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桶狭間古戦場公園に出陣!

[桶狭間] ブログ村キーワード

桑名城から名古屋に移動してきました。熱田神宮もついでだから寄っておきたかったけど、
名古屋市内の道が混んでいたので、昼過ぎで駐車できないと厳しいからまたの機会を狙うことに。

奇襲じゃなかった瞬間


ずーーっと来たいと思っていた桶狭間古戦場公園。せっかく行くならじっくり見たいと思い、
事前調査で桶狭間古戦場保存会のサイトをじっくり見ての出陣! 他に観光さんはいなくてこりゃラッキー!
と思いまず入り口の説明を読んでいたら、オジサンが来て「よかったらどうぞ」とパンフレットをくれた。

入場料払うわけじゃないからもれなくもらえる物じゃない。こりゃまたラッキー!と思っていたら、
オジサン「よかったらガイドしましょうか?」と言ってくれるので「もしや保存会の方ですか!!」
と目を輝かせて聞いたら「そうです」と身分証を見せてくれた。掃除に来たところだったそうだ。

保存会のサイトを見ていたので、予約すればガイドさんが来てくれることは知っていたけど、
現地常駐ならともかく、時間が読めないから難しいと思ってお願いしなかったガイドさん。
まさか運よく公園にいて声かけてもらえるとは。掃除してたらガイドさんって気付かないw

気合いが感じられた瞬間


まずは「近世の曙」というタイトルがついた今川義元と織田信長の銅像から。
桶狭間の戦い450年を機に公園が整備され、信長・義元両雄の銅像が建立されました。
この戦いを期に時代が変わっていったということで「近世の曙」というタイトルに。

背格好の近い男性をモデルにし、ちゃんとふんどし1丁から甲冑を着せていったそうで、
甲冑も専門家の時代考証をを元に、当時にかなり近い形のものになっているのだとか。
清洲公園の信長像も同じ桶狭間出陣前の姿ですが、こっちより立派。盛ってあったのねw
敵味方だった武将が銅像として一緒に建っているのは珍しいケースだと思います。

ノーメイクでよかった瞬間


こちらは今川義元さん・・でっぷりしていて鉄漿をつけた公家風の印象とは違って精悍な感じです。
東海一の弓取りと言われた義元さんらしく威風堂々の佇まい。なかなか落ち着きと貫禄のある表情。
今川義元は地元の人には大変慕われていたそうですが、戦国時代が最後の盛り上がりを迎える前に
破れてしまったからでしょうね・・銅像があるのは全国でここだけなんだそうです。

天魔のての字もなかった瞬間


こちらが若き日のオーマイカリスマ織田信長様・・桶狭間の時は26才とか27歳と言われています。
遠・三・駿の太守、義元さんとは違って、この頃の信長は尾張一国やっと統一したところ。
義元さんと比べると青いというか、貫録や迫力がまだない感じがよく表現されてると思いました。

信長をほめてあげたかった瞬間


この銅像は甲冑にもこだわったというので、二人の後姿にも注目しておきましょう。
当時の力や財力の差が歴然な背中です・・義元さんが立派というより信長様しょぼっ(´Д`)
義元さんは名刀「左文字」もさしています。義元を討った時から信長の愛刀になった刀です。
南北朝時代に作られ、三好宗三→武田信虎→今川義元を経て、信長に渡りました。

思いが感じられる瞬間


この公園は合戦時の配置を再現したジオラマが見どころです。オジサンによると公園を整備する際、
名古屋市に「せっかく整備するなら」と保存会からアイディアを出して作られたものなんだそうです。
手前の石が左から善照砦、鳴海城、丹下砦・・とこんな感じに位置関係が分かるようになってるの。

ガイドさん必須と思われた瞬間


両陣の位置関係と動きが書かれた案内板があるのでガイドさんいなくてもひとまず安心。
ワタクシも本当ならこれを見ながらひとりで見学するつもりんだったけど、ガイドさんに連れられ、
面白い説明を聞きながら一緒に廻ってみて、これはガイドしてもらった方が断然いいと思いました。

