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東光寺にて諏訪頼重と武田義信のお墓参り

甲斐善光寺の後は東光寺に移動して、武田関連メジャーな二人のお墓参り。
ここで自刃した諏訪頼重と、ここで亡くなった信玄の長男義信を勝手に偲びます。

謎めきの古刹だった瞬間


東光寺は臨済宗妙心寺派の寺で、草創は平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光
国家鎮護仏法興隆の祈願所として建立し、興国院と名づけたことに始まるそうです。

鎌倉時代の頃には寺号を東光寺に改めたらしいんだけど、歴史に不明な部分が多くて、
室町時代までの歴代住職すら不明なんだとか Σ(゚Д゚)! ドウナッテンノヨー!

武田めぐりのマストだった瞬間


諸堂が整備されて栄えたのは室町時代、武田家の保護をうけるようになってから。
臨済宗に帰依した武田信玄が開いた「甲府五山」の一つに数えられる名刹です。

圧がハンパなかった瞬間


こちらは織田軍侵攻時の兵火を逃れ、さらに空襲の戦火も逃れたという仏殿。
前にスペースがなくて近くで見ることもあって、やたら重々しすぎなんですけどw

様式的に室町時代のものと考えられていて、国指定重要文化財になっています。
ワタクシは入らなかったけど、中の柱に織田軍が乱入した時の刀傷があるのだとか。

禅寺ぽさ全開だった瞬間


東光寺は仏殿の他、開祖大覚禅師によると言われる庭園が有名だそうです。
時間がなくて見れなかったけど、仏殿前のところでもこの行き届きぷり。

勝手に満足する瞬間


コンクリートのクールな本堂じゃ武田菱があってもそんなグッとは来ないけど、
お寺全体に言い知れぬ品というか、佗・寂なのかな・・とても雰囲気があるのです。

無駄にハッスルする瞬間


時間もないのでさっさと本堂裏手の方にあるお墓に前のめっていきます。
下調べはしていたけど、案内が出てると何の不安もなく進めるからホントいい!!

武将の墓あるあるだった瞬間


階段を上ったところに、武田義信、諏訪頼重と二人のお墓が並んでいました。
ここも前にスペースなさ過ぎて、二つ並んで正面からの写真が撮れなかったんだ。

色々と残念だった瞬間


まずは手前にある武田信玄の長男、義信さんのお墓からお参りします。

義信は信玄と正室三条夫人との間に生まれた長男で、重臣飯富虎昌が傅役となり、
武田の跡取りとして養育されました。15歳で今川家から今川義元の娘を嫁にもらい、
信濃攻略戦などの戦で武功も挙げ、跡継ぎとして家臣の期待も高かったといわれます。

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討死したことにより、信玄が駿河侵攻を決定。
さらに今川との同盟を破棄し、義元の敵織田信長と結んだことで父子関係は悪化。
義信は傅役の虎昌を説いて父、信玄の追放を画策しますが、実行前にことが露見し、
飯富虎昌は自害させられ、義信は謀反を企んだとして東光寺に幽閉されました。

そして幽閉から2年後の永禄10年(1567)10月、義信死去。享年30歳。
自害したとも、病死とも言われ、死因や真相はわからないのだとか。

自害ならやっぱ信玄に命じられちゃった感じなんでしょうかねぇ・・
そもそも謀反なんて大それた話だったのかなってとこも訝しんでみたり。
でもどうにせよ義信さんも信玄には遠く及ばなかったってことだよね。

やっぱり色々と残念だった瞬間


で、お次はこちら。2つ並んだ奥にあるのが諏訪頼重のお墓。

諏訪頼重は信濃諏訪郡の領主。武田信虎の娘禰々(ねね)を正室に迎えて武田との
関係を強化していましたが、天文11年(1542)、父信虎を追放して方針転換した
晴信(信玄)によって桑原城を囲まれます。頼重は抵抗するものの、開城すれば
兵を引くという和議を受け降伏。甲州に送られ、東光寺で自害させられました。

・・・ってさらっと書いちゃうと超つまんないなw 

そもそも晴信(信玄)は妹の嫁ぎ先をむやみに攻めるのはまずいってことで、
同族ながら反頼重派の高遠頼継をけしかけて、桑原城を囲ませるのよね。
で、いい感じのタイミングに出てって、和議を持ちかけて開城降伏させると、
上手いこと言って頼重さんを禰々たちと一緒に甲府に連れてくわけです。

甲府に来たら、正室の禰々はもちろん、生まれたばかりの男児寅王丸や
娘(のちの諏訪御寮人)とは離されて、東光寺に幽閉されてるんだけど、
頼重さんは義理の兄である晴信が悪く扱うはずないって思ってみたいで、
はめられたことに気づかず、当初は高遠頼継を恨みまくっていたとか・・

頼重さん人も育ちもよすぎ (*°∀°)=3

で、扱いの悪さに気づいて不満に思った頃には信玄に自害を命じられ、
弟頼高とともに切腹。諏訪惣領家は滅亡しました。享年27歳。

この辺のくだりは井沢元彦の野望が面白い!

