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後三年の役古戦場に出陣!

横手城から少し走って「平安の風わたる公園」にやってきました!
後三年の役の古戦場である西沼を中心に作られた歴史公園です。

学生の頃は試験用に覚えるだけで興味のない時代や出来事も多かったけど、
大人になって自由に勉強して繋がりがちゃんと分かったら面白いこともあって、
食わずキライでだいぶ損してたな〜ってのが意外とあるんですよワタクシ。

後三年の役とか完全にそっち。学生の頃なら絶対に来てなかったと思う。

たどり着いた瞬間


ナビに出ず、横手からとりあえず国道13号を北上したら案内が出てきて助かったw
近くに来れば案内看板も出てくるし、管理事務所ではパンフレットも貰えます。

お金がかかってた瞬間


源義家(八幡太郎)が金沢の柵に向かう途中、この沼を通った時、飛んでいた雁が
突然、列を乱したことから敵の伏兵がいることを察知し、難を逃れたという場所で、
公園はそれにまつわる壁画レリーフや銅像などがあってなかなかの充実ぶりです。

義家伝説な瞬間


壁画レリーフは源義家が伏兵に気づいて戦いをしかける「雁行の乱れ」の絵から、
後三年の役ダイジェスト解説にあわせ、他の2場面が描かれていました。

後三年の役ってさ、ちゃんと説明するとまぁまぁややこしくて長い話になるけど、
超簡単に言えば、清原一族の相続争いに源義家が加わった戦いのことなんだわ。

でもせっかく現場に行ってきたのにそれで終わったら身も蓋もないから、
少しかいつまんだところを書いてみるよ! まぁ全く自信ないけど(*°∀°)=3

センスがよすぎた瞬間


公園中央には後三年の役メインキャスト4人の銅像が対峙するように立ってます。
手前2人がチーム義家、奥2人がチーム清原。間には古戦場地図や系図まで!

この公園って単にお金をかけてるだけじゃなく、あちこちすごい凝っててさ、
横手市がどんだけこだわりを持ってるか、気合入れたかってのが分かるよね。

おさらい中の瞬間


今いるのが後三年の役古戦場でしょ。金沢柵は近くにあるから後で行くとして。
で、右上にある「前九年の役」。やっぱりもれなくセットになってるんだな。

前九年の役っていうのは、陸奥(宮城・岩手)で謀反を起こした安倍氏征伐のため、
源氏のトップ源頼義・義家父子が朝廷の命で乗り込むものの、源氏軍だけで倒せず、
出羽(山形)の清原氏の力を借りてやっと平定できましたって出来事のこと。

まー長い話だからとりあえず細かいことはさておき、そんな話だよってことで、
とにかく源頼義(義家の父)、清原氏、滅んだ安倍氏ってところを覚えておく。

で。安倍氏に代わって陸奥を支配することになった清原氏は、安倍方の武将、
藤原経清の未亡人(安倍氏の娘)を妻にして、連れ子の清衡を養子にするんだけど、
その後、2人の間には家衡が生まれ、複雑な兄弟関係のいっちょあがりです。

清衡⇒次男 安倍氏(藤原氏)の血を引く養子
家衡⇒三男 清原氏の血を引く実子

とはいえ清原氏には真衡という嫡男がいて、跡を継ぐことは決まってるけど!

・・・っていう状況が清原氏の中に出来て、そして前九年の役から20年。

清原を継いだ真衡は子に恵まれず、他から養子を迎えて成衡と名乗らせ、
源義家の娘を娶ることになるんだけど、そのお祝いに真衡の叔父・吉彦秀武が
大量の砂金を持って来たにも関わらず、真衡は囲碁に夢中でシカト(*°∀°)=3

面目をつぶされた吉彦秀武は激怒して、砂金をぶちまけて帰っちゃうんだけど、
真衡がこの態度に逆ギレして、当主に対してけしからんと成敗の兵を送るわけ。

すると吉彦秀武は清衡と家衡を援軍に呼んでくる。跡継ぎから外されて
めっちゃ不満を持っている弟二人が敵になると、真衡は分が悪いじゃない?
そこで真衡は源義家に援軍を要請。そしてついに後三年の役が始まるんです。

吉彦秀武(兄弟の叔父)
清原清衡(養子の次男)
清原家衡(三男)

VS

清原真衡(嫡男 清原当主)
源義家(陸奥守・清原氏と婚姻で親戚)

さんざんワーワーやった結果、源義家の力で真衡が勝利し、第1ラウンド終了!
と思いきや、その直後なんと! 勝利した真衡さんが急死してまう(*°∀°)=3

で、今度は弟二人の間で跡継ぎ問題が勃発し、第2ラウンド開始となるんですね〜
ちなみに真衡の養子になった成衡どした?って感じだけどワタクシ良く知ませんw

ビッグネームが並ぶ瞬間


古戦場図を挟んでそれぞれの銅像よりに源氏方、清原方の系図もありました。
ザックリしすぎな気もするけど、清和源氏パワーのすごさはわかりますとも!

で、第2ラウンドの話しね。今度は兄弟で当主の座をめぐるマジな争いです。

真衡の死後、陸奥守である源義家が領地を兄弟で半分ずつにするよう命じたので
落ち着くと思いきや、これに納得できない家衡は「養子のくせにマジぶっころ!」
と清衡の暗殺を企て、しくじると屋敷を襲撃して妻子を皆殺しにしてしまいます。

運よく逃げ延びた清衡は義家に助けを求め、沼柵へ家衡をやっつけに行くんだけど…

清原清衡(安倍の血を引く養子の次男)
源義家(陸奥守)

VS

清原家衡(清原の嫡流の三男)
清原武衡(兄弟の叔父)

季節は冬だわ、土地勘はないわ、家衡軍の抵抗も激しいわで一次退却(*°∀°)=3
家衡はその間に要害の金沢柵に移り、叔父の武衡とともに迎え撃つ体制を整えます。

そしていざリベンジ!の時が来て、ここで最初にご紹介した義家伝説!
雁の乱れで伏兵を見破るイベント発生⇒金沢柵兵糧攻めに続いていくんです。

それではここでデスマッチ参戦のみなさんに入場していただきましょうw

武者姿が意味深だった瞬間


まずはチーム清原の家衡さん。多分ちょっとヤバい奴だったと思います笑
当主真衡にかみつき、清衡を狙ってミナゴロシまでやらかすおっかない末っ子。

暴走の末路は悲惨だった瞬間


金沢柵の要害にこもる家衡さんもなかなか強かったらしいけど、長い間の
兵糧攻めで孤立すると最後は火を放って逃げ、捕らえられて斬首されました。

調子がよかった瞬間


そして次が清原武衡さん。このおっさんは家衡が沼柵で清衡・義家を撃退したら
かけつけてきて「義家ほどの名将を破るのは家の名誉!」と言って家衡を支持。

そうは問屋が卸さなかった瞬間


金沢柵に移ることを勧めて一緒に籠城するんだけど、兵糧が尽きると降伏。
でも許されず落城時に捕らえられると、命乞いもスルーされ斬首となりました。

1人勝ちだった瞬間


対するこちらはチーム義家の藤原清衡さん。戦い中は存在感めっちゃ薄いけど、
最後にすべてを手に入れた持ってる男です。名前も父姓の「藤原」に戻してね。

棚ボタにもほどがある瞬間


で、平泉で繁栄を極めた奥州藤原氏の祖になるワケです。清原と血縁ないのに一番得した人w
死にもの狂いで勝ち取ったとかじゃないってところがミソよね。あやかりたいわ。

武者姿がよかった瞬間


ラストは源義家さん。リベンジで金沢柵に攻め寄せるも防備が固くて崩せず、
吉彦秀武の献策を入れて兵糧攻めを行い、長いこと包囲した末ようやく勝利!!

