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天寧寺にて葦名家墓所に参拝!

払田柵の南大路で行き倒れず、何とか角館までたどり着けましたw
早くビールが飲みたいけど、ホテルに入る前にもうひとふんばり天寧寺へ!
こちらでは会津の戦国大名だった葦名氏のお墓参りをするのです。

ひっそりしていた瞬間


場所が少し離れているせいか、武家屋敷の街並みと違って人が全然いない!
まぁまぁ車が走る道路に面した山門は、角館城から移築されたものなんだって。

天寧寺は元々、葦名氏11代盛信が会津に菩提寺として開いたのが始まりで、、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田に転封に伴い、葦名氏も角館に移ったことから、
寛永元年(1624)、葦名義勝(義広)がこの地に建立した曹洞宗の古刹です。

モダーン風だった瞬間


本堂は明治18年に焼失して、昭和44年に建て替えられたものだそうです。
中には葦名家の念持仏である火伏せ観音像が納められているのだとか。

泡を夢見る瞬間


早くビールが飲みたくて、いそいそと本堂左奥にある墓域に向かいます。
ワタクシは下調べしてたけど、案内もあったしすぐ裏だから分かりやすいよ!

オンマイウェイな瞬間


墓域は仙北市指定史跡。入り口には「史跡芦名氏墓地」の碑があります。
そういえば天寧寺では説明板とかも、ほぼ「芦名」の表記になってたな。
ワタクシは前から「葦名」にしてるので、ブレずにそれで書いていますw

ひっそり佇む瞬間


中に入ると苔むした通路の先に、墓碑が並んでいるのが見えます。

葦名氏は会津最初の領主で、16代盛氏の頃には伊達氏と並ぶ勢力を誇りましたが、
17代盛興、18代盛隆、生後1ヶ月で19代を継いだ亀若丸と跡継ぎの早逝が続いたことで、
後継者をめぐる家中の争いが絶えず、盛氏の死後は次第に衰えていってしまいます。

亀若丸の死後、佐竹義重の二男義広が養子に迎えられ、20代当主になりますが、
天正17年(1589)摺上原の戦いで伊達政宗に敗北すると、義広は実家のある常陸に逃走。
後に秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられるものの、関ヶ原で西軍に組した兄、
佐竹義宣の連座で所領を没収されると、名を義勝と改めて佐竹氏と共に秋田へ移り、
角館で1万6千石を与えられ、以降、3代にわたってこの地を治めました。

不幸すぎだしミステリーすぎた瞬間


お墓は葦名義勝を中心に、義勝の正室と側室、義勝の嫡男葦名盛泰、
2代盛俊と盛俊の正室、3代千鶴丸に殉死した家臣2名の10墓あるみたい。

義勝さんは城下町の整備を精力的に行って57歳で亡くなるんだけど、
嫡男盛泰が佐竹義宣の養子になって夭逝してたから、2代を継いだのは
なんと!義勝さんが亡くなって4ヵ月後に生まれた盛俊さん(*°∀°)=3

盛俊さんは元服すると3代将軍徳川家光に拝謁し、覚えもめでためだったから、
そのまま頑張ってたら、葦名家大名復帰もワンチャンあったかもしれないけど、
まさか20歳の若さで無念の病死!3代は1歳の嫡子、千鶴丸が継ぐことに。

とーこーろーがー! この千鶴丸ちゃんも3歳で亡くなってしま・・えw

その死因ってのが父、盛俊の法要のため天寧寺に来た時に縁側から落ち、
靴脱ぎ石に頭を打ちつけたっていうんだけど、そんなことってある!?
周りに大人がゾロゾロついてるお坊ちゃまで、しかもご当主なのに!!

早死にが続きすぎて多すぎてホント怖いわ。葦名家マジ不幸すぎです。

跡継ぎがいなくなった葦名家は、藩主(佐竹氏)の命で絶家が決まり、
明暦2年(1656)、名実ともに滅亡。佐竹氏も代が変わると冷たいよね。
分家みたいなものなのに、存続させる気がなかったんだろうなって。

心を込めて合掌の瞬間


大名家って子がいないのもヤバいけど、無駄に多くても争いになるし、
後継ぎがいても次々早死すればアウト。親戚筋がアテにならんのも痛い。

家を存続させるってワタクシ達が思う以上に大変なことなんですねぇ・・

気安く語りかけながら、葦名家のみなさんに念入りにお参りしました。


さーて、これで秋田出陣初日は終了! 

ダッシュでホテルにチェックインして・・・ビールうめぇぇぇぇぇ!!


明日は朝イチの涼しいうちに城山に登る!


角館城に登城!〜に続く



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2019.01.11 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

横手にて本多正純のお墓参り

横手城からお城の東南の方にある本多正純のお墓にやってきました。
お城からも歩きでこれなくないけど、駐車場に戻ることも考えるとなかなか遠い!
で、事前調査でよくよくよーく調べたら停められそうだったから車で来てみた。

ホッとする瞬間


横手公園からいったん外に出て、ワタクシは簡易裁判所を目印にしてね。
するとほどなく案内を発見!さりげない「P」も嬉しいじゃないですか!!

本当にありがたい瞬間


駐車スペースは案内のところから少し先へ進んだ右手。ごっつあんです!
所有者の方はもちろん「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」にも感謝です。

うっかりしていた瞬間


いそいそとお墓に向かいます・・・あ!正純「父子」の墓だった(*°∀°)=3
息子さんの存在に気づいてなかったけど、一緒にお参るからまぁいいね。

顕彰されていた瞬間


一角がきれいに整備され、墓碑の他、案内板や句碑なども建っています。
明治41年に横手区裁判所や検事局職員の方が建立したものなんだそうです。

合掌の瞬間


左が子の正勝、右が正純さんの墓碑。白い花が活けられてお手入れされてる!

