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勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り

大谷吉継の首塚の後は、元祖バサラ大名、佐々木道誉のお墓参りへ。
京極家墓所で拝めなかった分、甲良町にある道誉の本拠地に乗り込んでリベンジです!

乗り込む瞬間


勝楽寺は暦応4年(1341)、佐々木道誉を開祖として建立された臨済宗のお寺。
寺名は道誉の法号、勝楽寺殿徳翁道誉から取られたそうですよ。

当時は居館もあり、道誉は41歳から78歳で亡くなるまでこの地で過ごしました。
この山門は後ろの山にあった勝楽寺城の城門を江戸時代に移築したもの。
信長の六角氏攻めの時に焼き払われ、山門だけが残っているそうです。

残念すぎた瞬間


山門をくぐった先にある本堂は新しめ。中には道誉の肖像画があるんだけど、
普段は見られないみたい。本物は国重文で京都国立博物館で見れるんだって。

盛り上がる瞬間


勝楽寺のある周辺は「道誉の郷」として、ただいま絶賛盛り上げ中w
道誉「四ツ目結紋」のついた旗(何色もある)があちこちに立っていました。

ややこしい瞬間


道誉さんのお墓は分かりやすく、本堂左側を進んだところにありました。
手前にはツツジが咲き誇ってたけど、墓域はなんとも渋目な佇まいじゃない?

佐々木道誉は北近江守護、近江源氏佐々木氏の分家である京極家の5代当主。
本家が六角を名乗ったので佐々木六角氏、佐々木京極氏と区別されたらしく、
京極道誉とも呼ばれます。「道誉」は出家後の法名で俗名は「高氏」さんです。

色々混ざると分かりづらいから、ワタクシは「佐々木道誉」でいっとくね!

バサラは外せなかった瞬間


鎌倉末期、南北朝時代の武将で落髪して道誉と号し、足利尊氏に従って大功をあげ、
京極家の地位を確立。茶や狂言文学などのたしなみも深く「バサラ」と呼ばれた・・・

お墓の入り口にある説明が、めっちゃダイジェストだった件(*°∀°)=3

幼くして京極家の家督を継ぎ、鎌倉幕府の執権、北条高時に仕えた道誉は
嘉暦元年(1326)高時の出家とともに出家し、30歳で「道誉」となりました。

道誉は出家後も北条家に仕え、元弘2年(1332)討幕に破れた後醍醐天皇が
隠岐に配流される際の警護を行うなど、幕府側としての務めを果たします。

しかし元弘3年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が、再び討幕を呼びかけると、
呼応した足利尊氏に従って反旗を翻し、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、道誉は雑訴決断所奉行人となりますが、
新政権に参加しない尊氏が天皇に反旗を翻すと、朝廷側として出陣しながら、
土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍の勝利に大きく貢献します。
そして尊氏が幕府を開くと、道誉は若狭、近江など要地の守護職を歴任し、
尊氏、義詮と2代にわたって足利家に仕え、政権を支えました。

風流だった瞬間


こちらが道誉さんのお墓。苔むした宝篋印塔は南北朝期のものだそうで、
約700年もの間、雨風ときどき戦火にさらされた風化具合がハンパない!
豪華できらびやかな「バサラ」廟より、むしろあってる気がするって思った。

「婆娑羅(バサラ)」っていうのはサンスクリット語から来ている言葉で、
この時代には「派手、乱暴、無遠慮、型破り」の意味で使われたんだって。
道誉さんはその圧倒的ナンバーワン! で「バサラ大名」と呼ばれたのね。

派手な服装をして権威を恐れぬ破天荒なふるまい。やること全てが豪奢豪快!
太平記から有名なエピソードをひとつ、超ダイジェストでご紹介します。

暦応3年(1340)10月、鷹狩の帰途、門跡寺院の妙法院を通りかかった道誉さん。
寺の紅葉があまりにキレイだからと、家来に命じて一枝折らせたところ、僧が出てきて
「御所の枝を折るとは何だ!」と怒りだします。すると「御所って何よ? 片腹痛し!」
と道誉さん嘲哢しながら、さらに太い枝を折らせたもんだから僧侶たちは大激怒! 
紅葉の枝を奪い取ると、家来をフルボッコにして門外に放り出しました。

「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を」

キレた道誉さんはその夜、300の手勢で妙法院を襲撃し、焼き払ってしまいます。
道誉の息子なんて逃げ惑う門主の若宮までボコボコにしたというからすごい!
相手がダレでも関係ないし、権威に負けて引き下がったりもしないわけです。

普通に考えたらすごい暴挙だけど、当時の人々は「ざまみろ!」って大喜びw
妙法院の本山は比叡山延暦寺で、権威を笠に僧兵が乱暴するから嫌われてたのね。

しかし比叡山延暦寺が黙っているはずもなく、道誉父子の死罪をしつこく要求。
朝廷から処分を求められた幕府はやむを得ず罪一等を減じ、上総への配流とします。

ところが道誉さんは消沈するどころか、上総へ向かう道中に300人の供を連れ、
全員に猿の皮で作った腰当と矢入れをつけさせ、鶯のかごまで持たせて出発すると、
道々で酒宴を催し、宿では遊女を呼んで、流人と思えぬバサラ行列で大行進!

猿は比叡山の日吉神社のお使いだから、道誉さんあてこすりも規格外(*°∀°)=3

結局、道誉さんは上総に行かず、翌年には京に戻って幕政に復帰してるので、
配流は尊氏と示し合わせた事かもしれないけど、バサラ風味が痛快すぎ!

アトラクティブだった瞬間


オレ様流で破天荒な道誉さんはまた、当代きっての一流文化人でもありました。
華道、茶道、香道を極め、連歌の腕も超一流。笛や猿楽の保護にも熱心で、
観阿弥世阿弥のパトロンとしてその後の文化にも大きな影響を与えました。

そんな道誉さんは晩年、大原野で人々が仰天するド派手な大蕩尽会を催します。
政敵の管領斯波高経が将軍御所で花見の宴をやるよ!って言ってる日にあえてw

4本の桜の根元に巨大な花瓶を置いて活け花に見立て、香木一斤を焚上げ!
会場は豪華絢爛に飾りつけ、贅をこらしたたくさんの料理や名菓、美酒を並べ、
都中から集めた猿楽師や白拍子の芸を楽しみ、夜は松明をともして大騒ぎ!

