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八幡山城に登城!

バサラ道誉様のお墓参りの次は、近江八幡市へ!!

ロックオン全開の瞬間


安土城や観音寺城に登城したり、通りすがりに八幡堀は観光したりしつつ、
時間の都合だなんだで取りこぼしてた八幡山城。今回はコレだけ狙い!!

初志貫徹の瞬間


クラブハリエとか八幡堀散策とか始めるとまた時間がなくなる可能性大なので、
日牟禮八幡宮前に車を停めたら、わき目もふらずロープウェイに乗った!

ちょうど発車する所に乗れたから、乗り場の写真とかないけど(*°∀°)=3
15分間隔で出てたかな? 乗れば山頂まで5分もかからないのでマストです。

お手軽だった瞬間


ロープウェイを降りたら案内板を確認。八幡山城は斜面が急で中腹に何もなく、
遺構は山頂に集中してるので、案内どうり歩けば一通り見られるのがよいよね。

ウキウキする瞬間


歩き出してすぐ現れた石垣に期待が高まる! 八幡山城は総石垣のお城。
本格的な石垣を見るのはすごい久々ってことに急に気づいたワタクシです。

後の祭りだった瞬間


順路で最初に見えるのが「お願い地蔵堂」。どんな願いもかなえてくれるとか。
でもそれを知ったのは降りてからだったから完全にスルーしちゃったけどね・・・

わき目もふらない瞬間


地蔵堂を過ぎるとほどなく、道が二手に分かれます。右に行くと本丸跡。
でもワタクシは時計回りしたいので、迷わず左の西の丸方向に向かいます。

食いつく瞬間


西の丸に向かう右手には、けっこうな高さの本丸石垣がずっと続いてるんだけど、
苔むし具合に加え、ちょいちょい折れまであるもんだから鼻息荒くなっちゃって。

土塁空堀の城跡や、武将のお墓参りでもいつもイミフに興奮してるけど、
総石垣(しかも大好きな廃れ気味)って全然ちがう高揚感だったって思い出した!

ドン引く瞬間


うっとり歩いてたら西の丸に到着! 噂の「LOVE」モニュメントがマジ残念w
城跡は残されてるけど、無理やりな観光化されてるのが惜しいなって思った。

そうそう、西の丸の前に出丸へ行きたかったんだけど、2018年の5月GW時点は、
出丸へ降りていく通路が立ち入り禁止になっていて見れなかったのが残念!

胸がスーッとする瞬間


西の丸からは琵琶湖が見えます。近江の風景ってのびやかで澄んでていいよね!

八幡山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉の甥、秀次が築城した城。

本能寺の変後、次第に実権を握った秀吉は近江の支配を強化するべく
紀州攻め、四国征伐で戦功を立てた甥の秀次に近江八幡43万石を与えると、
隣地の安土から城下町や商人を移動させ、八幡山城を築かせました。

天正18年(1590)、秀次が尾張清州城に移封になると京極高次が入城しますが、
文禄4年(1595)、秀次が謀反疑惑で切腹すると八幡山城は廃城となりました。

感心しきりな瞬間


次は北の丸に向かいます。途中の石垣の隅は算木積みになってました。
いつも思うけど、こんな急峻な山の上にこれだけの石を運ぶってホントすごいよね。

大事なことだった瞬間


保存状態が悪そうな部分も多いけど、期待以上に見ごたえがあります。
観光化はほどほどで、石垣の保存もずっと頑張ってってほしいです。

チープな瞬間


北の丸に到着!少し見えづらいけど、奥にはまたもハートのオブジェが(*°∀°)=3
観光化も色々やり方あると思うけど、史跡であえて恋人押しって発想がなんか・・・。

妄想がかけめぐる瞬間


北の丸からは安土城(手前の低い山)、観音寺城(奥の大きな山)が見えます。
観音寺城の隣に築かれた安土城、そしてその近くに築かれた八幡山城。この距離感!

クライマックスな瞬間


北の丸から少し歩くと本丸に到着! 今は瑞龍寺というお寺が建っているけど、
この辺りは八幡山城の頃は本丸虎口だったっていう雰囲気がよく残っています。

御紋がまぶしすぎる瞬間


山門前の石垣がまたいい感じで、城門ありし日のことを思ったりして。
隣に立つ「村雲御所瑞龍寺門跡跡」碑の格式高いオーラがまぶしいw

瑞龍寺は秀次の母(秀吉の姉)が高野山で切腹した秀次の菩提を弔うため、
京都村雲に建立したお寺で、後陽成天皇から寺領と瑞龍寺の寺号を賜り、
紫衣と菊の紋章が許されて以降、幕末まで皇族五摂家の息女が住職を務める
尼門跡寺院として続き、「村雲御所」と呼ばれていました。

勝手に櫓門とか思い浮かべてる瞬間


昭和38年(1961)、京都から秀次ゆかりの八幡山城に移築されたそうです。
今でも日蓮宗で唯一の門跡寺院として、とても格式ある存在なんだって!

