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丸岡城に登城!

[日本百名城] ブログ村キーワード

日本100名城36番 丸岡城にようやくたどり着きました。福井入りして朝から1日ハードだったわ・・。

焼きつきそうな登城の瞬間


お盆の最中の3時過ぎですから暑さが半端ありません。おまけに夜通し走って寝てませんからお疲れ気味。
背中に疲れが見えてるだけじゃなく、強力な紫外線にやられて髪の毛もぱっさぱさになっておりますw

やる気が感じられた瞬間


当時の丸岡城の図がありました。内堀が広くて天守のある本丸は小山のようになっていたんですね。
内堀は最大で幅91mもあったんだとか。麓に二の丸があって、堀を超えた周囲を三の丸が囲む縄張り。
この図にはありませんが川を利用した外堀があり、寺院民家を配置して城下町が形成されていたそうです。

自慢の天守だった瞬間


丸岡城は現存12天守のひとつで最も古く、国の重要文化財に指定されています。
天正3年(1575)織田信長は一向一揆を平定し豊原寺を攻略すると柴田勝家の甥、勝豊を派遣。
勝豊は豊原寺に城を築くが、天正4年に城を丸岡に移し、これが現在の丸岡城となった。
清州会議の後、勝豊が近江長浜に移封になると、勝家の家臣が城代を務めたが、賤ヶ岳の戦いで
勝家が敗れると丹羽長秀の持城となるものの、関ヶ原やお家騒動などでその後も城主が変わり、
元禄8年(1695)、有馬氏が入封し8代続いて明治維新を迎えた。維新後は一時民有となるが、
明治34年(1901)に町公会堂となり、昭和9年には国宝に指定された。

重文になっても十分だった瞬間


昭和23年の福井地震で倒壊し、昭和25年に国の重要文化財に指定された丸岡城。
昭和30年に修復再建された二重三階の望楼型天守は、それでも戦国の趣が感じられます。
修復再建とかしちゃうと国宝じゃなくなっちゃうのよね。国の宝には違いない気もするけど、
文化財保護法で指定によって補助金とか保存についての決まりなんかがあるようだからね。

天守の高さは22m。小ぶりな天守で華やかさもないけれど野面積みのワイルドな石垣と相まって、
400年以上前の戦国の風情が感じられる佇まい。天守が作られ始めた当時を知る貴重な面影です。

すっとぼけていた瞬間


天守の入り口には鯱が置かれています。

もと木彫銅板張りであったものを昭和15年〜17年の修理の際に石製の鯱に改めたもの。
その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で
造りかえられたものだが、この石製の鯱も昭和23年6月の 福井大震災により棟より落下。
現在のような形で残っている。 (案内板より)

今の天守にのっている鯱は昭和27年〜30年の修復時に木彫銅板張りに復元したものなんだとか。

落下に注意だった瞬間


ではいよいよ天守内部に入りますが・・入り口の階段が手すりもないし恐ろしく急なんです。
足腰弱った年寄では危なくて両側から抱えてもらわないと登れないかもくらいな感じよ。

風格ハンパなかった瞬間


しびれるわ〜古木の燻したような質感、色艶ってグッと来る。古い日本建築は本当に素敵。
現存とか古い寺に行く度、言ってるけど年月を経たものにしか出せない雰囲気は独特。
この雰囲気の中にいて当時に思いを馳せると意識の一部が確実につながる気がしますねw

・・勝豊も眺めたんだろうな〜って、あんた叔父を裏切ったロクデナシだったわΣ(゚Д゚)!

丸岡城の天守は通し柱を使用せず、一層目が二層目と三層目の台座となっているそうです。

ちょっとしたバルコニー風だった瞬間


出格子の石落とし。有事の際は板を外して石垣を登ってくる敵を石だの弓鉄砲などで射落とします。
床板があるので見た目バルコニー風だからか(!)乗ってはダメの注意書きが置かれていますねw

実ははしごだった瞬間


切妻破風の内部。武者隠し的な?住むわけじゃないからいいけど雪の降る北陸でこの作り寒そう。
ちなみに壁にくっついているロープは急な天守内の階段用。現代の成人の足サイズの半分の板に加え、
階段そのものが急すぎてデンジャラスなため、途中にこぶを作ったロープをつかんで登る感じです。
つま先かけてロープで体を引きづりあげる感じ。現存天守は足弱の方の観光には厳しいですね。

匠の工夫だった瞬間


天守3階の廻縁は雨水を流すため外側に向かって傾斜してて手摺と床板の間に隙間があります。
人が乗るのは危険そうだけど400年以上雨風雪に晒されながらしっかり残っているのはすごい!