人々はうっとり夢見心地で「さすがバサラの道誉」と都中の評判になり、
完全に面目をつぶされた斯波高経は、大いに悔しがったといわれています。

権勢をふるって気に入らない高経をギャフンと言わせた道誉さん(*°∀°)=3

これをきっかけに対立が深まると、政治闘争で高経をやっつけて、
細川頼之を管領に推挙して隠居。応安6年(1373)78歳で亡くなりました。

私本太平記ではしたたかで食えない所を強調して描かれた場面も多いけど、
北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、義詮ともれなく時の権力者につかえて、
カオスな時代を生き抜いた道誉さん。ワタクシはこういうの好きな方だしw

へたれな瞬間


お寺の裏手には勝楽寺城跡があります。応安元年(1368)道誉さんが
高築豊後守に命じて築いたもので、信長の六角攻めで廃城になっています。

ハイキングコースとか気楽な感じに見えるけど、結構きついらしい(あも調べ)。
少し遺構も残っているようだけど、ワタクシは墓参りだけで満足ですw


甲良町といえば高虎出生地の高虎公園も近いのでめぐりの際はぜひご一緒に!

でもワタクシは今回、北近江の取りこぼし回収めぐりなので、
立ち寄りたい思いはしつつも、今回はスルーして次へ移動します!


八幡山城へ登城!〜に続く



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2018.09.07 Friday 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り

鎌倉末期の蓮花寺から、いっきに戦国時代に飛んで大谷吉継の首塚にお参りです。

大谷さんのお墓は畑のど真ん中というとっても分かりづらい場所にあるので、
ナビで近くの幼稚園を目指して、後は地図を見ながらアプローチする作戦。

唯一の目印だった瞬間


畑の中 大谷さんのお墓に行く入口の目印は、住宅街にある下多良神社。
奥ののぼり旗が立っているところから入っていけます。車はここに停めました。

あきらめた瞬間


来るまでの道筋に案内はなかったと思うので調べて来ないと分からないね。
のぼり旗の向きを何度か直してみたけど、風が強くてすぐ元に戻ってしまう。

かけよる瞬間


入口を入って畑の間のあぜ道を少し歩くと・・・おお、見えてきました!!
小さい畑の一角とかじゃなく、広い畑地帯のド真ん中にあるってすごくない?

関ヶ原で西軍として奮戦するも、小早川秀秋の裏切りによって敗北を悟った吉継は、
首を渡すまいと家臣、湯浅五助の解釈で自害。吉継の甥の僧、祐玄が首級を綿の袋に入れて
敦賀への逃亡の途上にこの地に埋め隠したと伝わり、地元の人が大切に守ってきたそうです。

自害した吉継の首は湯浅五助が地中深くに埋めた・・・って説もあるけど、
どれが真実とかどうでもよくて、何としても首級を渡すまいとした主従の意地や、
吉継を慕って偲ぶ人の気持ちがずっと続いているってことが感動だよね。

なんたって風が強すぎた瞬間


ここでも「大谷吉継公の首塚」が旗が見えるよう格闘したけど無理で(*°∀°)=3
遠く鉄塔の奥にうっすら見えるシルエット、あれ伊吹山ですよ多分w

西軍として共に戦った盟友、石田三成が捕縛されたのが伊吹山のあたり。
首を埋めたココも含めて、関ヶ原からだいたい10キロ圏内って距離感を思えば、
東軍の警戒網や残党狩りがどれほど厳しかったか、分かる気がしてきます。

地元愛あふれる瞬間


こちらが大谷吉継の首塚。周りは畑だけど雑草もなくキレイに整備されてます。
柵とかベンチが出来たのは最近で、昔はホントに祠がぽつんと立ってたようです。

胸が熱くなる瞬間


案内板には平成23年って書いてあるから、訪れる人が増えて整備されたみたい。
義を重んじ、友情を貫いた吉継さんは、現在だって人気ある武将ですもんね。

秀吉に「100万の兵を与えて指揮をとらせてみたい」と言わしめた智謀だけでなく、
温厚な人格者で家臣ばかりか、他の武将からの信頼も厚かったといわれます。

関ヶ原の時には東軍に加わるつもりのところ、親友である三成に説得され、
無謀と知りながら西軍につき、それでも最期まで全力でその義を貫いてます。

病気で盲目な上、体も不自由だったので輿の上から指揮したっていうけど、
多勢を相手にしながら、大谷隊はめっちゃ強かったですよね・・・泣けますわ。

勝手に共感する瞬間


覆屋の中には小さな五輪塔が・・・いい写真が1枚もなくてびっくりした(*°∀°)=3

吉継さんは最期の時、「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」と、
裏切った小早川に対する呪いの言葉?を吐いて自害したとも言われています。

実質5000くらいの兵力で一時は優勢になるほど必死で戦ったんですモンね。
いくら人格者だって祟ってやりたくなる気持ち、よーーく分かりますとも!

またもや気安く語りかけながら、でも丁寧にお参りして首塚を後にしました。


さーて次は徳源院のリベンジ! 道誉さんピンのお墓にお参りします!


勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り〜に続く


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2018.08.31 Friday 15:00 | comments(4) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

蓮華寺にて北条仲時のお墓参り

京極家墓所の次は通り道だし、道誉からの南北朝つながりで蓮華寺へ!
六波羅探題北条仲時と家来たちが自刃して果てた地でお墓参りをするのです。

ちょっと興奮する瞬間


通り沿いに目立つ柱碑があって、お寺はここから参道を少し入った先にあります。
この辺は東山道(中山道)「番場宿」として栄えたらしいけど今は静かな街並み。
鎌倉末期のめぐりが久々のせいか「南北朝」の文字がやたら新鮮に見えてますw

雰囲気を味わう瞬間


参道の先に見えるのがこちらの山門。勅使門ということで閉じられてます。
風情ある佇まいだけど、真後ろが名神高速なので静寂って感じじゃないかも。

蓮華寺は聖徳太子によって開かれたと伝えられ、当初は法隆寺と称していました。
歴代天皇の信仰も厚く花園天皇(1308〜18)から菊の紋を下された浄土宗の古刹です。

勅使門のすぐ向こうが本堂なんだけど、境内には左から廻って入ります。

失神しそうになる瞬間


山門横には「血の川」と書かれた立て札。「北条仲時と家来たち432名が
本堂前庭で自刃した鮮血が滴り流れて川の如し」って・・・マジ怖すぎる。

ワタクシは今回、佐々木道誉や北条仲時のお墓参りをするにあたり、
太平記を改めてざーっとナナメ読みしてますから妄想力アップ中なんです。

想像するのも怖かった瞬間


境内に入ってその本堂前がこちら。狭くはないけどすごい広くもない。
当時とは違うでしょうけど、ここで432人一斉なら血の川も大げさじゃなく・・。

元弘3年(1333)、足利高氏ら反北条軍に包囲された六波羅探題北条仲時は
光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて東国へ落ち延びようとしますが、
番場の宿にたどりついたところで佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれます。

仲時はやむなく天皇や上皇を蓮花寺に移して、防戦するものの破れると
蓮花寺の本堂前庭で自刃。一族432人も後を追いことごとく果てました。

波乱だらけだった瞬間


本堂にかかる扁額は後水之尾天皇筆なんだけど、それよりも光厳天皇ですよ!
太平記によると死体の山、血の海って凄まじい有様を見て茫然自失だったって。

余談だけど光巌天皇はこの後、五宮の軍に捕まって京の都に幽閉されて、
復帰した後醍醐天皇から「天皇として即位していないが特例で上皇待遇とする」
とかうまいことやられ、天皇即位の事実自体を無効にされちゃうんです。

で、色々あって尊氏が室町幕府を成立してしばらくは治天の君として北朝で
院政を行うんだけど、今度は尊氏と弟直義の争いに巻き込まれて南朝に拉致され、
幽閉先で出家。45歳で京に戻ることを許されるとひたすら仏道に励み、
高野山などへ巡礼の旅に出た後、余生を常照皇寺で過ごし52歳で崩御という・・。

光巌院の波乱人生もすごい興味深いし、人間くさい感じも親しみ持てて
ワタクシ陵墓とか興味ないけど常照皇寺はそのうち参ろうと思ってるんだ。

知ったかぶらない瞬間


ではお墓参りに行きましょう。本堂の右手に墓所の入り口案内板があります。
横にあるのは(伝)鎌刃城主土肥元頼の墓だそう。誰か分からないけど(*°∀°)=3

気を強くもつ瞬間


入口から少しだけ登るみたいです。木立が茂ってて日当たりイマイチ。
もし無念で漂ってる方がいて連れ帰っちゃうと困るから気張って歩いてく!

シェアされる瞬間


途中には明治時代に建てられたらしい紀念碑もありました。
義に生きるとか忠義の士とか日本人は大好き。仲時さんも人気!

仲時は自害する際、家来たちに「武運が傾いて北条の滅亡が分かっているのに
ついてきてくれたことに感謝。でもそれに報いて何も出来ないのが残念だ。
自分の首を討って手柄とし恩賞を得よ!」と言い終わらぬうち鎧を脱ぎ、
切腹して果てたと言います。享年28歳。コレ武将の最期で一番泣けるやつね。

原文の方が仲時のセリフが泣けるからちょっと載せておく。

「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら・・・(中略)
早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ」

静寂の瞬間


紀念碑から少し登った左手が432名の墓所。簡単な説明板もあります。
お寺のすぐ裏手は名神高速が走ってるけど、ここはひっそりしています。

蓮華寺の住職だった同阿上人が仲時らの最期に深く同情し、姓名と年齢を記して
過去帳に残し、墓を建てて供養したそうな。過去帳は国の重文なんですって!

無念を思う瞬間


小さな墓石がずらっと寄り添うようにみっしり並んでいます。

仲時が自刃すると家臣の糟谷三郎宗秋は仲時の腹に刺さった刀を抜いて
「死出のお伴仕る」と言って切腹。そして残る全員が2人の後を追って自刃しました。

調べ不足だった瞬間


ここにたどり着くまでに逃げちゃった輩もたくさんいたらしいけど、
それにしても最期まで従った432人全員が自害ってホント壮絶だよね・・。

で、肝心の仲時さんのお墓、真ん中のデカイのかと思ったけど説明読んだら
なんと享保年間(1716〜36)に街道の西の山に移されたんだって(*°∀°)=3

六波羅山っていうらしいけど・・ワタクシもまぁまぁ無念だわw

北条仲時の自刃から13日後、鎌倉幕府も新田義貞に攻められ滅亡しています。
仲時はじめ北条一門、御家人の悲哀や無念を思って念入りに合掌しました。


そして帰りは超ダッシュ! 次は戦国の義の人。大谷さんところに行きます。


長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り〜に続く



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2018.08.25 Saturday 13:16 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

徳源院にて京極家墓所に参拝!

長浜城の次は徳源院へ! 近江の見逃し処をこまごまめぐっていくわよ〜!