永禄8年(1565)、三河に生まれた本多正純は父の佐渡守正信とともに
家康の側近として重用され、家康の死後は老中として秀忠に仕えました。
家康存命中の慶長13年(1608)に小山藩3万3千石の大名に取り立てられると
後に2万石加増。元和5年(1619)にはさらに宇都宮藩15万5千石に加増されます。

しかし元和8年(1622)、釣り天井事件などの嫌疑を突きつけられ所領没収、
由利5万5千石へ転封を命じられます。ところが謀反に覚えのない正純は拒否。
これが秀忠の怒りに触れ、本多家は改易。佐竹家預かりで由利に配流となります。
寛永元年(1624)、佐竹義宣に召し預けになると正純は横手に移され、
厳重な監視のもと幽閉生活を送り、寛永14年(1637)73歳で亡くなりました。

息子の正勝さんは体を壊して、寛永7年(1630)35歳で亡くなったって。

大人の事情は色々と複雑だった瞬間


「本多上野介正純父子終焉之地」の碑とともに、父子が横手で寂しく
生涯を終えることになったいきさつ(超ダイジェスト)も案内されてます。

釣り天井事件っていうのは、正純の失脚を狙った言いがかり的なやつです。

元和8年(1622)、2代将軍秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、
宇都宮城に泊まることになったことから、正純が城の普請や造営を行ったら、
「秀忠を暗殺しようとして釣り天井を造った!」という嫌疑をかけられた挙句、
鉄砲密造や城の無断修築とか他の罪まで着せられて失脚させられたという…。

結局、釣り天井は存在しなかったことが後になって判明したらしいけど、
自分の城で天井を落として殺すとか普通に考えてマジないから(*°∀°)=3

でもさ。狙ったが最後。無理をゴリ押す幕府もやっぱ怖いなって思う反面、
そうまでして排除される正純さんも相当アレレな所があったんだろうなって。
秀忠やブレーン世代にとっては、許しがたいウザさだったのかもしれない。

さみしさあふれる瞬間


墓所には正純が横手で詠んだという句が刻まれた碑もありました。

「陽だまりを恋しと想ううめもどき、日陰の紅を見る人もなく」

正純さんって才気ばしったイメージがあるけど、晩年は見る影もなく。
政権の中心から一転、幽閉の身となった日々はさぞ寂しかっただろうね。


さーて。お参りが済んだら車に戻って次へゴー!
江戸時代からいっきに平安後期に行くわよ!!!


後三年の役古戦場に出陣!〜に続く



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2018.11.23 Friday 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!

稲庭の広沢寺から、湯沢市にある清凉寺にやってきました!
秋田の佐竹市の分家である佐竹南家のみなさんのお墓参りをするのです。

解放的だった瞬間


市街を見下ろす小高い所にある清涼寺。住宅街の狭い道から参道に入り、
しばらく登れば本堂は目の前!車を停めてイソイソとお参りに向かいます。

ひとつ利口になった瞬間


「佐竹南家の塋域(えいいき)」と書かれた立派な説明がありました。
塋域ってのはお墓のこと…ってワタクシ今まで知らなかったんだけど(*°∀°)=3

佐竹南家は常陸の大名、佐竹家15代義舜の弟、義里を祖とする家で
北家、東家、西家とともに、佐竹宗家を支えた分家になります。
佐竹南家、西家、東家、北家って呼び方は佐竹氏が常陸にあった頃、
太田城から見た屋敷のあった場所で決められたものなんだって。

迷いようがなかった瞬間


本堂裏の高台を少し登ります。1本道なので案内がなくても分かる!

清凉寺は慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田への国替えに伴い、
湯沢に入った南家3代義種が菩提寺として清凉寺を建立したそうです。

佐竹義宣に希望の地を聞かれた義種は「雄勝・湯沢の域は狭いが
最上領にも伊達領にも近い」と湯沢城を切望したというから男気あふれすぎ!

気持ちが引き締まる瞬間


こちらが佐竹南家初代から18代までの当主が眠る塋域。
木立に囲まれた静寂な空間は、とても厳かな雰囲気。

聖域感ハンパない瞬間


どれが誰か分からないけど、18人前の立派なお墓がずらっと並んでます。
初代義里、二代義尚の墓碑と位牌は国替えの時、常陸から移されたんだそう。

気になる瞬間


真ん中にひとつだけ他の墓碑とは違う感じのお墓もあった…ダレの?

元和6年(1620)、湯沢城は4代義章の時に一国一城令で破却されますが、
佐竹南家はその後も二百数十年に渡ってこの地を治め、明治を迎えました。
仁政を施したそうで、人々から「湯沢様」と親しみ敬慕されたみたいです。

ほぼ決めつける瞬間


入り口で見た立派な案内版によれば御位牌もココに納められてるとか。
扇の紋(月がないけど)がついてるこれが位牌堂ってことになのかなぁ?

あっさりしている瞬間


お寺の裏にある山が湯沢城跡。元は稲庭城の支城として小野寺氏が築いたもので、
一国一城令で破却されたけど、今もまぁまぁ遺構が残っているみたい。

だからワタクシ、出陣計画を練ってる時に寄れたらなって考えてたんだけど、
歩いて登る時間はない! 車で行けるらしき林道がわからない!で見送ったw

今回は行きたいところが多すぎる!さっさと予定通り次の横手城に行かねば!!

…って一国一城令どうなってんw と思いつつ急いで横手に向かいます!


横手城に登城!〜に続く



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2018.11.07 Wednesday 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

広沢寺にて小野寺道広のお墓参り

稲庭城の次は城下にある広沢寺へやってきました!
正直言ってワタクシ、道広さんが誰なのかよく知らないんだけど(*°∀°)=3

キレイだった瞬間


ナビに言われるまま来たけど稲庭城から車で5分くらい?で近かった。

広沢寺は長禄元年(1457)稲庭城主小野寺道広が開基して菩提寺にした
曹洞宗のお寺で、正保4年(1647)現在の場所に移されたんだそうです。

ヒョロッとしていた瞬間


中に入ると珍しい形の鐘楼門がお目見え。山門って個性的なお寺が多いよね。
説明には「山門は楼門形式の四脚門」としかなく、建立時期は不明ですw

浄化力が高そうだった瞬間


屋根が入母屋造りの本堂は寛政元年(1789)に建てられたらしいんだけど、
のわりに古びた感じがなく、庭もキレイにしてるから気持ちのいいお寺だなって。

迷いもうろつきもなしだった瞬間


道広さんのお墓は本堂左手奥にすんなり発見!案内とかも出てなかっし、
いつもみたく意地でも探しあてるモチベじゃなかったわりにミラクルw

いい加減だった瞬間


稲庭城で見た写真は五輪塔だけだったけど、覆堂ができて綺麗になってる!

