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多聞山城に登城!

[松永久秀] ブログ村キーワード

大和郡山城でくたびれ果てましたが、瞬撮で済むので戻りがてら多聞山城跡にも寄りました。

ちょっぴりドキドキの瞬間


現在は奈良市立若草中学校が建っている多聞山城跡。城址碑が校門内なので中に入るんだけど、
無意識に刷り込まれているアレがあるじゃない。「当校に御用のない方は立ち入りを禁ず」みたいな。
だから自分と関係ない学校に入るってのは、ちょっと緊張しますね。不審者と思われたら困るわ〜
とか言いながら、住宅街の中を抜けて校門前に着いたら、たいしたためらいもなく車のままイン!

気遣いは無用だった瞬間


部活とかないのかな・・生徒さんの姿は全く見えないので、変な気を遣わずに済んでよかったわ〜

多聞山城は永禄3年(1560年)、東に奈良坂、南東に東大寺、南に興福寺を見る大和支配の重要拠点として
松永久秀によって築城されました。四重天守があり、城塁の上に長屋状の櫓が初めて築かれた豪華な城は
その後の近世城郭に大きな影響を与えたと言われています。「多聞櫓」の名はここから広まりました。

城址碑ガン見の瞬間


元亀2年(1572)松永久秀は足利義昭が企てた織田包囲網に乗って信長に反旗を翻しますが、
信玄の死によって失敗に終わると、多聞山城を明け渡して降伏しました。

信長は多聞山城に出向いて自ら城を検分。(正倉院の「蘭奢待」が切り取られたのはこの時)
しばらくは明智光秀、佐久間信盛、柴田勝家が城番を務めますが、天正4年(1576)に筒井順慶
大和の守護に任じられた際、破却の命が出されると、石材などは筒井城や郡山城に移されました。
松永久秀が本願寺攻めに乗じて信長を再び裏切り、信貴山城で爆死したのはこの翌年のこと。

空気を読んだ瞬間


校門入って正面にある急な階段。城址碑はその右横に遠慮がちにひっそりと建っています。
城跡と知ってるから急な階段と盛られ具合を見て「なるほどな〜」ともっともらしく思ってみたりw
この城址碑のあるところまでは入って良さげな雰囲気なんだけど、こっから先はダメそな感じ。

最短レコード更新の瞬間


階段上ってモロ校内に潜入するのは気がひけるし、城址碑より先は「関係者外NG」の注意書きもあり・・
中学校の東側には大堀切があるというのだけれど、どうやって行けばいいのか全くわからない!
学校の外側も仁正皇后陵や聖武天皇陵の宮内庁指定陵墓なんかがあるので入れない場所多く・・
思っていた通り、超〜瞬撮でおわり。登城宣言する間もなく登城完了ですwwww

近代城郭の先駆けとなった城だから「遺構がよく残っている」状態だと素晴らしかっただろうけど、
信長の頃に破却され、現代では中学校も建ちながら一部残っているだけでも上々吉なんでしょうね。

攣り始めていた瞬間


初日から歩きすぎて足が痛くて攣りかけてるので、旅先に来てまで薬局探しシップ購入・・(ノд-。)
高取城から始まって多聞山城まで、確実に普段の1ヶ月分くらい歩いたのではないかとw


夏の陣〜奈良攻略はこれでいったん完了! 危険生物、登り、暑さ・・どれもきつい思い出だわw
2日目は今日のうちに三重県鈴鹿まで移動して、朝イチで神戸城からスタートします!!

早くホテルにたどりいて、ひとっ風呂浴びたら冷えたビール飲むのだ!!!!!


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2013.09.15 Sunday 15:17 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

大和郡山城に登城!〜その2

[郡山城] ブログ村キーワード

コンビニで500个離▲○リアス一気飲み、そして水2本購入して追手門前駐車場に戻ってきましたw
補給も終わったところで改めて城内に入ったら、今度は毘沙門曲輪とは反対の右奥を目指します。

前進あるのみだった瞬間


すると馬場先門跡に向かって遊歩道的な通路があり、ここを歩いて行くと左手に天守台がある方面の
本丸石垣が見られるということなのですが、石垣はもはや緑の壁と化しているので期待はできません。
でもせっかく埼玉から来たんだから、ハンパない夏の姿としてそれはそれ、見ておこうではないかと。

緑のカーテンまで出現の瞬間


左手に本丸石垣が見えるんですよ、左手にあるんです・・大事なことなので2度言いました。
しかしイヤな感じよね〜植え込みいいとして、やけに葉っぱの立派な樹木がみっしり・・。
隙あらばと思って見てるんだけど、樹木のガードが固くって石垣どころか向こうが見えない!!

見せる工夫が必要だった瞬間


で、やっと向こうが見える隙間があったと思えば、なんじゃこりゃ!見えるのはこの程度Σ(゚ロ゚;)
何のための遊歩道だかわかりゃしない・・と思ったらどうも桜の木が多いようだ。
桜の名所にするためにむやみに木を植えるな!と思ったし。せめてさえぎらない位置に植栽を。

高さ感台無しだった瞬間


天守がある側の本丸石垣・・毘沙門曲輪で最初に見た石垣という名のモロ緑の壁よりマシだけど、
手前に立ちはだかる植栽のブロックが見事すぎて「見た〜!」って満足感が全くないの悲しす。

挙句の果てだった瞬間


結局、全貌が見えるという意味で、まともに見えるのは遊歩道入ってすぐのこのポジだけ。
向こうのでっぱりが月見櫓跡、手前が天守のある石垣。向こう側の樹木も枯れていたら、
天守台も丸見えのはずなのですが・・・本丸石垣のラインは分かるけど何か残念だよね。
石垣だけの城ってたくさんあるけど、ここまでジャングル度がすごいのもそうそうないよ。
とりわけ繁殖力強い雑草なのか、石の質なのか、土の養分なのか他との差が分からないけど驚き。
冬の写真を見ると見事に石垣丸見え。冬枯れに行きたいけれど遠征は難しいから仕方がないね・・。

どこにいっても樹木じゃまだった瞬間


城内を出て今度は松陰門の方に行ってみます。内堀の外周を車は置いてトボトボ徒歩で。
まずは車で入ってきた離合困難な細道を堀沿いに戻ります。振り返ると追手向櫓が見えます。
毘沙門曲輪に面した石垣と堀ですね。復元予想図を見るとずっと多聞櫓が続いていたみたい。

覚悟を決めた瞬間


毘沙門曲輪の角っこまでたどり着きました。あの石垣の上は柳沢文庫があります。
水堀の幅はかなり広いのね。この角は左方向が松陰門跡、右方向で鉄御門跡になります。
まずは今は高校になっている二の丸と内堀を見ながら、松陰門跡の方に向かいましょう。

溶け込んでいた瞬間


ほどなく左手に高校の門が見えてきました。元二の丸にある郡山高校にある表門跡。
この奥が二の丸で、当時は藩主が政務を行った御殿や屋敷などが建っていたそうです。
この先の並びにはさらに裏門跡の碑が立つ門もあったんだけど・・同じような写真はいいねw

