<< February 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES

塩山駅の信玄像と武田ゆかりの向嶽寺を探訪!

ここからしばらくは山梨攻略シーズン?(いくつだろう)のエントリー。
山梨は武田絡みの史跡が多すぎなのでエリア絞って刻んでくのがよし!

今回は甲府周辺にある未訪の武田関連史跡をグイグイめぐったんですが、
一番狙いは恵林寺なので、朝イチ。まずは最寄りの塩山駅に立ち寄ります。

意外とコンパクトだった瞬間


恵林寺の最寄駅となる塩山駅北口には、信玄公の銅像があるのです。
ロータリ前の通りから遠目だと、思ってたのよりだいぶ小さく見える。

かわゆげがある瞬間


甲府駅前の戦モードな信玄像とは違い、こちらは鎧兜なしの入道姿。なんかかわいいw
塩山ライオンズクラブ寄贈で、長谷川等伯の書いた画を元に造られたんだって。
小さ目だけど台座が目の高さにあって、間近にジロジロ見られる銅像もよいです。

やっぱり信玄だった瞬間


佇まいがちょっとかわいいと思ったけど、アップで見たらやっぱ濃い!!
信玄の雰囲気がちゃんと表現されて、武将銅像レベルも高めだと思う。

朝イチ、独り占めで堪能して気も済んだところで次に行きます。


塩山駅から恵林寺に向かう途中、通り道なので向嶽寺に立ち寄りました。
非公開寺院で建物内とか庭園は見れないけど、武田関連なので外せない!

ちょっぴり緊張しちゃう瞬間


非公開ながら境内の一部は入れるので、行儀よくしてサッと見学しましょう。
まずは檜皮葺の中門。室町時代中期のもので、天明6年(1786)の大火により
諸堂がことごとく焼失してしまった中、唯一残っている建造物なんだそう。

妄想スイッチをオンにする瞬間


中門の横っちょにある入り口から境内に入ると広がるのがこの風景。
様子のいい橋、姿のいい木々、品のある仏殿の佇まい・・素敵だよね。

でも悲しみのどん底に沈んでいる人には、どんな風に映ったんだろう・・

ワタクシ武田関連のおめぐり中ですから、勝手に思いを馳せています。
武田滅亡の時、この寺に一時身を寄せていた勝頼の妹「松姫」気分でね。

松姫は信玄の娘。7歳の時に織田信長の子、信忠と同盟のため婚約するも、
信玄の西上によって破棄されると、誰にも嫁がず高遠城<で暮らします。

松姫にとっては会ったことがなくても婚約破棄になろうとも、
夫になるはずだった信忠の存在が拠り所だったのかしらね・・
破棄後も二人はしばらく文のやりとりをしていたと伝わっています。

それから十数年後、信忠が指揮する織田軍による武田攻めが始まると、
松姫は高遠城から兄仁科信盛の娘らを連れて新府城へ逃れ、さらには
織田軍が迫る前に城を出て、落ちのびる中で向嶽寺に滞在しました。

タイミング的に松姫はここで武田滅亡を迎えてると思うんだけど・・

仁科信盛と武田勝頼、自分を逃してくれた兄達の死と家の滅亡を知った
松姫の気持ちなんてとても想像もつかない。しかも敵は思いを残す信忠。
きっと心が乱れて息もできない。戦国の女性ってホントに悲しい。

きっとすごく強い女性だった瞬間


こちら中には入れませんが仏殿。本尊は「釈迦如来」だそうです。
雰囲気ちょっと変わってる? 唐とか?(適当)なんか中国っぽい気がw

武田滅亡後、松姫らは残党狩りから逃れつつ、山中を武州に向かい、
八王子の金照庵に入ります。その後は心源院で出家して信松尼となり、
姪たちを育てながら一族の冥福を祈って静かに暮らしました。
武田滅亡時には敵だった北条氏照も支援していたそうな。

そして一説によると八王子に松姫の生存を知った信忠から使者が来て、
松姫が京に向かう途中で本能寺の変が起きた・・って話もあるんだってね。

もしそうだったら思いがかなって幸せに思った分、さらにショックじゃん。
そりゃ出家したくなる。姪たちがいなかったら自害したかもしれないよね・・

松姫のお墓は八王子の信松院にあるので、そのうちお参りに行こう。

満足する瞬間


自由に入れるのは一部境内だけなので、写真の通り見渡せば終わるw
何もないし、松姫ゆかりの何があるってわけじゃないけど来てよかったな!


さて、朝からディープな妄想をしてとても満足したところで、
次は今出陣の一番狙い、武田滅亡時やっぱりエライ目にあった恵林寺に向かいます。


恵林寺にて武田信玄のお墓参り〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  
2017.06.13 Tuesday 10:58 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

梁川八幡神社にて政宗初陣祈願所を探訪!

興国寺で須田親子のお墓参りをしたら、ついに福島攻略最後の地!!
伊達政宗ゆかりの梁川八幡神社と龍法寺にやってきました。

大盤振る舞いだった瞬間


もっとだいぶ手前から始まってる参道なんだけどワタクシは途中から気分だけ。
でも駐車場は本殿横だから歩かなくてもいいところ、体力ケチらず来てみた次第w

そこここに趣があった瞬間


案内がなくて詳細が分からないけど途中には古いお堂みたいのもあります。
伊達氏の居城が梁川に移った時に伊達氏の氏神「亀岡八幡」と合祀され、
伊達氏の保護を受けてきたのだとか。福島県の史跡名勝の指定されています。

