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沼田城に登城!

[城跡] ブログ村キーワード

小幡城の次は信越から関越と高速をかっ飛ばして沼田城へ!!

危機一髪だった瞬間


公園の駐車場に停めれるだろうと思っていたら、何とかフェスティバルの真っ最中・・Σ(゚Д゚)!
駐車場、その辺の有料駐車場もれなく満車。おまけに近くの道路は狭いし駐車禁止区域。
正直、沼田城は何度も来たい感じの城跡ではないので、駐車できず撤退>リベンジとかは避けたい。
と思ってしぶとく周辺をうろついていたら、臨時駐車場の小学校に偶然するっと入れて超ラッキーw

萎え萎えの瞬間


5分くらい離れた小学校からまた沼田城の公園に戻ってきました。何とかフェスティバルは
沼田城でやってるわけじゃないらしいんだけど、バンドの演奏とか聞こえてきて雰囲気台無し。
ちなみに人々が見てるのはテニスの試合。写真の奥が本来二の丸で今はコートになっているの。

ムードぶち壊しだった瞬間 


本位じゃないけどバンドをBGMに登城開始します('A`) まずは公園入口の前にある本丸跡。
完全に公園化されちゃってるので、石標がなかったら普通に入場してしまいそうな。

夢見る風景だった瞬間


今回はあんまりいい縄張り図が見つからなかったので、見るところだけチェックはしたけど、
完全に手さぐり登城。とりあえず本丸へ乗り込み、鐘楼目指して歩いていくことにします。
この風景見る限り、江戸城以外で関東唯一の五層天守があったとは思えない公園チックさよ。

たいした興味はなかった瞬間


沼田城のシンボルとなっている鐘楼。元は城内にあって廃城の時に取り壊されましたが、
沼田町役場が楼を建てて時の鐘にして「鐘楼堂」と親しまれ、昭和58年ここに復元されたのだとか。

管理が残念だった瞬間


色あせすぎな城内図の案内版。沼田城は当時、蔵内城と呼ばれたそうです。
慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ、各種櫓や門などを備えた城郭でしたが、
現在は破壊が著しいと言われ、公園化で整備はされたものの、残念な感じみたいです。

唯一の目玉だった瞬間


そんな沼田城、最大の見どころが真田氏時代の本丸西櫓台石垣。5代城主信利の改易により、
翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、
300年以上を経て再び往時の姿を現わしたのである・・・と案内版に書かれていました。

思いは信之じゃなかった瞬間


南側に回ってみました。沼田城っていったらここの櫓台の写真が載ってることが多いよねw

沼田城は天文元年(1532)、周辺を支配していた豪族沼田顕泰によって築かれました。
関東に至る要衝の地であった沼田は上杉氏、北条氏、武田氏による争奪が繰り返されますが、
天正8年(1580)武田勝頼の家臣だった真田昌幸が沼田城を攻略し、武田滅亡後、独立すると、
城郭の規模を広げました。当時、時節の流れで徳川に従っていた昌幸ですが、徳川と北条が
和議を結ぶ際、沼田を北条に譲ることを命じられ、これを拒否。第一次上田合戦へ発展します。
昌幸はメンツをつぶされ全力で攻め寄せる徳川7千を相手に一歩も引かず、これを撃退。
上田城で徳川軍に大勝利し、天正15年、長男の信幸(後の信之)を沼田城主として入城させました。

ちなみに昌幸が時節の流れで徳川についたのは、二俣城のところでご紹介した旧武田家臣、
依田信蕃の働きかけによるもの。昌幸と信蕃は徳川VS北条の戦いで東信濃でゲリラ戦を展開し
北条の補給線を寸断。これにより徳川は圧倒的に有利となり講話が成立しているんだけど、
そうした経緯がありながら、家康が勝手に北条に沼田を渡す約束しちゃったもんだから
昌幸さんが怒るのも当たり前。依田信蕃はこれより2年前に銃弾の傷が元で死去しています。

真田太平記を思いだす瞬間


天正17年(1589)北条氏との間に新たに領土争いが起こると、豊臣秀吉は北条氏に上洛を促すため、
昌幸に沼田城の明け渡しを命じます。昌幸はこれに従い、沼田城には北条氏の重臣・猪俣邦憲が入り、
真田家臣は名胡桃城へ移ることになりました。しかし邦憲は同年、和議を無視して名胡桃城を奪います。
これをきっかけに秀吉は北条征伐(小田原の役)を決定。北条滅亡後、沼田城は再び真田の城になりました。

手探りすぎた瞬間


櫓台の北側から見た鐘楼方面。縄張り図ないからどの位置にあたる所を撮ったのか怪しいけどw

その後、関ヶ原の合戦で東軍についた信之上田領も加えて9万石の大名となって城を整備。
沼田城は関東西方の押さえとして機能しますが、元和8年(1622)信之は信濃松代10万石へ転封。
沼田3万石は真田分家が継ぎますが、5代藩主信利の時、悪政と両国橋の架け替え工事の材料調達
遅延を理由に改易され、廃城。幕府の命で徹底的に破棄されてしまいます。

元禄16年(1703)本多氏が4万石で入封し沼田藩は復活しますが、幕府の交付金で三の丸に屋形が
建てられたのみ。黒田氏・土岐氏と替わって明治にいたり、版籍奉還し館も取り壊されました。

盛り上がってきた瞬間


本丸から古城と呼ばれる捨曲輪に向かいます。間にある空堀は深いんだけど・・わからないよね。
古城は真田昌幸の頃、初期の沼田城の本郭だったと言われているところ。そうこなくっちゃ!