わかりきっていた瞬間


で、右手の内堀の方を見てみると・・・どこ見ても一緒かw 日当たりがいいとこのが緑率高いね。
手前の樹木も相変わらず。天守台に近い方の堀は枯れてたけど、この辺りはずっと水があります。

きっとバアさんぽかった瞬間


二の丸跡にそって歩き続けて松陰門跡まで着きました。朝から高取城信貴山城と登っているワタクシ。
暑さと歩き疲れで心が折れそうだけど、車からだいぶ離れてしまったのでとにかく歩くしかありません。
右側は二の丸とそこから続く松倉曲輪などがあり、左手には緑曲輪と麒麟曲輪があったようです。

スッキリ!の瞬間


その左手の風景がこれ。縄張図によれば右側が緑曲輪(五十間馬場)で、このずっと先の方で
さっき歩いた遊歩道の馬場先門に通じているみたい。スケール小さいけどすっきり見れるのが嬉しいw
この小さい水堀と緑曲輪、で内堀を経て本丸という配置になってます。秀長時代の縄張だそうです。

やけにマメだった瞬間


松陰門跡を見たら、また汗ダクでせっせと元来た道を戻って今度は鉄御門跡へやってきました。
暑いからもういいや〜とか言って駐車場の方へ曲がらず、ここまで来た自分をほめてあげたいw 
鉄御門から入ると二の丸と本丸があり、水堀と高い石垣に囲まれた本丸は追手門と竹林門以外、
他に出入りはできなかったようなので平城・・平山城になるのかな? 防御されてますよね。

カラータイマー点滅の瞬間


で、その鉄御門のあるところにも五軒屋敷池って書いてあるんだけどなかなか広い水堀があるんです。
だから鉄御門を通らないと、やっぱり簡単には中に入れない。平城は水堀やっぱ重要なんですね。
この鉄御門跡の堀の前には線路が走っていて、渡った向こうから復元櫓の遠望が見えるらしいので
最後の力を振り絞って行ってみることに。素敵だなと思った写真と同じ風景が見てみたい一心で。
石垣と奥に向櫓が見え、手前に塀が続く東隅櫓が一緒に映った遠近法の利いた構図がイカしてんの。

ダメなものはダメだった瞬間


・・・アレ、おかしい!! 写真で見た風景が見えるだろうと思われる位置を探して線路沿いを
歩いて来たけれど、他の建物が入らず向櫓から追手東隅櫓がすっぽり入る場所が見つからない。

あの手前にモサーッと出てるのは写真によると桜で、追手東隅櫓はこの位置でいいんだけれど、
もっと隅櫓に対して鋭角になるよう後ろに下がれないと左奥にある向櫓は全然収まらない。
でも下がると線路沿いの家の影になる。電線入るのも微妙だし・・・とちょいと考えていたら、
あの構図は線路の中から撮らなきゃ無理だという結論に達し、モラリストのワタクシ断念しました。

ステルススーツが欲しかった瞬間


だってほら、線路の外側だとどこに立っても、どこを撮っても絶対に電線入っちゃうもん。
武骨な櫓と長く続く塀が写真映えする場所のはずなんだけど、ポジションもうまく取れないし、
西日の強すぎる時間になってきて、ワタクシの腕前じゃたいした写真も撮れません。

きのこ栽培風だった瞬間


ちょいと先にある桜門跡を最後に見て。当時は三の丸の虎口だったそうですが今は残るのは石垣のみ。
この石垣の奥が線路、でその向こうが本丸なので、三の丸は線路のこっち側だったんですね。
手元の縄張図には三の丸は書かれていなかったので、やっぱり大きなお城だなと改めて思ったり。
桜門跡を最後に刺すような西日の中、トボトボ来た道を引き返し車に戻って登城終了!!

スベった感がぬぐえなかった瞬間


今回ワタクシ、縄張図の他に撮影ポイントを記したメモまで持参して行ったんだよね〜
ポイントに○つけて、さらに「この角度から撮れ!」みたいな矢印とか入れちゃったりして。
しかし一番撮りたかったところが実は線路の中だったという・・まぁ人生こんなもんだよ(笑)

数年後、天守台が修復されたら何とか晩秋に無理くり有休とっての再登城はありかな。
個人的には日本百名城にならなかったのが不思議だと思いました。


高取城信貴山城、郡山城と攻略し、奈良攻めの仕上げにあと1つ・・
瞬撮で済む多聞山城跡に寄って、初日の戦いは終了となります。


多聞山城跡に登城!に続く。




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2013.09.12 Thursday 21:02 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

大和郡山城に登城!〜その1

[郡山城] ブログ村キーワード

大納言塚から大和郡山城にやってきました。時刻は3時前・・気温日差しともに致死量寸前(´Д`)

最寄を目指した瞬間


何しろ暑くて40度近くの3時前ですから、大和郡山ホールの駐車場に停めて歩くなんて自殺行為Σ(゚Д゚)!
事前調査によると復元された追手門前に車数台のスペースがあるとのことで、何はともあれ目指します。
民家と内堀に囲まれた離合困難な通路を通り・・堀越しに復元門が見えてウハハとなっているところw

天が味方した瞬間


追手門前に到着!ひいふうみい・・車8台前後いけるスペースの残1 ワタクシ超ラッキー!!!
いや〜しっかし一番暑い盆の最中の、これまた一番暑い時間帯に人のこと言えないけど物好き多いわね。
左から向隅櫓、多聞櫓と追手門・・どれも復元だけど、ちゃっちくないのでなかなか迫力があります。
昭和58年(1983)に追手門、昭和59年に追手隅櫓、昭和62年に追手向櫓の順で復元されたんだそうです。
端正な白い漆喰壁じゃなく、戦国の雰囲気が残るゴリゴリの感じがイカしていると思いました。

アングルが決まらなかった瞬間


でもって上の写真の向かって右背後には追手東隅櫓も見えます。手前の瓦屋根は民家のやつね。
櫓台石垣のすぐ前に民家があるのでこの位置から見えるのはこういう風景になってしまうんです。
これは後ほど、また違う角度から見られるので、今のところはこんなもんでよしとしましょう。

大和郡山城に登城!の瞬間


暑くてまさかのリタイアもないとは言えぬ・・なので早めに登城宣言をしておくことにw
車はあるのに人影まったくないのは解せないが、いないに越したことはないので再度ラッキー。
写真撮り放題はいいんだけど、車を降りて数分にしてもう汗ダクなのでさっさと中に入りましょう。

贅沢な作りだった瞬間


追手門をくぐったところ。造りがしっかりしてます。門扉の後ろに置かれているのは復元に使われた檜。
復元ながら重厚感が漂ってるのは、樹齢すごそうな質のよい木材にもこだわっているからなんだろうな。
追手門の別名は梅林門。柳沢さんが入城した時に梅林門に名前を変えたんだそうですよ。