勝手に感慨深くなる瞬間

拝殿が見えてきました。若かりし頃の政宗もこの参道を通ったのかと思うと
ちょっと感じ入るものがありますね。とかいって大して歩いてないけど(*°∀°)=3

グイグイお参っちゃう瞬間

拝殿に到着! よ〜し。何はともあれ、まずはとにかく参拝だ参拝!!
ご利益は武運長久に勝運、縁結び、厄災除け・・何でも頼んどこっかw

伊達家にとって大事な場所だった瞬間


天正10年(1582)4月1日、16歳になった政宗が初陣の戦勝祈願にきた神社。
それより前、政宗の正室愛姫が輿入れの際、田村家から受渡されたのもここ。

ワタクシ帰ってから拝殿近くに受渡し場所が残っていると知りガッカリしています。

趣ある山門だった瞬間


神社の隣には別当寺である龍寶寺があります。文治年間(1185〜1189)に
伊達氏初代朝宗が祈願寺として開いたお寺で、神社と共に保護を受けました。

政宗エピソードばっか目立っちゃうけど、こういうお寺の説明を見ると
伊達氏がずっと昔から梁川と関わって来たってことがスッと入ってくる。

いい気が流れていそうだった瞬間


特に伊達家所縁の何か的なのはなさそうで山門から本堂だけ見ておき。
こじんまりしたお寺ながら手入れが行き届いて何か雰囲気がよかった。

何やら無造作な感じだった瞬間


お寺の前の駐車スペース横には茅葺屋根の趣ある鐘楼が建っています。
宝暦12年(1762)建立で指定文化財。鐘は昭和63年に再鋳されたそうな。

渋滞の心配もしていた瞬間


1泊2日で超〜盛りだくさん詰め込んだ福島攻略シーズン2これにて完了!
阿武隈川を眺めて東北の地に割拠した色んな皆さんを思いつつ埼玉に戻ります。


次回からは「秋」に出陣した山梨攻略シーズン?のエントリーです。


塩山駅の信玄像と武田ゆかりの向嶽寺を探訪!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ  人気ブログランキングへ  

2017.06.03 Saturday 15:37 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

武田八幡宮へ参拝!

涙の森新府城と史実の逆回り風で回ってしまってるワタクシですw
次は勝頼夫人が新府城落城前に願文を納めた武田八幡宮にやってきました。

韮崎プライドだった瞬間


武田八幡宮入口の交差点。この先が武田八幡宮で後ろの山はきっと白山城。
韮崎市はちょっとした史跡でも超分かりやすくて、武田愛が感じられます。

早くも重みを出してくる瞬間


ほどなく二の鳥居が見えてきます。これは江戸時代に再興されてるらしいけど、
承久2年(1220)の頃には修復された記録があるというから何だかすごいw

鳥居の横に駐車場があるけど、つきあたりの八幡宮まで歩くのいやー!
ワタクシは鳥居をひとしきり眺めたら、車で前まで行っちゃうのよ。

結界感がハンパない瞬間


車はすぐ横の駐車場に停められる。まずは入口に立って全体を眺めてみる。
中に入ったら、最強武器や何とかの力的なやつを授けてもらえそうなw

ワクワクする瞬間


まずは石造明神鳥居。手前の付正面石垣と合わせて県指定有形文化財。
ここから総門、舞殿、拝殿、そして国重要文化財の本殿へと続きます。

武田八幡宮は勝頼夫人が戦勝と繁栄の願文を納めたというだけじゃなく、
武田発祥の地と言われてる場所。信玄ラブじゃないけどちょいと興奮w

すでに重みを感じてる瞬間


武田八幡宮は弘仁13年 (822)、嵯峨天皇の勅命により、地神である
武田武大神の祠廟に九州の宇佐八幡を迎え、併祀して創建されました。

清和天皇の頃に京都石清水八幡を併祀し甲斐源氏の崇敬を集めると、
武田の荘に居を構えた新羅三郎義光の曾孫信義が八幡宮社前で元服して
武田氏を名乗り氏神としました。

武田を想う瞬間


天文10年(1541)、甲斐守護となった武田晴信(信玄)が現本殿が再建、
天正10年(1582)には勝頼夫人が戦勝と武田家の繁栄を祈願した願文を奉納。
武田八幡宮は発祥以降、ずっと深く武田と関わってきたんだよね・・すごっ!

あっさりスルーする瞬間


階段上って舞殿。シンプルってか質素め。でも文化財指定じゃないので
武田の頃どうだったか分からないけど、神楽の妄想は別にいいので先へw

武田菱がまぶしすぎた瞬間


階段上ると拝殿。真田丸とかの絡みで人がいるかと思ったけど全然いない!
普通に天気だったけど木々が鬱蒼としてて人いないので静寂で神秘的なの。

あまりにも残念な人だった瞬間


拝殿の奥にチラッと見えるのが重要文化財の本殿。で、拝殿の横に勝頼夫人が
納めた願文を刻んだ石碑があったから、ワタクシしげしげとそれ眺めまして。

新府城とか涙の森のこととか、自害した景徳院のこととかまで思い出して
夫人の気持ちを妄想してたら、きっと自己完結しちゃったんだろうね。

じゃ本殿も見るかな〜って、でも正面からじゃ見えないことに気づき、
横に回った写真を撮ったら、すっかりその場を離れてしまったよΣ(゚Д゚)!

・・で、肝心な石碑の写真なし。上の写真だと中央の黒い物体がそれw

勝頼夫人によって願文が納められたのは天正10年(1582)2月19日のこと。
木曽義昌に裏切りをきっかけに織田・徳川連合軍の武田領侵攻が開始され、
親族衆や家臣が離反していく中、勝頼の戦勝と武田繁栄を願ったものでした。

八幡大菩薩様 勝頼を勝たせてください。勝頼には悪い心はありません。
こんなことになって勝頼も私も悲しみ、涙も枯れるほどです。
武田の命運を開いて子孫繁栄させてください。願いが叶えば社殿も回廊も
美しく建て直しますから・・・ざっくり言ったらこんな感じのお願い。

