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桑名城に登城!

[本多忠勝] ブログ村キーワード

神戸城から桑名城にやってきました。予定より早く着いてしまい駐車場が開いてません(´Д`)
桑名城跡は現在「九華公園」になっていて、市民プールもあるので大きな駐車場があるんだけど、
9時まで入れません。でもワタクシ全く困らない。先にねっとり忠勝さんの銅像を拝見よw

血圧上昇の瞬間


駐車場敷地の隣に建っているのがナイス! 銅像前に車を停めてさっそくねめくりまわします。
今回、桑名城を夏の陣に加えた目的の大半ひとつが、忠勝君の銅像とお墓を見るため。
ここの銅像は岡崎城のより「らしい」というか、ワタクシは銅像としてこっちのが好きなのw

目がハートだった瞬間


川四天王のひとり、忠勝さんの銅像は鹿角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍とともに。
槍の刃先にトンボが止まっただけで真っ二つになった事から蜻蛉切の名がつきました。
忠勝さんと言ったらこのスタイル・・はぁ〜銅像だけど何だかドキドキするこの気持ちはなに?

信長からは「日本の張飛」と称えられ、秀吉からは「天下無双の大将」とまで言われた忠勝さん。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」というのも有名ですね。
生涯57度の戦において、かすり傷一つ負った事がなく負け戦はなかったそうです。素敵だわ〜

乱暴で酔っ払いの印象もある張飛はどうかと思うけど、信長様の言いたいことは分かりますw

人目が気になった瞬間


忠勝さんは慶長6年(1601)桑名に入封した際、積極的に街づくりを行って川の流れを変え
「慶長の町割り」と呼ばれる整備をしました。現在の町並みの大部分はこの時のものだとか。

背後から右斜め45度から左から這いつくばって見上げながら、忠勝さんの銅像を堪能するワタクシ。
目の前の通りを車が通る度、ものすごい人の視線を感じるのは気のせいじゃなかったと思うわ。
9時5分前までじっくり見て駐車場前に横付けしたら、オジサン出てきて中に入れてくれましたw

幸先がよかった瞬間


忠勝さんの銅像のところからも入れるんだけど、案内板が見たかったので正面入り口から登城開始!
ネットで印刷した図は持って来たんだけど、縮尺悪くて何だか見づらかったので一応確認しようかと。
手元の図と案内板を見比べて頭に叩き込んでから橋を渡ったら、掃除しているオジサンに遭遇。

挨拶したら「どっから来られた?」「埼玉から城跡見に来ました」「それは暑い中ご苦労さま。分かる?」
と聞かれたので「う〜ん、まぁ」とか微妙な返事をしたら、オジサンわざわざ掃除を中断して
管理事務所に入れてくれ、九華公園のパンフレットやら散策マップやら桑名観光マップやら・・・
一式持たせてくれました。外に置かなくなったのは帰りに捨てられゴミにされるからなんだって。

大したものは残っていないよと言いながら、堀の石垣が四日市港を作るのに持っていかれたことや、
幕末の桑名藩主は会津などと一緒に佐幕として戦い、城は官軍に破却されたことなど話してくれました。
やっぱ早起きは三文の得だね。掃除している時間に来なけりゃオジサンに会わなかったものw

イケてなかった瞬間


管理事務所を出て九華橋の上から神戸櫓跡が見えます。詳しいパンフレットもらってホント助かるわw
さっき見て来た神戸城にあった天守が移築され、あの櫓台に建っていたんですね〜って風情ないわ!
コンクリートで護岸されちゃってるから、堀越しに見る姿はまったく雰囲気が出ませんね・・。

地味すぎた瞬間


橋を渡ると「県史跡 桑名城跡」の碑がありました。イマイチやる気が感じられない地味な碑です。

桑名城は永正10年(1513)伊藤武左衛門が城館を築いたのが始まりと言われ、天正2(1574)織田信長が
この地を制すると滝川一益が支配しました。豊臣秀吉の時代には織田信雄、豊臣秀次の所領となり、
秀次自害の後に氏家行広が2万石入城しますが、関ヶ原で西軍についたため改易。慶長6年(1601)
本多忠勝が大多喜から10万石で入封すると城は拡張され、城下町などが整備されました。

元和3年(1617)本多忠政が播磨に転封すると以降、久松、奥平といった松平氏が入城。
文政6年(1823)に陸奥白河より松平定永が11万石で入り、5代続いて明治維新を迎えました。
京都所司代を務めていた4代定敬は会津藩主松平容保の実弟で、兄や一橋慶喜と「一会桑」を作り、
幕府を支えた人物。桑名藩は佐幕派として戦い、維新後は新政府軍によって厳しく処分されました。

