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専称寺にて駒姫のお墓参り

常念寺で最上義康のお墓参りをした後は、妹駒姫のお墓を訪ねます。

顔がほころぶ瞬間


ナビに連れられてきたんだけど狭い道で不安になりかけたら着いた!
お寺さんが幼稚園をやってて看板がかわいいw 駐車場に入ります。

雰囲気を大事にする瞬間


お寺っぽい門だけどこちらは幼稚園側の入り口。右手の駐車場に車を停めて、
いったん通りに戻ってから、半周歩いて反対側のお寺の入り口に向かいます。

幼稚園ぽさがはみでてた瞬間


案内板だけじゃなく園児募集の看板も出てるけど、こちらがお寺の正面入り口。
入ったところにおじさんがいたので挨拶したら、どちらから?と声をかけられた。

早起きは三文の得だった瞬間


埼玉から駒姫のお参りに来ました〜言ったら、歩きながらお寺の説明してくれて。
元は高擶(天童市)にあったものを駒姫の菩提を弔うため義光公がこの地に移したそう。

しげしげと眺める瞬間


山門を入って左にある鐘楼と梵鐘は1606年に作られたもので県指定文化財。
秀吉が天下一の名工と呼んだ西村道仁って鋳物師が作った一品なのだとか。
奥の桜は義光が駒姫の墓参りに来る度に馬をつないだという「駒つなぎの桜」。

デカすぎだった瞬間


本堂は元禄16年(1703)に建てられたもので、これは山形市の指定文化財。
遠目で見てもデカイけど、近くで見るとなおのこと重厚感がハンパない!
傷んだ部分の修理の最中とかで、向こう一面はまるっと足場に覆われてました。

眠り猫とは違った瞬間


本堂の四隅にある「夜鳴き力士像」も左甚五郎作と言われて有名なんだって。
屋根が重いと泣く声が聞こえたという逸話があるそうな・・あのデカさだもんね。

親切すぎた瞬間


さて、駒姫のお墓参りに向かいます。本堂右手にある墓域入り口に案内が。
思っていたより奥の奥にあるので、所々に立ってる案内がとてもありがたい。

さみしい感じだった瞬間


案内をたどってワーワー込み合ったコンクリートの墓域を抜けると、
奥の奥にある木立に囲まれたスペースに駒姫のお墓だけポツーン・・・

落ち着かなかった瞬間


石柵に囲まれるとかでもなく広いスペースに墓石だけって寂しくない?
綺麗な生花が活けられ、きれいに掃き清められているのが救いだわ。

駒姫は最上義光の二女。東国一の美しさといわれる美貌の持ち主で、
その噂を聞きつけた関白・豊臣秀次に側室にしたいと望まれます。

義光は何度も断ったそうですが、時の権力者、豊臣秀吉の甥である秀次の
執拗な求めに抗いきれず、15歳になった駒姫をしぶしぶ上洛させました。

泣けちゃう瞬間


上洛した駒姫は最上屋敷に入るのですが、ほどなく秀次は謀反の疑いを受け、
秀吉の命により高野山で切腹させられ、妻子までも連座で処刑を命じられます。

義光は娘の助命嘆願に奔走。正式な側室になる前ということで家康を始め、
諸大名からも同情と嘆願が上がりますが、駒姫は処刑されてしまいました。

駒ちゃん、かわいそうに・・(泣)ジジイになった秀吉ホント嫌いだわ。

諸大名からの嘆願を無視できなくなった秀吉が駒姫の助命を命じたけど、
ギリ連絡が間に合わず処刑されたって説もあるけど、そんなの・・ねぇ。

控えめすぎた瞬間


立派な墓石の後ろにある小さな丸い石が、元々のお墓らしいよ・・・・

妻子や乳母も含めて女子供30数人も引きずりだされた中、正式な側室でもないのに
11番目に処刑されたという駒姫の最期は、従容としたものだったと伝わっています。

罪をきる 阿弥陀の剣にかかる身の なにか五つの 障りあるべき

駒姫の辞世の句。きるは「切る」と「着る」がかかってるんだよね。

駒姫の遺体は他と一緒に穴に放り込まれ、引き渡しも許されなかったというから、
秀吉の助命連絡が間に合わなくて処刑されちゃったなんて話は信じられない。

その後、娘の死を悲しんだ駒姫の母、大崎夫人も後を追うように亡くなると、
義光は専称寺を駒姫の菩提寺とし、母娘の肖像画を描かせて納めました。

それから5年後・・関ヶ原の合戦の時には東軍についた義光さん。
駒姫だけが理由じゃないだろうけど、まぁそりゃそうだよねっていう・・

大胆すぎる瞬間


戻る時に幼稚園側に廻ったら、なんと本堂にちびっ子用時計が(*°∀°)=3
元禄時代に建てられた市の文化財なのに!? かわいくて笑っちゃうけどw



さて。次は予定になかったけど少し時間が出来たし天気もいいから、
駒姫パパ、義光さんの雄姿を拝みに山形城に寄って行きます!


山形城に再登城!〜に続く



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2017.10.02 Monday 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

甲斐善光寺と小山田信茂の首塚を探訪!

逍遥院の次は信玄が建立した甲斐善光寺にやってきました。

重みを感じる瞬間


駐車場に車を停めたら、まずは国の重要文化財だという山門を見ておきます。
すぐ前は住宅やそこそこ車が通る道路で門前の雰囲気はないけど山門は立派!

さすがの濃さだった瞬間


山門をくぐって参道を進みます。人の多い信濃善光寺と違ってとても静か。

甲斐善光寺は永禄元年(1558)、川中島合戦の戦火で信濃善光寺が焼失することを
恐れた武田信玄によって建立され、本尊阿弥陀如来や多くの寺宝が奉還されました。

というのが一般的な説明なんだけど、実際は強引に持ってきたぽいw

本尊の阿弥陀如来っていうのは百済から贈られた日本最古で最高位の仏像で、
その力を利用したかった信玄は甲府に置くことを狙っていたらしく、
第三次川中島合戦後、謙信と和睦した後、理由を付けて移転させたという・・

寺宝だけじゃなく坊さんまでごっそり連れてきたっていうからまぁすごい!