静まり返っていた瞬間


弘安9年(1286)、京極氏初代、氏信が建立したという徳源院清滝寺。
天台宗の古刹で観光バスもやって来る有名なお寺だけど、この時は貸し切り。

季節を間違えた瞬間


境内に入ったところに道誉桜と呼ばれる樹齢300年の桜の木がありました。
京極氏5代の佐々木高氏…道誉が植えたと伝わるしだれ桜で2代目らしいです。

段取りも間違えた瞬間


徳源院には小堀遠州作という池泉回遊式庭園もあるので見たかったけど、
受付は閉まってて、拝観は事前に予約って張り紙が貼ってあった(*°∀°)=3

風情漂う瞬間


でもワタクシの目当て第一は京極家のお墓参り。気を取り直していこ!
県指定文化財の立派な三重塔を眺めながら、本堂左奥に向かいます。

焼き付ける瞬間


こちらが国指定史跡の京極家墓所。始祖氏信さんから25代高中さんまで?
歴代当主と丸亀藩など分家の当主5名が合わせて祀られています。

京極氏は宇多天皇に連なる近江源氏、佐々木氏から興った家系。
鎌倉初期の近江守護、佐々木信綱が4人の息子に近江を分けて継がせたうち、
三男康綱が近江南部を与えられて佐々木氏嫡流を継いで六角氏となり、
信綱の死後、近江北部を受け継いだ四男氏信が京極氏を名乗ったのが始まりです。

ちなみに長男は大原氏、次男は高島氏ですが、ワタクシはよく知りません。

ロックオンの瞬間


戦国で行くなら京極家中興の祖、高次というとこなんだろうけど、
ワタクシは道誉さん狙い! 上段VIPフロアを目指せばいいのね!

京極家墓所は寛文12年(1672)、22代高豊が播磨の所領2村とこの地を交換して
菩提寺だった清滝寺を復興し、近隣に散在していた歴代当主の墓碑を集めたもの。
丸亀藩初代の父21代高和の院号に基づいて、徳源院と改められました。

残念極まりない瞬間


と勇んで墓所内に入った途端、目に入った残念なお知らせナニコレ(*°∀°)=3
危ないなら仕方ないけど、目の前に行って道誉さんのお参りしたかったな・・・

佐々木道誉は京極氏5代。南北朝時代、武芸だけじゃなく風流にも通じ、
派手な服装を好んで自由な振舞いをしたことから「婆沙羅大名」と呼ばれた人。
太平記にも出てくるし、教科書にも載ってる超有名なバサラの元祖!

ワタクシは尊氏が好きじゃないので、正直その辺はアレレなんだけども、
独自の美意識や感覚、破天荒な生き方は興味深い人だなって思うの。

個性はなかった瞬間


写真があるので雰囲気だけでも。手前から4つ目・・・ノン婆沙羅ノン個性w
上段VIPフロアはこんな感じで初代から18墓の宝篋印塔が並んでるのねぇ(遠い目)

京極氏は道誉が早くから足利尊氏と通じ、功績を挙げたことから
幕府内での地位を得るものの、勢力は佐々木嫡流の六角氏には及ばず、
戦国期になると跡継ぎ騒動の隙に国人領主浅井氏に乗っ取られてしまいます。

その後、浅井氏の庇護を受け、名目上の北近江守護としてかろうじて続き、
浅井氏が滅亡すると織田家に仕え、高次が再興を目指すこととなりました。

角度が難しい瞬間


じゃ気を取り直して19代高次さん以降の方々のお墓参りをしとこっか。
手前から19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓が見えてます。

特別扱いだった瞬間


さすが中興の祖! 高次さんだけ石廟の中に納められている別格仕様です。

京極高次は幼少期を人質として織田家で過ごして浅井滅亡後に家臣となり、
本能寺の変後は秀吉に仕えると、九州征伐の功により1万石に加増されて
大名に返り咲き、さらに小田原攻めの功で近江八幡山城2万8,000石となります。

そして豊臣秀次が関白になると従五位下侍従に叙せられ、大津6万石に加増。
羽柴姓の苗字公称を許され、豊臣姓も下賜され、従三位参議に任じられました。

関ヶ原では成り行きから西軍につくものの、東軍に寝返り大津城に籠城。
開戦前に落城するものの、西軍別動隊の足止めをした功績により、
若狭小浜8万5千石を与えられました。以降、京極家は松江龍野を経て、
丸亀5万石の藩主として幕末まで続き、明治維新を迎えています。

ひそかにあやかろうとする瞬間


石廟の中は扉の隙間から撮ったので宝篋印塔の一部しか撮れなかったわ。
滅亡寸前から大出世した高次さんは慶長14年(1609年)47才で亡くなりました。

本能寺の変では光秀側につくミステイクをして秀吉の長浜城を攻めたのに
秀吉の側室となった妹の竜子(松の丸殿)の嘆願により許されてラッキー。
そして正室に浅井氏の娘、初を迎えたことで初の姉、淀君の覚えもめでたく、
さらに初の妹、江が嫁いだ徳川秀忠は後の2代将軍・・なんてついてる!

だから「妹や嫁の七光りで出世した」とやっかまれ、影で「蛍大名」と
言われることもあったのだとか・・・言ったの誰や。品がないよね。
閨閥で出世した部分はあるにしろ、そういう運があるのも実力のうち。

再興を目指して戦う気概や根性も多少は見せたからいいじゃんね(*°∀°)=3

とか気安く語りかけながら合掌してお参りは完了! 運上がらないかなw

考えたらすごかった瞬間


墓所内には分家の多度津藩を合わせて、5つの京極家のお墓もありました。
六角氏は信長に滅ぼされてるもんね。滅亡寸前からのこの繁栄はすごい!!

未練たらしい瞬間


高次さんもいいけど、やっぱり上の18基を見たかったよな〜と思い、
遠目でいいからどうにかならんかウロついたけどちょっと無理だったw


でも道誉さんのお墓はなんと、もう1ヶ所あるからレッツゴーおかわり!
その前に道誉と戦って敗れた北条仲時と仲間たちのお墓参りに向かいます。



蓮華寺にて北条仲時のお墓参り〜に続く


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2018.08.18 Saturday 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

小谷丁野町にて脇坂安治の出生地探訪!