紆余曲折があった瞬間


中に入って内枡形から追手門を見た所。右手高い位置にあるのは毘沙門曲輪。

郡山城は天正8年(1580)信長から大和支配を許された筒井順慶が筒井城から移る際に築城が始まり、
同年、一国一城令で郡山城以外の城が破却されるに伴い拡張、天正11年に天守も完成しました。
天正13年、豊臣秀長が100万石で入封すると、城下町の整備とともに城も大幅に拡張されます。
石垣の石が足りず、大和中から庭石や礎石、石地蔵・五輪塔のまで集められ転用されたそうです。
秀長の死後、増田長盛が入封しますが、関ヶ原で西軍について改易されると、その後はしばらく
川政権による代官支配が続き、一時は荒れはてた状態になったようです。しかし大坂夏の陣の後、
水野、松平、本多と城主がかわる中で復興され、享保9年(1724)柳沢吉里が15万石で入封。
146年間在城、6代続いて明治維新を迎え、維新後、廃城となり建造物は破却されました。

当時と同じ二重だった瞬間


内枡形を抜け、本丸の方に行く前にさっき民家の屋根越しに見た追手東隅櫓の内側を見ときます。
市民会館の裏へ行くと多聞が続いたこんな感じに見えます。郡山城では当時、一番小さい櫓だったのだとか。
窓が5、石落とし2、鉄砲狭間が6あったそうです。多聞の向こうは水堀があります。

こちらも元は「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら) と呼ばれていて、
秀長入城時に筆頭家老で5万石を食んでいた桑山一庵法印良慶の屋敷があったことから法印郭(曲輪)、
一庵丸と呼ばれていたものが、柳沢さん入城後に追手東隅櫓と変わったそうです。

決めつけていた瞬間


とにかく暑いので何はともあれ、熱中症で倒れる前に本丸>天守台を目指しておくことにします。
追手門の内枡形に戻り、毘沙門曲輪を抜けて行きます。左から追手門、多門櫓、追手向櫓が見えます。
追手向櫓は追手門を守る櫓で、本多氏時代は大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)と
呼ばれていましたが、こちらもまたまた柳沢さん入城後、追手向櫓と変わったんですって!
何だろう・・書くのも呼ぶのも長ったらしくて若干ムズイのがイヤだったのかしらねw 

お手入れ万全だった瞬間


毘沙門曲輪に建つ四阿。なぜあるのか分からないけど、上の写真の追手門などが立ち並んだ所といい、
この四阿周辺といい、よーくお手入れされてる風になっています。ちょっとした庭園風って感じに・・

絶句した瞬間


だが・・堀越しに見える本丸石垣の姿がこれだ!!・・・ギャーーー超巨大土塁空堀!?
真夏だからってまさかこれほどとは。ワタクシ見た瞬間、目の前が真っ暗になったわ。
大和郡山城と言ったら復元門もさることながら、ダイナミックに残る石垣こそ見どころなのに。
四阿のところとのギャップがすごすぎる。夏だからってここまで石が見えないのは初めてよ。

補給が問題だった瞬間


巨大内堀と元は石垣だった暑苦しい雑草の壁を恨めしげに眺めつつ、本丸入り口までやってきました。
ここを入って右に行くと柳沢神社のある本丸から天守台跡へ、左に行くと竹林門跡です。
しっかし暑いわ・・未開封の水を持って出て来たけど先は長いのに、もう間もなく空っぽよ。

くらくらしていた瞬間


天守台跡へ行く前に竹林門跡を見ておきます。本丸側から見た竹林門跡。当時はこの先が二の丸でしたが、
今は郡山高校の敷地になっています。二の丸には政務を行う御殿などがあったそうです。

実は自販機を探していた瞬間


日陰だから体力ケチらず、二の丸があった側から竹林橋と門跡を眺めてみましたw 
橋の両サイドは内堀。小さいけれど多聞に続いて櫓門がドンと建っていたんでしょうね。
右側の櫓台の上には櫓跡の碑があるみたいなんだけど、木が邪魔で全く見えません。
ついでに高校があっても、高校生が歩いていても自販機らしきもの一切見当たりません。

出世は願えそうだった瞬間


竹林門を入り、本丸に戻って柳沢神社。御祭神は柳澤吉保公です。門の名前を変えた吉里さんの父上ね。
柳沢さんは生類憐みの令を出したちょいとおかしな川5代将軍の小姓から、老中首座まで出世した御仁。
元禄元年に1万石で側用人に、元禄7年には川越城主で老中格、そして15万石で甲府城主となりました。

結果たいした興味はなかった瞬間


側用人を通さなければ老中だろうと将軍と話が出来ないため、柳沢さんは権勢を欲しいままにしたとされ、
当時の幕臣からはめっちゃ嫌われていたこともあり、時代劇でも小説でも基本イヤな奴キャラ確定。
そして忠臣蔵では赤穂浪士に切腹を命じたとされ、世間的なイメージ後世までさらにマイナス・・(´Д`)
本当はどんな人だったのか分からないけど、恨みを買いすぎると悪口×数倍言われるからね・・
でもある意味すごい人よ。あの綱吉のみならず、桂昌院のオバハンのお守だってしてたんだからw

ご予算3900万円らしかった瞬間


その柳沢神社の裏手に天守台跡があります。何年か前までは天守台にも上がれたみたいなんだけど、
倒壊の恐れがあるのか、今は立ち入り禁止になっていて上がれません。天守台の上にあがると、
城内はもちろん、奈良盆地なんかまで見渡せるらしいんですよ・・かなりがっかり。

追手門とか復元する財力あるんだから、現存している天守台くらいメンテしてくれよ〜と思ったら、
後日、平成25年から測量や発掘調査を始めて、28年完成を目途に石垣の積み直しをすると知り、
真夏で石垣見えないわ、天守は修復前だわ・・行く時期完全に間違えたとさらにがっかり(´Д`)

見応えがなかった瞬間


天守の近くから内堀の向こう・さっきいた法印曲輪の方を見ると石垣の一部が見えました。
元のダイナミックさはやっぱり本丸石垣の方がすごいので、一部見えてもなんかイマイチ。
本当はこの堀の規模だけ見ても「すごい!」って思うはずのところなんだけどねw

悪に打ち勝った瞬間


天守台跡は本来、ここから登れたようです。誰もいないから自己責任でこっそり・・とささやく
もう一人の自分「ダークあも」もいないわけではありませんが、ワタクシはモラリストなので我慢w

大和郡山城は5層の天守が建っていたとかいないとか・・天守があってもおかしくない頃の築城だけど、
5層の天守が建つ天守台の規模じゃないっていう話もあるんだって。じゃそもそも論で5層の天守って
どっから出てきたの?と思うけど、その辺は調べてないのでワタクシもよく分かりませんw

ちょいと注目した瞬間


たしかに大きくはない天守台だけど武骨な野面積みはいいですw 石が足りなくて礎石から庭石から、
地蔵から五輪塔まで持って来て積まれたというからワイルドさ、さらに倍! しっかり修復しておくれ。 
案内板は天守に積み込まれた「さかさ地蔵」の説明。あちこちあるんだろうけど見やすい位置にあるのね。

もやっとした瞬間


どらどら。ではその「さかさ地蔵」とやらを拝んでまいろうではないか。

|д゚) ・・・・・ジーーーッ  

ロープの外側からでは1・2の視力をもってしても何だかよく分かりませんが・・
カメラでズームしてみたけど奥に入り込んでいてやっぱりよく分かりませんが・・

上にある斜め奥に入り込んでるやつが逆さになった地蔵だとは思うんだけど分かりづらいね。



しっかしマジ暑い・・天守台まではと我慢してたけど水はとっくにないし、暑さと乾きでフラフラ。
山城と違って登りもない代わり、木陰も日陰もないから体力消耗はこっちのがむしろ激しいかも。
まだまだ違う角度からの石垣(という名の緑の壁)も、せっかくだから一応は見ておきたいし、
松陰門とか鉄門とか復元門の遠望とかも撮りたいけど、水がなくてはもはや命の危機を感じる・・

と、いつもなら「というわけで割愛」とか「終了」と言い出すところなんだけど、
今回のワタクシはちょっと違ーう。車に戻ってナビでコンビニを検索>水を買って出直しよw

戻ったら何が何でも同じポジに車を停めて、馬場先門跡からの本丸石垣(という名のたぶん緑の壁)、
他もろもろのまだ見ていない見どころを攻めてやるわよ〜待ってろワタクシの駐車場Σ(゚Д゚)!


