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信綱寺にて真田信綱・昌輝のお墓参り

長谷寺で真田幸隆・昌幸 with 幸村のお墓参りをした後は信綱寺へ!

存在感がすごい瞬間


ナビに連れられ到着すると、何もないところにドーンとそびえたつ山門。
周りに何もないし雰囲気も少し変わっているから、ちょっと浮いてる感ありw

どうかしてた瞬間


山門の手前に車を停めたら、上にあるお寺まで長めの階段を登って行きます。
ホントはここで「墓前の桜」を眺めるべきところ、ワタクシ完全に見逃し・・

ほら、右側にニュッと斜めに伸びている木があるでしょ。これが桜の老木で、
長篠で討死した真田信綱の首級を、家臣が自分の陣羽織に包んで持ち帰り、
この樹の下に埋めたと言われてるのに、その根元を見てないって・・ちょw

さらに残念な人だった瞬間


六文銭が輝く本堂。曹洞宗のお寺です。元は打越寺とされていましたが、
真田昌幸が長兄信綱の牌所として寺堂を改築、信綱寺と改めたんだそう。

で、このお寺、予約すれば信綱の首級が包まれていたという血染の陣羽織や、
信綱着用の黒漆塗仏二枚胴。昌幸書状など貴重な品も見せてもらえたんだって・・

ワタクシは予約できるってこと、行くまで気づいてなかったけど(*°∀°)=3

ハズさない瞬間


信綱さんのお墓は本堂の裏。門の外に出て急な裏山を上って行く必要があるのです。
場所を念入りにチェックしすぎて、他の大事なことがきっと漏れちゃったんだねw

ゼエゼエしながらだった瞬間


なかなか急な斜面を登ってたどり着きました・・・ひ、ヒザが痛い!!
享保2年(1717)にお寺が改修された際、お墓はこの裏山に移されたんだそう。

痛恨のミステイクだった瞬間


石段を上がった正面にあるのが、真田信綱夫妻と真田昌輝さんのお墓。
そして右の石灯籠の後ろにある2つの墓石が、信綱さんの首級を持ち帰った家臣、
白川兄弟の墓。ワタクシ、うっかり写真を撮り忘れてこれしか映ってなかったw
白川兄弟は首級を届けた後、信綱さんを追って殉死したんだってさ・・泣ける。

手っ取り早く真田三代を妄想する瞬間


中央の宝篋印塔が信綱さん、で、左が信綱夫人、右が昌輝さんと並んでます。

信綱は真田幸隆の嫡男。武勇に優れた信綱は信玄からの期待や信頼も高く、
第4次川中島合戦三方ヶ原の戦いなどに参戦し、武田二十四将の一人に数えられました。
信玄の死後は勝頼に仕え、天正2年(1574)に病に倒れた父幸隆に代わり真田家を継ぎますが、
翌天正3年長篠の戦いで弟昌輝とともに壮絶な討死を遂げました。享年39歳。(昌輝は享年33歳)

信綱さんは馬防柵をなぎ倒しながら敵陣に突撃する中、銃弾に斃れたんだそうな・・
小説でこのシーン読むと、なんかもう胸がグッとしめつけらちゃう感じがするよね。

真剣に合掌の瞬間


昌輝さんのお墓は近年(お墓が移された後)建立されたものと説明されていました。
いつもは気安くなんか語りかけてるんだけど、今回は何となく神妙にお参りして。

真夏の炎天下だった瞬間


信綱寺の前には、六文銭の旗を模したモニュメントがずらっと立ち並んでいます。
奥から長篠、関ヶ原、大阪の陣と真田の重要な戦を表現しているんだってさ。

看板だけ見て終わらす瞬間


歴史の丘っていうんだね。上田市が気合入れて作った真田に捧げる公園です。
一番手前が大阪の陣だけに、先頭の丸い部分は「真田丸」を象徴したものなんだそう。

上田市の気合を感じる瞬間


モニュメントのところには信繁(幸村)の他、昌幸、信之、信尹、信綱、
そして信玄や勝頼、秀吉に秀頼、家康の花押も配置された。凝ってるな!



