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青原寺にて志村光安のお墓参り

亀ヶ崎城の後は、城主だった志村光安さんのお墓がある青原寺へ。

町中だった瞬間


青原寺は慶長5年(1600)長谷堂城から移った志村光安が開いた曹洞宗のお寺で、
山形で菩提寺にしてた清源寺から峰岩呑鷲和尚を招いて建立したんだそうです。

大事なゲンかつぎだった瞬間


元は本寺と一緒の「清源寺」って字だったらしいけど最上川が氾濫して大変だから、
さんずいをとって青原寺って名前にしたっていう話も伝わっているんだって!

おったまげーな瞬間


入口の植え込みのところに志村さんのお墓への案内図が置かれています。
親切なのもありがたいし、こんな立派な御影石の案内図も初めてで驚き!

後ろ髪惹かれる瞬間


門をくぐるとすぐ本堂。パッと見るに古いか新しめかよくわからないw
残念ながら見れなかったけど、中には光安さんの鎧兜が展示されてるそうです。

さりげなくスルーする瞬間


本堂の裏手に回ると案内図にあったとおり、龍神堂が見えました。
元々は寺宝の雲竜図の画をお祭りするために建立されたもののようです。

日陰すぎた瞬間


龍神堂の奥の緑に囲まれた隅っこ 一角が志村さんのお墓。
5月は目に青葉で全然いいけど、夏だったらヤブ蚊だらけで難儀だったと思う。

立派な武将だった瞬間


墓所の入口にあった碑。志村さんのこと書いてあるんじゃないかな。
酒田に来た経緯とか酒田での功績とか・・・よく見なかったけど(*°∀°)=3

志村伊豆守光安は最上義光に使えた武将。智勇兼備で最上義光からの
信頼が厚かったと言われています。関ヶ原の際に起きた慶長出羽合戦では
長谷堂城主として2000の手勢で直江兼続の率いる2万の猛攻からよく守り、
西軍敗北によって直江軍が撤退すると追撃して勝利。翌年には最上義光とともに
酒田に侵攻して東禅寺城攻めに加わり、和議を結んで開城させました。
光安はその功により3万石を与えられ、亀ヶ崎城と改名された城主となりました。

ひっそりしていた瞬間


こちらが光安さんと奥さんのお墓。なかなか年季の入った五輪塔です。
花とかお供えはないけど、掃除とかの手入れは行き届いているみたい。

いろいろ気になる瞬間


光安さんは城を改修して城下町を整備するだけでなく用水路を作って田畑を広げ、
酒田港を修復して物流を増やすなどして、酒田繁栄の土台を築きました。

性剛にして、口才人を挫き、いかなる強敵も彼の前には降った

と言われたそうだから、ホントに素晴らしい武将だったんだね。
文学や連歌なんかも嗜んだというから、智勇プラス品でもう最強なw

だけど生年不詳な上・・・でもまぁ、それは百歩譲っていいとしても、
没年も慶長14年(1609)か慶長16年(1611)か分からないってナニ(*°∀°)=3

首を傾げつつ・・まぁいいかw 素敵だった光安さんと奥さんに合掌! 


次は今回の山形攻略シーズン2ラスト!


出羽松山城に登城!〜に続く




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2017.12.15 Friday 16:10 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

