<< July 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES

成福寺にて北条時宗・正宗のお墓参り

最明寺で北条時頼のお墓参りをした後は、近くにある成福寺へ!
北条時宗・正宗父子他、歴代北条氏のお墓参りをするのです。

住宅街ど真ん中だった瞬間


住宅街の中にあって、なかなか狭い道を通って到着。でも敷地は広々!
本堂はモダーン風だけど立派だった。浄土真宗本願寺派のお寺です。

境内には花木が多く、きれいに手入れされてるのでとても気持ちがいい!
300鉢あるという花蓮も有名で、花の時期には見学者も多いんだって。

由緒ありだった瞬間


本堂では法事をやってたので合掌一礼だけして、お墓参りに向かいます。

成福寺は正応2年(1289)に8代執権北条時宗の子、正宗が建立したお寺。
元は鎌倉にあり、元寇の後には時宗の指示で16万人の戦没者の弔いが行われ、
写経奉納した正宗は、如信上人の教えを受けて浄土真宗の僧になります。

時宗の死後、正宗は鎌倉を離れて北条の故郷の地に成福寺を建てると、
両親の遺骨の一部を持ち帰って墓を造り、菩提を弔いました。

戦国時代になると韮山城に居を構えた伊勢宗瑞(早雲)との交流が生まれ、
三代氏康は朱印状を出して、僧が大阪石山本願寺へ行くことを援助したそう。
現在も北条氏の子孫が法灯を守っていて、住職のお名前も北条さんなんですって。

風格ある瞬間


墓所は本堂の右手側の墓域内。案内もあるし多分なくてもすぐわかる!
廟堂とか立派な墓石があるとかじゃないけど、どことなく品が漂う佇まい。
左側が時宗や正宗のお墓。右が北条氏歴代のお墓になっているようです。

美しかった瞬間


まずはファミリーのお墓から。父時宗と母、そして正宗のお墓が並んでます。
後ろに富士山が見えるロケーションらしいけど、この日は気配すらなし(*°∀°)=3

気やすく話かける瞬間


時宗の嫡男は9代執権の貞時で、兄弟はいなかったって言われてるんだけど、
正宗さんは母親の身分が低かったとかで系図には載らなかったのかしらね?
でーも親孝行すぎでエライわぁ〜と思いながら合掌。ちょっと上からだったかw

行き届きすぎな瞬間


そして右側にある北条氏歴代の墓所・・というか供養塔なのかな?へ。
植木の手入れがきちんとされてて、300鉢の花蓮育てるマメなお寺だなぁって。

勝手に感動する瞬間


歴代に誰がどう含まれるかわからないけど、正宗さんの気持ちですよね。
僧になって一族の菩提を弔う優しい気持ちを持った人だったんだなぁって。

ミーハーだった瞬間


成福寺の近くには、北条ゆかりの地もあるのでついでに見ておくのがおすすめ!
こちらは伝堀越御所跡。成福寺からほんとにすぐ近く。途中の道は狭いけどw

歴史ロマンだった瞬間


鎌倉北条とは時代が違うけど、室町時代八代将軍足利義政が関東を統治するため送った
弟の足利政知が御所を置いた場所。色々事情があって鎌倉に入れず伊豆に居座ったけどw

多分このままだなって思った瞬間


現在は公園として敷地が確保され、これから整備していく的なことが書かれてます。
政知の跡は茶々丸が継ぐんだけど、早雲に殺害され、御所は消滅してしまいます。

遠慮しがちだった瞬間


で、その堀越御所跡の前には、北条政子産湯の井戸跡があるんだよね。
この辺も住宅街ど真ん中で、この標柱も民家の一角にあるから恐縮しちゃう。

ちょっぴり興奮の瞬間


住宅街の私道の奥に政子産湯の井戸があります。住宅街の風景から想像しづらいけど、
この辺が頼朝に味方した北条氏の本拠だったと思うと、知った風に感慨深く思えますw

激しすぎた瞬間


こちらが政子産湯の井戸。源氏の血筋ながら落ちぶれていた頼朝に目をつけて結婚し、
二男二女をもうけて、頼朝の死後は尼将軍として絶大な権力をふるった政子さんです。
頼朝の浮気相手をメッタメタにしたり息子を陥れるとかとんでもない女だけど、
バリバリ働く女性としては気丈さやしたたかさは見習わなければならんところです。

きっと男性脳だった瞬間


井戸の中は・・埋まってる?わずかに水が見えるような気がしなくもないけど。
安産祈願にご利益があるんだって。そんなことよりワタクシは政子の強さにあやかりたい!
部下たちに涙ながらの大演説をして結果を出させる・・ことができるでしょうか笑


時間がないのと車が止めづらいので今回は立ち寄らなかったけど、
この近くには北条氏館跡もあるんですよ。(ちょっとした公園風な)
周辺には北条ゆかりのお寺も多いし、歴史ロマンなエリアですねえ。


次は北条関係ないけど、近くにあるので武田氏ゆかりのお墓にお参りします。


信光寺にて武田信光のお墓参り〜に続く




Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2019.07.14 Sunday 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

最明寺にて北条時頼のお墓参り

長浜城から埼玉に戻る道すがら、北条さんたちのお墓参りをいくつかしていくことに。

前に北条時政のお墓参りはしてるから、その続きで残りをごっそり行くつもり!

