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2020.02.14 Friday  | - | - | - | 

本住寺にて加藤忠広のお墓参り

鶴ヶ岡城の次は清正の子、加藤忠廣のお墓参りに本住寺にやってきました。

危うかった瞬間


住宅街の中の狭い道路沿いにひっそりあるので通り過ぎそうになりましたw
こちらには清正の子忠廣さんとその生母正広院のお墓があるのです。

こじんまりしていた瞬間


創建は不明ですが、永正13年(1516)浄土真宗から日蓮宗の寺院に改宗されたそう。
清正が埋葬された天澤寺と違い、加藤家の宗旨なので菩提寺としてしっくりきます。

本住寺は改易された忠廣さんが庄内藩預かりになった時に仮住まいしていたお寺で、
ここ鶴岡(丸岡城で暮らして亡くなったため、日蓮宗だった本住寺に葬られたそう。

迷いようがなかった瞬間


お二方の墓所は本堂の左手から墓地の方に向かったところにありました。
写真撮り忘れたけど入口に案内もあったし、すぐ見つかる場所でよかった。

気になる瞬間


お墓は土蔵造りの御霊屋の中にあります。新し目できれいな霊屋です。
元がどうだったとか霊屋自体の説明がないので建て替えか後付かは不明。

指定されていた瞬間


母子の墓は1986年に鶴岡市史跡に指定されました。本住寺には墓碑の他、
刀剣や甲冑、掛け軸など加藤家所縁の品が寺宝として納められているそう。

ほこりっぽくなかった瞬間


土蔵の扉は開いているので内扉越しに霊屋の中を見ることができます。
左が忠広さん、右が正応院のお墓。すごいお手入れが行き届いている!

波乱の人生だった瞬間


正応院は加藤清正の側室。玉目丹波の娘で忠広と八十姫を生んでいます。
寛永9年(1632)の加藤家が改易されると忠広とともに丸岡で過ごし、
慶安4年(1651)6月死去。一時、丸岡の屋敷に葬られ、本住寺に埋葬されました。

生年不明でハッキリしないけど、享年は70才前後って感じでしょうかね。
八十姫(瑤林院)は元和3年(1617)、川頼宣の正室となり66才まで生きました。

不運すぎた瞬間


忠広は加藤清正の三男。兄2人の早逝により、慶長16年(1611)清正が亡くなると
11歳で肥後52万石の当主となりますが、寛永9年(1632)5月、突如、改易を命じられ、
出羽庄内藩にお預けとなります。忠広主従は庄内藩酒井家が建てた丸岡の屋敷に暮らし、
幕府から許されることもないまま、承応2年(1653)に亡くなりました。享年53歳。

改易の理由はお家騒動とも言われるけど、要するに幕府に狙われたんだよね・・

巡りあわせで幼少のうちに偉大な父の後継者になり、何だかわからんうちに
アレコレ言いがかりつけられて、しまいには堪忍料1万あてがわれて改易・・・

もうホント、色んな意味で不運すぎる(*°∀°)=3

丸岡での暮らしは和歌や音曲に親しむ悠々自適の生活だったと言われます。
52万石を自分の代で潰した無念さもあれば、肩の荷が下りてホッとしたり、
色んな屈託を抱えながら、風流に日々を過ごすしかなかったんでしょうね・・

腹時計がなる瞬間


鶴岡での昼食はFBで見て予約しておいた安兵衛寿しへ。
ワタクシが入って少しした頃に、後から後から人が来ていっぱいに!

お得すぎた瞬間


ワタクシが頼んだのは安兵衛御膳2200円。ランチで一番高いけど奮発!
刺身、天ぷら、焼き魚にあら汁、握り寿司に茶碗蒸しとデザートでお得。










お腹いっぱいになったところで次は酒田市に移動します。


城輪柵へ登城!〜に続く。


Writen by あも Love城! Go!名所旧跡




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2017.11.17 Friday 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

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