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二俣城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

高根城攻略の後は東名高速を目指して天竜川沿いを南下しつつ、二俣城に向かいます。

戦国小説などを何度となく出てくる二俣城。頭では分かるけどいまいちイメージしきれない
力攻めで落とせない要害ぶりや、ひそかに好感を持っている依田信蕃のことを妄想しに行くのですw

飽き飽きしていた瞬間


足助城から始まって、この日はずーーーーと何もない山の中ばっかり走ってるからいい加減飽き飽き。
車で移動していても距離は長いわ、何もないわで萎えるのに、戦国時代の方たちはご苦労なことです。

モンスター河川だった瞬間


写真奥の方が下流。長野県から愛知県、静岡県と流れて太平洋に注ぎます。見るからに深そうな・・
急峻な地形なので昔はえらい水害に悩まされたそうです。水量もっと多かったら確かに恐怖です。

地味な佇まいだった瞬間


ナビに出てくる二俣城には楽々到着w 車だと駐車場の関係で北曲輪からの登城になるようです。
北曲輪、本丸、二の丸、蔵屋敷、南曲輪と続く縄張り。左側は北曲輪、右側に天竜川が流れてます。

ドキッとした瞬間


足を一歩踏み入れると突然、二俣城についてのアナウンスが結構な音量で流れ始めたのでちょいと驚き。
センサーがついていて人が通ると自動で始まるようになっているようです。びっくりしたわ。

百聞は一見にしかずだった瞬間


北曲輪に沿って歩き本丸を目指します。腰曲輪の木々の隙間からデカい天竜川の流れが見えます。
天竜川と二俣川に挟まれた天然の要害。川幅や川との高低差を見るとその意味がよく分かります。
小説で読む武田軍がいかだを流して水の手断ち切る時の描写が、頭の中で結びついた感じがする。

人間の目は優れていた瞬間


本丸の手前には堀切があるのですが・・・草が生い茂ってる上、写真の角度もイマイチなので
分かりづらいね・・でも現地で見ると草があるなりにグイっとえぐれているのは分かるんですw

だけど西日がまぶしかった瞬間


本丸虎口が見えてきました。食い違いになっていて野面積みの石垣が綺麗に残ってます。
左後ろの方に行くと馬出しを経て北曲輪になって、そこには旭ヶ丘神社がありました。

貸切だった瞬間


それでは本丸にイン! 現在は城山公園となっている二俣城。広場になっていてお城まつりなどは
ここでやったりするらしいんだけど、時刻は真夏の午後4時前・・・暑いせいか誰もいません。

綺麗だった瞬間


現存の天守台は天正18年(1590)に浜松に入封した堀尾吉晴の時に築かれたもので高さ約5m。
こじんまりした感じです。慶長5年(1600)関ヶ原の功により堀尾吉晴が出雲に転封になると、
戦国時代には激しい攻防の舞台だった二俣城は戦略拠点の役割が薄くなり、廃城となりました。

脂ののっている武田軍だった瞬間


天守台の上に登ってみました。高い所は嫌いだけどスケルトンじゃなきゃヘリに立たなければ平気よw

二俣城は文亀年間、今川氏が遠江攻略の拠点として城館を置いたのが始まりと言われています。
永禄11年(1568)、家康が遠江に侵攻してこれを奪いますが、遠江の平野部と北遠の山間を結ぶ
交通路の要所に位置する「扇の要」をめぐり、以降、武田と激しい攻防が繰り返されました。

元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率いて二俣城を囲みました。武田軍は猛攻を加えますが、
天然の要害に建つ城の守りが固いため、水の手を絶つ作戦に切り替えます。二俣城では天竜川に
井桜を組んで水をくみ上げていることを知った武田軍は上流からいかだを流して井桜を破壊。
攻撃開始から2ヶ月で二俣城は陥落し、信玄は依田信守・信蕃父子を入れて守らせました。