長野攻略はこれで終了! 次は「超〜弾丸!下関番外編」に続きます。


壇ノ浦古戦場跡に出陣!〜に続く



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2018.06.18 Monday 14:04 | comments(1) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長谷寺にて真田幸隆・昌幸父子のお墓参り

真田氏本城の後は、長谷寺にやってきました。

真田太平記と真田三代を再読して来てますから、めっちゃ鼻息荒めwww

にんまりする瞬間


長谷寺は天文16年(1547)、真田幸隆が真田家菩提寺として建立したお寺。
元は種月庵があったので「真田山種月院長谷寺」と呼ばれるようになりました。

後に真田昌幸の子、真田信幸が松代に移封になった時、菩提寺として長国寺を建立。
こちらの長谷寺はその末寺なんだそうです。松代の長国寺もいつか行かねば・・。

お参りを済ませたら人が来ないうち、本堂右手の方からさっさと墓所に向かいます。

好印象だった瞬間


こじんまりとした庭園を見ながら、順路にそって更に奥へ進んで行きます。
案内も行き届いてお寺の方も感じよく、参拝客を大事にしてくれるお寺でした。

一目でわかる瞬間


本堂裏の墓域に入ると、杉木立の正面にオーラ漂うお墓が見えますw
真田丸の時はすごい人だったらしいけど今は静か。そしてワタクシ貸し切り!!

キレイで読みやすかった瞬間


お墓の前には幸隆・昌幸父子についてザックリ書かれた説明板もあります。
これによるとお墓には父子だけでなく、幸隆夫人も一緒に眠ってるようです。

羨望のまなざしだった瞬間


中央が真田幸隆、向かって左が幸隆夫人、右が真田昌幸の墓なんですって。

昌幸の父であり、信之・幸村にとって祖父である幸隆は信濃の滋野三家のひとつ、
海野氏の一族に生まれ、小県郡真田郷を本拠としたため真田を称したと言われます。

海野氏が武田軍との戦いに敗れて滅亡すると、幸隆は郎党を連れて上州に亡命しますが、
後に武田家に仕えると謀略を駆使して砥石城攻略を果たし、信濃に旧領を回復します。
幸隆は信玄に重用されて川中島他の戦いに参戦し、吾妻郡の支配を任されました。
晩年、幸隆は病気を理由に、家督を嫡男の信綱に譲って隠居しますが、
天正2年(1574)5月19日、居城である砥石城で亡くなりました。享年62歳。

吹けば飛ぶような小豪族、そして亡命からの再浮上→ノンストップ大躍進! 
最終は武田二十四将の一人に数えられたんだから、幸隆さん恐るべしです。

その息子たちが信綱、昌輝、昌幸、信尹でそれぞれの生き様がまたこれぐっと来る(*°∀°)=3

念入りに拝む瞬間


少しでも智謀のかけらが宿るようワタクシ念入りにお参りしているところですw

真田昌幸は幸隆の三男。幼少時に武田家への人質に出されて信玄の近習となり、
後に武田ゆかりの武藤姓を与えられ、武藤喜兵衛と名乗っていました。
しかし天正3年(1575)長篠の戦いで信綱・昌輝2人の兄が討死したため真田家を相続。
勝頼に仕えて沼田城名胡桃城を攻略し、北上州を勢力下におくようになりました。

武田滅亡後は織田信長の配下となりますが、本能寺の変により信濃で争奪戦が起きると、
生き残りをかけて北条、徳川、上杉と臣属を替えながら、次第に勢力を拡大。
小県を統一して上田城を築城すると、信繁(幸村)を人質として秀吉に臣従します。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは次男信繁とともに西軍に属し
上田城に立てこもって徳川秀忠軍の西上を阻止するも、西軍は敗北。
昌幸は九度山に蟄居を命じられ、慶長16年(1611)6月4日65歳で病没しました。

秀吉に「表裏比興の者」と称された昌幸さん。とんだくわせ者でしょうけど、
「一所懸命」の生き様が激アツすぎて、憎めないどころか超〜魅力的だわ!

ロックオンの瞬間


幸隆・昌幸父子に念入りにお参りしたら、お墓の向こう側にも注目!
「みんな大好き★幸村」の供養塔があるので、もれなくお参りです。

合掌の瞬間


新しめの綺麗な供養塔は平成25年に建立されたものなんだそう。
幸村終焉の地である大阪安居神社の土が納められているんだって。

分かったぶる瞬間


幸隆じいちゃん、昌幸パパを差し置いて、供養塔だけど幸村一番人気!
お賽銭の六文銭置きも、気持ちと一緒であふれ出ちゃってる感じだなw



幸隆さんと昌幸さんのお参りが出来てワタクシ超〜満足!
次は真田昌幸の2人の兄上たちのお参りに向かいます!