本住寺にて加藤忠広のお墓参り

鶴ヶ岡城の次は清正の子、加藤忠廣のお墓参りに本住寺にやってきました。

危うかった瞬間


住宅街の中の狭い道路沿いにひっそりあるので通り過ぎそうになりましたw
こちらには清正の子忠廣さんとその生母正広院のお墓があるのです。

こじんまりしていた瞬間


創建は不明ですが、永正13年(1516)浄土真宗から日蓮宗の寺院に改宗されたそう。
清正が埋葬された天澤寺と違い、加藤家の宗旨なので菩提寺としてしっくりきます。

本住寺は改易された忠廣さんが庄内藩預かりになった時に仮住まいしていたお寺で、
ここ鶴岡(丸岡城)で暮らして亡くなったため、日蓮宗だった本住寺に葬られたそう。

迷いようがなかった瞬間


お二方の墓所は本堂の左手から墓地の方に向かったところにありました。
写真撮り忘れたけど入口に案内もあったし、すぐ見つかる場所でよかった。

気になる瞬間


お墓は土蔵造りの御霊屋の中にあります。新し目できれいな霊屋です。
元がどうだったとか霊屋自体の説明がないので建て替えか後付かは不明。

指定されていた瞬間


母子の墓は1986年に鶴岡市史跡に指定されました。本住寺には墓碑の他、
刀剣や甲冑、掛け軸など加藤家所縁の品が寺宝として納められているそう。

ほこりっぽくなかった瞬間


土蔵の扉は開いているので内扉越しに霊屋の中を見ることができます。
左が忠広さん、右が正応院のお墓。すごいお手入れが行き届いている!

波乱の人生だった瞬間


正応院は加藤清正の側室。玉目丹波の娘で忠広と八十姫を生んでいます。
寛永9年(1632)の加藤家が改易されると忠広とともに丸岡で過ごし、
慶安4年(1651)6月死去。一時、丸岡の屋敷に葬られ、本住寺に埋葬されました。

生年不明でハッキリしないけど、享年は70才前後って感じでしょうかね。
八十姫(瑤林院)は元和3年(1617)、川頼宣の正室となり66才まで生きました。

不運すぎた瞬間


忠広は加藤清正の三男。兄2人の早逝により、慶長16年(1611)清正が亡くなると
11歳で肥後52万石の当主となりますが、寛永9年(1632)5月、突如、改易を命じられ、
出羽庄内藩にお預けとなります。忠広主従は庄内藩酒井家が建てた丸岡の屋敷に暮らし、
幕府から許されることもないまま、承応2年(1653)に亡くなりました。享年53歳。

改易の理由はお家騒動とも言われるけど、要するに幕府に狙われたんだよね・・

巡りあわせで幼少のうちに偉大な父の後継者になり、何だかわからんうちに
アレコレ言いがかりつけられて、しまいには堪忍料1万あてがわれて改易・・・

もうホント、色んな意味で不運すぎる(*°∀°)=3

丸岡での暮らしは和歌や音曲に親しむ悠々自適の生活だったと言われます。
52万石を自分の代で潰した無念さもあれば、肩の荷が下りてホッとしたり、
色んな屈託を抱えながら、風流に日々を過ごすしかなかったんでしょうね・・

腹時計がなる瞬間


鶴岡での昼食はFBで見て予約しておいた安兵衛寿しへ。
ワタクシが入って少しした頃に、後から後から人が来ていっぱいに!

お得すぎた瞬間


ワタクシが頼んだのは安兵衛御膳2200円。ランチで一番高いけど奮発!
刺身、天ぷら、焼き魚にあら汁、握り寿司に茶碗蒸しとデザートでお得。










お腹いっぱいになったところで次は酒田市に移動します。


城輪柵へ登城!〜に続く。


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2017.11.17 Friday 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

天澤寺にて加藤清正のお墓参り

丸岡城の後はすぐ隣にある天澤寺に来ました。
城跡と敷地が続いててお寺の途中にカットインできるんだけど、あえて入口に回ります。

案外なじんでた瞬間


人んちの玄関先みたいな佇まいになってるけど、こちらが参道の入り口。
狭い路地に面した住宅街に連なっているので知らないと一瞬スルーしそうなw

萌える瞬間


門柱の表札には「加藤清正公御墓」とちゃんと書かれています。
加藤家終焉の地でもあり、清正のお墓もあるので多くの人が訪れるそうです。

行き届いている瞬間


左が城跡に続いててカットインするとここに出る→表札見逃し注意w
城側以外にも綺麗な案内板があって、しっかり整備されてるのがうれしい!

どうでもよかった瞬間


お寺の情報がなくて創建とか分からないけど、天澤寺は曹洞宗だそうです。
清正は熱心な日蓮宗のはずだけど、まぁ細かいことは気にしなくていいか!

念入りだった瞬間


境内には清正の虎退治の武勇伝にちなんだ虎の置物がありました。
清正つながりで熊本からくまもんが参拝に来たこともあるそうですw

鼻息が荒くなる瞬間


お目当ては本堂の左側にありました。向かって左の青い屋根が清正閣、
右手は奥に進んで五輪塔があるそうです。城跡でもらった資料お役立ち!

