頼自害の後、
ようやく開城となりました。交渉の時、家康は「信州に本領を与える」と条件を出しますが、
信蕃は「主家の安否が分からぬうちは」と拒否し、自領の佐久郡芦田に引き上げたそうです。

武田家滅亡後、信長が旧武田家臣に強行姿勢を取ったため、家康は信蕃を二俣の小川郷に蟄居させます。
そして本能寺の変後、信蕃は家康に仕え旧武田家臣の取り込みや、北条家との戦いで活躍しました。

依田さんね、ぶれないんだけど頑固一徹とか勝手に燃えてるみたいな暑苦しさとかがなく、
余裕があるっていうか、スマートっていうか・・他の武田家臣とちょと違う雰囲気がいいのよ。

センスがなかった瞬間


本丸南側の虎口を抜けて、二の丸の方に行ってみます。南側の虎口は枡形になっているのですが・・
写真の角度が著しくズレてるわw さっき見た食い違い虎口は北東側の入り口になっています。

こじんまり薄暗かった瞬間


奥に見えてる盛り上りが虎口から続く本丸との境目側。たいした段差じゃないですねw

武田VS徳川の争奪戦の舞台となった二俣城では、家康の嫡男信康の自害という出来事もありました。

武田に内通したとして信長に謀反の疑いをかけられ信康は居城である岡崎城を出され、
家康の命により天正7年(1579)9月15日ここ二俣城で自刃ししました。享年21歳。

ん?・・う〜ん・・だった瞬間


二の丸にある大手虎口・・なんとなく違和感ある気がするけどまぁいいかw
櫓台が綺麗に残っていますね。こちらもおそらく堀尾氏の時代に作られたものだと思います。

ヤブすぎた瞬間


二の丸大手虎口を降りると蔵屋敷跡に続く坂道が続いていて、途中にはまた堀切がありました。
入り口で見た堀切と比べてこっちはジャングル度が高く、現場で見てもとてもわかりづらかった。

トラウマになっていた瞬間


わっ出た!! 雑草だらけの細い坂道を途中まで降りたんだけど、これを見て完全に戦意喪失。
今回の夏の陣は高取城でのリアルマムシ遭遇に始まり、最後にもマムシの恐怖で終わるという・・
蔵屋敷跡と南曲輪が当時のままらしいけど、雑草すごいし危険だから今回はやめておきます。


2013年8月の2泊3日で行った夏の陣はこれにて終了〜〜!!(遅っ)

今後のエントリー予定は群馬出陣岩村城苗木城高遠攻め、放置中の埼玉地味城ツアー続編の予定ですw


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2013.11.09 Saturday 14:37 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

高根城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

足助城田峯城福田寺の次は山城シリーズ第3弾、高根城に向かいました。

教訓を生かした瞬間


月曜日の公的施設休みがちが身に染みたワタクシは、向かう道すがら浜松市水窪民俗資料館にお電話。
すると「自由見学なのでどうぞご覧ください」とのこと。国道からの道も教わり安心して到着!!
駐車場ポジが麓すぎと思える位置なのが非常に気になる、西日が焼けつくような昼下がり・・・
ちなみに水窪は「みさくぼ」と読みます。

予感的中の瞬間


駐車場から舗装された坂道を数百メートル上って、やっと到着と思ったら本番ここからかΣ(゚Д゚)!
蒸し風呂のような暑さの中、またこんなの登るのかと思うとうんざり。でも行かなきゃ来た意味ない。

天国への階段だった瞬間


長いーーーマジありえないーーー! 物好きな自分を呪うもう一人の自分が悪態をつき続けます。
ワタクシの登りは基本、20歩ごとに休憩するのがルール。だましだまし登っていくしかありません。

めまいがしてきた瞬間


ワタクシ的にはかなり登ったのにまだ200メートルもあるだなんて!! 暑すぎるのできついです。 
ちなみに駐車場まで300メートルっていうのが地味に納得いかない気が。もうちょいあったでしょ!?