武田菱がまぶしい瞬間


こちらが重要文化財の金堂。信濃善光寺と同じくお戒壇巡りもできます。

信玄が建てた伽藍などは宝暦4年(1754)、門前の失火で焼失してしまい、
現在の金堂や山門は寛政8年(1796)に再建されたものなんだとか。

ちなみに信玄が持ってきた本尊は、その後、信長によって岐阜、秀吉により京の都、
そして家康が尾張に移すなど転々とした後、慶長3年(1598)信濃に帰されました。

縁の下見て少しフフンと思った瞬間


甲斐善光寺は信玄が建立したお寺という武田巡りスポットってだけじゃなく、
織田・徳川軍による甲州征伐で、信長の本陣が置かれたところでもあるんです。

一説によると勝頼自害の後、甲斐善光寺に出向いた小山田信茂は身の危険を感じて、
善光寺金堂の縁の下に隠れたものの、大泉坊という山伏に見つかって東光寺に逃げ、
そこで討ち取られたとも・・・真偽はともかく、裏切者はロクなこと言われないな。

案内板もかすれ気味だった瞬間


甲斐善光寺には加藤光泰のお墓もあります。金堂の裏にひっそりと。
信長時代から秀吉に仕え、天正19年(1591)甲府24万石を与えられた武将です。

信長の野望や小説とかで名前は分かるけど詳しいこと知らないという(*°∀°)=3

貴重な人材だった瞬間


光泰さんは領国経営に努め甲府城の築城も開始しますが、文禄の役で自ら願い出て
朝鮮に渡ったところ発病し、文禄2年(1593)8月29日、陣中で病没。享年57歳。
家臣によって遺骨が運ばれ、甲斐善光寺に埋葬されました。曹渓院殿剛園勝公大居士。

超有名じゃないけど秀吉には欠かせない人だったろうな〜と勝手に思いつつ合掌!

お参りしたら、お戒壇巡りや宝物殿は省いて近くのとある場所に移動します。

ドキドキ突撃の瞬間


甲斐善光寺にほど近い場所・・車で5分くらい?にある矢崎葡萄園さん。
こちらの敷地内に小山田信茂の首塚があるというのでお邪魔してみました。

たのもー!!


訪問時期は10月で葡萄のシーズン。運よく出荷作業をされていた奥様に
思い切って声をかけると快く「どうぞ!」と言ってくださったのでいざ中へ・・・

首塚はあの大きな木の下。調べといたのでウロウロしないでまっしぐらw

物好きすぎた瞬間


しかしワタクシも裏切り小山田の首塚のためにわざわざここまで・・と、
自分の物好きさと逃さず立ち寄る粘着力にちょっと呆れたりもしています。
でも奥様が「見に来る方いらっしゃいますよ!」って言ってたもんw

一応は合掌の瞬間


小山田の首塚とされてるのがこちら。諸説あって首じゃなくて胴体とかも
言われるらしいけど、まぁ、何にせよロクでもない最期ですよ(´Д`)

がっついていた瞬間


奥様にお礼を言おうと作業場をのぞくと、色んな種類の葡萄がたくさん!
甘い香りがしてあまりにおいしそうなので聞くと、販売もしているとのこと。

小山田に感謝しかけてる瞬間(笑)


地元では見かけない珍しい葡萄もいくつか味見させてもらって・・・超うまい!
大好きなシャインマスカットと味見で気に入った何とかいう種類の葡萄を購入。

おいしかった〜なじみがなさ過ぎて品種は全然わからないけど(*°∀°)=3

直販だから地元で買うより全然お安いし、色んな種類のおいしい葡萄がいただける。
しかもお取り寄せも出来るというので今年からお願いしようと思ってますw


よしよし。ここまで超〜順調に進んでる! 次に行こ!



東光寺にて諏訪頼重と武田義信のお墓参り〜に続く




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2017.08.03 Thursday 18:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

大善寺にて武田勝頼主従を追慕!

雲峰寺ショックを乗り越え、勝沼にやってきました!
天目山で自刃する前、勝頼一行が泊まったという大善寺にお参りするのです。

感じがよかった瞬間


拝観の多いお寺で宿坊もやっているからか、受付の人が丁寧で感じいい!
500円の拝観料を払ってパンフをもらったら、さっそく山門へ向かいます。

山門は元禄17年(1704)に土屋惣蔵の子孫によって建立されたものが焼失し、
寛政10年(1798)再建されたそうな。・・土屋惣蔵ってもちろんあの人よね?

いきなり盛り上がる瞬間


土屋惣蔵は勝頼に最後まで従って奮戦の末、討死した忠臣の中の忠臣。
片手でつたを握りしめ、片手で織田勢相手を斬りまくったことから、
片手千人切りの逸話が残ってます。3日も川が赤く染まったとか・・。