でも願い届かず、それからひと月も経たぬ間に逃避行の果ての自害・・。
幻庵長老の教えを守って? 武田の嫁として生きた戦国の女性でした。

オーラ出まくりだった瞬間


本殿をじっくり見るには横に回ります。正面も裏もよいポジがないので横。
信玄が再建したいという本殿は国の重要文化財。そう思うと重みハンパないw

前のめり感が大事だった瞬間


石柵がじゃまなので顔をグイッと近づけ、カメラも突っ込むのがマストw
難しいことはわからないけど檜皮葺で全体も重厚で凝った造りみたいよ。
超イケイケだった当時の武田パワーみたいのが乗ってるのかもしれないね。

甘く見ていた瞬間


本殿脇には白山城跡の看板が。鎌倉時代初期、武田信義が要害城として
築いたのが始まりで、烽火台や堀跡が残っているらしい。25分くらいなら・・

安全第一だった瞬間


と思ったけど、これ行ったらダメなやつだ。冬眠明けの熊とかマジやばい!
慣れた地元の山菜取りでも襲われたりしてるニュース聞いたりするもんね。
縄張り図はともかく、音が出るものとか何も装備がない時はやめときましょう。



それにしても大事なブツの写真を撮り忘れるだなんて・・悲しすぎ!
涙の森新府城からの願文納めた八幡宮まで逆順まわりも終わったので、
次はその他、韮崎にある武田関係の史跡をバンバンめぐっていきます!


願成寺にて武田信義のお墓参り!〜に続く




*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング


2016.07.21 Thursday 13:55 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

涙の森にて勝頼と北条夫人を追慕!

2016年のGWはだいぶ前にルート組んだまま放置してた第2次山梨攻略へ!

行く気になれば日帰りですぐ行けるとか思ってると案外、行きそびれるw
今回は新府城をメインに、韮崎と北杜で武田の史跡めぐりをしました。

まずは効率よいルート取りのため、順逆になっちゃうけど涙の森へ!

迷わず到着の瞬間


なんてことない碑があるだけの史跡だけどナビにもGooglemapにも出てた!

天正10年、織田に攻めこまれた武田勝頼は新府城に自ら火を放って落ち、
再起を図るべく岩殿城を目指しましたんだけど、その途中、夫人とともに
炎に包まれた城を振り返って涙にくれたと言われるこの場所は涙の森と呼ばれています。

あまりに品がよすぎた瞬間


その時に北条夫人が詠んだという句・・武田が城を捨てて逃亡するなんて、
落ちのびながら燃えてる城を見ても信じがたい思いだったんでしょうね。

北条夫人の句って辞世の句もそうだけど、品があって綺麗で好き。
でも奥様・・ここは句なんて詠んでる時じゃないですよっていうw

この場所で新府城から直線で4キロくらい。城を脱出した瞬間から
1000前後いたはずの家臣がみるみる減って最終が女性含めて50弱でしょ。
もうこの4キロ時点でも人はかなり減っちゃってたと思うのよね・・
悲惨な最期はこの時点ではさておき、もう少し逃げる緊張感持ってこ!

妄想力が必要な瞬間


新府城の方向を見たけど、今は家が建ってて少し先も見えないけどw
煙が上がり空が赤く燃えてたら、何もない当時はよく見えたんだろうね。

新府城を背に涙の森から少し先に進むと、回看塚というのもあります。
そこも碑が立ってて、北条夫人が句を詠んだって伝えが残ってるの。

申し訳程度の残され具合が切なすぎた瞬間


はい、こちら回看塚。探しながら来なかったらマジ普通に通り過ぎるΣ(゚Д゚)!
涙の森から1キロも離れてなかったと思う。角度的には左奥が新府城方向。
ちなみに車を停めるようなスペースはないので路肩に超寄せといて瞬撮です。

デリカシーが足りない瞬間


回看塚は大正12年(1923)、塩崎村の有志によって建立されたものなんだそう。
区画整理とか現代の都合は分かるけど、せっかくなのに金網ジャマっす。

悲しかったのは間違いなかった瞬間


春がすみたちいづれどもいくたびか あとをかへして三日月の月

回看塚で詠んだ夫人の句がこちら。ワタクシは涙の森の方が好きw
2つの場所は離れてないから両方で句を詠んだとかはないだろうけど、
城から必死で逃げ出して来て数キロ離れたこの辺りで初めて一息・・
燃える城が目に入って悲しみを実感したって話はアリなのかも。

どちらにしてもそういう場所が言い伝えとして残されているから、
訪れたワタクシはあれこれ考えたり妄想したり出来るんだしね!

城を捨てて逃げ落ちる勝頼夫妻の悲しみを慮ったところで、
次はその時は激しく燃えちゃってた新府城を見に行きます。


新府城に登城!〜に続く



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング

2016.06.15 Wednesday 10:35 | comments(6) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

平泉〜毛越寺でも奥州藤原三昧!

高館義経堂から毛越寺にやってきましたよ〜!!
金色堂や高館ほど食いついてないけどせっかく平泉に来たからね。

テンションが低い瞬間


ハイハイ〜泣く子も黙る世界遺産登録!中尊寺と同じく人だらけですw
駐車場は8割入っていたかな?待つほどじゃなくてよかった。拝観料は500円。

早くもスルーする瞬間


うーん 広いです!! 入ってすぐ左手に宝物館があって平安期の仏像とか
見られるのですが興味と時間がなく割愛w 拝観料に見学料は含まれてます。

薄くてカッサカサだった瞬間


最盛期には堂塔40、禅坊500を数える規模の毛越寺でしたが、
嘉禄2年(1226)と天正元年(1573)の火災でほとんどの建物を消失。
わずかに残った堂宇も江戸期の火災で焼け、今は庭園と伽藍跡のみ。

当時は広大な境内にいくつもの伽藍が並んで極楽浄土みたいだったのよ〜
という様子を表したのがこちらの図。これを頭に入れて何もない庭を見ますw

案外ちゃんとしている瞬間


その前にちゃんとお参りはしなければ。本尊は薬師如来だそう。

毛越寺(モウツウジ)も中尊寺と同じく天台宗で、嘉祥3年(850)
慈攪大師により創建され、2代藤原基衡が七堂伽藍を建てて造営に着手、
3代秀衡が多くの堂塔や僧帽、浄土庭園を造り、毛越寺が完成しました。