道広さんは稲庭城の9代城主のようです。稲庭城を築いた小野寺重道から
数えてってことなのかなぁ(たぶん)。道広さんがここを菩提寺にしたのが
長禄元年1457ってことだから室町半ばでしょ。まぁ大体そんな感じかw

おもむろに合掌の瞬間


小野寺氏が県南でブイブイ言わして勢力拡大している頃の武将よね。
思い入れられなくて申し訳ないから、敬意を持ってお参りしました。


さぁ稲庭はこれで完了!

せっかくだからお城近くにある佐藤養助商店本店で稲庭うどんを食べたかったけど、
お店の前を通ったら昼前でも長蛇の列(*°∀°)=3 開店前から並ばなきゃムリw

気持ちを切り替えてさっさと次に行こう!


清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!〜に続く


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2018.10.26 Friday 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

正源寺にて鮭延秀綱のお墓参り

戸沢家墓所の次は秋田の方へ向かいつつ、真室川にある正源寺へ!
ここでは最上家のイケ武将 鮭延秀綱さんのお墓参りをするのです。

まぶしすぎた瞬間


県道から少し入った所にある狭い山門を抜けられれば駐車場に行ける(*°∀°)=3
通りから奥まっている上、さらに線路まで越えた先にあるちょっと珍しいお寺です。

異色のコラボだった瞬間


線路を越えるどころか、なんなら荘厳すぎる立派な総門が踏切の真ん前!
昭和36年に出羽三山の湯殿山大日坊から移築された町指定の文化財なんだって。

お参りしづらいタイプの本堂だった瞬間


正源寺は天文5年(1536)小野寺氏家臣の鮭延城主、佐々木典膳貞綱が菩提寺として
鮭延山総国寺を建立したのが始まりで、子の鮭延秀綱の時代に現在の場所に移され、
三弘山正源寺と改められました。当時からか分からないけど曹洞宗のお寺です。

鮭延氏はお名門「近江源氏の佐々木氏」の一族で、出羽に下って小野寺氏に仕え、
鮭延の地に入ったことから、地名を取った鮭延を名乗るようになりました。

自信マンマンの瞬間


鮭延さんのお墓は境内ではなく、いったん総門を出た左手の墓域奥にあります。
境内にも途中にも墓所への案内は一切なかったから、調べてきてよかった!

かけよる瞬間


ずっとまっすぐ進んで、木立の中にこんな感じのが見えてきたら到着!
真ん中が鮭延さんのお墓なんで、アレを目がけてつっこんでいきます。

ありがたがる瞬間


道順や案内はないけど、お墓の前にちゃんとした標柱があるのが嬉しい。
鮭延さんのお墓は茨城県古河市の鮭延寺にもあって、そちらに比べるとココは
建立の経緯がわからないんだけど、そんな古くはなさそうな雰囲気だよね。

思い込みが激しい瞬間


こちらが鮭延さんのお墓。シュッとして佇まいが美しい五輪塔です。
でも生一本っていうか、人柄が清らかな印象にすごい合ってる気がする!

鮭延秀綱は横手城主小野寺氏に仕えた佐々木貞綱の子として生まれましたが、
庄内大宝寺氏の侵攻を受けた際に捕らえられ、幼少期は小姓として仕えたといいます。

その後、秀綱は大宝寺から解放されると、家督を継いで鮭延城主となりますが、
天正9年(1580)、出羽を平定した最上義光の侵攻を受けると激しく抵抗するものの、
調略による内部切り崩しを受けて降伏。本領を安堵されて最上氏に仕えると、
最上領北方の要として、旧主小野寺氏攻略など交渉や戦の両面で活躍しました。

想像をはためかせる瞬間


しっとりした石には「正源寺殿前越州大守松雲宗長大居士」と刻まれてます。
武勇に秀でつつ温柔敦厚というステキ武将ですから、念入りに合掌しますとも!

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに呼応して起きた慶長出羽合戦では、
直江兼続率いる上杉軍2万に包囲された長谷堂城へ救援に駆けつけると、
城将志村光安を助け、獅子奮迅の働きで上杉軍の本陣に迫る活躍をします。

その戦いぶりは直江兼続に「さても今日、鮭延が武勇、信玄、謙信にも覚えなし」
と言わしめたほど!少ない手勢で何百も首を取ったというからマジ驚きじゃない?

そして関ヶ原の後、この戦功により最上義光が57万石の大大名になると、
秀綱も真室城1万1500石を与えられ、重臣として最上家を支えていきます。

しかし元和3年(1617)、義光の跡を継いだ家規が36歳で亡くなると家督をめぐり家中は対立。
家規の子、13歳の義俊派と、義光の四男、山野辺義忠派の争いがお家騒動に発展すると、
元和8年(1622)最上家は改易され、秀綱も老中、土井利勝の預かりとなりました。

ちなみに鮭延さんは家規の弟、山野辺推しだった人。権力がどうこうってより、
山野辺さんの方が器量人だったらしいから、最上家によかれと思ったんだろうね。
義俊は若いし、義俊派の人たちも残念なメンツがそろっていたみたいだし(*°∀°)=3

泣きそうになる瞬間


墓石の横には欠けてる所が気になるけど、「正保3年6月古河卒去」の文字が。
鮭延さんが亡くなったのは茨城県古河市。この晩年がまたグッと来るのよ。

土井利勝の預かりとなった鮭延さんの元には「乞食をしてでも殿を養いたい!」って
激アツな家臣が20人もついてきて、無禄でずっと鮭延さんを支え続けるんだよね。

実際、土井家預かりじゃなくなった後しばらく、鮭延さんwith家臣たちは
肩寄せ合って、その日暮らしみたいな生活をしてたみたいなんだよね。
でもすさんだりすることもなく、貧しくても清く正しくちゃんと生きた。

その後、鮭延さんは土井利勝に迎えられ、5000石!を与えられるんだけど、
激アツ家臣に分け与え、自分は家臣の家を1日置きに転々として暮らしたって…。

そして寛永10(1644)、土井家の領地替えに伴い、佐倉から古河に移った2年後、
正保3年(1646)6月死去。鮭延さんの死を大いに悲しんだ家臣たちが菩提を弔うため
建てたお堂が、もう1つのお墓がある古河市の鮭延寺(けいえんじ)なんですね。

鮭延さんって生年がハッキリしないから微妙なんだけど、享年は80代のハズ。
還暦の頃に主家が取り潰されながら、全て失っても慕ってくれる家臣に囲まれ、
最後まで自分の信念に従って生きたって意味では穏やかな晩年だったのかな。

にしても、にしてもですよ!