かゆかった瞬間


やっと終盤にきたよーーと思ったらこのヤブヤブ。管理するなら草むしりもしてほしいわ〜

もちなおした瞬間


ついに山頂にある復元されたエリアに到着!! あきらめないでよかったわ〜標高450メートル。
休憩ばっかしてても登り続ければ大丈夫なのよ。(普通の人は15分くらいで登れる)

丸見えすぎた瞬間


登りきると民俗資料館などのある水窪の町が見えました。その奥は信州へ続くのだそうです。
こうして実際に見てみると高根城が街道を監視する役割を持っていたことがよくわかりますね。

高根城はこの地の豪族奥山氏が南北朝時代に後醍醐天皇の孫を守るため築いたのが始まりといわれ、
戦国時代には元亀3年(1572)武田信玄の遠江侵攻の時に武田方につき、青崩峠越えの警備をしました。
ちなみに信玄はこれより東の峠を越えて天竜方面に侵攻。二俣城を攻略し、三方ヶ原へ向かいました。

ノッてきた瞬間


城門が見えてきました。高根城は発掘調査により奥山・武田両時代の遺構が見つかっており、
井楼櫓や礎石建物などが復元されてます。武田築城術で改修された方の復元だから盛り上がるw

戦国ぽかった瞬間


城門を入ると復元された礎石建物と土塀があります。縄張り図を見ると城門入っていきなり本曲輪。
当時は3間×2間の礎石建ての主殿もあったそうです。武田時代の建物は6尺を1間として作られました。
コンパクトな縄張りで本曲輪も広くなさそうなのは、警備や監視が目的の城だからってことですかね。

妄想が広がる瞬間


奥に見える第2の門を入ったところから井楼櫓を拝見。武田勝頼によって建てられたものの復元です。
建物は2間×2間、発掘された柱穴は直径60センチ、深さ50センチの大きいものだったのだとか。
土台部分は風圧による倒壊を防ぐためのもので、復元ではないと説明に注釈が書かれていました。
左手にちょいと見えてるのは稲荷神社。なんですかね? 元からあったものじゃないみたい。

雰囲気がありすぎた瞬間


裏虎口をちょいと降りたところからの本曲輪。リアルさのある土塀には狭間もちゃんとあり。
ここから下っていくと二の曲輪、三の曲輪。それぞれが堀切で区切られて連なってる感じなの。

ガクガクだった瞬間


で降りると二の曲輪に入る門があり、危うげな梯子が見えて「マジかよー」と思います。
ワタクシは高所恐怖症なので、高さ関係なくスケルトン仕様みたいなのは恐怖なんです。

3D体感中だった瞬間


梯子にひるんだからというわけではありませんが、ちょっと門の方を振り返ってみたりw
門のところは木柵があって木橋に続くのですが、安全を考えた工法でかけられてるそうです。
戦国の城とかの本に出てくる復元図まんまの世界。実際に体感できるってやっぱりいいわ〜

根性をふりしぼる瞬間


では意を決して梯子をよじ登ってみようと思います。二の曲輪は上だっていうから仕方がない。
登るのはまだ上見て登るからいいけど、スケルトンは降りる時が怖いんだよね。足ふるえたしw

無駄がなさすぎた瞬間


で、これが二の曲輪・・狭っ!! 掘立小屋か何かあったんでしょうね。普段から使うより、
何かあったらここに上がって侵入者を攻撃するって感じの曲輪だったのかもしれません。

体験は大事だった瞬間


スケルトン梯子を下りて三の曲輪方面に向かいます。遺構に基づき忠実に復元された高根城は
曲輪間をつなぐ城内道が完全な形で発掘されたのが一番の注目ポイントなんだそうです。
木橋など一部、遺構保護や安全面から復元ではない部分もあるけど、ギュンと曲がるとか上がるとか
下がるとか歩いている道はほぼ当時の構造どおりだから、戦国山城を体感している感じが増します。