あまりにも感慨深すぎた瞬間


余談だけど、その後、晴信は寅王丸の後見として諏訪を支配することになり、
諏訪頼重の娘、由布姫(所説あり)を側室として、勝頼を生ませています。

そして寅王丸が元服前に亡くなって、諏訪の血を引く勝頼が諏訪家を継ぎ、
さらに長男義信が廃嫡されたことで武田家の後継者となって・・・・・・(遠い目)

いや〜武田の・・いや信玄の黒歴史2つが並んでるって改めてすごいw

インパクト激よわだった瞬間


東光寺には柳沢吉里の男子二人の墓もあります。柳沢家の墓所なんだとか。
吉里は5代将軍家綱の側用人柳沢吉保の嫡子なんだけど更にその子の墓となると・・・
義信さんと頼重さんの墓所よりさらに一段上に上にあるのがアレ〜な感じでした。




さて。次は信玄の父、信虎さんの眠る大泉寺に向かいます!


大泉寺にて武田信虎のお墓参り〜に続く


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2017.08.13 Sunday 10:02 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

逍遥院にて武田信廉のお墓参り

勝沼氏館の次は甲府に移動して逍遥院にやってきました。

こちらで武田信玄の末弟、信廉のお墓参りをするのです。

危うく通り過ぎそうになった瞬間


生活道路に面してとなりに並ぶ住宅にやたら溶け込んでいる山門。
ナビに到着って言われ「あ!」と思った時には通り過ぎてたいつものやつw

キレイめなお寺だった瞬間


逍遥院は大永4年(1524)創建の曹洞宗のお寺で、開基は武田逍遥軒信綱。
甲府市文化財指定の逍遥軒位牌と逍遥検文書が所蔵されているそうです。

やっぱり手入れが行き届いていた瞬間


お寺の方がいたら位牌を見せてもらえるか聞いちゃおうっかな〜
と思ったけど誰にも会えず・・しょぼんで本堂左奥の墓所に進みます。

迷わなくて助かった瞬間


本堂左に行ってすぐ見つかりました。正確には墓じゃなく祠なんだって。

武田信廉は信玄の末弟で武田二十四将の一人。信玄が武田当主となってから
親族衆として80騎を率い、元亀元年(1570)には高遠城主となりました。

1573年(元亀4年)上洛作戦中に信玄が病死すると、姿が似ていたことから
影武者を務めて、無事、軍の引き上げを成功させたと言われています。

勝頼の代になると飯田城代や大島城代などの重要拠点を任され、
天正3年(1575)には長篠合戦にも参陣。一族の重鎮として支えました。

しかし天正10年(1582)、織田徳川による甲州侵攻が開始されると、
早々に大島城を放棄し甲斐に退却。勝頼が天目山の戦いに敗れて自害した後、
残党狩りの織田軍に捕らえられ、甲斐府中で処刑されました。享年51歳。

残念すぎる人だった瞬間


信廉さんは出家後、武田刑部少輔信廉改め「武田逍遥軒信綱」と号しました。

絵画が得意な人で「絹本著色武田信虎像」や「武田信虎夫人像」など
現存するいくつかは、国重要文化財に指定されてるほどの腕前。
武将としてより、芸術の方に天賦の才があったんでしょうね。

小説やドラマだと「側近も区別がつかないくらい似てた影武者」ことか、
「絵ばっか描いてたへたれ」みたいなのが多いから、少し気の毒になる。


にしても。

川中島長篠も参戦して、それまでは逃げたとかへたれ決定打ってないのに、
最後が残念だったばっかりに後世の評価も実際以下にされちまって・・(泣)
城を捨てて退却したことじゃなく、逃げ切れず処刑されたのがほんとに残念。

念入りに合掌の瞬間


信玄の死後、追放されていた父信虎を引き取って世話したというし、
ヘタレじゃないにしても武人には向かない優しい人だったんだろうな。

色んな武将がいるから面白いね。みんな同じくだったらつまんないもん!


さて次は、濃すぎる兄信玄がグイグイ創建した善光寺に行きます!