心は戦国だった瞬間


西側だったと思いますw 金網なんか貼ってませんから見晴らしは最高です!
高い近代建築物がないから遠くの山並みも見えて、当時の風景を妄想しやすいのがいいですw

丸岡城は見た目以上に下半身が丈夫だった瞬間


丸岡城と言えば笏谷石の天守屋根瓦も有名です。石瓦は6,000枚もあって総重量は75トンΣ(゚Д゚)! 
木造で通し柱なしなのにどんだけ頑丈なんだと思いましたしw 青みがかった石で綺麗なんです。


丸岡城は天守しか残っていないからか、他の現存天守と比べて観光客はいまいちらしいけど、
ワタクシはとってもいいお城だと思いました。大変よろしゅうございましたw




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2013.04.06 Saturday 13:43 | - | - | 中部(福井県) | 

越前大野城に登城!

朝から北の庄、福井城、一乗谷朝倉史跡と回って、越前大野城にやってきました。

ちょっぴりうんざりの瞬間


麓の駐車場からお城のある亀山を見上げると模造天守が見えました。
お盆の最中のお昼過ぎ・・・暑いっす!! ちょっとにしても登るかと思うと萎えます。

ひたすら坂だった瞬間


亀山は高さ75mくらいらしいので大したことはないんですが、なんせ暑いですからゲンナリしております。
越前大野城は西、南、北と3つの登城口があり、ワタクシがナビに連れられて到着した駐車場は南登り口。
当時の藩士が登城の際に通ったという百間坂があるので他のルートより急ですがゼエゼエしながら登ります。

家族連れとかはほとんど見かけず、会うのはシルバー世代の昔のお姉さまグループばかり。
帽子かぶって日傘指して長い手袋か長袖上着を羽織った重装備ですが、あもより元気な様子・・。
私は将来、ああいう御達者さんになれるのでしょうか? 今のヨロヨロからすると心配になります。

たどりついた瞬間


20分くらい歩いたら、ようやく城址碑が見えてきました。越前大野城は鉄筋コンクリート。
模擬天守は資料館になっているからもしかするとエアコンが期待できるかもしれない!!

重厚だった瞬間


模擬天守は昭和43年に元士族の方の寄付により絵図を参考に建てられたもので鉄筋コンクリート造。
その昔は望楼付き2層3階の天守に2層2階の小天守、天狗櫓などがあったそうです。
天守台の石垣は当時のまま残っているもの。無骨で荒々しい野面積みの石垣が雰囲気出してるんですね。
天守に目をやってから石垣を見ると、年月を経たものにしか出せない重みや味があるのがよくわかります。
天守に登る階段「武者登り」や虎口などもあって見応えがあります。写真を撮るのを失念したのですが・・

涼を求めた瞬間


200円払って模擬天守の中に入ります。少しくらい涼しいのでは・・と思っていたところ、
映像を見る部屋にだけ業務用扇風機がブンブン廻っていたので、そこでしばし休憩・・。
模擬天守の中は土井氏をはじめとする藩主所縁の品が展示されていました。

思いを馳せる瞬間


天守最上階から大野市内を眺めます。高い建物のないところは昔の風景を想像しやすくていいですね。
越前大野は北陸の小京都と呼ばれ、高い山々に囲まれた盆地に城下町として発展してきたところ。
さっき見て来た一乗谷城主朝倉義景は信長との戦いに敗れ、ここ大野の地で最期を遂げました。

越前大野城は金森長近が越前平定の功績により1573年(天正3年)に入封し、当初は朝倉氏の城、
戌山(いぬいやま)城に入ったものの、交通の便を考え現在の亀山に4年の歳月をかけて築城したもの。
合わせて東西南北6筋の町並みも整備され、武家屋敷や町屋、その外側に寺院などが配置されています。

1586年に金森長近は飛弾高山に移り、その後は城主が次々と変わり、1698年に大老土井利勝の四男
土井利房が四万石で入城して以降、明治の廃藩まで土井氏8代が城主を務めました。