勢いが大事だった瞬間


城や砦など陣営を表す石は織田軍が青、今川軍が赤で表現されてます。
合戦当日の朝、清州城で「人間50年〜」の敦盛を舞った信長は数騎で城を飛び出すと
熱田神宮で戦勝祈願を行い、追いついてきた軍勢をまとめ桶狭間へと出陣します。
丹下砦、善照寺砦を経て中島砦に入ると二千の軍勢で今川軍に攻めかかりました。

夢にも思わなかった瞬間


一方、鳴海・大高城の救援に大軍を率いて出陣した今川義元は合戦前夜、沓掛城に入ります。
松平元康(後の家康)に命じて大高城への補給と丸根・鷲津砦を陥落させた義元は沓掛城を出て、
正午に桶狭間に到着。人馬に休息を与えていたところで織田軍の奇襲を受け、討ち取られました。

運命をかけた進軍だった瞬間


城や砦だけじゃなく、両軍の進軍ルートも色分けされています。こちらは青の信長軍ルート。
写真奥に見える池が海を、右奥の土塀が熱田神宮を表現しています。熱田神宮には信長が合戦後、
勝利のお礼に寄進したといわれる信長塀があるので鳥居じゃなく、あえて土塀にしているんでしょうね。

熱田神宮を出た信長軍が丹下砦(3つ並んだ一番奥)、善照寺砦(手前)に移動したルートです。
真ん中にある赤い今川軍の鳴海城は、実際は2つの砦よりもっと奥。少しずらすとよかったのにね。

死への進軍だった瞬間


沓掛城(奥方向)から桶狭間のある田楽坪に向かう今川軍のルート。幸先よく丸根・鷲津砦を落として
ウキウキしながらの進軍だっただろう義元さん。間もなく討ち取られるなんて夢にも思わないわね。

ガイドさんの存在は本当にありがたかった瞬間


この地は本来、田楽坪というそうです。桶狭間山など小山の合間にあるので桶狭間と呼ばれ、
それが定着したものなんだとか。そのため石碑は「桶狭間古戦場田楽坪」と書かれています。

松井左衛門宗信(今川の二俣城城主)の子孫、松井石根氏が昭和8年にこの地を訪れた際、
揮毫したものなんだそうです。松井石根氏というのは悲劇の大将と呼ばれた陸軍大将で、
南京事件の責任を取らされ、極東裁判でA級戦犯として死刑になった人です。

そのことはどうでもいいんだけど、この松井石根氏は当時あちこちで講演などをしていたそうで、
ガイドさんがこの講演を聞いたことのある人をガイドした時、自分の思うところも伝えたところ、
「石根氏も同じことを言っていた」と言ってもらえたのが嬉しかった、と言っていたのが印象的で・・・

ガイドさんってボランティアなのに、正しい説明をするために色々勉強したり調べたりするそうで、
みなさん自分なりの解釈や歴史感があるから、説明を聞いて喜んでもらえるということのほかに、
自分の考えが間違っていないと分かる瞬間もやりがいを感じる瞬間なんだろうなと思います。

ぶっ倒れそうなくらい暑い昼時、一生懸命説明してくれるガイドさん・・無償の郷土愛です。

行政のことは分からなかった瞬間


真ん中にある小さい碑には「桶狭間古戦場碑」。昭和初期に公園近くの鞍流瀬川から発見されたもので
「文化十三年(1816)丙子五月建」と書かれていて、これが田楽坪から出たということは、
義元最期の地か戦いの中心地であったことを示しているのだろうと考えられているそうです。

実は桶狭間の合戦地と言われている場所はこの公園のある名古屋市緑区とお隣の豊明市2か所あり、
ここ緑区の桶狭間古戦場公園では、こうした碑が出たことなどが実際の地であった根拠なのね。
そして未出陣だから詳しく分からないけど、豊明市にもまたそれなりの根拠があるそうで・・
といっても2か所は道挟んですぐ近く。同じような場所なんだから広域指定で1か所にしようよw