防御力高そうな瞬間


山門をくぐった先は桝形になっていて、こじんまりしてる分、
石垣だけでもなかなかの圧迫感。こういう狭い空間キライじゃないw

たぶん右から撮るのが正解だった瞬間


本丸に建つ本堂。正面の距離がなくて映した角度がおかしいけど(*°∀°)=3
拝観料を払えば、中に入って門跡寺院ならではのお部屋など見られるようです。

要塞だった瞬間


お城の推定図がありました。秀次の頃は琵琶湖も麓近くまであっての山頂コレ。
新しい近江拠点だからって、やっぱ色々気合が入ってたんだろうなって思う。

当時は推定図にあるように、三層天守が建ってたとも言われてるんだけど、
天守台石垣は残ってないし、本丸自体も虎口以外はコレって遺構がない模様。

申しわけ程度だった瞬間


本丸を出たらロープウェイに戻りつつ、順路の最後に見える二の丸へ。
展望館や売店が建っていて、跡として見られるのは石垣のある一部だけ。

ついでの瞬間


そして展望館へ。2階には資料などが展示されているらしいので見てきます。
ちなみに前の広場にはまたも恋人モニュメントが…もう無理やり感しかないw

何でもありだった瞬間


お城の歴史とか豊臣秀次の生涯なんかの説明、出土品や八幡瓦の展示に加え、
かわいい女の子系アニメのパネル特集まで展示されていたのであった(*°∀°)=3

高すぎるお立ち台だった瞬間


八幡山城を降りた後は、秀次像を見るため近くにある八幡公園にやってきました。
秀次像は小高い場所から、八幡堀の街並みを見守るように建てられてます。

表情が気になる瞬間


豊臣秀次は秀吉の姉の子で、当初は三好康長の養子となり信吉を名乗っていましたが、
本能寺の変後、秀吉が実権を握ると羽柴姓と秀の字を与えられ、一門として重用されます。

天正19年(1591)、秀吉の実子・鶴松が亡くなると、養子となり関白職を譲られますが、
文禄2年(1593)に次男秀頼が誕生すると、秀吉から次第に疎まれるようになり、
文禄4年、謀反の企てを理由に高野山へ追放、切腹を命じられました。享年28歳。

「残忍な振舞いが多かったので殺生関白と呼ばれた」って話もあるけど、
ワタクシ、あれは秀吉サイドのネガティブキャンペーンだと思ってマス。
そもそも謀反の企てからして言いがかりぽいもんね。ホント気の毒だわ。

秀吉に振り回され、若くして無念な最期を遂げることになった秀次さんだけど、
近江八幡繁栄の基盤を作ったということで地元の人々には慕われているようで、
この銅像も市民の寄付で建てられたんですって。

趣ありすぎな瞬間


そして登城と銅像に満足したワタクシは、秀次の屋敷跡を見忘れ(*°∀°)=3
時代劇でもおなじみ八幡堀をぶらぶら。いつ見ても素敵なところです。

高度成長期の頃には汚染がひどく、一時は埋め立ても検討されたところ、
市民の声で保存が進められたおかげで、見ることのできる貴重な風景。

花より団子の瞬間


風情があるわ〜と散策しながら、実はキョロキョロ目当ての店を探してもい。
ランチのステーキ重に続き、また千成亭で、今度は近江牛の寿司を食っちまったw


さて。「北近江の見逃し処をめぐってきた」シリーズはこれで終了!

次は山形・秋田方面に行ってきます!!


新庄城に登城!〜に続く



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2018.09.15 Saturday 15:50 | comments(1) | trackbacks(0) | 近畿(滋賀県) | 

勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り

大谷吉継の首塚の後は、元祖バサラ大名、佐々木道誉のお墓参りへ。
京極家墓所で拝めなかった分、甲良町にある道誉の本拠地に乗り込んでリベンジです!

乗り込む瞬間


勝楽寺は暦応4年(1341)、佐々木道誉を開祖として建立された臨済宗のお寺。
寺名は道誉の法号、勝楽寺殿徳翁道誉から取られたそうですよ。

当時は居館もあり、道誉は41歳から78歳で亡くなるまでこの地で過ごしました。
この山門は後ろの山にあった勝楽寺城の城門を江戸時代に移築したもの。
信長の六角氏攻めの時に焼き払われ、山門だけが残っているそうです。

残念すぎた瞬間


山門をくぐった先にある本堂は新しめ。中には道誉の肖像画があるんだけど、
普段は見られないみたい。本物は国重文で京都国立博物館で見れるんだって。

盛り上がる瞬間


勝楽寺のある周辺は「道誉の郷」として、ただいま絶賛盛り上げ中w
道誉「四ツ目結紋」のついた旗(何色もある)があちこちに立っていました。

ややこしい瞬間


道誉さんのお墓は分かりやすく、本堂左側を進んだところにありました。
手前にはツツジが咲き誇ってたけど、墓域はなんとも渋目な佇まいじゃない?