今回からしばらく「北近江の見逃し処をめぐってきた」シリーズをば。

まずは脇坂安治の出生地からスタート! 姉川古戦場小谷城を横目に見ながら
華麗にスルーして初志貫徹。いきなり脇坂さんから行くワタクシ、なんて潔いww

よどみすぎていた瞬間


小谷城跡前を通り過ぎ、国道をしばらく北上すると、ほどなく目印の看板を発見!
でもこの日は朝から雨・・・傘うっとうしいわ、写真映えないわで萎えています。

スーパーバックを覚悟する瞬間


車で行けるはずだけど、実際に来ると本当に大丈夫か不安なるような小道。
地味に距離もあるので、途中にも入口みたいに案内を置いたらいいのにな。

ホッとする瞬間


ぽっかり開けた空間に無事到着。車も停めれるし案内もあって人心地つくw
でも小谷山の麓なので、奥の方を見ると木が鬱蒼として薄暗くちょっと怖い。

イケイケだった瞬間


こちらでは脇坂さんが生まれた屋敷跡と産湯の池を見ることができます。

脇坂安治は天文23年(1554)、浅井氏家臣脇坂安明の子としてこの地に生まれ、
浅井久政・長政親子に仕えますが、浅井氏滅亡後は明智光秀の配下となります。

丹波黒井城攻めで降伏の使者として城内に乗り込んで城主赤井直正と対峙。
堂々とした振舞いを気に入られ、貂の皮で作られた槍の鞘を贈られたと伝わります。

その後、自ら頼みこんで羽柴秀吉の配下になると中国攻略や山崎の戦いに従軍し、
秀吉と勝家が戦った賤ヶ岳の合戦では「賤ヶ岳七本槍」に数えられる活躍をしました。

大事なことだった瞬間


ちゃーんと「七本槍ズ」の説明もありました。しっかりアピらないと、
清正や正則のインパクトが強すぎて、どうも影が薄くなりがちだから大事ねw

その後、安治は小牧長久手の戦いでも功を挙げ、洲本城3万石の城主になると、
淡路水軍を指揮して九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に出陣し手柄を挙げます。

秀吉の死後はひそかに家康に接近し、関ヶ原の合戦では西軍として出陣するも、
小早川秀秋が東軍に寝返ると、大谷吉継隊に攻めかかり東軍の勝利に貢献しました。

フロンティアスピリッツだった瞬間


こちらが安治さんが生まれたという屋敷跡の碑が立っている一角。
案内板には安治さんの生涯がダイジェストで説明されています。

合戦後は当初から家康に通じていたとして所領を安堵され、
後に伊予大洲5万5千石に加増。幕府に忠義を尽くしました。
しかし秀吉への恩から大阪の陣には参戦せず、子の安元に家督を譲ると
隠居して京で余生を過ごし、寛永3年(1626)、73歳で亡くなりました。

雑すぎた瞬間


ただポツーンと「脇坂甚内安治屋敷跡」と書かれた碑があります。
立地から浅井家臣だったことに納得するくらいで他はピンと来ませんw

そういえば脇坂さんって良くも悪くも気になる「何か」がないかも・・
真っ先に思い浮かぶのは関ヶ原だけど、とはいえ好きも嫌いも別になく・・・
親しみ込めてディスってるゴンベはやっぱ気になってるんだな(*°∀°)=3

イメージわかない瞬間


そしてこちらが産湯の池。当時はキレイな水が湧いてたんでしょうねぇ。
案内板によると、付近の住民から聖地として存続されてきたものだそうです。

激しすぎた瞬間


脇坂屋敷はこの立地・・・いやぁ福寿丸まで行くのも超〜難儀じゃないコレ!?
攻めづらいのは納得安心だけど、山の上まで出仕するとかだとマジつらい・・・。

急に怖くなる瞬間


ほら。熊だった出るそうですし・・って普通に出そうな雰囲気だもんね。
よし。特に妄想して二やつくこともないので、ここは早々に退散! 


近江牛を食べるため長浜市内に移動して、ぶらぶら開店時間を待ちますw


豊国神社にて豊太閤と清正公に参拝!〜に続く



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2018.07.28 Saturday 08:47 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

信綱寺にて真田信綱・昌輝のお墓参り

長谷寺で真田幸隆・昌幸 with 幸村のお墓参りをした後は信綱寺へ!

存在感がすごい瞬間


ナビに連れられ到着すると、何もないところにドーンとそびえたつ山門。
周りに何もないし雰囲気も少し変わっているから、ちょっと浮いてる感ありw

どうかしてた瞬間


山門の手前に車を停めたら、上にあるお寺まで長めの階段を登って行きます。
ホントはここで「墓前の桜」を眺めるべきところ、ワタクシ完全に見逃し・・

ほら、右側にニュッと斜めに伸びている木があるでしょ。これが桜の老木で、
長篠で討死した真田信綱の首級を、家臣が自分の陣羽織に包んで持ち帰り、
この樹の下に埋めたと言われてるのに、その根元を見てないって・・ちょw

さらに残念な人だった瞬間


六文銭が輝く本堂。曹洞宗のお寺です。元は打越寺とされていましたが、
真田昌幸が長兄信綱の牌所として寺堂を改築、信綱寺と改めたんだそう。

で、このお寺、予約すれば信綱の首級が包まれていたという血染の陣羽織や、
信綱着用の黒漆塗仏二枚胴。昌幸書状など貴重な品も見せてもらえたんだって・・

ワタクシは予約できるってこと、行くまで気づいてなかったけど(*°∀°)=3

ハズさない瞬間


信綱さんのお墓は本堂の裏。門の外に出て急な裏山を上って行く必要があるのです。
場所を念入りにチェックしすぎて、他の大事なことがきっと漏れちゃったんだねw

ゼエゼエしながらだった瞬間


なかなか急な斜面を登ってたどり着きました・・・ひ、ヒザが痛い!!
享保2年(1717)にお寺が改修された際、お墓はこの裏山に移されたんだそう。

痛恨のミステイクだった瞬間


石段を上がった正面にあるのが、真田信綱夫妻と真田昌輝さんのお墓。
そして右の石灯籠の後ろにある2つの墓石が、信綱さんの首級を持ち帰った家臣、
白川兄弟の墓。ワタクシ、うっかり写真を撮り忘れてこれしか映ってなかったw
白川兄弟は首級を届けた後、信綱さんを追って殉死したんだってさ・・泣ける。