イメージしづらかった瞬間


本堂から浄土庭園に向かう場所にあるのが南大門。当時の正門で
仁王門が立ち「金堂円隆寺」の勅額が掲げられていたんだそうな。

表現しているのは海だった瞬間


こちらの大泉が池を中心にした浄土庭園。途中のこんもりが中島。
南大門から池向こうにあった伽藍まで当時2つの橋が架かっていたのだとか。

写真だと一部の風景に切り取りになってしまうのでなかなか伝わらないけど、
実際に全画面で見ると素人目ながら、そっか浄土か〜と思う景趣があります。
ここでさっきのカッサカサの図を思いだして脳内3D復原すると・・うー見えんw
目と脳がずいぶん慣れてきた城と違って、興奮するほどイメージわかないね。

中は見えなかった瞬間


池を眺めつつルートを進むと開山堂。建物ほぼないから一応足をとめておくw
慈覚大師をお祀りしているお堂で、藤原三代の画像も安置されているそうな。

いい加減すぎた瞬間


こちらは嘉祥寺跡。2代基衡が工を始め、3代秀衡が完成させたお堂でした。
って説明されても「・・・で?」ってなっちゃう。何となく広さだけ見て、
いつもなら櫓を想像するところ、ちょっと豪華っぽい寺を思い浮かべといたw

気になって仕方なかった瞬間


で、こちらは金堂円隆寺の跡。2代基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺。
本尊は雲慶作の薬師如来。毛越寺の中心的伽藍で東西に廊が出て南に折れ・・・
あ、これカッサカサの図にあったやつだ!!と思って分かった気になるw
ところで途方もないお金持ちの「万宝を尽くして」ってのはどゆこと??

すごさが分からない瞬間


こちらは鑓水。池に水を入れる水路のことで発掘調査中に当時のまま
発見されたものだそうです。鑓水の遺構は奈良の宮跡以外例がなく、
平安時代としては唯一なんだとか。玉石敷いて水きり石や石組を配し、
平安時代の指導書「作庭記」の様式を余すところなく伝えてるそう。

首をかしげる瞬間


こちらは常行堂。享保17年(1732)に再建された建物のようです。
江戸期(慶長)に焼けちゃったやつね・・にしてもなんでこれだけ?

レアキャラだった瞬間


お!平泉に来て初めて坊さんの姿を見たーと思って撮ってみたw
きっと厳しい修行をしているんでしょうね・・ご苦労様です。

雰囲気にのまれやすかった瞬間


手前のシューンと飛び出てる辺りは荒磯の風情を表現しているらしいよ。
浄らかで静かで荘厳な仏様の世界〜信心なくても落ち着く気はしますね。


毛越寺も見れたからこれでワタクシの平泉観光は終了!!
そろそろお腹もすいたので前沢牛を食べて、花巻方面に移動します。


えさし藤原の郷を探訪!〜に続く


★★今年も読んでいただいてありがとうございました!みなさん 良いお年をお迎えください('∀`)



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング
2015.12.30 Wednesday 16:32 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

平泉〜弁慶墓碑と高館義経堂にお参り

中尊寺を出たら車は駐車場に置いて、歩きで高館義経堂へ向かいます。
その前に中尊寺のすぐ前にある武蔵坊弁慶の墓碑を見ていきます。

ボーっとしてたらダメな瞬間


中尊寺入り口の通り沿いにあるプチ公園のようなこの一角。
植え込みだと思ってうっかりスルーしてはいけませんw

図体通りの墓碑だった瞬間


ドーン!仁王立ちの風情すら漂う立派な墓碑は松に負けない存在感!

弁慶さんは「牛若丸」の絵本を読んだから、幼稚園の頃から知ってるw

怪力無双の荒法師で、五条大橋で笛を吹いていた牛若丸(義経)に
戦いを挑んで返り討ちに合い、以来、家来となって活躍します。

・・って超ざっくりw 作り話でも主従の出会いとしてロマンあるな。

意外と真剣に考えた瞬間


京を追放され、平泉に落ちのびた義経に従ってきた武蔵坊弁慶は
藤原泰衡の裏切りにより高館が焼き討ちされると義経を守るため
薙刀をふるって奮戦し、雨の様な矢を受けて衣川で立往生しました。
義経が自刃する時を稼ぐため、一歩も引かない決意だったんでしょう。

限界超えても力の限り頑張り、命尽きても一歩も引かない不屈の死に様・・
弁慶しかり、三国志の典韋しかり・・何が彼らを立往生までさせるの?
理解できない、自分にはできない、でもその生き様にグッと来るんだよなぁ。

合掌の瞬間


弁慶って義経がらみの要所要所での活躍(安宅の関や立往生)がありながら、
素性や詳しい働きなんかについては確かな記録が少ないみたいよね。
司馬遼太郎の義経でも弁慶の存在感薄くて、伊勢三郎のが覚えてるくらいw

とか想いながら墓碑に手を合わせ、徒歩10分の高館義経堂に向かいます。

後悔先に立たずな瞬間


高館義経堂に到着!・・てか駐車場あったのね。車でも来れました。
一丁前にと言っちゃ失礼かもしれないけど、入場料200円ですw

心が熱くなる瞬間


入り口の階段を登ると北上川と東稲荷山のそびえる風景が広がります。
左手の方で弁慶が立往生した衣川につながります。落人となった義経は
この風景をどんな思いで眺め、ここで迎えた最期に何を思ったんだろう・・・
あ、ちなみに同じ風景見た芭蕉さんに対しては特に思うところないですw

勝手に納得していた瞬間


松尾芭蕉は門人の曽良を伴って平泉を訪れた際、この高館にも立ち、
奥州藤原氏の栄華と滅亡や義経の最期を思い、あの有名な句を詠みました。

「夏草や 兵共が 夢の跡」

俳句なんてよく分かりませんが、奥州藤原氏や義経の最期を知った上で
実際この地に立ってみると、五七五の中にどんな思いが込められてるか、
自分なりに浮かんで来て、何とも分かった気になるから不思議ですww

こじんまりしすぎだった瞬間


北上川を眺めながら少し登って義経堂へ・・・って小さっ! 地味!!