男気はいつだって大事だった瞬間


のはずが、義家さんはウハウハの清衡と対照的に踏んだり蹴ったりエライ目に。
朝廷が「清原の相続争いに勝手に介入した私戦」として恩賞をくれないどころか、
戦中の納税を怠ったとして陸奥守まで解任され、エリートから一気に窓際へ転落…。

でも義家さんはえらかった! 朝廷から恩賞がでなかったにも関わらず、
部下に私財をなげうって恩賞を出したことで、関東武士からの好感度急上昇!

素寒貧でもかっこいいよね。さすが武士のあこがれ八幡太郎だわぁっていうねw

まーこんな感じで後三年の役の大筋はだいたいオッケーでしょ!
金沢柵での攻防はこれから現場に行って、また色々妄想してみましょ。

横着する瞬間


公園内には三連の「雁がね橋」もあって実際に渡ることもできるんだけど、
ワタクシは暑いから億劫で写真だけ。おまけに適当な場所から撮った(*°∀°)=3

満足度マックスの瞬間


平安の風わたる公園やっぱり来てよかった!来ると勝手に盛り上がれるw
よーし。じゃあ次は、八幡太郎義家のつもりで金沢柵に押し寄せていこう!



金沢柵に登城!〜に続く


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2018.11.30 Friday 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

壇ノ浦古戦場跡に出陣!

今回は「下関へ出張に行ったら思いがけず観光できちゃった件」を番外編として。

仕事で下関に行って1泊2日でやること山盛りの弾丸出張だったんだけど、
うまいこと数時間の空きが出来た瞬間、お客さんが「チャンス!行こう!」って。

下関ジモティのお客さんはワタクシ長いお付き合いをさせてもらってて、
せっかく来たなら少しでも巡らせたいって思ってくれてたんだって。泣ける。

行きたいとこ聞かれたけど、どう目論んでも時間がない予定だったから、
全くノーマークじゃない? 一瞬、舞い上がってアワアワなったけど


「だ、だ、壇ノ浦でーっ!!」


ココだけは外せないと思って、超食い気味に叫んだよね(*°∀°)=3

頭に血が上っている瞬間


ということでやってきましたぁぁ 関門海峡@壇ノ浦!! みもすそ川公園。
源平史跡もちょこちょこ巡ってて、いつか見たいと思ってたから鼻息が超荒くなるw

あ、ちなみにこの時、当然だけど装備が何もないので撮影はスマホだった上、
天気も悪くて傘マスト。せっかくの写真がイマイチなことだけが残念の極み。

躍動感あふれる瞬間


平家の大将「平知盛」碇を担ぎ中と源氏の大将「源義経」八艘飛び中。

壇ノ浦の合戦は寿永4年(1185)3月24日に行われた源平最後の戦い。
当初は平家が優勢だったものの、潮目が変わり追潮になったのを機に形成は逆転。
源氏が勢いを盛り返すと、平家は次第に追い詰められて奮戦むなしく敗北となります。
平清盛の妻二位の尼は8歳の安徳天皇を抱いて入水。主だった武将も入水の最期を遂げ、
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡となりました。

知盛さんはだいぶ華奢な人だったらしいけど、碇を投げつけて頑張ったんだね!
平家って貴族ぽくてナヨっちい印象だけど、壇ノ浦で戦った武将はなかなか武闘派で。

激しょぼすぎた瞬間


なんてこったい!「八艘跳びの瞬間」の義経さんも全く良さが伝わらないわ。
平教経の攻撃を八艘の船を飛び移ってかわしていく超いいシーンなのに(号泣)

脳内デモ中の瞬間


関門橋の向こうは福岡の門司港。合戦の舞台になった狭い海峡を超ガン見!
これまで本で読んだシーンなんかがリアルに妄想出来て感慨ひとしおよ。

吾妻鏡によると平氏の船が500、源氏が840艘とかなり戦力差があったようだから、
海戦が得意な平氏とはいえ流れが変わったら無理だよね・・潮目ってマジ大事だわ。

キョロキョロしていた瞬間


公園には長州砲レプリカもあって「維新の風だ!」って雰囲気を味わうものの、
攘夷戦争とか詳しくないから「へぇそうなんだ!」ですぐ終わっちゃうの。

不運極まりなかった瞬間


壇ノ浦の次は「安徳天皇が祀られてます」と赤間神宮に連れて来てもらいました。
が、ここ来て雨ザーザー(怒)。せっかくだから超ダッシュでお参りだけすることに。
お客さんに悪いので、ひとっ走り行ってくるから待ってておくんなせぇとか言ってw

大事な時にはキョロキョロしてない瞬間


アジア観光客がすごい多かった。雨が強いから傘かぶって人の流れで本殿到着。
ここに安徳天皇がね・・って思いながらチャチャッとお参りして傘を握りしめ戻る・・

後から聞いたら赤間神宮には壇ノ浦で亡くなった「平家一門の墓」があって、
怪談「耳なし芳一」の舞台なんだって。あの地味に怖い世界観を味わいたかったな。

順路に案内もあったみたいで、傘がなければきっと気づいてたはず・・遠い目


下調べなしってつらいね。大雨ってつらいね。カメラがないってつらいね・・
思いがけない下関観光は続きます・・続くほどつらさ染みるけど(*°∀°)=3


串崎城に登城!〜に続く


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2018.07.01 Sunday 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

長谷堂合戦場跡に出陣!

最上さんのいる山形城から距離感をかみしめつつ、長谷堂合戦古戦場にやってきました。

実はワタクシこの頃、左膝を負傷して注射打ってるくらいの時で山登りはムリ!
長谷堂城跡には登れなくなったけど、古戦場の雰囲気は味わっておこうと来た次第。

行き届いていた瞬間


とりあえず長谷堂城跡公園に到着! 長谷堂城跡めぐりの拠点になってて
広い駐車場や綺麗なトイレも完備。ストックだって用意されています。

激痛を思い出す瞬間


公園の前が八幡崎口。長谷堂城跡の標高は229mでハイキングな距離。
ストック借りて少しだけ行ってみようかとも思ったけど旅先で無理厳禁w

あきらめが悪い瞬間


登った気分になろうと案内板をガン見。帯郭や土塁空堀が残ってるんだね。

長谷堂城の築年は定かではなく、記録に出てくるのが永正11年(1514)の頃で、
最上氏の支配下となって山形城の支城として機能します。文禄3年(1594)に
義光の重臣志村光安が城主になると、慶長出羽合戦の攻防が繰り広げられました。

心配りが素晴らしかった瞬間


パンフレットも置いてあります。散策マップとか見どころが詳しく載ってた!
大河ドラマ「天地人」のブーム後もきちんと整備が行き届いてるって素敵だね!

芸が細かい瞬間


長谷堂城の周りに巡らされていたという水堀も復元されて雰囲気が出ますw

慶長出羽合戦は関ヶ原に伴い、反徳川の上杉と徳川方の最上の間で起きた戦い。
家康を迎え撃つつもりだった上杉軍は家康が西上すると、最上領侵攻を開始。
慶長5年(1600)9月14日 直江兼続が2万の大軍を率いて長谷堂城に攻め込みます。

見かけによらない瞬間


こうしてみると小城だけど準備万端。かなりの堅城だったんですって。

城を守る智将志村光安と鮭延秀綱は2000の手勢で全力の攻防を繰り広げ、
15日後、関ヶ原での西軍敗走を知った直江軍が撤退するまで死守しました。

目と鼻の先だった瞬間


せっかくなんで直江兼続が本陣を置いたという澤泉寺(菅沢山)に来てみました。
山門らしきも見当たらず、本堂の他は墓地があるだけの小さなお寺のようです。

おばあちゃんになる瞬間


本堂の裏手の小山が本陣跡ということで、数十mならさすがに大丈夫でしょ・・
ということで、膝に負担がかからないよう超ゆっくり登って行きます。

残念すぎる瞬間


登った先には「天地人」の時に盛り上げたと思われるブツが放置されていました。
大河フィーバーの後ってこういうのが多くて残念。元のとおり片しましょうよ・・

過信は禁物かもだった瞬間


フィーバーの残骸に背を向け、長谷堂城の方を直江さんのつもりで眺めます。
・・・やっぱ小さっ! でも結果、2万で15日攻めても落とせてないんだもんね。
戦も得意で知恵も愛もある♪って自信満々の直江さんも簡単に考えてたのかも。

マップの準備が甘かった瞬間


城跡周辺一帯が長谷堂古戦場跡でちょっとした史跡が点在してるんだけど、
今回は最上三昧なのに最上家臣加藤清次の墓標「掃部の碑」は見つけられず。

直江方の武将上泉主水泰綱が討死した場所にある主水塚しか見あたらなかったw
長谷堂城から近くで最上軍の必死の抵抗を受けての壮絶な討死だったそうな。

腹が減っては戦は出来ぬ瞬間


この後、ランチに米沢牛ステーキ丼(コロッケもプラス)をがっついたら、
山を越えて初訪の地、庄内地方に移動します。またおいしいもの食べられるw


丸岡城に登城!〜に続く



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2017.10.20 Friday 17:16 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

粟の巣古戦場に出陣!