詳しい説明はないけど、勝頼主従が最期を迎える直前に投宿していることから、
土屋さんの子孫はきっと供養のつもりで山門を建立したってことなんだろうね。

主従の追慕で来てるんだけど、こんな出だしからグイグイ来るとはw

反応薄なインフォメーションだった瞬間


この山門前の柏尾坂では新撰組の近藤勇が官軍と戦ったそうです・・・
・・・ワタクシは佐幕派だけど、なぜか新撰組にピンとこない人w

気持ちは分かった瞬間


お寺には川所縁の寺宝があったので被害に巻き込まないように
近藤さんは山門で指揮をとったんだって。負けちゃったけど(*°∀°)=3

何もかもが弱すぎた瞬間


山門の次は楽屋堂を目指して階段を登るんだけど・・・地味に長い!
息が上がってヨタヨタしてたら、後から来た中年夫婦にぬかされたwww

ハアハアしている瞬間


やっと楽屋堂まで来たと思ったら、地味にまだ登るのかーい!っていう。
でも勝頼主従も歩いただろうし、薬師堂も見えてるから頑張りましょう。

どうやらお祭り用らしい瞬間


階段を上がって振り向くと、くぐってきた楽屋堂と稚児堂が見えます。
古くないし文化財指定もないので建て替えたりした建物なんだろうね。

大善寺は養老2年(718)行基が薬師如来像を刻んで安置したのが始まりで、
奈良時代、聖武天皇の頃には鎮護国家の勅願と寺号を賜るほどの隆盛を極めたとか。

妄想に入る瞬間


楽屋堂に入るとたくさん階段登った分、いい感じに甲府盆地が見下ろせます。

この寺に辿り着いた時には数日後に最期の日が来るなんて夢にも思わず、
ただ再起を願い、小山田信茂の待つ岩殿城を目指していたはずの勝頼。
こうして甲府盆地を見下ろしていたとしたら、どんな思いで見ただろう?

天正10年、織田軍に攻めこまれた武田勝頼は新府城を落ち、
再起を図るべく、家臣小山田信茂の岩殿城を目指します。

一行は信玄の従妹理慶尼が住んでいた大善寺に泊まって戦勝を祈願しますが、
小山田の裏切りにあい、8日後の3月11日、勝頼が自刃。武田家は滅亡しました。

とにかく感慨深すぎてた瞬間


さて、ではいよいよ前を向いて国宝の薬師堂を拝見します!
弘安9年(1286年)建立・・って元寇のちょい後ってことでしょ?

それを考えても何だかとにかくすごいなーって圧倒されちゃうし、
勝頼が北条夫人、子の信勝と死の直前に宿泊したと思えば妄想さらに広がる。
寺にたどり着いた日に理慶尼にもてなされ、ココで共に過ごしたんだって。

思いがけない感動の瞬間


本堂の中には入ることが出来て、係りの方から説明もしていただけます。
ワタクシは勝頼主従追慕で訪れたので、中とか完全ノーマークだったけど、
せっかくだからと見て回ったら素人目にも十二神将立像が素晴らしすぎて。
芝居がかってないというのかな。自然な佇まい過ぎて逆に重みがあったよね。

撮影NGで見せられないのがホントに残念。お寺のHPで見られます。

本尊の薬師如来は平安時代の作で、5年に一度しか拝めないんだって。
だから写真が飾ってあったけど・・まぁ正直、ありがたさ全然ないよねw

死亡フラグの勝頼主従に思いを寄せ、風景や空気感を味わえばよし!
以前、すでに訪れている天目山景徳院との距離感や至る経緯を思いだせば、
ホント来てよかった!来る価値あったな!と自己満足に浸る次第。

絶対に見逃せなかった瞬間


薬師堂の横手の方には理慶尼のお墓もあります。

理慶尼は信玄の父信虎の弟信友の娘で信玄の従弟にあたる女性で俗名は松葉。
永禄3年(1560)兄信元が謀反を企て信玄に誅された際、嫁ぎ先から離縁されると
大善寺の慶紹を頼って尼となり、理慶尼と名乗って庵を結び住したそうな。

真偽はともあれ悲しすぎる話に違いない瞬間


理慶尼は勝頼主従の自決までの一部始終を記した「理慶尼記(武田滅亡記)」
という記録を残しているそうで、大善寺に保存されているんですって。

後に誰かが理慶尼に託したものだとか、真偽は怪しいらしいんだけど、
誰が書こうが悲しい話に違いないしちょっと盛ってたとしてもいいでしょw

心からお祈りする瞬間


理慶尼は82歳まで生き、慶長16年(1611)大善寺で亡くなったそうです。
戦国あるあるで嫁ぎ先を離縁されて尼になり、一族の滅亡も見届けてね・・
戦国時代の女性ってのは、身分に限らずなんだか本当に切なくてつらい。

素晴らしいお寺だった瞬間


最後に受付に戻って江戸初期の手法で作られたという庭園も鑑賞します。
特徴や詳しいテクは分かりませんが、品があっていいお庭だと思います。

お庭は受付から入った広い座敷に面してて、こちらは解放されいるらしく、
ポットにお茶も用意され、持参したお弁当を食べたりも出来るようでした。

薬師堂の係りの方の説明も分かりやすくて丁寧だし、受付の人の感じもいいし、
庭園が見られる座敷は解放されてるし、お寺なのにホスピタリティがすごい!

ここは武田関連史跡としてはもちろん、由緒あるお寺としてもおススメ!!


とても満足したので次はその理慶尼の実家。勝沼氏の館跡に行ってみます!


勝沼氏館跡に登城!〜に続く




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2017.07.06 Thursday 16:55 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

武田ゆかりの雲峰寺を探訪!

恵林寺の後は、武田関連の史跡をグイグイ廻るよ〜ってことで雲峰寺へ。

恵林寺からだと行きたいところの多い甲府方面とは逆なんだけど、
今回を逃したらわざわざ目指すのは難しいと思って行ってみた次第。

雲峰寺には宝物殿があって武田関連のお宝が拝観できるのです!

覚悟を決めた瞬間


駐車場の前に坂で登れる道もあったけど、珍しく階段で行く気にw
とはいえ見上げてみると、なかなか上の方にあらっしゃる(*°∀°)=3

ハァハァしている瞬間


頑張って登ってきたけど、仁王門が見えてきたところで息切れ休憩。
杉の木立と苔の効果で体に良さそうな気があふれてて気持ちがいい!

膝がほほえみ出していた瞬間


仁王門に到着! 周りの雰囲気も相まって古刹の趣が感じられます。
正面からじゃ全然分からないけど、八脚門入母屋造りの茅葺です。

落ち着きまくりな佇まいだった瞬間


本殿は檜皮葺でどっしり重厚な佇まい。説明によると仁王門も本殿も
永禄元年(1558)頃の建立だといわれ、重要文化財なんですって!!