「乞食をしてでも殿を養いたい!」って家臣の気持ちがマジ震える!!

故郷も親兄弟も捨てて、ただただ鮭延さんのことだけ思って山形を出て、
ホントにずっと尽くすんだもんね。主従どちらもハートがありすぎてw

こりゃやっぱ古河市の鮭延寺にもお参りいかなくちゃね。

地味に嬉しい瞬間


帰る時、偶然、奥羽本線が通ったのが少し嬉しかったw


お寺の近くには鮭延城もある・・てかもう本堂の後ろに見えてる山がソレだけど、
時間もないし、まーとにかく自然のまんま的な感じらしくて真夏の今は無理と!


てことで、次はいよいよ秋田入り! 久々に怒涛の進軍するわよw


稲庭城に登城!〜に続く



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2018.10.08 Monday 12:40 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

戸沢家墓所に参拝!

新庄城の次は新庄藩藩主、戸沢家の墓所にやってきました。

戸沢家の墓所は瑞雲院と桂嶽寺の2ヶ所で、まずは歴代墓所のある瑞雲院から。
あ、そういえば新庄城の説明では「戸澤」の字が使われてたけど、
こちらの墓所は「戸沢」なので、表記はそれに合わせておくからね!

イヤな予感しかしなかった瞬間


新庄城(最上公園)からは車なら数分。案内も出てて分かりやすい。
で、いい感じに駐車場に乗り入れた瞬間、工事中ぽい看板・・え(*°∀°)=3

ホッとしていた瞬間


屋根の葺替えらしいけど中には入れるようなので気を取り直して説明板を読み、
ボックスの中に置かれていたパンフレットももれなくいただきます。

戸沢氏は応永31年(1424)、13代家盛の代に秋田県角館城に居を構え、
戦国大名としての地位を築き、その8代後、政盛の時に常州松岡へ国替えとなった後、
元和8年(1622)新庄に入封。新庄藩祖、政盛から11代続いた大名です。

贅沢は言わない瞬間


墓所の入り口にある表門は養生されてて雰囲気ないけど、まぁ仕方ない。
名称は「戸沢家墓所」となってるけど廟所よね。霊屋が建立されています。

貴重だった瞬間


こちらの霊屋は歴代藩主が亡くなって建立された当時のまま現存しているもの。
老朽化のため、平成6年から明治40年の古図の状態に保存修理したそうで、
表門もその時、一緒に復元されたようです。今は防災施設も設置されてます。

厳かだった瞬間


入ってすぐ左側にあるのがこの3棟。手前が4号棟で6代・10代藩主の御霊屋。
真ん中6号棟は8代・9代・11代の他に、8代正室や戸沢家累代の墓もありました。
そして右が3号棟。こちらは4代藩主と正室、息子や2代正誠の三女も一緒に。

圧倒されている瞬間


配置はこんな感じ。1から6号まで亡くなった藩主の順で建立されてます。
建立者が次の藩主になってるの見ると、代々続いた大名なんだな〜って。

風格ある瞬間


前が空いてて写真が撮りやすい4号をじっくり見てみた。すごい重厚。
霊屋の大きさそれぞれだけど全て総欅の単層宝形造り。屋根は全て茅葺!

みっしりすぎた瞬間


葺き替えを順番でやって、多分これは終わったばかりなんだろうね。
厚みがあって切り口もピシッとそろってすごいキレイじゃない?

立って半畳だった瞬間


霊屋の中をのぞくとそれぞれの大きな墓石が納まっているのが見えます。
これは6号だったかな。墓石がデカいので8人のところは結構ギッシリめw

やらかす瞬間


廟所の片隅には殉死者の墓も。1号棟の前にあるから初代政盛の家臣かなぁ…
とか思ってたら、ワタクシ見事に1号棟の写真撮り忘れてた(*°∀°)=3

手入れは大事だった瞬間


2号棟は絶賛、葺き替え中!この時は作業してなかったから覗き見たら、
ガッツリ足場が組まれた上にチラ見えするボロッちい茅葺が切なかったw

ぺっちゃんこすぎだった瞬間


だってほら、葺き替えの順番がまだ来ない隣の5号棟なんてこんな有様よ。
でもこうしてお金と手間をかけて、ずっと大切に守られていくんだね。

なんとなく雑だった瞬間


そしてこちらが瑞雲院にほど近い所にある桂嶽寺。2代藩主正誠の墓所です。
同じ国史跡でも歴代藩主の霊屋がある瑞雲院に比べると何となく・・・笑

がっくりしていた瞬間


あんまりお寺っぽい佇まいじゃないので、戸惑いながら本堂に向かったら、
ちゃんと案内があって一安心!しかーし。パンフレットは品切れなのであった。

苔ですべりやすかった瞬間


案内に沿って本堂の裏手にある小山を登って行く感じで進みます。
足元も危ないんだけど、ヤブ蚊もたかってくるので油断できません!

