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天徳寺にて佐竹家廟所に参拝!

佐竹義重の眠る闐信寺の次は、佐竹家廟所のある天徳寺へ!

正直、このお寺はこの時、期待できる要素がほとんどなかったんだけど、
秋田もそう簡単に来られないから雰囲気だけでもと立ち寄る次第。

いきなりな瞬間


お寺に着くとまず見えるのがこの風格ある総門で、いきなりの国重要文化財!

天徳寺は元は佐竹義人が夫人を弔うため、常陸(現茨城県)に創建したもので、
佐竹家の秋田転封により久保田に移された曹洞宗のお寺です。佐竹家菩提寺。

歴史を感じる瞬間


次は重厚な山門がおでまし。こちらも1709年築の国重文です。天徳寺はこのほか、
本堂や書院も国重文だし、佐竹家所縁の品など多くの文化財を所有してるんだけど・・

色々こみあげている瞬間


うう・・・本堂が工事中だったのよね。隣の書院もまとめて覆われちゃって。
もちろん分かってて来てるんだけど、目の前に来るとちょっと悲しみだったな。

しょぼむ瞬間


よし。気を取り直して!といきたいところだけど、本堂左手にある佐竹家の廟所。
こちらがまたコレ残念でさ。普段は御霊屋の前までは行けないのよ・・うう。

無念すぎる瞬間


ちらっと見えた赤い屋根が御霊屋で、周りに歴代藩主の墓所が並んでいるみたい。
近世霊廟建築として豪華で大名菩提所の姿を良くとどめてるって説明に書いてあった。

ポジティブは大事だった瞬間


お墓参りの人が多かったから、柵にへばりついてのぞくわけにもいかず、
でも本堂と違って見れただけマシか!って遠くから心の中でお参りしといた。

納得の瞬間


出口にあった写真を見ると、本堂は今こんな状態になってるらしい(*°∀°)=3
文化財を次の時代に残していくため、お手入れは大事だもんね。しょうがない。

秋田の史跡めぐりで外せないお寺だし、来れたってことで良しとしましょう!


さて。じゃ次はひそかに楽しみにしてる秋田城へ行ってみよっか!


秋田城へ登城!〜に続く



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2019.03.15 Friday 09:58 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

闐信寺にて佐竹義重のお墓参り

角館から日本海に向けて車を走らせ、秋田市にやってきました!
佐竹のお膝元で、まずは鬼義重のお墓参りをすべく、闐信寺へ。

闐信寺「てんしんじ」って読むんだけど「闐」の字が変換で出なくてさ。
門構えに眞って書く字だけど、なんと環境依存文字なんだって。不便よね。

で、不便と言えば漢字だけじゃなく、お寺もホントにわかりづらくって。
ナビにズバリでないし、道は狭いわ一方通行が多いわで車はハードル高し!

やーーーっとたどり着いた瞬間


結局、車を置いて徒歩でたどり着いた・・過去最高に分かりづらかったかも。
闐信寺は1613年、佐竹義宣が父義重の菩提を弔うために建立したお寺です。

こじんまりしていた瞬間


仁王像は珍しい石造り。山門の扁額が取れちゃってるのが切ない(*°∀°)=3
久保田三十三観音二番札所らしいんだけど、案内とかもなく色々ひっそりしてます。

ひっそりすぎた瞬間


門をくぐるとすぐ目の前に墓石が並んでて、その奥に小さな本堂が。
情報が少ないお寺だから、話を聞きたかったけど誰もいなくて残念だったな。

地味すぎた瞬間


義重さんのお墓は本堂左奥。案内がないので調べてないと分からなかったかも。
亡くなった時は天徳寺に葬られ、後にこちらに改装されたものらしいです。

ふんわり合掌しておく瞬間


扉には隙間がなくて中は見えません。こちらには義重さんのお墓だけじゃなく、
一族や家臣の墓碑もあると聞いたんだけど、霊屋の近くにそれっぽいのはなし。

義重は常陸の大名、佐竹家18代当主。16歳で家督を継ぐと近隣大名をはじめ、
伊達氏や北条氏とも戦いを繰り広げ、佐竹家の全盛期を築きあげました。

「鬼義重」の異名を取るほど勇猛な武将ながら政治力にも優れており、
天正14年 (1586) 、40歳で嫡男義宣に家督を譲った後も実権を握ると、
小田原攻めに義宣を参陣させ、秀吉から本領安堵された後、隠居しました。