涙ぐましかった瞬間


まずは清正閣から。清正の子、忠廣は改易を命じられて出羽に来る時、
幕府に内緒で清正の遺骨を持ち込み、ひそかにこの地に埋葬するんだけど、
バレたらまずいから居館の奥の大夫石の下にひとまず納めておいて、
天澤寺に清正の鎧を埋めて碑を置いて、供養の場所にしていたんだとか。

妄想の翼が広がる瞬間


発掘されたのは最上胴丸と呼ばれる具足で鑑定の結果、清正の物と推定されるって。
博物館とかで見るような状態ってわけないらしいんだけど、でもちょっと興奮するw

覗きまくった瞬間


アレが熊本特産の島崎石っていうやつかな。中もお手入れされてる感じでした。
毎年7月23日に「清正公祭」があるらしいので、その日は御開帳されたりするのかな。

芸が細かい瞬間


次は五輪塔を見に行きます。こちらは門をくぐって進んで行きます。
上にかかっている丸い銅板みたいのにも虎が彫ってありました。

手厚かった瞬間


正面に「加藤忠廣公家士の墓」がありました。天澤寺に埋葬されていた
加藤家ゆかりの人の墓を昭和56年にここに移転整備したものなのだとか。

前のめる瞬間


奥まったところにある覆堂の中に五輪塔があります。(覆堂は新しい)
昭和24年の発掘調査では肥前弓野窯焼きの骨壺と兜が発見されたんだって!

忠廣さんは居館が大火にあって焼失した後、天澤寺の境内に遺骨を移し、
ほとぼりが冷めてから五輪塔を建てて供養していたんだそうです。

念入りな瞬間


五輪塔地輪には「天保4年12月3日清地院居士敬白」の刻字も入っていたとか。
長らく清正さんの遺骨が納められていたと思うと合掌にも力が入っちゃうなw


よーし満足満足! 


膝のこともあるので、この日は早めに切りあげて鶴岡市郊外の湯田川温泉九兵衛旅館へ。
湯治、美食、ビール爆飲みで、山形出陣2日目に備えますw


鶴ヶ岡城に登城!〜に続く
 


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2017.11.03 Friday 09:58 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

常念寺にて最上義康のお墓参り

光禅寺で最上義光のお墓参りをした後は、嫡男義康の眠る常念寺へ!

丸見えだった瞬間


前の通りから門を入ってすぐにお墓があるちょっぴり珍しいタイプ。
下調べで分かっていたので、ホントに何の心配もいらない気楽な巡礼です。

まっしぐらだった瞬間


右手の方が駐車できるスペースになっていたので目の前ですごい助かるw
こちらは浄土宗で本堂もモダーンでつまらないし、さっとお参りだけしましょう。

ピッカピカだった瞬間


このお墓というか供養塔は平成14年に義康四百年忌を期して建立されたのもの。
常念寺は義光が義康の菩提寺にしたお寺だけど、そういえば元の墓はどうしたんだろ?

終わりの始まりだった瞬間


義康は最上義光の嫡男。文武に優れた人で義光の助けになっていましたが、
関ヶ原後、跡継ぎ問題から互いの家臣の仲が悪くなると、父子の関係も悪化。

結果、次男で家康の小姓をしていた家規が跡継ぎに決まって義康は廃嫡され、
高野山で出家するよう命じられます。義康はわずかな共を連れて山形を出ますが、
途中で銃撃を受けて、全員討ち取られてしまいました・・・享年28歳。

義康を襲ったのは義光の家臣だったことから、義光の意図や指示だったんじゃ?
みたいな説もあるようだけど・・・さすがにそれはないでしょって思っちゃう。

思えば色々残念だった瞬間


義康の日記には「親子仲が悪いから和解したい」って書かれていたそうな。
義康の死を悲しんだ義光は寺領百石を寄進して、常念寺を菩提寺としました。
義康の死後、義光はだんだんと病がちになっていったと言われています。


にしても・・・筋目を曲げてまで跡継ぎにした家規は早く亡くなってしまい、
若くして跡を継いだ義俊も残念だったから結局、最上家57万石は取り潰し。
家康に忖度せず、義康を跡継ぎにしてたら幕府に睨まれてもマシだったんじゃ・・


気の毒だったらありゃしない義康さんの供養塔に念入りに合掌した後は、
義光さんもう1つの悲しみ・・娘の駒姫のお墓参りに向かいます。



専称寺にて駒姫のお墓参り〜に続く




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2017.09.26 Tuesday 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

光禅寺にて最上義光のお墓参り

やっとここから2017年GWの山形攻略シーズン2!