甲斐善光寺と小山田信茂の首塚を探訪!〜に続く


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2017.07.28 Friday 14:30 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

恵林寺にて武田信玄のお墓参り

向嶽寺から今回の大本命、恵林寺にやってきました!

ずっと前から「行こう 行きたい 行かなきゃ 行かないの?」と思ってた!
でも近いからすぐ行けるとか何とか・・そしてやっと来れたパティーンですw

いきなり武田紋がまぶしい瞬間


塩山駅の信玄像、向嶽寺と寄ってるけど、まだ拝観時間ちょい前( *´艸`)
時間もあるので車を停めてから少し戻り、赤門から入っていくことにします。

ハリキリすぎてた瞬間


初秋の天気のいい土曜日。有名だからかなり混むものと思ってたけど、
さすがに朝イチはそうでもなかった(*°∀°)=3 空いててよかった!

無理すぎた瞬間


参道を進んで行くと有名な三門が見えてきます。こちら県重要文化財。
織田信長の焼き討ちを受け、快川和尚が壮絶な火定を遂げた場所に建ってます。

「安禅必ずしも山水を用いず 心頭滅却すれば火もまた涼し」

・・妄想スイッチ全然入らないw 無我夢想の境地とかマジ遠い!

後から情報だった瞬間


三門を入ると見えるのが開山堂。夢窓疎石、快川紹喜、末宗瑞曷の像が
堂内に安置されているそうですよ。ワタクシは見てないけど(*°∀°)=3

共通券を買うことにした瞬間


ちょうど拝観時間になったので開山堂の右手にある入り口に向かいます。
このさらに右には信玄公宝物館があるので、帰りに寄ることにしました。

迫力があった瞬間


庫裡へ進みます。庫裡は信長の焼き討ち後、家康によって再建されたものの
明治38年の火災によって再び焼失。現在の本堂や庫裏は明治末期のものなんだとか。

空いていてよかった瞬間


拝観料は大人300円。高校生以下100円。信玄公宝物館と共通券で700円。
靴を脱いで上がるけど割と狭いので、混んでる時や団体さんいると大変そう。

後悔先に立たずだった瞬間


何気なく入り口に貼ってあったお知らせの紙を見てがっくり(´Д`)
信玄の墓は間近で見られないんだね・・もっと早く来とけばよかった。

そのくせ案外、前のめりだった瞬間


墓参りのために来たのに入れないって何だよ〜と自分のミスを棚に上げ、
心の中でブツブツ文句を言いながら、でもイソイソと順路を進みますw

1人でじっくり堪能する瞬間


こちらはうぐいす廊下。侵入者探知のため、床の上を人が歩くときしんで
音が鳴るように作られています。その音が鶯の鳴くような音ということで・・

侵入がばれるのは確実だった瞬間


どこを歩いてもキュキュキュッとしょうもないほどの音がします。
右側にはズラーッと位牌が並んでました。誰のだろうね?(いい加減)

特別感満載だった瞬間


うぐいす廊下の先にあるのが「明王殿」。武田不動として崇拝されていて、
不動明王が鎮座しています。で、このすぐ外が信玄のお墓というポジです。

ドキドキの瞬間


不動明王は信玄が比叡山より大僧正の位を受けた際、京より仏師斉藤康清を招いて、
対面で模刻させたというもの。大きさ良く分からなかったけど等身大とかって。

とんだジラシプレイでお預け感満載の瞬間


お知らせの通り、信玄のお墓には入れないので順路に沿って墓域外を廻ります。
この場所からだと遠すぎてチラとも見えない・・目の前にあるのにあんまりだ!

執念深かかった瞬間


とキーキー思ってたら、家臣の墓の方へ回り込んだ所から少し覗けたw
改めて言っとくね。通常は非公開で月命日の12日だけ特別公開ですから!

この信玄の墓のすぐ裏手には家臣の墓がいくつも建っているんだけど、
順路からは全体に遠い上、ポジ取りしづらく暗くて写真がうまく撮れず。
中には馬場だの内藤だのの墓もあるらしいけど誰ドレとかも不明だし。

案外スルーだった瞬間


信玄、家臣の墓の次にあるのが柳沢吉保公墓所。正室定子の墓も並んでます。
信玄と同じ甲斐源氏の一族であることを自負していた柳沢さんの意を汲んで、
大和郡山への転封にあたり夫妻の墓がここに設けられたのだそうです。