思いこむ瞬間


まずは最明寺から。長岡温泉街を抜けた街中にあるけど少し高台にあって静か。
背後に源氏山が続いて、この辺もやっぱ鎌倉幕府ゆかりの地だね〜って雰囲気!

経験値は大事だった瞬間


入口にこういう標柱とか案内板とかがあると何気に安心するんだよね〜
お墓参りを受け入れてくれてる感じがして。お墓もわかりやすいパティーン。

一礼で済ませる瞬間


最明寺は日蓮宗のお寺で本堂はモダーン風。もとは臨済宗だったらしいけど、
秀吉の小田原攻めによる戦火で衰退した後、日蓮宗が再興し改宗されたそうな。

迷いようもなかった瞬間


時頼さんのお墓は本堂左手奥にあります。時頼さんは法名「最明寺道崇」から、
最明入道って呼ばれたってことで、寺号にもなっているんだそうです。

うるうるしている瞬間


まっすぐ進んだ門の先が時頼さんの墓所。ちょうど本堂の裏手です。
実際に葬られたのは鎌倉の明月院なんだけど、時頼を慕った伊豆の人々が
鎌倉幕府に願って分骨してもらい、この寺を建てたっていうから泣ける!

案内は超ダイジェストだった瞬間


門の中には時頼の説明がざっくり書かれてます。一言で言ったら優秀な人w
「オラが村にも分骨して墓を!」って願われるほどだからよっぽどの人ですよ。

北条時頼は鎌倉幕府五代執権。兄の四代執権経時が23歳で亡くなったことから
20歳で執権になると「宮騒動」や「宝治合戦」を乗り超え、御家人の負担や、
訴訟など様々な改革を繰り出し、文武を奨励し善政を行ったといわれています。

バイアスかかってる瞬間


区画の分かれた後ろの墓域には一般の方のお墓が立ち並んでいるけど、
時頼のお墓には凛とした空気感がある気がするっていう墓マイラーあるあるw

この人は病になって29歳で執権を辞任すると、出家して最明寺道崇になるの。
そして一回の僧として諸国をめぐって、民衆や御家人の暮らしを見て廻るんです。
太平記や増鏡にも載ってて、その逸話が盛りはあるかもしれないけどいいんだよぉ。

ある時、貧し気な民家に宿を求めると、主は盆栽を薪にして暖を取らせてくれる。
で、話を聞くと彼は「佐野源左衛門尉常世」という御家人で、身内に所領を押収され、
貧しい暮らしはしているけれど、鎌倉に何かあればすぐに駆け付けると話すわけ。

で後日、実際に鎌倉に一大事が起きると、本当に佐野が駆けつけてきたのを見て、
時頼は所領を返還させ、さらに薪にしてくれた鉢の木にちなんだ所領も与えた・・・
っていう。ええ話や。佐野さんの真心も感動だし、時頼も粋すぎてしびれるw
謡曲「鉢の木」として有名なんだけど、にしても佐野さんびっくりしたろうなぁ。

合掌の瞬間


時頼さんの病ってのは、どうも赤痢らしいんだよね。ワタクシなんてヤバイ病気
ってイメージしかないから、あの時代にそれで諸国めぐれるの?と思うんだけど、
やっぱビッグネームだから盛大な祈祷とかされて、多少の効果はあったのかしらね。
執権を退いてから7年後、病状が深刻化し、時頼は37歳の若さで亡くなりました。

北条ってくそジジイ時政が感情的に好きじゃないから印象悪くなりがちだけど、
時宗さんも仲時さんも、そして時頼さんあなたもいかしてるじゃないのよ!!
今回も気やすく語りかけながら合掌。なんだかんだ魅力ある人がいるよなぁって。


さーて次も北条氏つながりで、時宗正宗父子と歴代墓所がある成福寺に向かいます!


成福寺にて北条時宗・正宗のお墓参り〜に続く。


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2019.06.15 Saturday 18:10 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

修善寺にて源範頼と頼家のお墓参り

投稿をためまくり、春になったというのに寒々しい伊豆の風景をしばらく・・

テンション低めな瞬間


埼玉県民のワタクシ、伊豆には何度も来てるのに初の修善寺でございます。
平日だけど人が多くてびっくり! 雨が降りそうなのでサクッと見ていきます。

歴史の重みをかぐ瞬間


大同2年(807)、弘法大師の創建と言われ、元は真言宗のお寺だったのが、
臨済宗になり、北条早雲が韮山城主になると再興され、曹洞宗になったそうです。

でもでーも。修善寺といったら源頼朝の弟、範頼と子の2代将軍頼家が幽閉された後、
自害やら殺害された寺で、お墓もあるってのが気張って足を運んだ一番のポイントよ!