大規模すぎた瞬間


二の曲輪と三の曲輪間にある堀切・・写真にしたらなんか大きくなさそうに見えるのが残念。
高さ(深さ)もあって角度も結構ついてるの。右側が二の曲輪。侵入した敵が本曲輪を目指す場合、
ここの堀切を超えるところからずーっと激しい攻撃にさらされちゃう感じになるんですね。

伝えきれなかった瞬間


三の曲輪の南にある二重堀切・・写真しょぼっ!! ダイナミズムに欠けますね。実際は迫力なんです。
幅は29メートルで真ん中の土塁は4メートルくらいの薬研堀。ここから先は城外だったそうです。


実践の城だった瞬間


三の曲輪から二の曲輪、本曲輪を見るとこんな感じ。三の曲輪との間の手前、深い堀切側にも、
本曲輪へ続く通路にも面した二の曲輪は侵入者に対し死角なしって感じ。ただただすごいなと。


水窪にカンパイの瞬間


戻りがてら二の曲輪の正面から本曲輪の方をもう1枚。頭上の二の曲輪からの攻撃にさらされつつ
突破を目指しても本曲輪からの猛攻にも合うという・・そういうことがとても体感できました。
入城料取らずしてこのレベル! 田峯城にも見習ってほしいわ(休城だったのまだ根に持ってる)

武田が改修し戦う気ゴリゴリで存在した高根城ですが、武田滅亡により廃城になったそうです。
そして時は流れて平成5年、水窪町が発掘調査を行って復元しました。費用は3億だとかΣ(゚Д゚)!
水窪町今は浜松市に合併されてるけど、復元されたのはそれ以前のこと。あっぱれじゃない?
元から浜松市だったら復元されたかどうか分からないもんね。足助にしろ高根にしろ地元愛だ。

達成感はあった瞬間


山を下りるのは早いワタクシ。強い照り返しにへきえきしながら麓の駐車場に向かいます。
登城には体力使って大変だったけど、根性出して行ってよかったと思えるお城でした。


東名高速と中央高速にはさまれた山のど真ん中にいるワタクシ。高速乗らなきゃ帰れないので、
東名高速に向かうべく天竜川沿いを南下しながら、最後に二俣城にも寄っちゃおうと思いますw


夏の陣ファイナル 二俣城に登城!に続く


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2013.11.05 Tuesday 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

浜松城に登城!その2

資料館入場の瞬間


資料館になっている復興天守内部に入ります。入場料150円。

「徳川300年の歴史を刻む出世城。展望台からは浜松市街を一望、城内には家康と
城下町浜松にまつわる歴史的資料、武具などを展示しています」と説明されています。

撮影は難しかった瞬間


まずは1階の展示から。1階は家康にまつわる資料や展示品が置かれています。
館内は写真撮影OKだけどガラスが反射して上手く撮れないのが残念です。

まずは有名な「しかみ像」の絵。三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗し浜松城に逃げ帰った家康は、
恐怖のあまり馬上で脱糞してしまったという。城に戻った家康はその惨めな自分の姿を描かせ、
自分への戒めにしたという。飾りも味も素っ気もなく家康だけが描かれているのがリアル。

ちなみにワタクシ、自分的に許せない自分の写真はすぐ削除します。人間小さいですw

隣は徳川十六神将の絵。本多忠勝ら四天王の他、服部君とか内藤君とか・・・
全員は言えませんけど。活躍を存じ上げない人もいますけど徳川シックスティーンですw

好みの問題だった瞬間


家康が19歳のときに着用したといわれる金陀美具足と関ヶ原で着用し徳川家に代々伝えられた
歯朶具足が展示されています。駿府城の東御門内にもあったけど金陀美具足、ワタクシは好みじゃありません。
家康って若い頃は派手好みだったのか、目立ちたがりさんだったのか・・・