とりあえずのぞいてみた瞬間


こちらが夫妻の墓所隣に設けられた霊廟の中にある柳沢吉保坐像。
吉保自筆の納め状によると正徳元年(1711)に製作され奉納安置されたそうな。

大判ふるまい武田菱だらけだった瞬間


最初に見てきた中門や三門にあるような金ピカに輝く武田菱ばかりじゃなく、
庫裡や方丈のあちこちにある他、廊下にこんな無造作に置かれてたりもしますw

紅葉の時期しかありえない瞬間


最後に夢想国師の作った恵林寺庭園・・・全く素敵さ伝わらず(*°∀°)=3
ワタクシの写真の腕前に加え、木々が緑だらけなのもよろしくないと思われます。


順路通り廻って入り口に戻ってくるとすごい規模の団体さんが来たのに遭遇。
ワタクシ朝イチに来て貸切で見られてよかった・・うぐいす廊下とかやばいw

こちらも貸切だった瞬間


恵林寺拝観の後は信玄公宝物館へ。常設展示で「信玄と戦国文化」をやってて、
孫子の旗「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」なんかも見られます。

じっくり見られて満足な瞬間


撮影ダメなので中の写真はないけど、風林火山の旗の他、諏訪法性の旗とか
武藤喜平衛(真田昌幸)所有の甲冑、伝信玄所有、愛用の兜だ軍配だの他にも、
色んな起請文や文とか、逍遥軒作の像とかもあり、なかなか面白かったよ!
こちらも入れ違いに別の団体さんが来て。ワタクシ本当についてたww

絶対マストな瞬間


次に向かう車に乗り込む前に向かいの「ドライブイン信玄館」に立ち寄り。
お昼には早く食事するわけじゃないけど、ココはどうしても外せないの!

存在感ハンパなかった瞬間


だってほら!!入り口横に鎮座するドデカイお屋方様の銅像を見て!!
遠目にしてもあのデカさ。武将銅像好きとしては絶対に見逃せないじゃんw

何しろ大迫力だった瞬間


ドーーーーーォォン!! まぁデカい!!濃い!!暑苦しどっしり!
動かざること山の如し。重厚すぎて見上げてると威圧感マジはんぱないんすけど!!!

戦利品は勝沼ワインと信玄餅だった瞬間


いつもは超急いで次次に移動してるから店とかあんまり寄らないけど、
せっかくだからたまにはママンにお土産でも買おうかなって店内へ。

そしたらレプリカながら信玄だ勘助だとあちこち甲冑が飾ってあって、
絶対買わない民芸品とかのコーナーの方まで廻っちゃったよねw

恵林寺に来たら、ドライブイン信玄館もセットでぜひおすすめ!


さて。本日一番狙いを無事見終わって力が抜けたところで、
あとは日が暮れるまで力の限り、武田関連史跡をグイグイ廻って行きます。


武田ゆかりの雲峰寺を探訪!〜に続く




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2017.06.20 Tuesday 17:34 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

興国寺にて須田満親のお墓参り

梁川城の後は、梁川城代須田長義のお墓がある興国寺にやってきました。

立派なお寺だった瞬間


興国寺は曹洞宗のお寺。前身は長野県須坂市南原の臥龍山の中腹にあったそうで、
その山麓が須田氏発祥の地なんですって。須田長義が上杉氏に従って福島に入り
梁川城代になった際、菩提寺としてこの地に建立されたそうです。

思ったほど歩かず済んでホッとする瞬間


境内はかなり広く、暑くてあちこち歩きまわらなかったんだけど
本堂の他にも数々のお堂や経蔵などがある立派なお寺さんのようです。

にんまりする瞬間


須田氏のお墓は境内入った手前の方にあるお堂の中にありました。
扉も開いているので、グイグイのぞかなくてもちゃんと見られそうですw

遠慮なくかぶりつく瞬間


お堂の中は中央が長義、左が父の満親、右がお菊の方って感じで。
説明ないしどうでもいいけどお菊の方は長義の奥さんだと思います。

イメージ先行だった瞬間

実はワタクシ的には梁川城代の長義さんより、満親さんのが印象が強くて、
今回こちらに立ち寄ることにした動機も満親さんの墓があったからっていうw

須田満親は信濃の武将で、村上義清と共に信玄の信濃侵攻に対抗して破れ、
越後に逃れて以降、謙信に仕えて数々の戦で活躍。後に海津城将として4郡を任され、
徳川の上田城攻めの際には上杉景勝の命を受けて真田支援の指揮を執りました。