ヤブ蚊に負けず寄り道する瞬間


途中に幼くして亡くなった、正誠の愛児政武ちゃんの墓所もあります。

こちらのお寺は初代政盛が大田村に万年寺を建立したのが前身で、
2代正誠が政武の菩提を弔うため、寺を城から見えるこの地に移し、
政武の法名にちなんで「桂嶽寺」と改めたものなんだって。

寂しすぎた瞬間


政武ちゃんのお墓は広い空間にポツーン・・・寂しすぎ(*°∀°)=3
墓石には「桂嶽寺殿天質慈香大禅定門」と刻まれていました。

雨上がりは危険だった瞬間


正誠さんの霊屋は政武ちゃんのお墓からさらに登った上のようです。
石が敷いてあるけど石も滑るし、苔も滑るしでまぁまぁ難儀しました。

寂しい感じがする瞬間


正誠さんの霊屋はおひとり様仕様なのか、こじんまりした造りですよ。
1人だけ廟所が別なのは、政武ちゃんと一緒がよかったからなんでしょうね。

2代正誠は戸沢家歴代の中で60年以上と最も長く藩主を務めた人で、
城下町の整備、寺社建立や銅山開発などを行って藩政を安定させ、
晩年、養子の正庸に家督を譲り、享保7年(1722)83歳で亡くなりました。

お金と手間の心配をする瞬間


瑞雲院と違って、正誠さんの霊屋は近年木羽葺きに替えられたそう。
茅でも板でもどっちにしろ定期的なメンテナンスが大変そうだよねぇ。


さて〜これで新庄市でやることは終わった!秋田に向けて進むぞー!



正源寺にて鮭延秀綱のお墓参り〜に続く


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2018.09.29 Saturday 16:13 | comments(1) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り

大谷吉継の首塚の後は、元祖バサラ大名、佐々木道誉のお墓参りへ。
京極家墓所で拝めなかった分、甲良町にある道誉の本拠地に乗り込んでリベンジです!

乗り込む瞬間


勝楽寺は暦応4年(1341)、佐々木道誉を開祖として建立された臨済宗のお寺。
寺名は道誉の法号、勝楽寺殿徳翁道誉から取られたそうですよ。

当時は居館もあり、道誉は41歳から78歳で亡くなるまでこの地で過ごしました。
この山門は後ろの山にあった勝楽寺城の城門を江戸時代に移築したもの。
信長の六角氏攻めの時に焼き払われ、山門だけが残っているそうです。

残念すぎた瞬間


山門をくぐった先にある本堂は新しめ。中には道誉の肖像画があるんだけど、
普段は見られないみたい。本物は国重文で京都国立博物館で見れるんだって。

盛り上がる瞬間


勝楽寺のある周辺は「道誉の郷」として、ただいま絶賛盛り上げ中w
道誉「四ツ目結紋」のついた旗(何色もある)があちこちに立っていました。

ややこしい瞬間


道誉さんのお墓は分かりやすく、本堂左側を進んだところにありました。
手前にはツツジが咲き誇ってたけど、墓域はなんとも渋目な佇まいじゃない?

佐々木道誉は北近江守護、近江源氏佐々木氏の分家である京極家の5代当主。
本家が六角を名乗ったので佐々木六角氏、佐々木京極氏と区別されたらしく、
京極道誉とも呼ばれます。「道誉」は出家後の法名で俗名は「高氏」さんです。

色々混ざると分かりづらいから、ワタクシは「佐々木道誉」でいっとくね!

バサラは外せなかった瞬間


鎌倉末期、南北朝時代の武将で落髪して道誉と号し、足利尊氏に従って大功をあげ、
京極家の地位を確立。茶や狂言文学などのたしなみも深く「バサラ」と呼ばれた・・・

お墓の入り口にある説明が、めっちゃダイジェストだった件(*°∀°)=3

幼くして京極家の家督を継ぎ、鎌倉幕府の執権、北条高時に仕えた道誉は
嘉暦元年(1326)高時の出家とともに出家し、30歳で「道誉」となりました。

道誉は出家後も北条家に仕え、元弘2年(1332)討幕に破れた後醍醐天皇が
隠岐に配流される際の警護を行うなど、幕府側としての務めを果たします。

しかし元弘3年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が、再び討幕を呼びかけると、
呼応した足利尊氏に従って反旗を翻し、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、道誉は雑訴決断所奉行人となりますが、
新政権に参加しない尊氏が天皇に反旗を翻すと、朝廷側として出陣しながら、
土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍の勝利に大きく貢献します。
そして尊氏が幕府を開くと、道誉は若狭、近江など要地の守護職を歴任し、
尊氏、義詮と2代にわたって足利家に仕え、政権を支えました。

風流だった瞬間


こちらが道誉さんのお墓。苔むした宝篋印塔は南北朝期のものだそうで、
約700年もの間、雨風ときどき戦火にさらされた風化具合がハンパない!
豪華できらびやかな「バサラ」廟より、むしろあってる気がするって思った。

「婆娑羅(バサラ)」っていうのはサンスクリット語から来ている言葉で、
この時代には「派手、乱暴、無遠慮、型破り」の意味で使われたんだって。
道誉さんはその圧倒的ナンバーワン! で「バサラ大名」と呼ばれたのね。

派手な服装をして権威を恐れぬ破天荒なふるまい。やること全てが豪奢豪快!
太平記から有名なエピソードをひとつ、超ダイジェストでご紹介します。

暦応3年(1340)10月、鷹狩の帰途、門跡寺院の妙法院を通りかかった道誉さん。
寺の紅葉があまりにキレイだからと、家来に命じて一枝折らせたところ、僧が出てきて
「御所の枝を折るとは何だ!」と怒りだします。すると「御所って何よ? 片腹痛し!」
と道誉さん嘲哢しながら、さらに太い枝を折らせたもんだから僧侶たちは大激怒! 
紅葉の枝を奪い取ると、家来をフルボッコにして門外に放り出しました。

「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を」

キレた道誉さんはその夜、300の手勢で妙法院を襲撃し、焼き払ってしまいます。
道誉の息子なんて逃げ惑う門主の若宮までボコボコにしたというからすごい!
相手がダレでも関係ないし、権威に負けて引き下がったりもしないわけです。

普通に考えたらすごい暴挙だけど、当時の人々は「ざまみろ!」って大喜びw
妙法院の本山は比叡山延暦寺で、権威を笠に僧兵が乱暴するから嫌われてたのね。

しかし比叡山延暦寺が黙っているはずもなく、道誉父子の死罪をしつこく要求。
朝廷から処分を求められた幕府はやむを得ず罪一等を減じ、上総への配流とします。

ところが道誉さんは消沈するどころか、上総へ向かう道中に300人の供を連れ、
全員に猿の皮で作った腰当と矢入れをつけさせ、鶯のかごまで持たせて出発すると、
道々で酒宴を催し、宿では遊女を呼んで、流人と思えぬバサラ行列で大行進!