信綱寺にて真田信綱・昌輝のお墓参り〜に続く



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2018.06.08 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

明徳寺にて高坂昌信のお墓参り

典厩寺の次も武田の重臣、高坂昌信のお墓参りにやってきました。

前のめり気味な瞬間


明徳寺は明徳元年(1390)、僧妙徳によって開山され、戦国時代に武田の重臣、
高坂昌信が諸堂を修理して、重興開基となった曹洞宗のお寺です。

高坂さんは「春日虎綱」とも呼ばれて、そっちの方が断然かっこいいんだけど、
お寺や案内もそうだし、小説も多くはそれなので今回は「高坂さん」にしてます。

もったいつける瞬間


右の駐車場からカットイン出来るんだけど、遠回りして入口から歩いてw
緩やかな坂を歩いていくと古刹の風格漂う立派な山門が見えてきます。

目的はただひとつ!だった瞬間


高坂さんのお墓以外にも、硫黄島の戦いで戦死した栗林大将のお墓や、
夜な夜な小僧に化けて酒を買いに行ったという弥勒菩薩「酒飲み弥勒」、
ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦の池」とか色々あるようです。

まっしぐらだった瞬間


山門をくぐると新しめな赤屋根の本堂が・・扉しまってたけど(*°∀°)=3
何はともあれ、本堂左手にある高坂さんのお墓へすっ飛んでいきましょう。

にんまりする瞬間


本堂左手に植え込みに囲まれて一段高くなったところが墓所。
少しカサついてるけど、案内板があるのですぐ分かります!

高坂さんは山形昌景馬場信春、内藤昌豊とともに武田四天王の一人とされ、
信玄勝頼と2代に仕えた超イケメン 智勇に優れて冷静沈着な武将 (*´∀`*)

じらしプレイな瞬間


こちらが高坂弾正忠昌信のお墓。高坂さんについて書かれた案内板もあります。
「川中島の戦いゆかりの地整備保存会」という所が建ててくれたようです。

高坂昌信は大永7年(1527)甲斐国石和の豪農・春日大隅の子として生まれ、
16歳の時、武田晴信(信玄)に認められ、奥近習に大抜擢されました。
使番を経て、26歳で騎馬150騎を預かる侍大将になると弾正忠と名乗り、
上杉謙信への備えとして川中島の前線拠点である海津城将を務めました。

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは妻女山別働隊を指揮して
一時は窮地に陥った武田本隊を守る働きをし、合戦後は敵味方の区別なく
戦死者を丁重に葬り、武具や遺品まで揃えて敵である上杉方に引渡しました。

武田が塩不足になった時、上杉謙信が敵ながらに塩を送ったのは、
この時の高坂さんの恩義に報いたものだと伝わってるんだって。

「我、信玄と戦うも、それは弓矢であり魚塩にあらず」by 謙信 

筋の通ったイケてる武将同士の「男」の見せ合い・・かっこよすぎかw 

うっとりしている瞬間


高坂さんは軍師 山本勘助から兵法や築城の教えをうけたといわれ、
勘助の活躍や信玄・勝頼の事績を口述記録したものが後に甲州流軍学の書、
「甲陽軍鑑」となり、今に伝わる武田の歴史やイメージの元になっています。

物に動じず冷静な判断が出来て、強引な戦をしない慎重さもありながら、
戦いになれば武勇武略に優れた昌信は信玄から絶大な信頼を受けました。
しかし信玄の死後、跡を継いだ勝頼には疎まれて、次第に遠ざけられます。

天正3年(1573)長篠の戦いの時には、海津城代を務めていましたが、
武田大敗の報を聞くと、新しい武具を持たせた兵を連れて逃げてくる勝頼を出迎え、
敗戦の見苦しさを与えないよう身なりを整え、甲府まで送ったと言われています。

その後、重臣の大半を失った家臣団の再編成や、北条・上杉との同盟を勝頼に進言。
上杉との交渉を行いますが、その最中、海津城で病死しました。享年52歳。
遺言により、自ら再興したここ明徳寺に葬られました。「保雲椿公禅定門」。

勝手に寄り添いまくる瞬間


高坂さんが亡くなったのは天正6年5月・・・武田滅亡の4年前でした。

共に信玄に仕えて四天王と呼ばれた馬場さん、山県さん、内藤さんが長篠で討死し、
勝頼に疎まれながら武田家のために奔走した高坂さんの気持ちはいかばかりか・・

勝頼は嫌いじゃないけど、要所で高坂さんはじめ先の見える重臣たちの意見に
聞く耳を持たなかったのがホントにホントに惜しかったんだなぁっって・・・

やっぱ超〜思っちゃうよね? と心の中で気安く語りかけつつ丁寧に合掌。



すぐ近くなんだし海津城(松代城)にも再再登城したかったけど時間がない・・
次は上田に移動して武田信玄の願文を見たら、サッと真田に切り替えますw


生島足島神社と安楽寺に参拝!〜に続く



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2018.04.26 Thursday 16:26 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