お参りをしながら、鎌倉から人里離れた山の中に連れてこられた2人を思い、
源氏の寺宝を見るため宝物殿へ行き、盛り上がってきたところでお墓へゴー!

のどかすぎだった瞬間


まずは範頼さんの方ね。修善寺の境内を出てから小路をまぁまぁ歩いたな。
地図を見ながらしばらく進むと、墓の入り口で案内板を見つけて一安心w

やればできる瞬間


坂でも階段でも登りがとにかく嫌いだけど、70mってことなんでダッシュ!
雨が降ってきそうなのに傘がないから、マッハで街を一回りしたいのです。

たまげる瞬間


ちょっとした小山の上だけどキレイに整備されてお手入れも行き届いてます。
案内板には英語、韓国語、中国語、スペイン語まであるサービスっぷり(*°∀°)=3

切なくなる瞬間


範頼さんのお墓は奥まった木立の中にひっそりと。ホントにひっそりなの。
頼朝と義経の強烈なキャラに比べて存在感が薄いせいでそう感じるのかしらねぇ・・よよよ。

範頼は源義朝の第六子で頼朝の異母弟。頼朝が源氏再興のため挙兵すると駆けつけ、
弟の義経とともに木曽義仲討伐、平家討伐などで活躍。鎌倉幕府樹立に貢献します。

しかし頼朝と義経の仲が悪化し、義経討伐を命じられた範頼が拒否したことから、
頼朝に疑われるようになり、後に謀反の汚名を着せられ、修善寺に幽閉されます。
そして幽閉先で家人が不穏な動きをしたと梶原景時に攻められ、自害しました。

さみしげに見える瞬間


久々に頼朝のこと思い出したけど、やっぱ イヤな 好きになれないわぁ。
武家社会を作ったのはすごいけど、心も狭そうだし被害妄想の度合いがとても無理!
それに比べたら範頼さんは普通の人で、良くも悪くも優しめだったかもしれないね。

明るく合掌の瞬間


だいたい言いがかりだと思うし、ワタクシは一の谷の活躍とか知ってますから!
と気安く話しかけながら合掌。きっと無念なんで励ましておかないとね(*°∀°)=3

小走る瞬間


さぁさぁ今にも雨が降りそうで急いで次! 転がるように小山を降りて、
今度は頼朝の嫡男、二代将軍頼家のお墓参りをしに指月殿へ向かいます。

夢も希望もない瞬間


修善寺を流れる桂川には赤い橋が5つあって、願かけながら渡ると恋が実るとか?
しかしワタクシは「まだ降らないでぇ」と思ってる間に渡り切っていましたw

映えない瞬間


修善寺の人気スポット「竹林の小径」。人がちょいちょい歩いていたけど、
途切れた瞬間にサッ!と撮ったら、後はもう競歩かって勢いで突き進みます。

老朽が心配な瞬間


そして指月殿に到着!こちらは鎌倉初期に建てられた伊豆最古の木造建築で、
頼朝の妻、北条政子が修善寺で暗殺された子の頼家を弔うため寄進したお堂です。
政子自身も追い込んだ一味だから、祟られないよう念入りに祈ったんじゃないかと。

貫禄すぎる瞬間


中のお釈迦様は右手にハスの花を持ってる禅宗式の珍しい坐像なんだって。
こちらも鎌倉時代の作で静岡県指定文化財。歴史の重みが全身にみなぎってる!

不幸すぎだった瞬間


頼家さんのお墓は指月殿のすぐ隣。頼範さんの墓と同じく佇まいがひっそり寂し気。

源頼家は父頼朝の死により18歳で家督を継ぎ、征夷大将軍になりました。
しかし有力御家人を束ねることができないまま、病に臥せるようになると、
北条氏に実権を奪われ、弟の千幡(実朝)への権力移譲を余儀なくされます。

頼家は義父の比企能員とともに北条氏討伐を企てるも失敗し、比企氏は滅亡。
頼家は出家させられた後、修善寺に幽閉され、元久元年(1204)7月19日、
北条氏の刺客により暗殺されました。享年21歳。法名「法華院殿金吾大禅閤」。

勝手に寄り添う瞬間


周りは敵と罠だらけの上、母ちゃんまで超〜冷たいとかかわいそうすぎ!
北条父娘に関わるとホントろくなことないなって、みーんな思ってるから!!

合掌しながらよーく慰めといた(*°∀°)=3

けなげすぎた瞬間


近くには頼家さんの家臣十三士のお墓もありました。十三士は頼家が暗殺された後、
主君の無念を晴らすべく謀反を企てたものの、挙兵前に討ち取られたのだとか・・。

そしてここでついに雨! 指月殿の裏山の上には義経の銅像もあるんだけど、
まぁまぁ登るし、写真で見る限りそこまで執着もないのであっさりあきらめたw

気が済んだ瞬間


修善寺の前に戻って散策は終了! 有名な温泉地で観光客も多いんだけど、
変に栄ったりしないで、古く鄙びた雰囲気が歴史ロマンぽくてよかったな!


・・じゃ。さっさと温泉につかってビール明日にそなえよっか!