愛が足りなかった瞬間


本丸の北側に位置する捨曲輪。本丸よりは若干、低い感じになってるみたいです。

沼田城って見どころ少ないのに「真田の城」として盛り上げようって感じがどうも希薄。
六文銭の旗とか幟の1枚も見てないし、地元愛的な感じだって全体的にどうも足りないね。
信之が後に転封した松代の方が盛り上がっていた。真田太平記でもさんざん出てくるのに。

昌幸イズムに浸る瞬間


こちらは捨曲輪にある「平八郎石」。沼田平八郎景義の首級を載せたと言われる石です。

平八郎景義は沼田城主12代顕泰(あきやす)の側室の子。顕泰は城を嫡子・朝憲に譲り、
平八郎を連れて天神城へ隠居しますが、叔父の金子美濃守にそそのかされ、朝憲を呼びよせて謀殺。

そのため顕泰・平八郎は沼田勢に追われて天神城を焼き、会津芦名氏の元へ逃げこみましたが、
12年後の天正9年(1581)沼田城を真田氏から奪還すべく、上州諸豪族の助成を得て挙兵。
三千の兵を率いて沼田城奪回を開始します。平八郎は摩利支天の再来と言われる勇将でした。

戦っても勝てないと考えた昌幸は、強欲な金子美濃守に1000貫の恩賞を約束し「城を明け渡す」と
偽る芝居をさせます。叔父・金子美濃守の言葉と偽物の沼田城士の血判状を見た平八郎は信用し、
沼田城に入りますが、水の手曲輪で襲われ殺害されました。

面白すぎた瞬間


昌幸は首実検の後、沼田氏旧臣の離反を恐れて遺骸を小沢城址に葬り、沼田大明神として祀りました。

首を載せるには安定感が悪そうだけど、そりゃどうでもいいねw 平八郎さんは気の毒だけど、
それ以上に昌幸さんが沼田を攻略するところは謀略が冴え冴えでバツグン!しびれます。
真田と言ったらワタクシ昌幸パパと幸村さん。信之さんにはないダーティな魅力がいいですw

ちなみに以前、北条氏邦さんのお墓(正龍寺)のエントリーで、沼田城主をめぐる問題によって、
氏邦さんが邪魔な用土重連を毒殺し、恨んだ弟の信吉が武田に寝返った話を紹介しましたが、
実はそれが昌幸の沼田城攻略の時なんです。用土信吉はもともと関東管領重臣であった名家藤田家の子。
藤田氏が氏邦を養子に迎えたことで用土を名乗る羽目になった上、兄を殺され怒り爆発だったんでしょうね。

そこへ武田勝頼の命を受けた昌幸が攻略にやってくる。兄に代わって沼田城代を務めていた信吉は
真田家重臣の矢沢頼綱に包囲されると、昌幸の誘いに乗って開城。沼田城に昌幸が入ったところに
平八郎が城を取り戻しにきたと・・ここだけで本が1冊出来そうな盛りだくさんさ!お腹いっぱいw

いい加減だった瞬間


捨曲輪から見たほぼ北側の風景・・・向こうに見える山のどれかの裏に名胡桃城があるはずΣ(゚Д゚)!
ま、ま、ちょっとズレてるかもしれないけど、名胡桃城は山越えてすぐだよって距離感が分かればw

ついでだった瞬間


捨曲輪の東端にお堂がありました。いわれのあるものかと見てみると天狗堂と書かれています。
どうでもいいかな〜と思ったけど、奥の空堀が見たいから進みがてらちょいとのぞいてみることに。

よく分からなかった瞬間


うわ、でかっ!! 中を覗くと顔の長さ3mの天狗面がありました。鼻は1.4m、重さ1トンだって。
迦葉山の大天狗面の分身として作られたそうですが・・・まぁワタクシ的にはどうでもよかったがw

残ってよかった瞬間


そのお堂の裏には規模の大きな空堀が残っていました。すぐそばまで住宅街が迫りくる曲輪東側。
沼田城は崖に面する本丸や捨曲輪が一番西にあって、東側に保科曲輪、二の丸が続く縄張だった様子。
隣は完全に住宅地と化しているけど、初期の沼田城の本郭と言われる雰囲気はある気がしました。

この後、天守台があったという場所に行ってみたけど、神社があるだけで天守台石垣もない上、
小学生の男の子が数人、鳥居の下に座ってゲームしてたので写真は撮らずに終了しましたΣ(゚ロ゚;)

微妙すぎた瞬間


最後に公園入り口の駐車場横にある三の丸跡の土塁を見ました。この向こうが堀跡らしいけど、
完全に単なる駐車場の境界にされてますね・・三の丸も道路や住宅地になっている現在です。

それでも納得だった瞬間


堀跡側から見た三の丸土塁。奥は下がっていくので本丸や捨曲輪の西側が崖になるわけです。

沼田城は城跡として見ると少々残念な感じがするけど、真田の城という思い入れを持って
戦国ドラマチックを妄想しながら、その舞台に立つっていう登城でよかったのかなとw


勝手に納得したところで、次は昌幸さんの謀略にうっとりしながら名胡桃城へ!!
あ、でもその前にその昌幸さんを追い返した女丈夫「小松姫」のお墓に寄るんだったΣ(゚Д゚)!
真田太平記を書いた池波正太郎に、今さらながらお礼を言いたい気持ちになりますね。


正覚寺にて小松姫のお墓参りに続く




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2013.11.24 Sunday 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | 関東(群馬県) | 

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