雲峰寺は天平17年(745)に名僧行基が開いたという臨済宗の古刹。

甲斐源氏による武運長久の祈願寺として深く崇敬されてきたお寺で、
武田信虎が印判状を与えたり、信玄が願文を納めたりもしたのだとか。

天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いに敗れて自刃した時には、
家臣が再興を期して武田家の宝物をひそかに運び込んだと言われていて、
その貴重なお宝が宝物殿に保管されてる⇒拝観可能!というわけなのです。

ロックオンの瞬間


本殿の右手には同じく重文指定されている庫裡と、そして宝物殿が!!
・・・ん? ちょと待って。宝物殿なんか開いてない感じじゃない??

すっ倒れそうになる瞬間


ちょっとー!! あの張り紙なにーー?? やめてーー!!

予感的中の瞬間



ガ━━Σ(゚Д゚|||)━━ン!!


休館中って・・・休館中って・・・・・・(白目)
ちゃんとホームページに書いておいてください!!!

日の丸の御旗、孫子の旗、諏訪神号旗とかが見たくでわざわざ来たのにな・・

残念な思いしかなかった瞬間


駐車場前の緩い登り口がコレ。心折れてよろめきながら降りてきたわww


ワタクシが帰る時、登山ルックの熟年カップルがお寺の方へ登って行った。

雲峰寺はアクセスが悪くて車じゃないとかなり不便なところにあるから、
大菩薩峠とかへの登山途中に通りかかりで寄っただけだといいなと思った。
だって宝物殿を目指してここまで歩いて来てるとしたら気の毒すぎるもん。


・・まぁ今回は縁がなかったってことで、気を取り直して次行こ!!


さて。甲府の方へ向かう前に、通りがかりの勝沼へ立ち寄ります。
天目山の戦い前に武田勝頼一行が泊まった大善寺へお参りするのです。


大善寺にて武田勝頼主従を追慕!〜に続く



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2017.06.30 Friday 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

塩山駅の信玄像と武田ゆかりの向嶽寺を探訪!

ここからしばらくは山梨攻略シーズン?(いくつだろう)のエントリー。
山梨は武田絡みの史跡が多すぎなのでエリア絞って刻んでくのがよし!

今回は甲府周辺にある未訪の武田関連史跡をグイグイめぐったんですが、
一番狙いは恵林寺なので、朝イチ。まずは最寄りの塩山駅に立ち寄ります。

意外とコンパクトだった瞬間


恵林寺の最寄駅となる塩山駅北口には、信玄公の銅像があるのです。
ロータリ前の通りから遠目だと、思ってたのよりだいぶ小さく見える。

かわゆげがある瞬間


甲府駅前の戦モードな信玄像とは違い、こちらは鎧兜なしの入道姿。なんかかわいいw
塩山ライオンズクラブ寄贈で、長谷川等伯の書いた画を元に造られたんだって。
小さ目だけど台座が目の高さにあって、間近にジロジロ見られる銅像もよいです。

やっぱり信玄だった瞬間


佇まいがちょっとかわいいと思ったけど、アップで見たらやっぱ濃い!!
信玄の雰囲気がちゃんと表現されて、武将銅像レベルも高めだと思う。

朝イチ、独り占めで堪能して気も済んだところで次に行きます。


塩山駅から恵林寺に向かう途中、通り道なので向嶽寺に立ち寄りました。
非公開寺院で建物内とか庭園は見れないけど、武田関連なので外せない!

ちょっぴり緊張しちゃう瞬間


非公開ながら境内の一部は入れるので、行儀よくしてサッと見学しましょう。
まずは檜皮葺の中門。室町時代中期のもので、天明6年(1786)の大火により
諸堂がことごとく焼失してしまった中、唯一残っている建造物なんだそう。

妄想スイッチをオンにする瞬間


中門の横っちょにある入り口から境内に入ると広がるのがこの風景。
様子のいい橋、姿のいい木々、品のある仏殿の佇まい・・素敵だよね。

でも悲しみのどん底に沈んでいる人には、どんな風に映ったんだろう・・

ワタクシ武田関連のおめぐり中ですから、勝手に思いを馳せています。
武田滅亡の時、この寺に一時身を寄せていた勝頼の妹「松姫」気分でね。

松姫は信玄の娘。7歳の時に織田信長の子、信忠と同盟のため婚約するも、
信玄の西上によって破棄されると、誰にも嫁がず高遠城で暮らします。

松姫にとっては会ったことがなくても婚約破棄になろうとも、
夫になるはずだった信忠の存在が拠り所だったのかしらね・・
破棄後も二人はしばらく文のやりとりをしていたと伝わっています。

それから十数年後、信忠が指揮する織田軍による武田攻めが始まると、
松姫は高遠城から兄仁科信盛の娘らを連れて新府城へ逃れ、さらには
織田軍が迫る前に城を出て、落ちのびる中で向嶽寺に滞在しました。

タイミング的に松姫はここで武田滅亡を迎えてると思うんだけど・・

仁科信盛と武田勝頼、自分を逃してくれた兄達の死と家の滅亡を知った
松姫の気持ちなんてとても想像もつかない。しかも敵は思いを残す信忠。
きっと心が乱れて息もできない。戦国の女性ってホントに悲しい。

きっとすごく強い女性だった瞬間


こちら中には入れませんが仏殿。本尊は「釈迦如来」だそうです。
雰囲気ちょっと変わってる? 唐とか?(適当)なんか中国っぽい気がw

武田滅亡後、松姫らは残党狩りから逃れつつ、山中を武州に向かい、
八王子の金照庵に入ります。その後は心源院で出家して信松尼となり、
姪たちを育てながら一族の冥福を祈って静かに暮らしました。
武田滅亡時には敵だった北条氏照も支援していたそうな。

そして一説によると八王子に松姫の生存を知った信忠から使者が来て、
松姫が京に向かう途中で本能寺の変が起きた・・って話もあるんだってね。

もしそうだったら思いがかなって幸せに思った分、さらにショックじゃん。
そりゃ出家したくなる。姪たちがいなかったら自害したかもしれないよね・・

松姫のお墓は八王子の信松院にあるので、そのうちお参りに行こう。

満足する瞬間


自由に入れるのは一部境内だけなので、写真の通り見渡せば終わるw
何もないし、松姫ゆかりの何があるってわけじゃないけど来てよかったな!