長浜城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  

2019.05.11 Saturday 16:42 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

天徳寺にて佐竹家廟所に参拝!

佐竹義重の眠る闐信寺の次は、佐竹家廟所のある天徳寺へ!

正直、このお寺はこの時、期待できる要素がほとんどなかったんだけど、
秋田もそう簡単に来られないから雰囲気だけでもと立ち寄る次第。

いきなりな瞬間


お寺に着くとまず見えるのがこの風格ある総門で、いきなりの国重要文化財!

天徳寺は元は佐竹義人が夫人を弔うため、常陸(現茨城県)に創建したもので、
佐竹家の秋田転封により久保田に移された曹洞宗のお寺です。佐竹家菩提寺。

歴史を感じる瞬間


次は重厚な山門がおでまし。こちらも1709年築の国重文です。天徳寺はこのほか、
本堂や書院も国重文だし、佐竹家所縁の品など多くの文化財を所有してるんだけど・・

色々こみあげている瞬間


うう・・・本堂が工事中だったのよね。隣の書院もまとめて覆われちゃって。
もちろん分かってて来てるんだけど、目の前に来るとちょっと悲しみだったな。

しょぼむ瞬間


よし。気を取り直して!といきたいところだけど、本堂左手にある佐竹家の廟所。
こちらがまたコレ残念でさ。普段は御霊屋の前までは行けないのよ・・うう。

無念すぎる瞬間


ちらっと見えた赤い屋根が御霊屋で、周りに歴代藩主の墓所が並んでいるみたい。
近世霊廟建築として豪華で大名菩提所の姿を良くとどめてるって説明に書いてあった。

ポジティブは大事だった瞬間


お墓参りの人が多かったから、柵にへばりついてのぞくわけにもいかず、
でも本堂と違って見れただけマシか!って遠くから心の中でお参りしといた。

納得の瞬間


出口にあった写真を見ると、本堂は今こんな状態になってるらしい(*°∀°)=3
文化財を次の時代に残していくため、お手入れは大事だもんね。しょうがない。

秋田の史跡めぐりで外せないお寺だし、来れたってことで良しとしましょう!


さて。じゃ次はひそかに楽しみにしてる秋田城へ行ってみよっか!


秋田城へ登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2019.03.15 Friday 09:58 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

闐信寺にて佐竹義重のお墓参り

角館から日本海に向けて車を走らせ、秋田市にやってきました!
佐竹のお膝元で、まずは鬼義重のお墓参りをすべく、闐信寺へ。

闐信寺「てんしんじ」って読むんだけど「闐」の字が変換で出なくてさ。
門構えに眞って書く字だけど、なんと環境依存文字なんだって。不便よね。

で、不便と言えば漢字だけじゃなく、お寺もホントにわかりづらくって。
ナビにズバリでないし、道は狭いわ一方通行が多いわで車はハードル高し!

やーーーっとたどり着いた瞬間


結局、車を置いて徒歩でたどり着いた・・過去最高に分かりづらかったかも。
闐信寺は1613年、佐竹義宣が父義重の菩提を弔うために建立したお寺です。

こじんまりしていた瞬間


仁王像は珍しい石造り。山門の扁額が取れちゃってるのが切ない(*°∀°)=3
久保田三十三観音二番札所らしいんだけど、案内とかもなく色々ひっそりしてます。

ひっそりすぎた瞬間


門をくぐるとすぐ目の前に墓石が並んでて、その奥に小さな本堂が。
情報が少ないお寺だから、話を聞きたかったけど誰もいなくて残念だったな。

地味すぎた瞬間


義重さんのお墓は本堂左奥。案内がないので調べてないと分からなかったかも。
亡くなった時は天徳寺に葬られ、後にこちらに改装されたものらしいです。

ふんわり合掌しておく瞬間


扉には隙間がなくて中は見えません。こちらには義重さんのお墓だけじゃなく、
一族や家臣の墓碑もあると聞いたんだけど、霊屋の近くにそれっぽいのはなし。

義重は常陸の大名、佐竹家18代当主。16歳で家督を継ぐと近隣大名をはじめ、
伊達氏や北条氏とも戦いを繰り広げ、佐竹家の全盛期を築きあげました。

「鬼義重」の異名を取るほど勇猛な武将ながら政治力にも優れており、
天正14年 (1586) 、40歳で嫡男義宣に家督を譲った後も実権を握ると、
小田原攻めに義宣を参陣させ、秀吉から本領安堵された後、隠居しました。

関ヶ原の戦いでは、石田三成と親しい義宣と東西どちらにつくか対立して
出遅れた結果、日和見と見られ、常陸54万石を没収の末、秋田20万石へ転封。
慶長7(1602)年4月19日、鷹狩中の落馬が元で死去しました。享年66歳。

フラッシュはやめておいた瞬間


中見れないのかって、さりげに霊屋の横に回ったら床の方に小窓があいてた!
ん〜アレきっと墓碑だよねぇ・・薄暗くて全く分からなかった(*°∀°)=3


有名な武将のお墓だけど超ひっそりすぎたな。場所もハードル高かったしね。
でもお参り出来たから満足! 次は佐竹家の廟所にお参りに行きます!