佐々木道誉は北近江守護、近江源氏佐々木氏の分家である京極家の5代当主。
本家が六角を名乗ったので佐々木六角氏、佐々木京極氏と区別されたらしく、
京極道誉とも呼ばれます。「道誉」は出家後の法名で俗名は「高氏」さんです。

色々混ざると分かりづらいから、ワタクシは「佐々木道誉」でいっとくね!

バサラは外せなかった瞬間


鎌倉末期、南北朝時代の武将で落髪して道誉と号し、足利尊氏に従って大功をあげ、
京極家の地位を確立。茶や狂言文学などのたしなみも深く「バサラ」と呼ばれた・・・

お墓の入り口にある説明が、めっちゃダイジェストだった件(*°∀°)=3

幼くして京極家の家督を継ぎ、鎌倉幕府の執権、北条高時に仕えた道誉は
嘉暦元年(1326)高時の出家とともに出家し、30歳で「道誉」となりました。

道誉は出家後も北条家に仕え、元弘2年(1332)討幕に破れた後醍醐天皇が
隠岐に配流される際の警護を行うなど、幕府側としての務めを果たします。

しかし元弘3年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が、再び討幕を呼びかけると、
呼応した足利尊氏に従って反旗を翻し、鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、道誉は雑訴決断所奉行人となりますが、
新政権に参加しない尊氏が天皇に反旗を翻すと、朝廷側として出陣しながら、
土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍の勝利に大きく貢献します。
そして尊氏が幕府を開くと、道誉は若狭、近江など要地の守護職を歴任し、
尊氏、義詮と2代にわたって足利家に仕え、政権を支えました。

風流だった瞬間


こちらが道誉さんのお墓。苔むした宝篋印塔は南北朝期のものだそうで、
約700年もの間、雨風ときどき戦火にさらされた風化具合がハンパない!
豪華できらびやかな「バサラ」廟より、むしろあってる気がするって思った。

「婆娑羅(バサラ)」っていうのはサンスクリット語から来ている言葉で、
この時代には「派手、乱暴、無遠慮、型破り」の意味で使われたんだって。
道誉さんはその圧倒的ナンバーワン! で「バサラ大名」と呼ばれたのね。

派手な服装をして権威を恐れぬ破天荒なふるまい。やること全てが豪奢豪快!
太平記から有名なエピソードをひとつ、超ダイジェストでご紹介します。

暦応3年(1340)10月、鷹狩の帰途、門跡寺院の妙法院を通りかかった道誉さん。
寺の紅葉があまりにキレイだからと、家来に命じて一枝折らせたところ、僧が出てきて
「御所の枝を折るとは何だ!」と怒りだします。すると「御所って何よ? 片腹痛し!」
と道誉さん嘲哢しながら、さらに太い枝を折らせたもんだから僧侶たちは大激怒! 
紅葉の枝を奪い取ると、家来をフルボッコにして門外に放り出しました。

「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を」

キレた道誉さんはその夜、300の手勢で妙法院を襲撃し、焼き払ってしまいます。
道誉の息子なんて逃げ惑う門主の若宮までボコボコにしたというからすごい!
相手がダレでも関係ないし、権威に負けて引き下がったりもしないわけです。

普通に考えたらすごい暴挙だけど、当時の人々は「ざまみろ!」って大喜びw
妙法院の本山は比叡山延暦寺で、権威を笠に僧兵が乱暴するから嫌われてたのね。

しかし比叡山延暦寺が黙っているはずもなく、道誉父子の死罪をしつこく要求。
朝廷から処分を求められた幕府はやむを得ず罪一等を減じ、上総への配流とします。

ところが道誉さんは消沈するどころか、上総へ向かう道中に300人の供を連れ、
全員に猿の皮で作った腰当と矢入れをつけさせ、鶯のかごまで持たせて出発すると、
道々で酒宴を催し、宿では遊女を呼んで、流人と思えぬバサラ行列で大行進!

猿は比叡山の日吉神社のお使いだから、道誉さんあてこすりも規格外(*°∀°)=3

結局、道誉さんは上総に行かず、翌年には京に戻って幕政に復帰してるので、
配流は尊氏と示し合わせた事かもしれないけど、バサラ風味が痛快すぎ!