さて、朝からディープな妄想をしてとても満足したところで、
次は今出陣の一番狙い、武田滅亡時やっぱりエライ目にあった恵林寺に向かいます。


恵林寺にて武田信玄のお墓参り〜に続く



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2017.06.13 Tuesday 10:58 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

梁川八幡神社にて政宗初陣祈願所を探訪!

興国寺で須田親子のお墓参りをしたら、ついに福島攻略最後の地!!
伊達政宗ゆかりの梁川八幡神社と龍法寺にやってきました。

大盤振る舞いだった瞬間


もっとだいぶ手前から始まってる参道なんだけどワタクシは途中から気分だけ。
でも駐車場は本殿横だから歩かなくてもいいところ、体力ケチらず来てみた次第w

そこここに趣があった瞬間


案内がなくて詳細が分からないけど途中には古いお堂みたいのもあります。
伊達氏の居城が梁川に移った時に伊達氏の氏神「亀岡八幡」と合祀され、
伊達氏の保護を受けてきたのだとか。福島県の史跡名勝の指定されています。

勝手に感慨深くなる瞬間

拝殿が見えてきました。若かりし頃の政宗もこの参道を通ったのかと思うと
ちょっと感じ入るものがありますね。とかいって大して歩いてないけど(*°∀°)=3

グイグイお参っちゃう瞬間

拝殿に到着! よ〜し。何はともあれ、まずはとにかく参拝だ参拝!!
ご利益は武運長久に勝運、縁結び、厄災除け・・何でも頼んどこっかw

伊達家にとって大事な場所だった瞬間


天正10年(1582)4月1日、16歳になった政宗が初陣の戦勝祈願にきた神社。
それより前、政宗の正室愛姫が輿入れの際、田村家から受渡されたのもここ。

ワタクシ帰ってから拝殿近くに受渡し場所が残っていると知りガッカリしています。

趣ある山門だった瞬間


神社の隣には別当寺である龍寶寺があります。文治年間(1185〜1189)に
伊達氏初代朝宗が祈願寺として開いたお寺で、神社と共に保護を受けました。

政宗エピソードばっか目立っちゃうけど、こういうお寺の説明を見ると
伊達氏がずっと昔から梁川と関わって来たってことがスッと入ってくる。

いい気が流れていそうだった瞬間


特に伊達家所縁の何か的なのはなさそうで山門から本堂だけ見ておき。
こじんまりしたお寺ながら手入れが行き届いて何か雰囲気がよかった。

何やら無造作な感じだった瞬間


お寺の前の駐車スペース横には茅葺屋根の趣ある鐘楼が建っています。
宝暦12年(1762)建立で指定文化財。鐘は昭和63年に再鋳されたそうな。

渋滞の心配もしていた瞬間


1泊2日で超〜盛りだくさん詰め込んだ福島攻略シーズン2これにて完了!
阿武隈川を眺めて東北の地に割拠した色んな皆さんを思いつつ埼玉に戻ります。


次回からは「秋」に出陣した山梨攻略シーズン?のエントリーです。


塩山駅の信玄像と武田ゆかりの向嶽寺を探訪!〜に続く



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2017.06.03 Saturday 15:37 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

武田八幡宮へ参拝!

涙の森新府城と史実の逆回り風で回ってしまってるワタクシですw
次は勝頼夫人が新府城落城前に願文を納めた武田八幡宮にやってきました。

韮崎プライドだった瞬間


武田八幡宮入口の交差点。この先が武田八幡宮で後ろの山はきっと白山城。
韮崎市はちょっとした史跡でも超分かりやすくて、武田愛が感じられます。

早くも重みを出してくる瞬間


ほどなく二の鳥居が見えてきます。これは江戸時代に再興されてるらしいけど、
承久2年(1220)の頃には修復された記録があるというから何だかすごいw

鳥居の横に駐車場があるけど、つきあたりの八幡宮まで歩くのいやー!
ワタクシは鳥居をひとしきり眺めたら、車で前まで行っちゃうのよ。

結界感がハンパない瞬間


車はすぐ横の駐車場に停められる。まずは入口に立って全体を眺めてみる。
中に入ったら、最強武器や何とかの力的なやつを授けてもらえそうなw

ワクワクする瞬間


まずは石造明神鳥居。手前の付正面石垣と合わせて県指定有形文化財。
ここから総門、舞殿、拝殿、そして国重要文化財の本殿へと続きます。

武田八幡宮は勝頼夫人が戦勝と繁栄の願文を納めたというだけじゃなく、
武田発祥の地と言われてる場所。信玄ラブじゃないけどちょいと興奮w

すでに重みを感じてる瞬間


武田八幡宮は弘仁13年 (822)、嵯峨天皇の勅命により、地神である
武田武大神の祠廟に九州の宇佐八幡を迎え、併祀して創建されました。

清和天皇の頃に京都石清水八幡を併祀し甲斐源氏の崇敬を集めると、
武田の荘に居を構えた新羅三郎義光の曾孫信義が八幡宮社前で元服して
武田氏を名乗り氏神としました。

武田を想う瞬間


天文10年(1541)、甲斐守護となった武田晴信(信玄)が現本殿が再建、
天正10年(1582)には勝頼夫人が戦勝と武田家の繁栄を祈願した願文を奉納。
武田八幡宮は発祥以降、ずっと深く武田と関わってきたんだよね・・すごっ!