三方ヶ原の戦いはこの数日後・・・黙ってられなかった家康の気持ちも分かるような気がします。

すごい武将だった瞬間


まだ流れてる城の解説を聞いてアレコレ思いだしたり想像しつつ、でもシミの心配もしていますw

天正3年(1576年)5月、長篠の合戦で勝利した家康は二俣城奪還に着手。6月には鳥羽山に本陣を置き、
毘沙門堂・蜷原・渡ケ島に砦を築いて包囲します。武田方は必死に抵抗をしますが、8月には二俣城の
東にあった武田の拠点である諏訪原城が落とされ、依田信守も病死。子の依田信蕃は守り続けますが、
12月、兵糧が尽きるとすべての城兵を助けることを条件として開城、信蕃は高天神城に退去しました。

二俣城は誰が攻めても水の手を切るとか兵糧攻めにするとか、城を包囲して長期戦のつもりでいないと
落とせないってことですね。兵糧が尽きたのを機に「信蕃は去ってもいいから明け渡せ」って
いうくらいだから、家康さんもよーーっぽど痺れを切らしてたんだろうね。落ちなさ過ぎて。

依田信蕃は天正10年武田家滅亡の直前には城将として田中城に入り、またも固い備えで守っていました。
家康は武田を離反して川方についた穴山梅雪に勧告を届けさせて交渉を続け、勝頼自害の後、
ようやく開城となりました。交渉の時、家康は「信州に本領を与える」と条件を出しますが、
信蕃は「主家の安否が分からぬうちは」と拒否し、自領の佐久郡芦田に引き上げたそうです。

武田家滅亡後、信長が旧武田家臣に強行姿勢を取ったため、家康は信蕃を二俣の小川郷に蟄居させます。
そして本能寺の変後、信蕃は家康に仕え旧武田家臣の取り込みや、北条家との戦いで活躍しました。

依田さんね、ぶれないんだけど頑固一徹とか勝手に燃えてるみたいな暑苦しさとかがなく、
余裕があるっていうか、スマートっていうか・・他の武田家臣とちょと違う雰囲気がいいのよ。

センスがなかった瞬間


本丸南側の虎口を抜けて、二の丸の方に行ってみます。南側の虎口は枡形になっているのですが・・
写真の角度が著しくズレてるわw さっき見た食い違い虎口は北東側の入り口になっています。

こじんまり薄暗かった瞬間


奥に見えてる盛り上りが虎口から続く本丸との境目側。たいした段差じゃないですねw

武田VS徳川の争奪戦の舞台となった二俣城では、家康の嫡男信康の自害という出来事もありました。

武田に内通したとして信長に謀反の疑いをかけられ信康は居城である岡崎城を出され、
家康の命により天正7年(1579)9月15日ここ二俣城で自刃ししました。享年21歳。

ん?・・う〜ん・・だった瞬間


二の丸にある大手虎口・・なんとなく違和感ある気がするけどまぁいいかw
櫓台が綺麗に残っていますね。こちらもおそらく堀尾氏の時代に作られたものだと思います。

ヤブすぎた瞬間


二の丸大手虎口を降りると蔵屋敷跡に続く坂道が続いていて、途中にはまた堀切がありました。
入り口で見た堀切と比べてこっちはジャングル度が高く、現場で見てもとてもわかりづらかった。

トラウマになっていた瞬間


わっ出た!! 雑草だらけの細い坂道を途中まで降りたんだけど、これを見て完全に戦意喪失。
今回の夏の陣は高取城でのリアルマムシ遭遇に始まり、最後にもマムシの恐怖で終わるという・・
蔵屋敷跡と南曲輪が当時のままらしいけど、雑草すごいし危険だから今回はやめておきます。


2013年8月の2泊3日で行った夏の陣はこれにて終了〜〜!!(遅っ)

今後のエントリー予定は群馬出陣岩村城苗木城高遠攻め、放置中の埼玉地味城ツアー続編の予定ですw


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2013.11.09 Saturday 14:37 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

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2020.02.14 Friday 14:37 | - | - | - |