昨日の人取橋古戦場から今日は粟の巣古戦場に出陣!
史実だと粟の巣で戦ってからの〜人取橋で決戦だけどルートの都合があるしw

人取橋古戦場も見つけづらいというか立ち寄りづらいとこだったけど、
粟の巣古戦場もナビやマップにも出てなくて、辿りつくのに難儀したわ・・

あまりに目印なさすぎだった瞬間


下調べ念入りにして、ここら辺だよって所は地図にピンして目指したのよ。
でも付近の道から分かりづらくて迷った挙句、やーーっと見つけられたの。

満足している瞬間


まぁ苦労して辿りついても、見るべきはこの一角だけなんですけどもw
でも実際にその場に立って、色々好きに思うのが楽しいからいいんだ!

キョロキョロする瞬間


粟の巣古戦場は伊達政宗が畠山義継に捕らわれた父を奪還するため戦った場所。

和睦の礼と称して輝宗の元を訪れた畠山義継は刀を突きつけて拉致。(伊達家談)
急報を受けた政宗が二本松城に逃げ戻ろうとする畠山氏に追いつくと、
人質の父輝宗もろとも義継を射殺した・・のがこの辺りってことね。

熟読の瞬間


19歳の政宗がグイグイ勢力伸ばして行く中で二本松城も標的となり、
交渉の末、服属する形で和睦したけど畠山義継は父輝宗の元を訪れ・・・と
この粟の巣の変に至る背景やら流れやらが細かく書かれています。

グーグルマップを確認する瞬間


この先を少し行けば阿武隈川があり、それを渡れば二本松城はすぐ。
畠山さんは残念ながら持ってなかったんだね・・あと少しってところでね。
ただ二本松城に帰れてれば形勢逆転したかどうかは怪しいと思うけど。

無念に違いなかった瞬間


奥にあるのは畠山家臣の陣没碑。義継に従っていた23人の家臣は全員、
壮絶な討死を遂げたそうな・・後で主従の墓参りに称念寺に行くつもり。

拉致って逃げるとか無謀すぎてそれだけ聞くとどうかしてると思うけど、
主従揃って気が狂ったわけでもなし。その挙動に至るまで色々考えて、
そしてそこまでしても守りたい名門の意地があったんだと思うよね。

気付くのが遅すぎた瞬間


すぐ後ろに東北新幹線が走ってます。近くまで来たら線路を目途に
さまよえばよかったわw でもホント来られてよかった!


よし、じゃあ次はこの流れで畠山主従の墓参りに行ってみよっか!


称念寺にて畠山義継のお墓参り〜に続く。




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2017.03.26 Sunday 11:11 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

人取橋古戦場に出陣!

三春町の龍穏院から郡山に向かう途中、人取橋古戦場に立ち寄ります。

この古戦場がまたコレ分かりづらいというか、すごい来にくいというか・・
下調べで分かっちゃいたけど、現場に来たら思った以上の手ごわさだったよ。

気合が必要だった瞬間


ナビの通りに国道を走ってると「あ!」と思った時はもう通り過ぎてたw

えっと・・入口なかったよね? 国道から入って迂回しちゃう感じかな?
と思って無駄にうろついた結果、国道から強引に突入しかなかった(*°∀°)=3

とにかく気合が必要だった瞬間


古戦場碑は畑の中にぽつんとある。車なら停めづらいだけで済むけど、
車じゃなかったら交通の便の悪そうだし、これだけ見に来るのは辛いよね。

こじんまりしてた瞬間


伊達政宗がお亡くなりになってたかも位の大激戦だけどコンパクトな感じで。
でも愛想も素っ気もなかった摺上原古戦場に比べたら全然ちゃんとしてるけど!

オールスター総進撃だった瞬間


人取橋の戦いは、畠山家と仲間たち3万VS伊達家7千が戦った戦。

事の発端は伊達政宗に和睦を申し入れた二本松城主畠山義継が、和睦成立後、
お礼と称して政宗の父、輝宗を訪れ、刀を突き付けて拉致しようとしたこと。

急報を受けた政宗は、輝宗を馬に乗せて二本松城に逃げようとする畠山義継に
粟の巣で追いつき鉄砲隊で取り囲むものの、父を人質に取られて手も足も出ない。
すると輝宗が「自分もろとも撃て!」と言い、政宗は涙を飲んで父を撃ち・・

ってこの辺のお話はもっと色々大人の事情みたいのがあるんだけど
ややこしいから今回はとりあえず置いといてw

政宗は「父の弔い合戦」という大義名分で二本松城に攻め込みますが、
畠山家は義継の跡を継いだ国王丸を守って籠城戦に持ち込みます。
そこに伊達家の台頭を危ぶむ近隣諸家が次々と味方として集った結果、
畠山軍団3万VS伊達家7千での最終決戦となりました。

佐竹、葦名、二階堂、石川、白川、大内・・政宗やっちゃったね(*°∀°)=3

死亡フラグ立ちかけた瞬間


政宗は人取橋付近で畠山軍団を迎え撃ちますが圧倒的な兵力差に押され、
自らも槍をふるって戦い、銃弾5発受けるほどの危機的状態に陥ります。

政宗を救うため、老将鬼庭左月斉が60騎を連れて殿を務め、壮絶な討死。
政宗の従弟、伊達実成も踏みとどまり、政宗が逃げる時を稼ぎました。
政宗は無事に本宮城に入り、日没を迎えたところでこの日の戦いは終わります。

政宗にしたら、壊滅は免れたけど明日の戦いをどうしようか・・ってとこ。
でもその夜、軍団の主力である佐竹家が突然、撤退を始めてしまうんです。
手薄になってる本拠地の水戸城が危ないって情報が入ったからって (*°∀°)=3

主力部隊の突然の撤退で、圧倒的優位にありながら畠山軍団の士気は落ち、
葦名が抜け、石川が去り・・で勝敗は分からないまま戦はとりあえず終了〜

カミカゼか。政宗もってたんだねw

泣けちゃう瞬間


鬼庭佐月斉の慰霊碑が建っています。この戦に出た時の佐月斉さん73歳!

老体には鎧も馬もキツイからって黄色い頭巾をかぶって輿に乗り、
手勢60騎を率いて最後まで奮戦して、200も敵の首を取ったんだって!
鎧もなくて傷だらけの老体に鞭打ってね・・斎藤さんと一緒。こういうの弱ぃぃ。

ちなみにこの碑は文政11年(1828)子孫が建てたものなんだそうです。

勝手に納得する瞬間


鬼庭さんの碑の横には伊達家の戦死者を合葬したという功士壇もありました。


人取橋の戦いの時の政宗さん19歳。血気盛んでグイグイ押しの一手ばかり。
でも痛い目を見て学習し、知恵も腹芸も使う謀将になったんだな。きっと。


今日のところはこれで終了〜明日は粟の巣古戦場からスタートします!


粟の巣古戦場に出陣!〜に続く



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2017.03.20 Monday 09:39 | comments(2) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

摺上原古戦場に出陣!

大龍寺で小笠原義時のお墓参りをした後は、摺上原古戦場に出陣!