あっさりスルーする瞬間


階段上って舞殿。シンプルってか質素め。でも文化財指定じゃないので
武田の頃どうだったか分からないけど、神楽の妄想は別にいいので先へw

武田菱がまぶしすぎた瞬間


階段上ると拝殿。真田丸とかの絡みで人がいるかと思ったけど全然いない!
普通に天気だったけど木々が鬱蒼としてて人いないので静寂で神秘的なの。

あまりにも残念な人だった瞬間


拝殿の奥にチラッと見えるのが重要文化財の本殿。で、拝殿の横に勝頼夫人が
納めた願文を刻んだ石碑があったから、ワタクシしげしげとそれ眺めまして。

新府城とか涙の森のこととか、自害した景徳院のこととかまで思い出して
夫人の気持ちを妄想してたら、きっと自己完結しちゃったんだろうね。

じゃ本殿も見るかな〜って、でも正面からじゃ見えないことに気づき、
横に回った写真を撮ったら、すっかりその場を離れてしまったよΣ(゚Д゚)!

・・で、肝心な石碑の写真なし。上の写真だと中央の黒い物体がそれw

勝頼夫人によって願文が納められたのは天正10年(1582)2月19日のこと。
木曽義昌に裏切りをきっかけに織田・徳川連合軍の武田領侵攻が開始され、
親族衆や家臣が離反していく中、勝頼の戦勝と武田繁栄を願ったものでした。

八幡大菩薩様 勝頼を勝たせてください。勝頼には悪い心はありません。
こんなことになって勝頼も私も悲しみ、涙も枯れるほどです。
武田の命運を開いて子孫繁栄させてください。願いが叶えば社殿も回廊も
美しく建て直しますから・・・ざっくり言ったらこんな感じのお願い。

でも願い届かず、それからひと月も経たぬ間に逃避行の果ての自害・・。
幻庵長老の教えを守って? 武田の嫁として生きた戦国の女性でした。

オーラ出まくりだった瞬間


本殿をじっくり見るには横に回ります。正面も裏もよいポジがないので横。
信玄が再建したいという本殿は国の重要文化財。そう思うと重みハンパないw

前のめり感が大事だった瞬間


石柵がじゃまなので顔をグイッと近づけ、カメラも突っ込むのがマストw
難しいことはわからないけど檜皮葺で全体も重厚で凝った造りみたいよ。
超イケイケだった当時の武田パワーみたいのが乗ってるのかもしれないね。

甘く見ていた瞬間


本殿脇には白山城跡の看板が。鎌倉時代初期、武田信義が要害城として
築いたのが始まりで、烽火台や堀跡が残っているらしい。25分くらいなら・・

安全第一だった瞬間


と思ったけど、これ行ったらダメなやつだ。冬眠明けの熊とかマジやばい!
慣れた地元の山菜取りでも襲われたりしてるニュース聞いたりするもんね。
縄張り図はともかく、音が出るものとか何も装備がない時はやめときましょう。



それにしても大事なブツの写真を撮り忘れるだなんて・・悲しすぎ!
涙の森新府城からの願文納めた八幡宮まで逆順まわりも終わったので、
次はその他、韮崎にある武田関係の史跡をバンバンめぐっていきます!


願成寺にて武田信義のお墓参り!〜に続く




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2016.07.21 Thursday 13:55 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

涙の森にて勝頼と北条夫人を追慕!

2016年のGWはだいぶ前にルート組んだまま放置してた第2次山梨攻略へ!

行く気になれば日帰りですぐ行けるとか思ってると案外、行きそびれるw
今回は新府城をメインに、韮崎と北杜で武田の史跡めぐりをしました。

まずは効率よいルート取りのため、順逆になっちゃうけど涙の森へ!

迷わず到着の瞬間


なんてことない碑があるだけの史跡だけどナビにもGooglemapにも出てた!

天正10年、織田に攻めこまれた武田勝頼は新府城に自ら火を放って落ち、
再起を図るべく岩殿城を目指しましたんだけど、その途中、夫人とともに
炎に包まれた城を振り返って涙にくれたと言われるこの場所は涙の森と呼ばれています。

あまりに品がよすぎた瞬間


その時に北条夫人が詠んだという句・・武田が城を捨てて逃亡するなんて、
落ちのびながら燃えてる城を見ても信じがたい思いだったんでしょうね。

北条夫人の句って辞世の句もそうだけど、品があって綺麗で好き。
でも奥様・・ここは句なんて詠んでる時じゃないですよっていうw

この場所で新府城から直線で4キロくらい。城を脱出した瞬間から
1000前後いたはずの家臣がみるみる減って最終が女性含めて50弱でしょ。
もうこの4キロ時点でも人はかなり減っちゃってたと思うのよね・・
悲惨な最期はこの時点ではさておき、もう少し逃げる緊張感持ってこ!

妄想力が必要な瞬間


新府城の方向を見たけど、今は家が建ってて少し先も見えないけどw
煙が上がり空が赤く燃えてたら、何もない当時はよく見えたんだろうね。

新府城を背に涙の森から少し先に進むと、回看塚というのもあります。
そこも碑が立ってて、北条夫人が句を詠んだって伝えが残ってるの。

申し訳程度の残され具合が切なすぎた瞬間


はい、こちら回看塚。探しながら来なかったらマジ普通に通り過ぎるΣ(゚Д゚)!
涙の森から1キロも離れてなかったと思う。角度的には左奥が新府城方向。
ちなみに車を停めるようなスペースはないので路肩に超寄せといて瞬撮です。

デリカシーが足りない瞬間


回看塚は大正12年(1923)、塩崎村の有志によって建立されたものなんだそう。
区画整理とか現代の都合は分かるけど、せっかくなのに金網ジャマっす。

悲しかったのは間違いなかった瞬間


春がすみたちいづれどもいくたびか あとをかへして三日月の月

回看塚で詠んだ夫人の句がこちら。ワタクシは涙の森の方が好きw
2つの場所は離れてないから両方で句を詠んだとかはないだろうけど、
城から必死で逃げ出して来て数キロ離れたこの辺りで初めて一息・・
燃える城が目に入って悲しみを実感したって話はアリなのかも。

どちらにしてもそういう場所が言い伝えとして残されているから、
訪れたワタクシはあれこれ考えたり妄想したり出来るんだしね!