妙な親近感がわいた瞬間


で、その越前大野城を建てた金森長近さんの銅像がこれ・・ヨーダっぽいように思いましたw
なんでこんなチビッ子にしてしまったのか・・これは齢100歳を超す妖怪の域に入ってますよ。
いっぱしの武将だったのですから武者姿でもいいし、晩年にしたってもうちょっと・・ねぇ(^^;)。

最近、プロの彫刻家と知り合ったので、武将の銅像のセンスはどういうことなのかと聞いてみたのですが、
そういうのはイメージだけ伝えて任される場合と、依頼した側から指定される場合とがあるんだとか。
熊本城の清正は素敵すぎた。山梨駅の信玄もどっしり脂ギッシュな感じがリアルでらしいと思った。
甲斐大和駅の勝頼は剽軽すぎるポーズがかわいそうだった。金森長近の銅像も若干、残念な感じが。

時代劇とはやっぱり違った瞬間


越前大野城を後にして近くにある武家屋敷「旧内山家」を見てから遅い昼食に行くことにしました。
幕末期に大野藩政の再建に尽力した家老、内山七郎右衛門良休と弟の隆佐良降の偉業をしのぶため、
平成5年に内山家の屋敷を解体復元し保存したものだそうです。建物は明治15年頃建築されたそうです。
時代劇などでは式台ついた立派な屋敷に住む悪家老が出会え出会えなんてやってますが、
たいていどこで家老級の屋敷を見ても敷地が広いか狭いかで造作はこういう感じがリアル。

よりどころだった瞬間


200円払って中に入って振り返ると越前大野城が見えました。城下からお城の姿が見えるって大事ですねw

こじんまりしていた瞬間


母屋から見た庭園はこじんまりしているけれど武家屋敷らしい風情になっています。
敷地内には母屋の他、数寄屋風書院の離れ、味噌蔵、衣装蔵、米蔵などが配置されていました。
庭だけでなく母屋も蔵も全体にとてもこじんまりしている印象。でもそれが妙に落ち着く感じです。

築100年の佇まいだった瞬間


八畳、六畳、三畳に縁がついた離れの書院。これは大正期に建てられたものだそうです。
細かい話はよく分からないけれど廃藩後に士族になっても内山さんは豊かだったのかもしれません。
ちなみに家老だった内山七郎右衛門良休さん、パンフレットに写真が載っているのですが(さすが幕末!)
シャキッとした姿といい、力強い目鼻立ちといい・・この頃の人にして今の時代劇俳優さんのような素敵さw

感覚が分からなくなった瞬間


何か傾いていると思うんですよね。その場にいた時からなんだか様子がおかしくないかと。
で写真を撮ってみたんだけど、後で見てみるとカメラの腕前が悪いだけのような気もするし・・
でも床はそんな斜めってないだろ、やっぱ気持ち悪い感じしたから傾いてたよな?今もって謎ですw

結局、花より団子だった瞬間


あらかじめ調べておいた武家屋敷近くのお蕎麦屋さんで念願の越前そばをいただきました。
そば好きのワタクシ。大根おろしがついていてさっぱり、コシもあっておいしいお蕎麦でした。


夜通し走って朝から登城して遅いお昼をおなかいっぱい食べたので睡魔が撮っても心配ですが、
気合いを入れて次はゴマ豆腐が食べたいから話のタネに永平寺、そして丸岡城へと向かいます=3=3


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2013.03.17 Sunday 10:20 | - | - | 中部(福井県) | 

一乗谷城朝倉氏遺跡に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

北の庄、福井城の後は一乗谷城へ!ソフトバンクのお父さんの故郷ということで一躍有名になりましたw

盛り上がってきた瞬間


ナビの言うまま車を走らせ市街からのどかな風景になってきたな〜と思ったら何となく到着。
ワタクシ今回、写真の縮小サイズを間違えて、いつもより大き目でご紹介させていただいておりますw

登城の瞬間!