典厩寺にて武田信繁のお墓参り

地蔵寺と川中島古戦場史跡公園からの電撃訪問で典厩寺にやってきました。

武田菱がまぶしい瞬間


近くに来たんだから2度目だけど、やっぱり典厩信繁さんのお墓参りをしなくちゃね。

典厩寺は川中島の合戦で討死した武田信玄の弟、典厩信繁と、合戦で亡くなった
両軍6000人を弔い、供養したお寺。元は鶴巣寺と号し、合戦から60年後の元和8年、
真田信之の命で典厩の名を取って寺号が改められました。曹洞宗のお寺です。

少しオドオドしていた瞬間


駐車場もガラガラだなと思ったら、なんと今回は受付も無人だった(*°∀°)=3
声をかけたけど誰も出てこないので、お皿の上に拝観料200円を置いてさっそく中へ。

まっしぐらな瞬間


急ぐので日本最大の閻魔様はスルーして、典厩信繁公くび清めの井戸へ。
兄の信玄を守って37歳で討死した信繁さんの首を奪い返してきて、
井戸で丁寧に清めた後、葬って塚を築いたと伝わっているそうです。

萌え萌えな瞬間


武田の「風林火山」、上杉の「毘・龍」の旗が掛けられた本堂。
こうして並ぶと両将の気質や考えってあらためて対照的なんだなって。

前のめる瞬間


信繁さんのお墓は本堂の先。案内も出ているのですぐ分かります。

典厩信繁は武田信虎正室大井夫人との間に生まれた次男で、信玄の4歳違いの弟。
智勇に優れて人望もあることから寵愛した信虎が跡継ぎに考えたほどの人物でしたが、
兄信玄を慕い、信虎が追放された後は武田家副将として両国支配や軍事を補佐しました。

思い浮かべる瞬間


自然石を使った墓石と卒塔婆には「松操院殿鶴山巣月大居士」と書かれています。

永禄4年(1561)9月10日の第4次川中島の合戦で、窮地に陥った武田本陣を守るため
自ら槍を取って奮戦した末、壮絶な討死。信玄は遺体を抱き寄せて声をあげて号泣し、
信繁を慕った山県昌景も「惜しんでもなお惜しむべし」とその死を悼んだといい、
敵将上杉謙信も名将の死を惜しんだと伝わっているそうな。

時間ないのに小説のシーンを思い出してると長っ尻になっちゃうな(*°∀°)=3

心を込めて合掌する瞬間


こちらに埋葬されているのは胴で、首は信繁の子、信豊のいた小諸城に運ばれて、
その地に葬られているそう・・って全然ノーマークだったチェックしとこ!

お墓の隣にある五輪塔は右が典厩信繁、左が幸村の供養塔。

真田昌幸は典厩を理想の武将として、次男に信繁(後の幸村)と名付けたといわれ、
典厩寺は実兄の真田信之も関わっているからそういう縁で建てられたのかもね。

知性、温厚、品格、武勇・・どの小説を読もうとも典厩さんは好印象しかない!
どっしり濃い信玄の印象と対照的に、シュッとして端正で涼やかなイメージ特大。

食いついていなかった瞬間


お墓の隣にある「懐古の碑」は、明治39年(1906)に建てられた両軍戦死者の弔魂碑。
供養として右に上杉家の春日山城の石、左に武田家の躑躅ヶ崎館の石が置かれています。

「懐古」ってのは伊東祐亨元帥の命名で、東郷平八郎元帥や上村彦之丞元帥も
典厩公の尊霊に参詣し、宝物をご台覧されました・・・と書いてありましたw

相変わらずのカオスっぷりだった瞬間


で、元帥たちも見学した宝物が置かれてるのが川中島合戦記念館。
ホントに貴重なものがたくさんあるのに、無造作すぎて心配になる所w

写真は撮れないけど、典厩さんの兜や鎧の下着、愛刀が展示されてる他、
甲陽軍鑑が山積みでど置かれ、謙信の鉄扇とか原大隈の槍のさやとか・・
色々あるけど保存状態がよくないから残念だったり心配だったり・・



さて。これで完全に気が済んだから、急いで次に行こう!!
武田軍団として絶対にはずせない高坂昌信のお墓へ。

時間があってもなくても・・こりゃまた前のめりになっちゃうなww


明徳寺にて高坂昌信のお墓参り〜に続く



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2018.04.19 Thursday 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