城を捨てて逃げ落ちる勝頼夫妻の悲しみを慮ったところで、
次はその時は激しく燃えちゃってた新府城を見に行きます。


新府城に登城!〜に続く



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2016.06.15 Wednesday 10:35 | comments(6) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

平泉〜毛越寺でも奥州藤原三昧!

高館義経堂から毛越寺にやってきましたよ〜!!
金色堂や高館ほど食いついてないけどせっかく平泉に来たからね。

テンションが低い瞬間


ハイハイ〜泣く子も黙る世界遺産登録!中尊寺と同じく人だらけですw
駐車場は8割入っていたかな?待つほどじゃなくてよかった。拝観料は500円。

早くもスルーする瞬間


うーん 広いです!! 入ってすぐ左手に宝物館があって平安期の仏像とか
見られるのですが興味と時間がなく割愛w 拝観料に見学料は含まれてます。

薄くてカッサカサだった瞬間


最盛期には堂塔40、禅坊500を数える規模の毛越寺でしたが、
嘉禄2年(1226)と天正元年(1573)の火災でほとんどの建物を消失。
わずかに残った堂宇も江戸期の火災で焼け、今は庭園と伽藍跡のみ。

当時は広大な境内にいくつもの伽藍が並んで極楽浄土みたいだったのよ〜
という様子を表したのがこちらの図。これを頭に入れて何もない庭を見ますw

案外ちゃんとしている瞬間


その前にちゃんとお参りはしなければ。本尊は薬師如来だそう。

毛越寺(モウツウジ)も中尊寺と同じく天台宗で、嘉祥3年(850)
慈攪大師により創建され、2代藤原基衡が七堂伽藍を建てて造営に着手、
3代秀衡が多くの堂塔や僧帽、浄土庭園を造り、毛越寺が完成しました。

イメージしづらかった瞬間


本堂から浄土庭園に向かう場所にあるのが南大門。当時の正門で
仁王門が立ち「金堂円隆寺」の勅額が掲げられていたんだそうな。

表現しているのは海だった瞬間


こちらの大泉が池を中心にした浄土庭園。途中のこんもりが中島。
南大門から池向こうにあった伽藍まで当時2つの橋が架かっていたのだとか。

写真だと一部の風景に切り取りになってしまうのでなかなか伝わらないけど、
実際に全画面で見ると素人目ながら、そっか浄土か〜と思う景趣があります。
ここでさっきのカッサカサの図を思いだして脳内3D復原すると・・うー見えんw
目と脳がずいぶん慣れてきた城と違って、興奮するほどイメージわかないね。

中は見えなかった瞬間


池を眺めつつルートを進むと開山堂。建物ほぼないから一応足をとめておくw
慈覚大師をお祀りしているお堂で、藤原三代の画像も安置されているそうな。

いい加減すぎた瞬間


こちらは嘉祥寺跡。2代基衡が工を始め、3代秀衡が完成させたお堂でした。
って説明されても「・・・で?」ってなっちゃう。何となく広さだけ見て、
いつもなら櫓を想像するところ、ちょっと豪華っぽい寺を思い浮かべといたw

気になって仕方なかった瞬間


で、こちらは金堂円隆寺の跡。2代基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺。
本尊は雲慶作の薬師如来。毛越寺の中心的伽藍で東西に廊が出て南に折れ・・・
あ、これカッサカサの図にあったやつだ!!と思って分かった気になるw
ところで途方もないお金持ちの「万宝を尽くして」ってのはどゆこと??

すごさが分からない瞬間


こちらは鑓水。池に水を入れる水路のことで発掘調査中に当時のまま
発見されたものだそうです。鑓水の遺構は奈良の宮跡以外例がなく、
平安時代としては唯一なんだとか。玉石敷いて水きり石や石組を配し、
平安時代の指導書「作庭記」の様式を余すところなく伝えてるそう。

首をかしげる瞬間


こちらは常行堂。享保17年(1732)に再建された建物のようです。
江戸期(慶長)に焼けちゃったやつね・・にしてもなんでこれだけ?

レアキャラだった瞬間


お!平泉に来て初めて坊さんの姿を見たーと思って撮ってみたw
きっと厳しい修行をしているんでしょうね・・ご苦労様です。

雰囲気にのまれやすかった瞬間


手前のシューンと飛び出てる辺りは荒磯の風情を表現しているらしいよ。
浄らかで静かで荘厳な仏様の世界〜信心なくても落ち着く気はしますね。


毛越寺も見れたからこれでワタクシの平泉観光は終了!!
そろそろお腹もすいたので前沢牛を食べて、花巻方面に移動します。


えさし藤原の郷を探訪!〜に続く


★★今年も読んでいただいてありがとうございました!
体調不良と激務でこの冬はあまり出陣できませんが、
来年もマイペースに遠征&更新していきます!
みなさん 良いお年をお迎えください('∀`)



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2015.12.30 Wednesday 16:32 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

平泉〜弁慶墓碑と高館義経堂にお参り

中尊寺を出たら車は駐車場に置いて、歩きで高館義経堂へ向かいます。
その前に中尊寺のすぐ前にある武蔵坊弁慶の墓碑を見ていきます。

ボーっとしてたらダメな瞬間


中尊寺入り口の通り沿いにあるプチ公園のようなこの一角。
植え込みだと思ってうっかりスルーしてはいけませんw

図体通りの墓碑だった瞬間


ドーン!仁王立ちの風情すら漂う立派な墓碑は松に負けない存在感!