日本100名城37番 一乗谷城(朝倉氏遺跡)に登城! 朝イチ過ぎて誰もいないからやりたい放題で宣言だ!
昨年、登城した友達情報によると「何だか知らないけど人が結構いていい写真が撮れなかった」
とのことだったので【早起きは三文の得登城】で今回もうまいこと独り占め大成功ですw

年季の入り方半端なかった瞬間


この辺りで保存されている一帯は「一乗谷朝倉氏遺跡」と呼ばれています。
今回、一乗谷城(朝倉氏遺跡)に登城!と宣言したのは、実はあもがいるこの場所は朝倉氏居館跡で、
一乗谷城は館跡から続く標高436mの一乗山に築かれていて、本丸・二の丸・三の丸はそっちにあったの。
真夏の暑い盛り、時間も限られた中、436mの山は登れませんでしょ? 今回は城跡は割愛です。

どでかい鯉が泳ぐ水堀に囲まれた館跡。一乗谷城と言ったら必ず本に載っているのがこの「唐門」。
朝倉攻略に参加した豊臣秀吉が、伏見城にあったものを朝倉家の菩提を弔うため寄進したと言われています。

広すぎた瞬間


さて唐門をくぐって館跡に入って見ます・・・広い!! 同じ高さで見てると何がどこだかわからないけど、
とりあえず広さに圧倒されます。説明板を見ると、ここには城主が生活していた建物などが17棟の他、
花壇や庭園、主殿、会所、茶室など表向施設(接客用の施設)なども建っていたのだとか。
こっから眺めていてもよく分からないので、一段高い斜面の上から見てみることにします。

丸見えだった瞬間


礎石がきっちり残っていて、どんな建物が建っていたかきちんとわかっているのだそうです。
この写真の後ろ側が本丸などがあった山城に続いていて、3方は約80m、堀と土塁に囲まれています。

さらに上がって見た瞬間


さらに一段上に登ってみました。山城に向かうように斜面が続き、中の御殿・諏訪館などの建物が
建てられていたそうです。中の御殿は朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられているのだとか。
土塁や堀で区切られた様子が分かります。居館と詰めの城がある規模の大きなお城です。

真新しかった瞬間


義景公のお墓は作り直したばっかりなんでしょうかね。周りの遺跡群に比べて妙に浮いてる感じですw

なんとはなしに寂しい感じだった瞬間


義景は朝倉氏11代当主。永禄10年(1567年)に京から逃れてきた足利義秋を迎え入るものの
上洛には賛同せず、痺れを切らした義秋を利用して先に上洛した信長と敵対することになります。
上洛命令を無視した義景は信長に攻めこまれますが(金ヶ崎の戦い)、浅井の裏切りにより信長は美濃に退却。
一時は危機を脱するものの、浅井征伐から始まった姉川の合戦で徳川勢と対峙して総崩れとなり大敗します。
自身が出陣せず配下に任せきりにしたことから次々と家臣に見限られ、再度、信長勢に攻めこまれると、
一乗谷へ退却、重臣でもある従兄弟の朝倉景鏡の勧めを受けて大野の賢松寺に逃れるも、景鏡に裏切られ、
観念した義景は自刃しました。享年41歳。朝倉家はこうして滅亡しました。

辞世の句〜七顚八倒 四十年中 無他無自 四大本空 

完全な意味は分かりませんが、なんかあんまり生き様みたいなものは表現されてなそうな・・
名門の家柄でプライドが高く、派手や雅を好む武将という印象の義景。残念な人です。

トリプルタイトルだった瞬間


庭園跡も敷地内に複数残っています。庭園のところは写真が全部暗くってちゃんと撮れてなくて残念・・。
茶室から眺める池泉観賞式庭園だったそうで石組がいたるところに残されています。
ずっと手つかずでそのまま残っているそうで、庭園は国の特別名勝に指定されているのだとか。
そういうことで一乗谷城朝倉氏遺跡は「国の特別史跡・特別名勝・重要文化財」のトリプル指定ですw
どんだけすごいかと言うと、金閣寺・銀閣寺・厳島神社と醍醐寺三宝院とここだけしかない貴重さ!

がっつり残っていた瞬間

中の御殿跡と湯殿跡の間の空堀。詰め城である山の一乗谷城の方も時間体力あれば見てみたい気がしますね。

またしても広すぎた瞬間


朝倉義景の実母光徳院の屋敷があったと言われる中の御殿跡にやってきました。
最初に見た城主の居館跡の方がもちろん大きいけれど、母上の屋敷があった御殿跡もそうとうなもの。
ここもやはり礎石がしっかり残っています。砂利の部分は庭園の後なのだとか。

ついでの瞬間


復元街並みというところもせっかくなので寄っておくことにします。100名城スタンプはこちらでゲット。
朝倉氏居館跡の方はもちろん自由見学で何時でもOKだけど、ここは9時から開館で入場料は210円だったか?

