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高天神城に登城!

横須賀城がロックオンしていた高天神城にやってきました。

ナビがイケてなかった瞬間


ワタクシは追手門から登城したかったの。ナビの史跡ジャンルで高天神城があったので
言われるままに走って到着→張り切って車を降りたら、なんとまさかの搦手側・・Σ(゚ロ゚;)

切り替えが早かった瞬間


今から南口探してうろつくのも面倒だし、よく考えたら勝頼が攻めこんだのは確か北側から・・
と怪しく勝手に納得して、搦手門跡を通り、勝頼気分で気合いを入れて登って行きます。

デカすぎた瞬間


高天神城の全貌はこんな感じ・・ここに搦手口書いてないから現在地がおかしなとこにあるけど、
まずは井戸曲輪の右側あたりにある切れ込みみたいになってるところを目指すのね。
そっから本丸側へ行くのと、井戸曲輪から西の丸は二の丸やらに行くのと二手に分かれるという・・

息切れしていた瞬間


高天神城は普通に山城・・山城好きのくせに登りの苦手なワタクシは身軽なくせにもう苦しい。
勝頼は・・大将自ら攻めこんじゃいないだろうけど、武田軍はえらい難儀な思いをして戦ったのね。

足りそうになかった瞬間


搦手口から上がってくると途中に三日月井戸がありました。武田勢が高天神城に籠城した時、
水乞いの祈祷をこめて作られたものなんだって。今も岩から染み出す水で枯れないそうです。

気になる瞬間


小さいし井戸には見えないんだけど形がちゃんと三日月なの。武田って三日月好きだよね。
何か意味あるの? 誰の趣味・・てか誰が三日月好きなの? ちょっぴり気になります。

運命の別れ道だった瞬間


三日月井戸の先に進むと、とりあえず本丸方面と西の丸方面に分かれる部分に到着!!
写真左に行くと本丸、右に行くと西の丸、まっすぐ行くと追手門の方に行くんだけど、
ワタクシが登城した2013年12月は遊歩道が崩落していて通行止めになっていました。

うるおいがなかった瞬間


ワタクシはとりあえず本丸を目指しますが、その前に大河内石窟を見ていくことにします。
それにしても高天神城はゴツゴツしている上、カッサカサ。激しい戦いの舞台らしい感じです。

ディフェンス重視だった瞬間


上がって的場曲輪から下を見下ろしたところ・・・尾根に雛段城に曲輪がある高天神城。
堅城過ぎて信玄が落とせなかったほどだから、勝頼にしろ家康にしろ攻める側は難儀すぎですね。

高天神城は戦国期、「高天神城を制するものは遠州を制す」と言われた重要拠点にあったため、
駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。

高天神城は元は今川氏の城でしたが、今川氏滅亡によって城代小笠原長忠が家康方につくと、
元亀2年(1571)、武田信玄が2万の兵を率いて侵攻、しかし守りが固く信玄は撤退しました。
信玄の死後、今度は天正2年(1574)に勝頼が2万の大軍で攻めこみます。小笠原長忠は籠城して
援軍を待つものの家康は来ず、城兵の命を救うため勝頼から出された和議に応じ開城しました。

頑固一徹すぎた瞬間


大河内政局石牢道入り口。大河内さんはと徳川方の軍監で、小笠原長忠が開城した時に
ひとり城に残って武田の服従命令に従わなかったため、石牢に幽閉されてしまった人です。

解脱していた瞬間


これが大河内さんが幽閉されていたという石牢・・狭っ!! 家康が高天神城を奪還する
天正9年(1582)まで、なんと7年もこんなところに閉じ込められていたんだそうです。
助け出された時には歩行困難・・・大河内さんの義に感じた武田の軍監、横田甚五郎が
こっそりもてなしていたらしいけど、それにしたってねぇ・・いったいどんな精神力が?
従ってしまえば苦しい思いをしなくて済んだのに・・生粋の徳川家臣って感じだね。
同じような思いをしながら黒田官兵衛ほどメジャーじゃないのが気の毒なくらいだわ。