まずは「山形の武将といえば!」の最上さんのお墓にお参りします。

最上ゴリゴリだった瞬間


仕事終わってほとんど寝ずに運転。で、たどり着いた朝イチの風景が濃すぎw
住宅街のど真ん中に建ってるお寺だけど、一瞬で戦国妄想スイッチオンだわ。

そこはかとなかった瞬間


少し進むとすぐ本堂が見えてきます。雰囲気や品があるお寺です。
あの立派なしだれ桜が咲いてたら、とんでもない風情なんでしょうね。

光禅寺は最上義光が菩提寺にするため建てたお寺。当時は広大な寺領を有し、
義光の御霊屋もありましたが、明治の大火で全て焼失してしまったのだとか。

出だしはオッケーだった瞬間


本堂の左側から墓域に向かいます。案内板とかは特になかったな。
でもワタクシは下調べしていたのでキョドらず来られてよかった!

家臣に慕われた人だった瞬間


一般の方の墓地エリアのど真ん中にドーンと目立つ最上義光のお墓です。
手前に4つ並んでいるのは義光の卒去に際し、殉死した家臣の墓碑だそう。

前のめっている瞬間


最上義光のお墓がこちら。明治の大火で焼失したため有志の寄付を募り、
大正2年(1913)に「義光公没後300年」の記念として復興されたんだって。

義光さんて腹黒の陰謀家でダーティな感じに言われることもあるけど、
ワタクシはけっこう好き。知的だし血が通ってる感じがするのよね。

せっかくだから好きな感じを盛り上げて熱量アップしてから行こ!って思って
今回の出陣直前に北天に楽土あり: 最上義光伝を急いで読んだよw

大河ドラマの独眼竜政宗では義光さん、思い切り悪キャラにされちゃって、
山形県がNHKに抗議したとか・・本当は家臣にも民にも慕われてたってね。

最上さんのアレコレは後ほど素敵銅像の義光さんを見ながら妄想するとして、
晩年は跡継ぎ問題が起きたりして、次第に病気がちになり、
慶長19年(1614年)1月18日 山形城で亡くなりました。享年69歳。

切なくなる瞬間


「最上家三代の塋域」・・塋域っていうのは墓が建つ領域のことなんだって。
藩祖義光と二代家親、三代義俊の法号と享年が書かれています。

ため息が出る瞬間


奥から家規、中が義俊の墓碑で、手前は明治29年(1896)山形城二ノ丸跡から
発掘された石の卒塔婆・・山形市の重要文化財が並んでいます。

家親は次男だけど、家康の小姓をしていて気に入られていたこともあり、
義光さんは嫡男義康を廃嫡して跡継ぎにしたんだけど、まぁすぐ亡くなったよね(泣)

でもって家規の子、若くして後を継いだ義俊が、これまたなかなか残念な人だから
57万石を取り潰されて1万石の小大名にされ、26歳で亡くなりました。

この後、気の毒すぎる嫡男義康さんのお墓参りにも行く予定(鼻息)

やじうま根性みたいな瞬間


光禅寺には市の指定名勝に指定されている日本庭園もあります。
早朝に行ったけど入り口は普通に開いてたからいつでも見れるのかな?

すがすがしかった瞬間


江戸初期以前のものと言われる小堀遠州流のお庭らしいけど良さわからずw
でもせっかく来たなら見れてよかったし、分からなくても癒された感は大事!


さぁ今日も順調に巡ろう! 次は気の毒な義康さんのお参りよ!!


