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勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り

大谷吉継の首塚の後は、元祖バサラ大名、佐々木道誉のお墓参りへ。
京極家墓所で拝めなかった分、甲良町にある道誉の本拠地に乗り込んでリベンジです!

乗り込む瞬間


勝楽寺は暦応4年(1341)、佐々木道誉を開祖として建立された臨済宗のお寺。
寺名は道誉の法号、勝楽寺殿徳翁道誉から取られたそうですよ。

当時は居館もあり、道誉は41歳から78歳で亡くなるまでこの地で過ごしました。
この山門は後ろの山にあった勝楽寺城の城門を江戸時代に移築したもの。
信長の六角氏攻めの時に焼き払われ、山門だけが残っているそうです。

残念すぎた瞬間


山門をくぐった先にある本堂は新しめ。中には道誉の肖像画があるんだけど、
普段は見られないみたい。本物は国重文で京都国立博物館で見れるんだって。

盛り上がる瞬間


勝楽寺のある周辺は「道誉の郷」として、ただいま絶賛盛り上げ中w
道誉「四ツ目結紋」のついた旗(何色もある)があちこちに立っていました。

ややこしい瞬間


道誉さんのお墓は分かりやすく、本堂左側を進んだところにありました。
手前にはツツジが咲き誇ってたけど、墓域はなんとも渋目な佇まいじゃない?

佐々木道誉は北近江守護、近江源氏佐々木氏の分家である京極家の5代当主。
本家が六角を名乗ったので佐々木六角氏、佐々木京極氏と区別されたらしく、
京極道誉とも呼ばれます。「道誉」は出家後の法名で俗名は「高氏」さんです。

色々混ざると分かりづらいから、ワタクシは「佐々木道誉」でいっとくね!

バサラは外せなかった瞬間


鎌倉末期、南北朝時代の武将で落髪して道誉と号し、足利尊氏に従って大功をあげ、
京極家の地位を確立。茶や狂言文学などのたしなみも深く「バサラ」と呼ばれた・・・

お墓の入り口にある説明が、めっちゃダイジェストだった件(*°∀°)=3

幼くして京極家の家督を継ぎ、鎌倉幕府の執権、北条高時に仕えた道誉は
嘉暦元年(1326)高時の出家とともに出家し、30歳で「道誉」となりました。

道誉は出家後も北条家に仕え、元弘2年(1332)討幕に破れた後醍醐天皇が
隠岐に配流される際の警護を行うなど、幕府側としての務めを果たします。

しかし元弘3年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が、再び討幕を呼びかけると、
呼応した足利尊氏に従って反旗を翻し、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、道誉は雑訴決断所奉行人となりますが、
新政権に参加しない尊氏が天皇に反旗を翻すと、朝廷側として出陣しながら、
土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍の勝利に大きく貢献します。
そして尊氏が幕府を開くと、道誉は若狭、近江など要地の守護職を歴任し、
尊氏、義詮と2代にわたって足利家に仕え、政権を支えました。

風流だった瞬間


こちらが道誉さんのお墓。苔むした宝篋印塔は南北朝期のものだそうで、
約700年もの間、雨風ときどき戦火にさらされた風化具合がハンパない!
豪華できらびやかな「バサラ」廟より、むしろあってる気がするって思った。

「婆娑羅(バサラ)」っていうのはサンスクリット語から来ている言葉で、
この時代には「派手、乱暴、無遠慮、型破り」の意味で使われたんだって。
道誉さんはその圧倒的ナンバーワン! で「バサラ大名」と呼ばれたのね。

派手な服装をして権威を恐れぬ破天荒なふるまい。やること全てが豪奢豪快!
太平記から有名なエピソードをひとつ、超ダイジェストでご紹介します。

暦応3年(1340)10月、鷹狩の帰途、門跡寺院の妙法院を通りかかった道誉さん。
寺の紅葉があまりにキレイだからと、家来に命じて一枝折らせたところ、僧が出てきて
「御所の枝を折るとは何だ!」と怒りだします。すると「御所って何よ? 片腹痛し!」
と道誉さん嘲哢しながら、さらに太い枝を折らせたもんだから僧侶たちは大激怒! 
紅葉の枝を奪い取ると、家来をフルボッコにして門外に放り出しました。