関ヶ原の戦いでは、石田三成と親しい義宣と東西どちらにつくか対立して
出遅れた結果、日和見と見られ、常陸54万石を没収の末、秋田20万石へ転封。
慶長7(1602)年4月19日、鷹狩中の落馬が元で死去しました。享年66歳。

フラッシュはやめておいた瞬間


中見れないのかって、さりげに霊屋の横に回ったら床の方に小窓があいてた!
ん〜アレきっと墓碑だよねぇ・・薄暗くて全く分からなかった(*°∀°)=3


有名な武将のお墓だけど超ひっそりすぎたな。場所もハードル高かったしね。
でもお参り出来たから満足! 次は佐竹家の廟所にお参りに行きます!


天徳寺にて佐竹家廟所に参拝!〜に続く



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2019.03.01 Friday 16:06 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

角館武家屋敷にて青柳家探訪!

角館城をかけおりて、城下にある武家屋敷町にやってきました!

マメすぎた瞬間


お屋敷が開く時間には人手が多くなると思って、登城する前に寄って撮っといた!
桜や紅葉の方がもっと絵になるけど、夏でもしっとりした風情ある素敵な街並み。

風格漂いすぎな瞬間


街の中には見学できる屋敷が6軒あり、資料館やお土産屋さんなんかもあるから、
ホントはゆっくり散策したいとこけど、ワタクシは時短のため青柳家一点狙いよ。
上級武士にしか許されないという格式ある薬医門をくぐっていざ中へ。たのもー!

鼻息が荒い瞬間


入場料は500円。隣の石黒家が300円で、他4軒は無料って考えると少し高いのかもだけど、
お屋敷の豪華さも展示の充実も一番らしいので、絶対ハズせないからメッチャ楽しみ!

庶民にはわからない瞬間


もらったパンフレットを見ながら、まずは母屋に入って順路通りに進みます。
敷地は3000坪ってことなんだけど、ワタクシには広さの想像が全くつきません。

すでに広くてびっくりな瞬間


玄関を入ると仏間とかの和室がいくつか並んでて、柔らかな明かりや掛け時計で
レトロおしゃれですかって雰囲気だけど、よく見ると造りはとても重厚です。

セレブだった瞬間


続いてお台所とか水屋があるんだけど、調度品がお上品な漆塗りですよ!
上級武士ともなると日用雑貨までイイモノそろえるお金がかかりますね。

垂涎の瞬間


こちらはワタクシが一番楽しみにしてた武器蔵。代々伝わる鎧・兜だけじゃなく、
刀剣や装飾具、江戸時代からの文献など、貴重なお品がわんさとあります。

ワナワナしている瞬間


時代区分とか持ち主に限らず、武将や侍が実際に所有していた甲冑を見ると、
めっちゃ興奮するよね! かなり年季も入ってて長く続く家なんだなって感動。

かぶりつく瞬間


甲冑ケースの上の段には馬具があり、ケースの中には陣笠なんかもありましてね。
いちいちガン見して「へぇ」とかやってたから武具蔵だけで時間くったな(*°∀°)=3

入場料の元を取った瞬間


刀剣類も充実。武士の誇りが宿るたくさんの収蔵品に圧倒されます。
ワタクシがいる間、人が来なかったのでじっくり見られてホントよかった。

感嘆しちゃう瞬間


最後は単独で展示されていた青柳家家宝だという六十二間小星兜と二枚胴具足。
右後ろの五輪塔旗印は鎌倉時代のものだっていうし・・正座で眺めた方がいいですか?