常念寺にて最上義康のお墓参り〜に続く



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2017.09.17 Sunday 13:33 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

法泉寺にて武田勝頼のお墓参り

川尻塚信玄火葬塚の後は法泉寺にやってきました。

古刹の風格があった瞬間


シュッとした鐘楼のある山門は江戸時代の寛永14年(1637)に建てられたもの。
しゃちほこがあるって珍しくない? 甲府市の指定文化財なんだそうです。

静まりかえっていた瞬間


法泉寺は元徳二年(1330)に武田家十代信武が夢窓国師を開山として建てたお寺で、
信武の死後は菩提寺とされますが、一時は寺運が衰えてしまいます。
その後、信玄が先祖が開いた寺として手厚く保護し、甲府五山のひとつとしました。

安定感ハンパなかった瞬間


本堂は延宝8年(1680)建立。日本建築ってホントにすごいよね。
夢窓国師坐像とか勝頼公画像、古文書とか貴重なお宝が残されているそうです。

安心する瞬間


本堂の左手に案内板が出ています。コレを見るとフッと力みが抜けます。
奥に見える経蔵も文化財らしいけど、勝頼は関係ないので見忘れましたw

ロックオンの瞬間


案内板の方向を見ると階段の上にお墓があるのがすぐわかる。近くてナイス!
右の木は山桜。勝頼を葬る時に目印として植えたものなんだとか。(何代目かの木)

泣かせる瞬間


法泉寺殿武田勝頼公之墓の標柱と勝頼軍団戦死将士供養塔が立っています。

天目山で自刃した勝頼の首は信長の命で京の六条川にさらされましたが、
不憫に思った法泉寺の快岳禅師が京に行き、首を譲り受けて甲斐に戻ります。
そして本能寺の変により織田軍が撤退した後、山桜を植えて勝頼を葬りました。

お手入れは万端行き届いていた瞬間


法泉寺を勝頼の菩提寺と定めたのは本能寺の変後、甲斐を治めた家康なんですって。
旧家臣も民も、まずは武田領の人心をつかむって目的があったんでしょうね。

ピンと来てないけど合掌の瞬間


左奥にあるのが武田信武の墓。信武さんは甲斐武田氏中興の祖といわれる人。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時に従い、功を挙げて甲斐守護になり、
そこからの信成、信春・・・・・9代後が信玄(信晴)につながっていきます。





さて。次回からは山形攻略シーズン2! 最上だらけなエントリーからw


光禅寺にて最上三代のお墓参り〜に続く



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2017.09.12 Tuesday 15:51 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

武田信玄火葬塚に参拝!

やばいやばい。出陣にブログ書くのが全く追いついてない(*°∀°)=3
少し追いつくため、ちょっと更新頻度あげてみますか(ホント?)



川尻塚のすぐ目の前にある武田信玄火葬塚もついでに再訪しておこっと!

盛り上ってくる瞬間


信玄ゆかりの地で、プラス風林火山や孫子の旗がはためいてると、
条件反射でちょっと「おお〜武田ぁ」って気持ちが高揚するよねw

気持ちの問題だった瞬間


駒場で急逝した信玄の遺体は甲府に運ばれ、正室三条夫人が眠る円光院に近い
土屋右衛門昌次の邸内でひそかに荼毘に附され、後に恵林寺で葬儀が行われました。

土屋家屋敷跡は「摩縁塚」と呼ばれ、人々は恐れて近づかなかったそうですが、
安永8年(1779)、甲府代官中井清太夫が発掘して調査したところ石棺を見つけ、
「法性院機山信玄大居士 天正元年発四月十二日薨」とあったことから、
埋め戻して幕府に届け、墓石を建立して信玄の墓としたんですって。
 
お手入れが行き届いていた瞬間


お寺にありながら放置されてるような扱いの悪い武将の墓もあるのに、
ここは有志の方の手できちんと整備やお手入れが行き届いています。
甲府市指定とか何らかの史跡指定されてないんじゃないかな・・なんで?

ロマンの問題だった瞬間


その「武将が生きた証」を感じるのが武将のお墓参りの醍醐味。
遠く昔、信玄を思い偲んだ人たちが建てたお墓に改めて合掌します!