アトラクティブだった瞬間


オレ様流で破天荒な道誉さんはまた、当代きっての一流文化人でもありました。
華道、茶道、香道を極め、連歌の腕も超一流。笛や猿楽の保護にも熱心で、
観阿弥世阿弥のパトロンとしてその後の文化にも大きな影響を与えました。

そんな道誉さんは晩年、大原野で人々が仰天するド派手な大蕩尽会を催します。
政敵の管領斯波高経が将軍御所で花見の宴をやるよ!って言ってる日にあえてw

4本の桜の根元に巨大な花瓶を置いて活け花に見立て、香木一斤を焚上げ!
会場は豪華絢爛に飾りつけ、贅をこらしたたくさんの料理や名菓、美酒を並べ、
都中から集めた猿楽師や白拍子の芸を楽しみ、夜は松明をともして大騒ぎ!

人々はうっとり夢見心地で「さすがバサラの道誉」と都中の評判になり、
完全に面目をつぶされた斯波高経は、大いに悔しがったといわれています。

権勢をふるって気に入らない高経をギャフンと言わせた道誉さん(*°∀°)=3

これをきっかけに対立が深まると、政治闘争で高経をやっつけて、
細川頼之を管領に推挙して隠居。応安6年(1373)78歳で亡くなりました。

私本太平記ではしたたかで食えない所を強調して描かれた場面も多いけど、
北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏、義詮ともれなく時の権力者につかえて、
カオスな時代を生き抜いた道誉さん。ワタクシはこういうの好きな方だしw

へたれな瞬間


お寺の裏手には勝楽寺城跡があります。応安元年(1368)道誉さんが
高築豊後守に命じて築いたもので、信長の六角攻めで廃城になっています。

ハイキングコースとか気楽な感じに見えるけど、結構きついらしい(あも調べ)。
少し遺構も残っているようだけど、ワタクシは墓参りだけで満足ですw


甲良町といえば高虎出生地の高虎公園も近いのでめぐりの際はぜひご一緒に!

でもワタクシは今回、北近江の取りこぼし回収めぐりなので、
立ち寄りたい思いはしつつも、今回はスルーして次へ移動します!


八幡山城へ登城!〜に続く



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2018.09.07 Friday 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り

鎌倉末期の蓮花寺から、いっきに戦国時代に飛んで大谷吉継の首塚にお参りです。

大谷さんのお墓は畑のど真ん中というとっても分かりづらい場所にあるので、
ナビで近くの幼稚園を目指して、後は地図を見ながらアプローチする作戦。

唯一の目印だった瞬間


畑の中 大谷さんのお墓に行く入口の目印は、住宅街にある下多良神社。
奥ののぼり旗が立っているところから入っていけます。車はここに停めました。

あきらめた瞬間


来るまでの道筋に案内はなかったと思うので調べて来ないと分からないね。
のぼり旗の向きを何度か直してみたけど、風が強くてすぐ元に戻ってしまう。

かけよる瞬間


入口を入って畑の間のあぜ道を少し歩くと・・・おお、見えてきました!!
小さい畑の一角とかじゃなく、広い畑地帯のド真ん中にあるってすごくない?

関ヶ原で西軍として奮戦するも、小早川秀秋の裏切りによって敗北を悟った吉継は、
首を渡すまいと家臣、湯浅五助の解釈で自害。吉継の甥の僧、祐玄が首級を綿の袋に入れて
敦賀への逃亡の途上にこの地に埋め隠したと伝わり、地元の人が大切に守ってきたそうです。

自害した吉継の首は湯浅五助が地中深くに埋めた・・・って説もあるけど、
どれが真実とかどうでもよくて、何としても首級を渡すまいとした主従の意地や、
吉継を慕って偲ぶ人の気持ちがずっと続いているってことが感動だよね。

なんたって風が強すぎた瞬間


ここでも「大谷吉継公の首塚」が旗が見えるよう格闘したけど無理で(*°∀°)=3
遠く鉄塔の奥にうっすら見えるシルエット、あれ伊吹山ですよ多分w

西軍として共に戦った盟友、石田三成が捕縛されたのが伊吹山のあたり。
首を埋めたココも含めて、関ヶ原からだいたい10キロ圏内って距離感を思えば、
東軍の警戒網や残党狩りがどれほど厳しかったか、分かる気がしてきます。

地元愛あふれる瞬間


こちらが大谷吉継の首塚。周りは畑だけど雑草もなくキレイに整備されてます。
柵とかベンチが出来たのは最近で、昔はホントに祠がぽつんと立ってたようです。

胸が熱くなる瞬間


案内板には平成23年って書いてあるから、訪れる人が増えて整備されたみたい。
義を重んじ、友情を貫いた吉継さんは、現在だって人気ある武将ですもんね。

秀吉に「100万の兵を与えて指揮をとらせてみたい」と言わしめた智謀だけでなく、
温厚な人格者で家臣ばかりか、他の武将からの信頼も厚かったといわれます。

関ヶ原の時には東軍に加わるつもりのところ、親友である三成に説得され、
無謀と知りながら西軍につき、それでも最期まで全力でその義を貫いてます。

病気で盲目な上、体も不自由だったので輿の上から指揮したっていうけど、
多勢を相手にしながら、大谷隊はめっちゃ強かったですよね・・・泣けますわ。

勝手に共感する瞬間


覆屋の中には小さな五輪塔が・・・いい写真が1枚もなくてびっくりした(*°∀°)=3

吉継さんは最期の時、「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」と、
裏切った小早川に対する呪いの言葉?を吐いて自害したとも言われています。

実質5000くらいの兵力で一時は優勢になるほど必死で戦ったんですモンね。
いくら人格者だって祟ってやりたくなる気持ち、よーーく分かりますとも!