天徳寺にて佐竹家廟所に参拝!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2019.03.01 Friday 16:06 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

天寧寺にて葦名家墓所に参拝!

払田柵の南大路で行き倒れず、何とか角館までたどり着けましたw
早くビールが飲みたいけど、ホテルに入る前にもうひとふんばり天寧寺へ!
こちらでは会津の戦国大名だった葦名氏のお墓参りをするのです。

ひっそりしていた瞬間


場所が少し離れているせいか、武家屋敷の街並みと違って人が全然いない!
まぁまぁ車が走る道路に面した山門は、角館城から移築されたものなんだって。

天寧寺は元々、葦名氏11代盛信が会津に菩提寺として開いたのが始まりで、、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田に転封に伴い、葦名氏も角館に移ったことから、
寛永元年(1624)、葦名義勝(義広)がこの地に建立した曹洞宗の古刹です。

モダーン風だった瞬間


本堂は明治18年に焼失して、昭和44年に建て替えられたものだそうです。
中には葦名家の念持仏である火伏せ観音像が納められているのだとか。

泡を夢見る瞬間


早くビールが飲みたくて、いそいそと本堂左奥にある墓域に向かいます。
ワタクシは下調べしてたけど、案内もあったしすぐ裏だから分かりやすいよ!

オンマイウェイな瞬間


墓域は仙北市指定史跡。入り口には「史跡芦名氏墓地」の碑があります。
そういえば天寧寺では説明板とかも、ほぼ「芦名」の表記になってたな。
ワタクシは前から「葦名」にしてるので、ブレずにそれで書いていますw

ひっそり佇む瞬間


中に入ると苔むした通路の先に、墓碑が並んでいるのが見えます。

葦名氏は会津最初の領主で、16代盛氏の頃には伊達氏と並ぶ勢力を誇りましたが、
17代盛興、18代盛隆、生後1ヶ月で19代を継いだ亀若丸と跡継ぎの早逝が続いたことで、
後継者をめぐる家中の争いが絶えず、盛氏の死後は次第に衰えていってしまいます。

亀若丸の死後、佐竹義重の二男義広が養子に迎えられ、20代当主になりますが、
天正17年(1589)摺上原の戦いで伊達政宗に敗北すると、義広は実家のある常陸に逃走。
後に秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられるものの、関ヶ原で西軍に組した兄、
佐竹義宣の連座で所領を没収されると、名を義勝と改めて佐竹氏と共に秋田へ移り、
角館で1万6千石を与えられ、以降、3代にわたってこの地を治めました。

不幸すぎだしミステリーすぎた瞬間


お墓は葦名義勝を中心に、義勝の正室と側室、義勝の嫡男葦名盛泰、
2代盛俊と盛俊の正室、3代千鶴丸に殉死した家臣2名の10墓あるみたい。

義勝さんは城下町の整備を精力的に行って57歳で亡くなるんだけど、
嫡男盛泰が佐竹義宣の養子になって夭逝してたから、2代を継いだのは
なんと!義勝さんが亡くなって4ヵ月後に生まれた盛俊さん(*°∀°)=3

盛俊さんは元服すると3代将軍徳川家光に拝謁し、覚えもめでためだったから、
そのまま頑張ってたら、葦名家大名復帰もワンチャンあったかもしれないけど、
まさか20歳の若さで無念の病死!3代は1歳の嫡子、千鶴丸が継ぐことに。

とーこーろーがー! この千鶴丸ちゃんも3歳で亡くなってしま・・えw

その死因ってのが父、盛俊の法要のため天寧寺に来た時に縁側から落ち、
靴脱ぎ石に頭を打ちつけたっていうんだけど、そんなことってある!?
周りに大人がゾロゾロついてるお坊ちゃまで、しかもご当主なのに!!

早死にが続きすぎて多すぎてホント怖いわ。葦名家マジ不幸すぎです。

跡継ぎがいなくなった葦名家は、藩主(佐竹氏)の命で絶家が決まり、
明暦2年(1656)、名実ともに滅亡。佐竹氏も代が変わると冷たいよね。
分家みたいなものなのに、存続させる気がなかったんだろうなって。

心を込めて合掌の瞬間


大名家って子がいないのもヤバいけど、無駄に多くても争いになるし、
後継ぎがいても次々早死すればアウト。親戚筋がアテにならんのも痛い。

家を存続させるってワタクシ達が思う以上に大変なことなんですねぇ・・

気安く語りかけながら、葦名家のみなさんに念入りにお参りしました。


さーて、これで秋田出陣初日は終了! 

ダッシュでホテルにチェックインして・・・ビールうめぇぇぇぇぇ!!


明日は朝イチの涼しいうちに城山に登る!


角館城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  

2019.01.11 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

横手にて本多正純のお墓参り

横手城からお城の東南の方にある本多正純のお墓にやってきました。
お城からも歩きでこれなくないけど、駐車場に戻ることも考えるとなかなか遠い!
で、事前調査でよくよくよーく調べたら停められそうだったから車で来てみた。

ホッとする瞬間


横手公園からいったん外に出て、ワタクシは簡易裁判所を目印にしてね。
するとほどなく案内を発見!さりげない「P」も嬉しいじゃないですか!!