…とか勇ましいこと言っちゃってるけど、実は立ち寄っただけΣ(゚Д゚)!
GoogleMapにもナビにも出てるのにイマイチ場所が分からず苦労したよ。

薄すぎた瞬間


苦労した割に案内版も色あせて薄々。肝心の三忠碑(だけ)を見るために
炎天下を片道数百メートルも歩くのかと思ったら、来たはいいけど興味も薄々。

摺上原の戦いは天正17年(1589)6月、会津を支配していた葦名義広
出羽から侵攻した伊達政宗が戦った合戦。葦名15000対伊達20000で激突し、
佐竹氏の加勢もあって善戦するも、義広は敗北して常陸に逃走。
葦名側の死者は2500人と言われ、最後、義広の周りには30人しかいなかったとか・・・
葦名氏は滅亡し、勝利した政宗は黒川城に移って会津支配を始めました。

どうでもいいインフォメーションだった瞬間


これGoogleMapなんだけど、道ドコ??っていうくらい分かりづらいから、
下調べの時からストリートビュー見たりして最寄の場所のイメトレしてたw

目印がないからワタクシは養護学校をナビに入れて近くまで行っておき、
学校の交差点まで来たらGoogleMapに切り替えて走り、何とか辿りついたの。
ここを目指して行く人がいるか分からないけど何かのために書いておくw

地図上に出てる三忠碑ってのが歩いて行った先にある碑本体を示すから、
車の場合は矢印の辺りに道があって、路肩の草むらに車を停める感じ。

あ、ちなみに「三忠碑」ってのは蘆名義広のために最後まで戦って討ち死にした
金上盛備、佐瀬種常、佐瀬常雄の忠義を讃え、会津藩主の松平容敬が建立した碑。

妄想力を駆使して来た元はガッチリ取る瞬間


見渡す限りの野原と雄大な磐梯山。送電線以外は当時もきっと同じ風景。
関ヶ原とか設楽ヶ原のように布陣や合戦経緯は詳しく知らないんだけど、
古戦場ってその場に来なきゃわからない空気感みたいのが魅力なんだよね。
400年続く名家が滅亡した決戦が行われた場所も今はただのどかで静寂・・


よし。妄想で元取ったからスッキリした気持ちで猪苗代城へ行きます!
磐梯山がかっこよすぎて見えてる間、車走らせながら見とれちゃったよw


猪苗代城へ登城!〜に続く


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2017.01.21 Saturday 15:07 | comments(2) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

長久手古戦場に出陣!

名古屋城から長久手古戦場にやってきました。古戦場は久々!
小牧・長久手の戦いと一口に言ってもフィールド広いからね〜
今回は長久手古戦場にフォーカスあてて無念の武将参りをしますw 小牧山城

ここまでは楽勝だった瞬間


長久手古戦場へはナビで長久手市郷土資料室を目指して到着!
長久手にフォーカスといっても点在する史跡巡るの大変なんだよ。
なのでまず資料室に立ち寄り、史跡マップを入手してくる作戦ですw

分かりやすかった瞬間


駐車場に車を停めて、まずは古戦場公園にある史跡を廻ります。
公園内は仏ヶ根とか家康が本陣置いた御旗山とかを模した作りになってます。

憩いの場だった瞬間


公園内に入ると長久手古戦場碑がお出ましに。秀吉と家康がしのぎを削った
戦いの場も公園となった今、親子連れがのんびり遊ぶのどかさです。

小牧・長久手の戦いは本能寺の変後、事実上、後継者の立場を得た秀吉に
警戒心を抱いた信長の二男信雄が家康に助けを求めたことから始まります。
秀吉と対決しなければならないと考えていた家康はこれに応じ、天正12年、
信雄が秀吉に内通した家老3人を殺害したことから戦いの火蓋が切られました。

太っ腹すぎた瞬間


あ、資料室の外観撮るの忘れたΣ(゚Д゚)! 入室料無料で合戦資料や
市の民俗資料展示などが見える上、史跡めぐりマップまでもらえます。
ボランティアのオジサンに行きたいところの情報を根ほっておきましたw

近くてよかった瞬間


では、いよいよ史跡めぐり開始!まずは公園内にある勝入塚から。
池田恒興さん(入道して勝入と号した)が討死したと伝わる場所です。

信長の乳兄弟だった勝入さんは小牧・長久手の戦いでは秀吉に味方。
家康の本拠地である岡崎攻め(中入)を進言し自ら軍を率いて侵攻するも、
途中の岩崎城攻めに手間取り、家康軍に反撃の機会を与えてしまいます。

無念を思って合掌の瞬間


勝入さんは家康軍と対峙して激戦を繰り広げますが、娘婿の森長可が銃弾を受け
討死したのをきっかけに劣勢となり、この地で討ち取られました。享年49才。

ワタクシ家康あんま好きじゃないし、太閤前の秀吉は嫌いじゃないので
小牧長久手の戦いでのこの局地戦はどうも秀吉側の武将に寄ってしまう。
色んな意見があるけど、ワタクシは純粋に勝入さんの無念を思うよ。
家康側では若かりし頃のラブ本多忠勝さんが頑張ったから悩ましいけどww

まだまだ分かりやすかった瞬間


お次は勝入塚とは真反対ながら公園内にある勝入の長男、池田元助討死の地。
父勝入とともに奮戦の末、討たれました。享年26歳。庄九郎は元助さんの幼名。

タイトルが気になって仕方なかった瞬間


誰の小説だったかな・・小牧長久手を描いた場面で父勝入の側で力の限り戦い、
潔く散った元助さんが印象に残っています。頑張りましたよね・・合掌。

難易度が上がった瞬間


お次は公園を出て地図を頼りにウロウロしながらたどり着いた武蔵塚。
徒歩だと著しく方向音痴になるワタクシには遠かったけどほんの数百mの距離。
住宅街の中にあるこじんまりした公園の奥にあるのでわかりづらかったけど。

精神的支柱だったと思う瞬間


森長可さんは本能寺で信長と共に落命した森蘭丸の長兄で、鬼武蔵と呼ばれる
勇猛果敢な武将でしたが奮戦中、井伊隊の銃弾に斃れ討死・・隊の心が折れるわ。
お墓は岐阜県可児市の可成寺にあるそうなので、機会があったらお参りしよう。

ウロウロの成果だった瞬間


次は血の池公園。何もないので目指してまではどうでもよかったけど、
武蔵塚からちょい先の長久手城址へ向かう途中、うまいこと通りかかれてw

心が折れそうになってきた瞬間


地図見ながらとはいえ相当迷って無駄に歩いてるので疲れてきました。
そこへこの普通すぎる公園の風景・・・マジ目指して来なくてよかったわ。

古戦場あるあるだった瞬間


昔は池があったんですね。で、徳川方の武将が血の付いた槍や刀を洗ったと。
鎧かけの松もあるようなのですが、松らしきが見当たらず探してまでいいやw

不審者寸前だった瞬間


長久手城址にもなんとかたどり着けました。住宅街の中で分かりづらい・・
敷地の中に入らないと案内見えないから、通り過ぎてまた戻ってきたのよw

大事なのは距離感や雰囲気だった瞬間


お堂の右奥の方に城跡の石碑が立っています。苦労したけどこれだけw
石碑も区画整理で最近この場所に移されたみたいだけど・・まぁいいか!