ピンとこなかった瞬間


城址碑があった橋を渡った場所がもう本丸なんだけど、たいした遺構は残ってなさそうなので、
先に二の丸や水堀を見ることに。さっき九華橋から見た神戸櫓跡を本丸側から見たところ・・・
堀側はコンクリートが雰囲気まったく変えちゃってるし、本丸側から見てもどうもイマイチ。
神戸城の五重天守が移築されたっていうイメージがどうにもわかないのはワタクシだけ?

恨みが深そうだった瞬間


こちらは辰巳櫓跡。吉之丸堀に面して建っていました。元禄14年に桑名の大半を焼く火災が発生し、
四重五層の天守も焼失、その後は再建されなかった天守の代わりを辰巳櫓が務めました。
明治維新の時、新政府軍への降伏の証として、天守代用だった辰巳櫓が焼き払われたそうです。

強行した瞬間


桑名城に登城! メインの遺構は水堀だからどこで宣言するか迷った挙句、橋の上で決行Σ(゚Д゚)!
吉之丸堀と右側が本丸。奥に神戸櫓跡が、そして手前が今見た辰巳櫓跡の見える風景です。
しかしコンクリートは雰囲気台無し・・水面とたいして差がないのは石垣はがしたからでしょうか?

ひそかに憤っていた瞬間


九華公園として残っている桑名城跡はこんな感じ。登城宣言したのは「辰巳櫓跡」って赤字の上の橋。
本丸と二の丸が公園として残っている水城だけど、その肝心な堀を囲む石垣すらないから何だか残念ね。
当時は櫓数51、多聞12、門46もの建造物がある大城郭だったそうです。譜代の城ではあんまりないから、
辰巳櫓はともかく多少なりとも建物が残ったら、さぞ見応えのある水城だったと思います。
やっぱり明治政府とか新政府軍とかが絡むと城にとってはロクなことないのよヽ(`Д´)ノ

面白みがなかった瞬間


橋を渡って二の丸に来ました。吉之丸堀と二の丸堀に囲まれた細長い曲輪には何も残っていません。
堀の水が増えたら水没しそうなくらい狭いけど、やっぱり屋敷などが建っていたんでしょうか。

ありがちだった瞬間


えっと・・どこだっけ? あっちを向いてもこっちを向いてもコンクリートの水堀だらけに赤い橋。
たぶん二の丸あたりからだったと思うけど、今見たらどこで撮ったか全くわからなくなってましたwww

妄想力が大事だった瞬間


二の丸から再び、神戸櫓跡・・最初の九華橋上からより本丸側からより一番マシかなと思った。
石垣じゃないのがダメすぎるのは一緒だけど高さとか角でせり出した感じは多少分かるかなと。

お腹いっぱいだった瞬間


その辺を流れてる川じゃありませんよ、二の丸堀ですよ!!って言わないといけないかもな風景w
ワタクシもあまり風情のない水堀だらけにもう飽き飽きしてきたので、本丸に戻ることにします。

腑に落ちなかった瞬間


橋を渡って本丸に戻ってきました。本丸跡には鎮國守國神社があります。天明4年(1784)白河城内に
松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりで、文政6年(1823)松平定永の桑名移封に伴い、桑名城本丸に
移されたものなんだそうです。後に松平定信(楽翁公)も祀られるようになったのだとか。
明治維新後には本丸の外に移され、明治40年ふたたび本丸跡に戻され以来ここに鎮座しています。

この辺り、楽翁の歌碑とか楽翁公百年祭記念宝物館とか楽翁・・松平定信が盛り上っています。
幕府軍として戦った桑名の最後の殿様は松平定敬さんだし、会津にしても殿様は松平容保なのに、
彼らは置いといて〜の楽翁公。桑名に移封になったけど楽翁公自身は来てないらしいのにねw

首をかしげた瞬間


神社の裏手に天守台跡があるというので、しぶといヤブ蚊にたかられながら見に来ました。
元禄14年に焼失するまで四重六層の天守が建っていたそうですが、張り切って来てみたものの、
変な碑とか建ってるし、何か違うのかな〜と思ってもらったパンフレットを読んでみると、
石組は縮小された規模で再現されたものだと・・エッ、それ必要? 石はけっこう大きい。