本当にありがたい瞬間


駐車スペースは案内のところから少し先へ進んだ右手。ごっつあんです!
所有者の方はもちろん「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」にも感謝です。

うっかりしていた瞬間


いそいそとお墓に向かいます・・・あ!正純「父子」の墓だった(*°∀°)=3
息子さんの存在に気づいてなかったけど、一緒にお参るからまぁいいね。

顕彰されていた瞬間


一角がきれいに整備され、墓碑の他、案内板や句碑なども建っています。
明治41年に横手区裁判所や検事局職員の方が建立したものなんだそうです。

合掌の瞬間


左が子の正勝、右が正純さんの墓碑。白い花が活けられてお手入れされてる!

永禄8年(1565)、三河に生まれた本多正純は父の佐渡守正信とともに
家康の側近として重用され、家康の死後は老中として秀忠に仕えました。
家康存命中の慶長13年(1608)に小山藩3万3千石の大名に取り立てられると
後に2万石加増。元和5年(1619)にはさらに宇都宮藩15万5千石に加増されます。

しかし元和8年(1622)、釣り天井事件などの嫌疑を突きつけられ所領没収、
由利5万5千石へ転封を命じられます。ところが謀反に覚えのない正純は拒否。
これが秀忠の怒りに触れ、本多家は改易。佐竹家預かりで由利に配流となります。
寛永元年(1624)、佐竹義宣に召し預けになると正純は横手に移され、
厳重な監視のもと幽閉生活を送り、寛永14年(1637)73歳で亡くなりました。

息子の正勝さんは体を壊して、寛永7年(1630)35歳で亡くなったって。

大人の事情は色々と複雑だった瞬間


「本多上野介正純父子終焉之地」の碑とともに、父子が横手で寂しく
生涯を終えることになったいきさつ(超ダイジェスト)も案内されてます。

釣り天井事件っていうのは、正純の失脚を狙った言いがかり的なやつです。

元和8年(1622)、2代将軍秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、
宇都宮城に泊まることになったことから、正純が城の普請や造営を行ったら、
「秀忠を暗殺しようとして釣り天井を造った!」という嫌疑をかけられた挙句、
鉄砲密造や城の無断修築とか他の罪まで着せられて失脚させられたという…。

結局、釣り天井は存在しなかったことが後になって判明したらしいけど、
自分の城で天井を落として殺すとか普通に考えてマジないから(*°∀°)=3

でもさ。狙ったが最後。無理をゴリ押す幕府もやっぱ怖いなって思う反面、
そうまでして排除される正純さんも相当アレレな所があったんだろうなって。
秀忠やブレーン世代にとっては、許しがたいウザさだったのかもしれない。

さみしさあふれる瞬間


墓所には正純が横手で詠んだという句が刻まれた碑もありました。

「陽だまりを恋しと想ううめもどき、日陰の紅を見る人もなく」

正純さんって才気ばしったイメージがあるけど、晩年は見る影もなく。
政権の中心から一転、幽閉の身となった日々はさぞ寂しかっただろうね。


さーて。お参りが済んだら車に戻って次へゴー!
江戸時代からいっきに平安後期に行くわよ!!!


後三年の役古戦場に出陣!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2018.11.23 Friday 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!

稲庭の広沢寺から、湯沢市にある清凉寺にやってきました!
秋田の佐竹氏の分家である佐竹南家のみなさんのお墓参りをするのです。

解放的だった瞬間


市街を見下ろす小高い所にある清涼寺。住宅街の狭い道から参道に入り、
しばらく登れば本堂は目の前!車を停めてイソイソとお参りに向かいます。

ひとつ利口になった瞬間


「佐竹南家の塋域(えいいき)」と書かれた立派な説明がありました。
塋域ってのはお墓のこと…ってワタクシ今まで知らなかったんだけど(*°∀°)=3

佐竹南家は常陸の大名、佐竹家15代義舜の弟、義里を祖とする家で
北家、東家、西家とともに、佐竹宗家を支えた分家になります。
佐竹南家、西家、東家、北家って呼び方は佐竹氏が常陸にあった頃、
太田城から見た屋敷のあった場所で決められたものなんだって。

迷いようがなかった瞬間


本堂裏の高台を少し登ります。1本道なので案内がなくても分かる!

清凉寺は慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田への国替えに伴い、
湯沢に入った南家3代義種が菩提寺として清凉寺を建立したそうです。

佐竹義宣に希望の地を聞かれた義種は「雄勝・湯沢の域は狭いが
最上領にも伊達領にも近い」と湯沢城を切望したというから男気あふれすぎ!

気持ちが引き締まる瞬間


こちらが佐竹南家初代から18代までの当主が眠る塋域。
木立に囲まれた静寂な空間は、とても厳かな雰囲気。

聖域感ハンパない瞬間


どれが誰か分からないけど、18人前の立派なお墓がずらっと並んでます。
初代義里、二代義尚の墓碑と位牌は国替えの時、常陸から移されたんだそう。

気になる瞬間


真ん中にひとつだけ他の墓碑とは違う感じのお墓もあった…ダレの?