体幹が大事だった瞬間


武具蔵の外には、本物の刀と片刃槍を持つことのできるコーナーもあります。
ちょっと持ちあげてみただけで、わかっちゃいるけど超〜重いよね。
振り上げて戦うとかナイナイ。腰にさして歩くだけでもワタクシよろめくな。

風情ただよう瞬間


武具蔵を出ると母屋の裏手の広い庭に出ます。池泉回遊式庭園ってことで、
写真にはないけど敷地の真ん中にけっこう大きな池があってすごい立派なのよ!
もしここに住んでたら、毎朝の散歩はこの庭だけで終わってもいいなってくらい。

印象が強すぎる瞬間


正面には解体新書記念館。解体新書は江戸時代に杉田玄白や前野良沢が翻訳した
ベストセラー医学書。歴史の授業で必ず習うコレ、なぜか絶対に忘れない不思議w

興味をひかれてる瞬間


解体新書は日本で初めとなる正確な人体解剖図がついてるってのが衝撃なんだけど、
その人体解剖図を描いた画家が、角館の小田野直武という武士だったんですね。

食いつく瞬間


コレコレ教科書に載ってたやつね! 青柳家と小田野直武は姻戚関係にあって、
その後も両家の関係が深いことから、画業を展示する記念館があるんだって。

さらに食いつく瞬間


で、この人が小田野さん。後ろには角館の武士だった小田野さんが解剖図を描くに至った
歩みが紙芝居風に並んでて、見始めたら興味深くて最後までじっくり読んでしまったw

直武は角館を訪れた平賀源内に絵の才能を見出され、西洋画を学ぶんだけど、
源内が江戸に戻った後、秋田本藩から産物取立役として江戸に3年の出張を命じられ、
慌てて江戸に行くと、杉田玄白らに紹介されて解剖図を描くことになったというね。

直武は角館北家(支藩)の平侍。それが急に本藩から江戸でのお役目を与えられ、
行ってみたら藩と関係ない絵を描く仕事だった・・ってちょっと変な話だけど、
当時の秋田藩主、佐竹曙山も絵を好んで、参勤交代で江戸に来ると直武を召して、
主従ともに蘭画の研究をしたっていうから、藩主の特命だったのかもしれないね。

唖然とする瞬間


最後に見たのは「武家道具館」。代々伝わる文献書籍や押絵、焼物、絵皿ほか、
2階にも箪笥やら金庫(?)などの家具が。すごい数だなって思ってたら、
どうもこれで全部じゃないらしく、どんだけ裕福で物持ちだったんだと驚いた。

広大な庭には「秋田郷土館」「幕末写真館」「ハイカラ館」などもあり、
角館の暮らしから、幕末の資料、明治の蓄音機や時計などのアンティークや、
戦争中の陸軍将校装備や軍服なんかの展示もあって、ホントもう歴史がすごい!

この辺はあんまり興味ないのと、武具と小田野さんに時間をかけすぎたので、
ワタクシはちゃちゃっと見て終えてしまったけど、でも一見の価値ありでした。

趣がある瞬間


最後は入場時、玄関側からは見えなかった母屋の反対側を見学して終了。
約200年前の建築で重要文化財。周り縁がある雪国特有の作りなんだって。

うっとりしている瞬間


ここから床の間のついた部屋が見れます。間取り図に「ざしき」って書いてあった。
古い建物特有の落ち着く感じもあるし、でも武家のキリッとした雰囲気も素敵!

青柳家、見学してホントに良かった! 500円じゃ安いくらいの見応えだった!


この後は角館から日本海方面へ、秋田市に向かっての進軍!

途中、唐松城に登城したら少し前の台風の影響で立入禁止になってた・・Σ(゚Д゚)!
残念だけど安全第一! 結果、青柳家でオーバーした時間がチャラになりましたw


闐信寺にて佐竹義重のお墓参り〜に続く


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2019.02.15 Friday 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

角館城に登城!

天寧寺の葦名家墓所に続き、今日も角館の街からスタート!