手っ取り早く真田三代を妄想する瞬間


中央の宝篋印塔が信綱さん、で、左が信綱夫人、右が昌輝さんと並んでます。

信綱は真田幸隆の嫡男。武勇に優れた信綱は信玄からの期待や信頼も高く、
第4次川中島合戦三方ヶ原の戦いなどに参戦し、武田二十四将の一人に数えられました。
信玄の死後は勝頼に仕え、天正2年(1574)に病に倒れた父幸隆に代わり真田家を継ぎますが、
翌天正3年長篠の戦いで弟昌輝とともに壮絶な討死を遂げました。享年39歳。(昌輝は享年33歳)

信綱さんは馬防柵をなぎ倒しながら敵陣に突撃する中、銃弾に斃れたんだそうな・・
小説でこのシーン読むと、なんかもう胸がグッとしめつけらちゃう感じがするよね。

真剣に合掌の瞬間


昌輝さんのお墓は近年(お墓が移された後)建立されたものと説明されていました。
いつもは気安くなんか語りかけてるんだけど、今回は何となく神妙にお参りして。

真夏の炎天下だった瞬間


信綱寺の前には、六文銭の旗を模したモニュメントがずらっと立ち並んでいます。
奥から長篠、関ヶ原、大阪の陣と真田の重要な戦を表現しているんだってさ。

看板だけ見て終わらす瞬間


歴史の丘っていうんだね。上田市が気合入れて作った真田に捧げる公園です。
一番手前が大阪の陣だけに、先頭の丸い部分は「真田丸」を象徴したものなんだそう。

上田市の気合を感じる瞬間


モニュメントのところには信繁(幸村)の他、昌幸、信之、信尹、信綱、
そして信玄や勝頼、秀吉に秀頼、家康の花押も配置された。凝ってるな!



長野攻略はこれで終了! 次は「超〜弾丸!下関番外編」に続きます。


壇ノ浦古戦場跡に出陣!〜に続く



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2018.06.18 Monday 14:04 | comments(1) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長谷寺にて真田幸隆・昌幸父子のお墓参り

真田氏本城の後は、長谷寺にやってきました。

真田太平記と真田三代を再読して来てますから、めっちゃ鼻息荒めwww

にんまりする瞬間


長谷寺は天文16年(1547)、真田幸隆が真田家菩提寺として建立したお寺。
元は種月庵があったので「真田山種月院長谷寺」と呼ばれるようになりました。

後に真田昌幸の子、真田信幸が松代に移封になった時、菩提寺として長国寺を建立。
こちらの長谷寺はその末寺なんだそうです。松代の長国寺もいつか行かねば・・。

お参りを済ませたら人が来ないうち、本堂右手の方からさっさと墓所に向かいます。

好印象だった瞬間


こじんまりとした庭園を見ながら、順路にそって更に奥へ進んで行きます。
案内も行き届いてお寺の方も感じよく、参拝客を大事にしてくれるお寺でした。

一目でわかる瞬間


本堂裏の墓域に入ると、杉木立の正面にオーラ漂うお墓が見えますw
真田丸の時はすごい人だったらしいけど今は静か。そしてワタクシ貸し切り!!

キレイで読みやすかった瞬間


お墓の前には幸隆・昌幸父子についてザックリ書かれた説明板もあります。
これによるとお墓には父子だけでなく、幸隆夫人も一緒に眠ってるようです。

羨望のまなざしだった瞬間


中央が真田幸隆、向かって左が幸隆夫人、右が真田昌幸の墓なんですって。

昌幸の父であり、信之・幸村にとって祖父である幸隆は信濃の滋野三家のひとつ、
海野氏の一族に生まれ、小県郡真田郷を本拠としたため真田を称したと言われます。

海野氏が武田軍との戦いに敗れて滅亡すると、幸隆は郎党を連れて上州に亡命しますが、
後に武田家に仕えると謀略を駆使して砥石城攻略を果たし、信濃に旧領を回復します。
幸隆は信玄に重用されて川中島他の戦いに参戦し、吾妻郡の支配を任されました。
晩年、幸隆は病気を理由に、家督を嫡男の信綱に譲って隠居しますが、
天正2年(1574)5月19日、居城である砥石城で亡くなりました。享年62歳。

吹けば飛ぶような小豪族、そして亡命からの再浮上→ノンストップ大躍進! 
最終は武田二十四将の一人に数えられたんだから、幸隆さん恐るべしです。

その息子たちが信綱、昌輝、昌幸、信尹でそれぞれの生き様がまたこれぐっと来る(*°∀°)=3

念入りに拝む瞬間


少しでも智謀のかけらが宿るようワタクシ念入りにお参りしているところですw

真田昌幸は幸隆の三男。幼少時に武田家への人質に出されて信玄の近習となり、
後に武田ゆかりの武藤姓を与えられ、武藤喜兵衛と名乗っていました。
しかし天正3年(1575)長篠の戦いで信綱・昌輝2人の兄が討死したため真田家を相続。
勝頼に仕えて沼田城名胡桃城を攻略し、北上州を勢力下におくようになりました。

武田滅亡後は織田信長の配下となりますが、本能寺の変により信濃で争奪戦が起きると、
生き残りをかけて北条、徳川、上杉と臣属を替えながら、次第に勢力を拡大。
小県を統一して上田城を築城すると、信繁(幸村)を人質として秀吉に臣従します。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは次男信繁とともに西軍に属し
上田城に立てこもって徳川秀忠軍の西上を阻止するも、西軍は敗北。
昌幸は九度山に蟄居を命じられ、慶長16年(1611)6月4日65歳で病没しました。

秀吉に「表裏比興の者」と称された昌幸さん。とんだくわせ者でしょうけど、
「一所懸命」の生き様が激アツすぎて、憎めないどころか超〜魅力的だわ!

ロックオンの瞬間


幸隆・昌幸父子に念入りにお参りしたら、お墓の向こう側にも注目!
「みんな大好き★幸村」の供養塔があるので、もれなくお参りです。

合掌の瞬間


新しめの綺麗な供養塔は平成25年に建立されたものなんだそう。
幸村終焉の地である大阪安居神社の土が納められているんだって。

分かったぶる瞬間


幸隆じいちゃん、昌幸パパを差し置いて、供養塔だけど幸村一番人気!
お賽銭の六文銭置きも、気持ちと一緒であふれ出ちゃってる感じだなw



幸隆さんと昌幸さんのお参りが出来てワタクシ超〜満足!
次は真田昌幸の2人の兄上たちのお参りに向かいます!