さーて次は本日の最後、勝頼さんのお参りに向かいますよ(鼻息)


法泉寺にて武田勝頼のお墓参り〜に続く



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2017.09.05 Tuesday 12:20 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

川尻塚にて川尻秀隆の首塚にお参り

大泉寺で武田信虎のお墓参りをした後は、川尻塚に立ち寄ります。

目の前すぎた瞬間。


だいぶ前に信玄火葬塚に来た時に見逃したので、今回はついででリベンジ。
・・てか、ワタクシ目が節穴だったのか? これ見逃すってどうかしてるw

なんだかもう残念だった瞬間


案内板の方向へグラウンド?公園?に向かって進んだ右はしの方に発見!
と思ったらフェンスの存在もアレレだし、「川尻塚」ってのも取ってつけたよう。

意図をはかりかねる瞬間


逆光だけどあえて・・まぁフェンスあるし立地もこんなですよってところを。
フェンス内の史跡って無くはないけど、この殺伐とした感じはちょっとすごいw

どんだけ恨まれたんだ!っていう瞬間


この場所は川尻秀隆の首塚とも、屋敷跡とも伝わっているそう。

川尻秀隆は織田信長が武田討伐の軍を起こした際、戦目付として活躍し、
武田滅亡後は甲斐と信濃諏訪の領主になります。

信長の力を利用して威圧的な支配をしたため、本能寺で信長が殺されると
秀隆に反感を持っていた武田旧家臣や民の攻撃を受け、殺害されました。

圧政の恨みを買った秀隆は埋葬もさかさまに埋められたそうで、
別名「さかさ塚」とも呼ばれるのだとか・・ってどんだけ(*°∀°)=3

マジ怖すぎる瞬間


おまけに碑文には「河尻肥後守」と刻まれてるらしいんだけど、
本当は「肥前守」だという・・わざだよね? 絶対わざとでしょコレ。

恨みって怖いね。てか川尻さん・・・あんたよっぽどだよ(´Д`)

フェンスで囲んでいるのは甲府市教育委員会の配慮なのかもしれませんw



よーし。せっかく目の前にあるから、ついでに信玄の火葬塚もまた見とくかw


武田信玄公火葬塚に参拝!〜に続く。



******

きらっこノートさんで大阪城の記事を紹介していただきました!

行楽シーズン目前!施設行事の参考や利用者さんとの会話のネタにもなるお出掛けスポット特集☆


おわぅ・・もう5年前の話! 昔の読み返すと恥ずかしいね (*°∀°)=3
きらっこノートさん ありがとうございました!



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2017.09.01 Friday 11:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

大泉寺にて武田信虎のお墓参り

東光寺の次は信玄の父信虎が眠る大泉寺にやってきました!

個性的だった瞬間


変わった雰囲気の総門。享保9年(1724)2代藩主柳沢吉里が大和郡山へ転封の際、
柳沢家の菩提寺である永慶寺から移築されたものなんだとか。

大泉寺は大永元年(1521)、信虎が天桂禅師を招いて開山した曹洞宗のお寺で、
法号「大泉寺殿泰雲存康大庵主」に因んで大泉寺とし菩提寺としました。

超ダイジェスト版だった瞬間


大泉寺には武田三代の霊廟があるけど、総門横の標柱は信虎の墓の件。
説明板には信虎の生まれから最期までの人生が十数行で書かれてますw

子の信廉(逍遥軒)が書き残した信虎の肖像画(国重要文化財)も
こちらで保管されているそう。「絹本著色武田信虎像」見たら「ああ!」って。

なかなか広い境内とお見受けした瞬間


総門からずっと続く参道を進みます。緑に囲まれて雰囲気よかったな!


信虎は武田信縄の子として明応3年(1494)石和館に生まれました。
永正4年(1507)、14歳で武田氏18代の家督を継いで国主となると、
武力をもって甲斐を統一。隣国にも進出し、領土を広げます。

しかし嫡子晴信(信玄)と対立。天文10年(1541)駿河に追放されると、
信虎は娘が嫁ぐ今川家に身を寄せて僧形となり、<義元の死後は京へ移って、
一度も帰国することなく、幕府に関わる活動をしたと言います。

コンパクトだった瞬間


境内は広そうだけど、本堂前はスペースがなくて遠目からの写真で。
空襲で消失後、昭和40年になって再建されたもの。武田菱はもれなく!