気合いが入っていた瞬間


ここでは発掘調査の結果に基づいて当時の町並を立体的に復元して保存しているんだそうです。
寺院と町屋群から続いた場所で、武家屋敷や町屋があったんですね。発掘された塀の石垣や礎石をそのまま、
建物も柱、壁、建具なんかは発掘されたものを元に、当時に近い形で復元している気合いの入れよう。

朝からタオル巻だった瞬間


まだ朝っぱら9時ですが首タオル巻いてます。暑かったんです!! 汗もできるから用心なんです。

馬篭とか近江八幡みたいに生活の場として残ってるのと違って展示だから生気がない。
本当に展示。お寺や日本建築の粋を見るのと違うのでさら〜と見て歩いてしまいます。
左側に武家屋敷跡が残っているというので、とりあえずそれだけは見ておこうかなと思いながら。

スケールが大きかった瞬間


一乗谷古絵図で朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、発掘調査では計画的に造られた道路と、
道路に沿って整然と配置された多くの大規模な屋敷跡が検出されたんだそうです。でかい!
お城がご近所で買い物便利!出仕が近くてこれはいいですねw 城下町と居館、詰めの城と
本当にこの辺り一帯が朝倉のテリトリーとして丸ごと残っているのがよく感じられました。

スケールダウンの瞬間


んでもってこれは復元された武家屋敷・・・地味っ!! まぁ戦国の頃だからこうなんでしょうけどw
この場所では主屋の他、茶室や庭なども発掘されていて、復元の際には60センチ土盛して建てたんだとか。
近くに川があっても掘り抜き井戸があり、生活には井戸水を使っていたこともわかっているそうです。

予算の都合を考えた瞬間


でその主屋の中では朝倉将棋を指す主と客の小芝居が・・きっと「待った」がかかったところだわw
川越御殿上田城の九度山再現の小芝居なんかはリアル人形を使っていたけれどこっちはマネキン・・
発掘調査や発掘作業、デカブツの復元にお金がかかりすぎて、この辺りは節約したのでしょうかw

帰りがけの駄賃だった瞬間


一乗谷朝倉氏遺跡資料館にもよりました。復元街並みで入場券買おうとしたらセット割していると言われ、
おばちゃんにぜひ見て行ってと言われ、帰りに通るからいいかと寄ってみることにした次第w 

一乗谷の地形模型や朝倉館の復元模型、出土した遺物がたくさん展示されている他、
朝倉氏の歴史や戦い、住居、日常の道具など、戦国時代の生活と合わせた展示もされていました。
あもが朝倉氏館や復元街並みを後にする頃、ぼちぼち夏休みの家族連れが到着しだしていて、
順番が後になりがちなせいか資料館には誰もおらず、説明係のようなおばちゃんにロックオンされ、
丁寧にあれこれ説明してくれたので、写真を撮ってよさそげな感じだったのに忘れてしまいましたw

謎の展示物だった瞬間


屋外におばちゃんは来なかったので「ハッ!」と気づいて屋外展示品だけ写真に撮っておきましたのさ。
真ん中が九重塔、両脇が宝塔・・しかし模造と書いてある。大谷寺に本物がありそれは重文なんだそうです。
じゃあなんで模造をわざわざここに? 調べりゃいいんでしょうけどまぁそれはいいかなとw

逆だけど逃さなかった瞬間


来る時に見ていたんだけど、反対車線だから帰りにと思っていた下城戸跡に最後に寄っておきます。
県道18号線沿いの何もない所に突如出てくるから、ナビで車で行ったら必ず見つけられますw

唐突に残っていた瞬間


下城戸は一乗谷の北、谷の幅が一乗谷最短の約80mの位置に設けられた木戸口で、当時はここを境に
城下町と城外が分かれていたんだという。規模は幅18m、高さ5m、長さ50m、巨岩を利用した枡形構造で、
周囲にあった堀と接続されていたため城下町へ入る道筋を限定する防御施設として機能していたそうです。


福井の一日はまだまだ続きます。次は越前大野城に移動して越前そばを食べちゃいますw



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2013.03.03 Sunday 13:31 | - | - | 中部(福井県) | 