中尊寺の弁慶堂の方がはるかに立派でこしらえも豪華じゃないですか・・ 

平治の乱で父、源義朝が敗死、助命され鞍馬寺に預けられた義経は、
打倒平氏の思いを抱いて15才で寺を逃げ出し、平泉の藤原氏を頼りました。
藤原氏三代秀衡は源氏の御曹司として義経を保護。そして6年後、兄頼朝
挙兵を聞いた義経は頼朝の元に駆けつけ、兄弟の対面を果たします。

義経は頼朝の命を受け平氏討伐に参戦。一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦
ついに平氏を滅亡せしめます。しかし凱旋した京で後白河法皇から無断で
任官を受けたことで、武家社会を創ろうとする頼朝の不興を買うこととなり、
兄弟は決裂。頼朝の圧力により朝廷が義経の官位剥奪、討伐令を出したことから
義経は京を逃れて決死の逃避行の末、奥州平泉に落ちのびました。

義経は藤原秀衡の庇護を受け高館を与えられますが秀衡は翌年、亡くなります。
秀衡は三人の息子に義経を守るよう遺言しますが、四代泰衡は頼朝の圧力に屈し、
義経の居館を急襲。多勢に無勢の義経は自刃して果てました。享年31歳。
義経の首は酒を満たした漆器に入れられ、鎌倉に運ばれました。

ちなみに藤原泰衡はその後、頼朝に攻めこまれることとなり、
助命嘆願ならず逃亡する途中、家臣に殺害されています。
100年に渡り栄華と繁栄を極めた奥州藤原氏はここで滅亡しました。

奥州7万騎とも言われる戦力あったんだからビビッてないで頑張れよ!

この残念な人にワタクシが言いたいのはそれだけですw
でも泰衡は父秀衡に愛された義経がきっと嫌いだったんだろうなぁ。

勝手すぎた瞬間


義経堂は天和3年(1683)仙台藩主4代伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、
中に本尊として木像の義経像が祀られています。堂と同じ頃に作られたとか。

ワタクシ子供の頃の絵本の印象がよほど強いのか、義経ってどうやっても
牛若丸と呼ばれた綺麗な顔をした身軽な少年をイメージしてしまうので、
この木像しかり、何かに載ってる肖像しかり・・なんかイヤなんですけどw

ひっそりでよさそうだった瞬間


お堂の横には源義経主従供養塔もありました。秀衡、義経、弁慶の
800年の御遠忌を期して昭和61年に建立されたんだそうです。

この時代にはなかった騎馬戦法や奇襲攻撃などを実践に取り入れ、
戦闘戦術については天才的だったと言われる若き英雄、義経さん。

父の敵の平氏を討ちたい、兄の頼朝に頼りにされたい・・・

でも戦のひらめき以外、空気も読めないし政治感覚もないんだもの。
そしてそれを愛を持って教えて導いてくれる人もいなかった。

報われることのなかった悲しく儚い生き様、悲運な最期を迎えた義経には
豪華な廟より、静かな高館にひっそり祀られてる方がよいのかもしれないね。


たまに深入りすると源平の頃もやっぱ面白くって妄想がはためくw
遠出できない時、またたまには鎌倉武士ゆかりの地めぐりしようかな〜

と思いながら中尊寺へ戻り、次は車で毛越寺に移動しちゃいます!


平泉〜毛越寺でも奥州藤原三昧!〜に続く




*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします
 !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング
2015.12.13 Sunday 08:40 | comments(4) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

平泉〜中尊寺にて奥州藤原三昧!

9月のシルバーウィークは未攻略だった岩手に出陣!

と言っても城だけじゃなく、平泉を一度は見ておきたいな〜
ついでに久々のご当地牛、前沢牛も食べて来るかな〜と思ってww

恒例の早朝到着だった瞬間


シルバーウィークの平泉なんて激混みだろうと思い万全の態勢で7時過ぎ到着!
コンビニで朝ごはん食べてから、中尊寺が開くまで無量光院跡を見に来た次第。

藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院で、当時は平等院を上回る
煌びやかな寺院でしたが火災で焼失し、今は土塁や礎石が残るのみ。
それでも奥州藤原氏の栄華を伝えるからでしょうね、国の特別史跡です。

妄想難易度が高かった瞬間


今となっては相当な妄想力がないと見えませんけど、池の向こうの中島に
平等院鳳凰堂みたいに豪華絢爛な建物がドーンと建っていたんですよね〜

当時、金がバンバン出て豊かだったので平泉は繁栄、栄華を極めました。
本なんか読んでると、財力があったため、東国との境になる白河の関を超えたら
断然、道筋も整っていたとか、人の暮らしも豊かだったと書かれてたりします。

鞍馬寺を抜け出した義経ちゃんは藤原氏を頼ってこの地にたどり着き、
兄頼朝に追放されるとここに落ちのびて最期を迎えたのよねぇ・・・・・・・

あっΣ(゚Д゚)! いかん、長考してると中尊寺出遅れてしまう!!