弁慶さんは「牛若丸」の絵本を読んだから、幼稚園の頃から知ってる人w

怪力無双の荒法師で、五条大橋で笛を吹いていた牛若丸(義経)に
戦いを挑んで返り討ちに合い、以来、家来となって活躍します。

・・って超ざっくりw 作り話でも主従の出会いとしてロマンあるな。

意外と真剣に考えた瞬間


京を追放され、平泉に落ちのびた義経に従ってきた武蔵坊弁慶は
藤原泰衡の裏切りにより高館が焼き討ちされると義経を守るため
薙刀をふるって奮戦し、雨の様な矢を受けて衣川で立往生しました。
義経が自刃する時を稼ぐため、一歩も引かない決意だったんでしょう。

限界超えても力の限り頑張り、命尽きても一歩も引かない不屈の死に様・・
弁慶しかり、三国志の典韋しかり・・何が彼らを立往生までさせるの?
理解できない、自分にはできない、でもその生き様にグッと来るものがある。

合掌の瞬間


弁慶って義経がらみの要所要所での活躍(安宅の関や立往生)がありながら、
素性や詳しい働きなんかについては確かな記録が少ないみたいよね。
司馬遼太郎の義経でも弁慶の存在感薄くて伊勢三郎のが覚えてるくらいw

とか想いながら墓碑に手を合わせ、徒歩10分の高館義経堂に向かいます。

後悔先に立たずな瞬間


高館義経堂に到着!・・てか駐車場あったのね。車でも来れました。
一丁前にと言っちゃ失礼かもしれないけど、入場料200円ですw

心が熱くなる瞬間


入り口の階段を登ると北上川と東稲荷山のそびえる風景が広がります。
左手の方で弁慶が立往生した衣川につながります。落人となった義経は
この風景をどんな思いで眺め、ここで迎えた最期に何を思ったんだろう・・・
あ、ちなみに同じ風景見た芭蕉さんに対しては特に思うところないですw

勝手に納得していた瞬間


松尾芭蕉は門人の曽良を伴って平泉を訪れた際、この高館にも立ち、
奥州藤原氏の栄華と滅亡や義経の最期を思い、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵共が 夢の跡」

俳句なんてよく分かりませんが、奥州藤原氏や義経の最期を知った上で
実際この地に立ってみると、五七五の中にどんな思いが込められてるか、
自分なりに浮かんで来て、何とも分かった気になるから不思議ですww

こじんまりしすぎだった瞬間


北上川を眺めながら少し登って義経堂へ・・・って小さっ! 地味!!

中尊寺の弁慶堂の方がはるかに立派でこしらえも豪華じゃないですか・・ 

平治の乱で父、源義朝が敗死、助命され鞍馬寺に預けられた義経は、
打倒平氏の思いを抱いて15才で寺を逃げ出し、平泉の藤原氏を頼りました。
藤原氏三代秀衡は源氏の御曹司として義経を保護。そして6年後、兄頼朝の
挙兵を聞いた義経は頼朝の元に駆けつけ、兄弟の対面を果たします。

義経は頼朝の命を受け平氏討伐に参戦。一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦で
ついに平氏を滅亡せしめます。しかし凱旋した京で後白河法皇から無断で
任官を受けたことで、武家社会を創ろうとする頼朝の不興を買うこととなり、
兄弟は決裂。頼朝の圧力により朝廷が義経の官位剥奪、討伐令を出したことから
義経は京を逃れて決死の逃避行の末、奥州平泉に落ちのびました。

義経は藤原秀衡の庇護を受け高館を与えられますが、秀衡は翌年、亡くなります。
秀衡は三人の息子に義経を守るよう遺言しますが、四代泰衡は頼朝の圧力に屈し、
義経の居館を急襲。多勢に無勢の義経は自刃して果てました。享年31歳。
義経の首は酒を満たした漆器に入れられ、鎌倉に運ばれました。

ちなみに藤原泰衡はその後、頼朝に攻めこまれることとなり、
助命嘆願ならず逃亡する途中、家臣に殺害されています。
100年に渡り栄華と繁栄を極めた奥州藤原氏はここで滅亡しました。

奥州7万騎とも言われる戦力あったんだからビビッてないで頑張れよ!
この残念な人にワタクシが言いたいのはそれだけですw
でも泰衡は父秀衡に愛された義経がきっと嫌いだったんだろうなぁ。

勝手すぎた瞬間


義経堂は天和3年(1683)仙台藩主4代伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、
中に本尊として木像の義経像が祀られています。堂と同じ頃に作られたとか。

ワタクシ子供の頃の絵本の印象がよほど強いのか、義経ってどうやっても
牛若丸と呼ばれた綺麗な顔をした身軽な少年をイメージしてしまうので、
この木像しかり、何かに載ってる肖像しかり・・なんかイヤなんですけどw

ひっそりでよさそうだった瞬間


お堂の横には源義経主従供養塔もありました。秀衡、義経、弁慶の
800年の御遠忌を期して昭和61年に建立されたんだそうです。

この時代にはなかった騎馬戦法や奇襲攻撃などを実践に取り入れ、
戦闘戦術については天才的だったと言われる若き英雄、義経さん。
父の敵の平氏を討ちたい、兄の頼朝に頼りにされたい・・・
戦のひらめき以外、空気も読めないし政治感覚もないんだもの。
そしてそれを愛を持って教えて導いてくれる人もいなかった。

報われることのなかった悲しく儚い生き様、悲運な最期の義経には
豪華な廟より、静かな高館にひっそり祀られてる方がよいのかもね。


たまに深入りすると源平の頃もやっぱ面白くって妄想がはためくw
遠出できない時、またたまには鎌倉武士ゆかりの地めぐりしようかな〜

と思いながら中尊寺へ戻り、次は車で毛越寺に移動しちゃいます!


平泉〜毛越寺でも奥州藤原三昧!〜に続く




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2015.12.13 Sunday 08:40 | comments(4) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 
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