北の庄城と福井城

[武将] ブログ村キーワード

島根攻略から帰った翌々日、今度は福井方面に出陣してました。

23時頃、家を出て朝8時、福井到着。例によって欲張りツアーなので朝日と共に登城開始w

お参り風だった瞬間


1日で多くの登城や名所めぐりするには、朝一に自由見学(開園時間とかなし)の場所を廻るのが鉄則。
ということで福井ICを降りて一乗谷に向かう行きがけの駄賃で、北の庄城跡からスタートです。
大通り側からも入れるんだけど商店街のコインパーキングに車を停めた都合で、店に挟まれた鳥居から登城w
ここは現在、北の庄城公園となっていて、柴田神社も一緒になってる感じなんです。

存在感抜群だった瞬間


北の庄城には勝家が城主だった当時から立派な天守があったと言われています。
1581年(天正9年)に北ノ庄城を訪れた宣教師・ルイス・フロイスが本国への書簡で
「この城は甚だ立派で・・」と記していたり、勝家を攻めた時、秀吉が小早川隆景に送った書簡にも
「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…」と記されていることから明らかだそうです。
模型は5層になるんですかね、安土城もだけど、この時代の天守が残っていたらと思わずにいられません。

もろ鬼柴田だった瞬間


柴田のおっさん・・もとい。鬼柴田、柴田勝家の像が公園ど真ん中に睨みを利かせておりますw
信長が若い頃には信長の弟、信行に肩入れして信長排除を画策、一時は信長と争いながら、
戦いに敗れて剃髪して降伏。それが許されたのも信長の後年にはあり得ないミラクルΣ(゚Д゚)!

六角氏に兵糧攻めを受けた時は、残りの水を兵士に分けた後、水瓶を叩き割って出撃したため
「瓶割り柴田」などとも呼ばれ、勇猛で猪突猛進、戦以外の細かいことに頭が回らないみたいな
イメージの武将ですが、お市さんが添い遂げたくらいだし、小説やドラマで作られたイメージより
実際は豪快ではあるけれど、非常に気持ちの優しい気配りのできる人だったのではと思います。

ぎっしりだった瞬間


たいして広くはない敷地なんですが、あれこれもりだくさん詰め込まれている感じですw

北の庄城は天正3年(1575)、越前8郡、49万石を与えられた柴田勝家が
足羽川吉野川との合流点に築いたお城。北は神明神社、南は足羽川、東は吉野川(旧荒川)、
西は片町から呉服町一帯にわたる大規模なものだったとされているが縄張などは定かではない。
北に二の丸、三の丸が配され、現在の柴田神社付近が本丸だったのではないかと言われている。

本能寺の変の翌年、天正11年(1574)賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に破れた勝家は妻のお市の方と共に自害。
辞世の句・・「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」享年62歳。

北の庄城は勝家の自害とともに消失。その後は丹羽氏、堀氏らが入封したが関ヶ原の戦いの後、
徳川家康の二男、結城秀康が越前に入ると福井城築城のため遺構は取り壊されてしまった。

イマイチぴんと来なかった瞬間


早朝ゆえ白とびしてますが、資料館も併設されています。朝8時過ぎなのでやってませんが。

建物の左向こうに見えるのは九十九橋(つくもばし)・・北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋で
半石半木=橋の南が石で、北が木で造られた構造。文献、絵図などの研究から勝家公と考えられている・・
んだそうです。資料館の中には橋脚なんかが展示されているらしいです。もちろん見ていませんがw
ちなみに手前に映っているのは堀跡。敷地内のあちこちに堀跡や石垣跡が残っています。

祀られていた瞬間


柴田勝家を祀る柴田神社。敷地の片隅にこじんまりと佇む神社です。

以下、柴田神社ホームページより抜粋

天正十一年四月二十四日、北の庄城落城の後、その天守閣跡に石祠を建て勝家公の霊を祀り、
当時の藩士が毎年四月の二十四日に祭祀を行ってきた。明治六年「祠」は神社格に列せられ、
氏子、崇敬者を有するようになった。これが柴田神社の始まりである。
柴田神社は「勝家公・お市の方」ご夫婦。「娘三人の姫」三姉妹を御祀りしておることから、
夫婦・兄妹・家族の絆を御神得とする、「絆の宮」としてご参拝頂いております。