人が少ないうちに武家屋敷を見たいけど、開いてる時間が決まってるから、
まずは朝イチから気合入れて、涼しいうちに角館城に登っちゃうことにした。

あっと言う間だった瞬間


武家屋敷の街並みを出た大通り沿いにある、古城山公園の入口を車で登っていくと、
すぐ登城口に到着! 朝から標高166mも登ったら倒れちゃうかもしれないので助かるw

ついでにあの車両止めもなければ、楽に上まで行けるのにな〜と思いながら、
案内板の左手奥にある駐車場の、桜の葉が茂った日陰に車を停めてきました。

迷わず却下する瞬間


登城口を進むとすぐ右手に入ってく道があって、これは急だけど本郭へは最短。
でもワタクシ登りが急とかイヤだから、行きは遠回りだけど舗装された道を選択。

おののいていた瞬間


したものの・・・ナニコレ超〜遠い!!地味に急な坂が長すぎてビビった。
でもこっちから登る方が郭を順に見ていけるし、頑張って登らないとね。

はぁはぁしている瞬間


やーっと直線を登り切った! ここで舗装道は右にギュンと曲がるんだけど、
そのカーブの中が六郭らしい。道を作るのに削られてるせいか激狭ですけどw

ふくよかすぎた瞬間


少し進むと目の前が開けて山頂の本郭が見えます。道路以外は草ボーボーなので、
せっかくの切り岸もふんわりしちゃって、高低差や距離は少し分かりづらいかも。

スリムすぎる瞬間


そして五郭も道路の横っちょにひっそりと。知らなかったらスルーしちゃう。

角館城は中世にこの地を治めた戸沢氏が築いた城で、当時は山の上に居館があったとか。

戸沢氏は織田信長や豊臣秀吉と誼を通じ、戦国期を通じてこの地を支配しますが、
慶長7年(1602)常陸松岡に転封になると、常陸から久保田藩主として佐竹氏が入り、
久保田城の支城として、弟の葦名義広を城主としました。

葦名氏は山麓に居館を構え、現在の角館の元になる新たな城下町を整備しますが、
元和6年(1620)、一国一城令により、角館城は廃城となりました。

時短モード発動の瞬間


少し進むと左手に四郭が現れます。広くないけど斜面のへりとは佇まいが違うなw
遺構もないみたいだし、街並みは本郭から見ればいいので先へ進みます。

瞬撮の瞬間


本郭に入る前に、舗装路を挟んで反対側にある三郭をチラ見しておく。
ここもまた狭い郭で、取って付けたみたいな感じがしちゃうくらい。

なんにもなかった瞬間


そして本郭。元は居館があったってくらいだから山頂にしては平坦でなかなか広め。
今は花見の人気スポットなんだって。来るまでの坂はきついしトイレもないけど!

唐突すぎた瞬間


本郭のど真ん中には、城址碑と戸沢氏の供養塔がぽつんと建っています。
転封になっちゃったのに、あえてここに供養塔?とちょっと思ったけどさ。

分かったぶる瞬間


でも城址碑を見たら、城名よりむしろ戸沢氏の顕彰っぽくなってるから
長らく支配していた分、地元の方の思い入れがあるのかなって勝手に納得w

まあまあ残念な瞬間


本郭からの見晴らしは悪くないんだろうけど、ちょいちょい木が邪魔で、
武家屋敷の辺りとかピンポイントで見たい所の見え方はイマイチだよっていう。

ボーボーすぎた瞬間


よーし。帰りは反対側の登城道を降りてこっか!と思ったら道がなーーい!!
2郭に降りてく細い坂道は草ボーボー。おまけに2郭もワッサワサのフッサフサ。

もし変なガッツ出して最短の登城路チョイスしてたらマジやばかった(*°∀°)=3

見なかったことにして来た道を戻ったけど、長い下り坂は膝によくないんだから!



ガクガクしながら車に戻ったら、開館直後の青柳家へ突撃します。たのもー!



角館武家屋敷にて青柳家探訪!〜へ続く



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2019.01.29 Tuesday 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

天寧寺にて葦名家墓所に参拝!