地蔵寺にて原大隅のお墓参り

諸角豊後守の墓参りの次も、これまた分かりづらい地蔵寺を探します。

分かりづらそうだから、事前によく調べたけどストリートビューでは映らず、
グーグルマップを頼りに行ったけど、道も狭くて見つるの難儀したわぁ。

たどりついた瞬間


住宅街で細かい道がごちゃごちゃしてて、ウロウロ迷った挙句、到着。
一時は曲がり切れないかと思うような路地とか入っちゃって泣きそうだった。
原大隅さんのお墓は道路っぱた。境内には入らず、さっそくお墓参りをします。

調べておいたから尚安心だった瞬間


境内の隣にある墓域、道路に面しているのが原大隅さんのお墓。
案内の板が建ってるので、ウロウロ探さず済んでありがたいかぎり。

レジェンドだった瞬間


後で気づいけど、お墓の向かいに案内と説明板もありましたw

原さんは第4次川中島の戦いで、武田本陣に乗りこんできた上杉謙信と
信玄が一騎打ちをした時、謙信に槍を突き出して窮地を救った人。

イケイケだった瞬間


原さんは横目衆の一人で、「甲陽軍鑑」には信玄から感状を18通も与えられた
と記されているそうだから、武田家臣らしく武勇に秀でた人だったでしょうね。

感化されやすかった瞬間


原さんは謙信を打ち損じた無念のあまり、傍らの石を槍で突き通したと言われ、
それと伝わるものが八幡原史跡公園にあります・・改めて見たくなっちゃうな!

法名は「直心院殿前原大隅守見外成性居士」。でも生没年は不明・・

フットワーク軽すぎた瞬間


予定に全然なかったけど、やっぱり見たくなってマッハで寄ってきたw
以前は「八幡原史跡公園」だったけど、今は「川中島古戦場史跡公園」に変わってた!

けちらず時間をかける瞬間


昭和44年に放映された大河ドラマ「天と地と」を記念して建てられた銅像。
7年前に来てるけど、ホント何度見ても素晴らしいし、マジうっとりする。

怪力すぎた瞬間


今回は銅像の他に時間をかけず、原大隅さんの「執念の石」にロックオン。
正面に開いてるのが槍を突き通したという穴・・・・・でもこれもロマンよw


さてさて。

山本勘助諸角さん、そして原さんからの川中島古戦場史跡公園とめぐったら
これまた予定になかったけど、やっぱり典厩信繁さんのお参りもしたくなって、
またまた超絶ダッシュで、典厩寺にも立ち寄ることにしたんだ!


典厩寺にて武田信繁のお墓参り〜に続く




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2018.04.12 Thursday 08:45 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

川中島周辺にて諸角豊後守のお墓参り

山本勘助のお墓参りをした後は、バイパス飛ばしてセブンイレブンを探します。
分かりづらい場所で、ワタクシはコンビニを目印にするしか着く自信がなくて。

ひっそりすぎた瞬間


大通りに面したセブンの路地裏の片隅にある諸角さんのお墓がこちら。
ストリートビュー見て念入りに調べてなかったらマジ来れなかったかも。

神妙な面持ちの瞬間


甲府市の慈照寺に続き、討死した合戦地にあるこちらにも前からお参りしたかったんだ。
気骨あるおじいの武将に弱いワタクシ。偲んだらウルウルしちゃうかもしれないなw

グッと来ている瞬間


墓碑は明治になって豊後守の子孫が建てたもので、後ろの五輪塔が元のお墓と
伝えられているんだそう。もうちょっといい角度で撮ればよかったけど(*°∀°)=3

諸角豊後守昌清は武田信虎信玄と2代に仕え、家老として武田を支えた譜代の重臣。

永禄4年(1561)第四次川中島の合戦では81歳の高齢で出陣し本陣右翼を守備しますが、
信玄の弟、信繁が討死すると「もはや我が武運の尽きる時。我もお供つかまつらん」
と僅かな手勢で突撃し、奮戦の末、壮烈な最期を遂げました。

信繁の守役として幼少期からずっと支えて来た諸角さんの無念や気持ち・・胸がつまる。

敬慕の思いしかない瞬間


地元で「もろずみさん」と呼ばれて親しまれているだけじゃなく、
昔から「諸角講」もあって、お墓の管理や春秋2回の祭典もしているんだって。

ソレ! 超わかる! ワタクシも地元なら絶対に講に入ってると思うもん!