若い頃の須田満親が主人公の吹けよ風 呼べよ嵐を少し前に読んで印象に残ってたし、
それ以前にも真田昌幸だったかを書いた小説に出てきた満親さんがいい感じで覚えてた。
それだけで詳しく知らないんだけど、お墓があるならお参りしたいなって。

で、そういえば満親さんって晩年はどうだったんだろうって調べたら、
上杉が会津に移封された時、次男長義に家督を継がせ、自身は海津城
切腹したって・・・ナンデ?? (病死という説もあるらしいんだけど)

よくは知らないけど優秀そうだった瞬間


満親さんの長男満胤は色々あって改易の憂き目にあって浪人した関係で、
須田家は次男長義が継ぎ、上杉氏に従って会津に入り梁川城代を務めました。

長義さんは猛将で伊達政宗を二度も撃破したり、大坂夏の陣でも活躍して、
徳川秀忠から感状をもらうものの、その時の傷が元で居城にて死去。去年37歳。

なんか・・政宗。本庄繁長にも須田長義にも追っ払われ、対上杉は調子いまひとつだねw



次はやーーーっと福島攻略シーズン2ラスト! のろすぎ長かった・・・・


梁川八幡神社にて政宗初陣祈願所を探訪!〜に続く


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2017.05.27 Saturday 14:13 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長楽寺にて本庄繁長のお墓参り

伊達晴宗に続き、次はすぐ近くの長楽寺で本庄繁長のお墓参りをします。

法要の人が多かった瞬間


長楽寺は曹洞宗のお寺。元は上杉氏重臣本庄氏の菩提寺として越後に創建され、
慶長5年(1600)、本庄繁長が福島城主(城代)になって時この地に移りました。

黒づくめしか思い浮かばなかった瞬間


山門を入った右手には浅草屋宇一郎と仙台藩烏天狗組の碑がありました。
烏天狗組は戊辰戦争に関わって新政府軍にゲリラ戦をしかけた武闘派集団。

完全に興味がない瞬間


こちらが本堂。幕末にはここに仙台軍事局が置かれていたんだって。
法要をしていて周りに人も多かったので遠目に見つつ左の墓域へ行こ!

迷いようもなかった瞬間


目指すのは墓域にあるお堂・・と思ったら八幡神社って書いてある(*°∀°)=3
後で調べたら「武人八幡」っていう神号を主君上杉景勝に贈られたみたいです。
中には本庄繁長の木造が安置されてて、供養祭の時だけ公開されるのだとか。

面白すぎる人だった瞬間


空いてる隙間が狭すぎてレンズが突っ込めず全然迫れなかったわww

本庄繁長は上杉家に仕えた武将。川中島ほか数々の合戦で武功を挙げますが、
恩賞が少ないことを不満に思って武田信玄に内通。謙信に叛旗を翻しました。
しかし味方が集まらず孤軍奮闘する羽目になり、嫡男の顕長を人質にして降伏。
帰参を許されるものの、後には織田信長の誘いに乗って再び謙信に背きます。
が、謙信に敗れて再度帰参を許されると、以降はよく仕えました。

そして謙信の死後に起きた後継者争いではいち早く景勝の味方につき、
景勝が家督を継いだ後には新発田征伐などで貢献して重臣となりました。

慶長3年(1598)上杉家が会津移封になると繁長は福島城の城代を任じられ、
関ヶ原の際は伊達政宗の進軍を防ぐ活躍をし、戦後は景勝の命で講和に奔走。
上杉家が存続を許された後も福島城代を務め、重臣とし再建にあたりました。
慶長18年(1613)12月20日没。享年75歳。「憲徳院殿傑伝長勝大居士」。


だいぶ端折って書いてるからここじゃ全然伝わらないと思うけど、
小説とか読むと繁長さんホント色んなことやらかして面白すぎです。
やったりやられたり色々あるけど、しなやかに淡々と図太くていいのw

全部に合掌しておく瞬間


えーっと・・・どれが繁長さんの墓だろうね(汗)繁長さんの墓の他、
養子に出して大宝寺義勝を名乗らせた次男、充長さんの墓もあるそうです。


さて。気になってた繁長さんの墓まいりも出来て満足満足!
次は少し移動して伊達市の方へ。チョロっとつまんでから埼玉に戻ります。


梁川城に登城!〜に続く




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2017.05.12 Friday 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

宝積寺にて伊達晴宗のお墓参り

大隣寺で丹羽家のお墓参りした後は福島市に移動してまずは宝積寺へ。

瞬撮で終わるけど、せっかくだから政宗のおじいの墓参りをするんだ!