さらに首をかしげた瞬間


ある程度は残っていた石を使ったのか、どっからか持って来て積んだのか全く分からないけど、
矢穴らしきものを演出するあたり芸が細かいというべきか、やりすぎだと見るべきか・・

もう興味は失せていた瞬間


なんちゃって天守台の上には明治20年に建立された戊辰殉難招魂碑が建っていますが、
それはどうでもいいわ。大きな石もよく見るとやっぱり石は新しい感じがしますね。

焼き殺されそうだった瞬間


九華公園を出て、次は外観復元された蟠龍櫓を見に行きます。10時近くなって暑さもすごいことに。
蟠龍櫓へは駐車場の方に戻って揖斐川沿いを徒歩で行くんだけど、護岸されたアスファルト暑そうでしょ?
写真はかなり近づいてから撮ってるけど、けっこうこんなところ延々と歩かされたのよね。
隣の川からジェットバイクの轟音が響いていて、セミの鳴き声以上に暑苦しくイラっとしながらw

何かと見えづらかった瞬間


天に昇る前のうずくまった状態の龍を「蟠龍(ばんりゅう)」といい、これを模した瓦が置かれているため
蟠龍櫓と呼ばれているそうです。破風のところに乗ってるやつのことだよね、見えづらいけど。
七里の渡に面して建てられた蟠龍櫓は東海道を行きかう人が必ず目にする桑名のシンボルだったそうです。
右奥に七里の渡跡が見えていますが・・やっぱ見えづらいよね。後で行って見ることにします。

日陰を求めた瞬間


蟠龍櫓は無料で中に入れます。外観復元された櫓と言っても実際は水門管理事務所になっていて、
2階が展望台として無料解放されています。ちなみに午前10時から午後3時まで開館。月曜休み。
朝、会った管理のオジサンが「七里の渡は蟠龍櫓から見下すのがいいよ」と言っていたので
さっそく中に入ってみることに。開館直後でおばちゃんが掃除してたけどにこやかに迎えてくれます。

極楽だった瞬間


平成15年に建てられた櫓内は大した展示はないんだけど、蟠龍が間近で見られるのはいい。
そしてエアコンが効いているのも何気にポイント高し!汗が引くまで蟠龍ガン見で粘りますw

視野が狭すぎた瞬間


窓ガラスがはまっているので柵から手が出せず、七里の渡の写真はこんな感じになりました・・
おばちゃんが言うには、護岸されてしまったけれど位置や流れは当時と同じなんだそうです。

ピンとこなかった瞬間


再び、蒸し風呂のような外に出て七里の渡までやってきました。東海道五十三次42番目の桑名。
当時、宮宿(名古屋市熱田)から桑名へ来るには海上を船で渡りました。その船着場が七里の渡し。
大鳥居はこれより伊勢路に入ることから伊勢国「一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに
建て替えられているんだそうです。お伊勢参りの人は鳥居を見てテンション上がったんですねw

命あってのものだねだった瞬間


歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」には七里の渡から海に面して建つ蟠龍櫓が描かれています。
管理のオジサンに七里の渡のことを聞いた時、「昔の東海道を趣味で歩いている人がよく来るけど、
今は渡し船がないから、ここは本来のルートで歩けないんだよね」と言っていた・・この様子じゃね。
厳重な護岸は伊勢湾台風以降、高潮対策で造られたもの。雰囲気ないけど安全のため仕方ないです。

オジサンに感謝の瞬間


七里の渡の反対側には三の丸堀が残っています・・といってこれも管理のオジサン情報w
縄張を見ると舟の並んだ側が三の丸だったようです。櫓が51あっただけにホント広かったのね。

わかった風だった瞬間


三の丸堀の石垣はそのまま残っているものなんだそうです。堀越しに蟠龍櫓が見えます。
この場所は護岸された七里の渡跡のところと水は続いているけれど、今は船は出入りしないとか。
舟が止まっていて残った石垣もそんなによく見えないけど、持っていかれなくてよかったよね。

何かと運は大事だった瞬間


暑さ致死量に達しようかという中、トボトボ歩いて駐車場まで戻ると満車そして入場待ち大量Σ(゚Д゚)!
わは〜ワタクシ朝イチで登城してマジよかったわ。他に駐車場ないからのんびり来たら泣くに泣けない。
最後にもう1度、忠勝さんの銅像を見に行き、うっとりモチベを上げたら忠勝さんのお墓参りに行きます。



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2013.09.20 Friday 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) | 近畿(三重県) | 

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