なんとかセーフだった瞬間


ちゃんと駐車場が開く時間に間に合ったのに、もうこの入りようΣ(゚ロ゚;)
ちょいと遅れていたら、もう30分待ちくらいになってたね。危ない危ない。

世界遺産パワーだった瞬間


拝観時間開始なのに月見坂を次から次へとゾロゾロ人が登って行きます。
人が映らないタイミングとか待ってもムダなので今回はそのまま撮ります。
月見坂ダラダラと地味に長く登っていくので運動不足のワタクシにはきついw

見て見ぬふりをした瞬間


まずは弁慶堂に立ち寄り。本堂や金色堂に続く月見坂の途中には地蔵堂だの、
薬師堂だのお堂が立ち並んでいて、好きな人はそれぞれ寄っていくみたい。

浮かばれそうになかった瞬間


他のお堂をじっくり見たわけじゃないけど、弁慶堂は立派に思えたよ。

説明書きによると文政9年(1826)再建で、藤原時代五方鎮守のため火伏の神として
本尊勝軍地蔵菩薩を祀り、義経公と弁慶の木像を安置したようです。
弁慶像は文治5年(1189)4月、高館落城時、最期まで奮戦した立往生悲憤の姿で、
更に宝物を陳列、安宅の関勧進帳に主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である・・

エッΣ(゚Д゚)! いやいや・・鎌倉彫じゃ何となく成仏できなそうな気がするよ。

妄想しかける瞬間


お堂の中には190センチ近い?と言われる等身大の弁慶像と義経さんがいます。
七つ道具を背負って薙刀握りしめた姿・・立往生ですか? 泣きそうになるわ。

記念撮影スポットだった瞬間


途中にあるいくつかのお堂はチラッと見つつ、本堂までたどり着きました。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の慈覚大師円仁によって開かれました。
12世紀初め、奥州藤原氏初代清衡公が造営に着手。戦乱で亡くなった霊を
敵味方なく慰め、戦いのない世の中を造ろうという目的を持つ建立でした。

奥州藤原氏は初代清衡から2代基衡、3代秀衡、4代泰衡まで約100年間、
平泉で繁栄を極めます。清衡の平和を願う想いは「浄土思想」として代々に
受け継がれ、毛越寺や浄土庭園、無量光院の建立とともに普及しました。

マッハで終了した瞬間


中尊寺は天台宗のお寺なのね。比叡山の。東北大本山になっているそうです。
ワタクシは正直、金色堂が見たいだけで本堂とかはあんまり興味なかったりw

簡単にお参りを済ませ、少しでも混む前にさっさと金色堂に向かいます。
案内図を見ると金色堂まで、またいくつかのお堂の並ぶ参道を通るようです。

勝手にお導かれた瞬間


大日堂だけ何となく引かれた気がして寄りました。本尊は大日如来ですかね。
豪華な弁慶堂とは違い、こじんまりしてシンプルなかわいいお堂です。

気が小さかった瞬間


やっぱり大日如来サマでした。こんなに間近に御本尊を直接拝んでしまうと、
念入りにお参りしないといけない気になる。本堂よりちゃんとお参りしたわw

グイグイ行く瞬間


宝物館もあったけど大仏とかは時間もないしこの際スルーということで、
金色堂まっしぐら!! 入場料は800円くらい? まぁいい値段取るよね。
で、撮影はNGなため、ここまでくどくど書いたわりに見せどころはなしという(´Д`)

金色堂ってのは小さな阿弥陀堂のことなんだけど、これが建物丸ごと外も中も
金箔が貼り巡らされてゴールデンだから金色堂。ピッカピカで本当にまばゆい!

黄金のきらめきが「まばゆい」と表現されるって知ってるだけだったことが、
実際に見てみて初めて実感を伴うという。そして覆堂が出来るまでこのピッカピカ、
雨風にさらされるむき出し状態で存在してたことにさらに驚愕!

建物なんだから当たり前なんだけど、庶民の感覚から行ったら盗られちゃうとか
劣化したら勿体ないとか・・。鎌倉幕府だって「こりゃいかん!」ってことで
覆堂作ったわけでしょ。藤原さんの途方もない財力と金銭感覚に唖然とするね。

ちなみに金色堂建立は天治元年(1124)。鎌倉幕府が覆ったのが弘安10年(1287)。
露天期間なんと160年以上!! 豊かな上に浄土思想でみんな鷹揚だったのかも。

ある意味コレもすごかった瞬間


金色堂の近くには旧覆堂があります。弘安10年(1287)鎌倉幕府が創ったもの。
なんとコレ、昭和37年(1962)金色堂の解体修理するまで現役だったらしいよ。

さっき見て来た新しい覆堂は空調や密閉性やら完璧な上、適度な照明もあるけど、
この覆堂はそんなものない。雨ざらしにならないよう覆ってんだから窓も少ない。
中に入ってみたけど薄暗くて・・金色堂のまばゆさ今と違って見えただろうね。

勝手に納得する瞬間


当時を見た松尾芭蕉さんが旧覆堂の横に、奥の細道スタイルで立ってます。
平泉を訪れ、金色堂を見た芭蕉さんの一句「五月雨の降り残してや光堂」。
芭蕉さんはきらめきの中に見える廃れや枯れた感に感動したんじゃない?
今の覆堂とピッカピカを見てもこの句は詠めなかっただろうと思われますw


よーーし、これで中尊寺ワタクシ的にはコンプリート! 
次は弁慶墓碑と義経が祀られる高館義経堂にすっ飛んで行きます!!


平泉〜弁慶墓碑と高館義経堂にお参り〜に続く



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング
2015.11.29 Sunday 12:20 | comments(2) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

大樹寺にて徳川三昧!