元和6年(1620)、湯沢城は4代義章の時に一国一城令で破却されますが、
佐竹南家はその後も二百数十年に渡ってこの地を治め、明治を迎えました。
仁政を施したそうで、人々から「湯沢様」と親しみ敬慕されたみたいです。

ほぼ決めつける瞬間


入り口で見た立派な案内版によれば御位牌もココに納められてるとか。
扇の紋(月がないけど)がついてるこれが位牌堂ってことになのかなぁ?

あっさりしている瞬間


お寺の裏にある山が湯沢城跡。元は稲庭城の支城として小野寺氏が築いたもので、
一国一城令で破却されたけど、今もまぁまぁ遺構が残っているみたい。

だからワタクシ、出陣計画を練ってる時に寄れたらなって考えてたんだけど、
歩いて登る時間はない! 車で行けるらしき林道がわからない!で見送ったw

今回は行きたいところが多すぎる!さっさと予定通り次の横手城に行かねば!!

…って一国一城令どうなってんw と思いつつ急いで横手に向かいます!


横手城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2018.11.07 Wednesday 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

広沢寺にて小野寺道広のお墓参り

稲庭城の次は城下にある広沢寺へやってきました!
正直言ってワタクシ、道広さんが誰なのかよく知らないんだけど(*°∀°)=3

キレイだった瞬間


ナビに言われるまま来たけど稲庭城から車で5分くらい?で近かった。

広沢寺は長禄元年(1457)稲庭城主小野寺道広が開基して菩提寺にした
曹洞宗のお寺で、正保4年(1647)現在の場所に移されたんだそうです。

ヒョロッとしていた瞬間


中に入ると珍しい形の鐘楼門がお目見え。山門って個性的なお寺が多いよね。
説明には「山門は楼門形式の四脚門」としかなく、建立時期は不明ですw

浄化力が高そうだった瞬間


屋根が入母屋造りの本堂は寛政元年(1789)に建てられたらしいんだけど、
のわりに古びた感じがなく、庭もキレイにしてるから気持ちのいいお寺だなって。

迷いもうろつきもなしだった瞬間


道広さんのお墓は本堂左手奥にすんなり発見!案内とかも出てなかっし、
いつもみたく意地でも探しあてるモチベじゃなかったわりにミラクルw

いい加減だった瞬間


稲庭城で見た写真は五輪塔だけだったけど、覆堂ができて綺麗になってる!

道広さんは稲庭城の9代城主のようです。稲庭城を築いた小野寺重道から
数えてってことなのかなぁ(たぶん)。道広さんがここを菩提寺にしたのが
長禄元年1457ってことだから室町半ばでしょ。まぁ大体そんな感じかw

おもむろに合掌の瞬間


小野寺氏が県南でブイブイ言わして勢力拡大している頃の武将よね。
思い入れられなくて申し訳ないから、敬意を持ってお参りしました。


さぁ稲庭はこれで完了!

せっかくだからお城近くにある佐藤養助商店本店で稲庭うどんを食べたかったけど、
お店の前を通ったら昼前でも長蛇の列(*°∀°)=3 開店前から並ばなきゃムリw

気持ちを切り替えてさっさと次に行こう!


清凉寺にて佐竹南家墓所に参拝!〜に続く


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2018.10.26 Friday 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

正源寺にて鮭延秀綱のお墓参り

戸沢家墓所の次は秋田の方へ向かいつつ、真室川にある正源寺へ!
ここでは最上家のイケ武将 鮭延秀綱さんのお墓参りをするのです。

まぶしすぎた瞬間


県道から少し入った所にある狭い山門を抜けられれば駐車場に行ける(*°∀°)=3
通りから奥まっている上、さらに線路まで越えた先にあるちょっと珍しいお寺です。

異色のコラボだった瞬間


線路を越えるどころか、なんなら荘厳すぎる立派な総門が踏切の真ん前!
昭和36年に出羽三山の湯殿山大日坊から移築された町指定の文化財なんだって。

お参りしづらいタイプの本堂だった瞬間


正源寺は天文5年(1536)小野寺氏家臣の鮭延城主、佐々木典膳貞綱が菩提寺として
鮭延山総国寺を建立したのが始まりで、子の鮭延秀綱の時代に現在の場所に移され、
三弘山正源寺と改められました。当時からか分からないけど曹洞宗のお寺です。

鮭延氏はお名門「近江源氏の佐々木氏」の一族で、出羽に下って小野寺氏に仕え、
鮭延の地に入ったことから、地名を取った鮭延を名乗るようになりました。

自信マンマンの瞬間


鮭延さんのお墓は境内ではなく、いったん総門を出た左手の墓域奥にあります。
境内にも途中にも墓所への案内は一切なかったから、調べてきてよかった!