信綱寺にて真田信綱・昌輝のお墓参り〜に続く



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2018.06.08 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

明徳寺にて高坂昌信のお墓参り

典厩寺の次も武田の重臣、高坂昌信のお墓参りにやってきました。

前のめり気味な瞬間


明徳寺は明徳元年(1390)、僧妙徳によって開山され、戦国時代に武田の重臣、
高坂昌信が諸堂を修理して、重興開基となった曹洞宗のお寺です。

高坂さんは「春日虎綱」とも呼ばれて、そっちの方が断然かっこいいんだけど、
お寺や案内もそうだし、小説も多くはそれなので今回は「高坂さん」にしてます。

もったいつける瞬間


右の駐車場からカットイン出来るんだけど、遠回りして入口から歩いてw
緩やかな坂を歩いていくと古刹の風格漂う立派な山門が見えてきます。

目的はただひとつ!だった瞬間


高坂さんのお墓以外にも、硫黄島の戦いで戦死した栗林大将のお墓や、
夜な夜な小僧に化けて酒を買いに行ったという弥勒菩薩「酒飲み弥勒」、
ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦の池」とか色々あるようです。

まっしぐらだった瞬間


山門をくぐると新しめな赤屋根の本堂が・・扉しまってたけど(*°∀°)=3
何はともあれ、本堂左手にある高坂さんのお墓へすっ飛んでいきましょう。

にんまりする瞬間


本堂左手に植え込みに囲まれて一段高くなったところが墓所。
少しカサついてるけど、案内板があるのですぐ分かります!

高坂さんは山形昌景馬場信春、内藤昌豊とともに武田四天王の一人とされ、
信玄勝頼と2代に仕えた超イケメン 智勇に優れて冷静沈着な武将 (*´∀`*)

じらしプレイな瞬間


こちらが高坂弾正忠昌信のお墓。高坂さんについて書かれた案内板もあります。
「川中島の戦いゆかりの地整備保存会」という所が建ててくれたようです。

高坂昌信は大永7年(1527)甲斐国石和の豪農・春日大隅の子として生まれ、
16歳の時、武田晴信(信玄)に認められ、奥近習に大抜擢されました。
使番を経て、26歳で騎馬150騎を預かる侍大将になると弾正忠と名乗り、
上杉謙信への備えとして川中島の前線拠点である海津城将を務めました。

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは妻女山別働隊を指揮して
一時は窮地に陥った武田本隊を守る働きをし、合戦後は敵味方の区別なく
戦死者を丁重に葬り、武具や遺品まで揃えて敵である上杉方に引渡しました。

武田が塩不足になった時、上杉謙信が敵ながらに塩を送ったのは、
この時の高坂さんの恩義に報いたものだと伝わってるんだって。

「我、信玄と戦うも、それは弓矢であり魚塩にあらず」by 謙信 

筋の通ったイケてる武将同士の「男」の見せ合い・・かっこよすぎかw 

うっとりしている瞬間


高坂さんは軍師 山本勘助から兵法や築城の教えをうけたといわれ、
勘助の活躍や信玄・勝頼の事績を口述記録したものが後に甲州流軍学の書、
「甲陽軍鑑」となり、今に伝わる武田の歴史やイメージの元になっています。

物に動じず冷静な判断が出来て、強引な戦をしない慎重さもありながら、
戦いになれば武勇武略に優れた昌信は信玄から絶大な信頼を受けました。
しかし信玄の死後、跡を継いだ勝頼には疎まれて、次第に遠ざけられます。

天正3年(1573)長篠の戦いの時には、海津城代を務めていましたが、
武田大敗の報を聞くと、新しい武具を持たせた兵を連れて逃げてくる勝頼を出迎え、
敗戦の見苦しさを与えないよう身なりを整え、甲府まで送ったと言われています。

その後、重臣の大半を失った家臣団の再編成や、北条・上杉との同盟を勝頼に進言。
上杉との交渉を行いますが、その最中、海津城で病死しました。享年52歳。
遺言により、自ら再興したここ明徳寺に葬られました。「保雲椿公禅定門」。

勝手に寄り添いまくる瞬間


高坂さんが亡くなったのは天正6年5月・・・武田滅亡の4年前でした。

共に信玄に仕えて四天王と呼ばれた馬場さん、山県さん、内藤さんが長篠で討死し、
勝頼に疎まれながら武田家のために奔走した高坂さんの気持ちはいかばかりか・・

勝頼は嫌いじゃないけど、要所で高坂さんはじめ先の見える重臣たちの意見に
聞く耳を持たなかったのがホントにホントに惜しかったんだなぁっって・・・

やっぱ超〜思っちゃうよね? と心の中で気安く語りかけつつ丁寧に合掌。



すぐ近くなんだし海津城(松代城)にも再再登城したかったけど時間がない・・
次は上田に移動して武田信玄の願文を見たら、サッと真田に切り替えますw


生島足島神社と安楽寺に参拝!〜に続く



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2018.04.26 Thursday 16:26 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

典厩寺にて武田信繁のお墓参り

地蔵寺と川中島古戦場史跡公園からの電撃訪問で典厩寺にやってきました。

武田菱がまぶしい瞬間


近くに来たんだから2度目だけど、やっぱり典厩信繁さんのお墓参りをしなくちゃね。

典厩寺は川中島の合戦で討死した武田信玄の弟、典厩信繁と、合戦で亡くなった
両軍6000人を弔い、供養したお寺。元は鶴巣寺と号し、合戦から60年後の元和8年、
真田信之の命で典厩の名を取って寺号が改められました。曹洞宗のお寺です。

少しオドオドしていた瞬間


駐車場もガラガラだなと思ったら、なんと今回は受付も無人だった(*°∀°)=3
声をかけたけど誰も出てこないので、お皿の上に拝観料200円を置いてさっそく中へ。

まっしぐらな瞬間


急ぐので日本最大の閻魔様はスルーして、典厩信繁公くび清めの井戸へ。
兄の信玄を守って37歳で討死した信繁さんの首を奪い返してきて、
井戸で丁寧に清めた後、葬って塚を築いたと伝わっているそうです。