払田柵の南大路で行き倒れず、何とか角館までたどり着けましたw
早くビールが飲みたいけど、ホテルに入る前にもうひとふんばり天寧寺へ!
こちらでは会津の戦国大名だった葦名氏のお墓参りをするのです。

ひっそりしていた瞬間


場所が少し離れているせいか、武家屋敷の街並みと違って人が全然いない!
まぁまぁ車が走る道路に面した山門は、角館城から移築されたものなんだって。

天寧寺は元々、葦名氏11代盛信が会津に菩提寺として開いたのが始まりで、、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田に転封に伴い、葦名氏も角館に移ったことから、
寛永元年(1624)、葦名義勝(義広)がこの地に建立した曹洞宗の古刹です。

モダーン風だった瞬間


本堂は明治18年に焼失して、昭和44年に建て替えられたものだそうです。
中には葦名家の念持仏である火伏せ観音像が納められているのだとか。

泡を夢見る瞬間


早くビールが飲みたくて、いそいそと本堂左奥にある墓域に向かいます。
ワタクシは下調べしてたけど、案内もあったしすぐ裏だから分かりやすいよ!

オンマイウェイな瞬間


墓域は仙北市指定史跡。入り口には「史跡芦名氏墓地」の碑があります。
そういえば天寧寺では説明板とかも、ほぼ「芦名」の表記になってたな。
ワタクシは前から「葦名」にしてるので、ブレずにそれで書いていますw

ひっそり佇む瞬間


中に入ると苔むした通路の先に、墓碑が並んでいるのが見えます。

葦名氏は会津最初の領主で、16代盛氏の頃には伊達氏と並ぶ勢力を誇りましたが、
17代盛興、18代盛隆、生後1ヶ月で19代を継いだ亀若丸と跡継ぎの早逝が続いたことで、
後継者をめぐる家中の争いが絶えず、盛氏の死後は次第に衰えていってしまいます。

亀若丸の死後、佐竹義重の二男義広が養子に迎えられ、20代当主になりますが、
天正17年(1589)摺上原の戦いで伊達政宗に敗北すると、義広は実家のある常陸に逃走。
後に秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられるものの、関ヶ原で西軍に組した兄、
佐竹義宣の連座で所領を没収されると、名を義勝と改めて佐竹氏と共に秋田へ移り、
角館で1万6千石を与えられ、以降、3代にわたってこの地を治めました。

不幸すぎだしミステリーすぎた瞬間


お墓は葦名義勝を中心に、義勝の正室と側室、義勝の嫡男葦名盛泰、
2代盛俊と盛俊の正室、3代千鶴丸に殉死した家臣2名の10墓あるみたい。

義勝さんは城下町の整備を精力的に行って57歳で亡くなるんだけど、
嫡男盛泰が佐竹義宣の養子になって夭逝してたから、2代を継いだのは
なんと!義勝さんが亡くなって4ヵ月後に生まれた盛俊さん(*°∀°)=3

盛俊さんは元服すると3代将軍徳川家光に拝謁し、覚えもめでためだったから、
そのまま頑張ってたら、葦名家大名復帰もワンチャンあったかもしれないけど、
まさか20歳の若さで無念の病死!3代は1歳の嫡子、千鶴丸が継ぐことに。

とーこーろーがー! この千鶴丸ちゃんも3歳で亡くなってしま・・えw

その死因ってのが父、盛俊の法要のため天寧寺に来た時に縁側から落ち、
靴脱ぎ石に頭を打ちつけたっていうんだけど、そんなことってある!?
周りに大人がゾロゾロついてるお坊ちゃまで、しかもご当主なのに!!

早死にが続きすぎて多すぎてホント怖いわ。葦名家マジ不幸すぎです。

跡継ぎがいなくなった葦名家は、藩主(佐竹氏)の命で絶家が決まり、
明暦2年(1656)、名実ともに滅亡。佐竹氏も代が変わると冷たいよね。
分家みたいなものなのに、存続させる気がなかったんだろうなって。

心を込めて合掌の瞬間


大名家って子がいないのもヤバいけど、無駄に多くても争いになるし、
後継ぎがいても次々早死すればアウト。親戚筋がアテにならんのも痛い。

家を存続させるってワタクシ達が思う以上に大変なことなんですねぇ・・

気安く語りかけながら、葦名家のみなさんに念入りにお参りしました。


さーて、これで秋田出陣初日は終了! 

ダッシュでホテルにチェックインして・・・ビールうめぇぇぇぇぇ!!


明日は朝イチの涼しいうちに城山に登る!