とはいえ瞬殺で終わる瞬間


長久手城は合戦時、徳川方の丹羽氏についていた加藤忠景の居城址。
詳細は分かりませんけどね、一応史跡マップに乗ってますってことで。

正直どうでもよかった瞬間


石碑の横には加藤太郎右衛門忠景宅址の碑が。加藤さん秀吉軍と戦って討死。
文化6年、加藤氏末孫の尾張藩士が碑を建てたと説明がありました。


長久手古戦場にフォーカスあてても広い広い・・家康が陣を敷いたという
御旗山だの色金山だのなんかは古戦場公園の反対にまた相当離れている。
この際、家康どうでもいいので車に戻って秀吉側めぐりを続けます。

難易度高すぎだった瞬間

古戦場公園からちょいと距離が離れたところにある木下勘解由塚がこちら。
通り沿いにあるけど車で走ってるとうっかり見逃すほどのこじんまり感。

木下さんは岡崎侵攻の総大将三好信吉(後の三好秀次)の家臣で
家康軍の先鋒隊と闘って敗走し、徒歩で逃げてきた信吉に自分の馬を与えて逃がし、
御幣を立てて奮戦の末、兄木下助左衛門祐久とともにこの地で討死しました。

リアル救世主だった瞬間


そもそも徒歩で逃げてきた信吉がしっかりしろよって感じだけど、
可児才蔵に馬を貸してくれと頼んだのに断られちゃったところへの
忠義の男木下さん出現だったんだって。可児才蔵に頼んじゃいかんね。
色んな意味で無念そうな木下さんにも心をこめて合掌しました。

どうでもいい情報かもだった瞬間


ちなみに・・今後行かれる方のために参考までに記しておきますと、
木下勘解由塚はこちらのお店向かって右側歩いた道路沿いすぐよw

徒歩とは人が違った瞬間


車に乗っていれば労をいとわないワタクシは最後に常照寺へ。
勝入父子と長可のお墓があるというので、お参りに来たのです。

ふふふってなった瞬間


こじんまりした本堂の左手に素朴すぎる「三大将墓」の案内がΣ(゚Д゚)!
案内がないよりマシだ!でもせっかくなんだからもうちょい頑張れww

分かりやすかった瞬間


寺の敷地ギリの所の坂をズーンと下って行きます。
一本道なので素朴すぎる案内でも絶対迷わなそうで安心w

日陰の身過ぎた瞬間


一本道の坂を下る右に開けた空間に出るもののそれらしきが全然ない!
と思ったら、まさかの左の死角になるような場所に例の素朴な案内が。
石の数も3つ。間違いない!!のはいいけど、この扱いってどうなの?

一区切りついた瞬間


どれが誰の墓石だか塚だか分からないから三人まとめてお参りしとこ!
お参りする人の気持ちの問題なんでねw 三武将の無念を思ってなーむー。


長久手古戦場めぐりはこれで終了。マップに乗っていながら探せど探せど
結局たどり着けなかった堀久太郎秀政本陣跡は見逃してしまったけど、
名人久太郎ちゃん別に討死したわけじゃないからまぁいいやってw 

家康側の陣跡からもフィールド見下ろすともっとよく分かるんだろうけど、
軽く山で時間たりないので割愛。代わりに岩崎城の方を見ることにします。


岩崎城に登城!〜に続く



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2015.08.21 Friday 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

篠原古戦場に出陣!

[古戦場] ブログ村キーワード

鳥越城から北陸道方面に戻り、帰宅前最後に篠原古戦場に立ち寄りました。
古戦場といっても今回は戦国ではなく、やぁやぁ我こそは〜とやってた源平の頃です。

ひとり盛り上がる瞬間


篠原古戦場跡は大通り沿いにあり、ナビにも出るのですんなり到着〜駐車場にイン!
この古戦場はワタクシが生き様にとても惚れている斉藤実盛さん討死の地だから。
ここには斉藤実盛さんの死を悼む木曽義仲たちの銅像があるので一緒に悼むつもりでw

勝手に参加する瞬間


古戦場といっても広いフィールドではなく公園のようなところなので入れば銅像はすぐそこ。
実盛さんの死を知って悲涙にくれる「木曽義仲 with 家来たち」。さっそく参加しましょうw

気持ちは分かる瞬間


こちら源氏の大将木曽義仲さん。斉藤別当実盛さんの首を抱いて号泣しているところです。

斉藤実盛は平家物語に登場する平家の武士。当初は源氏に仕えていてその折、合戦で討ち死にした
源義賢の子、駒王丸を匿い木曽に送ります。この駒王丸は後の源氏の大将木曽義仲です。

実盛は平治の乱で源義朝を助けて戦いますが敗北後、時の流れに従って平宗盛に仕え、
領地(熊谷市妻沼)を安堵された恩義を貫き、以降平氏の武士として戦うことになりました。

それから十数年跡、寿永2年(1183)倶利伽羅峠の戦いで源平が激突すると平家は敗北。
源氏の追跡をかわしながら、ここ篠原まで退いたところで総崩れとなってしまいます。

敵の大将がかつて助けた駒王丸・・木曽義仲と知った実盛は恩人として情けを受けることを
よしとせず、たった一騎で源氏方に挑み、見事な討死を遂げる覚悟を決めます。
この時、実盛73才。老武者と見られることを恥じ、白髪を黒く染めて覚悟の出陣でした。

悲しすぎた瞬間


赤地錦の直垂に萌黄縅の鎧、鍬形兜で出陣した実盛は義仲の家来、手塚光盛と対峙します。
戦いは互いに名乗るのが礼儀。しかし実盛は名乗ることなく戦った末、討ち取られました。

義仲の元に届けられた首を見た家来の樋口兼光は「あなむざんやな、斉藤別当にてそうろう」
実盛であることに気づき涙します。実盛を良く知る兼光は「老武者に侮られないため若く見せて
出陣したいと言っていた、実盛に違いない」と言い、義仲が首を洗わせると白い髪が現れたので、
義仲は首を抱いて人目をはばからず号泣した・・・という「平家物語(巻七)実盛最期」の場面。

マンガチックになってた瞬間


せっかくいい表情してんのに大量の水跡で、若干ふざけ気味に見えるのがちと残念。
でも生き様が素敵で高潔な実盛さんの最後にはワタクシも涙がこぼれそうだからまぁいいかw

とにかく悲しんでいた瞬間


こちらセンターポジで悲しみに暮れる樋口兼光さん。良く知ってる実盛の討死も痛ましいわ、
恩人の死を悲しみまくる主の義仲が居たたまれないわ、しょぼくれる光盛も気の毒だわ・・

たぶん複雑だった瞬間


で、こちらが華々しい大手柄から一転、微妙な空気のどん底に突き落とされた手塚光盛さん。
この首もしや取っちゃダメだったとか。名乗らなかったし知らなかったらセーフじゃね?
でも義仲スゲー泣いてるし・・オレ恨まれないよね? 恩賞出ないとかマジありえねぇぇぇ!
と思ってるかどうかは知らないけど、何となく微妙な空気を読んでる表情してますよw

源平時代ぽさに勝手に萌える瞬間


銅像の前には実盛の兜も。この兜は義仲によって実盛供養のため多太神社に奉納されていて、
なんと国の重要文化財。奥の細道で訪れた松尾芭蕉が兜を見て詠んだ句碑もあるというから
寄りたかったけど夕暮れだったし、まさか兜はいきなり行っても見れないでしょうしね・・

舞台も役者も揃ってた瞬間


「義仲 with 家来たち」の銅像前には実盛の首を洗ったと伝えられる首洗池もあります。
ホントかどうかわからないけど、小芝居やってる銅像の前だけに雰囲気はあってよいですw

野暮すぎる瞬間


銅像ロックオンで突き進んだから気づかなかったけど、ここにも松尾芭蕉の句碑ありました。
「むざんやな 兜の下の きりぎりす」・・・ふうん。実盛を偲んで詠んだ感じらしいわよw

でも傍観者だった瞬間


最後にしょぼくれまくりの主従3人をより悲しみが感じられる背後からもう1度見ておき、
悲壮感に同期したところで次は実盛さんの遺骸を葬ったと言われる実盛塚を目指します!

さりげなさすぎた瞬間


篠原古戦場から遠くないんだけどナビに出ないし、民家の間に挟まれたようなとこにあるので
グーグルマップ見ながらじりじり近づいたんだけど、危うく通り過ぎるところだったわ。

おもむろに合掌の瞬間


木曽義仲は命の恩人だった実盛の遺骸を戦場だったこの地に葬り、塚を設けたと伝わっています。
支えてる棒が多すぎるのが気になるけど、立派な松の木の枝ぶりは実盛の兜の鍬チックね。

妻沼聖天宮で髪を染める実盛さんの銅像を見てからずっと行きたいと思っていた篠原の地。
お参りが出来てワタクシ大満足! 「義仲 with 家来」による平家物語の一幕再現も見られたしねw


北陸攻略やっと終了Σ(゚Д゚)!
次回から夏の陣「畿内攻略」 彦根城編スタートですw



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2014.08.20 Wednesday 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

桶狭間古戦場公園に出陣!