またもや気安く語りかけながら、でも丁寧にお参りして首塚を後にしました。


さーて次は徳源院のリベンジ! 道誉さんピンのお墓にお参りします!


勝楽寺にて佐々木道誉のお墓参り〜に続く


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2018.08.31 Friday 15:00 | comments(4) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

蓮華寺にて北条仲時のお墓参り

京極家墓所の次は通り道だし、道誉からの南北朝つながりで蓮華寺へ!
六波羅探題北条仲時と家来たちが自刃して果てた地でお墓参りをするのです。

ちょっと興奮する瞬間


通り沿いに目立つ柱碑があって、お寺はここから参道を少し入った先にあります。
この辺は東山道(中山道)「番場宿」として栄えたらしいけど今は静かな街並み。
鎌倉末期のめぐりが久々のせいか「南北朝」の文字がやたら新鮮に見えてますw

雰囲気を味わう瞬間


参道の先に見えるのがこちらの山門。勅使門ということで閉じられてます。
風情ある佇まいだけど、真後ろが名神高速なので静寂って感じじゃないかも。

蓮華寺は聖徳太子によって開かれたと伝えられ、当初は法隆寺と称していました。
歴代天皇の信仰も厚く花園天皇(1308〜18)から菊の紋を下された浄土宗の古刹です。

勅使門のすぐ向こうが本堂なんだけど、境内には左から廻って入ります。

失神しそうになる瞬間


山門横には「血の川」と書かれた立て札。「北条仲時と家来たち432名が
本堂前庭で自刃した鮮血が滴り流れて川の如し」って・・・マジ怖すぎる。

ワタクシは今回、佐々木道誉や北条仲時のお墓参りをするにあたり、
太平記を改めてざーっとナナメ読みしてますから妄想力アップ中なんです。

想像するのも怖かった瞬間


境内に入ってその本堂前がこちら。狭くはないけどすごい広くもない。
当時とは違うでしょうけど、ここで432人一斉なら血の川も大げさじゃなく・・。

元弘3年(1333)、足利高氏ら反北条軍に包囲された六波羅探題北条仲時は
光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて東国へ落ち延びようとしますが、
番場の宿にたどりついたところで佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれます。

仲時はやむなく天皇や上皇を蓮花寺に移して、防戦するものの破れると
蓮花寺の本堂前庭で自刃。一族432人も後を追いことごとく果てました。

波乱だらけだった瞬間


本堂にかかる扁額は後水之尾天皇筆なんだけど、それよりも光厳天皇ですよ!
太平記によると死体の山、血の海って凄まじい有様を見て茫然自失だったって。

余談だけど光巌天皇はこの後、五宮の軍に捕まって京の都に幽閉されて、
復帰した後醍醐天皇から「天皇として即位していないが特例で上皇待遇とする」
とかうまいことやられ、天皇即位の事実自体を無効にされちゃうんです。

で、色々あって尊氏が室町幕府を成立してしばらくは治天の君として北朝で
院政を行うんだけど、今度は尊氏と弟直義の争いに巻き込まれて南朝に拉致され、
幽閉先で出家。45歳で京に戻ることを許されるとひたすら仏道に励み、
高野山などへ巡礼の旅に出た後、余生を常照皇寺で過ごし52歳で崩御という・・。

光巌院の波乱人生もすごい興味深いし、人間くさい感じも親しみ持てて
ワタクシ陵墓とか興味ないけど常照皇寺はそのうち参ろうと思ってるんだ。

知ったかぶらない瞬間


ではお墓参りに行きましょう。本堂の右手に墓所の入り口案内板があります。
横にあるのは(伝)鎌刃城主土肥元頼の墓だそう。誰か分からないけど(*°∀°)=3

気を強くもつ瞬間


入口から少しだけ登るみたいです。木立が茂ってて日当たりイマイチ。
もし無念で漂ってる方がいて連れ帰っちゃうと困るから気張って歩いてく!

シェアされる瞬間


途中には明治時代に建てられたらしい紀念碑もありました。
義に生きるとか忠義の士とか日本人は大好き。仲時さんも人気!