大和郡山城に登城!〜その2へ続く



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2013.09.10 Tuesday 08:10 | comments(2) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

筒井順慶歴史公園でお墓参り

[筒井順慶] ブログ村キーワード

脱水寸前で信貴山城跡のある朝護孫子寺を後にして、次は大和郡山城へ行くことにします。
が、ちょうど道すがら「筒井順慶歴史公園」と「大納言塚」があるので立ち寄りますよ〜

通り過ぎた瞬間


ナビに住所登録したけど、そもそも番地がないのでドンピシャで公園にたどり着けず、
近くまで来たところでGPSをオンにしたGoogle map見ながら移動・・ちょっと行き過ぎたわw

目立たなかった瞬間


筒井順慶歴史公園は住宅街の中の一角にあります。目指してないとちょっと気づきづらいかも。
駐車場はないので路駐・・・時間かからないので、少し離れた迷惑にならなそげなところに停めました。
あ・・ちなみにココに何しに来たかと言うと、筒井順慶の墓所があるというのでそれを見にきたの。

あなどれなかった瞬間


入口入った正面に案内版が。地味でひっそりしてますが、国の指定文化財ですよ!
順慶さんは天正12年に郡山城中で亡くなり、奈良の円証寺に葬られましたが後に改葬し、
この地に埋葬されたそうです。1944年(昭和19年)重要文化財に指定されました。

イメージダウンの瞬間


山崎の合戦で明智光秀が加勢を求めたものの、順慶は洞ヶ峠で戦況を見ながら光秀につくべきか
傍観していたと言われ、そこから「洞ヶ峠」といったら日和見の代名詞に・・・
でも実際は洞ヶ峠にいたのは光秀で、順慶は大和郡山城で軍議をしていたんだそうな。

ほとんどの武将が参戦するか、あるいは細川父子みたいに完全に中立宣言するか旗幟鮮明にした中、
順慶さん、一度は参戦しかけておきながら引き上げちゃったのがポイント低かったのかもね(ノд-。)

軽く見くびっていた瞬間


18歳の時に興福寺で得度した順慶さんは、出陣する時も常に頭巾、金襴の守り袋をかけていたそうな。
能や和歌、茶の湯にも明るいインテリな部分も。人を殺すことを嫌って信長に怒られたとかも言うよね。

戦国史全般でもあんま単独スポット当たらないし、信長の野望でもパッとしないと思ってたけど、
一時はミスター下剋上の松永久秀に押されながら、でも大和でしぶとく生き抜いたのは順慶さん。
おまけに家臣にはあの「島左近」もいたじゃない。島左近は順慶の死後、士官の誘いを断りつづけ
三成に仕えるまでずっと浪人していた武将よ。色々考えると地味だけど順慶さんはすみに置けないねw

ちょっぴりお詫びの瞬間


五輪塔覆堂は天正12-13(1584-1585)年頃の建築で、桁行や梁間は一間、本瓦葺。
五輪塔は中にあるので見えません。法要とかそういう時だけ開かれるみたいですね。

せっかくなのでそっと合掌・・・信長の野望でいつも全く頼りにしなくてごめんねww


近く・・というか隣駅には筒井城跡というのもあるそうなのですが畑の中に城址碑があるだけで
駐車場もないらしいので割愛。豊臣秀長の墓「大納言塚」によって大和郡山城に向かいます。

・・・・しっかし暑っつい!!!




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2013.09.06 Friday 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

信貴山城跡に登城!

[松永久秀] ブログ村キーワード

達磨寺で松永久秀の墓にお参りした後は、いよいよ彼が爆死した信貴山城跡を目指します。

あわや遭難だった瞬間


奈良県内で最大規模の中世城郭と言われる信貴山城跡は朝護孫子寺の境内にあります。
なので朝護孫子寺にお参りする人に紛れての登城ですw ワタクシは当初、ここの電話番号を
ナビに登録して目指したのですが、ナビが馬鹿なのか忠実すぎるのか、直接本堂を目指そうとする
ケモノ道のようなとんでもない山道に連れていかれてエライ目にあいました。ナビの精度によるだろうけど
電話番号入れて目指すのは注意! ナビじゃなく道沿いの案内に従って走るのが正解だと思いますw

気温40度になっていた瞬間


信貴山城址碑があるのは朝護孫子寺のてっぺんΣ(゚Д゚)! 有料駐車場のオジサンが境内図をくれたので
「ワタシ城跡に行きたいの」とに聞いたら、「おお、城跡に行く!?」とちょっと意外そうな顔をしながら
丁寧に最短ルートを教えてくれました。まずは教わったとおりお寺の境内をお参り客に交じって進みます。

やっぱり刻みすぎだった瞬間


朝護孫子寺は今から1400余年前、聖徳太子が物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、
この山に立ちよって戦勝の祈願をしたら天空遥かに毘沙門天王が出現して必勝の秘法を授かったと。
その日は寅年、寅日、寅の刻で、太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、
信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けた・・んだそうです。聖徳太子は寺を開きすぎですw

で、醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願を行ったら
天皇の御病気はたちまちにして癒えたので天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として
賜った「朝護孫子寺」の勅号がお寺の名前になっているそうです。「信貴山寺」ともいうそうな。

色んな方のブログに乗っている写真と同じだけど、トラの張りぼてがあちこちにありますw
寅の年の、寅の日の、寅に刻に毘沙門天王が出現されたからトラだらけ。寅年の人によいです。

勘違いされていた瞬間


ここらで元気な熟年女性4人組に「暑いわねぇ〜おねえさん一人でエライわねぇ」と声をかけられました。
御朱印集めとか札所めぐりをしている人から怒られそうだけど、正直このお寺に興味はないんです・・・
ワタクシは信貴山城跡を目指しているだけ。でもめんどくさいので「いえいえ〜」と意味不明な対応をし、
距離を取るべく早足で「赤門」を突破。駐車場のオジサンが行っていた通りにズンズン進んで行きます。

体力のなさ深刻だった瞬間


朝っぱらから高取城を歩いてけっこう疲れてるところ、ここでも地味に登りが続いて早くも息切れ。
お寺自体が山の上にあるので、普通に寺巡りで境内見て回るとしてもあちこち登り歩くようだし、
まして信貴山城跡なんかは一番てっぺんだから、この辺りなんてまだまだ序の口。先が思いやられます。

精がつきそうだった瞬間


ここに来るまでに虎の張りぼてやら像やらいくつか見てるんだけど・・どんだけ虎をイチオシなんだ!
ワタクシ寅年じゃないのでありがたみ感じませんが、寅年だったらご利益有りそうな気がしてきますねw

アメージングだった瞬間


これはかやの木稲荷神社。信貴山城跡はまだまだ先。後ろに見えるかやの木は樹齢1500年だって!!

蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、
有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。この御神木を敬い稲荷社を建立しました・・・

だそうです。ちなみに左の像は聖徳太子。教科書や昔の1万円札の知的な取り澄ましたイメージだから、
アグレッシブな騎馬姿ってなんかものすごい違和感w 犬といい騎馬といい建てた寺の数といいびっくりだ。 

恐れ入っていた瞬間


成福院という宿坊寺院までやってきました。けっこう登ってきたつもりだけどまだまだまだまだ・・
大きなお寺だから別院がいくつもあるみたい。ワタクシより先行していた若いカップルがここで
真剣にお参りしているのを見てちょっと驚き。こういうの見ると信心ないことに何やら恐縮を覚えます。

先は長かった瞬間


やっと駐車場のオジサンが行っていた城跡へ直通の分岐に到着! 城跡行くには空鉢護法堂を目指します。
ここで分岐をこっちに行かないと本堂の方へ行くみたい。本堂は帰りに一応見ることにしてまずは城跡へ!

ごまかされなかった瞬間


さっき見たのと同じ風景じゃないか!!地味な登りがまたしても。路面が岩肌か舗装かの違いだけで、
きっつい登りの始まりには違いありません。歩幅の合わない石段ってのは地味に疲れたりしますね。

実は休憩していた瞬間


けっこう登ってきましたよ。建物の向こうに「日本一大地蔵尊」だというでかいお地蔵様が見えます。
というか・・信貴山城に登城!ってタイトルなんだから、寺はいいから早く城跡行けって話になんだけど、
城址碑に向かうためには朝護孫子寺も必ず見て回ることになるという・・・そんな苦労もお届けしたくw

暗澹たる気持ちになってきた瞬間


ほどなく多宝塔のところに到着。江戸時代後期の建造で大日如来が安置されているそうです。
っていってもワタクシにはどうでもいいところ。はよう信貴山跡に着きたい、着かせてくれい!!

実はこの多宝塔のあるあたりまでは通常、観光で来る人も廻る参拝ルート内なのでいいとして、
駐車場のオジサンが、ここから登りが20分くらい、ちょっとキツイよと言っていた問題はここから。
多宝塔の後ろに山が見えてるでしょ? ようはあそこまで地味に登って行けということです・・

うんざりしていた瞬間


多宝塔の左わきにある鳥居の続く道を登り、折れてまた鳥居の続く坂道を延々と登って行きます。
山の中歩いてるんじゃないから少し楽かなと思うけど、ワタクシにとって登りのきつさは何でも一緒。

絶望的な気持ちになっていた瞬間


何この九十九折り・・・マジかよーーーー!! 寺なのか神社なのか、もうこの際どうでもいいけど、
鳥居のせいか城跡来てる気分になれないので、通常の城跡で七曲りが出現する以上に気持ちが萎えます。
ワタクシ本当に脚力も肺活量もなくて、登りの時は角度によるけど基本、10歩か20歩ごとに休憩が常。

城跡だ、ワタクシは城跡を登ってるんだ!と強力にマインドコントロールしようとしてるんだけど、
遺構がちょいちょい見えるわけじゃない上、追いついて抜かされていく「おばちゃんたち」が、
途中途中にある祠やお堂でお参りする姿も目に入るので、根性もいつもより出しづらいというかw

中高年以下だった瞬間


何人ものオジサンオバサンに抜かされながら、空鉢護法堂と信貴山城跡の分岐まできました。
左に行くとお堂が、ワタクシはそのまま直進して信貴山城址碑を見に行きます。

ホッとした瞬間


持って来た図によるとブルーシートが見えるところ辺りを曲がると城址碑がある場所になるみたい。

信貴山城は標高433mの信貴山に築かれた山城で、河内と大和の国を結ぶ要衝として古くは7世紀、
天智天皇の頃まで遡ることができるそうです。戦国の頃・・天文5年(1536)に木沢長政が築城し、
三好長慶と闘って敗れると、永禄年間に松永久秀が入城して本格的な山城として大改修しました。
天正5年(1577)松永久秀は織田信長に背いて大軍に包囲され、50日間の篭城の末、
自ら城に火をかけると、平蜘蛛の茶釜に火薬を詰め、茶器とともに爆死したと言われています。

信貴山城に登城!の瞬間


やっとやっと信貴山城址碑の前に到着! 標高433mのちょい手前・・頑張って登ったものだわ。
それにしてもここは城址碑の他に何もない空間。空鉢護法堂に行くルートからも外れているので
普通にお参りに来る人には気づいてもらえないかもしれない・・見方によっちゃ虚無感が漂います。

高櫓のような天守もあったという城に自ら火をかけ、あてつけに信長垂涎の平蜘蛛の茶釜を抱いて
爆死した松永さん。この辺りは二の丸だったようで最期を遂げた場所とは違うかもしれないけど、
煮ても焼いても食えないオヤジ松永さんの気概に、しばし思いを馳せます。嫌いじゃないんだよね〜w

標高だけでなくハードルも高かった瞬間


ベンチ横の案内板には「空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓跡は著名で、
中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡」と書かれています。

ワタクシが事前に調べた感じだと、その空堀などを見るためには登ってきた朝護孫子寺と逆方向の
ハイキングコース(?)なるものを降り、遺構によってはさらに山の中へ入らないといけないみたいで。
しかし詳しい縄張図は見つからず持参していないという。未整備の山城は何か図がないと行けないね・・。
時々、遺構見学ツアーみたいのもあるらしいので、見たかったらそういうの参加しないと厳しいかも。

食いつきづらかった瞬間


二の丸だったという城址碑があったところを少し降りるとこういう感じのところが。
遺構の一部だったりするんでしょうか。信貴山城跡って詳しい資料があまり見つからず分からない。

浮きまくりだった瞬間


本丸は今は空鉢護法堂が建っているのですが・・ここに来る途中、ずいぶん抜かされたなと思ったら、
みなさんこのお堂へのお参りに来ていた人。この暑い中、あんな坂道を延々と登ってまでのことなので、
みなさんお酒や卵をお供えしてお参りがあまりに真剣。そういう人がびっくりするくらいたくさんいる上、
明らかに信心なく来ているのはワタクシ一人だったので、気おくれしてウロウロできませんでした(´Д`)

夢を教えてほしかった瞬間


空鉢護法堂が建つ本丸跡から見る大和の風景・・・松永弾正久秀さんもきっと目にしたことでしょう。
・・・って結局、松永さんって何がしたかったんだろうね。目指すところは何だったんだろう。