角館城に登城!〜に続く



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2019.01.11 Friday 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 武将の墓所と出生地 | 

払田柵跡に登城!

金沢柵から急ぎめで、払田柵跡(ほったのさくあと)にやってきました!

この日は新庄城スタートで、宿のある角館に向けて進軍してたんだけど、
払田柵にたどり着いた時点で、予定どおりに終われることが確定!
ですからワタクシは今、とーーっても穏やかな気持ちですw

とはいえ遅刻だった瞬間


志波城のような長い築地塀はないけど、どちらも古代城柵ってことで似た雰囲気です。
こちらも同じく総合案内所が併設されてるんだけど、16時閉館で間に合わず残念!

払田柵総合案内所では、資料展示や歴史ビデオなんかが見れらるみたい。
間に合ってたらきっと、パンフレットなんかももらえたんでしょうね(遠い目)

用心深かった瞬間


でも! ワタクシはネットで拾った案内図を印刷してきたから何とかなった!
まずは復元の外柵南門。当時は秋田杉の柵木塀が回りを囲んでいたらしいです。

城柵というのは当時、蝦夷(えみし)と呼ばれていた東北の人々を統治するため
設置された朝廷の施設で、行政府や軍事拠点としての役割をもっていました。
当時は鉾もった兵とか、都から派遣された役人が忙しく出入りしたんだろうね。

西日で焦げそうな瞬間


門をくぐると広い大路がのびのび続いてるんだけど、政庁跡マジ彼方すぎ!!
写真より実際はもっと遠くて、ペットボトル握りしめ、根性ふり絞って行ったわw

芸が細かい瞬間


大路を進んでいくと、やたら蛇行した川が流れてるのが見えてきました。
発掘調査でくねくねした川があったことが分かって、復元されたんだって。

色々あなどれない瞬間


川にはしっかりした橋もかかってます。発掘調査を元に復元されたもので、
地中には遺構が埋まってるから、影響を与えない工法で施行されたんだって。

立派な橋にも驚いたけど、よく見たら先がまだ長くてもっと驚いた(*°∀°)=3

東北最大規模だった瞬間


汗をふきふき歩いて、やっと総合説明版のある場所にたどり着きました。

現在、払田柵跡として整備されてるのはほんの一部で、全体は超〜広大!
87.8h…なんと東京ドーム18個分の広さとか! とにかく広いのは分かる。

で、帰り道に気づいたんだけど、周辺の道沿いあちこちかなり遠くまで
「この下に払田柵が眠っています」って標柱があるのを見て勝手に納得w

ミステリーだった瞬間


これは説明版の前にあった西建物跡の表面展示。色々発掘されてるね!

でも払田柵ってこの規模の城柵なのに、文献に一切記載がない謎の柵で、
発掘された材木の年輪から、801年頃に築かれたことが分かったくらいで、
そもそも払田って名前も地名を取って後から付けられたものなんだって。

太平洋側は志波城、日本海側に秋田城、で中間にあったのが払田柵でしょ。
蝦夷支配の最前線みたいに並んでいながら、文献に無いってすごい不思議!