仲時は自害する際、家来たちに「武運が傾いて北条の滅亡が分かっているのに
ついてきてくれたことに感謝。でもそれに報いて何も出来ないのが残念だ。
自分の首を討って手柄とし恩賞を得よ!」と言い終わらぬうち鎧を脱ぎ、
切腹して果てたと言います。享年28歳。コレ武将の最期で一番泣けるやつね。

原文の方が仲時のセリフが泣けるからちょっと載せておく。

「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら・・・(中略)
早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ」

静寂の瞬間


紀念碑から少し登った左手が432名の墓所。簡単な説明板もあります。
お寺のすぐ裏手は名神高速が走ってるけど、ここはひっそりしています。

蓮華寺の住職だった同阿上人が仲時らの最期に深く同情し、姓名と年齢を記して
過去帳に残し、墓を建てて供養したそうな。過去帳は国の重文なんですって!

無念を思う瞬間


小さな墓石がずらっと寄り添うようにみっしり並んでいます。

仲時が自刃すると家臣の糟谷三郎宗秋は仲時の腹に刺さった刀を抜いて
「死出のお伴仕る」と言って切腹。そして残る全員が2人の後を追って自刃しました。

調べ不足だった瞬間


ここにたどり着くまでに逃げちゃった輩もたくさんいたらしいけど、
それにしても最期まで従った432人全員が自害ってホント壮絶だよね・・。

で、肝心の仲時さんのお墓、真ん中のデカイのかと思ったけど説明読んだら
なんと享保年間(1716〜36)に街道の西の山に移されたんだって(*°∀°)=3

六波羅山っていうらしいけど・・ワタクシもまぁまぁ無念だわw

北条仲時の自刃から13日後、鎌倉幕府も新田義貞に攻められ滅亡しています。
仲時はじめ北条一門、御家人の悲哀や無念を思って念入りに合掌しました。


そして帰りは超ダッシュ! 次は戦国の義の人。大谷さんところに行きます。


長浜市下多良にて大谷吉継の首塚にお参り〜に続く



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2018.08.25 Saturday 13:16 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

徳源院にて京極家墓所に参拝!

長浜城の次は徳源院へ! 近江の見逃し処をこまごまめぐっていくわよ〜!

静まり返っていた瞬間


弘安9年(1286)、京極氏初代、氏信が建立したという徳源院清滝寺。
天台宗の古刹で観光バスもやって来る有名なお寺だけど、この時は貸し切り。

季節を間違えた瞬間


境内に入ったところに道誉桜と呼ばれる樹齢300年の桜の木がありました。
京極氏5代の佐々木高氏…道誉が植えたと伝わるしだれ桜で2代目らしいです。

段取りも間違えた瞬間


徳源院には小堀遠州作という池泉回遊式庭園もあるので見たかったけど、
受付は閉まってて、拝観は事前に予約って張り紙が貼ってあった(*°∀°)=3

風情漂う瞬間


でもワタクシの目当て第一は京極家のお墓参り。気を取り直していこ!
県指定文化財の立派な三重塔を眺めながら、本堂左奥に向かいます。

焼き付ける瞬間


こちらが国指定史跡の京極家墓所。始祖氏信さんから25代高中さんまで?
歴代当主と丸亀藩など分家の当主5名が合わせて祀られています。

京極氏は宇多天皇に連なる近江源氏、佐々木氏から興った家系。
鎌倉初期の近江守護、佐々木信綱が4人の息子に近江を分けて継がせたうち、
三男康綱が近江南部を与えられて佐々木氏嫡流を継いで六角氏となり、
信綱の死後、近江北部を受け継いだ四男氏信が京極氏を名乗ったのが始まりです。

ちなみに長男は大原氏、次男は高島氏ですが、ワタクシはよく知りません。

ロックオンの瞬間


戦国で行くなら京極家中興の祖、高次というとこなんだろうけど、
ワタクシは道誉さん狙い! 上段VIPフロアを目指せばいいのね!

京極家墓所は寛文12年(1672)、22代高豊が播磨の所領2村とこの地を交換して
菩提寺だった清滝寺を復興し、近隣に散在していた歴代当主の墓碑を集めたもの。
丸亀藩初代の父21代高和の院号に基づいて、徳源院と改められました。

残念極まりない瞬間


と勇んで墓所内に入った途端、目に入った残念なお知らせナニコレ(*°∀°)=3
危ないなら仕方ないけど、目の前に行って道誉さんのお参りしたかったな・・・

佐々木道誉は京極氏5代。南北朝時代、武芸だけじゃなく風流にも通じ、
派手な服装を好んで自由な振舞いをしたことから「婆沙羅大名」と呼ばれた人。
太平記にも出てくるし、教科書にも載ってる超有名なバサラの元祖!