ちょっと厳かな瞬間


信虎のお墓や武田三代の霊廟は本堂左手。案内があるので安心なタイプw
ただ雰囲気は本堂前までと違って、この辺りからちょっと寂しい感じだな。

ホッとする瞬間


武田三代の御霊廟。孫子の旗が武田ゆかりの地って感じを盛り上げてます。

他の人のブログを見ると閉まっていて入れなかったみたいなのもあって、
いつも見れるのか分からないけど、ワタクシとりあえずホッとしてます。

濃すぎた瞬間


追放した息子と家を滅ぼした孫と三代として並ぶ信虎の心はいかに?
でも何にせよ、戦国○○三代の中では1,2を争うインパクトかとw

まっしぐらすぎた瞬間


ワタクシちょっとミステイク。墓は裏、墓は裏・・・と思ってたら、
うっかり御霊殿の中を覗いてくるのを忘れてしまいました。

角度がむずかった瞬間


御霊殿を囲む塀がきっつきつなので、建物によりそうように墓が。
真ん中が信虎のお墓で、右が信玄、左が勝頼の五輪塔なんだそうです。

ご長寿さんだった瞬間


48歳で追放された後、一度も国に戻ることのなかった信虎でしたが信玄の死後、
天正2年(1574)には子逍遥軒(信廉)が城代を務めていた高遠城に身を寄せ、
孫の勝頼と対面するも、同年3月5日に病没しました。享年82歳。



次男の信繁を溺愛し信玄(信晴)を廃嫡しようとしたとか、
暴君でみんなが世代交代を望んでいたとか・・追放の理由は色々。
でも信虎が圧倒的に悪かったみたいな感じはちょっと気の毒な気も。

ま・・・色々しょうがないよね。ドンマーイ!(合掌中) 



さて。信虎さんを励ました後は、以前に見逃した川尻塚に立ち寄ります。



川尻塚にて川尻秀隆の首塚にお参り〜に続く



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2017.08.25 Friday 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

東光寺にて諏訪頼重と武田義信のお墓参り

甲斐善光寺の後は東光寺に移動して、武田関連メジャーな二人のお墓参り。
ここで自刃した諏訪頼重と、ここで亡くなった信玄の長男義信を勝手に偲びます。

謎めきの古刹だった瞬間


東光寺は臨済宗妙心寺派の寺で、草創は平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光
国家鎮護仏法興隆の祈願所として建立し、興国院と名づけたことに始まるそうです。

鎌倉時代の頃には寺号を東光寺に改めたらしいんだけど、歴史に不明な部分が多くて、
室町時代までの歴代住職すら不明なんだとか Σ(゚Д゚)! ドウナッテンノヨー!

武田めぐりのマストだった瞬間


諸堂が整備されて栄えたのは室町時代、武田家の保護をうけるようになってから。
臨済宗に帰依した武田信玄が開いた「甲府五山」の一つに数えられる名刹です。

圧がハンパなかった瞬間


こちらは織田軍侵攻時の兵火を逃れ、さらに空襲の戦火も逃れたという仏殿。
前にスペースがなくて近くで見ることもあって、やたら重々しすぎなんですけどw

様式的に室町時代のものと考えられていて、国指定重要文化財になっています。
ワタクシは入らなかったけど、中の柱に織田軍が乱入した時の刀傷があるのだとか。

禅寺ぽさ全開だった瞬間


東光寺は仏殿の他、開祖大覚禅師によると言われる庭園が有名だそうです。
時間がなくて見れなかったけど、仏殿前のところでもこの行き届きぷり。

勝手に満足する瞬間


コンクリートのクールな本堂じゃ武田菱があってもそんなグッとは来ないけど、
お寺全体に言い知れぬ品というか、佗・寂なのかな・・とても雰囲気があるのです。

無駄にハッスルする瞬間


時間もないのでさっさと本堂裏手の方にあるお墓に前のめっていきます。
下調べはしていたけど、案内が出てると何の不安もなく進めるからホントいい!!