ただの野次馬根性だった瞬間


下りは本堂を廻るルートで降りてみました・・・が前に来ただけで、階段登ってはいませんがw


遺構らしきものはほとんど見れてないけど、松永さんが爆死したという信貴山城跡に登って、
空気を体感できたからワタクシそれで満足。その地に立つことが目的っていう登城もありでしょw

しっかし暑い!!暑すぎる!! 水を持参してもぬるすぎて体を冷やす意味では役立たず。
気温40度近くの炎天下・・昼前からこの調子だとマジ熱中症とかなりかねない。注意していこ。


キンキンに冷えたビールを夢見ながら、よーく冷えてる1リットルアク○リアスを買ってぐびりつつ、
次は大和郡山市へ。筒井順慶歴史公園、そして日差し致死量の中、大和郡山城に向かいます。





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2013.09.03 Tuesday 21:50 | comments(6) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

高取城に登城!〜その2

[日本百名城] ブログ村キーワード

二の丸〜本丸と見た後は、十三間多門櫓跡、大手門跡から大和国が一望できる国見櫓跡の方に向かいます。

ハンパなかった瞬間


二の丸から降りていくとまずは十三間多門櫓跡が出現。縄張図を見ると三の丸と二の丸の間に
この後見る大手門があるんだけど、ここは二の丸の虎口になるようです。十三間多門櫓が建っていたそうな。
石垣だけにしてこの圧迫感だから、白漆喰の櫓が囲んでいたらものすごいプレッシャーになったと思うわ。

影響されかけていた瞬間


十三間多門櫓をギュイーンと回り込むと大手門跡に到着。十三間多門櫓、大手門と右折れが続いてます。
この右に曲がったところに櫓門があったんだって。大手門は御城門と呼ばれていたそうな。
ワタクシは建物が残らなかったことを残念だと思うけど、大手門の前でじっくり石垣を眺めていると、
司馬遼太郎が「高取城は石垣しか残っていないのがいい」とか書いてた「街道をゆく」を思いだし、
なるほどな〜と思ってみたりw ブログを書くにあたりちゃんと確認したら「蒼古としていていい」
って言ったんですね。ワタクシには「蒼古として」なんて表現は全然思いつかない。作家はすごいわ。

鳥肌が立った瞬間


大手門の近くにはこんな案内板が。ワタクシが登城前に見てイメトレしてた高取城再現CG写真と、
明治20年頃の取り壊し直前に撮られた写真が載っています。大手門前から撮ったものだそうです。
明治だけに古ぼけた写真ながら、伝えられているとおりの威容だったことがハッキリとわかります。

十七間らしかった瞬間


大手門のすぐ先には三の丸の石垣が。この石垣沿いに進んで行くと登城口のひとつ「壺坂口門」。
こっちに行くと壺坂口中門跡とか見られるみたいだけど、高取城は広く体力にも時間にも限りがあるので、
ワタクシは国見櫓跡に行って大和国を一望するため今回こっちは割愛して二の門方面に向かいます。

言葉を失った瞬間


たぶん千早門跡のところw ここから急にそれまでと道の様子が変わるみたい。
三の丸から下っていく二の門方面はほとんど整備されていないらしいので危険な香りがプンプン。

恐怖がよみがえる瞬間


下り斜面で足元も激危ない雰囲気になっています。マジ道あってんの?と一瞬ひるんだせいで、
この時は気づいていませんが、どうやらワタクシ宇陀門を見逃してしまっていたみたい。 
ここらでようやく、朝っぱらからマムシの恐怖に遭遇したことを思いだし勝手におびえます。

心が折れそうだった瞬間


宇陀門を見逃しているので、気づけば何と松ノ門跡。倒壊の恐れがあるのか石垣が金網で覆われています。
道自体も細くて登山靴でも足元が危なくて怖いし、開けたところでもイヤなのに、こんな狭い空間で
巨大羽音の虫は頻繁に近づいてくるし。おまけに足元見てるとクモやらゲジゲジやらみたいのが
人の気配を察知してごそごそごそごそ動くわけ。それがまた気持ち悪いったらありゃしない!!
二の門方面に向かう間の未整備区間一部はデンジャラス!! 帰りは登りで通るのかと思うとうんざり。

ある意味命がけだった瞬間


でも松ノ門跡あたりなんてまだまだ序の口でした・・三の丸から千早門、宇陀門、松ノ門と続き、
次が矢場門、そこで国見櫓方向と三の門&二の門方向と分岐するんだけど、この辺マジやばすぎ。

虫よけにひるまない蚊に刺されるのも我慢する。デカい羽音の虫も刺さなきゃいい少し慣れてきた。
クモやゲジゲジが蠢くのもギリギリ耐える。クモの巣がまつげや鼻のところでピロピロするけどいい。
けど何がイヤって赤ちゃんヘビが大量なの!!10センチ前後の黒いヘビがゴニョゴニョ逃げるわけ。

1歩・・ゴニョゴニョ。また1歩・・ゴニョ、ゴニョゴニョ・・進むごとに目につくのがたまらない。

小さいくせに一丁前にクモやゲジゲジより何気に速いのも・・・うぉぉ〜思いだすだけでもうダメ。
こんな地面で転ぶのは絶対に許されないけど、自然と「慎重なる早足」に。イモトの気持ち分かるわ。

根性では乗り越えられなかった瞬間


命からがら根性で矢場門跡までたどり着きました。途中、何度引き返そうかと思ったことか。
道はここで分岐します。ワタクシはとりあえず国見櫓跡の方へ行くんだけど、戻ってきたら
二の門方面に向かうのか悩ましいところ。見るにあいかわらずデンジャラスな道が続いています。
おまけにまだまだ下っていくみたいなので恐怖に加え、帰りに苦手な登りの距離が長くなるのも・・

などと思って一瞬、休憩がてら佇んでいたら・・・ギャーーーーーー出たぁぁぁぁぁぁ!!!!

ちょいと離れた前方をまたしてもマムシが横切る姿を発見・・・((((;゚;Д;゚;))))

今度のは朝より多分でかめ。アイツはこっちには確実に気づいてないと思うけどマジもう無理!!
とぐろ巻いてるのとか臨戦態勢のやつに遭遇したらワタクシたぶんかなりの確率で気を失う。
二の門方面はあきらめて、どの道ここまで来たんだから毒食らわば皿まで。国見櫓跡へ急ぎます。

心臓に悪すぎた瞬間


でも・・矢場門跡から国見櫓跡までがこんな風景だったから、またこれ感覚的に長かったぁ。
両サイドの藪の中で時々、ガサガサって音がするんだけど、動悸がするからやめてほしいわ。

無理は禁物だった瞬間


心臓をドキドキさせながら歩いて行くとやっと国見櫓跡に到着!! 大和一国が丸見えるわよ!!
どっかから下の方に廻りこんで降りると国見櫓の櫓台石垣が見えるみたいだけどそれはまあいいw

疲れもふっとぶ瞬間


これが国見櫓からの風景。写真で見るとイマイチだけど大和一国が丸見えな風景は最高!!
天気がよければ大阪や六甲山も見えるんだって。見切れてるけど右手の方が京都方面。
正面奥の方にはワタクシがこの後、登城する信貴山も見えてるそうだ。手前山の下が明日香。