ワタクシは尊氏が好きじゃないので、正直その辺はアレレなんだけども、
独自の美意識や感覚、破天荒な生き方は興味深い人だなって思うの。

個性はなかった瞬間


写真があるので雰囲気だけでも。手前から4つ目・・・ノン婆沙羅ノン個性w
上段VIPフロアはこんな感じで初代から18墓の宝篋印塔が並んでるのねぇ(遠い目)

京極氏は道誉が早くから足利尊氏と通じ、功績を挙げたことから
幕府内での地位を得るものの、勢力は佐々木嫡流の六角氏には及ばず、
戦国期になると跡継ぎ騒動の隙に国人領主浅井氏に乗っ取られてしまいます。

その後、浅井氏の庇護を受け、名目上の北近江守護としてかろうじて続き、
浅井氏が滅亡すると織田家に仕え、高次が再興を目指すこととなりました。

角度が難しい瞬間


じゃ気を取り直して19代高次さん以降の方々のお墓参りをしとこっか。
手前から19代高次、24代高矩、25代高中、22代高豊の墓が見えてます。

特別扱いだった瞬間


さすが中興の祖! 高次さんだけ石廟の中に納められている別格仕様です。

京極高次は幼少期を人質として織田家で過ごして浅井滅亡後に家臣となり、
本能寺の変後は秀吉に仕えると、九州征伐の功により1万石に加増されて
大名に返り咲き、さらに小田原攻めの功で近江八幡山城2万8,000石となります。

そして豊臣秀次が関白になると従五位下侍従に叙せられ、大津6万石に加増。
羽柴姓の苗字公称を許され、豊臣姓も下賜され、従三位参議に任じられました。

関ヶ原では成り行きから西軍につくものの、東軍に寝返り大津城に籠城。
開戦前に落城するものの、西軍別動隊の足止めをした功績により、
若狭小浜8万5千石を与えられました。以降、京極家は松江龍野を経て、
丸亀5万石の藩主として幕末まで続き、明治維新を迎えています。

ひそかにあやかろうとする瞬間


石廟の中は扉の隙間から撮ったので宝篋印塔の一部しか撮れなかったわ。
滅亡寸前から大出世した高次さんは慶長14年(1609年)47才で亡くなりました。

本能寺の変では光秀側につくミステイクをして秀吉の長浜城を攻めたのに
秀吉の側室となった妹の竜子(松の丸殿)の嘆願により許されてラッキー。
そして正室に浅井氏の娘、初を迎えたことで初の姉、淀君の覚えもめでたく、
さらに初の妹、江が嫁いだ徳川秀忠は後の2代将軍・・なんてついてる!

だから「妹や嫁の七光りで出世した」とやっかまれ、影で「蛍大名」と
言われることもあったのだとか・・・言ったの誰や。品がないよね。
閨閥で出世した部分はあるにしろ、そういう運があるのも実力のうち。

再興を目指して戦う気概や根性も多少は見せたからいいじゃんね(*°∀°)=3

とか気安く語りかけながら合掌してお参りは完了! 運上がらないかなw

考えたらすごかった瞬間


墓所内には分家の多度津藩を合わせて、5つの京極家のお墓もありました。
六角氏は信長に滅ぼされてるもんね。滅亡寸前からのこの繁栄はすごい!!

未練たらしい瞬間


高次さんもいいけど、やっぱり上の18基を見たかったよな〜と思い、
遠目でいいからどうにかならんかウロついたけどちょっと無理だったw


でも道誉さんのお墓はなんと、もう1ヶ所あるからレッツゴーおかわり!
その前に道誉と戦って敗れた北条仲時と仲間たちのお墓参りに向かいます。



蓮華寺にて北条仲時のお墓参り〜に続く


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2018.08.18 Saturday 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

長浜城に再登城!

豊国神社の後はランチまで小1時間ばかりあるので長浜城へゴー!
前に来たのは5年前。その時のことでも思い出しながらサッ〜と見て回ろうかとw

絵になる瞬間


琵琶湖のほとり豊公園内にある長浜城。鉄筋コンクリート造の模擬天守だけど
現存天守のひとつ犬山城を参考にしているので遠目に見る佇まいはいい感じです。

ガラガラだった瞬間


前回は連休中の出陣で、人が多すぎて撮れなかった城址碑にお目見えw

元は「今浜」と言ったこの地を与えられた秀吉は信長の一字をとって「長浜」に改称、
城持ち大名となり、初めての城を築きました。出世城とも言われます。

さらにガラガラだった瞬間


雨だったから出足が遅いのか、とっくに開館してるのに人いないw
模擬天守は昭和58年(1983)に市民の熱意と寄付金などで建設されたもの。
久々に展望室から北近江の風景を眺めたかったけど、時間がないので割愛。