ひっそりしまくりだった瞬間


宝積寺は阿武隈川沿いにある曹洞宗の小さなお寺。下調べしないで来てたら、
目立たないし道も少し分かりづらかったから来られなかったかもしれない。

迷いようもなかった瞬間


ジイ様のお墓は参道を入ってすぐ左側にあります。コンパクトな境内。
本堂は恐らく参道右の小さな建物なんだけど、写真撮り忘れたね(*°∀°)=3

さりげなさすぎる瞬間


こちらが伊達政宗の祖父、晴宗公の墓所。前触れなくポンと建ってますw
葬られた経緯の説明はもちろん、墓所の案内板すらないのが残念です。

伊達もなかなか激しかった瞬間


晴宗さんは伊達家第15代当主。天文11年(1542)内政や外交をめぐって父稙宗と争い、
稙宗を隠居させて家督を相続すると米沢を居城とし、勢力の回復・拡大に努めます。

しかし子の輝宗と対立すると、晴宗は実権を輝宗に移して杉目城に隠居。
後に親子関係は修復され、杉目城に一門や家来衆を招いて催した宴では、
孫の梵天丸(後の伊達政宗)が和歌を詠んだりもしたのだとか。
天正5年(1578)杉目城にて死去。享年59歳。乾徳院殿保山道祐大居士。

分かりづらかった瞬間


墓所を示す標柱は石柵を入った内側に建ってるので写真がひん曲がってます・・
従四位下左京大夫伊達晴宗墓と書かれたこういうのがあると安心するわw

熱い男だった瞬間


晴宗の墓所は詳細不明だけど正室の久保姫が建立したと言われているそうな。

久保姫は磐城領主岩城重隆の娘で、白河城主結城氏の元へ輿入れする道中、
伊達晴宗が略奪して正室にした女性w とーっても美しい人だったのだとか。
略奪婚だけど仲睦まじかったようで、嫡男輝宗を始め6男5女に恵まれてますw

政宗だけじゃなく、良くも悪くもジイ様もアクティブで熱かったんだなw


さて、次はすぐ近くにある長楽寺に向かいます。近くとっても楽!


長楽寺にて本庄繁長のお墓参り〜に続く



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2017.05.05 Friday 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

大隣寺にて丹羽家墓所に参拝!

小浜城の後は丹羽家墓所へお参りに大隣寺にやってきました。

二本松では有名なお寺だけどお墓参りも観光さんもいない猛暑の午後ですw

いきなり悲しみっぽい瞬間


この参道で二本松少年隊副隊長の二階堂衛守と岡山篤次郎が戦死したそうな。
分かりづらいけど大隣寺と書いた標柱の後ろに戦死の地の碑がありました。

色々見てきた重みがある瞬間


大隣寺は初代長秀の菩提を弔うため、2代長重が白河に建立したお寺で、
3代光重が白河から二本松に国替になった時、一緒に移って来たんですって。

本堂は文化8(1811)年に修復で建てられたもので、戊辰戦争後には
藩主の謹慎所や藩庁後の仮事務所、藩校としても使われたそうな。

お参りせずには進めない瞬間


本堂の左手には二本松少年隊の立派なお墓があります。二本松少年隊とは
戊辰戦争に出陣した12歳から17歳までの二本松藩の少年兵部隊のこと。

以下、案内板にあった説明で印象に残った部分をちょっと抜粋。

時代の流れとはいえ、維新の夜明けを前に義に殉じた純粋にして
可憐な少年達。会津白虎隊に勝るとも劣らない壮烈な戦死を偲び、
その忠魂を讃え、心から冥福を祈る参詣者が今も後を絶たない。


思わず目がうるんじゃう瞬間


戊辰戦争中最大と言われる大壇口の戦いで果敢に戦った末に命を散らした
隊長木村、副隊長二階堂と戦死した14名の少年隊士が眠っています。

会津で白虎隊のお墓参りした時も切なくて胸が詰まるようだったけど、
どんな思いでこの子たちは・・って思うとここでも涙がこぼれそうになっちゃう。

先を急ぐ瞬間


少年隊にお参りした後は気持ちを切り替えて目的の丹羽家墓所を目指します。
境内には詳しい案内図もあったし、墓所の入り口も分かりやすいので助かります。

微妙に気になる瞬間


墓所の入り口を登っていくと左手にまず9代長富公のお墓があります。
他はみんな固まってるのに何で9代の長富さんだけ別なんでしょうか?