「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を」

キレた道誉さんはその夜、300の手勢で妙法院を襲撃し、焼き払ってしまいます。
道誉の息子なんて逃げ惑う門主の若宮までボコボコにしたというからすごい!
相手がダレでも関係ないし、権威に負けて引き下がったりもしないわけです。

普通に考えたらすごい暴挙だけど、当時の人々は「ざまみろ!」って大喜びw
妙法院の本山は比叡山延暦寺で、権威を笠に僧兵が乱暴するから嫌われてたのね。

しかし比叡山延暦寺が黙っているはずもなく、道誉父子の死罪をしつこく要求。
朝廷から処分を求められた幕府はやむを得ず罪一等を減じ、上総への配流とします。

ところが道誉さんは消沈するどころか、上総へ向かう道中に300人の供を連れ、
全員に猿の皮で作った腰当と矢入れをつけさせ、鶯のかごまで持たせて出発すると、
道々で酒宴を催し、宿では遊女を呼んで、流人と思えぬバサラ行列で大行進!

猿は比叡山の日吉神社のお使いだから、道誉さんあてこすりも規格外(*°∀°)=3

結局、道誉さんは上総に行かず、翌年には京に戻って幕政に復帰してるので、
配流は尊氏と示し合わせた事かもしれないけど、バサラ風味が痛快すぎ!

アトラクティブだった瞬間


オレ様流で破天荒な道誉さんはまた、当代きっての一流文化人でもありました。
華道、茶道、香道を極め、連歌の腕も超一流。笛や猿楽の保護にも熱心で、
観阿弥世阿弥のパトロンとしてその後の文化にも大きな影響を与えました。

そんな道誉さんは晩年、大原野で人々が仰天するド派手な大蕩尽会を催します。
政敵の管領斯波高経が将軍御所で花見の宴をやるよ!って言ってる日にあえてw

4本の桜の根元に巨大な花瓶を置いて活け花に見立て、香木一斤を焚上げ!
会場は豪華絢爛に飾りつけ、贅をこらしたたくさんの料理や名菓、美酒を並べ、
都中から集めた猿楽師や白拍子の芸を楽しみ、夜は松明をともして大騒ぎ!

人々はうっとり夢見心地で「さすがバサラの道誉」と都中の評判になり、
完全に面目をつぶされた斯波高経は、大いに悔しがったといわれています。

権勢をふるって気に入らない高経をギャフンと言わせた道誉さん(*°∀°)=3

これをきっかけに対立が深まると、政治闘争で高経をやっつけて、
細川頼之を管領に推挙して隠居。応安6年(1373)78歳で亡くなりました。

私本太平記ではしたたかで食えない所を強調して描かれた場面も多いけど、
北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、義詮ともれなく時の権力者につかえて、
カオスな時代を生き抜いた道誉さん。ワタクシはこういうの好きな方だしw

へたれな瞬間


お寺の裏手には勝楽寺城跡があります。応安元年(1368)道誉さんが
高築豊後守に命じて築いたもので、信長の六角攻めで廃城になっています。

ハイキングコースとか気楽な感じに見えるけど、結構きついらしい(あも調べ)。
少し遺構も残っているようだけど、ワタクシは墓参りだけで満足ですw


甲良町といえば高虎出生地の高虎公園も近いのでめぐりの際はぜひご一緒に!

でもワタクシは今回、北近江の取りこぼし回収めぐりなので、
立ち寄りたい思いはしつつも、今回はスルーして次へ移動します!


八幡山城へ登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.09.07 Friday 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

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2018.09.23 Sunday 17:36 | - | - | - |