テンション上がってきた瞬間


模擬天守の隣にある本丸跡の碑あたりも人通りなし・・・なんで(*°∀°)=3
雨が止んだだけマシと思ってたけど、晴れ間が出て超やる気出てくるw

残念だった瞬間


長浜城って遠目だとすごい見栄えるけど、石垣と合わなくてなんだか残念。
模擬天守を建てる時に積んだらしいから、もう少しバランスとればよかったのにね。

あきらめる瞬間


太閤バージョンの秀吉像もせっかくだから見ておこうと天守台跡へ来たけど、
ここは朝でも夕方でも木々が影になって写真が上手く撮れない場所だった・・・

海のようだった瞬間


前回は西日でシルエットしか見えなかった太閤井戸は今回ハッキリ見えました。
長浜築城の際、秀吉が掘らせたと言われているそうです。今は琵琶湖の中だけど。

予定通りでほくそえむ瞬間


最後は今回もまた石垣出土地の所を通って終了。所要時間30〜40分?
遺構が少ないし再登城だから、ひと回りのつもりでドンピシャだった!

鼻息が荒くなる瞬間


長浜城から黒壁スクエアに戻って、お待ちかねの近江牛ランチ!
GW中だったから予約して、これに合わせて予定やルート考えたんだもの。

至福すぎた瞬間


牛刺三種盛とノンアルコールビール、そしてイチボのステーキ重。
いつもは時短のため運転しながらおにぎりがデフォだけど、たまにはアリ!


よーし。これでそわそわしないで集中して後半戦に行ける(*°∀°)=3


徳源院にて京極家墓所に参拝!〜に続く



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2018.08.10 Friday 17:10 | comments(2) | trackbacks(0) | 近畿(滋賀県) | 

豊国神社にて豊太閤と清正公に参拝!

脇坂安治の出生地を見た後は、近江牛を食べるべく長浜駅前へ!

まずは前回、長浜城登城した時、時間がなくて見逃した豊国神社へ参拝します。

こじんまりしていた瞬間


鳥居の立つ入口が2ヶ所あったから、表参道ぽい方から入ってみました。
長浜駅から数分の街中にあるせいか、思ってた以上にコンパクトだった。

ウキウキしている瞬間


鳥居をくぐってすぐ左側には加藤清正像。うふふ〜来た目的のひとつはコレw
大好物の清正さん銅像は妙行寺名古屋城でお目にかかって以来、実に3年ぶり。

豊国神社に加藤清正も祀られてるからなのかな。銅像は戦前に奉納されたものが
戦争中の金属供出で台座だけになり、昭和55年になって再建されたんだって。

お立ち台が高すぎな瞬間


清正銅像としては佇まいや迫力が物足りない気がするけど、でもいい!
それにしても雨が止んだものの、天気が悪くて全く映えないのが残念すぎた。

かわゆいやつだった瞬間


「秀吉公遺愛の虎石」もありました。こちらは秀吉が長浜城主になった時、
清正が寄進した庭石で、秀吉は「虎石」と呼んで気に入っていたんだって。

江戸時代に大通寺の庭に移したところ「いのう(帰ろう)いのう」と泣くので
長浜城の元の場所に戻され、後年、秀吉が祀られたこちらに移されたのだとか。

鼻息が荒い瞬間


ささ。お参りしましょう。まずは豊国神社の手前にある出世稲荷神社へ。
出世・金運・健康・・これにご利益のある所へのお参りは欠かせません!!

図々しかった瞬間


御祭神は宇賀乃御魂命と稲玉命。秀吉も稲荷信仰してましたからね。
鳥居を奉納する財力はないけど、少しでもあやかれますように(*°∀°)=3

前のめる瞬間


そして本命の豊国神社へ!! 出世稲荷の隣なのでズンズン迫りますw

こちらの豊国神社は慶長3年(1598)に秀吉が亡くなった後、
長浜の人々が京の豊国廟にならって建立したものなんだって。

愛されていた瞬間


大阪の陣で豊臣家が滅んだ後、徳川幕府によって神社は取り壊されるんだけど、
町民が商売の神様「恵比須宮」を祀りたいって彦根藩に頼んで一社を建立。
奥にこっそり秀吉の像を隠してお参りしてきたんだって・・・泣ける!!

今の社殿は明治31年(1898)、秀吉300回忌に造営されたものなのだとか。

えびす様には申し訳なかった瞬間


御祭神はもちろん豊臣秀吉。そして配祀神として加藤清正木村重成も祀られます。
秀吉亡き後も秀頼を支え、最後まで豊臣を守ろうとした忠臣二人の名前、いい眺めw

欲深い瞬間


秀吉は一番奥として、左右はどっちが誰かな〜全く分からなかったけど(*°∀°)=3
出世稲荷に続き、こちらはもっともっともーっと念入りにお参りしておいた。

すっかり気がすんだ瞬間


帰りは豊国神社側にある鳥居からアウト。やっとお参りできてとても満足!
お昼まで少し時間があるから、線路をくぐって長浜城に再登城しに行こう。


長浜城に再登城!〜に続く




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2018.08.03 Friday 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 
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