安城城から三河武士の館に立ち寄ってから大樹寺へ。

物好きすぎる瞬間


わざわざは来ないけど、大樹寺行くのに通りかかるなら見るでしょ〜
ってことで立ち寄り。何度も来てる岡崎城には目もくれず三河武士の館にインですw

さらに物好きすぎた瞬間


入り口には川の葵の御紋を挟んで真田兄弟。完全に意図ある配置です。
ここで間に立って写真を撮る人が多くて、ワタクシ5分も待っちまったわw

ファンがかぶりついていた瞬間


幸村の槍に三成のデカ扇子、信長の刀・・キャラの画とゲームに出てくる武器を
実際に作ったものが展示されてます。忠勝さんのは相当細身にされてますが。
ゲームキャラはかっこよすぎ。でもワタクシはいつも肖像画の顔で妄想してますがw

威風堂々すぎた瞬間


刀剣展はほどほどにして大樹寺にやってきました。松平・徳川の菩提寺です。
山門は寛永18年(1641)三代将軍家光の建立。後奈良天皇御宸筆の勅額が桜上に。

充血するほど眺める瞬間


大樹寺と岡崎城を結ぶ有名なビスタライン〜やっとこの目で見られた!
山門の向かい側には道路を挟んで大樹寺小学校があり、山門を背にして立つと、
学校に残る総門の奥に岡崎城が見えるってやつ。この写真だと見づらいけど・・

寛永18年(1641)家康の十七回忌に、家光が祖父生誕の地を望めるようにと
本堂から山門、総門から岡崎城が見えるようにしたんだって。
歴代城主は岡崎城天守から毎日、大樹寺に拝礼したと伝わるそうな。

風格に満ちていた瞬間


境内に入ります。そこからの山門と鐘楼。鐘楼も寛永18年(1641)家光建立。
ワタクシよく見ませんでしたが鐘は9代家重改鋳なんだそうです。

威光にあてられる瞬間


こちらが本堂。安政2年の火災で焼失し、安政4年(1857)13代家定が再建。
まずは本堂で参拝して、有料の文化財収蔵庫、位牌堂をめぐりました。
家康の「遺体は久能山へ埋蔵せよ、位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」という
遺言により家康はじめ、歴代将軍の位牌がここに安置されています。

中は撮影禁止なので写真はないんだけど、将軍御成の間とか、歴代将軍の
ドデカイ位牌が並ぶ位牌堂とか家康の木造とか・・川三昧で溜息でますw

人生を変えた寺!だった瞬間


本堂の横には家康像があります。大樹寺は松平4代の親忠(家康の5代前)が
念仏堂を設けたのが始まりで、文明7年(1475)に寺を建て大樹寺としました。

桶狭間で今川義元が討たれた時、大高城にいた家康は大樹寺に逃げこんで、
先祖の墓前で自害しようとしますが、13代住職登誉上人の「厭離穢土、欣求浄土」
に自害を思いとどまりました。家康はこれを旗印にし、終生座右の銘とします。

戦国の世は穢土、平和な世が浄土・・・「戦国乱世を終わらせて
住みやすい浄土を創る」。決意を胸に刻んだ家康ここでレベルアップ。
この出来事が後に三方ヶ原で脱糞しながら逃げ帰っても、惨めな自分の姿を
描かせて戒めにしようって思える強い心を作ったんだね。きっと。

美しすぎた瞬間


ピッカピカの御影石が美しすぎて武将像を見ている気がしないw

大樹寺には廟所もあって見られないと思ってあきらめていたのですが、
後から調べるとどうやら見られるらしいんですね・・また見逃したわw


次は帰りがてら本宗寺へ向かい、石川数正のお墓参りをします。

本宗寺にて石川数正のお墓参り!〜に続く



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング

2015.10.12 Monday 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

三国同盟の舞台〜善得寺公園を探訪!

医王寺で勘助さんのお墓参りをした後は善得寺公園にやってきました。

今川氏の大軍師、太源雪斎の働きかけにより武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が
結ばれた舞台の地で、ここもやっぱり前から一度来てみたいところだったのよ。

おどおどしていた瞬間


グーグルマップでもナビでも善得寺公園は出るので場所はわかるのに、
道があまりに狭すぎて車でたどり着けないという・・あきらめて徒歩にチェンジ。

ワタクシ車だとあまり迷わないんだけど、徒歩だと著しく方向音痴になるんです。
番地の大雑把なローカルだけじゃなく、都内でも迷子になって焦ることしばし。
なのでスマホ片手に歩いてるのに案内板を見つけたら、すぐそっちに行きますw

感動がすくなかった瞬間


路地を抜けた先に善得寺址の碑がありました。善得寺は南北朝の頃に創建され、
戦国期には駿河国東部第一の寺となり、善得寺城も併設するほどの規模だったとか。

武田、北条、今川の三国同盟は今川の軍師、太源雪斎のあっせんにより、
善得寺で行われたと伝えられています。雪斎サマが善得寺の住持だったので、
中立の立場になるお寺が舞台として選ばれたと言われているようです。

不安この上ない瞬間


しかし十数年後に同盟は崩壊し、信玄が駿河侵攻すると寺は焼き尽くされ、
その後、再建された小堂宇が明治初年までは残っていたそうですが今は住宅街。

ところで・・善得寺公園の案内どおりに来たのに碑はあれど公園は見当たらず。
結局、スマホを見ながらウロウロ歩き、自力で公園まで行くことになりましたw

ホッとした瞬間


細い道を抜けた一軒家ばかりの住宅街の中にポツンとある集合住宅前に案内板。
善得寺公園はこの建物の裏・・生活道路から引っ込んだところにあるようです。

気が晴れた瞬間


公園前は広々! それに数台分の駐車場もあったり・・って道狭すぎて来れないわw
背後に美しい富士山がドーンと見えます。雪斎サマもこの感じで目にしてたんですね〜

マイナー感強すぎの瞬間


公園の入り口。柵で囲んだだけとかじゃないそこそこお金をかけた感じの作り。
もう少しわかりやすい場所とか、せめて入口の向きを通り側にすればいいのに〜
とちょっと思ったけど、ショバ代とかきっと大人の都合があったんでしょうねw

気持ちの盛り上げが必要な瞬間


階段を上って公園にイン! 東屋が一つあるだけで敷地は広くありません。
左方の柵のところに「三国同盟の庭」、土塀の中に歴代住持の墓があります。

画期的すぎた瞬間


こちら「三国同盟の庭」。今川、武田、北条が善得寺で会合し同盟を結んだ
ことにちなんで、左奥から駿河、甲斐、相模と各地の石が置かれています。

互いの領地に攻め込まないっていう不可侵的なのは当たり前としても、
同盟してない国と戦になったら必ず援軍を送るという約束までついた
この同盟は食うか食われるかの戦国時代、とってもすごいことですよ。

大河ドラマ「武田信玄」みたいに義元、信玄、氏康の3人が直接会ったとか
正直ないわ〜と思うけど、実際に同盟は締結したんだから雪斎サマすごいぜ!