[桶狭間] ブログ村キーワード

桑名城から名古屋に移動してきました。熱田神宮もついでだから寄っておきたかったけど、
名古屋市内の道が混んでいたので、昼過ぎで駐車できないと厳しいからまたの機会を狙うことに。

奇襲じゃなかった瞬間


ずーーっと来たいと思っていた桶狭間古戦場公園。せっかく行くならじっくり見たいと思い、
事前調査で桶狭間古戦場保存会のサイトをじっくり見ての出陣! 他に観光さんはいなくてこりゃラッキー!
と思いまず入り口の説明を読んでいたら、オジサンが来て「よかったらどうぞ」とパンフレットをくれた。

入場料払うわけじゃないからもれなくもらえる物じゃない。こりゃまたラッキー!と思っていたら、
オジサン「よかったらガイドしましょうか?」と言ってくれるので「もしや保存会の方ですか!!」
と目を輝かせて聞いたら「そうです」と身分証を見せてくれた。掃除に来たところだったそうだ。

保存会のサイトを見ていたので、予約すればガイドさんが来てくれることは知っていたけど、
現地常駐ならともかく、時間が読めないから難しいと思ってお願いしなかったガイドさん。
まさか運よく公園にいて声かけてもらえるとは。掃除してたらガイドさんって気付かないw

気合いが感じられた瞬間


まずは「近世の曙」というタイトルがついた今川義元と織田信長の銅像から。
桶狭間の戦い450年を機に公園が整備され、信長・義元両雄の銅像が建立されました。
この戦いを期に時代が変わっていったということで「近世の曙」というタイトルに。

背格好の近い男性をモデルにし、ちゃんとふんどし1丁から甲冑を着せていったそうで、
甲冑も専門家の時代考証をを元に、当時にかなり近い形のものになっているのだとか。
清洲公園の信長像も同じ桶狭間出陣前の姿ですが、こっちより立派。盛ってあったのねw
敵味方だった武将が銅像として一緒に建っているのは珍しいケースだと思います。

ノーメイクでよかった瞬間


こちらは今川義元さん・・でっぷりしていて鉄漿をつけた公家風の印象とは違って精悍な感じです。
東海一の弓取りと言われた義元さんらしく威風堂々の佇まい。なかなか落ち着きと貫禄のある表情。
今川義元は地元の人には大変慕われていたそうですが、戦国時代が最後の盛り上がりを迎える前に
破れてしまったからでしょうね・・銅像があるのは全国でここだけなんだそうです。

天魔のての字もなかった瞬間


こちらが若き日のオーマイカリスマ織田信長様・・桶狭間の時は26才とか27歳と言われています。
遠・三・駿の太守、義元さんとは違って、この頃の信長は尾張一国やっと統一したところ。
義元さんと比べると青いというか、貫録や迫力がまだない感じがよく表現されてると思いました。

信長をほめてあげたかった瞬間


この銅像は甲冑にもこだわったというので、二人の後姿にも注目しておきましょう。
当時の力や財力の差が歴然な背中です・・義元さんが立派というより信長様しょぼっ(´Д`)
義元さんは名刀「左文字」もさしています。義元を討った時から信長の愛刀になった刀です。
南北朝時代に作られ、三好宗三→武田信虎→今川義元を経て、信長に渡りました。

思いが感じられる瞬間


この公園は合戦時の配置を再現したジオラマが見どころです。オジサンによると公園を整備する際、
名古屋市に「せっかく整備するなら」と保存会からアイディアを出して作られたものなんだそうです。
手前の石が左から善照砦、鳴海城、丹下砦・・とこんな感じに位置関係が分かるようになってるの。

ガイドさん必須と思われた瞬間


両陣の位置関係と動きが書かれた案内板があるのでガイドさんいなくてもひとまず安心。
ワタクシも本当ならこれを見ながらひとりで見学するつもりんだったけど、ガイドさんに連れられ、
面白い説明を聞きながら一緒に廻ってみて、これはガイドしてもらった方が断然いいと思いました。

勢いが大事だった瞬間


城や砦など陣営を表す石は織田軍が青、今川軍が赤で表現されてます。
合戦当日の朝、清州城で「人間50年〜」の敦盛を舞った信長は数騎で城を飛び出すと
熱田神宮で戦勝祈願を行い、追いついてきた軍勢をまとめ桶狭間へと出陣します。
丹下砦、善照寺砦を経て中島砦に入ると二千の軍勢で今川軍に攻めかかりました。

夢にも思わなかった瞬間


一方、鳴海・大高城の救援に大軍を率いて出陣した今川義元は合戦前夜、沓掛城に入ります。
松平元康(後の家康)に命じて大高城への補給と丸根・鷲津砦を陥落させた義元は沓掛城を出て、
正午に桶狭間に到着。人馬に休息を与えていたところで織田軍の奇襲を受け、討ち取られました。

運命をかけた進軍だった瞬間


城や砦だけじゃなく、両軍の進軍ルートも色分けされています。こちらは青の信長軍ルート。
写真奥に見える池が海を、右奥の土塀が熱田神宮を表現しています。熱田神宮には信長が合戦後、
勝利のお礼に寄進したといわれる信長塀があるので鳥居じゃなく、あえて土塀にしているんでしょうね。

熱田神宮を出た信長軍が丹下砦(3つ並んだ一番奥)、善照寺砦(手前)に移動したルートです。
真ん中にある赤い今川軍の鳴海城は、実際は2つの砦よりもっと奥。少しずらすとよかったのにね。

死への進軍だった瞬間


沓掛城(奥方向)から桶狭間のある田楽坪に向かう今川軍のルート。幸先よく丸根・鷲津砦を落として
ウキウキしながらの進軍だっただろう義元さん。間もなく討ち取られるなんて夢にも思わないわね。

ガイドさんの存在は本当にありがたかった瞬間


この地は本来、田楽坪というそうです。桶狭間山など小山の合間にあるので桶狭間と呼ばれ、
それが定着したものなんだとか。そのため石碑は「桶狭間古戦場田楽坪」と書かれています。

松井左衛門宗信(今川の二俣城城主)の子孫、松井石根氏が昭和8年にこの地を訪れた際、
揮毫したものなんだそうです。松井石根氏というのは悲劇の大将と呼ばれた陸軍大将で、
南京事件の責任を取らされ、極東裁判でA級戦犯として死刑になった人です。

そのことはどうでもいいんだけど、この松井石根氏は当時あちこちで講演などをしていたそうで、
ガイドさんがこの講演を聞いたことのある人をガイドした時、自分の思うところも伝えたところ、
「石根氏も同じことを言っていた」と言ってもらえたのが嬉しかった、と言っていたのが印象的で・・・

ガイドさんってボランティアなのに、正しい説明をするために色々勉強したり調べたりするそうで、
みなさん自分なりの解釈や歴史感があるから、説明を聞いて喜んでもらえるということのほかに、
自分の考えが間違っていないと分かる瞬間もやりがいを感じる瞬間なんだろうなと思います。

ぶっ倒れそうなくらい暑い昼時、一生懸命説明してくれるガイドさん・・無償の郷土愛です。

行政のことは分からなかった瞬間


真ん中にある小さい碑には「桶狭間古戦場碑」。昭和初期に公園近くの鞍流瀬川から発見されたもので
「文化十三年(1816)丙子五月建」と書かれていて、これが田楽坪から出たということは、
義元最期の地か戦いの中心地であったことを示しているのだろうと考えられているそうです。

