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正龍寺〜北条氏邦のお墓参り

[北条氏] ブログ村キーワード

太田歴史公園で徳川づけになった後は、埼玉に戻って北条氏邦さんのお墓参りをします。
戦国史好きの埼玉県民は信長がカリスマだろうが、どれだけ西の方に興味があろうが、
北条さんはスルーできない・・だって何かといえば支配していた北条の名前が出てくるからね。
戦国大名としては残念だったけど、あちこち行って勉強してると何気に愛着もわいてきますw

なんとかたどりついた瞬間


埼玉県大里郡寄居町にある正龍寺・・日本百名城の鉢形城からそう遠くないところなんだけど、
ナビの精度が悪いのか何なのか、ちょっぴり迷って郵便配達の人に聞いてようやく到着。
途中、あきらめて鉢形城に再登城しちゃおうか、少し心が揺れましたw

のどかだった瞬間


山門から仁王門を眺めたところ。山の上まで墓地が広がっているのが見え、けっこう広いお寺みたい。

正龍寺の歴史は古く、元は花園城主藤田五郎政行が創建し、貞和4年(11348)臨済宗の僧實翁和尚が、
山号を青龍寺と改号。天文元年(1532)に乾翁瑞元和尚が教化して十五代城主藤田康邦が開基となり、
天正19年(1591)に正龍寺に変わりました。現在は曹洞宗のお寺だそうです。

戦国のならいだった瞬間


正式な名前は「曹洞宗 高根山藤源院 正龍禅寺」。北条氏邦夫妻と藤田康邦夫妻のお墓があります。
北条氏邦は北条氏康の3男で氏政や氏照の弟、藤田康邦は当時の花園城主で氏邦の養父であり義父です。

藤田氏は古くから一帯を治め、室町時代には関東管領上杉氏の重臣でしたが、川越夜戦の後、
北条氏の支配下に入ると、氏康の三男、乙千代(後の氏邦)を娘(後の大福御前)の婿に迎えて
天神山城と花園城を譲り、康邦自身は男子の重連・信吉を連れて用土城に移って隠居となります。
氏邦が鉢形城主となったのは永禄年間。この時に大規模な改修が行われ北条最大規模の支城となりました。

かなりお好みだった瞬間


妻沼聖天山昌福寺と今日は仁王さんたちとの遭遇率が高いですw 
ここ正龍寺では昌福寺のように金網がなかったので塗りのない荒々しい姿がよっく見られます。

イケメンだった瞬間


所蔵文化財を見ると仁王門も仁王像も指定されてないようなので古くはないんだろうけど、
味があってよいと思いマス。しかし。1日に何体も見ることなかったので気にしてなかったけど、
仁王さんも微妙に顔のつくりや表情が違うのね。ワタクシは今日の3ヶ所ではここのが一番かと。

ひっそりしすぎだった瞬間


仁王門をくぐって本堂までやってきました。住職さんかお寺の方でもいたら話を伺いたかったけど、
全く人の気配がないので残念。本堂自体は新しく中も見えないのでお墓参りをすることにします。

名前は藤田家のが先だった瞬間


本堂の左側に広がる墓地。小山のようになった一番上にある建物が氏邦さんたちの墓所のようです。
一般の方のお墓の中を通らなきゃいけない時はちょっと恐縮します。転ばないようにもしないとね。

軽く驚きの瞬間


お墓の中をちょいちょい登りながら進んで氏邦さんたちのお墓に到着。霊廟のようになってます。
2組の夫妻のお墓はそれぞれ埼玉県指定史跡及天然記念物に指定されているそうです・・天然記念物?

厳重だった瞬間


供養祭など特別な時以外、普段は鍵がかかっていて中に入ることはできないようです。
綺麗にお掃除されているようでしたが、中にお供えされたお花が枯れていたのはちょと悲しい。

歴史を感じる瞬間


向かって左に北条氏邦と大福御前、右側に藤田康邦と西福御前の宝篋印塔が並んでいます。
戦国期の宝篋印塔としては大型で、笠に彫られた蕨手や竪連子の模様などに特徴のあるこの四基の墓は
戦国末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を如実に物語っています・・と説明がありました。

ただのやんちゃじゃなかった瞬間


氏邦は豊臣秀吉による小田原攻めの際、野戦での撃退を主張したとも言われる武闘派で、
兄の氏照とともに勇将の誉れ高い武将でした。子供の頃には氏政を何度もケンカで負かせており、
家臣の中には氏邦や氏照の方が世継ぎに向いているのではという声も上がっていたほどだったとか。
父の氏康は後継ぎ問題を恐れ、氏邦を藤田氏へ、氏照を大石氏に養子へ出したと言われています。

氏邦は野戦を得意とする武勇の将でしたが、鉢形城改修と同時に城下町を整備して養蚕を奨励し、
領国経営にも力を入れていたそうです。小田原攻めの際には抗戦を主張しますが評定に従い、
3千あまりの兵とともに鉢形城に籠城しました。しかし上杉景勝、前田利家ら5万の兵に包囲され1ヶ月後、
氏邦は城兵の助命を条件にやむなく開城。正龍寺で出家して前田利家のもとに降伏したと言います。

その後、氏邦は前田利家に預けられて加賀に移り、7年後に死去しました。享年57歳。
氏邦の夫人、大福(おふく)御前は正龍寺で仏門に入っていましたが落城の後、自害したそうです。

きっと複雑だった瞬間


用土城に隠居した藤田康邦が亡くなったのは天文24(1555)年。ここ正龍寺に葬られました。
この時、康邦が連れて出た2人の実子・・重連は19歳、信吉は3歳だったそうです。
天正6(1578)年、重連は沼田城主をめぐる問題から存在を危険視した氏邦によって毒殺されます。
沼田城代となっていた弟の信吉は氏邦を恨んで武田勝頼に寝返り、武田氏の滅亡後は上杉へ仕えると、
鉢形城攻めでは上杉軍の先鋒を務めました。司馬遼太郎の「関ヶ原」では上杉を裏切って国抜けし、
大阪の家康にチクリに行くところが書かれてます。相当キライなんだろうなって思いましたw

氏邦の遺骨は加賀から家臣が持ち帰り、藤田氏康夫妻の眠る正龍寺に葬ったと言われています。

人望あった瞬間


義弟毒殺とかぶっそうな話もあるけど家のため家臣のため・・戦国時代だから何でもありますよ。
それでも数々の戦功をあげ、堅固な鉢形城を築き、領地経営にも力を注ぎ、抗戦派にも関わらず、
城兵の命を救うため開城を選び・・そんな氏邦の葬儀には弟氏規や北条旧臣や領民などを含め、
一山を越える人が集まったと言われています。今でも地元の人からは慕われているそうです。


ワタクシ北条4兄弟の中では氏照さんが一番だけど、氏邦さんもこれからはもっとイチオシしていこうw
しかし同じ主戦派ながら氏邦さんが助命され、氏照さんが切腹したのは少々納得いかないケドw

北条氏照・氏邦・・いや、北条って大河にはならないのかね?・・・地味すぎてやっぱダメかwww


さーて夏休み前に行った埼玉シリーズはいったん終了。本当は後日の第2弾があるけれど、
夏の陣のエントリーが冬になるからね・・Σ(゚Д゚)! ということで次回は高取城をご紹介します!!



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2013.08.22 Thursday 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

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