黒くて重厚感たっぷりの渋すぎる羊歯具足はかっこいい。家康が夢に出てきた鎧を作らせたと言われ、
御夢想形(ごむそうなり)と呼ばれることもあるんだとか。代々の将軍がレプリカを作らせていて、
全部で19?くらいあるらしい。本物は家康の死後、久能山に納められているそうです。

好みがうるさかった瞬間


家康の具足の他、2具足展示されていました。徳川家伝来の鎧を忠実に復元した当世具足
という説明があるだけで、誰が使ったとかいつの頃のとか詳しいことは分かりません。
左は金小札沢潟二枚胴具足、右は紺糸威黒鎧二枚胴具足。当世具足とは室町末期に登場した
軽くて動きやすく鉄砲対策された鎧のこと。それ以前の大鎧より見ただけで動きやすそう。
あもはこの時代のものは吹き返しが大きく目立つ兜はあまり好みではありません。

気になって仕方なかった瞬間


詳しい解説は何もなかったですが、軍扇などもいくつか展示されていました。
レプリカにしては古くさい感じ出てるし、本物なら撮影OKは不思議だし・・
でもそれよりも白い布で覆われた品の方が見せてほしくて仕方ありませんw

2階には天保年間の浜松城と城下町を縮尺600分の1で再現したジオラマがありました。
城下町や宿場町の説明書きなどをさらっと読んで3階の展望台へ上がります。

激じゃまだった瞬間


展望台は落下防止だと思いますがフェンスが張り巡らされていて見通しはいまいちです。
そんなことしてない城もあるんだからもう少し工夫してくれよと思ったり。
こっちは本丸方面。正面手前が本丸で奥が二の丸。左奥は最初に見てきた曳馬城跡。
浜松城の本丸は天守を囲むのではなく天守の下に作られています。

リアルな距離感だった瞬間


これから行く三方ヶ原古戦場跡と犀が崖方面。家康はこの距離を脱糞しながら逃げ帰ってきたのねw

風呂かと思った瞬間


帰りがけに地下1階の井戸にやってきました。階段を降りると薄暗い小部屋があって、
天守を復興する際に残した天守台にあった井戸を見ることが出来ます。

浅すぎだった瞬間


照明がランプだけでめっちゃ薄暗いのでフラッシュ焚かずに撮るのは苦労しました。
中は結局よく映っていないけど、穴のまわりを石を積んで崩れないようにした石組井戸です。
直径1.3m、深さは現在1mほどで今は水はありません。浅くても井戸は大事です。

高低差を体感する瞬間


資料館を出て展望台の上から見た本丸に向かいます。天守門跡をくぐって階段を下り、
途中で天守を見上げてみました。本丸が天守の下にあることがよく分かります。

謎だった瞬間


本丸正面に鉄門、北には富士見櫓、南東に二層の菱櫓があったらしいけれど、
本丸にあった建物などについては詳しいことは分かっていないみたい。

荒々しさが素敵だった瞬間


本丸側から見る石垣。始めに見た埋門側のもの同様、400年前のもの。
埋門側よりこっちの方が大きな石が使われています。がっしり固い感じね。

ちょっぴり貧相だった瞬間


本丸跡には家康公の像がありました。が、オジンになった頃の割に細すぎてなんか変w
駿府城公園で見た鷹を手にした家康公像の方がそれなりに雰囲気があったと思うわ。
銅像ってどうやって作られるのか知らないけど、モノによって色々あるから見るのは楽しいですw


浜松城はこれでおしまい。次は浜松城に来たからには絶対セットで見なきゃならない
三方ヶ原犀が崖古戦場に向かいます! 地図はあるけどナビで出なくて不安だわ・・



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2011.11.26 Saturday 14:49 | - | - | 中部(静岡県) | 
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