ちなみに武田軍監の横田さんは鬼美濃こと原虎胤の孫。武田滅亡後は徳川方について
旗本になります。すんなり徳川についたのは大河内さんのことがあったからなのかもね。

すさまじすぎた瞬間


大河内石窟から戻って今度は本丸に向かいます。本丸虎口もカッサカサです。
岩盤の上に乾いた固い土があるような感じだから建物作るの大変だったかもしれないね。

高天神城を手に入れた勝頼は改修を行って守りを固め、遠江の防御拠点とします。
しかし天正3年(1757)長篠の戦いをきっかけに武田家が衰退すると家康は高天神奪回を開始。
天正8年には横須賀城他、6つの砦を築いて高天神城を包囲し、補給路を断って兵糧攻めの態勢を固めます。

城将岡部元信は何度も援軍要請をしますが、当時、北条にも攻められていた勝頼に余力はなく、
孤立無援のまま10か月が経過。降伏を申し出るも家康に拒否されると、岡部元信以下800人は
城外へ総攻撃を行い、ことごとく討死しました。高天神城はこれを最後に廃城となりました。

微妙だった瞬間


すっごい広いってわけじゃないけど城内では一番大きい本丸。周囲には土塁も残ってるんだけど、
削られちゃったのか何なのか分からないけど、盛が小さくて「何とか残ってます」くらいです。

続・微妙だった瞬間


本丸にある城址碑がこちら・・汚れがひどくて全く読めないけど「高天神城址」って書いてあるの。
皇太子殿下成婚記念で建立したらしいんだけど・・それは城址碑じゃなくてもよくないかってw

人生を学んでいる瞬間


案内板には「徳川方で小笠原さんが守って落城>武田方の城になるけど兵糧攻めで全滅」の流れが
ざっくり書かれています・・武田全滅の時、城兵は最初1000いたのが最後に800だったそうです。
援軍の見込みも食料もない上、降伏すら許されない。そして横須賀城から出張っているのは本多忠勝だ。
そりゃ逃げたくもなる。惜しまにゃいかん名がありゃ別としてw 逃亡兵200は少ないのか、多いのか・・

余談だけど高天神への援軍を出すか出さないかって時、真田昌幸は重臣みんなが反対する中、
一人出すべきだって主張したんだよね。智謀の人はやっぱ人の心の動きも把握してるのよ★

助けてくれない前提なら誰も籠城なんてしない。すぐ降伏開城されたら城はどんどん取られてしまう。
だから助けようとする行動見せるのが大事なんだよね、結果、間に合わないとか行けなかったとしても。

謎すぎた瞬間


御前曲輪に来ました。本丸と続いているけど本丸より一段高い東側の最高所にある曲輪です。
この下にこれから行く三の丸があります、追手から登ると三の丸、御前曲輪、本丸になってるので、
御前曲輪はなかなか大事な曲輪かと。たいして広くもないけど高所ってのがきっとポイントね。
小笠原与八郎長忠と奥方のパネルがあります。小笠原チョイスも顔出しパネルってのも微妙なw

攻めにくそうだった瞬間


御前曲輪から三の丸に行く途中は細い道で片側はこんな断崖。帯曲輪みたいのがあるけど絶壁です。

台無しだった瞬間


三の丸に到着! 狭いところにトイレとか休憩所の建物が建ってて雰囲気がイマイチです。
周囲には本丸同様に土塁が残っています。でも奥とか見えるかな?土塁感は割とあるかと。

転落注意だった瞬間


三の丸から城東側に広がる風景。高天神城は標高132メートル。高さとしては高くないけど、
西以外は断崖になってるし、尾根も入り組んでるし、やっぱり険しいという印象が合いますね。

スルーを決める瞬間


三の丸から最初に来た二手に分かれるところに戻り、今度は城の西側の方を見に行きます。
まず井戸曲輪。真ん中が井戸、左奥の階段上がると西の丸跡で今は高天神社があるようですが・・パス。
そして階段の左奥を進むと甚五郎抜け道というのもあるのですが、それもパスしておくことに。

甚五郎抜け道というのは、大河内石窟のところで紹介した武田の軍監横田甚五郎さんが、
高天神落城を勝頼に知らせるために通った道なんだそうです。犬戻り猿戻りと言われる難所で
ワタクシは写真を見て超悪路だと知っていたので、抜け道はどうでもいいわ〜と思ったの。

死闘を思う瞬間


高天神城合戦将士英魂之碑と書かれた石碑がありました。激戦が繰り広げられた高天神城では
名のあるなしに関わらず、たくさんの兵が散っていったんだよね・・いや、戦いはみんな同じか。