かけよる瞬間


ずっとまっすぐ進んで、木立の中にこんな感じのが見えてきたら到着!
真ん中が鮭延さんのお墓なんで、アレを目がけてつっこんでいきます。

ありがたがる瞬間


道順や案内はないけど、お墓の前にちゃんとした標柱があるのが嬉しい。
鮭延さんのお墓は茨城県古河市の鮭延寺にもあって、そちらに比べるとココは
建立の経緯がわからないんだけど、そんな古くはなさそうな雰囲気だよね。

思い込みが激しい瞬間


こちらが鮭延さんのお墓。シュッとして佇まいが美しい五輪塔です。
でも生一本っていうか、人柄が清らかな印象にすごい合ってる気がする!

鮭延秀綱は横手城主小野寺氏に仕えた佐々木貞綱の子として生まれましたが、
庄内大宝寺氏の侵攻を受けた際に捕らえられ、幼少期は小姓として仕えたといいます。

その後、秀綱は大宝寺から解放されると、家督を継いで鮭延城主となりますが、
天正9年(1580)、出羽を平定した最上義光の侵攻を受けると激しく抵抗するものの、
調略による内部切り崩しを受けて降伏。本領を安堵されて最上氏に仕えると、
最上領北方の要として、旧主小野寺氏攻略など交渉や戦の両面で活躍しました。

想像をはためかせる瞬間


しっとりした石には「正源寺殿前越州大守松雲宗長大居士」と刻まれてます。
武勇に秀でつつ温柔敦厚というステキ武将ですから、念入りに合掌しますとも!

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに呼応して起きた慶長出羽合戦では、
直江兼続率いる上杉軍2万に包囲された長谷堂城へ救援に駆けつけると、
城将志村光安を助け、獅子奮迅の働きで上杉軍の本陣に迫る活躍をします。

その戦いぶりは直江兼続に「さても今日、鮭延が武勇、信玄、謙信にも覚えなし」
と言わしめたほど!少ない手勢で何百も首を取ったというからマジ驚きじゃない?

そして関ヶ原の後、この戦功により最上義光が57万石の大大名になると、
秀綱も真室城1万1500石を与えられ、重臣として最上家を支えていきます。

しかし元和3年(1617)、義光の跡を継いだ家規が36歳で亡くなると家督をめぐり家中は対立。
家規の子、13歳の義俊派と、義光の四男、山野辺義忠派の争いがお家騒動に発展すると、
元和8年(1622)最上家は改易され、秀綱も老中、土井利勝の預かりとなりました。

ちなみに鮭延さんは家規の弟、山野辺推しだった人。権力がどうこうってより、
山野辺さんの方が器量人だったらしいから、最上家によかれと思ったんだろうね。
義俊は若いし、義俊派の人たちも残念なメンツがそろっていたみたいだし(*°∀°)=3

泣きそうになる瞬間


墓石の横には欠けてる所が気になるけど、「正保3年6月古河卒去」の文字が。
鮭延さんが亡くなったのは茨城県古河市。この晩年がまたグッと来るのよ。

土井利勝の預かりとなった鮭延さんの元には「乞食をしてでも殿を養いたい!」って
激アツな家臣が20人もついてきて、無禄でずっと鮭延さんを支え続けるんだよね。

実際、土井家預かりじゃなくなった後しばらく、鮭延さんwith家臣たちは
肩寄せ合って、その日暮らしみたいな生活をしてたみたいなんだよね。
でもすさんだりすることもなく、貧しくても清く正しくちゃんと生きた。

その後、鮭延さんは土井利勝に迎えられ、5000石!を与えられるんだけど、
激アツ家臣に分け与え、自分は家臣の家を1日置きに転々として暮らしたって…。

そして寛永10(1644)、土井家の領地替えに伴い、佐倉から古河に移った2年後、
正保3年(1646)6月死去。鮭延さんの死を大いに悲しんだ家臣たちが菩提を弔うため
建てたお堂が、もう1つのお墓がある古河市の鮭延寺(けいえんじ)なんですね。

鮭延さんって生年がハッキリしないから微妙なんだけど、享年は80代のハズ。
還暦の頃に主家が取り潰されながら、全て失っても慕ってくれる家臣に囲まれ、
最後まで自分の信念に従って生きたって意味では穏やかな晩年だったのかな。

にしても、にしてもですよ!

「乞食をしてでも殿を養いたい!」って家臣の気持ちがマジ震える!!

故郷も親兄弟も捨てて、ただただ鮭延さんのことだけ思って山形を出て、
ホントにずっと尽くすんだもんね。主従どちらもハートがありすぎてw

こりゃやっぱ古河市の鮭延寺にもお参りいかなくちゃね。

地味に嬉しい瞬間


帰る時、偶然、奥羽本線が通ったのが少し嬉しかったw


お寺の近くには鮭延城もある・・てかもう本堂の後ろに見えてる山がソレだけど、
時間もないし、まーとにかく自然のまんま的な感じらしくて真夏の今は無理と!


てことで、次はいよいよ秋田入り! 久々に怒涛の進軍するわよw


稲庭城に登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  


2018.10.08 Monday 12:40 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
 | 1 / 12 PAGES | >>