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北の庄城と福井城

[武将] ブログ村キーワード

島根攻略から帰った翌々日、今度は福井方面に出陣してました。

23時頃、家を出て朝8時、福井到着。例によって欲張りツアーなので朝日と共に登城開始w

お参り風だった瞬間


1日で多くの登城や名所めぐりするには、朝一に自由見学(開園時間とかなし)の場所を廻るのが鉄則。
ということで福井ICを降りて一乗谷に向かう行きがけの駄賃で、北の庄城跡からスタートです。
大通り側からも入れるんだけど商店街のコインパーキングに車を停めた都合で、店に挟まれた鳥居から登城w
ここは現在、北の庄城公園となっていて、柴田神社も一緒になってる感じなんです。

存在感抜群だった瞬間


北の庄城には勝家が城主だった当時から立派な天守があったと言われています。
1581年(天正9年)に北ノ庄城を訪れた宣教師・ルイス・フロイスが本国への書簡で
「この城は甚だ立派で・・」と記していたり、勝家を攻めた時、秀吉が小早川隆景に送った書簡にも
「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…」と記されていることから明らかだそうです。
模型は5層になるんですかね、安土城もだけど、この時代の天守が残っていたらと思わずにいられません。

もろ鬼柴田だった瞬間


柴田のおっさん・・もとい。鬼柴田、柴田勝家の像が公園ど真ん中に睨みを利かせておりますw
信長が若い頃には信長の弟、信行に肩入れして信長排除を画策、一時は信長と争いながら、
戦いに敗れて剃髪して降伏。それが許されたのも信長の後年にはあり得ないミラクルΣ(゚Д゚)!

六角氏に兵糧攻めを受けた時は、残りの水を兵士に分けた後、水瓶を叩き割って出撃したため
「瓶割り柴田」などとも呼ばれ、勇猛で猪突猛進、戦以外の細かいことに頭が回らないみたいな
イメージの武将ですが、お市さんが添い遂げたくらいだし、小説やドラマで作られたイメージより
実際は豪快ではあるけれど、非常に気持ちの優しい気配りのできる人だったのではと思います。

ぎっしりだった瞬間


たいして広くはない敷地なんですが、あれこれもりだくさん詰め込まれている感じですw

北の庄城は天正3年(1575)、越前8郡、49万石を与えられた柴田勝家が
足羽川吉野川との合流点に築いたお城。北は神明神社、南は足羽川、東は吉野川(旧荒川)、
西は片町から呉服町一帯にわたる大規模なものだったとされているが縄張などは定かではない。
北に二の丸、三の丸が配され、現在の柴田神社付近が本丸だったのではないかと言われている。

本能寺の変の翌年、天正11年(1574)賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に破れた勝家は妻のお市の方と共に自害。
辞世の句・・「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」享年62歳。

北の庄城は勝家の自害とともに消失。その後は丹羽氏、堀氏らが入封したが関ヶ原の戦いの後、
徳川家康の二男、結城秀康が越前に入ると福井城築城のため遺構は取り壊されてしまった。

イマイチぴんと来なかった瞬間


早朝ゆえ白とびしてますが、資料館も併設されています。朝8時過ぎなのでやってませんが。

建物の左向こうに見えるのは九十九橋(つくもばし)・・北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋で
半石半木=橋の南が石で、北が木で造られた構造。文献、絵図などの研究から勝家公と考えられている・・
んだそうです。資料館の中には橋脚なんかが展示されているらしいです。もちろん見ていませんがw
ちなみに手前に映っているのは堀跡。敷地内のあちこちに堀跡や石垣跡が残っています。

祀られていた瞬間


柴田勝家を祀る柴田神社。敷地の片隅にこじんまりと佇む神社です。

以下、柴田神社ホームページより抜粋

天正十一年四月二十四日、北の庄城落城の後、その天守閣跡に石祠を建て勝家公の霊を祀り、
当時の藩士が毎年四月の二十四日に祭祀を行ってきた。明治六年「祠」は神社格に列せられ、
氏子、崇敬者を有するようになった。これが柴田神社の始まりである。
柴田神社は「勝家公・お市の方」ご夫婦。「娘三人の姫」三姉妹を御祀りしておることから、
夫婦・兄妹・家族の絆を御神得とする、「絆の宮」としてご参拝頂いております。