実は桶狭間の合戦地と言われている場所はこの公園のある名古屋市緑区とお隣の豊明市2か所あり、
ここ緑区の桶狭間古戦場公園では、こうした碑が出たことなどが実際の地であった根拠なのね。
そして未出陣だから詳しく分からないけど、豊明市にもまたそれなりの根拠があるそうで・・
といっても2か所は道挟んですぐ近く。同じような場所なんだから広域指定で1か所にしようよw

よりリアルに感じられる瞬間


ジオラマめぐりの後は他の見どころを案内してもらいました。こちらは今川義元のお墓の並び。
左から「今我が義元戦死之地」の碑、今川義元の墓、駿公墓碣(しゅんこうぼけつ)。
駿公墓碣は田楽坪の「ねず塚」から昭和28年に出土したそうです。いつのものか不明だけど、
当時の人が敗戦の将を弔うことをはばかり、墓石を埋めてひっそり供養したと考えられているのだとか。
義元さん地元じゃ慕われてたというしね。戦国の頃じゃないにしても古いものなんだと思うわ。

枯れていた瞬間


今川義元が馬をつないだと伝えられるねずの木。田の中に「ねず塚」として残されてきたもので、
触れると熱病にかかると言われているのだとか。言われずとも枯れてて触りたくない雰囲気ありますw

考慮されなかった瞬間


公園内には義元の首級をこの泉で洗い清めたと伝わる「義元公首洗いの泉」というのもあります。
昭和61年の区画整理まで水がわいていて、今はアスファルトの下になってしまっているんだって。
この案内板のある後ろの道路のあたりが泉があった場所なんだとガイドさんが言っていました。

ガイドさん困っていた瞬間


アスファルトの下になりましたじゃ寂しいので(?)、公園内には泉が再現されたものがあります。
泉の中にくるくる回る桶があったといわれているので、桶をつないで浮かべてあるそうですw
学生がいたずらして引っ張ったりするので5個目なんだと言っていました。コラ、いたずらすんな!

もろ住宅街だった瞬間


公園のすぐ近くには今川義元の本陣跡もあります。区画が碁盤というか整然としていないのは、
この辺りは昔からある田のあぜ道沿いに家が建ち、そのまま道路が整備されたからなんだって。

イメージが湧いてくる瞬間


公園のある下の方から坂道を上がってくる途中に本陣跡があります。もう少し上がると桶狭間山。
山といってもこの坂道を見て分かるとおり、丘とかミニ山程度で、そういう小山の狭間にある一帯が
田楽坪と呼ばれていました。信長軍もこういう小山を駆け下りて義元さんを急襲したってことね。

イメージがしぼんだ瞬間


モダーンなちょいと和風を意識した集合住宅の前に鎮座する「今川義元本陣跡」の碑。
ガイドさんと一緒に来なかったら、おしゃれな建物の付属物と思ってスルーしかねないw

桶狭間で休息を取っていた今川軍は奇襲を受けて総崩れとなり、義元は朱塗りの輿を捨てて
退いたと言われます。しかし本陣を狙う織田軍に追いつかれると、義元は脇差を抜いて
槍で討ちかかる服部小平太に応戦。膝口を切りつけますが、自身も槍で刺されてしまったところ
後ろから組みついてきた毛利新介により討ち取られました。享年42歳。

まじまじと眺めた瞬間


一般的に丸根・鷲津を落として気をよくした義元は桶狭間で昼間から酒宴をしていたとか
兵が浮かれて具足を脱いで騒いでいたとか・・義元の油断が敗因と言われることがあるけど、
ワタクシ個人的には懐疑的。でっぷりしててお化粧して鉄漿して京風公家好みってオエ〜だけど、
三国の太守だった義元さんそんなにアフォじゃないと思うし、武将値もけっこう高いんだと思う。
戦場で本当に敵と刃交えての討死だってところがミソ。このクラスの武将でそういないよ。

気配を見せず出陣、情報操作、本陣直撃、行動スピード・・・信長のやることすべてが
義元の戦のセオリーになかったのよ。天の時、地の利、人の輪・・信長様に運がありすぎたわw


ずっと来たかった桶狭間合戦の地に来られて、しかも親切なガイドさん付きでワタクシ大満足!!
ガイドさんに心から感謝! 機会を見つけて熱田神宮と、豊明市の方も見てみたいと思います。

この後は本多忠勝の生誕地を訪れるついでで岡崎城へ再登城! まだまだ先があるから急がねばw


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2013.09.27 Friday 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

姉川古戦場に出陣!

[古戦場] ブログ村キーワード

賤ヶ岳古戦場から無事に生還できたので、今度は姉川古戦場にやってきました。

物好きだった瞬間


姉川古戦場に向かう前、長浜市役所浅井支所に浅井ファミリーの銅像があるというので寄り道。
ナビで支所を登録し、支所の駐車場に車を停めて通りを渡った正面に・・いたいた!!

首をかしげた瞬間


長政パパとお市ママ、嫡男の万福丸に弟の万寿丸、茶々に初に・・ん? 江与ちゃんがいない!?
江与は小谷落城の時で1歳だったから、座っている子供は出家して生き延びた万寿丸ということに。
万寿丸は側室の子とも言われ、初と江与の間に生まれているらしいのですが、せっかく銅像作るなら、
実子かあやふやな子より、赤ちゃん江与をお市さんが抱っこしてる感じにすればよかったんじゃ・・

執念ハンパなかった瞬間


準備万端のワタクシは「姉川合戦マップ」なるものを印刷して持参したのですが、
実際に走ってみると微妙に簡略化された地図が分かりづらく、ナビに出ず・・
でもここまで来て見つからず退却だなんてありえない!! この粘りが他に生かせればw
うろうろ走った挙句、ようやくこの看板を対岸に見つけた時は思わずガッツポーズ!

複雑だった瞬間


対岸の道から迂回して姉川を渡り、やっとの思いで現場に到着・・すごいやり遂げた感!
車で来るのハードル高いのか、他の人もみんなこんなもんなのか。調べ足りないだけ?

徳川パワーだった瞬間


まずは野村橋のたもとにある供養塔。説明が書かれた綺麗な案内板も建っています。
元亀元年(1570)、近江の浅井郡姉川河原(滋賀県長浜市野村町)で行われた姉川の合戦。
一般的に「姉川の合戦」「姉川の戦い」と言われますが、当時はこの戦を朝倉では三田村合戦、
織田・浅井は「野村合戦」と呼び、「姉川合戦」は徳川で使っていた言い方だったそうです。

予算をかけていた瞬間


供養塔には「元亀元年庚牛6月28日 為陣没者建之」と書かれています。漢文ですね・・(´Д`)
少し前にリニューアルされているらしいわ。前はあんな綺麗な案内板などもなかったみたいです。

姉川を挟んで対峙する両軍は織田・徳川軍28000 浅井・朝倉18000(諸説あるようです)。
徳川VS朝倉、織田VS浅井で戦いは朝5時頃から始まったと言われています。
朝倉と闘う徳川勢は渡河しようとする朝倉を必死に防ぎながら本陣に迫っては押し戻されの
一進一退を続けた後、下流から迂回して朝倉の右翼へ奇襲をかけ壊滅に追い込みます。

一方、織田軍の方は数では劣るものの士気が高い浅井勢に押され、13段構えの11段まで
破られてしまいます。浅井勢は信長本陣に迫る勢いでしたが朝倉敗走で形勢が逆転。
駆けつけた徳川勢に側面を突かれ、浅井は退却。戦いは午後2時には終了したと言われます。

想像以上だった瞬間


供養塔の前の姉川は話に聞く激戦があったとは思えないほど穏やかで静かな流れ。
姉川合戦が書かれた小説で姉川を渡河するというシーンを読む度、川の規模を想像していました。
人馬が渡れるのだから深くないのだろう、でも川を挟んで対峙するということから川幅はそこそこ
広いものを想像していたんだけど、川幅自体もこんなに狭いとは!!