お参りしながら、諸角さんに強ーく訴えておきましたw



よーし満足! 次は謙信に槍を突き入れたレジェンドのお墓参りに行きます。


地蔵寺にて原大隅のお墓参り〜に続く



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2018.04.02 Monday 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

松代町柴にて山本勘助のお墓参り

大鋒寺の次は車をそのまま置かせてもらい、歩きで山本勘助の墓へ。
歩いて数分の近い距離なんだけど、道が激せまで車じゃ厳しいんだよね。

喜んでいる瞬間


念入りに下調べしといて、グーグルマップ見ながらたどり着けたところ。
看板に沿って、ここから車が止まっている方向に降りて行きます。

挨拶は大事だった瞬間


お墓に向かう途中、畑仕事をしているおじさんがいたので、元気に挨拶!
「お墓参りですか」と聞かれたので「そうです!」と胸を張って答えたら、
パンフレットがあるから持っていきなさいと小屋まで案内してくれました。

早起きも大事だった瞬間


聞けばこの方、勘助のお墓や信州柴阿弥陀堂の管理をされている吉池さんという方。
「朝早くからご苦労様!」とか言ってくれ、色々な話が聞けるなんて超ラッキー!

信州柴阿弥陀堂は文明年間(1469〜1486)、親鸞上人真筆の十字名号を本尊として、
吉池氏の先祖が開基した浄土宗のお寺。永禄4年(1561)、第四次川中島合戦の後、
信玄は陣小屋を寄進改築して「善光寺如来御分身仏」を奉安、両軍の戦死者を祀り、
それを聞いた謙信は家臣を遣わせて礼拝したといいます。

以降、歴代松代藩主に庇護され、多くの人々が参詣に訪れ親しまれました。

昭和のはじめに千曲川河川改修のため、吉池さんの宅地内に移築され、
現在はここに「信州柴阿弥陀堂跡」の碑が建っています。

すがすがしかった瞬間


少し進むとキレイにお手入れされている山本勘助の立派なお墓が。

元は千曲川の陣ヶ瀬の勘助塚にあったものを、元文4年(1739)荒廃するのを憂いた
松代藩家老鎌原重栄・原正盛が遺骨を信州柴阿弥陀堂境内に移し、墓碑を建立。
文化6年(1809)勘助の没後250年に合わせ、鎌原重賢が末長く墓が守られるようにと、
中台を設けて土台を高く石積みして、現在のお墓となったんだそうです。

風林火山で勘助を演じた内野さんも何度もお参りに訪れているんだって。

勝手に萌えている瞬間


墓石には「山本道鬼居士墓」と刻まれています。

山本勘助は晴幸または道鬼斎とも称し、諸国行脚の末、44才で武田信玄に仕えます。
信玄の元で軍師として活躍しましたが、第4次川中島の戦いで「きつつきの戦法」を
謙信に見破られて武田軍が窮地に陥ると、勘助は本陣を守るため奮戦し、討死しました。

永禄4年(1561)9月10日没。享年62歳。

勘助のお墓は他に静岡県の医王寺や、愛知県の長谷寺にもあって、
長谷寺は行ってないのにアレだけど、お墓が建立された経緯や雰囲気に加え、
合戦地も討死した場所も近くってことで、いつもより合掌にも念が入るなw


ワタクシは現地でたまたま吉池さんにお会いして話しを伺えましたが、
事前に連絡してガイドのお願いもできるそうです。こういうのはマジおすすめ!

吉池さんのホームページ 「山本勘助墓所と信州柴阿弥陀堂」

余韻も大事だった瞬間


せっかくなので次に向かう途中、オリンピックスタジアムのある運動公園に寄って
あらためて勘助宮も訪ねておいた。勘助が討死したのがこの辺りと言われてるのね。

お墓参りで思いをはせた気持ちのまま、討死の地でまた妄想・・濃くね濃くw



さて。次は勘助とともに川中島で討死した諸角さんのとこに行ってきます。


川中島周辺にて諸角豊後守のお墓参り〜に続く


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2018.03.23 Friday 18:44 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

大鋒寺にて真田信之のお墓参り

今回からは長野攻略シリーズ・・相変わらず遅れまくりだけど(*°∀°)=3
長野も何度も行ってるけど、この時は長野から上田の細かいやつ巡り!

ということで、まずは川中島古戦場に近い大鋒寺からスタート!

