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<< 甲府城に登城!〜本丸 | main | 景徳院にて勝頼のお墓参り2 >>

景徳院にて武田勝頼のお墓参り1

景徳院へ向かう途中、勝頼の像を見るため甲斐大和駅に立ち寄りました
無人?と思うような小さな駅前のロータリーの傍らに勝頼さんはいました。

なんだか気の毒に思えた瞬間


・・・・・旗折れてるしーーーΣ(゚Д゚||;)!

甲府駅前に鎮座する親父さんとは大きさも決めポーズもあまりに違う勝頼像。
一見、太刀に手をかけ軍配をかざす姿が勇ましくも見える勝頼だけど、
おどけているようにも見える感じが痛々しく、それがちょっぴり物悲しい。

景徳院に行くからそう見るのかしら? 風林火山も倒れちゃってるし;;

すでに痛ましい匂いを感じつつ、景徳院に向かいます。

武田終焉の地に到着の瞬間


静かで人気もなくちょっと独特の空気感があるような感じ。

武田勝頼は天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の侵攻により、
新府城を焼き捨て、重臣小山田信茂を頼み岩殿城へ落ちることを決めます。
逃亡前の軍議では真田昌幸も岩櫃城入城を申し出ますが、重臣小山田の
譜代家臣でないため信用できないという進言を聞き入れての決定だったそうです。

勝頼主従は小山田に伴われ岩殿城へ向かいますが、小山田は柏尾まで来ると、
城の準備を整えることを理由に先行すると告げ、一行を離脱。

勝頼は小山田を信じて待つものの、7日経っても来ない迎えに痺れを切らし、
岩殿城へ向かうべく笹尾峠に差しかかると、そこには幟旗を立て狼煙を上げて
主を追い返そうとする小山田の姿が・・勝頼は重臣の叛意を知り憤慨するも、
織田・徳川軍が迫る中、どうすることもできず、死に場所を求めて
武田氏の先祖が自害したと伝えられる天目山を目指しました。

新府城を出た当初700いたと言われる家臣は次々に去り、
天目山を目指す頃には家臣30人余と夫人を含む女性17人になっていたといいいます。

大善寺を出た勝頼らは日川を遡り天目山を目指しますが田野に至って力尽き、
天正10年(1582年)3月11日。武田勝頼は北条夫人、信勝らとともに自刃。
新羅三郎義光以来、28代495年に渡る武田家は滅亡しました。

景徳院は天正10年7月、勝頼ら一族の菩提を弔うため、家康が建立したお寺です。

切なすぎた瞬間


首級をとられ首のなかった勝頼、北条夫人、信勝ら3人の遺骸は
その無念さを偲んだ地元の人々がこの地蔵尊に安置したそうです。
没頭地蔵と呼ばれ、動かせば祟りがあると言い伝えられているとか。

悲しくも立派だった瞬間


没頭地蔵の横には勝頼、北条夫人、信勝ら3人の辞世の句が彫られた石碑が。

そもそも勝頼は特別好きな武将とかいうことはないんだけれど、
最期の地で話に聞き知っている最期の様子を妄想しながら
何度も辞世の句を読んでいたら、3人にちょっと涙が出そうに。

勝頼辞世の句
おぼろなる月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端
       
北条夫人辞世の句         
黒髪のみだれたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒
       
信勝辞世の句
あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢


主従の絆にまた涙だった瞬間


没頭地蔵から山門に向かう脇道に並ぶ小さな石碑(墓標?)
案内板も何もなかったから実は何なのかわからないけれど、
最期を共にした家臣たちを弔う意味のものなのかしら?

勝頼の最期も壮絶なら、勝頼に最後まで従った家臣もすごかった。
秋山紀伊守、阿部加賀守、跡部勝資、長坂光堅、安倍勝宝・・・
特に有名なのが信玄の頃からの重臣土屋昌恒と小宮山内膳友晴の2人。

武田家に見切りをつけて去っていく家臣が多い中、勝頼に最期まで従い、
自害の時間を稼ぐため追い迫る滝川一益勢に立ち向かったのが土屋昌恒。

この時、土屋昌恒が片手でつたを握りしめ、奮戦したことから「片手千人斬り」
という伝説が生まれました。日川は三日間紅く染まったと言われるそうな。

もう1人、勝頼の危急を聞きつけて天目山に参上したのが長篠の合戦後、
勝頼から咎めを受けて主従関係を切られていた小宮山内膳友晴。
勘当されてなお汗馬に鞭打って主君の最期を飾るため馳せ参じる心意気。

小山田みたいなアフォに爪の垢煎じて飲ませてやるとよいわ。

当時のままだった瞬間


景徳院は弘化・明治と2度の大火で本堂などは焼失しているものの
この山門だけは天正16年完成当時のまま残っているのだという。
門右側に「県指定史跡 武田勝頼之墓」と書かれた石碑が立っています。

春にまた来てみたいと思った瞬間


山門の周りには天然記念物になっているものを含め桜の木がたくさん。
滅亡へと向かっていた道中、勝頼一向も桜の花を目にしたかしら・・・
重厚な山門を桜が取り巻くように咲き乱れる風景はきっとまた違った趣き。

盾無鎧 武田神社で見といてよかった瞬間


境内には「於竪松」という名のついた松の木が立っています。

勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗を大松の根本に立て、
楯無鎧を世子信勝公に着用させ環甲の礼を行いし処 (説明板より)

環甲の礼とは武田家の嫡子が元服の際に甲斐源氏の象徴の1つである
「楯無鎧」を身につけ、世継ぎであることを家臣に公表する儀式のこと。
本来であれば公卿か同盟国の大名が務めるが習わしながら、
勝頼の命令で例の千人斬り土屋昌恒を師に執り行われたんだそうです。

信玄は信勝が16歳になったら家督を継がせよと遺言していたそうですが、
それがまさか武田滅亡の時になるとは夢にも思わなかったことだろう。
間もなく消えると分かった上で信勝に当主を継がせた勝頼の気持ちは如何ばかりか・・

敗者が滅びるは常なれど、その最期はどれも切なくて胸が詰まるわ。

あくまでもひっそりだった瞬間


軽く鼻をすすりながら本堂のある境内のすぐ隣にある霊地へ移動。
右奥の方に見えるのは家臣や侍女たちのお墓ではないかと思われます。

他の観光さんがいたらまた違った雰囲気だったのかもしれないけれど、
ひっそりと・・本当にひっそりと静寂で厳かにすら感じる空気感。

ちなみに最期まで残った家臣の中には小山田一族が何人もいたとか。
いたたまれず身の置き所もない感じで、自身を盾に主を守るしか
お詫びのしようもなかったんだろうね・・必死の戦いをしたそうな。


ここまででずいぶん長くなっちゃったので急遽エントリー分割 Σ(゚Д゚)!

〜パート2へ続く



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