危険すぎた瞬間


それでは井戸曲輪の右手に進んで二の丸方面に行ってみましょう。「ガケ地危険」の看板あるけど、
この道がまた細くて、右側は搦手口方向で断崖絶壁・・マジしゃれにならない感じなんです。
攻めこむ方も大変だけど、城兵だってアワアワなってたら足踏み外しかねないデンジャラスさ。

しっかりしていた瞬間


奥に縦長で斜面になってる二の丸は狭い感じが。高天神攻めは西側が激戦だったと言います。
三方が断崖絶壁で西だけ尾根続きになっているので、攻めるとしたら西が一番マシだったのね。
縄張を見ると尾根伝いに曲輪を次々配置して弱点はちゃんとカバーされてはいるみたいだけど。

まるで付属品だった瞬間


二の丸の北側に超小さい袖曲輪があって、その北にさらに堂の尾曲輪が続くんだけど、
堀切があって直接行けないので、袖曲輪から下に降りてそれをちょいと見てみましょう。

フォーカスされていた瞬間


右が二の丸、左が袖曲輪。尾根伝いに上ってきてもそうそう簡単に通しませんよって感じで。

降りたすぐ下にあるのが本間八郎・丸尾修理兄弟の供養塔。二人は天正2年の勝頼による高天神攻めの時、
堂の尾曲輪で指揮をしていた兄の本間八郎が朝日にあたって輝いた兜を目印に狙撃され、後を引き継いだ
弟の丸尾修理も指揮の最中、鉄砲で撃たれて亡くなったという・・・武田も鉄砲バンバン使ってたんだね!

力が入っていた瞬間


でこれが袖曲輪と堂の尾曲輪を遮断する堀切・・すごい!! 尾根を切り開いて作ったって。
普段はここに橋が架かっていて、今は無理だけど当時は曲輪間の行き来ができたんですね。

もはや弱点ではなかった瞬間


その手前には土橋があって両サイドは空堀になっています。堂の尾曲輪は横長の曲輪で、
曲輪にそってずっと空堀が続いていて。二の丸から先は縦に曲輪が配置されているので、
西側の斜面から登ってきた敵に備えて、そちらに面する部分に空堀や横堀があるんですね。

探しちゃった瞬間


最後にやっぱり追手門も見たいな〜と思って、観光マップを片手に南口駐車場を探しましたw
方向音痴まで行かない(と思ってる)けど、かなり怪しいワタクシにしては上出来だったわ。

マメだった瞬間


三の丸はさっき見たから、この図で追手門のところまで行けば完了ということでw 
高天神城は国史跡ってことで案内板やら何やらが充実してるのはありがたいです。

狭すぎた瞬間


細い山道を少々進むと、ほどなく追手門跡に到着! スペースは案外狭いです。
天正9年、武田方が討死を決めた最後の出撃の時に徳川方が追手櫓門を焼き落としたそうな。

手薄そうに見えた瞬間


登ってくると追手門のところで急にギューンとカーブしてますね。追手口はこの門があって、
その先はもう三の丸、御前曲輪、本丸になるのが心もとない感じがするのは素人だからかな。

気合いは感じられた瞬間


カーブを登ったところに着倒櫓跡という狭いスペースがありました。着いたら倒すってことかw
追手門を抜けてカーブを進んで侵入してくる敵をここで待ち構えるという感じなんですね。
左手の土塁はなかなか盛られてます。曲輪ってほどの場所じゃないにしろ、この頭上にも
また狙いポジは用意されてたんだろうね。そんなに簡単に突破できる作りなはずないもん。


二俣城横須賀城、高天神城、そしてこれから行く諏訪原城と武田VS徳川攻防の舞台の中で
特に実際に体感したいと思ってた城が見れました。見知っていたことがさらにリアルに思えました。

武田VS徳川って戦いの中に色んなドラマがあって、どちらも命がけで必死に戦っていながら、
結局、最後に笑ったのは徳川だから、勝頼残念みたいになりがちなのが少々悲しい感じ。
ワタクシあんま家康自体は好きじゃないし、勝頼もダメと思わないので思うところもありますねw


と思いながら次なる諏訪原城へ向かいます。武田のお城・・また川にやられちゃうんだな(´Д`)


諏訪原城に登城!〜その1 大手曲輪から二の曲輪に続く




2014.01.27 Monday 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) | 中部(静岡県) | 

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