狭すぎた瞬間


こちらには真田信之と鈴木忠重のお参りのため、鼻息荒く朝イチで訪問。
めっちゃ狭い生活道路を抜けて来たから広いお寺を見て超ホッとしてるとこw

テンション上がる瞬間


車を停めてまずは山門から本堂へ。すぐ屋根の六文銭に目が行きます。

ここは元々、松代藩主、真田信之の隠居所があった場所で、
万治元年(1658)信之が亡くなると、遺命により寺が建てられ、
大鋒寺されました。「大鋒」は信之の院号なんだそうです。

ハイクオリティだった瞬間


本堂のすぐ左側にあるのは霊屋。さすが史跡の多い長野市。説明文が詳しい!
お寺の建った経緯や、正面3間、奥行5間・・カヤ葺きという霊屋のスペック。
霊屋は隠居所の書院があった場所に建てられたなんてことも書いてありました。

偲び始める瞬間


敷地の中には入れるので近くまで行ってみよう。書院跡に建つ霊屋。
ご長寿お兄ちゃんが天寿を全うした場所なんだなって思いながら。

見逃さなかった瞬間


霊屋の中は見られないので、次はお墓に行ってお参りをします。
お墓は本堂や霊屋とは畑や墓所を挟んだ少し離れたところにあります。

鳥居がナゾい瞬間


離れてるっていっても1本道。歩けば鳥居や案内板が見えるから安心!
信之さんはここで荼毘に付され、その灰塚の跡に墓碑が建てられたそう。

ひと安心の瞬間


中が見れなかったら・・と心配してたけど朝イチでも扉は開いていて。
鳥居に再び首をかしげつつ、六文銭のついた門をくぐります。

合掌の瞬間


信之さんの墓碑は高さ3.3mの宝篋印塔。「大鋒寺殿徹巌一当大居士」、
「骨頭片々即琺身」「万治元年戌年」「10月17日烏」と陰刻されてるそう。

吸い寄せられる瞬間


六文銭って見るとちょっと胸が熱くなるような不思議な家紋じゃない?

真田信之は永禄9年(1566)、昌幸の長男として生まれます。幼名は源三郎。
幼少期は人質として武田家で過ごし、天正7年(1579)武田勝頼の子、
信勝とともに元服。信の一字を賜って「信幸」と名乗りました。

天正10年(1582)武田家が滅びると、母の山手殿と昌幸のいる上田に逃れ、
その後は昌幸に従って天正壬午の乱上田合戦に出陣し武功を挙げます。

天正17年(1589)真田が徳川氏の与力になると、信幸は家康に高く評価され、
本多忠勝の娘(小松姫)を家康の養女として娶り、駿府城に出仕しました。

足りなかった瞬間


お約束の六文銭風。ワタクシも・・と財布を見たら6枚揃ってなかった(*°∀°)=3

関ヶ原の戦いで父弟と別れて東軍に残った信幸は沼田上田9万石の大名となり、
沼田を本拠とし、昌幸らの助命嘆願し決別を表すため「信之」と名前を改めました。

元和8年(1622)信濃松代10万石へ加増移封になると、信之は民政に力を入れ、
35年に渡り藩主を務めて、松代藩の基礎を固めます。明暦元年(1656年)92歳にして
次男の信政に家督を護ると隠居し、万治元年(1658)10月17日93歳で亡くなりました。

よりそっていた瞬間


信之さんのお墓の向かいには、殉死した鈴木右近忠重のお墓もあります。
忠重は名胡桃城代鈴木主水の息子。名胡桃城が北条の手に落ちて父主水が自害すると、
真田昌幸に引き取られて家臣となり、後は信之を慕って臣として過ごしました。

目に浮かぶ瞬間


真田太平記では、名胡桃を訪れた信幸が、白く美しい顔立ちで体が弱い忠重を
「白毫子(びゃくごうし)」と呼んで目をかけ、かわいがる場面がありました。

まぁそれはフィクションだけれど、実際もそういう信頼関係があったんだよね。
殉死を禁じた信之は忠重だけは生前から許可していたそうな。享年75歳。

気になる瞬間


来た時は「廟所!」「墓!」と前のめってたから気づかなかったけど、
お寺を出る時にこんな標柱を見つけた・・・何か分からなかったけど(*°∀°)=3


さーて。次はここから歩いて、山本勘助のお墓参りに向かいます。
来たかったお寺と、寺じゃないとこにある勘助のお墓が近くてマジ喜びw


松代町柴にて山本勘助のお墓参り
〜に続く。



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2018.03.16 Friday 15:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

積翠寺にて武田信玄出生地を探訪!