ぽつーんとしていた瞬間


墓前に来てみた・・手入れされるのかされてないのかこれまた微妙な。
歴代藩主が並んでるのを見ちゃうと、なおのこと寂しげに見えます。

首をかしげつつ来た瞬間


長富さんから少し進めばすぐ立地もよさ気な歴代藩主の墓所なのにw
正面の日があたってるとこが歴代藩主の、手前左側には陰墓があります。

墓域からして日陰だった瞬間


こちらは内室陰墓。藩主になっても母親が側室だった場合は表だって供養できず、
墓標など建てることも許されなかったのだとか・・・なんか切ない時代ですな。

ちょっぴりドラクエとか的だった瞬間


木立が開けて光があたり、立派な墓石が並んだ荘厳さ。何とかの祠みたいなw 
左側から8代、4代、3代、6代、5代、初代、7代と並んでいます。
2代藩主の長次さんは江戸で亡くなったので泉岳寺に葬られたらしい。

お立ち台の上だった瞬間


正面の真ん中、初代光重さんのお墓だけちょっと近くで見ておきます。
光重さんは丹羽長重の長男。陸奥白河から移って初代二本松藩主となりました。

何はともあれ合掌はしておく瞬間


父親の長秀さんは織田家重臣として色んな功績や活躍があって有名だけど、
光重さんの細かいことってそんな知らなくて・・・関ヶ原で西軍について
一度改易されたけど大名に返り咲き、代々続いてここに眠りますってことでw

こうなったらやっぱ長秀パパさんのお墓にもお参りしないといけないな!



さて、次は二本松を出て福島市に移動! 細かい所グイグイ寄ってきます。



宝積寺にて伊達晴宗のお墓参り〜に続く




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2017.04.28 Friday 12:32 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

小浜城下にて畠山義継の首さらし場を探訪

称念寺から小浜城を目指してやってきました。もちろん登城するんだけど
その前に城下にある畠山義継の首さらし場と言われる場所を見に行きます。

ここも下調べをちゃんとしてなかったらきっと見つけられなかったな。
車はとりあえず二本松市役所岩代支所に停めて歩いて行きますよ。

どうでもいいインフォメーションかもな瞬間


支所から目の前を通る国道459に来ると小さい橋があるので渡ります。
コレは渡りかけ写真。渡ればすぐ。もう首さらし場は見えてるんだ。

あてにならない瞬間


橋を渡ったらすぐ右へ、川沿いの路地を入ります。案内も一応あったw
でも草ボーボーで分かってて見てなきゃ普通は見逃しちゃうと思うけど。

冬限定の案内だった瞬間


畠山義継が最期を遂げて、伊達政宗が首を晒したと書いてあります。
草を触りたくないから読めるとこしか見てないけど(*°∀°)=3

ヤブ蚊が多そうだった瞬間


川沿いの道に入って進むとすぐに赤い鳥居が見えてきます。
手前は日当たりよくて明るいんだけど鳥居から急に薄暗そうだよ。

脇目もふらずの瞬間


鳥居まで来るとお稲荷さんとその横に何かの碑があるんだけど、
変な小虫もたかってくるので、さらに薄暗いその先にぶっこみます。

ビビり気味だった瞬間


狭くてやたら薄暗い空間に傾いて古びた標柱だけぽつーん・・・
ちょっとココなんか怖いデスけど・・居心地悪くてモゾモゾします。

粟の巣で政宗に銃殺された畠山義継の首は怒りの収まらない政宗に
目玉をえぐられた状態で晒されたそうです・・・ホラーすぎ!

思い切って近寄る瞬間


標柱には「畠山義継公梟首之処」と書かれています。
これしかないのに何だか雰囲気が怖いから、サッとお参って速攻で退散!!
ワタクシお墓参りして追慕してきたから祟ったりしないでよね・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクブル


オーケ〜!!もう気が済んだから次はすぐ目の前の小浜城に行くよ!
根性なしのワタクシは支所から車で本丸跡に攻めこみますw


小浜城に登城!〜に続く



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2017.04.15 Saturday 20:10 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