実はしょんぼりしていた瞬間


ワタクシは山城に登城したいから山を登っているだけで、登山自体に全く興味はないけれど、
自分の脚で歩く以外に来ようがない場所でこういう風景を見ると、登山家の気持ちが少し分かる気が・・
とか言いながら、当時とほとんど変わらぬ風景を見て戦国時代の人々にしばし寄り添いますw
そしてドデカイ溜息ひとつ・・・はぁぁ〜またあの道を戻っていかねばならぬのか・・。

逃げ足が早すぎた瞬間


帰りの登りはダッシュ!ワタクシ登りが本当に苦手でたいてい10歩〜20歩に少し休憩してんだけど、
もう今度マムシを見たら命はないような気がして、息切れしてよろめきながら1度も休まず大手門跡までw
途中に何か所か金網に囲まれた石垣があって・・よくよく考えたら今回は行ってないけど二の門跡から
大手門跡までは狭い登り道に作られた門に次ぐ門で、ものすっごい防御がされていたのよね。
おまけに今はヤブとなっている両サイドにもあちこち侍屋敷が配置され・・戦ってるお城なんだわ。


後半は何しに来たんだか分からない・・ジャングルでのサバイバル訓練みたいになってたけど、
高取城は本当に素晴らしいお城でした。三大山城の残り1つ、岩村城もぜひ登城しなければ!!

高取城は紅葉の季節が写真映えして素敵だけど、マムシって晩秋まで活動時期らしいです。
登城の際はみなさんぜひ気を付けて・・サバイバルコースに行く場合、足元の装備も厳重にね。


リアルに「死して屍拾うものなし!」になりそうだったけど無事に生還w
この後は達磨寺で松永久秀の墓を見て気分を盛り上げ、彼が爆死したという信貴山城跡へ向かいます!



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2013.08.28 Wednesday 19:33 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 

高取城に登城!〜その1

[日本百名城] ブログ村キーワード

休みだ飛び出せ! 夏の陣!! ということで、今年は奈良攻め&東海の行きそびれ城の攻略よ。
激暑で草ボーボーの夏にわざわざ城攻めと思うけど、長期休暇じゃないと遠征できないからね。
冬は冬で霜だらけの山道怖いとか、チェーン巻けないとか克服しきれぬ問題もありますしw

死して屍拾うものなし!! まずは初日、今回はこの心意気で奈良攻めをしてやります。

埼玉から毎度のごとく、寝ずに車を走らせ高取城近辺にイン! 高取城は明日香のすぐ隣。
ナビに言われるまま走っていたら、何とあの有名な石舞台の前を通過・・・しかしそれには目もくれず、
寄り道しないワタクシ良い子w 早朝過ぎて寄り道しようもなかっただけだけど無事にまずは夢想館に到着。

人っ子一人いなかった瞬間


夢想館は通常、多くの人が高取城攻めの起点にしている案内所。百名城スタンプもここにあるし、
攻略マップをもらったり、ルートや見どころなんかも教えてもらえるところです。
開館を待ってスタンプを押す時間なく、事前にメールで聞いたらスタンプ押した紙があるというので
まずはそれをいただきに来た次第。ワタクシ実はあまりこだわりなくて、百名城いけばせっかくだから
記念にもらうけど、もらえればなんでもいいのw スタンプ帳からしてゼブラ柄だしww
夢想館は皆さんが言うように親切で、メールの問い合わせ回答も早くてとても丁寧で助かりました。
縄張り図や案内図はさすがに無理だと思い、迷子になると困るからサイトから印刷して持参です。

心細かった瞬間


高取城のある山は標高583m。とてもじゃないけど体力的にも時間的にもイチから登れないので、
車で「七つ井戸」のところにある登城口まで一気に行きます。ここからだと楽して登城できますw
城の入り口はさすがにナビに出ないので、まずは「壺坂寺」を目指して車を走らせます。
寺が見えて来たらそのまま直進・・ひたすら山道を登り続けます。離合困難な場所が多いので
段々と心細くなってくるけど自分に負けちゃダメ!! とにかく道は1本なので行き止まりまで行くのだ。
あ、ちなみにこの車載オンボードカメラ(?)の映像は気持ちに余裕がある帰りに撮ったものよw

不安に打ち勝った瞬間


そうこうしているうちにドン詰まりに到着!ここが車で行けるとこまで行っちゃう場合の登城口。
写真の手前は割と広いので数台なら車は停められます。帰りに後続車が来てた時のことを考えて
Uターンして向きを変えてから停めましょうw ここで登山靴に履き替えるなどまずは装備を整えます。
が、夏の場合、エンジンつけっぱでウロウロしてると排ガスにアブが寄ってくるので注意が必要よ。

お約束だった瞬間


登城口にはこんな看板が立っています。山城行ったらこんな看板を見るのは日常茶飯事だけど、
スズメ蜂やアブはともかく、毒ヘビには遭遇したことのないワタクシ。ハイハイって感じで登城開始。

いきなりの危機一髪だった瞬間


登り始めはこんな感じ。人一人通るのがやっとみたいな石段を登って行きます。何気に急なの。
この段階でワタクシは「まじかよー!」って感じで早くもだんだん頭が下がって視線も下になるのですが・・

ギョエーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

なんとここで、いきなりのマムシ発見! ガスホースくらいの太さのマムシがワタクシの前を通過中。
気付かず一歩踏み出してたら、通過終わりのしっぽあたり踏んづけてたかも・・そんくらいの距離で。

やべぇ〜高取城はリアルにマムシいるんだわ・・と思って、これまで数々の山城に【夏】に行きながら、
遭遇すらすることなく無事生還してきた自分の幸運を称えると同時に、気を引き締めねばと思いました。

頭上では重低音サラウンドな得体のしれない羽音はひっきりなしにするし、気付けばクモの巣が
顔の前をピラッピラしてるので上方も注意しなけりゃならないし、足元も注意をしなきゃならないし。

野生の勘が告げていた瞬間


下手に棒とかでつついて歩くのも危ないから、細心の注意を払って登っていくと井戸がありました。
七ツ井戸と言われているやつですね。柵で囲われているのもあるけど、とても近づいて中を覗く気になれず。
一見ゆるく見える平仮名の「きけん」という文字がワタクシに妙な危機感を感じさせます。

興奮状態だった瞬間


井戸には絡まず少し登っていくと見えてきたのがこの石垣!! たぶん足元のガード完全に緩んでますw
新櫓跡の石垣の一面です。これからこんなのがイヤちゅうほど見れるんだわ〜と思うとワクワクしちゃう。

じらしプレイ開始の瞬間


登りきると正面に見えるのが搦手門跡。この先が新櫓跡と太鼓櫓跡になるようです。

高取城は松山城岩村城とともに日本三大山城のひとつに数えられ、山城としては日本一の広さを誇るお城。
標高583mの山の上にありながら天守、櫓、門など多くの建造物があった高取城は当時、
「巽高取雪かとみれば、雪でござらぬ 土佐の城」と詠われるほど壮麗な景観だったと言われ、
美しい白壁の様子から別名「芙蓉城」とも呼ばれたそうです。今に残るは石垣だけ・・厳かな佇まいです。