長禅寺で大井夫人をお参った後は夫人が生んだ信玄の出生地を目指します。

のどかすぎだった瞬間


武田神社(躑躅ヶ崎館)を通り過ぎ、当時は詰め城があった要害山の麓に
積翠寺はありました。館から思ってたより距離があってビックリした。

大事なポイントだった瞬間


駐車場はこの左手上の方なんだけど、ちゃんと参道に回り込んでのイン!
説明板を読んで「武田信玄公誕生之寺」の碑を見て盛り上げてくのです。

まっしぐらだった瞬間


積翠寺は鎌倉末期に夢窓国師の弟子が中興した臨済宗妙心寺派のお寺。
境内はコンパクトでウロウロするような所もないので井戸に直行します。

下調べ大切だった瞬間


建物沿って端に行くと狭い通路に「庭園入口」という看板があります。
「産湯の井戸」って案内はないので、知らなかったら見逃しちゃたかも。

おどおどしている瞬間


後から知ったんだけど、この白い建物が本堂だったらしい・・
人の家に侵入してるみたいな気になっちゃうけどグイグイ進みます。

古刹の風格だった瞬間


ほどなく庭園に到着。通路が狭いので引いた写真が撮れなかったので
いい感じなのが全く伝わらないけど、夢窓国師の築庭なんですってよ!

あ、あってる??とかなってた瞬間


庭園もいいけど「井戸ドコ?」ってなるくらい気配がないんだけど、
とにかく通路に沿って進んで行くと・・ありましたぁぁぁ!!!!

感慨にふける瞬間


大永元年(1521)今川家臣福島正成が甲府に進軍した飯田河原の戦いの時、
信虎夫人は要害城に避難し積翠寺で信玄を出産。その時、産湯に使った井戸です。

お墓もそうだけど、生まれた場所とか武将の生死に関わる場所に来ると、
その武将が生きた証っていうか、存在感がより感じられる気がするんだ。

ロマンな瞬間


今は井戸としての用はなしてないけど、ちゃんと残ってるのは嬉しいよね。
本堂でお参りできなかったから、ワタクシもここにお賽銭おいてきた。

ちょっぴり残念な瞬間


庭園入口の手前には不動堂がありました。案内板にはお寺の由緒とか、
信玄が生まれたくだりが書いてあるんだけど、カサカサで読みづらいw

ありがた気だった瞬間


不動堂は開いていて中を見ることが出来ます。向かって右が不動明王。
左が毘沙門王。で、真ん中が信玄公像。いいものが見れた気がする!

やっぱり濃い瞬間


なんかちょっとブルドックぽいのが気になるけど相変わらずの濃さ!!
暑苦しめ&濃厚でどっしり・・信玄サマはこうでなくっちゃねw


今回で山梨武田巡りのエントリーは終了! 次は長野に行きます!


大鋒寺にて真田信之のお墓参り〜に続く


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2018.03.09 Friday 13:30 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

信立寺にて武田信虎のお墓参り

入明寺で信玄の二男信親の墓参りをした後は信立寺へ。

意外にも目立たなかった瞬間


信親の祖父、武田信虎のお墓は大泉寺の他、こちらにもあるってことで。
立派な門構えなんだけど、目の前は生活道路のせいか思ったよりひっそりした感じで。

実は印象が薄かった瞬間


車は横から中に乗り入れられたハズ。歩いた記憶がないからきっと合ってるw
境内は広いけど観光向けじゃないので見どころはなし。さっと本堂右手に進みます。

大事なポイントだった瞬間


本堂右の庫裏との廊下をくぐって墓域に入らないと広くて無駄に歩くから注意よ!!

信立寺は大永2年(1522)、武田信虎により創建された日蓮宗のお寺。
当時は身延山久遠寺の宿寺にもなっていて、なかなかな巨刹だったとか。
元は真立寺といい、徳川時代に信虎の名に因んだ信立寺に改められたそう。

わき目もふらない瞬間


廊下をくぐって墓域に入ったら、まっすぐ進んだ突き当りにお墓があります。
目立つ案内も無かったから、下調べしてなかったら見つけられなかったかもな。

それでも声かけは大事だった瞬間


信虎の葬儀は菩提寺とした法泉寺で行われ、そこにお墓もあるわけだけど、
こちらの経緯は・・・ちっとも分からないけど左が信虎さんってのは知ってるし!

ま・・・色々しょうがないよね。ドンマーイ!(合掌中) 

また前回と同じく励ましといたw ちなみに右は開山身延山13世日傳上人のお墓だそう。

さっさと車に戻る瞬間


合掌しつつグイグイ墓石に寄ると「武田左京大夫信虎」の文字が読めました。
お寺の考えもあるだろうけど、せっかくだから少しでも説明あるといいのにな。



次は古長禅寺に続き、信玄ママン大井夫人の菩提寺 長禅寺に向かいます。


長禅寺にて大井夫人のお墓参り〜に続く



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2018.02.23 Friday 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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