爪の垢でもいただきたい瞬間


歴代住持の墓があるというので、雪斎サマのお墓に参っておかねば。
雪斎サマは同盟締結の翌年に亡くなり、その5年後に義元が桶狭間で討死すると、
それをきっかけに同盟は崩壊。武田、北条は鼻息荒く争い、今川は衰退しました。

微妙なお参りだった瞬間


墓石は並んでいるけど・・雪斎サマの墓ドレ? 人の名前は明らかに現代人の。
よくわかんないから離れたとこから墓石一式に向かって手を合わせといたわw

あっさり終わる瞬間


公園の片隅にはもう一つの善得寺址碑(御影石で立派)がありました。
他に見るものもないのでこれにて善得寺公園は終了〜!!


モロに現場ドンピシャとか建物が残っているとかってんじゃなくても、
後から施された整備の規模が大きかろうと小さかろうとワタクシは満足!
その場所(らしきも含む)に行って史実をもとに妄想すれば楽しいんだw


なんとか目標達成したので満足したワタクシは
最後に本日最大の目的、信長サマの首塚へ参るべく、
西山本門寺に向かいます! 不便なとこなんだよな。.


西山本門寺にて信長サマの首塚にお参り!〜に続く



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング

2015.07.05 Sunday 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 

光明寺にて支倉常長のお墓参り

瑞鳳殿の後は雨で早足になるせいか、少し時間が少々浮いたので光明寺へ。
覚範寺と同じ北山五山のひとつに数えられる伊達家ゆかりのお寺なのでね。

分かりづらかった瞬間


ナビに任せてきたので本当は違うのかもしれないけど入り口が分からず難儀。
結局、裏手の駐車場に着いてしまったので山門側に回り込んでスタートです。
どうでもいいけどわざわざ脇戸から入るようにしてるのはなんでなの??

ひっそりしていた瞬間


光明寺は臨済宗のお寺。元は福島に弘安6年(1283)伊達氏始祖朝宗の夫人の
菩提寺として創建され、伊達家の仙台移封とともにこの地に移ってきたのだとか。
こちらには仙台城で銅像を見た支倉常長さんのお墓があるのでやってきた次第。

迷わず安心の瞬間


本堂左手の方の墓域に入ると親切な案内板が。ホント墓はこれあると助かるの。
たまに案内あっても結局どれですか?って時もあるけどないよりは断然まし。

ホッとした瞬間


幸い支倉さんのお墓はすぐに分かりました。いくつかお墓があるそうですが、
こちら光明寺のものがリアル墓なんだそうです。ソテロの記念碑もあるみたい。

寂しげだった瞬間


正面の木々の間にあるこじんまりとしたのが支倉さんのお墓のようです。

支倉さんは伊達家臣でスペインとの直接貿易を望んだ政宗に命じられ、
慶長18年(1613)石巻から出航し90日もかかってスペインに渡ったツワモノ。

イスパニア国王フェリペ3世に、ローマでは教皇パウロ5世に謁見し、
ローマ市民権をもらって貴族に列せられるなどかなり歓迎されたそうですが、
貿易や通商についての目的は果たせないまま7年後に帰国しました。

洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。

主君の命を受け、7年も異国で頑張ったものの期待した成果は得られず、
やっと帰国すればキリスト教弾圧の逆風が吹き荒れる完全アウェー状態。
ドン支倉は帰国から2年後、失意のうちに病死したと言われています。

やっぱり地味すごだった瞬間


ドン支倉は文禄・慶長の役に鉄砲隊を率いて従軍し活躍したようです。
スペイン語堪能とか超重臣だったわけじゃなさそうなのに遣欧使節の正使に
政宗が抜擢したのは何でなんだろうね。もうこの時点でキリストアウト!風に
なりつつあったみたいだし、政宗さんにはひそかな野望もあったようだから、
任務はこなせて度胸あるほどよいポジの有能な人ってことで選ばれたのかな。
政宗は「自分は日本の実力者だ」くらいのこと書状に書いてたらしいしね。

当時の船で90日もかけてスペインに渡り、7年も異文化交流してきたドン支倉。
素直にすごいと思うわ。ワタクシは飛行機で行くとしても7年も外国なんて無理w

気の毒すぎた瞬間


ドン支倉のお墓のそばにはフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの記念碑が。

フィリピンで日本語を学んだソテロは1603年、フィリピン総督の書簡を携えて
徳川家康と面会し日本で布教活動を行いました。禁教令後、捕らえられたところ
政宗の助命により救われ、支倉常長と共に福使としてヨーロッパに渡りました。
7年後、ソテロはドン支倉と帰国しますが長崎で密入国しようとして捕らえられ、
政宗が助命嘆願したもののこの時は許されず火刑により殉教しました。

宣教師に思い入れはないけど、キリシタン狩り的なのはひどくてイヤだね。


さて、まだ雨は降ってるけどこの後は帰りがけの駄賃で亘理に立ち寄り、
政宗の片腕と言われた剛の者、伊達成実さんのお墓参りに行きます。


大雄寺にて伊達成実のお墓参り〜に続く



*****ランキング参加中〜励みになります!!ポチッとお願いします !いつも応援ありがとう♪*****

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へにほんブログ村  人気ブログランキングへ人気ブログランキング城  歴史ブログランキング

2015.04.18 Saturday 19:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将ゆかりの寺社仏閣 | 
<< | 2 / 4 PAGES | >>