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新発田城に登城!

日本100名城31番 新発田城に登城!

日差しに激しくやられた瞬間


利用した駐車場の関係で二の丸からの登城。
平成16年に復元された三階櫓が目に飛び込んできます。
三階櫓はT字型になった3つの入母屋屋根に3匹の鯱が乗った全国唯一のもの。
午後の日差しが強くて櫓の白壁に反射する光が目に刺さるわ〜

首をかしげずにいられなかった瞬間


新発田城の天守相当だった三階櫓はなぜT字型の屋根なのか分かっていないそうです。
左側の青い壁の向こう側が自衛隊の駐屯地。昭和28年から本丸の大部分と二の丸が
自衛隊の敷地となり、映画「八甲田山」のロケで使われたとガイドのおばちゃんが言っていた。
明治政府が絡むとろくなことがないというのはよく思うけど、自衛隊もなぜに?と思う。

さりげなく重要文化財だった瞬間


旧二の丸隅櫓は二ノ丸北部にあった乾櫓を昭和34年に解体修理を行って
本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもの。なまこ壁がおしゃれw

整然としていた瞬間


旧二の丸隅櫓から三階櫓を眺めるアングルは切込接ぎの石垣の長さも感じられ素敵!
寛文8年(1668)の大火で城のほとんどが焼失し、翌年の地震で石垣が崩れたため、
当時最高の技術であった切込接ぎと算木積みで積みなおされているのだそうだ。

防御の工夫が満載だった瞬間


本丸を囲む帯曲輪の南西に位置していた土橋門の跡。堀の向こうが本丸なので、
本丸表門の守りを固めるため、本丸と二の丸の間に帯曲輪を配置。
この土橋門と帯曲輪、本丸の表門及び鉄砲櫓により、櫓を併用した枡形門に等しい
防御機能を持たせる工夫がされていたそうだ。看板の左側の土塁がその名残り。

厳重にキルゾーン確保だった瞬間


今の旧二の丸隅櫓がある場所に鉄砲櫓が建っていた頃は防御の死角を作らないよう
30度ほど表門側に向いていたそうだから、仮に土橋を突破されても猛攻撃が可能。

なまこ壁がやっぱりおしゃれだった瞬間


本丸表門に着きました。当時の橋はいざという時切り落とせるよう木橋だったという。
表門は享保17年(1732)に再建された櫓門。桁行9間(約16.3m)、梁間3間(約5.4m)。
年代を超えてきた重厚な色の柱や梁が年季を感じさせる堂々たる門構え。

世代を超えたコミュニケーションだった瞬間


日本100名城スタンプは門の中に設置。おじさんたちに見てるので何か緊張しますw
100名城スタンプ以外のスタンプもいくつか置いてあるので、子供たちと声を掛け合い、
順番に交換しながら・・横からおじさんも「ご苦労様」と言ってくれましたw

お品が感じられた瞬間


表門をくぐって本丸側から見たところ。なまこ壁がかわいいからなのか、
なんとなく上品な雰囲気があります。まずはこの内部を見学します。

案外明るかった瞬間


本丸表門の内部は隅櫓などの模型や歴代藩主の絵や城の写真が展示されている。
薄暗いかと思ったら予想以上に光が入って明るく梁などもよく見えました。

城に歴史ありだった瞬間


本丸表門を入ったところに建つ初代藩主、溝口伯耆守(ほうきのかみ)秀勝の像。
藩主に恐れ多いからと当時の人は箒(ほうき)のことを「なで」と呼んだのだとか。

新発田城は元々、鎌倉御家人佐々木加地氏の一族である新発田氏の居館があり、
戦国期に新発田重家が上杉景勝と7年に渡る抗争の末に敗れ、天正15年(1587)落城。
慶長3年(1598)秀吉の命により、加賀大聖寺から溝口秀勝が6万石で入封し築城を開始。
3代藩主、宣直の頃(1654)に完成するが、50年以上の歳月をかけて築いた城は、
二十数年後の寛文8年(1668)の大火で焼失することになる・・・おお切ない。