ひっそりとしていた瞬間


早朝だからとかじゃなく本当にひっそりと佇んでいる本殿・・でいいんですかね?
真夏の早朝だから光と影のコントラストがすごすぎ!! 撮る時、少し気にしろよ・・って感じでw

配置が気になった瞬間


奥に一人離れているのがお市さん、手前が茶々・初・江与、三姉妹の銅像。
右の方に背中向けてるのがさっき見た柴田のおっさん・・もとい柴田勝家の像です。
お市さん、せっかくだから柴田のおっさんの側にしてあげればよかったのにね。

天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日、北の庄城は落城。
勝家はお市の方に娘と共に城を出るよう諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、
北ノ庄城で勝家と静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。

「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」

短い夏の夜の眠る頃合いだというのに、別れをせかすようにほととぎすが鳴いています・・

間違ってるかもしれないけど、こんな感じの雰囲気なんじゃないですかね。
1年と満たない結婚生活ながら夫とともに自害する道を選んだお市さんの心中はいかばかりか。

先ほど紹介した柴田のおっさんの辞世の句はこれを受けてのものですよ。

「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」

柴田のおっさんの辞世の句はお市さんの句を受けて言葉にすると非常に重くて深くて
とても詮無い感じになりそうなのでやめときますが、短くても夫婦愛があるというか。
やっぱり柴田勝家は心の温かい優しい純粋な人だったのだろうと思います。ロマンだ。

死の静寂がまとわりつく自害の瞬間、しきりにホトトギスが鳴いていたんでしょうね・・

想像がつかなかった瞬間


北の庄城の石垣遺構。発掘調査の結果から、この石垣は本来高く積まれていましたが、
結城秀康の福井城築城に際し取り壊され、石垣の根石のみが残った状態であると考えられています・・
と案内板に書いてありました。こういうのがあちこちにありました。半端でもったいないことだ。

行きがけの駄賃パート2


ということでお次は北の庄城跡からほど近い、福井城に立ち寄り登城してきました。
現在は福井県庁&警察? 石垣の中にあるだなんてなんつー贅沢な公共施設です。
まだ朝8時半過ぎなので人もおらず本当は中にも入りたいところなのですが、
福井も遠いからそうそう何度も来れない・・ということで予定が目白押しなので、
ワタクシ的にはあまり興味のない徳川時代の城ということで残っている中の天守石垣などは
多少は気になるのですが、今回は内堀の石垣だけ見てスルーすることにします。

迫力の瞬間


ここは当時、本丸だったところ。こちら側は本丸西側になるようです。
埋御門にかかる御廊下橋は藩主専用の橋。橋の名前や水濠と石垣はそのまま残っているそう。
スケールが大きい屏風折れもある石垣がいい感じです。笏谷石で積まれているのだとか。

揺れ動く乙女心の瞬間


平成20年に屋根付きで復元された御廊下橋。それ以前は橋だけかかっていたようです。
この先に入っていくと埋御門跡の枡形なんかが見れちゃったりするので気は惹かれますが、
入っちゃったら天守台跡とか絶対見に行っちゃうでしょ。車停めてまで見るのもなんだし。
入りたい・・ダメ入ったら時間かかりすぎ! でも二度と来ないし・・ああもったいない!!

見栄えがした瞬間


ただの橋だけの写真も見たことありますが、屋根付き見ちゃうとこっちのが断然いいですねw

1601年(慶長6)、徳川家康二男の結城秀康が68万石で初代福井藩主として入封し、
入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年(1606)に福井城を完成した。
天下普請で築かれた城は2km四方に及ぶ巨大なもので、本丸を5重の水堀が囲み、
4重5階の天守があった。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものともいわれる。
天守は1669年(寛文9)に焼失。財政問題や幕府への配慮から再建されることはなかった。

前を向いた瞬間


徳川プロデュースのお城。駿府城とか江戸城とかやっぱ何となく雰囲気が似ている感じで・・
さぁさぁ、見ないと決めたんだから予定通り今日の立ち寄りをこなしていきますよ!!

予定通り9時。これからソフトバンクのお父さんの故郷、一乗谷に乗り込みます!!



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2013.02.09 Saturday 22:09 | - | - | 中部(福井県) | 

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