猿は比叡山の日吉神社のお使いだから、道誉さんあてこすりも規格外(*°∀°)=3

結局、道誉さんは上総に行かず、翌年には京に戻って幕政に復帰してるので、
配流は尊氏と示し合わせた事かもしれないけど、バサラ風味が痛快すぎ!

アトラクティブだった瞬間


オレ様流で破天荒な道誉さんはまた、当代きっての一流文化人でもありました。
華道、茶道、香道を極め、連歌の腕も超一流。笛や猿楽の保護にも熱心で、
観阿弥世阿弥のパトロンとしてその後の文化にも大きな影響を与えました。

そんな道誉さんは晩年、大原野で人々が仰天するド派手な大蕩尽会を催します。
政敵の管領斯波高経が将軍御所で花見の宴をやるよ!って言ってる日にあえてw

4本の桜の根元に巨大な花瓶を置いて活け花に見立て、香木一斤を焚上げ!
会場は豪華絢爛に飾りつけ、贅をこらしたたくさんの料理や名菓、美酒を並べ、
都中から集めた猿楽師や白拍子の芸を楽しみ、夜は松明をともして大騒ぎ!

人々はうっとり夢見心地で「さすがバサラの道誉」と都中の評判になり、
完全に面目をつぶされた斯波高経は、大いに悔しがったといわれています。

権勢をふるって気に入らない高経をギャフンと言わせた道誉さん(*°∀°)=3

これをきっかけに対立が深まると、政治闘争で高経をやっつけて、
細川頼之を管領に推挙して隠居。応安6年(1373)78歳で亡くなりました。

私本太平記ではしたたかで食えない所を強調して描かれた場面も多いけど、
北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、義詮ともれなく時の権力者につかえて、
カオスな時代を生き抜いた道誉さん。ワタクシはこういうの好きな方だしw

へたれな瞬間


お寺の裏手には勝楽寺城跡があります。応安元年(1368)道誉さんが
高築豊後守に命じて築いたもので、信長の六角攻めで廃城になっています。

ハイキングコースとか気楽な感じに見えるけど、結構きついらしい(あも調べ)。
少し遺構も残っているようだけど、ワタクシは墓参りだけで満足ですw


甲良町といえば高虎出生地の高虎公園も近いのでめぐりの際はぜひご一緒に!

でもワタクシは今回、北近江の取りこぼし回収めぐりなので、
立ち寄りたい思いはしつつも、今回はスルーして次へ移動します!


八幡山城へ登城!〜に続く



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2018.09.07 Friday 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り

鎌倉末期の蓮花寺から、いっきに戦国時代に飛んで大谷吉継の首塚にお参りです。

大谷さんのお墓は畑のど真ん中というとっても分かりづらい場所にあるので、
ナビで近くの幼稚園を目指して、後は地図を見ながらアプローチする作戦。

唯一の目印だった瞬間


畑の中 大谷さんのお墓に行く入口の目印は、住宅街にある下多良神社。
奥ののぼり旗が立っているところから入っていけます。車はここに停めました。

あきらめた瞬間


来るまでの道筋に案内はなかったと思うので調べて来ないと分からないね。
のぼり旗の向きを何度か直してみたけど、風が強くてすぐ元に戻ってしまう。

かけよる瞬間


入口を入って畑の間のあぜ道を少し歩くと・・・おお、見えてきました!!
小さい畑の一角とかじゃなく、広い畑地帯のド真ん中にあるってすごくない?

関ヶ原で西軍として奮戦するも、小早川秀秋の裏切りによって敗北を悟った吉継は、
首を渡すまいと家臣、湯浅五助の解釈で自害。吉継の甥の僧、祐玄が首級を綿の袋に入れて
敦賀への逃亡の途上にこの地に埋め隠したと伝わり、地元の人が大切に守ってきたそうです。

自害した吉継の首は湯浅五助が地中深くに埋めた・・・って説もあるけど、
どれが真実とかどうでもよくて、何としても首級を渡すまいとした主従の意地や、
吉継を慕って偲ぶ人の気持ちがずっと続いているってことが感動だよね。

なんたって風が強すぎた瞬間


ここでも「大谷吉継公の首塚」が旗が見えるよう格闘したけど無理で(*°∀°)=3
遠く鉄塔の奥にうっすら見えるシルエット、あれ伊吹山ですよ多分w

西軍として共に戦った盟友、石田三成が捕縛されたのが伊吹山のあたり。
首を埋めたココも含めて、関ヶ原からだいたい10キロ圏内って距離感を思えば、
東軍の警戒網や残党狩りがどれほど厳しかったか、分かる気がしてきます。

地元愛あふれる瞬間


こちらが大谷吉継の首塚。周りは畑だけど雑草もなくキレイに整備されてます。
柵とかベンチが出来たのは最近で、昔はホントに祠がぽつんと立ってたようです。

胸が熱くなる瞬間


案内板には平成23年って書いてあるから、訪れる人が増えて整備されたみたい。
義を重んじ、友情を貫いた吉継さんは、現在だって人気ある武将ですもんね。

秀吉に「100万の兵を与えて指揮をとらせてみたい」と言わしめた智謀だけでなく、
温厚な人格者で家臣ばかりか、他の武将からの信頼も厚かったといわれます。

関ヶ原の時には東軍に加わるつもりのところ、親友である三成に説得され、
無謀と知りながら西軍につき、それでも最期まで全力でその義を貫いてます。

病気で盲目な上、体も不自由だったので輿の上から指揮したっていうけど、
多勢を相手にしながら、大谷隊はめっちゃ強かったですよね・・・泣けますわ。

勝手に共感する瞬間


覆屋の中には小さな五輪塔が・・・いい写真が1枚もなくてびっくりした(*°∀°)=3

吉継さんは最期の時、「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」と、
裏切った小早川に対する呪いの言葉?を吐いて自害したとも言われています。

実質5000くらいの兵力で一時は優勢になるほど必死で戦ったんですモンね。
いくら人格者だって祟ってやりたくなる気持ち、よーーく分かりますとも!