初めて知った瞬間


次は辰巳櫓。二層二階入母屋造、本瓦葺。平成16年に三階櫓と共に復元されたもの。
堀部安兵衛の父である中山弥次右衛門が管理責任者を務めていたが、
櫓の焼失の責任を取って浪人。安兵衛は家名再興のため江戸に出ることとなった。

赤穂浪士は好みじゃないから忠臣蔵の話や主役級の人の名前は知っていても、
その人たちのバックグラウンドなんて知らないから、こんなところで名前を聞いて
ちょっとびっくり。堀部安兵衛が藩祖、溝口秀勝の曾孫だというのにも驚きw

気合いの入った復元だった瞬間


辰巳櫓の内部にある石落とし。梁の写真はぼやけてしまっていいのがないけど、
鱗のような模様じゃなく、線状に削られた手斧掛けで手の込んだ復元がされていました。

阿吽の呼吸以上だった瞬間


三階櫓の3匹鯱。阿・吽・阿と並んでいて、阿がオス、吽がメスなんだって。
オス2匹にメス1匹・・天守代用の屋根の上で危険な三角関係かΣ(゚Д゚)!
歯が4本あるのが口をあけている阿、歯が2本が口を閉じた吽を表現してるのだそう。

復元の気合いと情熱が伝わった瞬間


礎石が見えるようガラス張りになった床。ガイドのおじさんの説明によると、
礎石に柱が建っているのがイメージできるようガラス板を利用して柱が映るように
しているのだとか。素敵なアイディアだと思ってちょっぴり感動しました。

中から見ると地味だった瞬間


旧二の丸隅櫓にやってきました。堀越しに見た時より地味な印象ですw
桁行5間半(約9.9m)梁間4間半(約8.1m)入母屋造の二層二階櫓。

あまりにも殺風景すぎた瞬間


重要文化財ながらガイドのおじさんもおらず中に自由に中に入れる感じで。
窓が防御が必要な堀に面した側にしかないのと、移築されただけに年季の入った
黒光りした梁や柱や床板の重厚感で表門や辰巳櫓よりだいぶ薄暗いです。

心に残る風景だった瞬間


手前から辰巳櫓、本丸表門、旧二の丸隅櫓が並ぶ本丸南面の3ショット。
青空が映えそうな・・夕方になってきて陽が落ちかけた頃なのが残念。
新発田城は周囲に湿地が多く、城の周りにあやめがたくさん咲くことからあやめ城とも、
加治川の堤を切って周囲を水浸しにする設計がされたため浮舟城とも呼ばれたそうだ。

とりあえず撮った瞬間


表門向かい、二の丸になのか帯曲輪なのか・・な場所にひっそりと佇む堀部安兵衛の像。
家名再興のため江戸に出た安兵衛は高田馬場の仇討ちによって名を挙げ堀部家の婿となり、
赤穂浪士として討ち入りに加わって本懐を遂げた・・土居を見に来たついででごめんね。

在りし日の姿を妄想する瞬間


帯曲輪を囲む土居。確かに土塁って感じとはまた違うのね。
この向こう側に当時は外堀がぐるーっとめぐらされていたそうだから、
万一、加治川の堤を切らなくても周囲は湿地が多かったというから、
大雨が続けばお城全体が水に浮いているように見えただろうね。

旅の終わりの瞬間


謎に包まれた3匹鯱を最後にもう1度見て新発田城登城終了。
そして米沢城址から始まったGW1泊2日の旅もこれにで終了。

・・てかGWの話題いつまでかかってアップしてんだヽ(`Д´)ノ

来週末はもうお盆休み。今回は関西方面〜福知山城あたりに出張ろうと計画中。
スタンプ稼ぎと単発で行くにはモチベーションが上がらない城を地味に潰す予定ですw

現在39/100登城完了。



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2011.08.06 Saturday 16:17 | - | - | 中部(新潟県) | 

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2020.02.14 Friday 16:17 | - | - | - |