ひっそりとしていた瞬間


早朝だからとかじゃなく本当にひっそりと佇んでいる本殿・・でいいんですかね?
真夏の早朝だから光と影のコントラストがすごすぎ!! 撮る時、少し気にしろよ・・って感じでw

配置が気になった瞬間


奥に一人離れているのがお市さん、手前が茶々・初・江与、三姉妹の銅像。
右の方に背中向けてるのがさっき見た柴田のおっさん・・もとい柴田勝家の像です。
お市さん、せっかくだから柴田のおっさんの側にしてあげればよかったのにね。

天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日、北の庄城は落城。
勝家はお市の方に娘と共に城を出るよう諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、
北ノ庄城で勝家と静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。

「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」

短い夏の夜の眠る頃合いだというのに、別れをせかすようにほととぎすが鳴いています・・

間違ってるかもしれないけど、こんな感じの雰囲気なんじゃないですかね。
1年と満たない結婚生活ながら夫とともに自害する道を選んだお市さんの心中はいかばかりか。

先ほど紹介した柴田のおっさんの辞世の句はこれを受けてのものですよ。

「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」

柴田のおっさんの辞世の句はお市さんの句を受けて言葉にすると非常に重くて深くて
とても詮無い感じになりそうなのでやめときますが、短くても夫婦愛があるというか。
やっぱり柴田勝家は心の温かい優しい純粋な人だったのだろうと思います。ロマンだ。

死の静寂がまとわりつく自害の瞬間、しきりにホトトギスが鳴いていたんでしょうね・・

想像がつかなかった瞬間


北の庄城の石垣遺構。発掘調査の結果から、この石垣は本来高く積まれていましたが、
結城秀康の福井城築城に際し取り壊され、石垣の根石のみが残った状態であると考えられています・・
と案内板に書いてありました。こういうのがあちこちにありました。半端でもったいないことだ。

行きがけの駄賃パート2


ということでお次は北の庄城跡からほど近い、福井城に立ち寄り登城してきました。
現在は福井県庁&警察? 石垣の中にあるだなんてなんつー贅沢な公共施設です。
まだ朝8時半過ぎなので人もおらず本当は中にも入りたいところなのですが、
福井も遠いからそうそう何度も来れない・・ということで予定が目白押しなので、
ワタクシ的にはあまり興味のない徳川時代の城ということで残っている中の天守石垣などは
多少は気になるのですが、今回は内堀の石垣だけ見てスルーすることにします。

迫力の瞬間


ここは当時、本丸だったところ。こちら側は本丸西側になるようです。
埋御門にかかる御廊下橋は藩主専用の橋。橋の名前や水濠と石垣はそのまま残っているそう。
スケールが大きい屏風折れもある石垣がいい感じです。笏谷石で積まれているのだとか。

揺れ動く乙女心の瞬間


平成20年に屋根付きで復元された御廊下橋。それ以前は橋だけかかっていたようです。
この先に入っていくと埋御門跡の枡形なんかが見れちゃったりするので気は惹かれますが、
入っちゃったら天守台跡とか絶対見に行っちゃうでしょ。車停めてまで見るのもなんだし。
入りたい・・ダメ入ったら時間かかりすぎ! でも二度と来ないし・・ああもったいない!!

見栄えがした瞬間


ただの橋だけの写真も見たことありますが、屋根付き見ちゃうとこっちのが断然いいですねw

1601年(慶長6)、徳川家康二男の結城秀康が68万石で初代福井藩主として入封し、
入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年(1606)に福井城を完成した。
天下普請で築かれた城は2km四方に及ぶ巨大なもので、本丸を5重の水堀が囲み、
4重5階の天守があった。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものともいわれる。
天守は1669年(寛文9)に焼失。財政問題や幕府への配慮から再建されることはなかった。

前を向いた瞬間


徳川プロデュースのお城。駿府城とか江戸城とかやっぱ何となく雰囲気が似ている感じで・・
さぁさぁ、見ないと決めたんだから予定通り今日の立ち寄りをこなしていきますよ!!

予定通り9時。これからソフトバンクのお父さんの故郷、一乗谷に乗り込みます!!



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2013.02.09 Saturday 22:09 | - | - | 中部(福井県) | 
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