わかりやすかった瞬間


これは大路を挟んで反対側にある東建物。復元だと大きさや雰囲気わかる!
この辺は政庁に近いから、役所みたいな施設だったと考えられてるみたい。

テンション上がる瞬間


おお・・やっと外郭南門が近くに見えてきた! 払田柵っていったらここが
すぐ思い浮かぶぐらい印象的。あえて柱だけっていうのがかっこいいんだわぁ。

門の両側にある石塁は、発掘調査の成果に基づいて復元されたもので、
西側の下部は1200年前の実物遺構だとか! よくわからなかったけどw

ちょっぴり神秘的だった瞬間


外郭南門は発掘調査の後、遺構保護層を設けて柱列の真上に復元したもの。
遺構はクリ材など柱直径60cmだけど、復元は青森ヒバで直径も50cmなんだって。

たどりついた瞬間


石段を登ってようやく政庁跡のある丘の上に到着!しっかし遠かったわぁ。
この丘の辺は長森って場所で、払田柵自体が小丘陵地にあるらしいんだよね。

雑すぎた瞬間


こちらが政庁跡。中心的な施設で、板塀に囲まれた建物だったみたいよ。
全体をイメージするのは難しいから、まぁまぁ大きいやつを想像しておく。

納得している瞬間


政庁前には説明版があって、想像図と一緒に表面展示を見るとわかりやすい。
政庁と正殿の東西にも建物があって、平安京ぽい雰囲気だったんだろうね。




政庁他の建物も建ってたら、結構ギューギューだったかもしれないけど、
この左右に広がるそれぞれの丘の上にも色んな施設が建ってたそうです。

政治以外に祭祀や儀式、蝦夷への供応なんかも行われてたっていうから、
とっさに阿弖流為(火怨)を思い出して、分かった風な空想をちょっとだけしたw

我に返った瞬間


で、満足して振り返ったら・・・ちょw 外柵南門マジで遠すぎじゃない!? 
夕方なのに西日の紫外線もハンパないんだよねぇ。穏やかだった気持ちドコ 笑   

角館で飲む冷たーい生ビールを夢見て、干からびかけて車に戻った(*°∀°)=3

さぁ、ホテルに入る前にもういっちょ! 日が沈むまで頑張って活動する。


天寧寺にて葦名家墓所に参拝!〜に続く



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2018.12.28 Friday 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 

金沢柵に登城!

平安の風わたる公園から金沢柵にまっしぐら!怒涛の勢いで押し寄せました。
近くにある「後三年の役資料館」は、時間がないから見なかったことにして(*°∀°)=3

押し寄せる瞬間


通りに出てた案内にそって一気に柵前に到着! 駐車スペースもあって安心!
後三年の役資料館から歩きだと、小山を登るしまぁまぁ大変じゃないかと思う。

縄張図の載った案内を見ると「柵」じゃなく「金沢城跡史跡案内」と書かれてた。
今ある遺構は戦国期の山城で、実は金沢柵は場所の特定がされてないんだって。

だいたいこの辺ではあるけど、発掘調査しても後三年の役の頃のブツが出ない。
だから特定できない、ここだと断定できないってことなんだと思うけど、
ワタクシは後三年の頭で来てるから、細かいことは気にしないで行く(*°∀°)=3

だから今回の記事のタイトルも「金沢柵に登城!」で行くことにした次第。
(後三年の役が起きてから金沢柵の攻防に至るまでのことは前回の記事を見てね)

備えあれば憂いなしの瞬間


パンフレットとかは置いてないので、印刷してきた縄張図を見ながら登城開始!
下から登りだとツライけど、ここからなら階段を登るだけだから足取りは軽やかw

金沢柵は平安時代に清原氏によって築かれたもので、後三年の役では
清原家衡、武衡が籠城するも、源義家・清原清衡の兵糧攻めにより落城します。

長禄2年(1458)には南部氏の家臣、金沢右京亮が入って居館とし、
その後、小野寺氏に支配が移ると家臣の金沢権十郎の居城となりました。

関ヶ原後の慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に入ると本城候補にあがるものの、
久保田城が本拠になると、元和8年(1622)一国一城令により破却されました。

すぐ到着で安心な瞬間


階段を登って整備された通路を進むと「兜杉」と「兜八幡神社」が見えてきます。

兜杉は源義家が凱旋の時、愛用の兜を埋めて上に石を置き、そばに記念のため、
藤原清衛が植えたと言われるもので根回り7.45m、樹齢900年の立派な杉でしたが・・・

妄想かけめぐる瞬間


昭和58年に失火により焼失して、今は切り株(の形の表皮)だけ残ってる状態。
真ん中が兜を埋めた上に置いたっていう兜石。ホントかは別としてちょっとロマンw
そして兜八幡神社は、八幡太郎義家と弟の新羅三郎義光を祭ったものなんだって。
義光は苦戦する兄を助けるため、官職をなげうって参戦したと言われてます。