よりリアルに感じられる瞬間


ジオラマめぐりの後は他の見どころを案内してもらいました。こちらは今川義元のお墓の並び。
左から「今我が義元戦死之地」の碑、今川義元の墓、駿公墓碣(しゅんこうぼけつ)。
駿公墓碣は田楽坪の「ねず塚」から昭和28年に出土したそうです。いつのものか不明だけど、
当時の人が敗戦の将を弔うことをはばかり、墓石を埋めてひっそり供養したと考えられているのだとか。
義元さん地元じゃ慕われてたというしね。戦国の頃じゃないにしても古いものなんだと思うわ。

枯れていた瞬間


今川義元が馬をつないだと伝えられるねずの木。田の中に「ねず塚」として残されてきたもので、
触れると熱病にかかると言われているのだとか。言われずとも枯れてて触りたくない雰囲気ありますw

考慮されなかった瞬間


公園内には義元の首級をこの泉で洗い清めたと伝わる「義元公首洗いの泉」というのもあります。
昭和61年の区画整理まで水がわいていて、今はアスファルトの下になってしまっているんだって。
この案内板のある後ろの道路のあたりが泉があった場所なんだとガイドさんが言っていました。

ガイドさん困っていた瞬間


アスファルトの下になりましたじゃ寂しいので(?)、公園内には泉が再現されたものがあります。
泉の中にくるくる回る桶があったといわれているので、桶をつないで浮かべてあるそうですw
学生がいたずらして引っ張ったりするので5個目なんだと言っていました。コラ、いたずらすんな!

もろ住宅街だった瞬間


公園のすぐ近くには今川義元の本陣跡もあります。区画が碁盤というか整然としていないのは、
この辺りは昔からある田のあぜ道沿いに家が建ち、そのまま道路が整備されたからなんだって。

イメージが湧いてくる瞬間


公園のある下の方から坂道を上がってくる途中に本陣跡があります。もう少し上がると桶狭間山。
山といってもこの坂道を見て分かるとおり、丘とかミニ山程度で、そういう小山の狭間にある一帯が
田楽坪と呼ばれていました。信長軍もこういう小山を駆け下りて義元さんを急襲したってことね。

イメージがしぼんだ瞬間


モダーンなちょいと和風を意識した集合住宅の前に鎮座する「今川義元本陣跡」の碑。
ガイドさんと一緒に来なかったら、おしゃれな建物の付属物と思ってスルーしかねないw

桶狭間で休息を取っていた今川軍は奇襲を受けて総崩れとなり、義元は朱塗りの輿を捨てて
退いたと言われます。しかし本陣を狙う織田軍に追いつかれると、義元は脇差を抜いて
槍で討ちかかる服部小平太に応戦。膝口を切りつけますが、自身も槍で刺されてしまったところ
後ろから組みついてきた毛利新介により討ち取られました。享年42歳。

まじまじと眺めた瞬間


一般的に丸根・鷲津を落として気をよくした義元は桶狭間で昼間から酒宴をしていたとか
兵が浮かれて具足を脱いで騒いでいたとか・・義元の油断が敗因と言われることがあるけど、
ワタクシ個人的には懐疑的。でっぷりしててお化粧して鉄漿して京風公家好みってオエ〜だけど、
三国の太守だった義元さんそんなにアフォじゃないと思うし、武将値もけっこう高いんだと思う。
戦場で本当に敵と刃交えての討死だってところがミソ。このクラスの武将でそういないよ。

気配を見せず出陣、情報操作、本陣直撃、行動スピード・・・信長のやることすべてが
義元の戦のセオリーになかったのよ。天の時、地の利、人の輪・・信長様に運がありすぎたわw


ずっと来たかった桶狭間合戦の地に来られて、しかも親切なガイドさん付きでワタクシ大満足!!
ガイドさんに心から感謝! 機会を見つけて熱田神宮と、豊明市の方も見てみたいと思います。

この後は本多忠勝の生誕地を訪れるついでで岡崎城へ再登城! まだまだ先があるから急がねばw


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2013.09.27 Friday 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 古戦場に出陣 | 

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