萌え萌えな瞬間


武田の「風林火山」、上杉の「毘・龍」の旗が掛けられた本堂。
こうして並ぶと両将の気質や考えってあらためて対照的なんだなって。

前のめる瞬間


信繁さんのお墓は本堂の先。案内も出ているのですぐ分かります。

典厩信繁は武田信虎正室大井夫人との間に生まれた次男で、信玄の4歳違いの弟。
智勇に優れて人望もあることから寵愛した信虎が跡継ぎに考えたほどの人物でしたが、
兄信玄を慕い、信虎が追放された後は武田家副将として両国支配や軍事を補佐しました。

思い浮かべる瞬間


自然石を使った墓石と卒塔婆には「松操院殿鶴山巣月大居士」と書かれています。

永禄4年(1561)9月10日の第4次川中島の合戦で、窮地に陥った武田本陣を守るため
自ら槍を取って奮戦した末、壮絶な討死。信玄は遺体を抱き寄せて声をあげて号泣し、
信繁を慕った山県昌景も「惜しんでもなお惜しむべし」とその死を悼んだといい、
敵将上杉謙信も名将の死を惜しんだと伝わっているそうな。

時間ないのに小説のシーンを思い出してると長っ尻になっちゃうな(*°∀°)=3

心を込めて合掌する瞬間


こちらに埋葬されているのは胴で、首は信繁の子、信豊のいた小諸城に運ばれて、
その地に葬られているそう・・って全然ノーマークだったチェックしとこ!

お墓の隣にある五輪塔は右が典厩信繁、左が幸村の供養塔。

真田昌幸は典厩を理想の武将として、次男に信繁(後の幸村)と名付けたといわれ、
典厩寺は実兄の真田信之も関わっているからそういう縁で建てられたのかもね。

知性、温厚、品格、武勇・・どの小説を読もうとも典厩さんは好印象しかない!
どっしり濃い信玄の印象と対照的に、シュッとして端正で涼やかなイメージ特大。

食いついていなかった瞬間


お墓の隣にある「懐古の碑」は、明治39年(1906)に建てられた両軍戦死者の弔魂碑。
供養として右に上杉家の春日山城の石、左に武田家の躑躅ヶ崎館の石が置かれています。

「懐古」ってのは伊東祐亨元帥の命名で、東郷平八郎元帥や上村彦之丞元帥も
典厩公の尊霊に参詣し、宝物をご台覧されました・・・と書いてありましたw

相変わらずのカオスっぷりだった瞬間


で、元帥たちも見学した宝物が置かれてるのが川中島合戦記念館。
ホントに貴重なものがたくさんあるのに、無造作すぎて心配になる所w

写真は撮れないけど、典厩さんの兜や鎧の下着、愛刀が展示されてる他、
甲陽軍鑑が山積みでど置かれ、謙信の鉄扇とか原大隈の槍のさやとか・・
色々あるけど保存状態がよくないから残念だったり心配だったり・・



さて。これで完全に気が済んだから、急いで次に行こう!!
武田軍団として絶対にはずせない高坂昌信のお墓へ。

時間があってもなくても・・こりゃまた前のめりになっちゃうなww


明徳寺にて高坂昌信のお墓参り〜に続く



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2018.04.19 Thursday 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

地蔵寺にて原大隅のお墓参り

諸角豊後守の墓参りの次も、これまた分かりづらい地蔵寺を探します。

分かりづらそうだから、事前によく調べたけどストリートビューでは映らず、
グーグルマップを頼りに行ったけど、道も狭くて見つるの難儀したわぁ。

たどりついた瞬間


住宅街で細かい道がごちゃごちゃしてて、ウロウロ迷った挙句、到着。
一時は曲がり切れないかと思うような路地とか入っちゃって泣きそうだった。
原大隅さんのお墓は道路っぱた。境内には入らず、さっそくお墓参りをします。

調べておいたから尚安心だった瞬間


境内の隣にある墓域、道路に面しているのが原大隅さんのお墓。
案内の板が建ってるので、ウロウロ探さず済んでありがたいかぎり。

レジェンドだった瞬間


後で気づいけど、お墓の向かいに案内と説明板もありましたw

原さんは第4次川中島の戦いで、武田本陣に乗りこんできた上杉謙信と
信玄が一騎打ちをした時、謙信に槍を突き出して窮地を救った人。

イケイケだった瞬間


原さんは横目衆の一人で、「甲陽軍鑑」には信玄から感状を18通も与えられた
と記されているそうだから、武田家臣らしく武勇に秀でた人だったでしょうね。

感化されやすかった瞬間


原さんは謙信を打ち損じた無念のあまり、傍らの石を槍で突き通したと言われ、
それと伝わるものが八幡原史跡公園にあります・・改めて見たくなっちゃうな!

法名は「直心院殿前原大隅守見外成性居士」。でも生没年は不明・・

フットワーク軽すぎた瞬間


予定に全然なかったけど、やっぱり見たくなってマッハで寄ってきたw
以前は「八幡原史跡公園」だったけど、今は「川中島古戦場史跡公園」に変わってた!

けちらず時間をかける瞬間


昭和44年に放映された大河ドラマ「天と地と」を記念して建てられた銅像。
7年前に来てるけど、ホント何度見ても素晴らしいし、マジうっとりする。

怪力すぎた瞬間


今回は銅像の他に時間をかけず、原大隅さんの「執念の石」にロックオン。
正面に開いてるのが槍を突き通したという穴・・・・・でもこれもロマンよw


さてさて。

山本勘助諸角さん、そして原さんからの川中島古戦場史跡公園とめぐったら
これまた予定になかったけど、やっぱり典厩信繁さんのお参りもしたくなって、
またまた超絶ダッシュで、典厩寺にも立ち寄ることにしたんだ!


典厩寺にて武田信繁のお墓参り〜に続く




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2018.04.12 Thursday 08:45 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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