河川敷ばっか広いけど実際に水が流れる部分はほんの一部。今はワタクシが渡った野村橋があり、
両岸も堤防のようになっているし、当時は橋もなく川の流れも今と少しは違っていたかもしれない。
それでも川の規模を見て、川面が血に染まるほど両軍が激突した戦のイメージがリアルになりました。
さっき小谷城に登城したばかりだから、浅井勢が出撃してくる距離感もばっちりつかめているのも尚よし。

迷わず到着の瞬間


実際の戦場を見た後は小谷城でロックオンした信長が陣を置いた竜ヶ鼻にやってきました。
茶臼山古墳となっていて、今見て来た姉川の現場から1キロ弱ほどのところ。小谷城も丸見え!
信長は当初、小谷城を攻めますが、構えが固いと見ると1日で兵を返し、竜ヶ鼻に陣を移します。

そこで援軍に来た徳川家康と合流し、南方の横山城の攻撃を開始、合戦の当日にあたる6月28日、
信長は「陣杭の柳」に、家康は「岡山」にそれぞれ本陣を移して戦いが行われたそうです。

間抜けすぎた瞬間


意味深な案内があるので丘程度の高さ、上まで登ってみたんだけど陣跡どこかわからず(´Д`)
合戦ゆかりの地がちゃんと整備されてるんだから碑とか案内板とか絶対あるに違いない。
何もないってことは違うんだろう・・とがっかりしながら古墳の上から降りました。

危うくたどり着けなそうになるわ、地点は見つからないわ・・・観光用地図で安心せず、
全部念入りに調べてグーグルマップに登録。可能な限り細かい縮尺で用意するんだった
と思っても後の祭り。後で調べたら陣跡は300mほど離れた所に碑があったらしくショックすぎ!

あもイズムだった瞬間


モロ本陣跡じゃないけど竜ヶ鼻には来たってことで、信長アイで小谷城だけは見ておきます。

姉川はそれより手前かぁ・・近っ!! 織田軍は浅井勢により11段まで打ち破られたそうだけど、
この空間で11段まで破られたってことは信長は相当ギリギリだったんだ〜と読んだ小説を思いだし、
勝手にリアルを構築しますw 信長が当日いたのは「陣杭の柳」で、さらにここじゃないんだけど、
まぁいいよ、学者が検証してんじゃないんだから細かいことは気にしなくったって・・

この後もちろん「陣杭の柳」を探しましたが、手元の地図を見ながらうろつくも分からずΣ(゚Д゚)!

田!田!田!だった瞬間


この竜ヶ鼻の近くに浅井家臣の遠藤直経の墓があるので地図を頼りに移動してきましたが・・
はて、辺り一面田んぼだが、いったいどこに墓があるんだ!! この地図マジで頼りにならん!
と思ったらあぜ道の途中に怪しい「こんもり」を発見! 車を降りて見に行ってみます。

見渡す限りからの〜だった瞬間


おお、あった!!案内板も建っているので間違いないわ! 観光マップ初めてちゃんと活躍w
地元の方なんでしょうね、草木の手入れもされて切ったばかりのきれいな花が活けてあります。
以前は40m先の畑の中に遠藤塚と呼ばれる墓があったそうですが、平成9年に圃場整備のため
ここに移転されたのだそうです。少し移動してますが遠藤直経が討死した場所と伝えられています。

鬼武者すぎた瞬間


浅井の重臣である遠藤直経は喜右衛門と名乗り、磯野員昌と並ぶ力自慢・戦上手の武将でした。
小説などで書かれる直経に、ワタクシは信念は曲げない豪気な男のイメージを持っています。
朝倉家の真柄直隆と力比べをするほどの猛将だけど、たしか智謀もなかなか・・信長の野望を思いだし中w

直経は浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首を持って織田軍になりすまし、信長陣中に忍び込みましたが、
あと一歩のところで竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られ、討ち取られたと言われています。

ずっと若い頃、初めて小説でこれを読んだ時、彼の壮絶な死に様はすごいショックだった。
「討死を決めて突撃」以上のことに思えて、修羅になるってことが分かった気がしたのかな。
信長贔屓なのに、直経に共感して応援しかけ、討ち取られた時は残念にも思ったり・・

そんなことを思いだしながら、直経さんに敬意を表し丁寧に合掌しておきました。

かぶりつきだった瞬間


次はその直経さんと力比べをしたという朝倉家臣、真柄十郎左衛門直隆ゆかりの地にやってきました。
元は血原と呼ばれた場所は現在ちはら公園になっていて駐車場も完備w さすがにすぐわかります。
ここは駐車場にこの案内板があって、一瞬「え・・これだけ?」と思いきや裏に碑があるというw

この血原という場所は家康の本陣「岡山」と朝倉が陣を置いた「三田村氏館」の中間にある
徳川軍と朝倉軍決戦の地。多くの死者が出て血に染まったことから「血原」と呼ばれたそうです。
この戦いで有名なのが真柄十郎左衛門直隆の討死。遠藤直経ほど強烈な印象じゃなかったのか、
案内板を読んで「ああ、そうだった!」と思いだし、ワタクシ真剣に説明を読んでおります。

別の鬼武者も大暴れだった瞬間


徳川と朝倉の戦いで一進一退の後、右翼を突かれて朝倉が壊滅という時、力自慢の真柄さんは馬にまたがり、
太朗太刀という刃長5尺3寸(約160僉砲梁臈瓩鬟屮鵐屮鷽兇蟆鵑靴毒り来る徳川勢をなぎ倒しました。
返り血を浴びて怒声を張り上げる真柄さんに徳川勢は容易に近づけなかったそうです。

それを匂坂兄弟が取り囲み、切り込んだ兄が槍を撃ち落とされ兜の吹返を討ち破られると、
兄を討たせてなるものかと十文字槍持った弟が切り込んで、ついに力尽きた真柄さんは大刀を捨て、
「今は之までなり、我が首奪って武士の本懐とせよ!」首を討たせた・・という逸話が残っています。

徳川の資料には真柄さんについて「大力剛者、大太刀で無類に働く」と書かれているそうです。
猛将らしく豪快に大暴れ、そして潔く・・まさに豪傑だ!! でも遠藤さんのインパクトに軍配w

案内板の上についているのは真柄さんの刀の実寸を示したもの・・どんだけ大男なんだ!!
いくら大男でも当時のチビ馬に乗って、この長さの刀をブンブン振り回せるもんなのかしら・・
いや、馬がチビとかサラブレッドとかじゃなく、そもそも重くて持ち上げるので一杯なんじゃ・・

盛ったな・・あ!心の声を思わず書いてしまいましたw でも刀は残っていると聞くから真実やいかに!?
刀については170僂箸175僂箸盡世錣譴襪韻鼻△海海任楼篤眸弔良週のとおりにしています。

残念になっていた瞬間


で、案内板の裏の方に行くと「血原の大決戦」と書かれた真柄さんの活躍を描いたものがあるんだけど、
わざと樹木の裏に立てたのか?と思うほど木が邪魔ったらないし、木をかき分けて読もうとしたら
字が消えかけててよく読めやしない!! どうせ整備するなら細かいところもちゃんとメンテしてこ!

超ざっくりだった瞬間


姉川古戦場碑の隣にある「姉川古戦場」と書かれた案内板、前半は戦に至った経緯概要が、
後半は「両軍激突 衆寡敵せず浅井・朝倉軍は小谷城への敗走となった。しかしその3年後、
小谷城も落ちることとなる」と書かれ、最後に「両軍の死者は3000名余、辺りには血原、血川の名が
残されている」・・以上ww 当日の戦況と結果についてもう少し掘り下げた方がぽくない?
とちょっと上から目線に思っているところですw 


観光マップ頼みオンリーで下調べなし、車移動のワタクシはこんなところで終了です。
いいところはまぁ見れたし、戦場の雰囲気や距離感が分かったからワタクシ的にはとても満足。

寝ずに運転して朝から山3つプラス姉川でいい加減クタクタだけど、日が高いから動かにゃもったいない!
ということで、ワタクシこのまま討死覚悟で「突撃!隣の長浜城<!」を敢行することにいたします!!




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2013.06.16 Sunday 23:39 | comments(2) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 
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