称念寺にて畠山義継のお墓参り

粟の巣古戦場から二本松城近くにある畠山主従の眠る称念寺にきました。
二本松城も久々に行きたかったけど、まだ色々予定があるので今回はスルーして。

混みっ混みの瞬間


お盆中だったのでお墓参りの方がたくさん。駐車場ギリ停められた。
畠山主従の墓所は左に進めばいいのだけどまず本堂を見ておきます。

わりとモダーン系だった瞬間


称念寺は文治元年(1185)法相宗の尊道和尚により開山された時宗のお寺で、
応永20年(1413)奥州探題として下向した畠山満泰が代々の菩提寺としました。

下調べが功を奏す瞬間


畠山主従の墓所は裏山?のようなところにあるので境内を出まして、
入口の門横から参道を登ります。調べてなかったら分からなかったな。

さらに安心の瞬間


綺麗な標柱もあり、よしよし!とニンマリしながら登って行きます。
ほぼ木陰で登りも緩やかなので、ワタクシでもハアハアせず歩けますw

あっという間の瞬間


ほどなく案内板が見えてきました。楽にお参り出来てホントに助かる!
一般の墓所と離れているので静かだし、人もいないのでネットリ見れるわ。

名門だった瞬間


そもそも畠山氏って元をたどるとワタクシの大好きな畠山重忠さんの死後、
その名跡を継いだものなんだそう。そう聞くとちょっと思い入れるじゃないかw

風格があった瞬間


案内板を読んで振り返るとすぐ目の前に立派な墓所が見えます。
日が当たってるせいか厳か感は少ないけど、なんだか妙に落ち着く。

勝手に偲ぶ瞬間


墓域の両側には義継に従って討死した23名の家臣の墓が並んでいました。

お礼に行っておきながら輝宗に刀を突きつけて拉致して逃げたって聞けば
一見、畠山義継が一方的に悪く、おまけに愚かな人にすら見えてしまうけど、
そもそも輝宗が義継を暗殺しようとしてるという噂を耳にしたから、
安全に逃げるためにやむを得ず、拉致に及んだって話もあるみたいだし・・

でも畠山側はその時いた主従もろとも討ち取られているから死人に口なし。
義継さんはもちろん、最期まで従った家臣もまぁ無念だろうなと思ったり。

合掌の瞬間


正面が12代義継まで畠山累代の墓碑。奥州探題畠山家墓と刻まれてます。
この後、義継の首がさらされた場所に行くから念入りにお参りしました。


銃殺された義継の首は怒り狂った政宗によりひどい感じで晒されました。
これから行く小浜城の近くにあるようなのでまずはそっち行ってみるよ。


小浜城下にて畠山義継の首さらし場を探訪〜に続く



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2017.04.07 Friday 12:34 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

龍穏院にて安東愛季のお墓参り

高乾院の秋田家廟所の次は三春町ラスト! 龍穏院へ。

力を振り絞る瞬間


山門の横から駐車場に入って車を停め、もう最後の方なんでこの期に及んで
わずかな体力をけちらず、ちゃんと山門から入るため戻ってきましたw

住宅街の高台にあった瞬間


龍穏院も秋田家の菩提寺。こちらも高乾院と同じく秋田家が三春入封の時、
前領の常陸から移ってきたのだとか。宗派は違って曹洞宗のお寺だそうです。

本堂が豪壮で美しかった瞬間


この本堂は天明5年(1785)の大火の後に再建されたものなんだって。
江戸期は藩主菩提寺として寺の多い三春でもひときわだったってのが感じられる。

とりわけ案内とかはなかった瞬間


安東愛季と8代さんのお墓は本堂左手の方・・ちょっと分かりづらかったような。
墓域の少し高くなった所に「秋田家尊霊塔」と書かれた柱標を見つけて駆け寄る。

野獣系だった瞬間


左のが尊霊塔、真ん中が安東愛季で右が8代長季(謐季)の墓と聞いておりますが・・

安東愛季は「斗星の北天に在るにさも似たり」と評された出羽の戦国大名。
分裂していた一族を統一して勢力を拡大し、早くから信長や秀吉にも誼を通じる
政治感覚で安東氏の最盛期を築きましたが、天正15年(1587)10月2日、
角館城主戸沢盛安との戦の際、仙北淀川陣中にて病死。享年45歳。

フロイスさんによると、愛ちゃんは野獣の皮を着て全身毛むくじゃら髭だらけ!!
イケメンとか全然思ってないけど何か調子狂うわw ワイルド過ぎて(*°∀°)=3

首をかしげる瞬間


そういや8代さんだけ何で龍穏院なのかな〜って帰ってきてから調べたら、
8代さんが亡くなった時に龍穏院の住職がおらず福聚寺が院代を務めてた上、
そもそも藩の重役が高乾院とか龍穏院の位置づけわかってなかったもんだから、
龍穏院に墓所を設けてしまったんだとか・・・ちょw  8代さん享年34歳。

その後、何代も藩主の葬儀をしながら8代さんだけそのままってのも謎いw


これで三春は終了!宿泊先の郡山に向かう途中、ちと古戦場に寄ってきます。


人取橋古戦場に出陣!〜に続く




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2017.03.13 Monday 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 
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