またもや気安く語りかけながら、でも丁寧にお参りして首塚を後にしました。


さーて次は徳源院のリベンジ! 道誉さんピンのお墓にお参りします!


勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り〜に続く


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2018.08.31 Friday 15:00 | comments(4) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

蓮華寺にて北条仲時のお墓参り

京極家墓所の次は通り道だし、道誉からの南北朝つながりで蓮華寺へ!
六波羅探題北条仲時と家来たちが自刃して果てた地でお墓参りをするのです。

ちょっと興奮する瞬間


通り沿いに目立つ柱碑があって、お寺はここから参道を少し入った先にあります。
この辺は東山道(中山道)「番場宿」として栄えたらしいけど今は静かな街並み。
鎌倉末期のめぐりが久々のせいか「南北朝」の文字がやたら新鮮に見えてますw

雰囲気を味わう瞬間


参道の先に見えるのがこちらの山門。勅使門ということで閉じられてます。
風情ある佇まいだけど、真後ろが名神高速なので静寂って感じじゃないかも。

蓮華寺は聖徳太子によって開かれたと伝えられ、当初は法隆寺と称していました。
歴代天皇の信仰も厚く花園天皇(1308〜18)から菊の紋を下された浄土宗の古刹です。

勅使門のすぐ向こうが本堂なんだけど、境内には左から廻って入ります。

失神しそうになる瞬間


山門横には「血の川」と書かれた立て札。「北条仲時と家来たち432名が
本堂前庭で自刃した鮮血が滴り流れて川の如し」って・・・マジ怖すぎる。

ワタクシは今回、佐々木道誉や北条仲時のお墓参りをするにあたり、
太平記を改めてざーっとナナメ読みしてますから妄想力アップ中なんです。

想像するのも怖かった瞬間


境内に入ってその本堂前がこちら。狭くはないけどすごい広くもない。
当時とは違うでしょうけど、ここで432人一斉なら血の川も大げさじゃなく・・。

元弘3年(1333)、足利高氏ら反北条軍に包囲された六波羅探題北条仲時は
光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて東国へ落ち延びようとしますが、
番場の宿にたどりついたところで佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれます。

仲時はやむなく天皇や上皇を蓮花寺に移して、防戦するものの破れると
蓮花寺の本堂前庭で自刃。一族432人も後を追いことごとく果てました。

波乱だらけだった瞬間


本堂にかかる扁額は後水之尾天皇筆なんだけど、それよりも光厳天皇ですよ!
太平記によると死体の山、血の海って凄まじい有様を見て茫然自失だったって。

余談だけど光巌天皇はこの後、五宮の軍に捕まって京の都に幽閉されて、
復帰した後醍醐天皇から「天皇として即位していないが特例で上皇待遇とする」
とかうまいことやられ、天皇即位の事実自体を無効にされちゃうんです。

で、色々あって尊氏が室町幕府を成立してしばらくは治天の君として北朝で
院政を行うんだけど、今度は尊氏と弟直義の争いに巻き込まれて南朝に拉致され、
幽閉先で出家。45歳で京に戻ることを許されるとひたすら仏道に励み、
高野山などへ巡礼の旅に出た後、余生を常照皇寺で過ごし52歳で崩御という・・。

光巌院の波乱人生もすごい興味深いし、人間くさい感じも親しみ持てて
ワタクシ陵墓とか興味ないけど常照皇寺はそのうち参ろうと思ってるんだ。

知ったかぶらない瞬間


ではお墓参りに行きましょう。本堂の右手に墓所の入り口案内板があります。
横にあるのは(伝)鎌刃城主土肥元頼の墓だそう。誰か分からないけど(*°∀°)=3

気を強くもつ瞬間


入口から少しだけ登るみたいです。木立が茂ってて日当たりイマイチ。
もし無念で漂ってる方がいて連れ帰っちゃうと困るから気張って歩いてく!

シェアされる瞬間


途中には明治時代に建てられたらしい紀念碑もありました。
義に生きるとか忠義の士とか日本人は大好き。仲時さんも人気!

仲時は自害する際、家来たちに「武運が傾いて北条の滅亡が分かっているのに
ついてきてくれたことに感謝。でもそれに報いて何も出来ないのが残念だ。
自分の首を討って手柄とし恩賞を得よ!」と言い終わらぬうち鎧を脱ぎ、
切腹して果てたと言います。享年28歳。コレ武将の最期で一番泣けるやつね。

原文の方が仲時のセリフが泣けるからちょっと載せておく。

「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら・・・(中略)
早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ」

静寂の瞬間


紀念碑から少し登った左手が432名の墓所。簡単な説明板もあります。
お寺のすぐ裏手は名神高速が走ってるけど、ここはひっそりしています。

蓮華寺の住職だった同阿上人が仲時らの最期に深く同情し、姓名と年齢を記して
過去帳に残し、墓を建てて供養したそうな。過去帳は国の重文なんですって!

無念を思う瞬間


小さな墓石がずらっと寄り添うようにみっしり並んでいます。

仲時が自刃すると家臣の糟谷三郎宗秋は仲時の腹に刺さった刀を抜いて
「死出のお伴仕る」と言って切腹。そして残る全員が2人の後を追って自刃しました。

調べ不足だった瞬間


ここにたどり着くまでに逃げちゃった輩もたくさんいたらしいけど、
それにしても最期まで従った432人全員が自害ってホント壮絶だよね・・。

で、肝心の仲時さんのお墓、真ん中のデカイのかと思ったけど説明読んだら
なんと享保年間(1716〜36)に街道の西の山に移されたんだって(*°∀°)=3

六波羅山っていうらしいけど・・ワタクシもまぁまぁ無念だわw

北条仲時の自刃から13日後、鎌倉幕府も新田義貞に攻められ滅亡しています。
仲時はじめ北条一門、御家人の悲哀や無念を思って念入りに合掌しました。


そして帰りは超ダッシュ! 次は戦国の義の人。大谷さんところに行きます。


長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り〜に続く



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2018.08.25 Saturday 13:16 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

徳源院にて京極家墓所に参拝!

長浜城の次は徳源院へ! 近江の見逃し処をこまごまめぐっていくわよ〜!