ひそかにガクブルの瞬間


本当はそのまま進んで櫓跡の中に行っちゃえばいいんでしょうけど、ワタクシは先に二の丸の方へ。
上の写真の手前左手に進み、新櫓跡を回り込む形。通路が細く反対側は井戸の方で高さがあって怖いの。
高所恐怖症のワタクシ。大げさだけど自然と石垣の方にへばりつくように進む感じになりますw

うっとりしまくりだった瞬間


二の丸に到着。二の丸から見る新櫓跡と太鼓櫓跡です。刈られた草がひからびているのを見て、
逆に刈ってなかったらどんだけ草深いんだ、マムシいても気づかないじゃないか!!とビビる。
そして足元の心配が多少薄れたところで石垣を見て、寝ずにやってきた甲斐をすでに感じるw

あるはずのないものが見えていた瞬間


反対側からもうっとり。こんな高い山の上にこれだけの石垣が・・いや当時は白壁の建造物が
ニョキニョキ建っていたのかと思うと感動するとともに、残っていたらどれほどだったかと、
まだ登城して間もない段階ですでに色々な思いがめぐります。もうマムシのことはきっと頭にありませんw
ワタクシ登城前に「高取城CG再現プロジェクト」を見て行ったので脳内復元力はいつもより増幅してますw

いやがらせとしか思えなかった瞬間


うっとりしたまま案内板のある石垣の角を進み、太鼓櫓台跡や新櫓台跡を見に行きます。
アブハチがブンブン・・って広い空間なのに、アイツらなんでワタクシの周りを飛ぶの?

盛り上げが大事だった瞬間


十五間多門櫓跡です。ここを入ると天守台跡が見えてくるはず。ひとりじらしプレイであえて二の丸に
廻ってから来たので、写真で見ていつか見たいと思っていたあの風景が見えると思うとドキドキします。

チラリズムにも注意の瞬間


十五間多門櫓跡をイン! しかしじらしプレイはまだ続きますw まずは太鼓櫓台跡とか見ないと。
前には新櫓台跡と太鼓櫓台跡が、そして後ろには見ないようにしている天守台跡の高石垣の気配が。
あっちもこっちも古びた石垣に囲まれたこの空間!! 誰もいなくて独り占めだから感動倍増!!

高取城は南北朝時代に築城されたのが始まりと言われ、織田信長の大和国一国一城令により
一旦は廃城となりますが本能寺の変後、大和国主だった筒井順慶が大和郡山城の支城として改修を始めます。
天正13年(1585)豊臣秀長の大和入国後も改修が続けられて総石垣づくりとなり、秀長の死後、
入城した本多利久の頃に近代城郭としての形になったのだとか・・ああああ当時の姿を見たかった!!

危機管理能力が低すぎた瞬間


今ブログを書いている時点で思えば、もうすっかりマムシのことなんかは忘れているんでしょうね。
新櫓台跡なんかにも大胆に登り、上がってきた七つ井戸方面を眺めて悦に浸っておるところですw

残念すぎるにもほどがあった瞬間


と散々もったいつけたところで振り返ると、息をのむような素晴らしい巨大な天守台石垣の姿が!!
苔むした打ち込みハギ、反りのない算木積みの巨大な石垣のスケール感と言ったら!!!!!!
当時ここには三重の天守がそびえていたそうです。さぞかし荘厳な姿だったんだろうと思います。

高取城は元和元年(1615年)の一国一城令で重要な城として破却を免れ、明治維新を迎えますが、
明治6年(1873年)に廃城になると大半の建造物が寺院などに売却されてしまったそうです。
明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした建造物が残っていましたが、管理されずに放置され、
自然倒壊したと言われています。元藩士や地元の人が保存運動をして戦争前、あるいは現代まで
残ってきた城もたくさんある中、高取城は残念すぎる。松山城だって明治以降、一時は荒れるに任せ、
えらいことになっていたものが昭和になって修復されている。高取城だってチャンスはあっただろうに。
登城した人多くが言っているけど、本当に本当に本当にもったいなさすぎます。

日本100名城61番 高取城に登城!の瞬間


高取城一番の大場所で城址碑もあることだし、ここらで登城宣言でもしておきますかw
天守台とっても大きいのがお分かり頂けると思います。アブハチもマムシもなくただただ感動。
備中松山城はけっこう下から石段登り続けて頑張った結果、山の上で貴重な現存天守が拝めた。
息も絶え絶えの状態で開けた視界に飛び込んできた年季の入った天守を見た時も感動したけど、
高取城の石垣だけにして想像力をかきたてるこの迫力といったら!! ワタクシ的にはこっちに軍配!

幸福感に包まれた瞬間


天守台を見た後は本丸虎口を通って本丸跡へ向かいます。背丈を超える石垣に囲まれてルンルン。
登りもなくフラットな上、ヤブもないのでクモの巣の心配なく足取りが軽いですw

まるで要塞だった瞬間


うまい角度で撮れてないけど本丸虎口の様子がこれ。天守台からするとたいした高さの石垣じゃないけど、
折れ曲がったディフェンス重視な作りになってます。虎口付近には鉛御櫓、具足櫓があり、
天守の南には小天守があって、さらには硝煙御櫓が続く連立式天守だったそうです。
こんな高い山の上にして本丸だけでどんだけ厳重なんだ!と驚きを通り越して唖然とするばかり。

キルゾーンだらけだった瞬間


虎口を入り切ったところから振り返ってみました。複雑な構造・・これじゃ中は絶対見えません。
この城が近世城郭として完成したのは江戸時代に入ってからのこと。誰から何からの防御なんだろ。
仮にこんな高い山を登って攻めこみ本丸前まで突破できても、ここで死亡率120%は確定ですw

発想は常に庶民だった瞬間


けっこう広い本丸跡に到着。天守台が見えます。天守台には通路が約3メートルの穴蔵があったそうです。
高取城は本丸に多聞櫓で連結された3重の大小天守と3基の櫓があるだけでなく、広大な城内には櫓が27基、
33の門があったと言われています。城が近世城郭として完成した後、入城したのは旗本から大名に
取り立てられた植村家政さん2万5千石Σ(゚Д゚)! それっぽちの石高でどうやって維持したんだか。
このお城は幕府から「自由に修復していい」と特別待遇を受けてたそうですが、幕府は常にスカンピン。
許可なく修復できるのはいいけど資金を出してくれるわけじゃなし、先立つものがなきゃねぇ・・
山の上にある城の構造があまりに厳重すぎることの次に、気になって気になって仕方ない点ですw

軽く死亡直前だった瞬間


本丸まで来たらいったん二の丸まで引返し、今度は十三間多門櫓跡、大手門跡とたどって
大和の国が一望できる国見櫓跡の方に向かいます。写真は二の丸からそっちに向かう方向見たところ。
迫力ある石垣にうっとりしすぎて、いつも通りのほほ〜んと歩いてるけど山城の本当の恐怖はここから。


デンジャラスすぎる高取城に登城!〜その2に続く。



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JUGEMテーマ:お城


2013.08.24 Saturday 01:59 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(奈良県) | 
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