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横手にて本多正純のお墓参り

横手城からお城の東南の方にある本多正純のお墓にやってきました。
お城からも歩きでこれなくないけど、駐車場に戻ることも考えるとなかなか遠い!
で、事前調査でよくよくよーく調べたら停められそうだったから車で来てみた。

ホッとする瞬間


横手公園からいったん外に出て、ワタクシは簡易裁判所を目印にしてね。
するとほどなく案内を発見!さりげない「P」も嬉しいじゃないですか!!

本当にありがたい瞬間


駐車スペースは案内のところから少し先へ進んだ右手。ごっつあんです!
所有者の方はもちろん「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」にも感謝です。

うっかりしていた瞬間


いそいそとお墓に向かいます・・・あ!正純「父子」の墓だった(*°∀°)=3
息子さんの存在に気づいてなかったけど、一緒にお参るからまぁいいね。

顕彰されていた瞬間


一角がきれいに整備され、墓碑の他、案内板や句碑なども建っています。
明治41年に横手区裁判所や検事局職員の方が建立したものなんだそうです。

合掌の瞬間


左が子の正勝、右が正純さんの墓碑。白い花が活けられてお手入れされてる!

永禄8年(1565)、三河に生まれた本多正純は父の佐渡守正信とともに
家康の側近として重用され、家康の死後は老中として秀忠に仕えました。
家康存命中の慶長13年(1608)に小山藩3万3千石の大名に取り立てられると
後に2万石加増。元和5年(1619)にはさらに宇都宮藩15万5千石に加増されます。

しかし元和8年(1622)、釣り天井事件などの嫌疑を突きつけられ所領没収、
由利5万5千石へ転封を命じられます。ところが謀反に覚えのない正純は拒否。
これが秀忠の怒りに触れ、本多家は改易。佐竹家預かりで由利に配流となります。
寛永元年(1624)、佐竹義宣に召し預けになると正純は横手に移され、
厳重な監視のもと幽閉生活を送り、寛永14年(1637)73歳で亡くなりました。

息子の正勝さんは体を壊して、寛永7年(1630)35歳で亡くなったって。

大人の事情は色々と複雑だった瞬間


「本多上野介正純父子終焉之地」の碑とともに、父子が横手で寂しく
生涯を終えることになったいきさつ(超ダイジェスト)も案内されてます。

釣り天井事件っていうのは、正純の失脚を狙った言いがかり的なやつです。

元和8年(1622)、2代将軍秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、
宇都宮城に泊まることになったことから、正純が城の普請や造営を行ったら、
「秀忠を暗殺しようとして釣り天井を造った!」という嫌疑をかけられた挙句、
鉄砲密造や城の無断修築とか他の罪まで着せられて失脚させられたという…。

結局、釣り天井は存在しなかったことが後になって判明したらしいけど、
自分の城で天井を落として殺すとか普通に考えてマジないから(*°∀°)=3

でもさ。狙ったが最後。無理をゴリ押す幕府もやっぱ怖いなって思う反面、
そうまでして排除される正純さんも相当アレレな所があったんだろうなって。
秀忠やブレーン世代にとっては、許しがたいウザさだったのかもしれない。

さみしさあふれる瞬間


墓所には正純が横手で詠んだという句が刻まれた碑もありました。

「陽だまりを恋しと想ううめもどき、日陰の紅を見る人もなく」

正純さんって才気ばしったイメージがあるけど、晩年は見る影もなく。
政権の中心から一転、幽閉の身となった日々はさぞ寂しかっただろうね。


さーて。お参りが済んだら車に戻って次へゴー!
江戸時代からいっきに平安後期に行くわよ!!!


後三年の役古戦場に出陣!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.11.23 Friday 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

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2020.02.14 Friday 18:25 | - | - | - |