厳かだった瞬間


兜杉から少し進めば二の丸跡。ここには金沢八幡宮が建立されています。
中央でしかも一番高い位置にあるから、本丸ぽく思えるけど二の丸だって。

こちらは後三年の役が終わった寛治7年(1093)、源義家が出羽鎮護のため、
藤原清衡に命じて京の石清水八幡宮の神霊を勧請して創建したものなのだとか。

重みを感じる瞬間


新羅三郎の末裔である佐竹氏の尊崇が特に篤く、佐竹氏が秋田藩主になった後、
慶長9年(1604)以降には、数回にわたって修改築されてるそうですよ。

鳥肌たちまくりの瞬間


拝殿の左側の方から堀底に降りて、向こうに見える北の丸に行ってみるよ!
ヤブ蚊の他に、羽音のする変な虫も飛んでるのが超イヤだけど頑張ります。

鼻の穴を広げる瞬間


右が北の丸側の土塁。二の丸の方が3倍くらい?だいぶ高い感じかな。
山城で堀底を歩くのも久々な気がするけど、囲まれるって落ち着くねw

ものぐさする瞬間


北の丸はまぁまぁ広め。写真だと分かりづらいけど低い土塁に囲まれてます。
近く行って見てないんだけど、屋根のあるところは土俵になってるのだとか。

深く考えてなかった瞬間


北の丸の次は兵糧倉跡へ。ここの土中からは今でも焼米が出てくるんだって。
案内板には「後三年の役の兵火にかかり消失した糧食」とも書いてあった。

清原家衡は兵糧攻めで食料が尽きたから、火を放って逃げたと思ってたけど、
そうか、無くなる寸前にサッサと逃げ出したパターンもあるんだなぁと思いかけ、
あ、でも金沢柵の場所は特定されてないんだっけって思い出し、少しだけ悩んだw

といいつつ、すぐ「まーいいか!」って後三年モードに戻ったけど(*°∀°)=3

早足になる瞬間


兵糧倉跡を奥に進んで本丸に向かいます。左側が本丸。二の丸くらい高そう。
まーしかし、蜂とも虻とも違う感じの変な虫がいっぱい飛んでて気持ち悪いです。

金沢柵での兵糧攻めは日本史上、初めて行われたと言われてるんだけど、
投降させない方が兵糧が早く減るっていう吉彦秀武の進言を受けた源義家は
投降しようとする女子供を容赦なく斬ったんですってよ!! こわいわぁ…

八幡太郎義家って武士たち憧れの英雄って印象が強いからうっかりするけど、
戦いの場面はキレイごとばっかじゃないんだってことも忘れちゃいけないね。

エキサイティングな瞬間


本丸はかなり広い! 発掘調査で12世紀頃の焼き物だったか?・・が出てるんだって。
後三年の役よりは後だけど、でもその頃から何かしらはあったってことなんだ!!

勝手に納得する瞬間


本丸を見たら一旦駐車場に戻って、道の向かい側にある西の丸を見に行きます。
駐車場になってるところも、当時は郭の一部とかだったのかもしれないね。

虫もいなくて快適だった瞬間


西の丸は長細い! どういう役割の郭なのかは説明がなくて分からなかった。
金沢柵って木立が多いせいか、通路の草が少な目で歩きやすくてとてもいい!

ショッキングな瞬間


だけど長細を進んでいった奥にある肝心な堀切の所だけ、このありさま(*°∀°)=3
草ボーボーでよく分からないけど、幅4〜5m、深さも2mくらいあったのかなぁ。

あきらめが早い瞬間


道路を右奥に進めば、本丸側の尾根筋にある5連続堀切近くまで行けるぽいけど、
西の丸の堀切があのヤブヤブだったから、厳しいだろうなと思ってやめておいた。


余談だけど、車に戻って帽子を取ったら尺取り虫がついててギョッとなり、
何気なく肩先みたらTシャツにも張り付いてたから、ちょっと気が遠くなった。
お尻で踏みつぶしたりしてないか、慌てて車を降りて確認しちゃったわよん。

やっぱ本丸周辺だわ。変な虫とか糸みたいなピラピラにマジ注意!!



さーて、これで後三年の役クリア! 次はもっと時代をさかのぼる!


払田柵へ登城!〜に続く



Writen by あも Love城! Go!名所旧跡


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2018.12.14 Friday 15:04 | comments(0) | trackbacks(0) | 東北(秋田県) | 
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