静まり返っていた瞬間


弘安9年(1286)、京極氏初代、氏信が建立したという徳源院清滝寺。
天台宗の古刹で観光バスもやって来る有名なお寺だけど、この時は貸し切り。

季節を間違えた瞬間


境内に入ったところに道誉桜と呼ばれる樹齢300年の桜の木がありました。
京極氏5代の佐々木高氏…道誉が植えたと伝わるしだれ桜で2代目らしいです。

段取りも間違えた瞬間


徳源院には小堀遠州作という池泉回遊式庭園もあるので見たかったけど、
受付は閉まってて、拝観は事前に予約って張り紙が貼ってあった(*°∀°)=3

風情漂う瞬間


でもワタクシの目当て第一は京極家のお墓参り。気を取り直していこ!
県指定文化財の立派な三重塔を眺めながら、本堂左奥に向かいます。

焼き付ける瞬間


こちらが国指定史跡の京極家墓所。始祖氏信さんから25代高中さんまで?
歴代当主と丸亀藩など分家の当主5名が合わせて祀られています。

京極氏は宇多天皇に連なる近江源氏、佐々木氏から興った家系。
鎌倉初期の近江守護、佐々木信綱が4人の息子に近江を分けて継がせたうち、
三男康綱が近江南部を与えられて佐々木氏嫡流を継いで六角氏となり、
信綱の死後、近江北部を受け継いだ四男氏信が京極氏を名乗ったのが始まりです。

ちなみに長男は大原氏、次男は高島氏ですが、ワタクシはよく知りません。

ロックオンの瞬間


戦国で行くなら京極家中興の祖、高次というとこなんだろうけど、
ワタクシは道誉さん狙い! 上段VIPフロアを目指せばいいのね!

京極家墓所は寛文12年(1672)、22代高豊が播磨の所領2村とこの地を交換して
菩提寺だった清滝寺を復興し、近隣に散在していた歴代当主の墓碑を集めたもの。
丸亀藩初代の父21代高和の院号に基づいて、徳源院と改められました。

残念極まりない瞬間


と勇んで墓所内に入った途端、目に入った残念なお知らせナニコレ(*°∀°)=3
危ないなら仕方ないけど、目の前に行って道誉さんのお参りしたかったな・・・

佐々木道誉は京極氏5代。南北朝時代、武芸だけじゃなく風流にも通じ、
派手な服装を好んで自由な振舞いをしたことから「婆沙羅大名」と呼ばれた人。
太平記にも出てくるし、教科書にも載ってる超有名なバサラの元祖!

ワタクシは尊氏が好きじゃないので、正直その辺はアレレなんだけども、
独自の美意識や感覚、破天荒な生き方は興味深い人だなって思うの。

個性はなかった瞬間


写真があるので雰囲気だけでも。手前から4つ目・・・ノン婆沙羅ノン個性w
上段VIPフロアはこんな感じで初代から18墓の宝篋印塔が並んでるのねぇ(遠い目)

京極氏は道誉が早くから足利尊氏と通じ、功績を挙げたことから
幕府内での地位を得るものの、勢力は佐々木嫡流の六角氏には及ばず、
戦国期になると跡継ぎ騒動の隙に国人領主浅井氏に乗っ取られてしまいます。

その後、浅井氏の庇護を受け、名目上の北近江守護としてかろうじて続き、
浅井氏が滅亡すると織田家に仕え、高次が再興を目指すこととなりました。

角度が難しい瞬間


じゃ気を取り直して19代高次さん以降の方々のお墓参りをしとこっか。
手前から19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓が見えてます。

特別扱いだった瞬間


さすが中興の祖! 高次さんだけ石廟の中に納められている別格仕様です。

京極高次は幼少期を人質として織田家で過ごして浅井滅亡後に家臣となり、
本能寺の変後は秀吉に仕えると、九州征伐の功により1万石に加増されて
大名に返り咲き、さらに小田原攻めの功で近江八幡山城2万8,000石となります。

そして豊臣秀次が関白になると従五位下侍従に叙せられ、大津6万石に加増。
羽柴姓の苗字公称を許され、豊臣姓も下賜され、従三位参議に任じられました。

関ヶ原では成り行きから西軍につくものの、東軍に寝返り大津城に籠城。
開戦前に落城するものの、西軍別動隊の足止めをした功績により、
若狭小浜8万5千石を与えられました。以降、京極家は松江龍野を経て、
丸亀5万石の藩主として幕末まで続き、明治維新を迎えています。

ひそかにあやかろうとする瞬間


石廟の中は扉の隙間から撮ったので宝篋印塔の一部しか撮れなかったわ。
滅亡寸前から大出世した高次さんは慶長14年(1609年)47才で亡くなりました。

本能寺の変では光秀側につくミステイクをして秀吉の長浜城を攻めたのに
秀吉の側室となった妹の竜子(松の丸殿)の嘆願により許されてラッキー。
そして正室に浅井氏の娘、初を迎えたことで初の姉、淀君の覚えもめでたく、
さらに初の妹、江が嫁いだ徳川秀忠は後の2代将軍・・なんてついてる!

だから「妹や嫁の七光りで出世した」とやっかまれ、影で「蛍大名」と
言われることもあったのだとか・・・言ったの誰や。品がないよね。
閨閥で出世した部分はあるにしろ、そういう運があるのも実力のうち。

再興を目指して戦う気概や根性も多少は見せたからいいじゃんね(*°∀°)=3

とか気安く語りかけながら合掌してお参りは完了! 運上がらないかなw

考えたらすごかった瞬間


墓所内には分家の多度津藩を合わせて、5つの京極家のお墓もありました。
六角氏は信長に滅ぼされてるもんね。滅亡寸前からのこの繁栄はすごい!!

未練たらしい瞬間


高次さんもいいけど、やっぱり上の18基を見たかったよな〜と思い、
遠目でいいからどうにかならんかウロついたけどちょっと無理だったw


でも道誉さんのお墓はなんと、もう1ヶ所あるからレッツゴーおかわり!
その前に道誉と戦って敗れた北条仲時と仲間たちのお墓参りに向かいます。



蓮華寺にて北条仲時のお墓参り〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.08.18 Saturday 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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