武将の墓あるあるだった瞬間


階段を上ったところに、武田義信、諏訪頼重と二人のお墓が並んでいました。
ここも前にスペースなさ過ぎて、二つ並んで正面からの写真が撮れなかったんだ。

色々と残念だった瞬間


まずは手前にある武田信玄の長男、義信さんのお墓からお参りします。

義信は信玄と正室三条夫人との間に生まれた長男で、重臣飯富虎昌が傅役となり、
武田の跡取りとして養育されました。15歳で今川家から今川義元の娘を嫁にもらい、
信濃攻略戦などの戦で武功も挙げ、跡継ぎとして家臣の期待も高かったといわれます。

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討死したことにより、信玄が駿河侵攻を決定。
さらに今川との同盟を破棄し、義元の敵織田信長と結んだことで父子関係は悪化。
義信は傅役の虎昌を説いて父、信玄の追放を画策しますが、実行前にことが露見し、
飯富虎昌は自害させられ、義信は謀反を企んだとして東光寺に幽閉されました。

そして幽閉から2年後の永禄10年(1567)10月、義信死去。享年30歳。
自害したとも、病死とも言われ、死因や真相はわからないのだとか。

自害ならやっぱ信玄に命じられちゃった感じなんでしょうかねぇ・・
そもそも謀反なんて大それた話だったのかなってとこも訝しんでみたり。
でもどうにせよ義信さんも信玄には遠く及ばなかったってことだよね。

やっぱり色々と残念だった瞬間


で、お次はこちら。2つ並んだ奥にあるのが諏訪頼重のお墓。

諏訪頼重は信濃諏訪郡の領主。武田信虎の娘禰々(ねね)を正室に迎えて武田との
関係を強化していましたが、天文11年(1542)、父信虎を追放して方針転換した
晴信(信玄)によって桑原城を囲まれます。頼重は抵抗するものの、開城すれば
兵を引くという和議を受け降伏。甲州に送られ、東光寺で自害させられました。

・・・ってさらっと書いちゃうと超つまんないなw 

そもそも晴信(信玄)は妹の嫁ぎ先をむやみに攻めるのはまずいってことで、
同族ながら反頼重派の高遠頼継をけしかけて、桑原城を囲ませるのよね。
で、いい感じのタイミングに出てって、和議を持ちかけて開城降伏させると、
上手いこと言って頼重さんを禰々たちと一緒に甲府に連れてくわけです。

甲府に来たら、正室の禰々はもちろん、生まれたばかりの男児寅王丸や
娘(のちの諏訪御寮人)とは離されて、東光寺に幽閉されてるんだけど、
頼重さんは義理の兄である晴信が悪く扱うはずないって思ってみたいで、
はめられたことに気づかず、当初は高遠頼継を恨みまくっていたとか・・

頼重さん人も育ちもよすぎ (*°∀°)=3

で、扱いの悪さに気づいて不満に思った頃には信玄に自害を命じられ、
弟頼高とともに切腹。諏訪惣領家は滅亡しました。享年27歳。

この辺のくだりは井沢元彦の野望が面白い!

あまりにも感慨深すぎた瞬間


余談だけど、その後、晴信は寅王丸の後見として諏訪を支配することになり、
諏訪頼重の娘、由布姫(所説あり)を側室として、勝頼を生ませています。

そして寅王丸が元服前に亡くなって、諏訪の血を引く勝頼が諏訪家を継ぎ、
さらに長男義信が廃嫡されたことで武田家の後継者となって・・・・・・(遠い目)

いや〜武田の・・いや信玄の黒歴史2つが並んでるって改めてすごいw

インパクト激よわだった瞬間


東光寺には柳沢吉里の男子二人の墓もあります。柳沢家の墓所なんだとか。
吉里は5代将軍家綱の側用人柳沢吉保の嫡子なんだけど更にその子の墓となると・・・
義信さんと頼重さんの墓所よりさらに一段上に上にあるのがアレ〜な感じでした。




さて。次は信玄の父、信虎さんの眠る大泉寺に向かいます!


大泉寺にて武田信虎のお墓参り〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡



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2017.08.13 Sunday 10:02 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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